◆低下した米国人の愛国心

今年3月、ウォールストリート・ジャーナル紙とシカゴ大学の合同最新世論調査結果が発表された。それによると、この間、米国人の愛国心には非常に注目すべき変化があったという。愛国心が極めて重要と答えた人が全体の38%、ある程度重要と答えた人が35%だった。これは、1998年度における同様の調査で、極めて重要と答えた人が70%だったのに比べた時、驚くべき変化だという。

同様の結果は、ギャラップ社の調査からも報告されている。昨年、米国の建国記念日当日、この日を米国人として非常に誇りに思うと答えた人は38%に過ぎなかった。2001年以来、同社の調査で、55%を下回ったことは一度もなかったことを考えた時、この急激かつ大幅な下落は、一体何を意味しているのだろうか。

これまで、移民の国と言われ、多様な人種、宗教などからなる米国を一つにまとめる精神的拠り所として、愛国心は決定的だった。そこにこそ、建国以来、南北戦争など幾多の危機を乗り越えてきた米国のエネルギーの源泉があったと言うことができる。

その愛国心が今なぜこうなってしまったのか。その原因について考えるのは、意味のあることだと思う。

◆なぜ低下したのか、米国人の愛国心

米国人の愛国心低下の原因について考えた時、それは、第一に米国人自身の変化に、第二に米国という国そのものの変化に求めることができる。

第一について言われているのは、米国人の個人主義の深まりだ。

先のウォールストリート・ジャーナル紙は、「多くの人々が自分の権利をより重視するようになり、並行して自分のコミュニティへの関与の度合いが減ってきている。米国人としての共通の価値観よりも、それぞれが持つ異なる人種的、文化的バックグラウンドへ関心が集まり始めている」というある塗装業者(33歳)のコメントを載せている。

それも一理あると思う。だが、個人主義の深まりは、何も今に始まったことではない。

移民の国、米国の共同体としての歴史は長くない。もともと強い個人主義、それが米国の特徴だと言われてきた。

その上に、グローバリズム、新自由主義がそれを一段と促進したのは事実だと思う。「国の否定」、「格差、差別の拡大」、そこから少なからぬ人々が自らの人種的、文化的バックグラウンドに関心を持ち、自分の世界、自分の価値観に引きこもるようになったのは十分に考えられる。

しかし、それだけではない。米国人の愛国心低下の原因として一層深刻に考えられるのは、米国という国そのものの変化だ。一言で言って、米国が米国人にとって、愛し信じて誇るべき国ではなくなってしまったと言うことだ。

今世紀に入りながら、米国の政治は「1%のための政治」と言われ出した。長期に渡る経済停滞と拡大する貧困、産業の空洞化と寂れ行くラストベルト地帯、それとは対照的に、繁栄と栄華の極みを尽くす「金満ウォール街」。

一方、イラク、アフガン、シリアへと続く反テロ戦争の広がりと泥沼化。米国人にとって、それは、「世界の警察」としての虚構が完全に打ち砕かれる過程であったのではないか。

それに加えてさらに深刻なのは、人種、民族が融合しているのではなく、サラダボール状になっていると言われる米国社会のさらに深まり拡大する分裂、分断だ。それは、泥仕合の様相を呈する民主党と共和党の対立激化などと相まって、収拾のつかないものになってきている。

人々が身を委ね、運命をともにする国としての体をなさなくなってきている米国にあって、人々の愛国心が低下するのは必然だと言えるのではないだろうか。

◆戦後日本政治と愛国心

戦後日本の政治にあって、愛国心が主張されたり、人々の愛国心に訴えて政治が行われたりすることがほとんどと言っていいくらいなくなった。極少数の極右の人々を除き、右も左も愛国心は、禁句になった感がある。

「愛国」で始められた第二次大戦は、それへの裏切りで幕が下ろされた。以来、日本の政治において、「愛国」は、軍国主義の代名詞とされ、ほとんど使われないようになった。

もう一つ、戦後日本政治で「愛国」が言われなくなった理由がある。そこに介在していたのは、もちろん「米国」だ。

元来、他国を支配し統制する覇権と愛国は相容れない。と言うより、覇権国家にとって、被覇権国家の国民が持つ愛国の心は邪魔者であり敵対物だ。実際、米国による日本に対する覇権は、日本人の愛国心の抑制の上に成り立ってきたと言っても過言ではない。

