チケット捌きの苦労は練習より辛い! キックボクサーのファイトマネー

◆ファイトマネーの在り方

チャンピオンになりたい! そんな志持ってジムに入門。デビュー戦を控え、与えられるファイトマネーはチケット。そんな時代は長く続く。勿論現金払いもあるが、チケットの方が比率は大きいだろう。

そんな選手がほとんどで、そのチケット捌きの苦労は練習より辛いという選手も多い。しかしそれは興行を成り立たせる為には欠かせない要素でもあり、仕方ない部分でもある。

昭和50年代のキックボクシングテレビ放送打ち切りから平成初期頃までは、「キックボクシングってまだやってるの?」なんて言われること当たり前の時代に、世間一般に向けては、なかなか売れるものではなかった。

大きいものから小さいものまで横断幕が並ぶ
興之介が幟旗に向けて入場中

◆どんな捌きをしているか

1982年(昭和57年)、ある選手が会長から3,000円の自由席券を30枚ぐらい渡されて、「全部2千円で売ろうと思う!」と言っていたのを聞いたことがあった。額面より値引きしてでも買って貰う為の苦労だろう。

デビューしキャリアを積んでいくうち、このチケット捌きは必然的に割り振りが大きくなっていく。生活を支える為、普通の企業に正社員やアルバイトとして勤めて、そこが活気ある従業員が大勢いる職場で人気者となれば、百枚単位のチケットも捌くことは可能だろう。

チケットを50枚でも100枚以上でも捌くことが継続されれば、「頑張れ○○君、皆で応援に行くからね!」と会社ぐるみでの応援団となり、横断幕や幟旗などが舞うことも多い。そんなチケット捌きからの活気ある応援は、興行への大きな貢献度もあると言えるだろう。

それに対し、チケット捌ける選手が捌けない選手の分まで頑張って捌いている例もある。

先輩選手が、「売れないなら俺が何とかしてやる、持って来い!」

そんな後輩選手とのそんなやりとりも聞いたことがあった。そんな田舎から出て来たばかりや、孤独な選手は、「何とか捌きました!」と言っても内情は自分で抱えているだけかもしれない。或いは無料で配っているかもしれない。或いはディスカウントショップに持ち込んで極端に安く引き取って貰っているかもしれない。

それで会場はチケット捌けた各選手の応援団だらけ。応援する選手の試合が終われば、単に帰ってしまう人も含めて、ドドドっと出口に向かい祝勝会へ向かう集団の姿はよくある光景。チケット完売なのにメインイベントに進むにつれ、空席が目立っていく背景にはこうした現状があるのである。

髙橋三兄弟も人気者、縦型横断幕が贈られている

◆チケット捌きの苦労!

これは1990年代のあるチャンピオンの話。

「デビュー戦は地方のリングでファイトマネーは無償。知り合いも皆無だったので、激励賞も無かった。2戦目は、3,000円券10枚で、“バック無し”だったのでファイトマネーは3万円だった!」と言う。

このチケット捌きにはバック有りとバック無しがあるらしい。“バック”とはプロモーターや会長に額面の33パーセントをマネージメント契約上の金額として支払うことである。割り振りされたチケットを捌けなければ自腹を切り、ジム会長(プロモーター)に33パーセントを支払う羽目となる(チケット戻しは無い)。その代金は選手の親が出しているかもしれない、またはアルバイトで必死こいて稼いだ安月給を充当している場合もあるかもしれない。或いはキッチリ定額で捌き、ジムに33パーセントバックしても、何万円も何十万円も自分のファイトマネーとして、プロとして実践する選手も居るのかもしれない。バック無しであっても現金含めたファイトマネー総額から33パーセント以内という規定で差し引かれているのが契約上の義務である(総額が曖昧で何パーセント引かれているか分からない場合も多い)。

