「#出版物の総額表示義務化に反対します」運動 ── 騒いだ人たちは消えていく案の定な展開に…… 片岡 健

4月1日から商品やサービスについて、消費税込みの価格を示す「総額表示」が義務化されたが、案の定な展開になっている。昨年秋頃、ツイッター上で「#出版物の総額表示義務化に反対します」というハッシュタグをつけるなどして騒いでいた人たちがいつのまにか、どこかに消えてしまっているのだ。

彼らは当時、「出版物が総額表示を義務化されると、消費税率変更の際にカバーの刷り直しや付け替えを余儀なくされ、少部数の本が絶版になったり、小さな出版社が潰れたりする恐れがある」などと危機感をあおっていたはずだ。しかし、いつのまにかフェイドアウトしてしまったのは、実際はそこまで心配する必要のない話だと気づいたからだろう。

一体、いつまでこういうことを繰り返すのだろう……と私は正直、げんなりせずにいられない。過去にも同じような例をたびたび目にしてきたからだ。

日本書籍出版協会と日本雑誌協会はHPで出版物の総額表示に関するガイドラインを発表した

◆思い出される「ぼったくり防止条例」や「裁判員制度」が始まる時の騒動

たとえば、思い出されるのが、2000年に東京都が全国で初めて、性風俗店や飲み屋でのぼったくり防止条例を施行した時だ。これは当時、新宿・歌舞伎町などで酷いぼったくり事件が相次ぎ、社会問題になっていたのをうけて作られた条例だった。

この条例が施行される前、メディアでは「有識者」たちが条例の不備を色々指摘し、「こんな抜け穴だらけのザル法では、悪質なぼったくり業者は取り締まれない」と読者や視聴者を不安に陥れるようなことを言っていたものだった。

だが、実際に条例が施行されると、新宿、池袋、渋谷、上野という規制対象地域の路上からは、風俗店や飲み屋の客引きが一斉に姿を消した。条例ができた効果により、ぼったくり業者が激減したわけである。私は当時、歌舞伎町のぼったくり業者にそうなった事情を取材したが、彼はこう説明してくれた。

「条例に不備があろうが、ザル法だろうが、そんなのは関係ない。ああいう条例ができたということは、お上が『これからはぼったくり業者を厳しく取り締まる』という意思表示をしたということだから。そうなれば、俺たちはこれまで通りの商売を続けるわけにはいかない。警察がその気になれば、法律なんか関係なく誰だって捕まえられるんだから」

私はこの説明を聞き、深く得心させられた。警察に理屈など通用しない。この現実を知っているぼったくり業者たちからすれば、メディアに出てくる「有識者」たちが解説する「条例の抜け穴」など机上の空論に過ぎないわけである。そして机上の空論で騒ぎ立てていた「有識者」たちは何事も無かったように消えていった。

2009年に裁判員制度が施行された時も同じようなことがあった。制度の施行が間近に迫った時、またメディアでは「有識者」たちが、「裁判員の呼び出しを拒んだら罰則があるというのでは、苦役の強制であり、徴兵制と同じだ」とまで言って、読者・視聴者の不安を煽ろうとしていた。

しかし実際に制度が始まってみると、裁判員の呼び出しを辞退する人はいくらでもいるし、それで罰せられた人がいたという話はまったく聞かない。私はこれまで様々な裁判員裁判を取材し、判決後にある裁判員たちの会見にも出席してきたが、裁判員たちは「参加して良かった」「良い経験になった」と前向きな感想を述べる例が多いのが現実だ。

そしていつしか、裁判員裁判について「徴兵制と同じだ」とまで言っていた「有識者」たちはどこかに消えてしまったのだった。

◆権力に物申す「言論」というのは結局……

そしてまた今回の「#出版物の総額表示義務化に反対します」騒動である。書店に並んだ書籍は4月1日以降もそれ以前と変わらず、新旧の価格表示が混在したたままだが、それで何か問題が起きたという話はまったく聞かない。出版社側も帯やスリップに消費税込みの価格を表示することで、今後消費税率が変わってもカバーの刷り直しや付け替えはせずに済むようにして、事足りているようである。

こうしてこの問題について不安を煽り、騒いだ人たちはどこかに消えてしまったのである。

誰もがそうだというわけではないが、権力に物申すのが好きな人たちの中には、事実関係をほとんど調べず、思い込みだけでものを言っている人が少なくない。「#出版物の総額表示義務化に反対します」と声高に叫んでいた人たちは、そのことを改めて証明した。今後も新しい制度や法律ができるたび、彼らは懲りずに同じ行動を繰り返すはずなので、しっかり観察させてもらいたい。

▼片岡 健(かたおか けん)
全国各地で新旧様々な事件を取材している。近著に『もう一つの重罪 桶川ストーカー殺人事件「実行犯」告白手記』(著者・久保田祥史、発行元・リミアンドテッド)など。

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眞子内親王の結婚の行方 皇室の不協和こそ、天皇制崩壊の序曲 横山茂彦

「天皇制はどこからやって来たのか」なる連載記事を続けていると、こいつは天皇主義者なのではないか、と思われるかもしれない。じっさい、反天皇運動をまめに行なっている人たちほど、自嘲気味に「わたしたち、天皇の追っかけですから」(筆者の知人)などと言うものだ。国体開会式や植樹祭へと、天皇追っかけはいまも忙しいという。アンチジャイアンツ(反巨人・反読売)が、最も熱心な巨人ファンなのだという真理に、それは近いものがあるといえよう。

というわけで、単に天皇制廃絶のスローガンを唱えていれば事成れりという反天皇主義者には鬱陶しいいかもしれないが、引きつづき皇室の崩壊的な危機を解説していきたい。ほかならぬ秋篠宮家の眞子内親王の結婚についてである。皇室の民主化・自由化こそが、ほかならぬ天皇制の崩壊への序曲だということを念頭に。

 
小室圭が4月8日に発表した母親と元婚約者の男性の金銭問題に関する説明文書に添付された「文書の概要」

◆小室圭が文書を発表

今年4月8日、小室圭はA4版で24ページにもおよぶ文書を発表した。4ページの「文書の概要」が添付され、「世の中で出回っている金銭トラブルと言われている事柄に関する誤った情報をできる範囲で訂正する」としている。その全文は多数のメディアが公開しているので、参照いただだきたい。

◎NHK(HTML版)
◎東京新聞(PDF版)

「元婚約者の方から『返してもらうつもりはなかった』という明確なご説明」について、小室は今回の文書に以下の音声証拠を添付している。

元婚約者「返してもらうつもりはなかったんだ」
母   「そんなのってあるの?」
元婚約者「いやあ、あるんですかねって、だってその時はだって…」
母   「だってあるんですかねってそんなの不思議。そういう方と出会ったことがないから。そう」
元婚約者「うん。返してもらうつもりは全くなく…お金出してましたよ」

西村泰彦宮内庁長官は、この小室圭が公表した文書について高く評価した。

「非常に丁寧に説明されている印象だ」
「小室さん側と元婚約者との間の話し合いの経緯についても理解ができた」

この高評価を理解するには、問題の経過を確認しておく必要があるだろう。


◎[参考動画]「誤った情報を訂正する」小室圭さん4万字の反論文(ANN 2021年4月9日)

◆婚約と小室母子の借金問題

眞子内親王と小室圭は、2017年に婚約を発表した。翌18年には納采の儀(結納)を行ない、帝国ホテルで結婚式を挙げる予定であった。

ところが17年の年末に横やりが入った。小室の母親・佳代に400万円の借金があることが週刊誌で報じられたのである。元婚約者から返済を迫られているのに、それを無視していると。

さて、その元婚約者は、70歳ほどの元外資系のビジネスマンで、佳代の借金が返済の必要があるのかどうか。両者の見解は対立した。善意で融通したものなのか、返済すべきカネなのか。

この問題をめぐって、秋篠宮から「国民が納得がいくように問題が解決しないかぎり、納采の儀は行えない」と、結婚への道が閉ざされていた。

これで小室は「汚れた貴公子」として、面白おかしくメディアにバッシングされることになる。アメリカの留学先での私生活や、高校時代に行なったイジメまで暴かれる始末だった。

昨年11月、ふたたび秋篠宮から「娘の結婚は、親として承認したい。今までの経緯とかそういうことも含めてきちんと話すということは、私は大事なことだと思っています」と、小室と眞子内親王に対して説明責任をもとめた。

憲法に定められた両性の同意にもとづく婚姻の自由に則った発言であり、宮内庁は公式にこれを追認した。

いっぽう天皇制護持派は、皇族に婚姻の自由はないと、これに反対した。以下は自民党伊吹文明元衆議院議長の「苦言」である。

「(秋篠宮の)父親としての娘に対する愛情と、皇嗣という者のお子様である者にかかってくるノブレス・オブリージュ(高貴な者の義務)としての行動と両方の間の、相剋のような、つらい立場に皇嗣殿下(秋篠宮)はあられるんだなと思った」
「小室さんは週刊誌にいろいろ書かれる前に、やはり皇嗣殿下がおっしゃってるようなご説明を国民にしっかりとされて、そして国民の祝福の上に、ご結婚にならないといけないんじゃないか」

