名護市長選挙のその先へ ── 沖縄が「本当の花」を咲かせるために

2月4日投開票が行われた沖縄県名護市長選挙で、現職の稲嶺進候補を新人の渡具知武豊氏が破り、自公政権(プラス維新)が後押しする市長が誕生した。稲嶺陣営は「オール沖縄」ら翁長知事らが支援し三選にのぞんだが、3400票ほどの差で落選した。私は公明党が渡具知氏支援を明確にして以来、稲嶺氏の再選が厳しいのではないか、と予想していたが、その通りの選挙結果となった。

 
2018年2月5日付沖縄タイムス社説

今回の選挙結果と、それに通じる構造は沖縄タイムス2月5日社説が述べているように、〈菅義偉官房長官が名護を訪れ名護東道路の工事加速化を表明するなど、政府・与党幹部が入れ代わり立ち代わり応援に入り振興策をアピール。この選挙手法は「県政不況」という言葉を掲げ、稲嶺恵一氏が現職の大田昌秀氏を破った1998年の県知事選とよく似ている〉と私も感じる。

前回の市長選と大きな違いは、公明党が自主投票から、今回は明確な国政与党候補の支持に回ったことだ。全国的には公明党の組織票は国政選挙ごとに得票を減らしているが、沖縄ではむしろ支持者を増している、という話を現地では耳にする。とりわけ、沖縄以外からの沖縄への移住者が生活になじめず、困惑の色をみせていると、すかさずオルグ(勧誘)にやってきて勢力を広げているらしい。この話はご自身が東京から沖縄に転居され、創価学会に入信したご本人の体験談として聞いたので間違いないだろう。

◆選挙結果と市民の態度

即座には思い出せないほど、米軍のヘリコプターやその部品落下が相次ぎ、米兵や軍属の犯罪が引き起こす犯罪の報道は、関西に住んでいても新聞紙上でしばしば目にする。

短絡的に名護市長選挙の結果を、「沖縄県民が辺野古基地建設を含め、米軍の駐留に肯定的に意見が変わった」と決めつけるのは大いなる間違いだ。たとえば名護市長選を前に、琉球新報社などが実施した電話世論調査から市民の態度は明白だ。

米軍普天間飛行場の名護市辺野古への移設計画について、53.0%が「反対」、13.0%が「どちらかといえば反対」を選択し、66%を占めた。一方で「賛成」は10.5%、「どちらかといえば賛成」が17.8%と3割に満たない。

何度も、何度も選挙で「反対」の意思表示をしても、県議会で決議をしても、知事が東京に出向き、米国まで出向いても、いっこうに変化のない状況に、地元の人びとは疲れ切っているのが正直なところだろう。

2018年2月5日付琉球新報社説

そして、基地反対運動に熱心ではない、庶民の多くは基地問題について多くを語りたがらない。「もう疲れた。勘弁してくれ」と顔に書いてある。人口が6万人ほどの名護市がもっぱら、辺野古基地建設で注目を浴びるが、人々には日々の生活があり、沖縄の住民が、名護市の住民が他の地域の住民に比べて、政治にばかり頭を悩ませ、翻弄させられていなければならない状態自体が、惨いというべきだ。辺野古基地建設計画がなければ、名護市はこれほど注目されることもなかったろうし、市民の分断や苦悩も生じはしなかった。辺野古基地建設の罪はこのことに尽きるともいえる。

◆太田元知事時代への国権ネガティブキャンペーン

前述の通り、太田元知事は知事就任前に研究者だったこともあり、理詰めでなおかつ、行動的に米軍基地撤去に取り組んでいたが、その姿勢を自民党や政権中枢は「基地問題ばかりで、経済政策に無能」と決めつけキャンペーンをはった。

事実は逆だ。20世紀後半から沖縄は観光がけん引役となり毎年目覚ましく経済成長している。ここ4年間は毎年過去最高の観光客数を記録し、2016年度の入域観光客数は876万9,200人で、対前年度比で83万2,900 人、率にして10.5%の増加となり、4年連続で国内客・外国客ともに過去最高を更新した。外国客においては初の200万人台を記録した(沖縄県の集計)

こと「経済」にかんしては、沖縄は成長の真っただ中で、観光を中心に、まだ発展の余地がある(それが良いことがどうかは簡単には判断できないけれども)。

2016年度 沖縄県入域観光客統計概況(文化観光スポーツ部観光政策課2017年4月発表)

米軍基地の問題は大前提として揺るぎないが、沖縄を訪れるたびに、どんどん日本の巨大資本が侵入していく様が目について仕方ない。また自分も観光客だから、こんなことを言えた義理ではないのだけれども、沖縄の観光客急増は確実に環境への悪影響をもたらしている。沖縄島(本島)を南北に走る国道58号線は、那覇市内ではしょっちゅう渋滞している。車のナンバーを見ると「わ」や「ね」(レンタカー)がやたら多く、交通事故を毎日のように見かける。海水浴場では日焼け止めを塗りたくった観光客が綺麗な海を汚す。

沖縄の人びとが潤うのは好ましいけれども、やみくもな経済成長で人の心を失い、人の住めないような街を溢れさせてしまった日本の過ちをおかさないで欲しい。言わずもがな「命どぅ宝」精神が沖縄にはあるが、それが「経済成長神話」に揺すられてはいないだろうか。基地存続派はかつて「経済基地依存論」を、それが破綻すると「経済テコ入れ支援策」を持って東京からやってくる。でも沖縄では、経済成長と反比例して平均年齢が下がっているじゃないか。

◆本当の花を咲かせる ── ネーネーズの「黄金の花」

毎年「琉球の風」に登場する「ネーネーズ」に「黄金(こがね)の花」という曲がある。作詞岡本おさみ、作曲知名定男の名曲だ。


◎[参考動画]黄金の花/NENES with DIG(2015年6月27日ライブハウス島唄にて)

黄金の花が咲くという
噂で夢を描いたの
家族を故郷 故郷に
置いて泣き泣き 出てきたの

素朴で純情な人達よ
きれいな目をした人たちよ
黄金でその目を汚さないで
黄金の花はいつか散る

楽しく仕事をしてますか
寿司や納豆食べてますか
病気のお金はありますか
悪い人には気をつけて

素朴で純情な人達よ
ことばの違う人たちよ
黄金で心を汚さないで
黄金の花はいつか散る

あなたの生まれたその国に
どんな花が咲きますか
神が与えた宝物
それはお金じゃないはずよ

素朴で純情な人達よ
本当の花を咲かせてね
黄金で心を捨てないで
黄金の花はいつか散る

黄金で心を捨てないで
本当の花を咲かせてね

命や心を大切にすれば、優先させるべき順列は、おのずから明らかではないか。戦争を前提とした米軍基地の存在など論外だ。

▼田所敏夫(たどころ としお)
兵庫県生まれ、会社員、大学職員を経て現在は著述業。大手メディアの追求しないテーマを追い、アジアをはじめとする国際問題、教育問題などに関心を持つ。※本コラムへのご意見ご感想はメールアドレスtadokoro_toshio@yahoo.co.jpまでお寄せください。

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本日再審可否決定の飯塚事件 「冤罪」久間氏の命を奪った責任者たちの天下り先

1992年に福岡県飯塚市で小1の女児2人が殺害された「飯塚事件」では、2008年に死刑執行された久間三千年氏(享年70)に冤罪の疑いが長く指摘されてきた。その飯塚事件の再審請求即時抗告審で、福岡高裁(岡田信裁判長)がきょう2月6日の午前10時、再審可否の決定を出す。

当欄で繰り返し紹介してきた通り、久間さんが無実であることは間違いないが、その生命を奪った責任者たちは今、どこで何をしているのか。実名で報告する。

◆警察トップはあの東証1部上場企業の会長に

村井温氏(綜合警備保障のHPより)

まず、捜査段階の責任者から見ていこう。

久間氏は1994年9月、福岡県警にこの事件の容疑で逮捕された。当時、県警本部長を務めていたのが村井温氏だ。その後、村井氏は1997年に実父が創業した大手警備会社「綜合警備保障」に転じて社長を務め、同社を東証一部に上場させた。現在は代表取締役会長だが、ホームページ上で「当面、売上1兆円、その次は業界ナンバー1を目指します」と豪語しており、かなり羽振りが良さそうだ。