ある時代、有名外国人選手が出場するビッグイベント興行を手掛けた某ジム会長。それが大変な赤字を抱えてしまうと、その負債が長い期間、足枷になる場合もあるという。

そんなある興行を前に起きたこと。その所属ジムの某選手の話では、会長から選手4人に5,000円券20枚を「アルバイト先でも捌いてくれ!」と頼まれてしまったが、その売り上げは全額会長戻し。それは、“選手たちも貢献してね”という意味だった。その会長は、無理を押し付けている為、「もし売れなかったら、“売れませんでした”でもいいからね!」と柔軟に対応してくれたが、選手皆、会長とは厳しくも信頼ある仲で、反発する意識は無く、なぜか心に余計なプライドが宿って、「自分に割り振られた分ぐらいは必ず捌きます!」と受けてしまった。カッコつかないし、ヘタレと思われたくなかったのである。

しかし、その某選手は、自身が出場する試合は仕事先で毎度100枚ぐらい捌くものの、このビッグイベントも20枚ぐらいなら割とすぐ捌けるかなと思ったところが、自身が出場しないと5,000円券がなかなか捌けない。すると、「半額の2,500円ならば買ってもいい!」と言うのが数名居た程度だったという。

昔、私も貰ったことある招待券、タダでも来なかった友達の分

そんな状況で、「会長、チケット売れませんでした、戻させてください!」とは絶対言いたくない。それで、「まあこんなボランティアは今後もう無いだろう。それにたかが10万円程度でも、育ててくれた会長への恩返しと思えばいいか!」と妥協する心も芽生えたという。

例え半額にしてでも何とか捌きたかったが、他の選手にはその内情は一斉語らず、
「俺はとりあえず何とか20枚捌いたよ!」と見栄を張ったら、それで終わりではなくなった。それを聞いた他の3選手、「すみません。会長には内緒で、俺らの分も少しでいいから、お手伝いお願い出来ないでしょうか?」と頼まれてしまい、“少し”と言うから仕方無いなあと思っていると、内2人はキッチリ20枚ずつ持って来たという。全く売れなかったようだ。赤字の歪みはこんなところにも表れるのだった。

テレビ出演も多いスポーツストレッチングトレーナーの兼子ただしは毎度、オレンジTシャツ一色となる大応援団となった(2014.4.20)

◆これもプロの仕事!

選手がチケット捌きをしなければならないのは試合出場とそれに懸けるトレーニングとは別の労働力であろう。職場や後援会、近所付き合い、学生時代の仲間がいない場合、住宅街や団地を一軒一軒回って、キックボクシングのチケットを押し売りする選手はいないだろうが、新聞購読勧誘員のような悪びれない労働はなかなか出来るものではない。

そんな過酷さは関係無くても、選手のチケット捌きの実情から、2016年9月に(株)ブシロードが「KNOCK OUT」を手掛けた際、「手売りを無くしたい!」と語っていた木谷高明社長。選手がチケットを捌くことへ、「そんな時間があったらトレーニングに専念して欲しい!」との意向で、「選手のチケット手売りをやめさせ、誰が出るか発表しなくてもチケットが売れるようにしたい。手売りをやってる限り先は無く、手売りは供給側の事情で、お客さんの需要側に立ってないことです!」と語っていた。それ自体は将来を見据えた選手に優しい運営システムだが、その負担をいつまでも自社戦略でカバーできるものではなかっただろう。

後援会など応援してくれる仲間内が居る選手は「チケットでなければ困る!」という例もあるといい、そのバランスが難しいようでもあった。

また、「試合、練習、チケット捌き含めてプロの仕事だ。みんな昔からやってんだ。それぐらいの甲斐性持て!」という古い世代の会長たちも居る。それはプロボクシングの古き時代からキックボクシングまで、長きプロ興行の習慣である。こんな習慣はまだ延々と続くのだろう。捌ける選手はそんな営業力有る選手で逞しさもあるが、捌けない選手は現役生活が続けられないほど自分で赤字を抱える場合もあることは、何とか改善していかねばならない問題である。