さらに伊吹文明は、法律論にも踏み込んで、ふたりの結婚そのものに疑義をとなえる。

「国民の要件を定めている法律からすると、皇族方は、人間であられて、そして、大和民族・日本民族の1人であられて、さらに、日本国と日本国民の統合の象徴というお立場であるが、法律的には日本国民ではあられない」

皇族は日本人であるが、国民ではないと明言するのだ。だが、皇族が国民ではないことと、国民としての権利がないことは、果たして同じなのだろうか。伊吹の守旧的な皇室観に、少なからぬ国民が反発したのはいうまでもない。かえって眞子内親王の結婚を擁護する流れが出てきた。いっぽうで、結婚一時金は辞退してほしい、小室圭は皇族の結婚相手にふさわしくないなどと、反対論も根強い。

今年2月には令和天皇が、誕生日を前にした会見で以下の発言をしている。

「眞子内親王の結婚については、国民の間で様々な意見があることは私も承知しております。このことについては、眞子内親王が、ご両親とよく話し合い、秋篠宮が言ったように、多くの人が納得し喜んでくれる状況になることを願っております」。

今回の宮内庁長官の高評価は、秋篠宮の昨年の「結婚承認」発言をうけて、小室圭が法律論を駆使しながら、それなりに説明したことの評価。すなわち秋篠宮の気持をおもんぱかってのものに他ならない。

なぜならば、今回の文書は秋篠宮家の側近から8日の午前中に、西村長官に渡されたものだからだ。つまり秋篠宮の「諒解」を受けて、国民のなかにわだかまる「小室は皇室の家族にふさわしくない」という空気をやわらげる目的なのである。

そこには、眞子内親王の公務への高い評価があるという。皇室・皇族・宮内庁ともに、過酷なスケジュールをこなす内親王の献身的な務めに、何とか報いてやりたいとの思いがあるようだ。

上掲の小室文書を読んで、わだかまりが解けるかどうか。国民感情がやわらぐかどうかは、下記の概要を読まれた読者にお任せしたい。下記は週刊誌報道から、実際の両者のやり取りをまとめたものだ。


◎[参考動画]眞子さまがコメント発表 小室圭さん“文書公表”に関して(日テレ 2021年4月9日)

◆借金露見後の週刊誌報道から

週刊誌報道をもとにした、小室家の借金問題を再録である。

元婚約者はもともと、小室敏勝(小室圭の亡父)の友人だった。小室佳代とは共通の知人が開いた会で知り合い、意気投合して交際に発展したという。数年の交際を経て、2010年に婚約している。

小室の進学先を相談したり、休日には旅行したりと良好な関係を築き、順調に交際していたという。そして婚約以降の小室佳代は、元婚約者にたびたびお金の無心をするようになっていく。

公開されたメールから、その様子はあきらかだ。

「申し訳ありませんが当分の生活費をお借りしても良いでしょうか」
「振込みはみずほで結構(みずほのカードしか持っていない)です。とりあえず10万円程お願いできますか。いつも助けて頂くばかりで感謝ですm(_ _)m」

そして、ことあるごとに「今月、ヘルプしてください」と電話があり、10万円、30万円といった単位のおカネを要求されたという。

国際基督教大学入学の初年度の入学金と年間授業料、大学3年生の時にアメリカ留学をした費用200万円、アナウンススクールの授業料も元婚約者が工面していたという。これが総額409万3000円である。

佳代のメールには「お借りしても」と、明確に借金の申し入れになっている。2010年9月に婚約したとき、小室家の収入は母親のケーキ屋のパートが月12万円に、遺族年金が月9万円だったという。
つぎは元婚約者の告白である。

「佳代さんは私のことを『パピー』と呼んでいましたが、私には、彼女に対する愛情はほとんどなかった。手も一回しかつないだことはないし、キスすらしていません。」(週刊女性)

「婚約したのは、圭君に対する気持ちのほうが大きかったかもしれません。佳代さんはしょっちゅう『圭ちゃんがこの先、父親のいない母子家庭だと言われ続けるのがかわいそう。肩身の狭い思いをしないためにも、誰かいい人が父親になってくれないかしら』と、言っていました。その言葉を受けて、父親代わりになろうと考えたのです。」(前出)

「退職金で購入した約570万円のジャガーは私の愛車でした。圭君のアメリカ留学時も、この車で成田まで送りましたし、ICUに迎えにいったこともあります。さんざん足代わりとして使われましたが、最終的には売りに出さなくてはならなくなりました。家のローンも支払えず、引っ越しするハメになりました。」(前出)

2年間つづいた婚約を解消したあと、元婚約者は「貸したおカネを返してください」と手紙に書いて送ったが、なしのつぶてだった。2013年夏のことだ。

別の週刊誌報道では、「今まで貸していた金を返してほしい」と伝える元婚約者に対し、小室佳代は「月に1万円ずつしか返せません」と、最初は返す意思を見せていたとある。

その後、小室母子が自宅にやって来て、弁護士と相談のうえの手紙を手渡したという。その文面には、こうあったという。

「409万3000円は小室佳代が貴殿から贈与を受けたものであって貸し付けを受けたものではありません」

「一方的(婚約)破棄により精神的に傷を負っております。それに対し謝罪もそれに対する保証も無い」

概要は以上である。読者諸賢の感想は、いかがであろうか。

ちなみに最新号の「週刊文春」では、小室圭本人よりも母親の佳代が皇室の親戚になることを、紀子妃が「拒否感」をつよく抱いているという。

これまでにも、佳代には暴力団とのつながり(夫の死後、実家に組員を差し向けたなど)や息子への溺愛が報じられてきた。当面はマスコミによる、この母親叩きがつづくことを予告しておこう。その母親・佳代のひととなりについても、この通信で詳報していきたい。(文中敬称略)

◎[カテゴリー・リンク]天皇制はどこからやって来たのか

▼横山茂彦(よこやま・しげひこ)
編集者・著述業・歴史研究家。歴史関連の著書・共著に『合戦場の女たち』(情況新書)『軍師・官兵衛に学ぶ経営学』(宝島文庫)『闇の後醍醐銭』(叢文社)『真田丸のナゾ』(サイゾー)『日本史の新常識』(文春新書)『天皇125代全史』(スタンダーズ)『世にも奇妙な日本史』(宙出版)など。

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「西成」「釜ヶ崎」をネタにして稼ぐ人たちと、野宿者を排除して進むジェントリフィケーション・ビジネス ── 差別と暴力を覆い隠して、何が「来たらだいたい、なんとかなる」だ! 尾崎美代子

◆「西成」は売れる?

最近、西成(ここでは「釜ヶ崎」界隈を示す)で動画を撮影するYouTuberが増えている。有名(?)YouTuberに紹介され客が増えたと喜ぶ店がある一方、他の客の顔を撮られては困ると断る店もあるようだ。店の紹介だけでなく、公園で酒盛りする人やセンター周辺の野宿者の生活を面白可笑しく撮るものも多い。刺青を堂々と見せる人、ムショ帰りと話す人、泥酔してクダをまく人……西成には様々な経歴、過去をもつ人、ひと癖もふた癖もある人が多いが、それはこの街がどんな人をも受け入れる懐の深さがある証拠だ。

しかし、そうした人たちを撮って視聴数を伸ばし、広告代を稼ぐYouTuberは、彼らに動画をYouTubeにアップすると説明したり、許可を得ているのだろうか。実際、動画に映る人に聞くと、知らないという人もいるが、問題はないのだろうか?

◆暴力野郎が「平和を守ろう」というようなもの

こうした一部のYouTuberと同様に、この町の人情味の厚さや懐の深さを利用しながら、センター解体と新たなまちづくりを進めようとしているのが、大阪維新の「西成特区構想」だ。

大阪市は3月30日、センター解体後の跡地の利用計画について、新たな戦略を発表した。資料には「新今宮エリアの魅力が認知され、訪れて楽しいエリアになるようなイメージ向上を図るにあたり、新今宮の魅力を伝える新たなコンセプト『新今宮ワンダーランド』と、キャッチコピー『来たらだいたい、なんとかなる』を参詣曼荼羅(さんけいまんだら)をイメージしたポスターや、人気スポットを紹介したリーフレット、WEBサイトで積極的に展開していきます」とある。

西成は「不思議の国」「おとぎの国」「ワンダーランド」か?! 福島から始まった聖火リレーで、「踊って楽しもう! イエーイ!」と白けた演出でひんしゅくを買った電通の考えそうなことだ。

それにしても何が「来たらだいたい、なんとかなる」だ。これまでは確かにそれが出来た。日雇労働者の寄り場であり、生活に困窮した人が「あそこに行ったらどうにかなる」と目指してきたのが、JR新今宮駅前にどんと構える「あいりん総合センター」(以下センター)で、そこに行けば、仲間と会え、仕事も見つかり、飯を安く食え、仲間とワイワイ騒ぎ、洗濯も出来てシャワーが浴びられ、娯楽も楽しめる……それこそ「来たらだいたい、なんとかなる」だった。

もちろんセンターだけでなく、町全体も。しかし今、その肝心要のセンターを暴力的に閉鎖し、周辺の野宿者を強制的に立ち退かせようとしているのが、大阪市だ。センター解体したあとの広大な跡地でひと儲けを企む連中が、何が「来たらだいたい、なんとかなる」だ。遅筆で有名な大作家が、原稿を急かされるたび奥さんをボコボコに殴り逃げられ、DVの事実を暴露されるや、「憲法9条を守ろう」「平和を守ろう」と叫ぶようなものだ。