私は以前、編著『絶望の牢獄から無実を叫ぶ』を制作した際、村井氏に取材を申し込んだが、村井氏は秘書を通じ、「警察時代の職務については、取材を受けないようにしている」と断ってきた。しかし調べたところ、村井氏はそれ以前、「賢者グローバル」という無料動画配信サイトの取材に応じ、福岡県警本部長時代に「1万何千人」もいた部下をいかにマネージしたか、当時の経験が今の会社でいかに役立っているかを笑顔で語っており、誠実さに欠ける人物だと思わざるをえなかった。

村山弘義氏(青陵法律事務所のHPより)

一方、久間氏を起訴した福岡地検の村山弘義検事正はその後、法務・検察の世界では検事総長に次ぐナンバー2のポストである東京高検検事長まで出世した。1999年に弁護士に転身後は三菱電機やJTに監査役として迎えられ、外部理事を務めた日本相撲協会では2010年の大相撲野球賭博騒動の際に理事長代行も務めた。

私は前掲書を制作した際、村山氏にも取材を申し込んだが、やはり断られた。電話で取材を断る理由を尋ねたところ、「理由なんか申し上げることはありません。色々考えて、お断りしたということでございます」とのこと。飯塚事件について何か語るべきことがないのかと尋ねても「そんなことを申し上げることもありません」、冤罪だと思っていないということかと確認しても「はいはい、すみません」という感じで、とりつく島がなかった。

◆確定死刑判決を出した裁判長は頑なに取材拒否

久間氏は捜査段階から一貫して無実を訴えていたが、裁判では福岡地裁の1審で陶山博生裁判長から死刑判決を受けた。その後、久間氏は福岡高裁の2審、最高裁の上告審でも無実の訴えを退けられ、死刑囚となった。

確定死刑判決を宣告した陶山氏は2013年3月、福岡高裁の部総括判事を最後に依願退職し、現在は福岡市を拠点に弁護士をしている。

私は以前、飯塚事件に関する取材を陶山氏に申し入れたことがあり、電話で断られたため、氏が所属する羽田野総合法律事務所の入ったビルの前まで訪ねて再度取材依頼したことがある。しかし、陶山氏は「全然お話するつもりはありません」「黙秘です」「急ぎますので」などと頑なに拒否した。陶山氏にとって、飯塚事件のことは触れられたくない過去であるようだった。

◆執行を決裁の法務省幹部2人は検事総長に上り詰め、複数の大企業に天下り

死刑は、法務大臣の命令により執行される。しかし、その前に死刑執行の可否を検討するのが法務省の官僚たちだ。

私が行政文書開示請求などによって調べたところ、久間さんの死刑執行を決裁した法務官僚11人が特定できた。その名前を挙げると、尾﨑道明矯正局長、大塲亮太郎矯正局総務課長、富山聡矯正局成人矯正課長、坂井文雄保護局長、柿澤正夫保護局総務課長、大矢裕保護局総務課恩赦管理官、小津博司事務次官、稲田伸夫官房長、中川清明秘書課長、大野恒太郎刑事局長、甲斐行夫刑事局総務課長――の11人だ。

小津博司氏(トヨタ自動車のHPより)

このうち、とくに中心的な役割を果たしたとみられるのが、小津博司事務次官大野恒太郎刑事局長だ。2人はいずれも検察官で、久間さんを処刑台に送った後、法務・検察の最高位である検事総長まで上り詰めている。そして退官後も揃って複数の大企業に天下りするなどし、悠々自適で暮らしているようだ。

まず、小津氏は2014年に退官後、弁護士に。確認できただけでも現在はトヨタ自動車、三井物産、資生堂の3社で監査役のポストを得て、清水建設が設立した一般財団法人清水育英会で代表理事に就いている。

大野恒太郎氏(伊藤忠商事のHPより)

一方、小津氏の後を受けて検事総長となった大野氏も2016年に退官後、弁護士に。四大法律事務所の1つである森・濱田松本法律事務所に客員弁護士として迎えられ、伊藤忠商事、コマツで監査役、イオンで社外取締役を務めている。

私は前掲書を制作した際、この2人に対しても、久間さんに関する思いなどを聞くために手紙で取材を申し入れたが、当然のごとく断られている。

小津氏は手紙で返事をくれたが、〈6月16日付のお手紙拝受いたしました。小生に対する取材のお申し込みですが、退官後、このような取材は全くお受けしておりません。この度のお申し出もお受けすることはできませんので、悪しからずご了解いただき、今後の連絡もお控えいただきますよう、お願いいたします。用件のみにて失礼いたします〉と取材を断ることを一方的に告げてきただけで、取材を断る理由すら示さなかった。

一方、大野氏は私が取材を申し込んだ時はまだ現役の検事総長だったが、最高検企画調査課の検察事務官から電話がかかってきて、「今回の取材申し入れに関しては、大変恐縮なんですが、お断りさせて頂きたいということです」と告げられた。大野氏はいかなる理由で取材を断るのかと尋ねると、「とくに賜っておりません」とのことだった。

以上、村井温氏、村山弘義氏、陶山博生氏、小津博司氏、大野恒太郎氏という久間氏の生命を奪った5人の責任者たちの「今」を紹介したが、彼らは飯塚事件の再審可否決定が出る今日をどんな思いで迎えたのだろうか。そして決定をどんな思いで受け止めるのだろうか。

▼片岡健(かたおか けん)
1971年生まれ、広島市在住。全国各地で新旧様々な事件を取材している。

「絶望の牢獄から無実を叫ぶ ―冤罪死刑囚八人の書画集―」(片岡健編/鹿砦社)

天才中学生・藤井聡太五段と立憲民主・辻元清美議員を繋ぐ「名古屋大附属」

〈将棋の史上最年少棋士・中学3年生の藤井聡太四段(15)が1日、東京都渋谷区の将棋会館で行われた順位戦C級2組9回戦で梶浦宏孝四段(22)に勝ち、9戦全勝としてC級1組への昇級を決めた。同時に、昇段規定を満たして同日付で史上初の「中学生五段」となった。17日に羽生善治竜王(47)と準決勝で直接対決する朝日杯将棋オープン戦で優勝を果たせば、一気に六段まで昇段する。〉(2018年2月1日付スポーツ報知)

◆藤井聡太五段の快挙で思い出した「名大附」受験

 
藤井聡太五段(日本将棋連盟HPより)

天才はやはり本当に居るものだと、藤井聡太君には感心させられる。15歳でも言葉の選び方は、知性を備えた大人のそれだし、人間的な落ち着き振りは、傑出した才能を伺わせるのに充分な重厚性を持っている。藤井君は現在名古屋大学教育学部附属中学校に在籍しているが、実は中学校ではないものの、私は名古屋大学教育学部附属高等学校を受験して、見事に不合格になったことがある。

地元では「名大附(めいだいふ)」と通称される、名古屋大学教育学部附属高等学校の入試は、ややユニークだった。1次試験は「抽選」だ。私の通っていた中学校から数10名が「抽選」を受けた(抽選はたしか郵送で願書を出して、高校側から本試験へ「当選」したか「ハズレ」たか連絡を受けるシステムだったと記憶する)。

 
名古屋大学教育学部附属中・高等学校(同校フェイスブックより)

私は幸運にも本試験受験を許可される「当選」の連絡があり、名古屋市内の同校で筆記試験を受験した。同校は名古屋大学教育学部附属ということで、偏差値的にはかなり優秀なのだけれども、「必ずしも成績優秀者だけが合格するのではなく、合格者は成績順ではなく選抜する」と言われていた。

私の学力では到底合格は難しいレベルの学校だが「成績上位者からだけではない合格」に可能性をかけた。筆記試験の出来は芳しくなかった。とてもではないが合格域に入れるような成績ではなかったろう。そして自分の敗戦感覚通り、不合格となった。

◆「名大附」出身・もう一人の猛者、辻元清美

これで名古屋大学附属高等学校との縁は切れるのだが、大学を卒業して企業に勤めてから、奇異な縁に引き戻される。当時私は某大企業のエリート新入社員だった(いまでは嘘のようだけれども事実だ)。その仕事で立ち寄り先に「ピースボート」のポスターが貼られたお宅にお邪魔することになった。ピースボートはどんな商法をしているのか知らないが、いまでは都会だけでなく、田舎でもあちこちにポスターを見かけるようになり、「経営」も安定しているように伺える(正直、少々やりすぎの感も否めないが)。でも当時はまだそれほどに目立った存在ではなかったが、チャンスがあれば乗ってみたい、と学生時代に関心を持っていた。

 
辻元清美衆議院議員(公式HPより)

