◆はじめに

この通信での私の手記「ロックと革命 in 京都」、鹿砦社代表の松岡さん名付けて「京都青春記」は昨年8月31日で連載を終えた。

「長髪一つで世界は変わる」17歳の革命以降、私の「京都青春記」のテーマは「戦後日本はおかしい」だった。それは「山崎博昭の死-ジュッパチの衝撃」を経て学生運動-「戦後日本の革命」へと進み、そしてよど号赤軍としてピョンヤンへ飛んで今日に至るがこのテーマはいまも変わらない。もちろん若い頃、そんなことを意識していたわけではない、あくまで「いま思えば」の話だが、それだけは確信を持って言える。

あの敗戦で「天皇陛下万歳からアメリカ万歳に変わっただけ」の戦後日本、以来「米国についていけば何とかなる」を自己の生存方式にしてきたわが国、そんな戦後日本からの大転換を図ることは戦後世代である私一個の人生テーマにとどまるものではない。いまや日本人全体のテーマ、「戦後日本の革命」として突きつけられているのではないだろうか。

「ロックと革命in京都」連載を終えるに当たって、私は次のことを「最後に言いたいこと」として訴えた。

“いまは「覇権帝国の米国についていけばなんとかなる時代じゃない」どころか「覇権破綻の米国と無理心中するのか否か」というところまで来ている。

いま日本はどの道を進むべきか?「戦後日本の革命」は現実問題として問われてくる!

自身の運命の自己決定権─自分の運命は自分で決める、自分の頭で考え自分の道を自分の力で開く!

それは戦後日本の曖昧模糊となったアイデンティティの再確立の道でもあると思う。”

こんな結語を書いた以上は、自分はどうするのかを含めた「これから」のことを「ロックと革命 in 京都 1964-70」の続編として、「戦後日本の革命 in ピョンヤン」といったものに書かねばならないと思う。今回はその第一弾。

◆2024年は「大混乱の時代」の始まり

今年2024年の元日、主要新聞各紙の新年社説は、イマイチすっきりしない歯切れの悪さ、一言でいって混乱しているように思えた。

米日政府公報紙的な読売はその筆頭だ。「磁力と発信力を向上させたい-平和、自由、人道で新時代開け」と題してこれまでの普遍的価値観だけでなく「人命を守れ」などの「共通感覚」、人道をキーワードに「人々が一致して困難に立ち向かう」といった「ご説ごもっとも」的な、わかったようでわからない社説。昨年の読売の元日社説が「平和な世界構築へ先頭に立て-防衛、外交、道義の力を高めよう」と題し、抑止力強化、「反撃能力保有」を決めた安保3文書閣議決定直後でもありその主張はかなり明解だったのに比べれば、今年の社説は言語不明瞭もはなはだしい。

リベラル系は朝日の「暴力を許さぬ関心と関与を」、毎日の「人類の危機克服に英知を」という「じゃあどうすりゃいいの」? 抽象的な倫理を説く方針不明のただのお説教。

財界系の日経は「分断回避に対話の努力を続けよう」と対中、対ロ、対朝抑止力保持と同時に「分断回避」の外交的努力を説くという経済界の動揺ぶりを示すかのような社説。

ただ最右翼の産経だけは「『内向き日本』では中国が嗤う」と題し、国内政局にとらわれて「対中対決」をおろそかにするなという比較的明解な主張。トランプ政権誕生を念頭に「米核戦力の配備や核共有、核武装の選択肢を喫緊の課題として論じる」必要を説くなど保守右翼らしい主張をそれなりに展開。

産経を除けば大手主要紙の迷走ぶりは言論界の混乱を示すものだった。

その産経も内心の動揺という点では他のマスコミと変わるところはない。ハマスのイスラエルへの「先制的軍事行動」直後の昨年10月下旬、産経グループのフジテレビ「プライム・ニュース」では「“世界動乱の時代”の幕開けか」というテーマで「これはアメリカを中心とする国際秩序が破綻していることを映すのか」が番組の問いかけだった。案の定、出演者の弁舌は当惑を隠せない歯切れの悪いものだったが、すでにこの頃には「米国についていけば何とかなる」思考方式から抜け出せないマスコミ言論界の混乱が始まっていたのだろう。