「新今宮ワンダーランド」のHPより

◆西成の魅力の上っ面を掠め取るジェントリフィケーション

神戸大准教授の原口剛さんは、現在西成で進められるジェントリフィケーションについて、先の強制排除など直接的な排除のほかに、家賃や土地の値段が上がることで住みにくくなることや、街の雰囲気が変わることで、長く住んでいた人たちが住みづらくなる「雰囲気による排除」があると指摘する。

そして、この「雰囲気による排除」にかかわる重大な問題として、「たんに『人情がなくなる』のではなく、一方で『人情』がやたらと強調されたり演出されたりしながら、他方で人情が潰されていくという事態」が起こり得るとし、肝心なのは「生きられる人情」と「売りになる人情」の違いであると指摘する。

「そもそも『人情』というのは、センターで労働者が集まって日常を過ごすとか、そういったことも含めて、いろいろな生活の営みの中で、じっくり長い時間をかけて培われてきたものです。これに対してジェントリフィケーションというのは、実は何ひとつ発明することができない。例えば『人情』の上澄みだけ吸い取って、それを商品化して『下町らしさ』というパッケージにして売り出すということです。そうして『売りになる人情』へと仕立てながら、そもそも『人情』を生み出した担い手を追っ払ってしまう」と。

ここ数年「釜ヶ崎」や「西成」「人情」「下町らしさ」を売りにした店が増えるなか、原口氏が「言葉にならない叫び」と呼ぶ暴動さえ「「西成ライオット(暴動)ビール」として売りに出されるようになった。しかし、そこからは確実に一部の人たちが排除されていることを忘れてはならない。

街中に建てられたおしゃれ過ぎる建物

◆消されていく西成の臭いと色

私の店は西成の真ん中を南北に走行する阪堺電車というチンチン電車のガード近くにあるが、かつてそこは「ションベンガード」と呼ばれていた。ガード脇に公衆トイレがあるからか、ガード脇のニセアカシアの木のそばで立小便をする人が多かったからか……。

ポスター剥がされ落書き消され、真っ白にされたションベンガード
「街をカラフルに」と描かれた壁画。良く見ると野宿出来ないようになっている

ガードの両壁にはかつて「狭山闘争に決起しよう」だの「86春闘に勝利しよう」などのポスターが貼られたり、「ケタオチ飯場○○」と、悪質業者の名前が落書きされていた。壁からポスターが剥がされ、落書きが消され、ペンキで真っ白に塗られたのは数年前だ。倒れそうなニセアカシアの木も切られ、あたりはすっかり様変わりしてしまった。町中の足立酒店の自販機も撤去され、道端で酒盛りする人も減り、西成警察署裏の屋台が撤去され、屋台の客からホルモンを貰い、肥え太った野良犬もいなくなった。この町特有の臭いや色が徐々に消されてきた。

西成出身のラッパー・SHINGO★西成が「町おこし」のため手がけた南海電鉄の壁に描いたアートな壁画はペンキ代を募り、子どもらと描いたのに、南海電鉄高架下の一角はセンター仮庁舎を作るため無残に解体された。「白黒な街を虹色の街に」と謳っていたが、SHINGOちゃん、西成の労働者が黒やグレー、カーキ色を好んで身に着けるのは、建設現場で油や汗や汚れても、汚れが目立たないためでもあるし、生活保護費削減で、洗濯や風呂の回数減っても、何日も同じ服着ていられるからでもあるんやで。

同上

◆差別と暴力を覆い隠すミヤシタパークの「西成チューハイ」

 
渋谷の宮下公園に関する、ねる会議さんのツイート(2020年8月13日付)

野宿者を暴力的に排除して作られた東京渋谷の「MIYASHITA PARK」では「西成チューハイ」なるものが「売り」に出されているという。記事を見ると、別々に出された焼酎と炭酸を自分で割って飲むというスタイル……それって西成で有名な立ち飲み屋難波屋から始まった難波屋チューハイではないのか。しかし、難波屋でも釜ヶ崎でもなく、なぜか「西成チューハイ」とネーミングされ売りにだされている。

ここにもさんざん野宿者を暴力で叩き出し、さらに中に入れる人と入れない人を差別的に分けながら「でもぼくには西成に知り合いがいる」(「I have black friends」)と言うような胡散臭さが見て取れる。もう一度言おう! 野宿者を暴力で叩き出しながら、何が「来たらだいたい、なんとかなる」だ!

▼尾崎美代子(おざき みよこ)
新潟県出身。大学時代に日雇い労働者の町・山谷に支援で関わる。80年代末より大阪に移り住み、釜ケ崎に関わる。フリースペースを兼ねた居酒屋「集い処はな」を経営。3・11後仲間と福島県飯舘村の支援や被ばく労働問題を考える講演会などを主催。自身は福島に通い、福島の実態を訴え続けている。
◎著者ツイッター(はなままさん)https://twitter.com/hanamama58

タブーなきラディカルスキャンダルマガジン 月刊『紙の爆弾』5月号
『NO NUKES voice』Vol.27 《総力特集》〈3・11〉から10年 震災列島から原発をなくす道

天皇制はどこからやって来たのか〈28〉昭和天皇――その戦争責任(3)不合理な戦争指導と「国体の護持」という名の保身 横山茂彦

前回につづいて、昭和天皇の戦争指導を検証していこう。太平洋戦争が熾烈をきわめるなか、天皇はどこかでアメリカに一撃をあたえるまで、講和の条件はないと考えていた。それは国体の護持という思惑、言いかえれば保身であった。昭和天皇に批判される責任があるとすれば、戦争を長引かせたこの身勝手な思惑であろう。

◆台湾沖航空戦のまぼろし

 

昭和19年(1944)6月19・20日に戦われた、日米の空母機動部隊同士による海空決戦(マリアナ沖海戦)は、日本海軍の惨敗に終わった。日本海軍は空母3隻を喪失、艦載機400機を失い、機動部隊を基幹とした艦隊を構成できなくなったのだ。

太平洋戦争において、決定的な役割を果たした空母機動部隊をもってする海戦は、もはや日本海軍にとって不可能となり、サイパン島も上陸したアメリカ軍の支配するところとなった。

このとき、天皇は逆再上陸によるサイパン奪還を、嶋田軍令部総長に対して、二度にわたって要求している。天皇の戦略的な勘は生きていたというべきであろう。まさにここが太平洋戦争の正念場だった。その希望はしかし、かなわなかった。すでに機動部隊が崩壊し、制海・制空権ともにアメリカに握られていたのだ。

サイパン失陥はそのまま、アメリカ軍をして東京空襲を可能とさせる(初空襲は昭和19年11月24日)。8月にはテニアンが陥れられ、いよいよアメリカ軍の空爆が秒読みとなった。

このころ、昭和天皇が戦争指導に熱意をうしなったことは、前回述べたとおりだ。海戦と島嶼攻防の敗北に意気消沈したところで、講和工作を本格的にはじめていれば、あるいはアメリカの東京空襲は計画だけに終わったかもしれない。

ところが、意気消沈した昭和天皇を驚かせる、そしてにわかに活気づける報告が10月に訪れたのだ。台湾沖航空戦の「大勝利」である。

 

昭和19年10月12日~15日にかけて、台湾沖で行なわれた航空戦(捷号作戦)の「戦果(大本営発表)」は以下のとおりである。
【撃沈(アメリカ軍の損害)】 航空母艦11隻・戦艦2隻・巡洋艦3隻・駆逐艦1隻
【撃破】航空母艦8隻・戦艦2隻・巡洋艦4隻・駆逐艦1隻・艦種不詳13隻
【撃墜】112機(基地における撃墜を含まず)
【日本軍の損害】飛行機未帰還312機

もうこれは、ほとんどアメリカ海軍太平洋艦隊の壊滅を意味すると思われた。19隻もの空母を撃沈、ないしは撃破したのである。

だが、フィリピン近海に十数隻の空母をともなうアメリカ艦隊が現れたとき、大本営はしばらく混乱したが、別の新手が出現したものと、台湾での戦果を疑わなかった(一部の軍幹部は「戦果」に懐疑的であった)。
じっさいの損害は、以下のごとくである。

《双方の損害》
【日本軍】 航空機 312機
【アメリカ軍】 航空機89機、搭乗員約100名
※空母2隻が小破・巡洋艦3隻が大破・駆逐艦2隻が損傷(うち1隻は衝突事故によるもの)

じっさいには、アメリカ艦隊をわずかに傷つけたにすぎなかった。その反面、300機以上の日本機が失われたのは事実だった。誤報の理由も明らかだった。

数日にわたる空海戦には夜間戦闘もあり、経験不足の日本機パイロットは、アメリカ艦船の近くで水柱が上がったのを見て、ことごとく撃沈・撃破と思い込んでいたのである。爆弾は信管に水圧がかかっただけで破裂し、大げさな水柱があがる。それにしても、あまりの「戦果」の違いである。