知る人は知っているがピースボートを始めたのは辻元清美を中心とする若者たちだった。いまではもう50歳を超えて、議員歴も長くなった辻元清美とともに、ピースボートを立ち上げた人が、私の訪問先の居住者だった。仕事の話もそこそこにして、初対面なのに、私からはピースボートについてあれこれ質問し、その後その方とはしばらく情報を交換することになる。そして当時から「辻元清美はいずれ社会党の全国区から選挙に出る予定」と教えてくれたのもその方だった。

その情報通りに、後年辻元は社会党が改名した社民党から国会議員に当選し、逮捕されるなど波乱に満ちた経験をへながらもしぶとく議員の椅子を確保し続けている。その辻元は名古屋大学教育学部附属高等学校の卒業生でもあるのだ。関西弁でまくしたてる話し方を聞いていると、関西生れの関西育ちのように勘違いしがちだが、辻元は高校時代を名古屋で過ごしていたのだ(辻元は、その気になれば名古屋弁をしゃべることができるのか、ちょっと興味のあるところではある)。

◆辻元清美はどんな高校生だったのだろうか

入学試験の際に一度しか訪れたことはないけれども、歴史を感じさせる校舎からは、自由な校風の香りがした。もし仮に私が同校に合格していたら、確実にその後の人生は変わったものになっていただろう(それは大学入試にも言えることだが)。そんな学校に通う天才棋士の藤井聡太君は史上最速で五段に達したという。元気はつらつ、スポーツに打ち込む若者を見ていていると気持ち良いけども、知性に溢れ、控えめな態度の若者には、また別の可能性や期待感を感じる。同じ学校に通っていた辻元はどんな高校生だったのだろうか。ちょっと興味がわく。

▼田所敏夫(たどころ としお)
兵庫県生まれ、会社員、大学職員を経て現在は著述業。大手メディアの追求しないテーマを追い、アジアをはじめとする国際問題、教育問題などに関心を持つ。※本コラムへのご意見ご感想はメールアドレスtadokoro_toshio@yahoo.co.jpまでお寄せください。

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私の内なるタイとムエタイ〈21〉タイで三日坊主!Part.13 初めての托鉢

◆三日坊主生活の始まり!

今、纏っているのは黄色い僧衣。俗人の時に身に着けていたものは一切無い。パンツも穿いていない。外に出る時はサンダル履き。頭を触ればやっぱり髪は無い。本当にお坊さんになったよ、どうしよう。

泣きそうにアナンさんらを見送った直後、そんな呑気に我が身を観察している時間は無く、一刻も早く黄衣の纏いを覚えなければならない時。

◆黄衣の纏いを覚える!

午後は葬儀が続く中、藤川さんの黄衣纏いの指導が始まりました。托鉢に行く場合の纏い、普段寺に居る場合の纏い、葬式用の纏いを教えてくれますが、とにかく難しいし、文句言いっぱなしの藤川さん。「よう見とけ!まず端と端持って巻いていくんや、アホ、強う締めんかい、解けてくるぞ!」語気強く、ひたすら貶すばかり。そんなこと言ってる間に葬儀が再開、「もう行かなあかん、葬儀用に戻すぞ、早よせい、あかんなあ違うやろ!」ほとんど父親に服を着せて貰っている幼児状態で式典用(ホム・サンカティ)に纏い、葬儀に向かいます。

新米の私は比丘の列席の後方に座り、ワイ(合掌)をして読経など全く出来ないまま。周囲はこの年のパンサー(安居期)に出家した比丘ばかり。しかし皆、見事に声に出して読経している姿に圧倒され、これから日々、使う経文だけは覚えなくてはいけないと思うところでした。

葬儀の一区切りで、クティ下のベンチでタバコを吸ってくつろいでいる比丘、自家用トラックの荷台に乗って外に向かう数名の比丘がいると思っていたら、サーラーからまた読経が聞こえてくる。油断していると立ち遅れる私。皆当てられた役割があるので、私以外誰も迷ってはいません。

黄衣を纏う練習は続く(1994.10.30 セルフタイマー撮影)

やがて藤川さんがやって来て「折り目合わせて畳んどけよ!」と言って出て行かれ、私の出番は終わりと悟り、何とか慌しい行事の1日は終わりました。しかし夕方以降は黄衣の纏い練習をしなくてはなりません。

その夜も藤川さんがやって来て教えてくれるも、昼間までと違って口数少なく、今迄なら京都弁でグチグチ言いそうなところが何も言わない。それは何か冷たく、「こんなことすぐ覚えんとあの若い奴らにバカにされるんとちゃうけ?」と言うことは言うが語気は静か。

黄衣を頭から被り、生地を引っ張ると頭が引っ張られて持って行かれる状態。剃った頭はツルツル滑るものではなく、ザラザラで生地が纏わりついてしまうのでした。傍から見れば笑えるような光景にも私は苛立ち、藤川さんは無視し、全く笑いが起きない。私の不器用さに呆れたのでしょうか。
「これだけは覚えんと明日からのビンタバーツ(托鉢)に行けんのとちゃうか? 明日の朝までに出来るようにしとけ!」と言って出て行った藤川さん。

時間は夜9時過ぎた頃。その後11時頃まで練習。ホム・マンコン(注釈:ホム・クルムとは型が違う)と言われる門外用の仕上がる形だけ分かるものの、その纏いは上手く出来ない。足下は雑、首周りも雑、全体はダブダブして締まりが無い。やり方だけは覚えたが、イライラするばかりでは集中力も落ちている。やめた、もう寝よう。

◆初めての托鉢!

カメラのさくらやで買った小さな目覚まし時計が、午前3時50分。“ピピピピッ”を連続繰り返される音で目が覚める。藤川さんの部屋をノックするのは5時25分。それまで練習するのだ。昨日、一回纏うまでに20分以上掛かっていた。今日はどうだろう。その為の早起き。コツが掴めぬまま何度も繰り返し、格好悪いが形だけは出来た。解けずに帰って来れるか不安ながら、もう時間だ、これで行こう。

藤川さんの部屋をノックする。中に入ると、「やり直せ」と言うかと思うも、「今日はその場凌ぎに、脇の下に輪ゴムで止めとけ、最悪でも全部バラけることは無いやろう」と言って黄衣を巻き寿司のように巻きつけて捻った部分を脇の下で輪ゴムで止めてくれました。

20分かけて何とか完成、格好悪いが2つある型のひとつ、ホム・マンコン。我が寺ではこれに決まっています(1994.10.30 セルフターマー撮影)

そうして私の初めての托鉢は出発。夜明け前の寺の鉄扉を開け玄関を出て、裸足で藤川さんを先頭にして歩き出します。足の裏が冷たいジャリ道の地面に触れると直接的に肌触りがわかる土や石ころの感触。やがてコンクリートの道に入るとまた違った硬い感触。小石を踏むと若干痛い。ガラスや尖った金属片が落ちていないかと前かがみに歩き、見た目は格好悪いことは分かる。

寺から大通りに出るまでに、一軒のサイバーツ(鉢に入れる寄進)を待つオジさんを発見。藤川さんが立ち止まりサイバーツを受けています。その次に私の番。バーツの蓋を開け、しゃもじで掬った炊いたばかりと分かる湯気が立つ御飯が入れられました。そしてビニールに入った惣菜を頭陀袋に入れられ、藤川さんは振り返って私のその姿を見届けてから歩き出しました。
「ワシらは信者さんの徳を積む機会を与えとるんやで、物を貰って居るのではないぞ!」と、そんな教えを以前から受けているので間違った振舞いはしないが、やっぱり真の仏教の下で育った訳ではない私は、貰っている感覚で頭を下げそうになってしまいます。

藤川さんの後ろを歩けばこんな感じ(イメージ画像)
藤川さんのサイバーツを後ろから見る(イメージ画像)
後ろで待つとこんな感じ(イメージ画像)

大通りを出て、例の銀座がある方向へ歩きます。藤川さんの歩くスピードが速く、ついていくのがやっとの思い。足下に気をつけ、信者さんを見落とさないよう気をつけ、黄衣が解けないよう気を付けていると、どこを歩いているのか分からなくなる道。3月に来た時も歩いた路地にも入ると、やたら痛いデコボコ石があり「痛テテ、痛テテ、この路地やめようや!」と言いたくなる痛さで前を全く見れない状態。

ところで何軒受けたろうか。寺に入る路地まで戻って来て、やっと寺が近い見たことある風景を把握する。寺に入って溜め水で足を洗って部屋に戻り、藤川さんはいつものコースを短縮などせず、約1時間経っていたことに、結構長く歩いたんだなと我ながら感心。

「ヤクルトとかオレンジジュースとか手元に残して他、全部ホー・チャンペーンの受け皿に空けろ」と藤川さんに言われて全て出し、バーツの御飯はタライに空け、洗面台でバーツを洗い、部屋に戻って中を拭いて壁に吊るします。これでビンタバーツ一通りが終了。後はデックワットが朝食準備に掛かります。

ビンタバーツは、信者さんにもお得意さんの比丘が居るのも自然な成り行きで、「あのお坊さんが来るのを待っている」といった信者さんも居ます。そんな中では、この日、信者さん皆普通に私にもサイバーツしてくれたことに安堵するところでした。

◆次なる試練!