 

米調査会社ユーラシアグループによる2024年の世界的リスク予測

米調査会社、ユーラシアグループが発表した2024年の世界10大リスク、そのトップにはなんと「米国の敵は米国」が上げられた。「大統領選で分断と機能不全が深刻化する」がその理由だ。そして3位が「ウクライナ分割」で「今年、事実上、分割される」としている。現在、ロシア軍が支配している東部のロシア人居住地域(すでに二つの地域が独立国家樹立)をウクライナが取り戻すことは事実上、不可能だということ、ウクライナは敗北を受け入れるしかないという悲観論だ。

「米国の危機」が世界のリスクのトップ、これはトランプ大統領が出現すれば世界は大混乱に陥るということを念頭に置いたものだ。バイデンがなったところで米中心の国際秩序破綻は免れえないが、トランプになればそれがもっと加速されるということだろう。それは3位のウクライナは敗北を認めるしかないという判断にも反映されている。また2位に上げられた「瀬戸際に立つ中東」もイスラエルの勝利はありえないということだろう。実際、すでに米国がイスラエルに停戦とパレスティナ国家樹立の受け入れを説得していることにそれは現れている。しかしネタニヤフ政権はそれを拒否、ネタニヤフを説得できないバイデン、ここでも米国の権威失墜が明らかになっている。

主戦場の対中対決に加えてウクライナと中東の戦争という3正面作戦にとうてい米国は耐えられないことを米国自身が認めたことで、「パックスアメリカーナ(アメリカの平和)の時代は終わった」、その現実を世界の誰もが目にした。

これは覇権大国、米国中心の世界観からすれば「世界動乱の時代の幕開け」という想像だに恐ろしい時代としか思えないのだろう。新年の日本の新聞各社の年頭社説の混乱ぶりはその反映と言える。

◆「パックスアメリカーナの終わり」はいいことなのだ

「パックスアメリカーナの終わり」に右往左往する日本の言論界に代表されるわが国の混乱、それは「米国についていけば何とかなる」という戦後日本の生存方式に慣れ親しんできた報いだとも言える。

1960-70年代の「一億総中流」の高度経済成長日本も、‘80年代の「ジャパン・アズ・ナンバーワン」のバブルに浮かれた金満日本も二度とやってはこない。「米国についていけば何とかなる」、そんな戦後日本の「太平の夢」から醒める時が来たのだ。

一言でいって戦後日本は失敗に終わった、この現実を受け入れ直視することが重要だと思う。

人間にしても国にしても誰もが失敗は犯しうる。龍一郎さんではないが、「人生に無駄なものなどなにひとつない」、要は失敗からは教訓を汲み新たな出発の力に換える、これは一個の人間だけでなく国も同様だ。失敗を自覚すれば、そこから教訓を見つけることだ。それが人間や国の自力更生力というものだろう。

だから「パックスアメリカーナの終わり」は戦後日本の幻想から醒める時、「米国についていけば何とかなる」生存方式を改め自分の手で自分の未来を開く「戦後日本の革命」のチャンスにする、そんな積極的、能動的な思考が問われていると思う。

そのためには「パックスアメリカーナ」に身を委ねることになった戦後日本の出発点自体がおかしかったのではないか、このことを考える必要があると思う。

大日本帝国の「天皇陛下万歳」が「アメリカ万歳」に変わっただけ、すなわちその覇権主義が対米従属のそれに変わっただけ、それが戦後日本の実相だ。今日の「パックスアメリカーナの終わり」を前にして混乱するのではなく、戦後日本の出発点自体がおかしかったのではないか、このことから教訓を汲むことが重要だと思う。