この「戦果」の結果、つづくレイテ作戦ではアメリカの上陸部隊の壊滅、および戦艦隊によるレイテ湾突入が企図されたのだ。

この時期の昭和天皇は、あきらかに一種のギャンブル脳になっていたと思われる。

緒戦の劇的な戦果、向かうところ敵なしの皇軍。ガタルカナル・ミッドウェイ以降も、負けが込むにつれて、緒戦の快哉が忘れられずにいたはずだ。勝利の脳内麻薬が忘れられなかったのだ。

マリアナ海戦とサイパン陥落で、その敗戦の理由に冷静な分析を加えていれば、あるいは講和路線への転換もあったかもしれない。少なくとも、本土が本格的に空爆に晒される前に、講和戦略に転換することも可能だった。故事に言う「勝敗は時の運」ではなく、敗戦には合理的な理由があるのだ。

 

じつはミッドウェイにおける空母機動部隊の敗戦の理由は、緒戦のインド洋作戦でも露呈していた問題なのだ。

攻撃機の爆装から雷装への転換に時間がかかること、したがって装備を転換しているときに襲われた結果が、3空母の同時被爆であり、それも急降下爆撃による飛行甲板のダメージという、空母にとっては致命的なものだった。

この急降下爆撃の威力も、南太平洋の海戦で判明しているにもかかわらず、日本海軍は伝統的な雷撃(爆装から雷装)にこだわって勝機を逸したのである。

もうひとつ、日本海軍航空部隊の致命的な弱点は、ゼロ戦や一式陸攻などにみられる防御システムの脆弱性だった。旋回力(空戦能力)や航続距離を重視するあまり、搭乗員の防御(機銃の弾丸を防ぐ鋼板)を犠牲にした結果、開戦いらいのベテランパイロットたちを失ってきたのだ。

予科練(中学3年から受験可能)を基盤に、中学生を殴って鍛えるという教育方法にも限界があった。対するアメリカ軍は、心身ともに優秀な大学生をパイロットに育成し、その生命を強度な防御力をもったグラマンやロッキード機、日本機の到達できない高空を巡航する「空の要塞」と呼ばれる爆撃機など、戦術思想においても大きな違いがあった。その戦術思想の差こそが、昭和17年中盤以降の戦況となって顕われたのである。

そして戦争が長期化することで、工業力・人口・物資の差が歴然となってくる。その意味では、昭和天皇が開戦にあたって講和戦略を云々していたのは慧眼であった。にもかかわらず、時の運をたのむ戦略観に陥ってしまったのだ。

はたして、レイテ沖海戦においては、その彼我の物量の差が明らかになった。

アメリカ海軍がこの海戦(陸軍のフィリピン上陸支援)に動員した艦船は、空母35隻、戦艦12、巡洋艦26、駆逐艦141、航空機1000機、ほかに補助艦1500隻である。

対する日本海軍は、空母4隻、戦艦9、巡洋艦19、駆逐艦34、航空機は基地発進をふくめて600であった。ほぼ大敗といえる、その結果も記しておこう。

【日本の損害】空母4・戦艦3・巡洋艦10・駆逐艦9
【アメリカの損害】空母3・駆逐艦3

※フィリピンのサマール沖で、大和を基幹とする戦艦がアメリカの小型空母を攻撃するも、ぎゃくに航空機の反撃に遭う。上の写真は日本の戦艦の砲弾を浴びる米艦隊を背景に、反撃に出ようとするアメリカ機。

レイテ沖海戦の結果、日本海軍は艦隊を組むこともままならない。ほぼ崩壊状態となった。このとき神風特別攻撃隊が組織され、航空機の攻撃では唯一の戦果をあげた。その攻撃を聞かされた昭和天皇は「そこまでしなければならなかったか。しかし、よくやった」と感想をのべたという。神風自爆攻撃は、大元帥の裁可を受けたのである。

やがて沖縄は鉄の暴風に見舞われ、本土の各都市も高高度からの無差別攻撃にさらされる。それでもなお、昭和天皇は戦争の幕引きをしようとはしなかった。

◆戦争を長引かせた責任

東京が空襲を受けるようになった昭和20年(1945)2月14日、近衛文麿元総理は、敗戦を確信して天皇に上奏文を出し、敗北による早期終結を決断するように求めた。

ところが、天皇は「もう一度敵をたたき、日本に有利な条件を作ってから」の方がよいと答え、これを拒否したのである。

そしてこのときの判断次第では、それ以降の敵味方の損害はなかった可能性もある。このとき、天皇が早期終結を受け入れ、命じていれば、少なくとも沖縄戦や広島・長崎の被爆はなかったはずである。(つづく)

◎[カテゴリー・リンク]天皇制はどこからやって来たのか

▼横山茂彦(よこやま・しげひこ)
編集者・著述業・歴史研究家。歴史関連の著書・共著に『合戦場の女たち』(情況新書)『軍師・官兵衛に学ぶ経営学』(宝島文庫)『闇の後醍醐銭』(叢文社)『真田丸のナゾ』(サイゾー)『日本史の新常識』(文春新書)『天皇125代全史』(スタンダーズ)『世にも奇妙な日本史』(宙出版)など。

最新刊!タブーなきラディカルスキャンダルマガジン 月刊『紙の爆弾』5月号

リング上、激励賞にまつわる素朴な話 堀田春樹

◆正に激励、応援の証

プロボクシングやキックボクシングで選手に渡されている激励賞は、歌舞伎で見られる投げ銭、おひねりのように受取る選手にとっては有難い副収入。後援会や職場仲間、学生時代の仲間が多ければ激励賞も増えるが、全く応援者の居ない選手にとっては羨ましい話かもしれない。

激励賞を頂いた選手の中には、「貰えた時は嬉しかった。やはりファイトマネーは安いし、いろいろと経費が掛かりますから。貰った激励賞の封筒は捨てずに今でも大切にとってあります。チケットをたくさん買ってくれた人の名前で、中身を入れていない激励賞に自分で書いて、リングアナウンサーに読み上げをして貰いたくて出したこともあります。」といった感謝の想い出や、「激励賞頂いたら勝ち負け関係なく、試合翌日に手紙やメールではなく電話で御礼を言え!」という先輩からの忠告もある中、激励賞を贈ってくれた応援者を訪ねての律義な御礼参りを欠かさない選手も多い。

グローブでは激励賞を持ち難い

◆空っぽの激励賞

試合前にリングアナウンサーによって贈り主の名前を呼び上げ、リング上で選手に渡される激励賞の多くは、すでに中身が抜かれているのは多くの関係者が知っている事実。盗難や紛失を未然に防ぐ狙いがあるが、激励賞は贈り主が直接選手に渡されたり、会場入り口で受付があればそこで渡されたり、控室へ向かうことが許されればそこで選手やセコンドなど側近に渡される流れとなります。

かつての目黒ジムでは、会場で激励賞を頂いた後、トレーナーが選手本人の前で中身を抜いて直接本人にそのお金(全額)を渡し、その後リングアナウンサー席まで空っぽの祝儀袋を渡しに行くいうシステムが出来ていたという。多くのジムもトラブル防止に似たことやっていると考えられ、選手自身がリングアナウンサー席まで届ける光景もよく見られます。

昭和の時代にはこんな綺麗ごとはない、あって欲しくない事態も発生していた様子。盗難とはまた別事情の、陣営の手によって選手に渡るまでに中身を抜かれる、または1万円だけ残して残りを自分の懐に入れるといった事態もあったようである。
贈り主が大雑把にジム関係者に手渡しされると、元々幾ら入っていたか解らなかったり、激励賞そのものを贈られたことを知らされないと「何だあいつは、礼儀知らずめ!」と思われる恐れもあって、贈ってくれる可能性ある後援関係者に余計に気を遣うことも多かったという当時のプロボクサー。そんな自分に返って来ない空っぽ激励賞をリング上でリングアナウンサーから渡されても嬉しくもなく、さっさとセコンドに渡してしまうと、そんな態度が非難されることもあり、リングで戦う前にも気苦労があったりするものだった。

呼び上げた激励賞をリングアナウンサーへ渡される
激励賞を受取り、四方へ感謝の意を示す瀬戸口勝也

◆リング上の儀式として

リング上で渡される激励賞は、お祝い用熨斗袋が使われている場合が多く、持ち運ぶリングアナウンサーから見れば進行上、嵩張るものは扱い難い。水引の付いたものはそれなりの大きな金額である場合に使われるが、人によっては普通の茶封筒、ポチ袋で持って来る人も居て、これらは束ね難くなり、選手に渡した際、落としてしまう姿もよく見られる。気の利くリングアナウンサーは、こんなポチ袋や水引熨斗袋も纏められるよう輪ゴムとクリップを用意しているという。

激励賞の贈り名呼び上げは、本来ファンサービスの一環であり、書かれる選手名や差出人の肩書・名前などは「渡部」はワタベと読むのかワタナベと読むのか、「堀田」はホッタかホリタか。慌ただしい進行業務が続くリングアナウンサーにとっては「中田」を田中と読んでしまう勘違いも起こりやすく、読み違いしないよう読める字にも振り仮名を付けておく方が慌てさせない、進行を遅らせない為にも贈り主の気配りが欲しいところでしょう。

中には明らかに本人でもないのに著名人名を名乗るとか、「半グレ一同」とかエッチなお店の名前のようなものも読み上げると場内に笑いが起きたり、迷った場合は「読み方が解らなくて大変申し訳ございません!」と言葉を濁すこともあるという。