他の比丘も帰って来る中、気が付けばお腹が空いている状態。午後食事を摂ってはならない戒律の下、昨日のお昼以来の食事が待っていました。しかし、ここから次の難問が待ち構えています。朝の読経も短いながらこなさなければいけません。朝食の時も葬儀用同様の黄衣の纏い方があり、これをこなしてから朝食に向かうことになります。修行が始まっていることをようやく実感する最初の朝でした。

※注01=托鉢撮影は出家前の3月にタイに渡った際の撮影です。比丘となっては托鉢中は撮れません。(筆者)

※注02=23年も経って、当時の記憶や日記の記録、今の時代の文明の利器、インターネットで調べるなどで、改めて理解することもあり、黄衣の纏いの種類と呼び方に細かく違いがあるようでした。主には3種類の纏い方があり、またその中でも纏い方の呼び方が違う部分があります。今後の「タイで三日坊主」の中では、分かる範囲でなるべく正しい表記で書かせて頂きます。(筆者)

▼堀田春樹(ほった・はるき)[撮影・文]
フリーランスとしてキックボクシングの取材歴32年。「ナイタイ」「夕刊フジ」「実話ナックルズ」などにキックのレポートを展開。ムエタイにのめり込むあまりタイ仏門に出家。座右の銘は「頑張るけど無理しない」

一水会代表 木村三浩=編著『スゴイぞ!プーチン 一日も早く日露平和条約の締結を!』

「岡口裁判官半裸写真投稿問題」続報 隠ぺい疑惑の東京高裁が嘘の上塗りか

私は昨年11月13日付けの当欄で、〈司法当局は今なお隠ぺい中 岡口基一裁判官「半裸写真投稿問題」の関係文書〉と題する記事を寄稿した。この記事で伝えた問題について、私はその後も司法当局への追及を続けていたのだが、東京高裁が嘘の上塗りをするかのような対応をしてきたので、報告したい。

◆同内容の文書の開示請求を「異なる理由」で退けた東京高裁

この問題の発端は、「ブリーフ判事」の異名で知られる東京高裁の岡口基一裁判官が2016年6月、ツイッターで自らの半裸写真を投稿したことについて、同高裁の戸倉三郎長官から口頭で厳重注意を受けたことだった。この件は各マスコミで報道され、世間の注目を集めた。

この報道をうけ、いち早く動いたのが、大阪弁護士会の山中理司弁護士だった。山中弁護士は2016年6月29日付けで東京高裁に対し、「東京高裁が平成28年6月21日付で岡口基一裁判官を口頭注意処分した際に作成した文書」の開示を請求したのだ。しかし、山中弁護士がツイッターで明かしたところでは、東京高裁は同年8月2日付けの文書で〈(該当する文書は)作成又は取得していない〉として請求を退けることを伝えてきたという。

ところが、それから3ケ月近く経った9月22日、岡口裁判官がツイッターで再び物議を醸す投稿を行った。それは次のような内容だ。

〈俺の処分の時に作られた膨大な資料は廃棄されずに保存されているだろうか・。ダビデエプロン画像の拡大コピーなど〉

東京高裁が山中弁護士に対し、〈作成又は取得していない〉と回答した文書が実際には存在していたことが、他ならぬ岡口裁判官により公にされたのだ。

私は当時、山中弁護士が上記のような開示請求をしていたことを知らなかったが、この岡口裁判官のこのツイートを見て、その「膨大な資料」をぜひ見てみたいと思った。そこで同27日付けで東京高裁に対し、開示請求を行った。その対象とした文書は、「岡口基一裁判官がツイッターに縄で縛られた上半身裸の写真などを投稿した件に関し、貴裁判所が作成した全文書」だ。表現こそ違うが、山中弁護士と実質的に同じ文書を開示請求したわけだ。

すると、東京高裁は同年12月12日付けの文書で「開示しない」と回答してきたのだが、ここで問題は「開示しないこととした理由」である。それは次のように綴られていた。

〈文書中には、特定の個人を識別することができることとなる情報及び公にすると今後の人事管理に係る事務に関し、公正かつ円滑な人事の確保に支障を及ぼすおそれがある情報が記載されており、これらの情報は、行政機関情報公開法第5条第1号及び同条第6号ニに定める不開示情報に相当することから、その全部を不開示とした。〉

繰り返しになるが、山中弁護士と私が東京高裁に開示請求したのは実質的に同じ文書だ。それにも関わらず、東京高裁はなぜ、山中弁護士に〈作成又は取得していない〉と伝えた文書について、私には存在することを認めつつ、開示請求を退けたのだろうか。

答えは明白だ。山中弁護士が開示を請求した時点では、岡口裁判官は口頭注意処分を受けた際に作られた「膨大な資料」が東京高裁に存在することをまだツイートしていなかった。そのため、東京高裁は山中弁護士の開示請求については、そのような文書は〈作成又は取得していない〉と回答した。しかし、岡口裁判官のツイートにより、そのような文書が存在するのが判明したあとで開示請求した私に対しては、文書の存在を認めざるをえなかったのだ。

換言すると、東京高裁は山中弁護士に対し、本当は存在する文書が存在しないという嘘を告げ、開示請求を退けていた疑いが浮上したわけだ。

◆新たな開示請求に対し、東京高裁が苦し紛れのおかしな回答

その後、私が最高裁に対して行った苦情の申出は、「苦情申出期間を徒過している」として退けられた。そこで私は2017年11月30日付けで東京高裁に対し、新たな開示請求を行った。その対象とした文書は、以下の2点だ。

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(1)岡口基一裁判官がツイッターに縄で縛られた上半身裸の写真などを投稿した件に関し、貴裁判所が作成した全文書

(2)東京高裁が平成28年6月21日付で岡口基一裁判官を口頭注意処分した際に作成した文書

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言うまでもなく、(1)は、私が2016年9月27日付けで開示請求し、東京高裁が存在することを認めながら開示しなかった文書で、(2)は、山中弁護士が2016年6月29日付けで開示請求したが、東京高裁が〈作成又は取得していない〉として開示しなかった文書だ。これらの実質的に同じ2つの文書について、異なる理由を示して開示しなかった東京高裁が今度はどのような対応をするかを見極めるため、2つの文書を同時に開示請求したわけだ。

すると、2カ月近く経った今年1月下旬、東京高裁から文書(作成日付は今年1月25日)で、(1)と(2)のいずれも開示しないという回答があった。そしてこの文書には、「開示しないこととした理由」がこう続けられていた。

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(1)の文書中には、特定の個人を識別することができることとなる情報及び公にすると今後の人事管理に係る事務に関し、公正かつ円滑な人事の確保に支障を及ぼすおそれがある情報が記載されており、これらの情報は、行政機関情報公開法第5条第1号及び同条第6号ニに定める不開示情報に相当することから、その全部を不開示とした。

(2)の文書は、作成又は取得していない

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東京高裁の苦し紛れの回答(※画像は一部修正しています)

つまり、(1)と(2)のいずれについても、「開示しないこととした理由」は前回と同じにしたわけだ。(1)と(2)は、実質的に同じ内容の文書だから、(1)だけが存在して、(2)が存在しないというのは明らかにおかしい。しかし、東京高裁は以前ついた嘘を嘘だと認めるわけにはいかないから、苦し紛れでこのようなおかしな回答をせざるをえなかったのだと思われる。

私は今後もこの問題について、司法当局への追及を続けるので、事態に進展があれば、その都度報告したい。

▼片岡健(かたおか けん)
1971年生まれ、広島市在住。全国各地で新旧様々な事件を取材している。

「絶望の牢獄から無実を叫ぶ ―冤罪死刑囚八人の書画集―」(片岡健編/鹿砦社)