フェザー級2位、兼子ただしは(株)SSS社長、最大級の応援団で毎度客席を埋めた大歓声はチャンピオンクラスだった (2017.3.12)

▼堀田春樹(ほった・はるき)[撮影・文]

フリーランスとしてキックボクシングの取材歴32年。「ナイタイ」「夕刊フジ」「実話ナックルズ」などにキックのレポートを展開。ムエタイにのめり込むあまりタイ仏門に出家。座右の銘は「頑張るけど無理しない」

一水会代表 木村三浩 編著『スゴイぞ!プーチン 一日も早く日露平和条約の締結を!』
上條英男『BOSS 一匹狼マネージャー50年の闘い』。「伝説のマネージャー」だけが知る日本の「音楽」と「芸能界」!

村田裕俊、優勝で有終の美を飾る! 交戦シリーズVol.5

昨年12月14日にスタートしたジャパンシフトランド杯59kg級トーナメントの決勝戦。村田裕俊は初戦(準々決勝)、テープジュン・サイチャーン(ReBORN経堂)に判定勝利。2月8日の準決勝、遠藤駿平(WSR・F三ノ輪)に判定勝利。

髙橋亮は初戦(準々決勝)で、一仁(真樹AICHI)に判定勝利。準決勝、コッチャサーン・ワイズディー(タイ)にTKO勝利。

辛うじて、しかし激闘の末、優勝を果たした村田裕俊

コロナ禍の中、4月予定だった決勝戦は先行き見通しが立たない中、10月開催が決まった。このトーナメントを優勝か、それまでに敗れた時点で引退を宣言していた村田裕俊は有終の美を飾ることとなった。

村田は、髙橋兄弟三人とも戦い、苦しい戦いを経ながら三兄弟の御陰で強くなれたことや、ジム会長をはじめとする応援してくれた関係者への感謝、両親へは産み育ててくれたことへの感謝を述べ、引退テンカウントゴングが打ち鳴らされて公式戦最後のリングを降りました。

◎交戦シリーズVol.5 / 10月10日(土)後楽園ホール18:00~20:55
主催:日本キックボクシング連盟 / 認定:NKB実行委員会

◆第8試合 ジャパンシフトランド杯59kg級トーナメント決勝 5回戦

村田裕俊は右ハイキックをブロックの上からでも蹴って出る

NKBフェザー級チャンピオン.髙橋亮(真門/25歳/58.7kg)
    VS
同級2位.村田裕俊(八王子FSG/31歳/59.0kg)
公式5回戦判定は引分け三者三様
延長戦0-3 / ジャパンシフトランド杯トーナメントルールにより勝者:村田裕俊
主審:前田仁
副審:佐藤友章49-48(9-10) 馳大輔49-49(9-10) 仲俊光48-50(9-10)

元々は体格さ有った両者。高橋亮はバンタム級から上がり、村田はフェザー級がベストウェイトながら、ライト級で高橋一眞と王座決定戦で戦った経験を持つ。

長身の村田が距離を活かしたリズムを作っていくが、高橋亮は蹴りの素早さで攻撃力を増していく。組み合うと村田のヒザ蹴りのしつこさがやや有利な展開を見せるが、転ばしにいくのは高橋亮。

後半は両者とも主導権を握ったかとは言えない流れで倒しに行く攻撃力が増すも、三者三様の引分けとなってしまう。延長戦は両者我武者羅。高橋亮はパンチ中心。村田は組み合ってのヒザ蹴りでの粘り強く出る印象が強くなり、優勢を掴む。

高橋亮のヒジ打ちは外れるもどちらが斬られるか分からない両者の攻防
村田裕俊は斬られながらも悔いを残さない最後のラッシュに懸ける
最後はタイ式に拝み(ファン、師匠、両親へ)、リングを降りた