プロボクシングに於いては、激励賞の読み上げは、ひとつ前の試合の後半のインターバルに「次の試合に出場致します、○○選手に激励賞です!」といったアナウンスの後に読まれ、その試合が早いラウンドでKO決着が付けば、激励賞を渡される試合の選手入場前に読み上げられるが、これらは試合進行をスムーズにするための手段。

キックボクシングでは各団体、イベントによってやや手法は違うかもしれないが、選手入場後、選手に渡す直前に読み上げており、当たり前のように慣習化した今後も続く儀式でしょう。

激励賞の中身の相場は選手仲間など同年代では1万円を包むことが多いと思われるが、それより少なくても応援の気持ちがあれば問題は無い。贈る側の年齢や肩書が上の立場になるほど、やや金額が増すのも一定の相場ラインのようです。

ボクシングとキックボクシングに関わらず、ファイトマネーは33パーセントがマネージメント料としてジム側が取る権利があるが、激励賞からも33パーセント引くジムもあるようで、それは違法ではなくとも、激励賞は応援するファン個人が選手個人に贈られるプライベートなものと考えてあげて欲しいところです。

試合後に主催者やスポンサーから敢闘賞を出される場合もあり、他にKO賞やベストバウト賞など、終わってみてからの想定外の収入はまた嬉しいものでしょう。

束ねただけではサイズ違いの激励賞は落しやすい

◆選手が少しでも潤う環境を

最近の話では、選手からチケット購入する人からのドタキャンがあること。選手は試合前の練習や減量以外にもチケットを売り捌く仕事で時間を奪われる上に、更に追い込むようにドタキャンとは可哀想な苦難である。

「応援したい選手の試合観戦に行けず、チケット買ってあげれないなら、少額でも激励賞出してあげて欲しいですね。」という関係者の意見も聞かれます。

ボクシングやキックボクシングでは選手に対して面識無いファン個人でも激励賞を贈ることは可能で、選手側は誰が贈ってくれたか知らなくても問題は無い。

負けが込んでいても長く頑張っている選手を見ると、懐に余裕があれば贈ってあげたくなるものです。

昨年はコロナ禍の中、一部ではクラウドファンディングによって、選手のオリジナルグッズの応援購入も行なわれました。新たな時代の選手応援方法も変わってきたものですが、選手の試合に影響するような負担は極力無いように、より潤う環境を整えてあげたいものです。

人気者・健太も激励賞は多い

▼堀田春樹(ほった・はるき)[撮影・文]

フリーランスとしてキックボクシングの取材歴32年。「ナイタイ」「夕刊フジ」「実話ナックルズ」などにキックのレポートを展開。ムエタイにのめり込むあまりタイ仏門に出家。座右の銘は「頑張るけど無理しない」

最新刊!タブーなきラディカルスキャンダルマガジン 月刊『紙の爆弾』5月号

《書評》タブーなき力作揃いの月刊『紙の爆弾』5月号 安倍前首相の地盤、山口県下関市は白昼堂々の「買収」が選挙を支える無法地帯なのか? 横山茂彦

◆「『買収』が支える安倍晋三王国・山口」(横田一)と「森喜朗の偉大なる足跡」(編集部)
 
まったくもって、異常としか言いようのない事態がスクープされた。公選法を知らないのだろうか? いや、無法地帯というべきなのであろう。安倍晋三元総理の地盤、山口県下関市で起きた「事件」である。

 
タブーなき注目記事満載!月刊『紙の爆弾』5月号

「桜を見る会」への招待、および前夜祭への費用補填で、利益供与(事前買収)あいた有権者たちを前に、安倍元総理は市長候補への「投票を依頼」したのである。

本誌グラビアでは、下関市長二期目をめざす前田晋太郎とともに、シュプレヒコールの拳をあげる安倍元総理のすがたが活写されている。記事は「『買収』が支える安倍晋三王国・山口」(横田一)である。

今回の下関市長選挙は、安倍派と対立関係にある保守の林芳正派(宏池会)が分裂を回避し、連合山口までが前田候補の応援に回った。にもかかわらず、無党派ともいえる田辺よし子候補が、2万2,774票を獲得した(前田候補は5万7,291票)。田辺氏は市議選でせいぜい2,000~3,000票の地盤であるから、今回の大健闘は、ほぼ安倍批判票だといえよう。

それにしても、下関における安倍利権の凄まじさには閉口する。ここは北朝鮮ではないのかと思うほどだ。横田一ならではの、現場直撃質問も本文を読んでほしい。すくなくとも、ひきつった安倍の表情がうかがえる。

「森喜朗の偉大なる足跡」(本誌編集部)は圧巻だ。ほとんどダメ政治家でありながら、総理の座を射止めた男の軌跡。そこには「なりたくてもなれないのが総理総裁」という格言が、逆に「正統性のなさ」ゆえに政治というものの不可思議さを、われわれに教えてくれる。サメの脳みそ、ノミの心臓、でも下半身はオットセイと揶揄されても気にしない感性のなさこそが、森を政治家たらしめた核心部なのかもしれない。

◆強力な連載陣──岡本萬尋、マッド・アマノ、西本頑司

今回は連載にも注目してみたい。「ニッポン・ノワール」を上梓したばかりの岡本萬尋の連載「ニュースノワール」は、袴田事件の帰趨を解読している。いま、再審の争点になっている味噌タンクから一年後に発見された「5点の衣類」(袴田さんとはサイズが合わないうえ、血痕の色の変化)のほか、凶器のクリ小刀など、袴田さんの無罪を立証する証拠調べにはそれほど苦労しない。にもかかわらず、東京高裁が再審決定を却下するなど、裁判所の「メンツ」へのこだわりは酷すぎる。差し戻し審の三者協議の進行が待たれる。

マッド・アマノの「世界を裏から見てみよう」は、有刺鉄線の歴史だ。戦争が政治の異なる手段をもってする延長(クラウゼビッツ)だとして、兵器は総力戦の時代において、政治をも規定するものとなった。有刺鉄線はまさに、総力戦の「時代に移行した戦術、塹壕戦の立役者であろう。炸裂弾による兵士の消耗をふせぐために、第一次大戦は700キロをこえる西部戦線に塹壕を張り巡らせ、戦車が登場するまで有刺鉄線こそが戦場の立役者だった。

そしてその歴史は、アメリカの西部開拓史抜きには語れないという。開拓者たちの有刺鉄線はカウボーイたちの自由放牧と、真っ向から対立した。さらには白人の開拓史が、6500万頭のバッファローを絶滅させた。ここでも「武器」は文明のあり方を変えてきたのだ。

「権力者たちのバトルロイヤル」(西本頑司)は、退陣するアンゲラ・メルケル独首相の偉業をたどる。そして再び到来するかもしれない「ベルリンの壁の崩壊」に言及する。その意味は、ドイツの孤立である。

◆冤罪事件から部落差別問題まで

「シリーズ 日本の冤罪」は、尾崎美代子取材による「滋賀バラバラ殺人事件」である。逮捕時68歳だった杠共芳(ゆずりはともよし)さんが、13個に切断された殺人事件で懲役25年の判決を受けたものだ。

「犯行に至った動機・経緯について不明な部分が残る」という、信じられないほど杜撰な判決である。杠さんが一貫して犯行を否認したにもかかわらず、高裁では証拠調べをすべて却下した一回廷の判決だったという。そして今年の2月に最高裁は被告の上告を棄却した。

レポートでは、杠さんがむしろ被害者を親身になって面倒を見てきた立場であり、被害者の預金(銀行融資)から約70万円を引き出した(この別件逮捕が捜査の糸口となった)のも、信用貸しで被害者に貸していたカネだったという。別件で起きたバラバラ殺人事件とともに、事件の真相を明らかにするためにも、杠さんの再審がもとめられる。

「【検証】『士農工商ルポライター稼業』は『差別を助長する』のか?」(第7回)は鹿砦社編集部による、士農工商の存否(身分制か職階か)をめぐる問題だ。

「士農工商」が江戸時代には「職階」にすぎず、明治に入ってから「身分制度」としての認識が醸成された。したがって、江戸時代には身分制度がなかった、との歴史解釈には極めて大きな違和感がある、というものだ。これには少なからぬ誤認があるので指摘しておこう。

「部落史における士農工商 そんなものは江戸時代には『なかった』」(横山茂彦 2021年3月27日)でも明らかにしたとおり、「江戸時代の文書・史料には、一般的な表記として『士農工商』はあるものの、それらはおおむね職分(職業)を巡るもので、幕府および領主の行政文書にはない。したがって、行政上の身分制度としての『士農工商』は、なかったと結論付けられる。むしろ『四民平等』という『解放令』を発した明治政府において、『士農工商』が身分制度であったかのように布告された。すなわち江戸時代の身分制が、歴史として創出されたのである。」

つまり、江戸時代の「士農工商」は行政上の身分制度ではなく「職分」(職階=職業上の資格や階級ではない)であり、北大路家康が、「『士農工商』、もう教科書にその言葉はありません」と語り、図版アニメの『士農工商』図は、士とその他に変形した。江戸時代に武士階級とその他しかなかった身分制度を表現したとおり、士分(武士)と一般民の身分差は厳然とあった。身分制度は存在したのである。