立命館の御用学者、開沼博がNHKで垂れ流す「福島の虚構」

〈昨年まで、仕事始めは3年連続で元旦からだった。朝から、NHKラジオ第一の全国放送で「福島から2時間出しているラジオ」という番組に出演していたのだ。
 様々な切り口で東日本大震災・福島第一原発事故以降の福島の現状を全国に発信する番組だ。ウェブサイトには、「福島の『いま』と『元気』を全国に発信するトークバラエティー番組」と説明されている。福島の問題がニュースになると暗い話、難しい話になりがちだ。だから、多くの人が関心を持てなくなり、タブー化すらしている現実もある。そんなテーマを、正月に2時間、全国放送するのは簡単なことではない。重い話になってしまえば、聴く人たちもついてこられない。競合するラジオでもテレビでも賑やかな番組、めでたい番組ばかりやっている。聴取者・視聴率が取れないとか、切り口によっては何を言っても放送局にクレームが寄せられるとかリスクもある。それでも、意義あることを正月の番組編成にねじ込むのは、さすが公共放送・NHKだ。〉

1月19日京都新聞夕刊1面下段の「現代のことば」に立命館大学衣笠総合研究機構准教授の開沼博が、NHKを持ち上げる記事を寄稿している。「現代のことば」執筆陣が昨年発表されたとき、そのなかに開沼の名前があったので京都新聞の人選には「ああ、またやったな」と舌打ちしたい気分になった。福島原発事故から技術者ではなく社会学者として自ら手を挙げて「御用学者入り」を志願した開沼博。事故後の「ご活躍」も原発推進側の期待を裏切らないものであることは、上記ご紹介した記事だけでも充分に伝わることだろう。

NHKラジオ第一「福島から2時間出しているラジオ」HPより
NHKラジオ第一「福島から2時間出しているラジオ」HPより

◆福島県は「難しい状況にない」というのか?

開沼は、「福島の問題がニュースになると暗い話、難しい話になりがちだ。だから、多くの人が関心を持てなくなり、タブー化すらしている現実もある」と言い切るが、どこに福島の現実をしっかり伝えて、その深刻さを報じる番組があるというのだ。「タブー化」しているのは報道だろうが。「福島の問題がニュースになると暗い話、難しい話になりがちだ」と開沼は言うが、原発4機爆発で深刻な放射性物質汚染にさらされ、既に甲状腺がんの手術を受けたひとびとが千人を超える(参議院委員会での山本太郎議員に対する政府答弁)福島県は「難しい状況にない」というのか。「放射能は笑っている人には来ません。くよくよしている人のところに来るんです」と事故後福島各地で講演して回った山下俊一同様、開沼は深刻な現状隠しに余念がない。こんな人間を3年連続元旦にラジオで使うのだというからNHKの放送内容もだいたい想像できる。

「切り口によっては何を言っても放送局にクレームが寄せられるとかリスクもある。それでも、意義あることを正月の番組編成にねじ込むのは、さすが公共放送・NHKだ」とまで国策宣伝放送機関、NHKを持ち上げるのだから開沼を「御用学者」と呼んでも、何の不足もないはずだ。

開沼には経験がないのだろう。NHKの番組に意見や苦情があって、新聞に記載されているNHKの電話番号にかけると「ふれあいセンター」につながる。「ふれあいセンター」はあらゆる意見・相談・苦情の窓口だが、「事実と異なる報道をされた」と申告しても「貴重な意見として上にあげておきます」以外の回答をすることはない。開沼が懸念しているように「苦情によって」番組内容が影響を受けることなど、「国策」に沿っている限り皆無だ。一方民放のニュース番組で誤報があれば、代表番号に電話を掛けたら番組制作部署につないでくれる。天下のNHKの福島報道における問題はむしろ逆の現象にこそ指摘されるべきだろう。

◆現実を直視しない詐欺師的言説は耳に優しい

開沼博『はじめての福島学』(イーストプレス2015年2月)

「ウーマンラッシュアワー」という漫才師が社会ネタの漫才をやった。そのことについて「漫才師は社会ネタをやるべきかどうか」などと馬鹿げた顔をした、キャスターやお笑い芸人と、恥知らずな大学教員といった出演者で構成される情報番組のいくつかでは話題にされたらしい。そんなことが話題にされること自体が「笑う」に値する風景なのだが、元旦に「福島の虚構」を放送するのに熱心なNHK、そしてそれを称揚する開沼の神経は、遠回りでありながら、事実を直視しないで、体調不良に苦しむ人、「ここに住み続けてもいいのか」と自問する人、はては亡くなる人を度外視し、「正月の楽しさ」を放送するのが、人道的であると信じているようだ。

〈地震・原発事故による直接的な被害とはまた別の、誤解・偏見による被害が生まれ続けている。今年は正月ではなく成人の日に「福島で活躍する若者」をテーマに番組があった。原発廃炉のためにロボットを開発する高専生、福島の農家などをまわってその産品と物語をまとめた冊子を制作する高校生などの出演。番組をはじめた時以来の反響があった。これからも「楽しさ」を伝えつづけた。〉

開沼は「これからも『楽しさ』を伝え続けたい」という。私は楽しさを否定するものではない。けれども現実にある「危険性」を覆い隠そうとする政府や県、果ては開沼らの「楽しさ」に惑わされることなく、いっときの「ごまかし」ではなく、長期間福島に居住すればどんな健康リスクがあるかを、厳しくともお伝えする方が人の道に沿った行為であると思う。現実を直視しない詐欺師的言説は耳に優しい。けれども騙されてはいけない。

▼田所敏夫(たどころ としお)
兵庫県生まれ、会社員、大学職員を経て現在は著述業。大手メディアの追求しないテーマを追い、アジアをはじめとする国際問題、教育問題などに関心を持つ。※本コラムへのご意見ご感想はメールアドレスtadokoro_toshio@yahoo.co.jpまでお寄せください。

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《鳥取不審死・闇の奥09》真相は闇の中 上田死刑囚周辺で起きた3件の火災

クロは動かしがたい状況の中、無実を訴え続けた上田美由紀死刑囚が昨年7月に上告を棄却された鳥取連続不審死事件。上田死刑囚は死刑確定後、刑場のある広島拘置所に移送されており、社会を騒がせた鳥取連続不審死事件もすでに終結した感がある。

だが、私は、この事件はまだ終わっていないと思っている。なぜなら、私は、裁判中に上田死刑囚に対して行っていた直接取材を通じ、上田死刑囚が他者の財産や生命は簡単に奪うが、自分の財産や生命を奪われることは絶対許さない人物だと確信しているからだ。上田死刑囚は今後も死刑執行を免れるために無実を訴え続け、再審請求を繰り返すことは間違いないだろう。

そこで当連載では、上田死刑囚の裁判や裁判終結後の処遇が公正か否かを見極めるうえで参考になるような情報を今後も提供し続けたい。今回は、事件前に上田死刑囚の周辺で起きていた3件の火災について紹介する。

◆最初の火災は上田死刑囚が暮らしていた県営住宅で発生

1件目の火災が発生したのは、2001年11月29日。鳥取連続不審死事件が表面化する8年前のことで、上田死刑囚は当時まだ20代。結婚を2回している上田死刑囚だが、この頃は1回目の結婚生活を送っており、現在とは名字が異なっていた。

現場は、鳥取市の隣にある八頭郡の山すその町にある県営住宅の1棟だ。この棟には2つの部屋があり、1つの部屋には高齢の単身入居者、もう1つの部屋には上田死刑囚とその家族が住んでいた。同日午後1時35分頃、外出中だった高齢の単身入居者の部屋から出火し、この部屋は全焼したという。

現地の人たちに取材したところ、上田死刑囚による放火を疑う声も聞かれたが、鳥取県庁の担当者によると、「火災の原因は不明」という。上田死刑囚の家族が暮らしていた部屋には延焼しなかったそうだが、建物は1棟丸ごと取り壊されてしまった。

上田死刑囚が暮らしていた県営住宅は火災後、更地に

◆上田死刑囚と金銭トラブルになっていた被害者宅で不審なぼや

2件目の火災については、裁判でも上田死刑囚の関与が取り沙汰されている。発生は2009年2月26日。現場は、上田死刑囚に殺害された被害者の1人で、トラック運転手の矢部和実さんの鳥取市内にある自宅だった。不幸中の幸いで、ぼやで済んだが、矢部さんは翌27日、警察官の事情聴取に対し、次のように話していたという。

「昨日、上田死刑囚がうちで食事をして帰ったあと、眠っている間に火災が発生しました」「もしかしたら誰かに殺されそうになったかもしれません」

警察官が「誰かとは上田のことか」と尋ねたところ、矢部さんは否定も肯定もしなかったそうだが、矢部さんと上田死刑囚の間では当時、金銭トラブルが生じていた。普通に考えれば、矢部さんは上田死刑囚のことを疑っていたのだろう。