だから、米国にとって、戦後日本政治で「愛国」が軍国主義の代名詞になり、禁句になったことは、もっけの幸いだったと言えると思う。

そうした条件の下、米国は、日本をただひたすら「米国化」してきた。その結果、メシからパンへ、石炭から石油へ、日本の社会と経済、政治、軍事から文化に至るまで、そのあり方の総体が米国化されたと言っても決して過言ではない。

そして今、米国は、自らの覇権回復戦略、「米対中ロ新冷戦」を引き起こしながら、その最前線に日本を押し立て、日本に「東のウクライナ」として対中対決の代理戦争をやらせるため、今まさに日本の米国化を全面化してきている。駐日米大使ラーム・エマニュエルがその大使への指名承認公聴会で「日米統合」に力を尽くすことを誓ったのはそのことだと言うことができる。

事態は簡単ではない。もはや日本人の愛国心そのものが風前の灯火となり、完全になくされてしまう時が来たということか。

だが、そんなことにはならないと思う。スポーツなどで、日本人や日本チームを応援する心、その活躍を喜ぶ心は、愛国心ではないのか。科学技術などで、日本の立ち後れを知った時、それを残念に思い悔しい思いを抱くのも愛国の心ではないのか。

自分の国、自分の故郷や家族、自分の集団を思い、気に掛け、愛するのは、社会的で集団的な存在である人間の本質的な特性だと言える。

今、日本に求められているのは、そうした日本人自身が持つ愛国の心に応え、訴える政治をすることだと思う。それこそが日本を「東のウクライナ」への道から救い出す唯一の道ではないだろうか。

◆今、求められる真の愛国政治

戦前、日本政府は、うち続く帝国主義相互間の覇権抗争の中、日本国民の愛国心を利用して、「鬼畜米英」を煽り、帝国主義間抗争に勝ち抜く「愛国心」をたきつけて軍国主義をやり、あの戦争を敢行した。

こうした戦前の政治と今、「米対中ロ新冷戦」を前に日本に提起されている政治、この二つの政治の間には、前者が帝国主義為政者の侵略的野望から出発し、日本国民の愛国心をそれに利用したのに対し、後者が日本国民自身の持つ愛国の心から出発し、為政者がそれに応え訴えることが問われているという本質的な違いがある。

この本質的違いを前に、今の為政者に問われていることは、自分の政治的、政策的目的、意図から出発し、その実現のために国民の愛国心に対するということがあってはならないということではないだろうか。もし、自分の政治的、政策的目的のために国民の愛国心を利用するということがあったなら、それは、戦前の帝国主義者と同じであり、国民の愛国心を奮い起こして米国の策謀を打ち破ることは決してできないと思う。徹頭徹尾、国民大衆の愛国の心から出発し、その実現のために闘うこと、この真心にのみ闘争勝利の鍵があるのではないだろうか。

今は、帝国主義覇権の時代ではない。戦後78年、生き延びてきた米覇権も、国と集団そのものを否定する究極的覇権思想、グローバリズムと新自由主義が破綻する中、覇権生き残りの最後の手段、「米対中ロ新冷戦」にしがみつきながら、ウクライナ戦争とともにその最後の時を迎えているように見える。

覇権VS愛国、時代は、明らかに反覇権・自国第一・愛国の時代になっている。先の広島G7にあって、招待されたグローバル・サウス諸国のゼレンスキー支持拒否の一致した行動は、そのことをこの上なく明瞭に示していた。

この世界に広がる愛国の時代に、日本国民の間に生まれた「新しい戦前」、脱戦後の意識、まさにこうした自分の国である日本を憂いながら、あくまでそこに身を委ね、運命をともにする国民大衆の愛国の意識に応え訴える闘いを起こしていくことこそが今切実に求められているのではないだろうか。

小西隆裕さん

◎ピョンヤンから感じる時代の風 http://www.rokusaisha.com/wp/?cat=105

▼小西隆裕(こにし・たかひろ)さん
1944年7月28日生。東京大学(医)入学。東京大学医学部共闘会議議長。共産同赤軍派。1970年によど号赤軍として渡朝。現在「かりの会」「アジアの内の日本の会」会員。HP「ようこそ、よど号日本人村」で情報発信中。

『抵抗と絶望の狭間 一九七一年から連合赤軍へ』(紙の爆弾 2021年12月号増刊)

『一九七〇年 端境期の時代』