1975年(昭和50年)ごろまでは、原子力発電に関する新聞やテレビの広告がほぼ皆無だった。しかし、なぜゆえに、いつごろ、解禁となったかがずっと気になっていた。1991年にリリースされ、おそらく部数も希少で非常に手に入りにくい本を国会図書館で読み、必要な部分はコピーをしてきた。この本にその答えがあるからだ。
元電気事業連合会(通称・電事連)の広報部長を務めていた鈴木健氏が書いた『電気産業の新しい挑戦』(日本工業新聞社)には、電力業界がいかにしてメディアを籠絡していったのか、その軌跡がこと細かく書いてある。

1974年(昭和49年)4月、科学技術庁のオーダーを受けて、電事連に原子力広報専門委員会がスタートし、原子力広報が広報部に一元化される。当時、東京電力の柏崎原子力発電所は、地域社会へのPRを切望していた。ところが新聞やテレビなどの媒体は原発へのアレルギーが強く、相手にされない。当時、原子力のPRは経済雑誌か週刊誌くらいに限られていた。そのような逆風下、電事連と組んでいた広告代理店の伊藤社長が「朝日新聞」の広告部と話を詰めているという。

以下は著書からの引用だ。実にそら恐ろしい「歴史的な事実の記述」がそこにある。
<私は、朝日新聞の広告部と話が進んでいるというとの彼の言葉を信じた。そこで私は、当時の朝日新聞論説主幹の江幡清さんとはかねてから親しかったので、「実はお宅の広告部との間にこういう話があるようだが、もし原子力のPRの広告を出した場合、社内で社会部や科学部あたりから問題が出ることはないか」と相談したのである。ところが「わが社の方針としては、原子力発電は国民生活に必要なことは認めている。安全性の追求は別だがね。したがって、意見広告のごときはいいのではないかと思うが、調べたうえで返事をする」ということであった。(中略)間もなく、江藤氏からOKの返事がきたので、四十九年七月から月一回、十段の原子力広報を打ち出したのである。とにかく、朝日新聞の全国版を使ってのPRであるから、念には念を入れ、慎重第一であった。(中略)朝日は読者がインテリ層であるから、硬くはなるが、第三者によるPRということで学者や専門の研究所員を動員した。地味ではあるが、堅実第一のPRであった。(中略)原子力の広報を始める時、すでに朝日、毎日、読売、日経、サンケイの中央五紙の全国版を使って電気事業の理解広告を行っていたので、別個に予算を取らねばならなかった。>(第三章原子力広報と取り組む)
とある。ようやく腑に落ちた。

これをきっかけとして、「読売新聞」が顧問をしていた漫画家の故・近藤日出造氏が漫画と文章で原発をルポするプランが浮上してくる。「毎日新聞」でも原発PRの広告が始まる、ということとなっていく。
とくに「毎日新聞」とのやりとりはスリリングだ。
鈴木健氏は原発反対のキャンペーン記事を展開していた「毎日新聞」の営業関係者に、こう恫喝をかける。
<御社ではいま原子力反対のキャンペーンを張っている。それは御社の自由である。原子力発電は反対があってこそ、促進派は懸命に安全性の向上に努力し、暫次安定性が定着化してくるものだと思う。朝日の場合は、原子力発電は将来の国民生活に必要なものとの社の方針が決まっているということで、原子力発電の記事広告を載せてもらえるようになったのだ。御社のエネルギー問題への取り組み方針はどうなっているのですか。反対が天下のためになると思うなら、反対に徹すればいいではないですか。広告なんてケチなことは、どうでもいいではないですか。>

さらに「政治を暮らしへ」というテーマでキャンペーンを打つ「毎日」についてこう最後通告する。
<消費者運動を煽って、企業を潰すような紙面作りをやっていたのでは、広告だってだんだん出なくなりますよ。>
鈴木氏はこう書く。
<そのうち、“政治を暮らしへ”のキャンペーンはいつとはなしに紙面から消えていった。(中略)かくして、読売より一年半遅れて、毎日新聞にも原子力発電のPR広告を載せるようになったのである。>(第三章 原子力広報と取り組む)

原発のPR合戦は、この時点から大きくうねりとなって盛り上がっていくのだ。
「東電、中部電力、関西電力ほか全国の電力会社10社で組織され、電力会社の司令塔であり、リーダーといわれる業界団体の電事連は、昨年の震災直前まで年間、300億円もの広報予算を使って原発PR広告を打っていたとされます。東電や関西電力とは別ラインで、広報予算をばらまく。これぞ電力会社との“メディア籠絡Wアタック”ですよ」(業界紙記者)
ちなみに、「読売新聞」の原発広告のうち5割を占めるのが、電事連が立ち上げたダミー団体「フォーラム・エネルギーの会」という市民団体の広告である。これについては、さらに追及していく予定だ。

鹿砦社・松岡社長は語る。
「う~む、朝日や毎日という、いわば”リベラル”といわれる大手新聞が、こうも簡単に、事実上の原発推進の広報紙的役割に転じて行ったというのも怖いことやね。私たちが支援している昨年の島唄イベント『琉球の風』の終わり近くで『ネーネーズ』が登場し盛り上がりましたが、その『黄金(こがね)の花』という歌に『黄金で心を汚さないで』というくだりがあります。朝日よ毎日よ、『黄金で心を汚さないで』と言いたいですね。『黄金の花』の歌詞はさらに『黄金の花はいつか散る』と続きますが、むべなるかなですね」

電事連よ! 反原発のオピニオンを断ち切って、「実利主義」で広告を新聞紙面にぶちあけた罪は重い。新聞やテレビが反原発から原発容認に流れていった「分水嶺」こそが、新聞社が電事連に籠絡された昭和49年(1974年)である。電事連は東電の「幹部候補生」が出向する団体としても有名だ。この問題の闇は深い。さらに追及していこうと思う。

(渋谷三七十)