死刑が維持された控訴審判決公判後、「ほっとした」と語った矢部さんの兄

ぼやの7日後にあたる3月5日、矢部さんと上田死刑囚の間では、貸主を矢部さん、借主を上田死刑囚、連帯保証人を上田死刑囚の同居男性とする金銭借用証書が作成されている。その金額は270万円で、返済期限は同月31日。債務の内容は定かではない部分もあるのだが、矢部さんが上田死刑囚に対し、かなり強く返済を求めていたとみるのが妥当だろう。

しかし、返済期限を4日過ぎた4月4日早朝、矢部さんは上田死刑囚と共に車で日本海に向かったのちに失踪し、1週間後に日本海沖で遺体となって見つかったのである。

矢部さん宅の火災については、上田死刑囚による放火事件として立件されたわけではないが、上田死刑囚と何も関係ないと考える人は少ないと思われる。

◆罪を押しつけられそうになった男性の実家で土蔵が全焼

そして最後の1件の火災は、矢部さんの死の2カ月後にあたる2009年6月9日に起きている。発生現場は、上田死刑囚が当時同居しており、取り込み詐欺を一緒に行っていた男性の鳥取市内にある実家だった。家族が全員外出して留守だった午前10時ごろ、土蔵から出火。けが人はいなかったが、木造2階建ての土蔵は全焼したという。

同居男性の実家で起きていた火災を伝える日本海新聞2009年6月10日の記事

この男性は、上田死刑囚から「金を得るための道具」として使われていた感が否めないこと(2017年8月16日付け当連載記事)や、裁判で上田死刑囚から罪を押しつけられるような主張をされたということ(2017年6月30日付け当連載記事)はすでにお伝えした通りだ。そんな男性の実家で火災が発生したのは、まさに男性が上田死刑囚と一緒に取り込み詐欺を繰り返していた最中のことだ。そのためか、2人を知る関係者からはこの火災についても上田死刑囚の関与を疑う声が聞かれた。

私が男性に取材を申し込んだところ、男性は電話口で「私には生活がありますんで」などと言うばかりで断られてしまったことはすでにお伝えした。しかしそんな中、男性はこの火災について上田死刑囚のことを疑っているのではないかという雰囲気が感じられたのも事実だ。

私は上田死刑囚が最高裁に上告していた頃、この3件の火災について、「すべての火災は上田さんが放火したのではないかと疑っている」と手紙で上田死刑囚に伝えてみたが、上田死刑囚から返事はなかった。

結局、「真相は闇の中」というほかないが、私は1つだけ確信していることがある。それは、上田死刑囚が本当のことを話す日は永遠にこないだろうということだ。

【鳥取連続不審死事件】
2009年秋、同居していた男性A氏と共に詐欺の容疑で逮捕されていた鳥取市の元ホステス・上田美由紀被告(当時35)について、周辺で計6人の男性が不審死していた疑惑が表面化。捜査の結果、上田死刑囚は強盗殺人や詐欺、窃盗、住居侵入の罪で起訴され、強盗殺人については一貫して無実を訴えながら2012年12月、鳥取地裁の裁判員裁判で死刑判決を受ける。判決によると、上田死刑囚は2009年4月、270万円の借金返済を免れるためにトラック運転手の矢部和実さん(当時47)に睡眠薬などを飲ませて海で水死させ、同10月には電化製品の代金約53万円の支払いを免れようと、電気工事業の圓山秀樹さん(同57)を同じ手口により川で水死させたとされた。2014年3月、広島高裁松江支部で控訴棄却、2017年7月に最高裁で上告棄却の判決を受け、死刑が確定。現在は死刑確定者として広島拘置所に収容されている。

▼片岡健(かたおか けん)
1971年生まれ、広島市在住。全国各地で新旧様々な事件を取材している。

「絶望の牢獄から無実を叫ぶ ―冤罪死刑囚八人の書画集―」(片岡健編/鹿砦社)

仮想通貨の宿命──貨幣経済と国家存立の根源を揺るがす「信用」リスク

仮想通貨取引所を運営するコインチェックは1月26日、顧客から預かっていた仮想通貨約580億円分が流出したと発表した。同社にかぎらず各種仮想通過でのマネーゲームをすでに多くの人が利用をしているが、ハッキング等盗難・消失被害を完全には避けられないのが現状だ。

コインチェックHPより
和田晃一良=コインチェック社長(コインチェックHPより)
コインチェックHPより

2016年に成立した新資金決済法の下では、仮想通貨は「物品を購入し、若しくは借り受け、又は役務の提供を受ける場合に、これらの代価の弁済のために不特定の者に対して使用することができ、かつ、不特定の者を相手方として購入及び売却を行うことができる財産的価値であって、電子情報処理組織を用いて移転することができるもの」又は「不特定の者を相手方として相互に交換を行うことができる財産的価値であって、電子情報処理組織を用いて移転することができるもの」と定義されている。

仮想通貨は文字通り「仮想」の通貨、その価値の変動や場合によっては破綻してもそれを担保する責任母体はあくまでも民間企業(あるいはその連合体)であり、その点で各国が発行する一般の通貨とは、原則的に性質が異なる。

電子マネーの普及もますます進んでおり、中国ではスマートフォンを使って、自転車を共用するサービスが数年で主たる都市部に普及したという。過日はアマゾンが米国で無人のスーパーマーケットを開業し、商品を購入に際してレジが無い店舗が運用され始めたそうだ。電子マネーは電車に乗る際に、自動改札の指定された部位に、残高がチャージされたカードをいれた財布やスマートフォンをタッチする方法が、この国でもかなり以前から導入されているほか、各種店舗で利用可能なカードが普及しているので、利用している人にはその使用が日常的になっているだろう。

◆基本性格が異なる仮想通貨と電子マネー

似ているようで、まったく基本性格が異なるのが仮想通貨と電子マネーだ。いまのところ、電子マネーについて、その信用を根底から揺るがすような大トラブルは発生しておらず、今後もますます電子マネーの利用は増加の一途をたどるだろう。悪質なサイバー集団が大手電子マネーの決済に介入し、窃盗や横領を働いたというニュースは聞こえてこない(もっとも電子マネーをチャージしたカードやロックをかけていないスマートフォンを紛失してしまい、それを誰かが拾って使ってしまう、といった程度のトラブルはかなり発生しているようだが)。

他方、仮想通貨につては、冒頭記事でご紹介したように「取引所」の安定性が疑わしく、購入はしたものの換金を求めたら「取引所」が閉鎖されていたり、何者かによって本来は自分が保持しているはずの相当額が、奪われてしまうといったトラブルが頻発している。

仮想通貨を利用される方は、それなりの知識があって仮想通貨の産む、利益(投機性)や利便性を理解されてうえで購入をされているのだろうけれども、いかんせ民間企業が造り出した「仮想の価値」である。大きなトラブルが起きても、金融庁や警察は一応の対処には乗り出すだろうが、にせのお金(贋札や偽硬貨)が発行されたケースのように本気になっての対応は期待できないだろう。

日本の紙幣は極めて高度な技術で印刷されているので、カラーコピーを使ってお札を真似た贋札を作り、摘発される事件がまれにある程度だ。1982年に500円硬貨が発行された直後は韓国の500ウォン硬貨(当時のレートで500ウォンの価値は約50円と大きさが似通っていることから、細工をこらした多量の500ウォン硬貨が自動販売機などで悪用される被害が発生したが、2000年に500円硬貨の形状変更により類似の犯罪は激減した。

◆仮想通貨は何に「信用」を置いているのか?