ここからは少し理屈っぽくなるが、やはり理知を考えることは重要だと思うから我慢して聞いて頂きたい。

「パックスアメリカーナ」を支えてきたのは「G7=先進国」主導の国際秩序だった。

「G7=先進国」とはかつての帝国主義列強諸国だ。

第二次大戦敗戦で反省を迫られた日独伊ファッショ枢軸国だが、ドイツはユダヤ人虐殺など「ナチスの残虐性」だけを反省、日本は「軍国主義者、軍部の暴走」といったファッショ支配の反省を求められたが、自己の植民地支配についての反省は求められなかった。米英仏は反ファッショ民主主義陣営、「正義」の側だから自己の植民地主義の反省の必要すら感じていない。一言でいって「G7=先進国」の誰ひとり植民地支配を反省していない。

これが戦後世界の真実だった。

エリザベス女王の国葬の際、あるアフリカの首脳は「女王からは生前、植民地支配謝罪の言葉は一言もなかった」と不満を述べた。インド政府はチャールズ新国王戴冠式で王妃のかぶる冠の世界最大のダイヤがインドから強奪したものだと英国に抗議した。その抗議を受けその冠は使われなかった。これはほんの一例だが、かつての植民地支配を受けた発展途上国、グローバルサウスと呼ばれる国々共通の考えだ。それはなにも過去への恨みだけではない、いまも続く「G7=先進国」の覇権体質、植民地主義体質への批判なのだ。日韓間の歴史認識問題をめぐる抗争も同様のものだ。

「G7=先進国」のリードする国際秩序、法の支配は現代版植民地支配秩序に過ぎないことを世界は知っている。この現代版植民地主義は先進資本主義国の勤労者にとっても邪悪なものになっていることが明らかになりつつある。

国と民族の自主権より上位に人類益、地球益を置き国境の壁をなくさせたグローバリズム、それは世界の富を1%に集中し99%には格差と貧困を強いた。「国境の壁をなくす」、それは発展途上国では関税障壁撤廃などによる先進国巨大資本の「自由な経済活動」で国の民族産業の自立的発展を阻害するものになった。より安価な労働力を世界に求める巨大資本の自由な海外進出は、先進国の国内産業を空洞化させ労働者から職場を奪い中産階級を没落させた。

だから「G7=先進国」の国際秩序、現代版植民地主義秩序は、グローバルサウスだけでなく先進資本主義諸国の勤労者にも等しく格差と貧困を強いるものであることを世界は知った。その端的表現が米国白人労働者層のトランプ人気であり、昔は金持ちの党だった共和党はトランプ党になって、いまや「貧しい者の党」になったという現象に象徴されるものだろう。

「一億総中流」「昭和の夢よいま一度」などもうありえないというわが国の事情も同じだ。

このような「パックスアメリカーナの終わり」を嘆くのではなく新時代の既成事実と受け入れ、戦後日本の生存方式から抜け出すことを考えることがいま重要なことなのだ。

それはわれわれ日本国民にとって悪いことではない、いいことだと思う。

「ロックと革命in京都」の結語としたこと-いま日本はどの道を進むべきか?「戦後日本の革命」は現実問題として問われてくる! 自身の運命の自己決定権─自分の運命は自分で決める、自分の頭で考え自分の道を自分の力で開く! それは戦後日本の曖昧模糊となったアイデンティティの再確立の道でもある。

このような積極的な思考がいまわれわれ日本人に問われている。

このような観点から今後の「戦後日本の革命inピョンヤン」を書いていこうと思う。

このことを2024年、私の新年の抱負としたい。

◎ロックと革命 in 京都 http://www.rokusaisha.com/wp/?cat=109

◎ピョンヤンから感じる時代の風 http://www.rokusaisha.com/wp/?cat=105

若林盛亮さん

▼若林盛亮(わかばやし・もりあき)
1947年2月滋賀県生れ、長髪問題契機に進学校ドロップアウト、同志社大入学後「裸のラリーズ」結成を経て東大安田講堂で逮捕、1970年によど号赤軍として渡朝、現在「かりの会」「アジアの内の日本の会」会員。HP「ようこそ、よど号日本人村」で情報発信中。

『抵抗と絶望の狭間 一九七一年から連合赤軍へ』(紙の爆弾 2021年12月号増刊)

『一九七〇年 端境期の時代』