◆第7試合 第15代NKBウェルター級王座決定トーナメント決勝戦 5回戦

ガルーダ・テツ会長と勝利のツーショット

NKBウェルター級2位.稲葉裕哉(大塚/33歳/66.68kg)
    VS
同級4位.蛇鬼将矢(テツ/31歳/66.5kg)
勝者:蛇鬼将矢が新チャンピオン / 判定0-3 / 主審:鈴木義和
副審:川上47-50. 仲47-49. 前田46-50

昨年6月15日に引分けている両者。蹴りとパンチの正攻法な様子見から、蛇鬼の変則的な動きに移ると冷静にかわす稲葉。しかし第3ラウンドには稲葉がパンチで攻めたところでやや前屈みになると、蛇鬼のカウンターのヒザ蹴りをアゴに受けてしまいノックダウンを喫してしまう。

ここからバランスを崩しやすくなった稲葉。互いの攻撃力は増すも、稲葉は蛇鬼のヒジ打ちで目尻や額を斬られ、蛇鬼は主導権を譲らず判定勝利を掴む。

2002年から始まったNKB各階級王座。ウェルター級は石毛慎也(東京北星)が小野瀬邦英(渡辺)をKOで下して初代チャンピオンとなった試合から第15代目となったのは蛇鬼将矢となった。

蛇鬼将矢が稲葉裕哉に相打ち気味のカウンターパンチがヒット
毎度の流血戦となる稲葉と打ち合いとなる蛇鬼将矢

◆第6試合 ライト級3回戦

NKBライト級2位.髙橋聖人(真門/22歳/61.2kg)
    VS
同級3位.野村怜央(TEAM KOK/30歳/61.2kg)
勝者:高橋聖人 / 判定3-0 / 主審:佐藤友章
副審:川上30-25. 前田30-25. 馳30-25

互角の蹴りとパンチの様子見から、高橋聖人はハイキックや前蹴りが顔面を捉える見映えいい蹴りが続き、徐々に勢い増していく。

第2ラウンド、髙橋聖人は組み合ったヒザ蹴りからやや離れたところで右ストレートでノックダウンを奪い、第3ラウンドにも野村をコーナーに詰めた辺りで右ストレート気味のパンチでノックダウンを奪い、高橋聖人の順当な大差判定勝利となった。

チャンピオンは高橋三兄弟長男・一眞だが、タイトル争いの行方も気になるところである。

高橋聖人の前蹴りで野村玲央の前進を止める
高橋聖人のハイキックは素早くしなやかに高く上がる蹴りでヒット

◆第5試合 67.0kg契約3回戦

NKBウェルター級3位.笹谷淳(TEAM COMRADE/45歳/66.95kg)
    VS
CAZ JANJIRA(JANJIRA/33歳/67.0kg)
勝者:CAZ JANJIRA / 判定0-2 / 主審:仲俊光
副審:鈴木30-30. 前田28-30. 馳28-30

◆第4試合 63.0kg契約3回戦

福島勇史(ケーアクティブ/34歳/62.8kg)
    VS
洋介(渡邉/40歳/62.6kg)
勝者:洋介 / TKO 1R終了 / 主審:川上伸

◆第3試合 54.0kg契約3回戦

古瀬翔(ケーアクティブ/24歳/53.95kg)
    VS
七海貴哉(G-1 TEAM TAKAGI/23歳/53.85kg)
勝者:七海貴哉 / 判定0-3 (23-30. 23-30. 23-30)

◆第2試合 バンタム級3回戦

ナカムランチャイ・ケンタ(team AKATSUKI/20歳/53.4kg)
    VS
幸太(八王子FSG/22歳/53.4kg)
勝者:ナカムランチャイ・ケンタ / TKO 3R 2:59

◆第1試合 60.0kg契約3回戦

誠太(アウルスポーツ/29歳/59.8kg)
    VS
龍ヶ崎マサト(SIROI DREAM BOX/51歳/59.4kg)
勝者:誠太 / TKO 2R 1:46

