普通なら返済が終われば破棄してしまう借用書が、今さら出てくるとは、「エビデンスが大事」と言ってきた、猪瀬直樹ならでは、といったところか。
猪瀬直樹知事が、「徳洲会」グループから選挙前に5000万円を受け取っていた件。11月29日からの都議会定例会で、追及を受けるのは必至であろう。

人間というものは、知識や経験によって変わってくるものだが、基本的な行動様式は変わらないものなのだな、としみじみと感ずる。
猪瀬知事はノンフィクションライターであった。権力の闇を突いてきた彼が、なぜ自分のことになると曖昧模糊とした説明しかできないのか? といった、疑問や批判が巻き起こっている。
だが忘れてはならないのは、猪瀬はノンフィクションライターになる前は、革命家だったことだ。

学生時代に猪瀬が属していたのは、“中核派”という革命党派。正式名称は、革命的共産主義者同盟全国委員会。その学生組織が、日本マルクス主義学生同盟・中核派というのだが、中核派の呼び名のほうがメジャーになり、党派そのものの略称になっている。
猪瀬は1960年代後半、信州大学で、中核派の指導者だった。大学をバリケード封鎖したり、新宿駅を占拠して電車を止め東京を大混乱に陥れた10.21国際反戦デーにも、多くの学生を引き連れて参加している。

他にも多くの革命党派があるが、60年の安保闘争でメジャーだったのは、日本共産党から分派した、共産主義者同盟。略称はブントであった。
60年安保闘争を経て、ブントは四分五裂してしまい、革命的共産主義者同盟に流れたメンバーも少なくなかった。その後、革命的共産主義者同盟は、中核派と革マル派に分裂。ブントから来たメンバーのほとんどが、中核派に残った。

その源流であるブントは60年当時、右翼の大物である田中清玄から資金提供を受けている。田中は戦前の日本共産党の幹部だったが戦中に転向。戦後には、天皇制護持の文章を週刊誌に発表し、昭和天皇に拝謁している。
田中による資金提供は、ブントが反日共であり、反アメリカだけではなく、反モスクワであることに共感したからだった。
これが明らかになると、共産党は批判したが、当時のブント指導者は間違いだとは認めなかった。

60年安保と比べると70年安保に向かう革命運動は遙かに支持者が少なく、どこから金をもらうかは、まるで問題ではなくなった。
大学が授業料に含めて学生から代理徴収している自治会費が、党派のために使われることなどは当たり前であった。
学友の親が資産家だと分かれば、闘争に参加できないなら金だけでも出せ、と迫る。
どこから出てきた金でも、人民のために使うのだからかまわない、という論理だ。
この時代は他の党派でも、多かれ少なかれそんな風潮であった。

中核派では、キャバレーでバイトしているうちに、人心掌握術の巧みさからマネージャーになってしまう者などもいた。
そうやって稼いだ金が党派に注ぎ込まれたが、そのようなことはむしろ、中核派魂がある、と讃えられた。

巡り巡って、人民のため、皆のためになるのだからいいのだ、という行動様式が、今に至るも猪瀬の中で生きていたのか、と思えてしまう。
一方で、徳洲会の徳田虎雄・前理事長は、「命だけは平等だ」という理念の実現のため、金権選挙も厭わなかった。自分のほうは、一切の贈り物を受け取らなかった。
目的のためには金をもらうという行動様式の者と、目的のためには金をばらまくという行動様式の者とが出会ったのだから、今回のことは必然だったのかもしれない。

(深笛義也)