沖縄を旅していて石垣島に行った時のことだ。
図書館に行って調べてみると、書店で買ったガイドブックには載っていない資料館があることが分かった。
「南嶋民俗資料館」というのだ。さっそく行ってみた。
資料館は門が閉ざされている。「表の民俗玩具店で声をかけてください」と札が下がっている。
玩具店に回り、座っている主人に声をかけると、嬉しそうな顔をして立ち上がった。
玩具店のほうを閉めて、資料館に案内してくれる。

民家が資料館になっている。畳の部屋に、古い三線、陶器、仏像、祭りの装飾品、道具箱などの日用品が並んでいる。
ひとつひとつに見入っていると、主人が説明してくれる。聞くと、主人の祖先は、琉球國の官吏だったという。
1609年の侵攻で薩摩藩に支配された琉球國は、財政的に困窮し、石垣島を含む八重山地方や宮古に、過酷な人頭税を課した、と言われている。
石垣や宮古には、人頭税石と呼ばれる、もっこりとした大きな石が、街中に残されている。ちょうど、子供と大人の身長の中間くらいの高さだ。
人がその石以上の高さになると課税されるという目安になった石だと、柳田國男も『海南小記』に書き記している。
琉球國がいかに八重山や宮古にひどい支配をしていたのかを象徴しているのが、人頭税石なのだ。

官吏の子孫である主人は、懸命にそれを否定する。人頭税は、年齢で課税されていたのだから、人頭税石などというのはウソだ。あれはおそらく、星を動きを見るための基準にしたものだ、と力説する。
官吏の立場からであっても、俗説の否定というのはおもしろい。私は彼の話に聞き入った。
「今晩、仲間とやっている勉強会があるので来ませんか」
「行きます」
誘われて、二つ返事した。

「沖縄時間」などと言って、沖縄の人は時間通りには来ない、というが、それも俗説だ。
公民館の会議室に、定刻通りに皆は集まった。話は循環農業のことだった。
その後、飲み会へと流れ、皆と仲良くなった。
「家に遊びに来なさい」
「行きます」
その中の一人に誘われて、二つ返事した。
数10年前に本土からやって来て、農場をやっているという男性だった。

翌日の昼頃に行き、沖縄そばをご馳走になった。
「農場をちょっと見ていきますか」
そう言われて、自然と作業を手伝うようになった。
腰の高さくらいの棚にある作物の植わった鉢から雑草を取る、というのんびりしたものだ。
彼と向かい合っての作業で、いろいろと話もできた。

夕方になり、勉強会に参加していた一人も加わって、飲み会になった。
話をしているうちに、その農場主は、新石垣空港反対同盟の委員長だったということが分かった。
こちらは、成田空港に反対する三里塚闘争に青春を捧げていたので、すぐに話は盛り上がる。

成田空港のほうは、政府が羽田のハブ化を主張し始めるという、なんだか、ポカーンとするような結果になっている。当初から成田空港反対派は、羽田を拡張すればいいと主張し、政府のほうは、空域が限られているためそれはできないと言っていた。今でも、条件は変わってないはずなのだが。

新石垣空港は当初、世界最大級のアオサンゴ群落が存在する白保の沖合を埋め立てて建築される予定だった。
空港建設地は二転三転し、カラ岳を削って陸上に作られた。海への赤土流出による影響も懸念されるが、サンゴ礁は守られた。
とりあえず、運動の勝利といっていいだろう。

新石垣空港は、「南ぬ島石垣空港」(ぱいぬしまいしがきくうこう)として、3月7日に開港した。中型ジェット機の離着陸が可能となり、首都圏までの飛行時間は約1時間近く短くなった。多くの人々が八重山に親しむ拠点となればいい。

(FY)