《取材戦記》

交戦シリーズの「Vol.5」は当初の予定に組まれた興行ナンバー。実質今年2回目の興行となります。年明けから興行は少なかったが、昨年のPRIMA GOLD杯トーナメント決勝戦は台風の影響による延期と、今年のジャパンシフトランド杯トーナメントはコロナ禍の中での延期、決勝戦を控え、長く引きずってしまうも止むを得ないところです。

村田裕俊、やり残したことは無く、悔いを残さず完全燃焼した様子。31歳での引退は現在ではまだ早過ぎると言われる年齢だが、完全燃焼したか、まだやり残したことがあるか、まだ必要とされているか等、選手それぞれの生き方があり、過去には引退の時期を逃してしまった選手も居たり、引き際は難しいものかもしれません。
村田は今後、タイと日本を行き来し、バンコクが拠点という現役中に設立したセレクトショップUT-Jaiの店長として覚悟を持って頑張っていくという。プロスポーツ選手の年齢を重ねた引退後のビジネスは大手企業に新卒採用されるような枠は無く、新たな生き方を設計しておかねばならない。キックボクシングの貴重な経験を活かし、軌道に乗ることを願いたい。

第3試合、古瀬翔からノックダウンを奪った七海貴哉にカウントを始めたレフェリー。暫くして気付いたか、周りが指摘したかは聞こえなかったが、七海貴哉はよく抗議しなかったものだ。パンチで倒れ、加撃を防ぐ為、両者を分けて入って間違ったか。20年ほど前にもこの団体で同じことがあった。レフェリーは選手をしっかり見極めねばならない。

日本キックボクシング連盟年内興行は、11月15日(日)大森ゴールドジムに於いて、テツジム主催のプロ3試合を含むオヤジ・オナゴキック関東大会が開催。

12月12日(土)は後楽園ホールに於いて、交戦シリーズ最終戦が開催予定です。

▼堀田春樹(ほった・はるき)[撮影・文]

フリーランスとしてキックボクシングの取材歴32年。「ナイタイ」「夕刊フジ」「実話ナックルズ」などにキックのレポートを展開。ムエタイにのめり込むあまりタイ仏門に出家。座右の銘は「頑張るけど無理しない」

月刊『紙の爆弾』2020年11月号【特集】安倍政治という「負の遺産」他
一水会代表 木村三浩 編著『スゴイぞ!プーチン 一日も早く日露平和条約の締結を!』
上條英男『BOSS 一匹狼マネージャー50年の闘い』。「伝説のマネージャー」だけが知る日本の「音楽」と「芸能界」!

老舗、キック再開から巻き返しへ挑む! TITANS NEOS 27

昨年春の分裂、藤本ジム閉鎖、今年のコロナ禍で続く苦境の中、新日本キックボクシング協会も興行の在り方が大きく変化。

江幡ツインズがRIZINに出陣した現在、メインイベントを務めるのは勝次(=高橋勝治)。藤本ジムの看板を背負い、責任ある立場となってメインイベントを務めるも、潘隆成に敗れる波乱の幕開けとなった。

8月12日のTITANS NEOS.27に向けた記者会見で、藤本ジムへの想いを語った勝次。

今年1月末に、闘病中の藤本勲会長が病状悪化により藤本ジムが閉鎖に至り、所属選手はそれぞれの道に進んだ。

勝次は今後について、「新日本キックボクシング協会で多くのチャンスを頂き、日本とWKBA世界王座獲得するなどお世話になって来て、この団体を離れる選択肢はありませんでした。」と言う。

更に藤本ジムが引き継いだ目黒ジムの伝統が途切れるという危機感があり、自分が藤本ジムを引き継ごうと、藤本勲会長がジムを閉鎖する前、藤本ジムの名前を使うことを嘆願し、「勝次だったら大丈夫だ、名前だったら幾らでも使ってくれ、何かあったら力になるし、応援しているから!」と承認されていました。

