70年という年をどう考えるか。それは「68年論」として語られる戦後政治文化、カウンターカルチャーの決算。あるいは高度経済成長の到達点であり、政治文化(学園紛争)と経済成長(公害の顕在化)が沸騰点で破裂し、ある種の頽廃を招いた。といえば絵面をデッサンすることができるだろうか。

多感な時期にこの時代の息吹を感じながらも、わたしはその後のシラケ世代と呼ばれる意識の中にいた。その意味では、あと知恵的に時代を解釈することになるが、おおむね二つの史実に則って『端境期の時代』が描く時代を批評することにしたい。

 

『一九七〇年 端境期の時代』(紙の爆弾12月号増刊)

その象徴的なふたつの史実とは、赤軍派に代表される新左翼運動の「頽廃」、そしてその対極にある三島由紀夫事件である。関連する記事にしたがえば、長崎浩の「一九七〇年岐れ道それぞれ」、若林盛亮「『よど号』で飛翔五十年、端境期の闘いは終わっていない」、三上治「暑かった夏が忘れられない 我が一九七〇年の日々」、板坂剛の司会になる「激突座談会“革マルvs中核”」、そして中島慎介の労作「『7.6事件』に思うこと」である。

三島事件(市ヶ谷蹶起)は50年を迎えるので、別途この通信において集中的にレポートしたいと思う。近年になって、あらたに判明した事実(証言)があるので、あえてレポートという表題を得たい。『紙の爆弾』今月号には、「市ヶ谷事件から50年 三島由紀夫の標的は昭和天皇だった」(横山茂彦)が掲載されているので、ぜひともお読みいただきたい。

◆単なる「流行」だったのか?

さて、70年という年を回顧する前に、68・69年の学生叛乱が何だったのか。という問題から出発しよう。

その当事者たち(今回「『続・全共闘白書』評判記」を寄稿した前田和男)も、当該書の副読本が必要(現在編集中)と述べているとおり、あの時代を読み解く必要がある。ひるがえって言えば、あれほどの学生運動・反戦運動の高揚がいまなお「わからない」というのが、当事者にとっても現実なのである。

あの時代および運動の間近にいたわたしも、明瞭に説明することはむつかしいが、単純に考えればいいのかもしれない。わたしの仕事上の先輩にあたる地方大学出身の人は言ったものだ。「流行りであった」と。過激な左翼であること、反戦運動を行なうことは、たしかに「流行り」だった。流行りはどんな時代も、若者のエネルギーに根ざしている。

たとえばコロナ禍のなかでも渋谷や道頓堀につどう若者たちは、いつの時代にもいる跳ね上がり分子ではないだろうか。既成左翼から、わたしたちの世代も含めて新左翼運動は「はみ出し」「跳ね上がり」と呼ばれたものだ。

いや、自分たちで「跳ねる」とか「跳ねた」と称していたのである。デモで機動隊の規制に逆らい、突っ張る(暴走族用語)ことを「跳ねる」と表現したのだ。跳ねたくなるほど、マルクス主義という外来思想、実存主義や毛沢東主義という流行。冷戦下において、ソ連邦をふくむ「体制」への反乱が「流行った」のである。

団塊の世代に「あれは流行りだったんでしょ?」と問えば、いまでは了解が得られるかもしれない。わたしの世代は内ゲバ真っ盛りの世代で、さすがに革命運動内部の殺し合いが楽しい「流行り」とはいかなかったが、おそらく60年安保、その再版としての68・69年(警察用語では「第二次安保闘争」)は、楽しかったにちがいない。70年代にそれを追体験したわたしたちも、内ゲバや爆弾闘争という深刻さにもかかわらず、その余韻を楽しいと感じたものである。


◎[参考動画]1970年3月14日 EXPO’70 大阪万博開幕  ニュース映像集(井上謙二)

◆赤軍派問題と三島事件は、60年代闘争の「あだ花」か?

