注目された池袋暴走死傷事故の裁判で9月2日、東京地裁は「上級国民」こと飯塚幸三被告(90)に禁固5年の実刑判決を宣告した。何かと注目を集めた裁判だったが、厳罰を望む世論に沿った判決が出たと言えるだろう。

ただ、この事故に関しては、見過されている問題がいくつかある。そのうち、とくに気になる3点をここで指摘しておきたい。

◆事故が社会に与えた「好ましい影響」

見過されている問題の1つ目は、この事故が社会に「好ましい影響」を与えていることだ。それは、この事故が起きて以来、高齢者による運転免許証の自主返納が増えていることだ。

マスコミはこの現象について報じながら、「そのような社会的影響がある」と表現するにとどめ、「好ましい影響」だとは伝えてこなかった。そのような伝え方をすれば、批判されることは火を見るより明らかだからだ。

しかし、高速道路での逆走をはじめ、高齢者の常軌を逸した運転により大事故が起きる例は今回の池袋の事故以前から多かった。それを思えば、世の高齢者たちが自分も飯塚被告と同様の事故を起こす可能性があるのではないかと想像し、運転免許証を自主返納するケースが増えたことはまぎれもなく「好ましい影響」だ。

見過されている問題の2つ目は、そのように自分自身が飯塚被告と同じような事故を起こす可能性を想像できる人たちが多くいる一方で、そのような想像力がはたらかない人も多いことが顕在化したことだ。

それに該当するのが、ヤフーニュースのコメント欄やツイッターなどで飯塚被告のことを何の遠慮もなく「人でなし」のように批判している人たちだ。自分や自分の見回りの高齢者が飯塚被告のような事故を起こす可能性を少しでも想像できれば、飯塚被告のことを無遠慮に批判できるものではない。そういう想像力がはたらかない人は、自分自身が高齢になっても車を運転し続ける可能性は当然高いだろう。少なくとも、社会にとって好ましい人たちではないのは確かだ。

飯塚被告の裁判が行なわれた東京地裁の入る建物

◆飯塚被告が衰えているのは運動能力だけではない

見過されている問題の3つ目は、高齢者は運転能力だけが衰えているわけではないということだ。たとえば、高齢者の能力の低さが顕著なのは「理解力」だ。

これは、私がこれまで様々な人に取材をしてきて、強く実感していることである。人は高齢になっても、話す力は意外と衰えず、昔のこともよく憶えている。一方で、高齢者は総じて理解力は乏しい。高齢者に少し事情が込み入った質問をすると、質問の意味や意図を理解してもらえないことが非常に多いのだ。

飯塚被告の場合、事故の原因は「ブレーキとアクセルの踏み間違え」であることが証拠上動かし難いにもかかわらず、無罪を主張し続けたため、無反省な人物であるかのように批判されてきた。しかし、飯塚被告はかつて通産省で要職についていた秀才とはいえ、もう90歳の老人だ。ブレーキとアクセルを踏み間違えたことを証拠に基づき、ゆるぎなく証明されたとしても、それを理解できなくとも当然だ。

飯塚被告の「理解力」を考慮に入れず、飯塚被告のことを無反省な人間だと批判するのは、この悲惨な事故が起きた最大の原因である「高齢者の能力」を誤って認識しているということでもある。そのような批判をする人が多ければ、再発防止の観点からマイナスだと私は思う。

▼片岡 健(かたおか けん)
ノンフィクションライター。編著に『もう一つの重罪 桶川ストーカー殺人事件「実行犯」告白手記』(著者・久保田祥史、発行元・リミアンドテッド)など。

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