伊原信一代表からは「勝次はそれでやるんだったら、それで頑張るしかないぞ。藤本ジムの名前でやっていけ。この伊原道場を自分のジムだと思って好きなだけ使ってくれ。」と協力的。そして勝次は伊原ジムとのプロモーション、マネージメント契約を締結し活動していくことになっていました。

5月5日に藤本会長が永眠され、コロナ禍で長引いた再開興行の9月27日、ここからの初戦を飾れなかった勝次。今後更なる厳しい境地に立たされる。

潘隆成の右ヒジ打ちが勝次の左瞼にヒットする直前

◎TITANS NEOS 27
9月27日(日)後楽園ホール / 18:00~20:10
主催:TITANS事務局 / 認定:新日本キックボクシング協会  

◆第8試合 63.6kg契約3回戦

WKBA世界スーパーライト級チャンピオン.勝次(藤本/63.5kg)
    vs
潘隆成(元・WPMF日本スーパーライト級C/クロスポイント吉祥寺/63.45kg)

勝者:潘隆成 / 判定0-3 / 主審:少白竜
副審:仲29-30. 宮沢28-30. 桜井28-30

必死にパンチで巻き返しにかかる勝次、潘隆成はまともには食わなかった
やっぱり出た飛びヒザ蹴りの勝次、強引にいくとヒットは難しい
潘隆成の左ミドルキックにリズムを狂わされた勝次

勝次のオープニングヒットとなった右ストレートからの主導権を奪いにいくも、その勝次の突進を阻止する潘隆成。

特に左ミドルキックでリズムを狂わされた感の勝次。

組み合ってからの崩しも潘隆成が優り、第3ラウンドにはヒジ打ちで左瞼をカットされてしまった。

パンチで幾らか軽いヒットさせた勝次だが、潘隆成のディフェンスに阻まれ強いヒットは与えられず押し切られてしまった。

勝利の潘隆成のチーム、T-98(今村卓也)がチーフセコンドを務めた

◆第7試合 70.0kg契約3回戦

日本ウェルター級チャンピオン.リカルド・ブラボ(伊原/69.8kg)
    vs
津崎善郎(LAILAPS東京北星/69.9kg)
引分け1-0 / 主審:椎名利一
副審:仲29-29. 宮沢30-29. 少白竜29-29 

第1ラウンド早々に股間ローブローを受けてから攻め倦み、津崎の前進から組み合う展開は津崎の圧力が優るが、ブラボはパンチとヒザ蹴りを的確に当てる印象も活き、両者の主導権争いは差が出ず。

苦戦の中にもハイキックを見せたリカルド・ブラボ
前進する津崎善郎にパンチのヒットも多かったリカルド・ブラボ

◆第6試合 63.0kg契約3回戦

日本ライト級チャンピオン.高橋亨汰(伊原/62.75kg)vs 野津良太(E.S.G/61.55kg)
勝者:高橋亨汰 / TKO 1R 2:19 / 主審:桜井一秀

両者の蹴りとパンチの様子見から、サウスポーの高橋が蹴りから左ストレートを打ったところで、グローブの内側が擦れるように野津の顔面をヒットすると、これで右瞼をカット。ドクターの勧告を受入れレフェリーストップとなった。

高橋亨汰の左ストレートはグローブの内側をかすって野津良太の右瞼にヒット(画像は別シーン)
あっけない幕切れながら、TKO勝利の高橋亨汰

◆第5試合 53.0kg契約3回戦

泰史(伊原/52.95kg)vs 心直(REON Fighting Sports/52.8kg)
勝者:心直 / 判定1-2 / 主審:仲俊光
副審:椎名29-30. 桜井30-29. 少白竜28-30