すなわち、士分と一般民、そして身分外の身分として、天皇や公家、医師、非人(穢多などをふくむ)が存在し、江戸時代はまさに身分制社会だったといえる。

中世前期の自由闊達な交通社会とは異なり、百姓の大多数が定住を強制された排外的、かつ差別的な社会だったのは、疑いのない史実である。

豊臣政権と江戸幕府が「政策的に」差別構造をつくったのだとしたら、兵農分離・検地による定住政策こそが起点といえよう。中世的な流動層が定住するには、もはや劣悪な土地と職業しか残されていなかったからだ。

にもかかわらず、それをもって政策的・行政的に「士農工商」という身分制度があったとは言えない。行政文書に「士農工商」という文言が存在しないからだ。これが史料批判を第一義に置く、文献史学の原則なのである。

そして「四民平等」の「解放令」において、部落民を「新平民」とした明治政府がさらに、天皇・皇族・華族・士族・平民・新平民という新たな身分制を再生産し、かつそれが「解放令反対一揆」にみられるように、庶民の中に根強い差別意識が存在したことを歴史が教えてくれる。

つまり江戸時代においても、穢多・非人に対する差別は、為政者においてではなく庶民のなかに旺盛だったのである。この論点こそが、こんにち「士農工商」が差別の根拠としての身分制ではなく、江戸庶民の意識の中にこそ身分差別があった。そして明治以降も、差別は支配者の政策ではなく、一般民の意識の中にある、とするものなのだ。その差別意識は、われわれの中に潜んでいる。

▼横山茂彦(よこやま・しげひこ)
編集者・著述業・歴史研究家。歴史関連の著書・共著に『合戦場の女たち』(情況新書)『軍師・官兵衛に学ぶ経営学』(宝島文庫)『闇の後醍醐銭』(叢文社)『真田丸のナゾ』(サイゾー)『日本史の新常識』(文春新書)『天皇125代全史』(スタンダーズ)『世にも奇妙な日本史』(宙出版)など。

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〈追悼〉「キックの鬼」沢村忠さん ── 昭和のキックのテレビ放映は「沢村で始まり、沢村で終わった」 堀田春樹

昭和40年代に、真空飛びヒザ蹴りを代名詞にKO勝利を積み重ねた沢村忠(1943年1月5日、旧満州出身)氏が肺癌の闘病を経て3月26日に亡くなられたことが4月1日の新聞報道を中心に発表されました(78歳没)。葬儀は近親者のみで30日に行われた模様です。

汐風アリーナにてサイン会に臨む沢村忠さん(2008年6月22日)

沢村忠、本名は白羽秀樹。その経歴は、言うまでもなく昭和のキックボクシングブームを巻き起こした第一人者として、漫画アニメ「キックの鬼」でも人気を博し、多くの報道で活躍が知れ渡っていました。

沢村忠氏は空手家として1966年(昭和41年)4月11日、大阪府立体育会館でデビュー。必殺技はジャンプ力を活かした真空飛びヒザ蹴りの他、飛び前蹴り、ハイキックは高くスマートに、更にパンチもあればヒジ打ち、ヒザ蹴り、ミドルキックなどでのKO、ボディースラムでのKOも1回ありました。サウスポースタイルながら右にスイッチすることもよくやりました。

1976年5月22日、テレビ放映されたものとしては最後の東洋ライト級王座防衛戦で21回目の防衛成功(3階級制時代含め通算34回)。7月2日の大阪での試合を最後に公表上は今までにない長期休養に入りました。

「沢村はどうしているのか、なぜ試合をしなくなったのか!」というファンの問い合わせが増える中、沢村忠不在は1年を超えた1977年10月10日、引退式が行われ、ようやくファンのモヤモヤした気持ちは払拭。

その後はファンの前には現れなくなり、憶測で広まる噂も情報少ない地方に居ても聞かれるほど。根も葉もないことを書くマスコミを避ける意図はあったかと思いますが、決して人目を避けて引き籠りになった訳ではなく、ごく普通の一般人に戻って自動車修理工と販売の仕事に就き、すでに家庭を持って自然な暮らしをしていた様子でした。

宮城県気仙沼での興行で仙台青葉ジムの選手と記念写真。沢村忠氏(前列中央)の右隣が瀬戸幸一会長、左隣は遠藤事務局長、佐沼にある東京堂写真館にて(画像提供:仙台青葉ジム瀬戸幸一会長。昭和44年夏)
気仙沼まで、沢村忠氏と遠藤氏は知人会社社長のドイツ車オペルに乗って来られたという1枚(画像提供:仙台青葉ジム瀬戸幸一会長。昭和44年夏)

「沢村で始まり沢村で終わった」とも言われたテレビ放送も他に要因はあれど、後には視聴率低下を巻き返せず放送打ち切りに陥りました。

あの現役時代を一緒に過ごした野口プロモーション関係者から沢村忠氏の情報が聞けたことは幾つかありました。

昭和40年代の全盛、釧路での興行に遠征した時の野口プロモーション一行が、釧路駅の列車の来ない臨時ホームで、線路側から120cmほどあるプラットホームに飛び上がる勝負をやった時、沢村忠氏だけがその場ジャンプで飛び移ったという「沢村のジャンプ力はさすがだったね!」というリングアナウンサーの柳家小丸(柳亭金車)さんの想い出の語り。

[左]横須賀の主催者側から花束を贈られる沢村忠さん(2008年6月22日)/[右]リング上で花束を高く掲げるのは何年振りか(2008年6月22日)
プレゼンターとして沢村忠氏から風神和昌に勝利者トロフィー贈呈(2008年6月22日)

レフェリーの李昌坤(リ・チャンゴン)さんは、沢村が蹴った回し蹴りがレフェリーの李昌坤さんの横腹に当たってしまったこともあり、「試合後に沢村が “李さんごめんね”と謝りに来てくれて、平然と振舞ったが、本当は一週間程動けなかったよ。」というエピソードや、テレビの映し方として、「沢村の試合は秋本直希が裁くことが多かったのは、歌手としても売り出していた秋本をなるべくテレビ画面に出させる意図があったんだ!」といった語り。

秋本直希レフェリーが、ノックダウンした沢村にカウント9まで数え、KO負けスレスレのハラハラドキドキ感を増した映りだったことも幼かったファンとしては懐かしい。

沢村忠とは特別な存在だった。公式241戦232勝(228KO)5敗4分。試合中の第1ラウンド終了後のインターバール中にテレビ画面に流れた戦績は毎度追ってしまうファン心理。

この5敗の中にはサマン・ソー・アディソン、カンワンプライ・ソンポーン、パナナン・ルークパンチャマ、サネガン・ソー・パッシン、チューチャイ・ルークパンチャマが居ました。

沢村忠氏が勝利した相手の中にも記憶に残る選手は居るが、敗戦の相手となった選手がなお印象に強い。

サマン氏、サネガン氏、チューチャイ氏は沢村忠氏よりかなり早く亡くなっています。他に対戦した中では、チャイバダン・スワンミサカワンが居ましたが、タイではチャイバダン氏からコーチを受けた日本人選手も多い。

沢村忠さんと対戦した後の、まだ若き頃のチャイバダン氏(1986年当時)

私(堀田)もチャイバダンさんが興したジムで、日本での試合のお話も少々聞かせて頂いたことがありました。「沢村は今何してるの?元気にしてるの?」といった言葉はまだ昭和の話で、4年前にタイへ渡った際は時間が無くて伺えませんでしたが、改めて今、会ってみたい人であるが御存命かは分かりません。

沢村忠氏の情報は一部の近親者のみが知る存在で、ここ数年は体調不良の情報もあるにはあったところ、2年ほど前から沢村死亡説が流れることがありました。しかしその後に「沢村さんから藤本会長に電話あったみたいだよ!」という近親者の情報があり、噂というものは当てにならないものではあるが、今年3月26日の訃報は、やがて来ると覚悟していても残念でならない想いである。ファン心理で書かせて頂きましたが、幼い頃からのファンとして、心より御冥福をお祈り致します。

ゲストとして御挨拶に立つ沢村忠さん(2008年6月22日)

▼堀田春樹(ほった・はるき)[撮影・文]
フリーランスとしてキックボクシングの取材歴32年。「ナイタイ」「夕刊フジ」「実話ナックルズ」などにキックのレポートを展開。ムエタイにのめり込むあまりタイ仏門に出家。座右の銘は「頑張るけど無理しない」

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自民党のCM動画で安倍元総理の雄姿を懐かしむと、政権の旧悪が露見してくる ── 政権奪還からコロナ禍逃亡退陣まで 横山茂彦

2006年に「美しい国」を掲げて、颯爽と登場した安倍晋三はしかし、お友だち内閣の不祥事がドミノ倒しになることで、みずから潰瘍性大腸炎で退いた。2007年の参院選挙で大敗を喫したすえの、惨めな最期だった。強権的な国会答弁、極右的な言動が国民の警戒感を招いたといえよう。

そして雌伏5年、そのかんに自民党は二度目の野党時代を経験し、自分たちのツケである原発事故も生起した。沖縄基地をめぐるアメリカとの確執、大震災の災禍によって民主党政権が停滞するなか、安倍晋三は再起した。祖父に岸信介、叔父に佐藤栄作という政界のサラブレッド、長身でみてくれも良い保守期待の星として再登板したのである。