前ふりが終わったところで、本題に入ろう。まずは赤軍派問題である。

言うまでもなく赤軍派問題とは、ブントにとって7.6問題(明大和泉校舎事件)である。二次ブント崩壊後にその分派に加入したわたしの立場でも言えることは、赤軍派は組織と運動を分裂させた「罪業」を背負っているということだ。

その意味では中島慎介が云うとおり、赤軍派指導者には政治的・道義的責任が集中的にある。その一端は、嵩原浩之(それに同伴した八木健彦ら)においては赤軍派ML派・革命の旗派・赫旗派という組織統合の遍歴の中で、政治的に赤軍派路線(軍事優先主義の小ブル急進主義)の清算として果たされてきた。今回、中島が仲介した佐藤秋雄への謝罪で、道義的な責任も果たしたのではないか。

ただし、植垣康博をはじめとする、連合赤軍の責任を獄中赤軍派指導部にもとめるのは、違うのではないかと思う。当時のブントおよび赤軍派において、獄中者は敵に捕らわれた「捕虜」であり、組織内では無権利状態だった。物理的にも「指導」は無理なのである。

それにしても、中島のように真摯な人物があったことに驚きを感じる。というのも、ついに没するまでブント分裂の責任を回避しつづけた塩見孝也のような指導者に象徴されるように、赤軍派という人脈の組織・政治体質には「無反省」と「無責任」が多くみられるからだ。日本社会の中で大衆運動を責任を持って担ってこなかった、その組織の歴史に大半の原因があると指摘しておこう。大衆運動の側を見ていないから、安易な乗り移りで思想を反転させることができるのだ(塩見の晩年の愛国主義を見よ)。

赤軍派が発生した理由として、第二次ブント自体の実像を語っておく必要があるだろう。

第二次ブントという組織は、その結成から連合組織であった。第一次ブントの「革命の通達派」のうち(第一次戦旗派・プロレタリア通信派は革共同=中核派・革マル派へ合流)、ML派と独立社学同(明大・中大)が連合し、単独して存続していた「関西地方委員会」と合同。独自に歩んでいた「マルクス主義戦線派」を糾合して1966年に成立した。しかしすぐにマル戦派と分裂することに象徴されるように、その派閥連合党派としての弱点は覆うべくもなかった。

たとえば、集会が終わってデモに出発するとき、各派閥の竹竿部隊(自治会旗を林立させ)が「先陣争い」と称してゲバルトを行なうのが習わしだった。つまり、集会とデモは「内ゲバ」を、祝砲のように行なわれるのが常だったのだ。

というのも、各大学の社学同(共産同の学生組織)ごとに、ブント内の派閥に属していたからだ。7.6事件では中島と三上が詳述しているように、仏徳二議長は専修大学の社学同、赤軍派は京大・同志社・大阪市大・関東学院などを中心にしたグループ、その赤軍派幹部を中大に監禁したのは、明大と医学連の情況派、その現場は中大社学同の叛旗派の縄張りだった。

故荒岱介の証言として、社学同全国合宿のときに、仏徳二さんが専修大学の学生だけで打ち上げの飲み会を行なっていたことを、のちに赤軍派となる田宮高麿が「関西は絶対、ああいうこと(セクト的な行動)はさせへんで」と批判していたという。

そのような連合組織としての弱点、党建設の立ち遅れ(これはもっぱら、革共同系の党派との比較で)を克服するために、とくに68年の全共闘運動の高揚から70年決戦に向かう組織の革命がもとめられたのだ。その軍事的な顕われが赤軍派だったのである。

これまで、もっぱら赤軍派の元指導者、ブント系の論客(評論家やジャーナリスト)によって赤軍派問題と連合赤軍総括問題は論じられてきたが、現場の証言が物語るその実態は、理論的に整理された美辞麗句をはるかに超えている。この貴重な成果のひとつが、今回の中島慎介の証言にほかならない。じつに具体的に、しかも他者の証言をもとに反証をしながらまとめられているので、ぜひとも読んでほしい。

その貴重な証言が、元赤軍派を中心とした書籍の準備において、こともあろうか「全体の四割が削減され、文面も入れ替えられ、更に残りのゲラの一割の部分をも削除され、意味不明の代物とされてしまいました」(中島)というのだ。

