これまでに一度だけ、思い立って宝塚の舞台見に行った経験がある。2001年のことだ。

何の予備知識もないままにヅカファンだった友人に連れられて見たのは、たまたま上演していた雪組轟悠主演『猛き黄金の国』。三菱の創始者、岩崎弥太郎の生涯を描いた作品である。始まる前に友人は、この舞台はイマイチで、初めて見るなら違うものが良かったんだけど・・・と、少し顔を曇らせた。そう思いながらも彼女が足を運んだ理由は、共演の紺野まひるを応援するためだった。

確かに『猛き黄金の国』はそれまでテレビで見たことがあったものに比べると冴えなかった。その最大の理由は、台本が、つまらないというわけではないが地味で、主人公の役柄に全く華がなく、宝塚の持ち味を生かしきれないことにあった。

当時、宝塚は男性ファンを獲得しようと思考錯誤し、男性の興味を引きそうな歴史ジャンルにも題材を求めていたようだ。しかし、歴史上の人物にしても、もっと宝塚にマッチした華と人気のあるヒーローはいくらでもいる。それなのに、何故岩崎弥太郎なのか?

誰でもピンとくるのは、阪急と三菱の間に何かあるのだろう、ということだ。そして、案の定、当時の阪急電鉄社長小林公平は、三菱系の三村家から、小林家に婿養子に来ている関係だ。つまり、『猛き黄金の国』は社長にゆかりの三菱グループへのはなむけであり、ファンを喜ばせるための作品ではなかった。そういうものを平気で金を取って見せるのは、いかにも殿様商売に思われ、なめられているような気がして不愉快だった。生の舞台の魅力はわからなくはなかったが、それ以上に宝塚に対する大きな違和感が刻まれ、二度と舞台を見に行くことはなかった。

◆読んでわかった違和感の構造

こういった伏線をふまえて『タカラヅカスキャンダルの中の百周年』を読むと、当時の違和感の理由がいろいろと納得できる。

本書によれば、『猛き黄金の国』の主演だった轟悠は、歌劇団やプロデューサーに大金を貢ぎ、資産家の実家の経済力でトップスターの地位を手に入れた女優だった。どおりで実力もそれなりのはず。もし仮にまっとうに選ばれたトップスターが演じたならば、もう少し惹きつけられるものがあり、ヅカファンまではいかなくてもリピーターにはなっていたかもしれない。

現在、轟悠は歌劇団に残り、ジェンヌ出身としては珍らしい幹部になっているという。企業の事情がにおう舞台の主役としては、実にふさわしい配役ではあったのだ。

歌劇団が殿様商売をしているという印象も、間違ったものではなかった。本書に詳述されている、ファンがマネージャーの役割を肩代わりした上、歌劇団に上納金まで納めているという、ファンクラブの奇妙なあり方を見ると、一体客はどちらなのかわからなくなってくる。このように長い間ファンに甘え、利用するのが当たり前という慣習にどっぷりつかってきたのであれば、ファンのため、観客のためという発想が欠落するのも当然だろう。
本書を通じて強く感じられるのは、歌劇団組織の腐敗のようなものである。掲載されているジェンヌの不祥事は、上納金を始めとした、ジェンヌに負担を強いる歌劇団のシステムのしわ寄せから生じたものが多い。歌劇団がそれを知らないはずはないのだが見て見ぬフリで、事が起こればジェンヌを切り捨て終わりにする。そういうことをずっと続けてきたのだ。

◆歌劇団に刃向かった者は芸能界で干される

2008年のいじめ事件も、音楽学校職員のダメっぷりがいかんなく表われていた。いじめはひどいものだが相手はまだ未成年の少女であり、学校側の権限をもってきちんと対応すれば、ことの真偽を見極め、被害者を救うことはできたように思う。しかし職員は事件に対して全く真剣に向き合わず、てっとり早く被害者を切り捨てて幕引きをはかろうとする。そこには、被害者生徒のことはもとより、宝塚歌劇団の将来を考える気持ちもみじんもない。そして、順調に育てば歌劇団にも大きな利益をもたらしたであろう類まれな資質の逸材を、あっさりとつぶしてしまうのである。なんとももったいない話である。

この事件はたまたま被害者が訴訟という勇気ある行動に出て明るみになったが、同じようなことはほかにも起こっているように思えてならない。

被害者Sさんは、残念ながら、今後もう芸能界での活躍は難しいように思われる。せっかくの勇気ある行動が、歌劇団に刃向かった者は芸能界で干される、という前例を生んでしまったとしたら、本当に残念なことである。

(遠藤サト)