◎[参考動画]【自民党 新CM】「日本を、取り戻す。」(自民党 2012/11/29)

北朝鮮の脅威と拉致問題の解決、北方領土問題、憲法改正という3つのテーマをもって、安倍は「日本を取り戻す」と宣言したのだ。

ところが、第二次安倍政権が真っ先に手をつけたのが「生活保護基準引き下げ」だった。

もっとも貧しい人の生活費を下げるという決断は、小泉政権いらいの新自由主義であり、弱者は見捨てる政権メッセージは意外にも株価に反映した。三本の矢という、内容はふつうの財政出動とリフレへの期待がつのり、肝心の経済再生はともかく、契機は株価において浮揚した。

弱者を切り捨て、そこから生じた財源を海外援助、すなわち円借款として日本企業の海外進出をうながす。それはまた、株価の上昇に作用した。


◎[参考動画]自民党CM「この道を。力強く、前へ。」(自民党 2016/06/26)


◎[参考動画]【第48回衆院選】自民党CM(字幕)「暮らしを、子供たちの未来を、守り抜く。」編(自民党 2016/10/12)

生活保護費を削っておきながら、暮らしと子供たちの未来を守るとは、どの口が言うものなのかよくわからなかった。たしかに、それらしいものはあった。

安倍晋三が政権に返り咲いた直後、2013年に開かれた全日本私立幼稚園連合会とPTA連合会の全国大会を伝える会報「全日私幼連 情報特急便」(平成25年7月8日号)には、こんな記述がある。

「安倍総理は祝辞の中で『すべての子どもたちに、質の高い幼児教育を保障することができるよう、幼児教育の無償化の実現など、様々な政策実現に向けて政府・与党一体となって、また、皆様と手を携えて、取り組んでまいります』と述べられました」

この会報で伝えられる団体こそ、4億円の使途不明金が発覚した全日本私立幼稚園連合会なのである。

連合会と自民党のズブズブの関係を、政界で知らない者はいないという。

「熱心な自民党支持団体のひとつで、参院選では橋本聖子さんや山谷えり子さんを推薦して順位を押し上げた実績もある。2月21日の党大会では、長年の功労があった団体として、連合会を表彰する予定でしたが、使途不明金問題で取り消すことになりました」(自民党関係者)というのだ。

消えた4億円はどこに行ったのか。

事実として確かなのは、安倍政権下で幼児教育無償化がスタートしたことだ。当時は待機児童が社会問題化していたこともあり3~5歳児全員無償化は幼稚園にとって最も恩恵のある形になった。

思わぬかたちで、政権の旧悪が露見したのである。巨額の使途不明金の行方と自民党の関係、教育行政が歪められた可能性について、徹底解明が必要であろう。そのさいには、安倍総理も身の潔白をもとめられるべきだ。


◎[参考動画]【第48回衆院選】アベノミクスで成長の実感を皆さまへ(自民党 2017/10/15)

安倍政権は「アベノミクス」を打ち出し、ことあるごとに経済政策の効果を喧伝してきた。だが、その実態はどうなのか。私たちの生活は、果たして楽になったのか? 

たとえば「非正規という言葉を一掃する」と言いつつも、12年に35.2%だった非正規雇用率は、19年までに38.3%に上昇したのだ。12年から19年にかけて、非正規雇用者は352万人も増えている。この数字をしかし、安倍は恥じることなく誇っているのだ。

アベノミクスで「400万人を超える雇用を増やした」などと胸を張る。いま、コロナ禍で失業に喘いでいるのは、これら400万人の非正規雇用者たちにほかならない。相対的過剰人口の流動的形態として、まさに安倍の増やした雇用者(非正規)たちは路頭に迷っているのだ。


◎[参考動画]【第48回衆院選】「観光立国で地方創生へ」(自民党 2017/10/20)

それでも安倍晋三は、神がかり的に選挙に強かった。安倍一強とは、選挙での強みを生かした官邸・党本部の一元的な支配にほかならなかった。したがって、官僚の忖度と出来の悪い新人議員の誕生、身内とお友だちを優先する体質は最後まで変わらなかった。政権末期の、凄まじいまでの政権の腐敗を再録しておこう。

《2017年》
●2月17日 森友問題発覚
●4月26日 今村雅弘復興担当大臣が失言で辞職
●5月17日 加計学園「総理のご意向」文書報道
●7月28日 南スーダンPKO日報隠蔽問題
《2018年》
●3月7日 近畿財務局の男性職員が自殺
●7月14日 「赤坂自民亭」が炎上
《2019年》
●4月10日 桜田義孝五輪担当大臣が失言で辞任
●11月18日 「桜を見る会」問題
《2020年》
●5月21日 黒川弘務東京高検検事長辞任
●5月28日 持続化給付金事業の電通中抜き疑惑
●6月18日 河井前法務大臣・案里夫妻が逮捕
●8月28日 辞任を決断

小選挙区制という政治システムの利点、官邸と党本部による政敵の排除、あるいは官製相場による見せかけの景気浮揚になじんできた政治家に、コロナ禍は容赦なかった。

アベノマスクという、ほとんど何の役にも立たない「施策」を最後に、お坊ちゃま政治家は政権を投げ出したのだ。このさき、政権にしがみついても、何ら得るところはないという聡明な判断だった。

けっきょく、北朝鮮の脅威と拉致問題の解決、北方領土問題、憲法改正という3つのテーマは、ひとつも達成できなかった。


◎[参考動画]安倍首相が会見 辞任決断の理由は(TBS 2020年8月28日)

▼横山茂彦(よこやま・しげひこ)
編集者・著述業・歴史研究家。歴史関連の著書・共著に『合戦場の女たち』(情況新書)『軍師・官兵衛に学ぶ経営学』(宝島文庫)『闇の後醍醐銭』(叢文社)『真田丸のナゾ』(サイゾー)『日本史の新常識』(文春新書)『天皇125代全史』(スタンダーズ)『世にも奇妙な日本史』(宙出版)など。

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買収を認め、議員も辞職の「広島エリート」河井克行被告 ── その生家を訪ねてみたら、六畳二間の風呂無し借家だった 片岡 健

一昨年の参院選に関し、大規模な買収を行った疑いで裁判にかけられている元法務大臣の河井克行被告(58)がついに公判で無罪主張を撤回し、買収を認めた。議員も辞職する。

これをうけ、安倍晋三前首相と菅義偉首相の政治責任が追及されることを期待する人が多いようだが、筆者はまったく別のことを期待している。それは、河井被告がその人生遍歴を自ら語ることである。

◆幼少期を過ごした地で無名だった河井被告

本人が公表しているプロフィールによると、河井被告は昭和38年広島県生まれ。広島市の山本小学校と安小学校(いずれも広島市立)を経て、私立の名門である広島学院中学・高校で学んだ。そして慶應義塾大学法学部政治学科を卒業後、松下政経塾、広島県議会議員を経て、衆議院議員に当選7回。絵に描いたようなエリート街道を歩んだ印象だ。

一方で報道では、性格に問題がある人物だったように伝えられてきた。たとえば2016年に秘書へのパワハラ疑惑を報じられた際には、広島市の小学校時代の後輩が取材に対し、次のようにコメントしている。

「河井先輩のアダ名は“スネ夫”。実家は薬局経営の裕福な家庭で、事あるごとに“僕と君らでは育ちが違う”みたいなことを言う嫌みなヤツでした。当然、皆から嫌われていました」(同年3月3日付け『日刊ゲンダイ』)

このように地元での評判は悪かったらしい河井被告だが、小学校入学前に広島県三原市で過ごした幼少期のことは意外と知られていない。そこで筆者は昨年4月、河井被告の生家があった香積寺という寺院の周辺で取材したのだが、河井被告の幼少期は報道のイメージと随分異なる印象を受けた。

まず何より意外だったのは、河井被告がこの地の出身者であることを地元の人たちがほとんど知らなかったことだ。道行く人たちに、河井被告の幼少期のことを取材しに来たのだと説明しても、「あの河井さんがこのへんに住んでいたんですか!?」「本当ですか?」などと逆に聞き返されるほどだった。

評判が良かろうが悪かろうが、幼少期を過ごした地で河井被告は有名な存在なのだろうと筆者は思い込んでいた。それはまったくの思い違いだったのだ。

◆生家は六畳二間で風呂無し

河井被告はブログで以前、生家が「六畳二間」だったことを明かしていたが、その家は50年以上経った今も入居者募集中の状態で現地に残っていた。だが、平屋の建物は玄関が引き戸になっていて、実につましく、「薬局経営の裕福な家庭」が暮らしていた家には、とても見えなかった。

近所で暮らす高齢の女性によると、「この家はこれまで、色んな家族が借りて住んでいます。以前はお風呂がなく、住んでいる人たちはみんな銭湯に行っていましたよ」とのことだった。河井被告の実家が広島市で薬局を経営するようになった経緯は不明だが、三原市で暮らしていた幼少期は裕福ではなかったのは確かだろう。

河井被告の生家。六畳二間の風呂無しの借家だった

そんな生家周辺で河井被告の幼少期を偲ばせるものが生家以外にも1つあった。上部が地表に露出した半地下式の防火水槽だ。河井被告は自身のブログで、幼少期に防火水槽の上で「黄金バットごっこ」に興じていたことを明かしているが、近所の高齢の女性によると、「このへんの子どもはみんな、ここで遊んでいましたよ」とのことだ。