「事実究明に程遠い『事前検閲』『文章の書き替え』など、どこかの政府を見習ったかのような行為は、恥ずべき行為だ」と言いたくなるのは当然である。

まさに、60年代闘争の「あだ花」としての赤軍派の体質がここに顕われている。本人たちは嘘と歴史の書き替えで、晩節を飾るつもりだったのか? アマゾンにおける関係者の酷評「執筆者各位の猛省を促す」が、その内実を物語っている。


◎[参考動画]1970年3月31日 赤軍派 よど号 ハイジャック事件(rosamour909)

◆赤軍派と殉教者にせまられた、三島蹶起

三島由紀夫の天皇との関係(愛と憎悪)を先駆けて論じたのが『三島由紀夫は、なぜ昭和天皇を殺さなかったのか』(鹿砦社ライブラリー)を書き、今回「三島由紀夫蹶起――あの日から五十年の『余韻』」を寄せた板坂剛である。今回は具体的に、事件後の知識人・政治家たちの混乱を批判している。とりわけ、村松剛の虚構の三島論はこれからも指弾されて当然であろう。わたしに言わせれば三島の男色を隠すことで、村松が遺族との関係、したがって三島批評の立場を保ったにすぎない。その結果、村松の論考は、現在の三島研究では一顧だにされなくなっている。

もうひとつは、赤軍派との関係である。一過性のカッコよさではあったにせよ、論考を寄せている若林盛亮らのよど号事件が、三島に与えた影響は大きいだろう。これを板坂は「70年の謎とでも言うべきだろうか」としている。

よど号事件後の三島が、赤軍派の支離滅裂な政治論文を漁っていたとの証言もある(安藤武ほか)。そのほか、三島が「計画通り」の蹶起と自決を強行したのは、東京五輪銅メダリスト円谷幸吉(68年)、国会議事堂前で焼身自殺した自衛官江藤小三郎(69年)の影響を挙げておこう。70年という時代が、三島を止めなかったのである。これについては、別稿を準備したい。


◎[参考動画]1970年11月25日【自決した三島由紀夫】(毎日ニュース)

◆革マル vs 中核

やってくれた、鹿砦社と板坂剛! これはもう、わたしが編集している雑誌でやりたかった企画である。ただし、もっと自省的に語る「過ち」「錯誤」「悔恨」などであれば、まったく敬服するほかなかったが、板坂が司会の「激突座談会」は罵詈雑言、罵倒の応酬である。まったく愉快、痛快である。

元革マルの人も元中核の人も、対抗上こうなったのか。あるいは元べ平連の出席者が疑問を呈するように、もしかしたら現役なのか。

しかしいつもどおり、板坂の企画は読む者を堪能させる。前回の「元日大全共闘左右対決」も何度も読み返したものだが、今回は前回よりも底が浅い(お互いの個人的な因縁が、両派の主張に解消されてしまった)にもかかわらず、留飲を下げたと、感想を述べておこう。


◎[参考動画]2020年10月16日 公開中核派拠点を警視庁が家宅捜索 関係者が立ち入りの捜査員を検温(毎日新聞)

▼横山茂彦(よこやま・しげひこ)

編集者・著述業・歴史研究家。歴史関連の著書・共著に『合戦場の女たち』(情況新書)『軍師・官兵衛に学ぶ経営学』(宝島文庫)『闇の後醍醐銭』(叢文社)『真田丸のナゾ』(サイゾー)『日本史の新常識』(文春新書)『天皇125代全史』(スタンダーズ)『世にも奇妙な日本史』(宙出版)など。医科学系の著書・共著に『「買ってはいけない」は買ってはいけない』(夏目書房)『ホントに効くのかアガリスク』(鹿砦社)『走って直すガン』(徳間書店)『新ガン治療のウソと10年寿命を長くする本当の癌治療』(双葉社)『ガンになりにくい食生活』(鹿砦社ライブラリー)など。

渾身の一冊!『一九七〇年 端境期の時代』(紙の爆弾12月号増刊)

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