ジム選びは慎重に決めないと入門後、後悔する場合が稀にあります。赤い糸で結ばれていたかのような理想のジムと出逢うことも理想的ながら難しい出逢いです。

路地で練習していた頃、お巡りさんに「近所から苦情が来ている」と中止させられ、物件を探し、雑居ビルにジムを構えた頃の西川ジム。練習生も入らず、閑散としていた時代(1983.1.6)

—「目黒ジムの次に強いジムはどこだ?」
・・・「目白ジムです!」
—「よし、そこに決めた!!」

◆2団体制を知らずに対抗団体に行った斉藤京二氏

沢村忠(目黒)と対戦したくて最初のジム選び、上京して入門。ところが沢村忠が所属する目黒ジムは日本系、目白ジムは全日本系で団体が違い、通常対戦の機会は無いと、後になって知ったのは後の全日本ライト級チャンピオン、現NJKF代表理事の斉藤京二氏でした。

同様に閑散としていた頃の市原ジム。トタン屋根の板張りの床、男の汗臭い昔ながらのジム。一般の女性では絶対入ろうとしない空間(1983.6.11)

日本でキックボクシングが発祥した最初のジムは目黒ジムで最初はここひとつのみ。藤本勲vs木下尊義の、キックボクシング放映最初の試合は同門対決からの始まりでしたが、ジムはここしかないので同門ばかり、入門は目黒ジムに溢れるほどでした。

やがて目黒ジムに対抗する、あらゆる個性や方針のあるジムが誕生していき、キックボクサーに憧れ、「俺の方が強いぞ」「俺もチャンピオンになりたい」「有名になって稼ぎたい」「沢村忠と対戦して勝ちたい」「目黒ジムに負けるな、追い付き追い越せ」創生期はそんな目標が多かったかと思います。

市原ジムにて、長浜勇のミット蹴り。プレハブ小屋のこんな風情あるジムは今や少ない

ジムは殺伐としたもので、サンドバッグの取り合いなど、何か些細なことでも先を争う事態があれば喧嘩になるのは日常茶飯事。どこのジムもそんな感じだったと言われます。ちょっと気の弱い少年だったら見学もできない、そんな近寄り難い存在だったでしょう。

◆低迷期の80年代からジムの雰囲気が様変わり

大きく風向きが変わったのはキックボクシングが一旦衰退し、低迷期を彷徨った頃の、1980年代から、業界も変わり世代も変わり、殺伐とした雰囲気が無くなった頃でしょう。どこのジムも閑散として誰もいないことも珍しくなく、時代も変わって「いじめに勝ちたくて」そんな目標を持ってヒョロッとした喧嘩に弱そうな中学生が勇気を出して入門してきたという、そんな光景も方々のジムで結構あったのではと思います。

女性の入門生も多くなった近代的設備が充実した現代風のジム(2011.4.11)

その後の時代は徐々に進化し、2000年代には、ムエタイ修行受入れ態勢のタイ側のジムが進化したように、冷暖房完備、リング、サンドバッグ、ウェイトトレーニング機器、タイ人トレーナーの常在。入門というと厳しさ漂う修行寺のような感覚ですが、女性がボクササイズ感覚で“入会”し、ダイエットなど、また目標も大きく変わった時代でした。

藤原敏男を破った斉藤京二。その後5年掛かったが、MA日本ライト級チャンピオンになった頃(1987.1.25)

男女とも周囲の影響を受けて、アマチュアからプロ転向まで志次第で進む選手も多いと思います。実際に女性の入門生増加の影響で、プロデビューに至る女子選手が増え、女性用シャワールーム、女子更衣室が用意されるのは大半のジムになり、定期興行を打つジムの数も首都圏においてはプロボクシングのその数に迫るほど増えたかもしれません。

▼堀田春樹(ほった・はるき)[撮影・文]
フリーランスとしてキックボクシングの取材歴32年。「ナイタイ」「夕刊フジ」「実話ナックルズ」などにキックのレポートを展開。ムエタイにのめり込むあまりタイ仏門に出家。座右の銘は「頑張るけど無理しない」