小学校時代は「事あるごとに“僕と君らでは育ちが違う”みたいなことを言う嫌みなヤツ」だったと言われた河井被告も、幼少期は近所の子どもたちと無邪気に遊んでいたのかもしれない。

つましい幼少期を過ごした少年がその後、エリート街道を歩み、大規模買収事件の罪に問われる政治家になるまでに一体、どんな人生遍歴をたどったのか。裁判で罪を認め、議員も辞職する河井被告がいつの日か自分の言葉でそれを語る日がきたら、ぜひ拝聴したい。

河井被告が黄金バットごっこに興じた防火水槽

▼片岡健(かたおか けん)

全国各地で新旧様々な事件を取材している。近著に『もう一つの重罪 桶川ストーカー殺人事件「実行犯」告白手記』(著者・久保田祥史、発行元・リミアンドテッド)など。

7日発売!タブーなき月刊『紙の爆弾』2021年5月号
「絶望の牢獄から無実を叫ぶ ―冤罪死刑囚八人の書画集―」(片岡健編/鹿砦社)

先走って頓死か、引き延ばしてジリ貧解散か? 解散に踏み切れない自民党

「解散」という言葉が飛びかい、政局が総選挙にむかって焦点化している。このかんの二階発言「内閣不信任案なら、解散して世論に問うべきだ」が、にわかに解散総選挙を浮上させたのだ。自民党内からも「選挙は早い方がいい」「5月が菅政権のピークだ」の声が上がっているという。

騒ぎのきっかけは、3月の下村博文政調会長の発言だった。下村会長は政府がコロナ緊急事態宣言の解除を決めた3月18日の講演において、菅首相の4月訪米と日米首脳会談が固まったことにふれ「内閣支持率にも多分プラスになる。そのときに(解散)ということは可能性としてはある。追い込まれ解散という構図はつくりたくない」と述べて、訪米後の解散の可能性を指摘したのだった。

下村は最大派閥の清和会(細田派)の副会長であるばかりでなく、総裁選にも野心を持つ総理総裁候補である。その意味では、解散発言は菅政権への揺さぶりにほかならなかった。

これにたいして、二階俊博幹事長は「解散は首相が決めることだ。軽々しく言うべきものではない」と下村発言を批判。

「(下村氏が)どれだけ仲間の選挙のために汗をかいたのか。自分の選挙は大丈夫なのか」と怒りを露わにした。

◆自民党に追い詰められた二階自民幹事長

しかし下村の動きは、党内反主流派のうごきと対応したものだった。
それは3月初旬、議員会館の自民党議員事務所にポスティングされたA4一枚の「怪文書」といわれるものだ。

文書の差出人は「総選挙前に党則第6条第1項(総裁公選規程)に基づく総裁選挙の実施を求める会」で、以下のような日程が記されている。

「9月7日自民党総裁選挙告示 ▽9月20日総裁選挙投開票日(総裁決定) ▽9月22日首班指名 ▽9月27日解散 ▽10月24日総選挙投票日。」というものだ

差出人名からみてもわかるように、9月に総裁選を実施し、そこで選ばれた総裁のもとで衆院を解散するべきだ、という主張なのだ。

暗に菅総理による五輪前の解散を否定している。そして、五輪・パラリンピックが閉幕する9月5日を待ち、その後に総裁選、解散総選挙へと進むスケジュールを例示しているのだ。

したがって下村政調会長の発言は、早期解散で9月総裁選を見越したものとも、そこでの菅総理の早期退任を展望したものともいえよう。

いっぽう、菅政権の主柱を自認する二階幹事長は、下村発言に不快感を表明していたものの、ここにきて、ジリ貧よりはマシな解散の選択肢として、都議選前・オリンピック前の総選挙を考えていることを明らかにしたのだ。
冒頭に紹介した二階発言である。

「私は解散権を持っていないが、野党が不信任案を出してきた場合、直ちに解散で立ち向かうべきだと菅首相に進言したい」(3月29日)。


◎[参考動画]菅首相 自民・二階幹事長と会談、今後の政権運営協議か(TBS 2021年4月1日)

したがって、解散総選挙は本格的に政局の焦点となった。

都議選前というのは、都議選後に公明党(創価学会)が選挙疲れになる前に、都議選準備と連動したうごきで選挙に臨む。観客が日本人だけになると考えられるオリンピックの前に、せめてもの期待感とともに選挙に臨む。

この場合は、外国人選手の参加がイマイチとなり、トホホなオリンピックになった場合の寂莫感、やらなかった方が良かったという中での選挙よりもマシ、ということになる。

そしてそこには、総選挙における野党共闘の脅威。このかんの知事選での連敗(山形・千葉)が、三度目の政権交代という現実性を感じさせるからにほかならない。政権交代の可能性については、本通信の過去記事を参照されたい。いずれにしても、4月補選が当面の焦点となる。

◎《書評》『紙の爆弾』4月号 政権交代へ 山は動くのか?(2021年3月14日)

◎三度目の政権交代はあるのか? 小沢一郎と山本太郎の動向にみる菅政権の危機(2021年3月9日)

◆勝てるタイミングを見計らう

ところで、2017年秋の解散総選挙をおぼえておられるだろうか。

この年、北朝鮮の核実験・ミサイル実験によって、列島は「ミサイルアラート」の発動で準戦争状態だった。

もちろんこれは、安倍政権による過剰な「明日にも北朝鮮のミサイルが日本を襲う」という演出によるものだった。北朝鮮が全面戦争=国家の破滅、を前提にした核ミサイル攻撃をするはずがないことを見越した、いわば国民を人質にした選挙戦術だったのである。

そしてそこには、もうひとつ選挙にはデータの活用がある。すなわち、各政党およびマスコミには、多数の調査会社からデイリーで「選挙データ」が送られてくるのだ。その内容はデータサンプルも小さく、ほとんど眉唾モノのデータにすぎないのだが、いちおう数字が出てくるのであながち無視はできない。

連日、ある傾向をもって出てくるデータ(円グラフ)を曲線グラフに変換することで、投票行動の予想値まで算出できるという。そのデータをもとに、政権としてのパフォーマンスを付加すれば、選挙で勝てるタイミングが得られるのだ。

2017年の総選挙は、まさに選挙データと北朝鮮のミサイル実験がかさなったタイミングだったが、かならずしも与党圧勝とは言えない(解散前の自民議席284→284、公明党35→29)。

それでも、森友・加計学園疑惑という、安倍政権にとってお友だち優遇のウィークポイントが喉もとに突き付けられているなかで、政権延命のまずまず温存選挙となったのである。その後、タイミングを計れない定日選挙の2019年の参院選では、自民党は9議席減となっている。


安倍前首相が来県「安定政権を」 早期解散も?与野党の動き加速【新潟】(NST 2021年3月29日)

◆賞味期限切れの自民党政権

いまふたたび、自民党は選挙のタイミングを計ることで政権を維持しなければならない局面に立たされているのだ。

そのファクターは、菅総理というおよそ地味で、選挙向きではない看板にあること。コロナ禍の第4波到来をまねいた失政による自滅。しょぼいながらも、オリンピックを開催しなければならない成り行き。あるいは長期政権による弊害を、ほかならぬ選挙民たちが痛感している、いわば交代時期の到来によるものだ。

それにしても早期解散説の5月は、やはり難しいのではないか。

日刊ゲンダイが伝えるところを紹介しておこう。

「解散を先に延ばしても、菅首相には展望はありません。ただ、4月解散――5月総選挙は難しいでしょう。新型コロナウイルスの第4波が猛威を振るっている可能性が高いからです。ゴールデンウイークに人の動きが活発になるのは間違いない。その2週間後、3週間後に感染者が急増する。まさに、選挙期間中です。菅政権に批判が集中するのは明らかです。ワクチンの本格接種も始まっていない。やはり、本命はオリンピックの後でしょう。早期解散説は、4月25日に行われる3つの国政選挙で敗北したら“菅降ろし”が勃発するから、その前に解散するはず、というのが根拠になっています。でも、菅官邸は“3敗しても菅降ろしは起きない”と確信を強めています。3敗する場合、参院広島選挙区でも負けるということですが、その場合、“ポスト菅”の最右翼である岸田文雄氏も、広島県連会長として責任を問われる。ポスト菅がいなくなれば、菅降ろしも起きないという計算です」(政界関係者)。

首班後継最有力である岸田文雄に目がなくなることで、二階構想(河野太郎・野田聖子)が現実性を帯びてくるのだが、いよいよ4月の補選が見逃せなくなってきたと指摘しておこう。

▼横山茂彦(よこやま・しげひこ)
編集者・著述業・歴史研究家。歴史関連の著書・共著に『合戦場の女たち』(情況新書)『軍師・官兵衛に学ぶ経営学』(宝島文庫)『闇の後醍醐銭』(叢文社)『真田丸のナゾ』(サイゾー)『日本史の新常識』(文春新書)『天皇125代全史』(スタンダーズ)『世にも奇妙な日本史』(宙出版)など。

タブーなき月刊『紙の爆弾』2021年4月号
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