さて、貨幣(お金)は信用に基づいて流通し、商品やサービスの購入の対価として用いられるが、それは大前提に「信用」があってのことである。仮に正式な国家が発行している通貨でも、その国の信用が低ければ、他国の通貨との交換が拒否されることは珍しくない。今日多くの海外からの旅行者が増え、たとえばみずほ銀行では18の通貨両替を行っているが、30年ほど前に日本国内で正式にタイバーツやインドネシアルピーを両替することはほとんど不可能だった。国同士相互の信頼関係や商取引が増すと信用もそれに連なり上昇してくるのだろう。

そう考えると、仮想通貨はなにに「信用」を置いているのか、という基本的な疑問にぶつかる。そもそも都道府県や市町村が発行する「地域限定」の「振興券」(多くの場合は購入金がよりも多額な価値が付与されている)のほかに、民間企業が「通貨」を発行することが許可されるのだろうか。通貨ではなく「株券」や「上場投資信託」といった名称を用いれば企業が有価証券を発行することは当然認められている。「図書券」、「ビール券」や「お米券」、デパートで商品購入が可能な「商品券」などはかなり昔から販売されていたし、ITunesやネットサービスに特化した有価証券もコンビニエンスストアでも販売されている。それらには安定的に供給されるサービスへの「信用」が基礎にあるので、利用者が定着するのだろう。

仮想通貨はどうやら、まだ「図書券」程度の安定性も確立されていないようだ。新資金決済法での仮想通貨の定義も「これこれができる」と外観を述べているだけで、その信用保証についての言及はない。当たり前だ。国は正式な貨幣を供給する唯一の権限を握っていて、それ以外の有価証券や決済サービスなどが貨幣経済を上回ってしまえば、国家存立の根源に関わる問題になる。その原則を考慮すれば、仮想通貨にはこの先も必ずリスクが付きまとうのは宿命だと考えた方がよさそうだ。

▼田所敏夫(たどころ としお)
兵庫県生まれ、会社員、大学職員を経て現在は著述業。大手メディアの追求しないテーマを追い、アジアをはじめとする国際問題、教育問題などに関心を持つ。※本コラムへのご意見ご感想はメールアドレスtadokoro_toshio@yahoo.co.jpまでお寄せください。

悪徳詐欺の手口を学ぶ研究会『ワルのカネ儲け術―絶対、騙されるな!』(鹿砦社新書002)

NHKスペシャル「未解決事件File 6 赤報隊事件」を観た 松岡利康

1月27日、28日2夜連続で放映されたNHKスペシャル「未解決事件File 6 赤報隊事件」を観た。結論から言えば、期待外れだった。(新)右翼犯行説、宗教団体犯行説は当時からさんざん言われたことで目新しい事実はなかった。宗教団体犯行説、途中で上層部から取材打ち切りの指示が出たが、なぜ打ち切りなのか、それ以上の追求はなかった。新たに判ったことは、デジタル的手法を駆使して、幾つか出ている犯行声明文がおそらく同一人物によって書かれたのではないかということぐらいだろうか。国営放送という制約があるのかもしれないが、ここでは具体的には言わないが、もっとディープな取材が欲しかったところだ。

NHKスペシャル「未解決事件File 6 赤報隊事件」

「赤報隊事件」とは、1987年5月3日、憲法記念日、兵庫県西宮市に在る朝日新聞阪神支局が「赤報隊」と称する何者かによって銃撃され、小尻知博記者が死亡、犬飼兵衛記者が重傷を負った事件で、その後も名古屋支局寮、静岡支局などが攻撃されている。

当時から「言論への挑戦」と叫ばれ続けて来たが、時効を迎え、今に至るも未解決のままだ。もう31年も経ったのかと溜息がする。

27日放映ではドラマ仕立てで、樋田毅記者が主人公的存在で、草彅剛が演じている。樋田毅という名は実名で、脇役的存在の辰濃哲郎記者も実名だ。実はこの2人の記者に私も取材を受けている。辰濃記者には本も貸している。朝日新聞にはあと2人、計4人の記者に取材を受けた。他社の記者にも取材を受け、合計23人の記者に取材を受けていると第二弾の『謀略としての朝日新聞襲撃事件』に記載されているが、さらにその後も新たに数人の記者の取材を受けていることも記録されている。そうした中のひとりで当時毎日新聞の阪神支局にいた鈴木琢磨記者は、その後、『サンデー毎日』記者、編集委員となり、朝鮮問題専門家としてテレビでもたびたび登場している。

なぜ、私がこれほど多くの記者に取材を受けたかというと、前年に、28日の放映分にも登場している鈴木邦男氏が主宰する新右翼団体「一水会」の機関紙『レコンキスタ縮刷版1‐100号』を出版し、鈴木氏、及び周囲の新右翼関係者との関係を聞き出したかったからだろうと思われる。鈴木邦男氏とは、その数年前、当時装幀などを担当してくれていたFさんの紹介で知り合い、その頃、鈴木氏や配下の木村三浩氏は新右翼の超大物・野村秋介氏についてよく来阪していたが、それに同席させていただき、野村氏との知己も得た。

私は1977年に西宮に来て、85年から独立し西宮にて事務所を構えていた。阪神支局には自転車で15分くらいの位置にあった。鈴木氏は以後、私が以前に新左翼党派「赤報派」(RG[エルゲー]とも言われていた)と接触があったことを針小棒大に面白おかしく採り上げ、雑誌『Spa!』の連載で「爆弾の松岡」とか揶揄し、あたかも私が赤報隊であるかのような書き方をしている。

『テロリズムとメディアの危機 朝日新聞阪神支局襲撃事件の真実』(1987年)

私は地元西宮で起きた事件でもあるので、この「デジタル鹿砦社通信」管理人&『NO NUKES voice』編集長の小島卓君と共に、私たちなりに取材を始めた。それは『テロリズムとメディアの危機--朝日新聞阪神支局襲撃事件の真実』として緊急出版された。この際、2人で朝日阪神支局に取材に赴いたところ、けんもほろろ追い返された記憶がある。朝日は、大衆に対しては上から目線で取材を求め、逆に私たちのような小出版社からの取材に対しては拒絶する体質のようだ。これは今も続いている。朝日からは、のちの「名誉毀損」に名を借りた出版弾圧事件などたびたび煮え湯を飲まされたが、ここでは触れない。

私が一番違和感を覚えたのは、自社の記者が殺されたにもかかわらず、朝日主催の夏の地元・甲子園球場(意外と間違う人が多いが、甲子園球場は西宮に在る)で行われた、その年の高校野球で黙祷の一つもなかったことだ。阪神支局の方々は、この時期、高校野球の取材などに忙殺されるというが、この時の支局の方々の気持ちはいかばかりだったろうか。

その後、不思議なことに、1年ほどしたら、阪神支局員全員が他の部署に異動している。記憶が曖昧だが、大島支局長はどうだったか、おそらく最後に異動したと思う。

「警察よりも早く犯人をあげる」と意気込み事件取材を指揮していた柴田鉄治大阪編集局長の更迭→関係会社への異動は特に首を傾げさせる出来事だった。

『テロリズムとメディアの危機』は、私にとっても初めて、身近で起きた現実の事件についてまとめた本だし、小島君もそうで、初めて2人で作った本だ。日本図書館協会、全国学校図書館協議会の推薦図書にもなった。赤報隊事件から31年なら、小島君との付き合いも31年ということになる。このかん、いろいろなことがあったな。

西宮には、この前に「グリコ・森永事件」(1984年)があり、もっと前になるが「甲山事件」(1974年)があった。私にとってこれら3つの事件は、小なりと雖も出版人としては生涯の関心事だ。いつか現場や関係箇所を歩き回り、一冊にまとめてみたい。

当時から言われた「言論への挑戦」、果たしてこれに対し(朝日を含め)どれだけのメディアと報道人が体を張って闘っているだろうか? 大いに疑問だ。「言論への挑戦を許すな」と言うのは簡単だ。しかし、大事なのは日々どういうスタンスを持って言論活動に携わっているかだろう。権力のポチになっていないか!? 脚下照顧、あらためて反省しなければならない。

『謀略としての朝日新聞襲撃事件 赤報隊の幻とマスメディアの現在』(1988年)

久し振りに、上記に挙げた『テロリズムとメディアの危機』、そして続刊の『謀略としての朝日新聞襲撃事件』を紐解いてみた。31年前の目まぐるしい事件の転回や、私たちなりに真正面から事件に取り組んだことなどが想起された。

まだメジャーになる前の高野孟氏と、まだ共同通信記者時代の浅野健一氏が対談をやっている。高野氏は、グリモリ事件同様「日本の中での関西特有の一種の地下構造というものとの繋がりのところで出て来てる問題」と指摘している。他にも、多くの方々が質問に答えてくださっている。かの奥崎謙三氏もいる。

おそらく朝日上層部や、樋田記者ら特別チームは、当時の大島次郎(故人)支局長にもかなり詳しく話を聞いているはずだから、大島証言がなぜ公にならないのか不思議でならない。このように、朝日は本当に取材した情報をどれだけ公にしたのだろうか? これは当時から他社の記者も言っていることで、朝日の秘密主義が問題の解決を遅らせた、いや、今に至るも未解決のままに至らしめたといえないだろうか?

