疑り深い性格の先ゆえの取り越し苦労、であることをなかば期待しながら憂いていたのであるが、ここまで明確に内閣府から示されると、憂いどころではない。

内閣府の「ムーンショット目標」

同上

同上

20世紀終わりごろから、「コンピューターが人間を支配する世の中がやってくるんじゃないか」との専門家の予想には、皮膚感覚での気持ち悪さもあった。電算技能演算速度の高速化は90年代には、まだ仮想であった「人工知能」を、あらかた現実のものとして、既にわたしたちに差し出している。わたし個人にとっては、限りなく危険で無益、さらには生物種としての存在を否定されているがごとき響きの(哲学的な意味においてではなく、現実に)企てに、いまのところ大きな疑義や否定論は聞かれない。

上記内閣府の「ムーンショット目標」を目にされて、読者諸氏はどのようにお感じになるであろうか。これはどこかのIT企業や多国籍ファンドが投資向けに用意した広告ではない。内閣府の公式ホームページである。

「2050年までに、人が身体、脳、空間、時間の制約から解放された社会を実現」

板坂剛(著名な三島由紀夫研究家にしてフラメンコダンスの指導者)はインターネットを使わないらしいが、板坂に限らず、美文で社会・現象・時代・文化を斬る論者がこの言葉と、それに続く文章を目にしたらどんな反応を示すだろうか。

拙稿にとりかかるまえに、幾人かの自然科学者にこのページを読んでいただいた。貧困な語彙しか持ちえないわたしに代わり、なんらかの示唆を得られるのではないかと考えたからだ。

結果はあまり思わしくなかった。わたしが嫌悪し、薄ら気持ち悪く感じるこの計画に対して、自然科学専門家のかたがたの反応は、なべておとなしく、むしろ「無警戒」ではないかと思われるものであった。

再度、あなたはどのようにお感じになるであろうか。「2050年までに、人が身体、脳、空間、時間の制約から解放された社会を実現」とは実際にどのような状態を指すのか? 「人が身体、脳、空間、時間の制約から解放された社会」は「人間(「わたし」や「あなた」)が有機体として存在する必要のない社会」という意味ではないのか。「身体からの解放」、「脳からの解放」などという言い回しをよくも平然と創作できたものだ。やはり役人というのは「人格がない」職種なのか。

これは、あれこれ言いつのってもつまるところ「人間不要計画」ではないか。「人間不要計画」などを策案する政府を、放置しておいてもよいのだろうか。「人間不要計画」に直面する際、想像力はおそらくもっとも不幸な状態に照準を合わせて、注意が払われるべきなのだ。

どのような人間が「不要」とされるのか。あるいは「有用」であるがゆえにアバター成代替物で「増殖」が期待される人間はどのような属性と、能力の持ち主であろうか。「優勢思想」などむしろ、その意図するところがむき出しであったぶんだけ、「人間不要計画」よりも、まだ穏やかだったという表現だって可能だろう(もちろんわたしは優勢思想をまったく支持するものではない)。

文明は過去何度も、隆盛と破綻(あるいは淘汰)を繰り返してきた。人間はしょせん動物の一種類に過ぎないのだから、それは当然であり、しかしそこに歴史という視点で教訓とすべき遺産や知恵を見出す、程度に人間も少将は成長した、と思っていた。ところがどうだ。今次の「人間不要計画」は人類史上、真顔で語られた「悪い冗談」のなかでも飛びぬけてはいまいか。

「わたし」、「あなた」、「好きな人」、「嫌いな人」、「いけずな人」、「優しいひと」……。みんながコピー人間になる時代に、わたしは生きたいと思わないし、そんな時代や技術(あるいは思想)は断じて許してはならない、と考える。

▼田所敏夫(たどころ としお)
兵庫県生まれ、会社員、大学職員を経て現在は著述業。大手メディアの追求しないテーマを追い、アジアをはじめとする国際問題、教育問題などに関心を持つ。※本コラムへのご意見ご感想はメールアドレスtadokoro_toshio@yahoo.co.jpまでお寄せください。

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