01年に始まり、昨年3月まで続いた「東電のマスコミ接待ツアー」である「愛華中華団」。そこに、参加したマスコミ人の功罪を暴いていく。まず「因あれば、果あり」だ。接待ツアー発起人で、ツアー顧問として毎回参加していた「マスコミ接待コーディネーター」たる石原萠記氏を語ろう。石原氏は、どのように東電とズブズブになっていったのか。

石原氏は労働運動に身を投じた後、社会党右派の三輪寿壮氏(故人)に師事。そのときに縁があり、GHQ(連合国軍最高指令幹部)の声がけで、覚えめでたく米国に人脈を広げた。
「この時代に、米国のフォード財団から資金援助を受け、西側諸国で組織化が進んでいた『国際文化自由会議』の連絡員にならないかという誘いを受けています。彼は社会主義を標榜していたのですが、社民・中道勢力による自民党政権打倒を目指したんです」(古参議員)
「国際文化自由会議」といえば反共をスローガンとしていた知識人の集まりで、CIAとの関係が浮上しては消えたといういわくつきの組織だ。この時点で十分な売国奴だったとは言えまいか。

1959年には保守系論檀雑誌「自由」を創刊し、編集長となる。急激に右に転回していった石原氏だが、左寄りの政治家とも交流、全方位型のマスコミ人となっていく。最も親密にしていた政治家のひとりに、社会民主連合の前身を作った江田三郎氏(故人)がいた。このような流れで三郎氏の息子、江田五月議員が、「第1回訪中団」の団長を務めたのである。

「石原氏には多くのスポンサーというか、身元引受人が政財界にいましたが、彼が立ち上げた『情報社会を考える会』にて、名だたる財界人を引っ張ってきたのが平岩外四氏(当時は東電総務課長、後に経団連会長)です」(経済雑誌記者)
雑誌『自由』にはもちろん、09年2月に終刊するまで東電の広告が出ていた。
「東電は、マスコミを篭絡するために石原氏を緩衝地帯にしたかったのでしょう。文藝春秋の社長である池島信平氏(故人)や田中健五氏、講談社の会長となった服部敏幸氏らとも交流がありました」(事情通)
このあたりの人脈が石原氏が元『週刊文春』編集長の花田紀凱(現在は『WiLL』編集長)や元木昌彦氏が「東電マスコ接待ミツアー」につながっていく淵源なのだろう。

「石原氏が創刊する雑誌『自由』には、年末に財政が苦しくなると、決まって東電の広告が掲載されていました。勝俣会長とも深いパイプがあり、民主党の議員を多数紹介して献金を誘導したのも、今後は問題として問われていくでしょう」(ジャーナリスト)
鹿砦社の松岡利康社長は言う。
「よく調べたね。調べていくと、まだまだ奥が深そうだね。それにしても、怒りを禁じえないよね」

石原氏は、一度でも福島原発の悲惨な状況を見たのだろうか。すぐにでも被災者に土下座すべきである。石原氏の「東電マネーで潤った財布」にはいくらたまっているのだろうか。

(渋谷三七十)

(参考資料)
「愛華訪中団メンバーリスト」
第1回訪中団<01年3月18~24日>
訪問地=北京、杭州、上海
団長:江田五月(参議院議員・元科技庁長官)
副団長:日野市朗(衆議院議員・元郵政相)、山本勝(東京電力副社長)
団員:星野利一(大成建設常務)、大橋博(教育財団理事長)、
元木昌彦(週刊現代元編集長)、野口敞也(連合総研専務)、
石原圭子(東海大学助教授)、藤井弘(日本対外文化協会常務)
江田洋一(江田事務所代表)
顧問:石原萠記(日本文化フォーラム専務、(社)日本出版協会理事長、情報化社会を考える会代表)

張香山(21世紀日中賢人会議代表)、陳昊蘇(中国外交学会会長、陳毅氏長男)、沈祖倫(前逝江省々長)、王国平(杭州市常任書記)の各氏、国家自然科学基金、中国学会、政界人と交流。ほかに清華大学、上海交通大学、上海総工会の代表や阿南・駐中国大使と懇談。
〔『続・戦後日本知識人の発言軌跡』(自由社)〕