思い返せば、朝日新聞阪神支局襲撃事件以来、言論をめぐる情況は変わった。大きく変わったことは、メディア自身の委縮、知っていながら報道を控えることではないだろうか。

かの本多勝一氏でさえ、事件の同年末で、月刊『潮』で連載していた「貧困なる精神」を「さらに厳しい自粛令が改めて出ましたので、忠実なサラリーマンとして私はこれに従います」として連載を打ち切った(その後、本多氏は朝日を退社し『週刊金曜日』を起ち上げるのだが、在社中に徹底抗戦してほしかったところだ)。こうした意味では、この事件は、赤報隊の「言論への挑戦」という目的を、はからずも果たしたといえよう。遺憾かつ残念なことだ。

2018年もタブーなし!月刊『紙の爆弾』2月号【特集】2018年、状況を変える
『NO NUKES voice』14号【新年総力特集】脱原発と民権主義 2018年の争点

権力の闇を暴く!「盛一国賠訴訟」へご支援、ご協力を!

◆ はじめに
 
2016年9月、大阪市西成区の居酒屋「集い処はな」で桜井昌司さん(布川事件の冤罪被害者)のお話を聞く会を開催しました。小柄な桜井さんは、店の奥で立ったまま話されました。その姿が店の外から見えたのか、途中40代半ば、ラフな短パン姿の見知らぬ男性が突然入ってきて「さくらいさん、ですよね」と確認するように尋ねてきました。それが盛一さんと桜井さんが出会うきっかけとなりました。

男性は石川県出身の盛一克雄(もりいちかつお)さん(47才)と自己紹介し、自分も刑事事件で有罪判決を受けたが冤罪であること、桜井さんのように再審で無罪を勝ち取りたいと熱心に訴えました。有罪判決を受けたあと、職も家族も失い、また地元に居辛いいため、ときおり西成(釜ヶ崎)の安宿に泊まり、1日中、冤罪関連の書籍を読んだりし、どうやって再審を闘えばいいか考えていた。

店の前を通った直前も桜井さんのインタビューの動画を視聴していたため、桜井さん本人に会えたので非常に驚いたと興奮気味に話し、桜井さんに協力して欲しいと訴えました。その後、和歌山カレー事件や狭山事件など冤罪事件を支援する仲間、桜井さん、青木恵子さん(東住吉事件の冤罪被害者)とともに「盛一国賠訴訟を支援する会」を作りました。

盛一さんのデッチ上げ事件発生からこれまでの経緯をまとめました。

◆ 覚せい剤事件のでっち上げと検面調書の非開示
 
2014年3月19日、盛一さんの自宅などに石川県警の家宅捜索が入り、盛一さんは覚せい剤譲り渡しの疑いで逮捕されました。

しかし盛一さんの自宅、会社、盛一さん所有の車両などから覚せい剤は見つからず、覚せい剤譲り渡しについては不起訴となりました。そのご、逮捕後の尿検査で覚せい剤の陽性反応が出たとして覚せい剤使用で再逮捕となりました。

盛一さんは覚せい剤譲り渡しも覚せい剤使用も身に覚えがないため、逮捕後ずっと「やっていない」と否認を続けていました。そのため、接見禁止(弁護士以外は面会できない。のちに母親も許可)のまま400日も拘留され続け、その間に妻や子どもとは離別を余儀なくされ、また盛一さんが代表を務めていた木材会社を失う羽目となりました。

盛一さんは、自分がなぜやってもいない事件をでっちあげられたかを知るため、公判前整理手続きで検察の持つ証拠を開示させました。まず初めに、盛一さんが逮捕される約10ケ月前、覚せい剤使用で逮捕、起訴、のちに有罪判決を受けたA(女)の「員面調書」(警察署で作成される調書)が開示されました。そこには「盛一がB(男。Aの恋人)に覚せい剤を売り渡す場面を2回見た」と書かれていました。しかし盛一さんはAに1回しか会っていないし、Bに覚せい剤を売り渡してもいません。そこで次に盛一さんは、Aの「検面調書」(検察庁で作成される調書)の開示を求めましたた。すると担当検事は「Aが拒んだから、Aの検面調書は存在しない」と返答してきました。

◆「検面調書は存在しない」は検事のウソだった

2015年4月23日から始まった盛一さんの公判で、盛一さんはAを証人として呼びました。そこでAは「盛一さんとは1回しか会っていない」と員面調書の内容(盛一と2回会った)を否定し、「検面調書を拒否した事実はなく、検察庁で検面調書を作成した」と驚くような証言をしました。

しかし残念なことに、2015年5月1日、盛一さんは金沢地裁で有罪判決(懲役2年、執行猶予4年)を受け、すぐに控訴しましたが、2015年10月15日、名古屋高裁金沢支部は控訴を棄却し、有罪判決が確定しました。

納得できない盛一さんは、2016年3月、Aの訴訟記録を閲覧し、そこでAの検面調書が存在していたことを知り、うち3通を入手しました。これを手掛かりに何とか無実を証明出来ないかと考えた盛一さんは、今回の国家賠償請求訴訟を起こし、闘いの一歩を踏み出しました。

そして2017年11月24日、金沢地裁で、盛一克雄さんを原告とする国家賠償請求訴訟が始まりました。

この訴訟は前述したように、2014年、盛一さんが覚せい剤使用で逮捕、起訴され有罪判決(懲役2年、執行猶予4年)を受けた刑事事件について、実際には存在した証拠の開示を求めていたものの、担当検事により「存在しない」とされたため、盛一さんの防御権の行使が妨げられたとして、国家賠償法に基づく損害賠償請求をするものです。

◆ 事件の本質は「警察の闇」を知る盛一さんへの口封じ
 
では、なぜ盛一さんは、こんな酷い目にあうのでしょうか?

実は盛一さんは、若い頃、石川県警の捜査協力者をやらされていた過去があります。警察署で、何も書かれていない真っ白な調書に署名、捺印させられたことが何度もありました。石川県警は盛一さんの署名、捺印した真っ白な調書で虚偽の調書を作成し、それを第三者の逮捕状や家宅捜索連所を請求するときの資料としたと考えられます。

しかし、ある暴力団の抗争に使われた拳銃が、石川県内の某所にあるとして家宅捜索された事件で、盛一さんが署名、捺印した調書が使われたことがあり、その裁判の過程で盛一さん自身が証人として呼び出されそうになったことがありました(結果は中止となりました)。

盛一さんは自分を危険な目にあわせる石川県警に抗議するとともに、以降警察との関係を断つようになりました。また、自分が行ってきたことは間違いと気づき、後日、周囲に「覚せい剤事件などで警察は虚偽の調書を作成して、裁判所から令状を発布させることが多くある」と話したりしました。このような、警察が最も隠したいことを、他人に漏らした盛一さんを口封じする目的で、今回の「逮捕」があったのではないでしょうか。

なぜそう考えるのか? じつは、盛一さんが逮捕後、連行された警察署内の取り調べ室で、扉越しに「バーカ、アホがっ!」と怒鳴る刑事がいました。盛一さんが過去に警察の協力者をやっていた際、何度も飲食をともにした刑事です。

盛一さんは、かつて警察の捜査協力者であったことを深く反省するとともに、警察の違法な捜査や検察の証拠隠しで冤罪が作られることを断じて許してはならないと考え、闘いの一歩としてこの国賠訴訟を起こしました。

この闘いには、冤罪被害者である桜井昌司さん、青木恵子さんも支援を表明され、第一回口頭弁論後の記者会見で桜井さんは「盛一さんの事件は、私や青木恵子さんの無期懲役事件とは違い小さな事件のようだが、警察、検察の証拠隠しを追及する非常に重要な闘いだ。今後も支援していきたい」と述べています。

全国のみなさまにも、この盛一国賠へのご支援とご協力を強くお願い申し上げます。

尾崎美代子(「盛一国賠訴訟を支援する会」事務局)

◎次回裁判◎
2018年2月2日(金)午前11:00~ 金沢地裁第202法廷

裁判終了後「味噌蔵町公民館」(金沢市兼六元町7番19号)で、
桜井昌司さん、青木恵子さん同席での「報告会」を予定しています。
こちらへもぜひご参加ください。

 

◎[参考動画]桜井昌司、青木惠子が冤罪仲間の盛一克雄の支援を表明(寺澤有2017年11月25日公開)
※この裁判にはジャーナリスト寺澤有さんも支援して下さり、2017年11月24第一回口頭弁論後、味噌蔵町公民館で開かれた記者会見を取材し、YouTubeに上記の通りアップされています。視聴してください。

「絶望の牢獄から無実を叫ぶ ―冤罪死刑囚八人の書画集―」(片岡健編/鹿砦社)
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『NO NUKES voice』14号【新年総力特集】脱原発と民権主義 2018年の争点