初回から心直がやや勢いがある蹴り。やや遅れ気味の泰史の攻めをいなすも、泰史は態勢を立て直し互角の展開。採点は振り分け難い判定となった。

心直が先手を打って出た。右ハイキックが泰史のアゴに軽くヒット

◆第4試合 57.0kg契約2回戦

中村哲生(伊原/56.95kg)vs 平田尚人(Tri.Studio/56.8kg)
勝者:平田尚人 / TKO 1R 0:55 / 主審:宮沢誠

平田のパンチ連打で中村はスタンディングダウンを奪われ、更に連打を受けてノックダウンし、レフェリーストップ。

◆第3試合 57.5kg契約3回戦

瀬川琉(伊原稲城/57.3kg)vs 新田宗一朗(クロスポイント吉祥寺/57.3kg)
勝者:新田宗一朗 / 判定0-2 / 主審:少白竜
副審:仲29-29. 桜井29-30. 宮沢28-30

◆第2試合 女子51.0kg契約3回戦(2分制)

アリス(伊原/50.25kg)vs ERIKO(ファイティングラボ高田/49.5kg)
勝者:ERIKO / 判定0-3 / 主審:椎名利一
副審:仲27-30. 少白竜27-30. 宮沢27-30

◆第1試合 女子スーパーフライ級3回戦(NJKFミネルヴァ/2分制)

芳美(OGUNI/52.05kg)vs NA☆NA(エス/51.9kg)
勝者:NANA / 判定0-3 / 主審:宮本和俊(NJKF)
副審:椎名28-29. 少白竜28-30. 桜井28-29

《取材戦記》

キックボクシングは何度負けても必要とされている限りは再起の道が用意されている場合が多い。プロボクシングだったら戦力外通告で、ジムのロッカーから名前が消されるのも実際にある話。しかしファンから見れば、負けても応援したくなる再起の道。キックではどれだけ負けが込んでも試合に出続ける選手もいる。燃え尽きるまで戦うことが出来るのもキックボクシングなのかもしれない。

ソーシャルディスタンスを保たれた興行が徐々に再開し、収容最大人数(席)の50パーセント以内という条件で各団体、各プロモーション興行も厳しい条件ながら安定してきた感があります。

この日時点では、プロボクシングはまだリングサイド撮影が認められていない模様。スポーツ新聞各社(記者クラブ所属)が揃ったらソーシャルディスタンスを保てない事情もあるかもしれません。キックボクシングは通常、一般マスコミだけなので少人数に限定することは可能でも、元から少ないので混乱にはなっていません。

新日本キックボクシング協会、今回の興行はクラウドファンディングを利用し、246人のサポーターから194万1,000円が集まった模様です。私も応援購入でSAVE THE KICKマスクを購入し付けて行ったら、このマスクを他に付けている人はスタッフの林武利さんだけ。見た限り他は誰も付けて居ない様子。

次回、10月25日(日)興行MAGNUM.53に於いて、勝次はNJKFスーパーライト級チャンピオンの畠山隼人(ESG)と対戦予定。またも他団体チャンピオンとの対戦となり、今度こそ負けられない一戦となる。

ここで負けたら伊原ジムのロッカールームで「藤本ジム・勝次」の名が無くなる!?……かもしれない。

▼堀田春樹(ほった・はるき)[撮影・文]

フリーランスとしてキックボクシングの取材歴32年。「ナイタイ」「夕刊フジ」「実話ナックルズ」などにキックのレポートを展開。ムエタイにのめり込むあまりタイ仏門に出家。座右の銘は「頑張るけど無理しない」

一水会代表 木村三浩 編著『スゴイぞ!プーチン 一日も早く日露平和条約の締結を!』
上條英男『BOSS 一匹狼マネージャー50年の闘い』。「伝説のマネージャー」だけが知る日本の「音楽」と「芸能界」!

格闘群雄伝〈07〉ソムチャーイ高津 ムエタイに染まった人生、友達の輪は人望からくる因果応報!

◆格闘技人生の始まり!

元NJKFライト級1位.ソムチャーイ高津(ソムチャーイ・タカツ/1969年6月16日、神奈川県藤沢市出身)は、ムエタイの師匠、パイブーン・フェアテックス氏が名付け親となるリングネーム。タイトル獲得歴は無いが、不思議な人望と人脈を持つ、オモロイキックボクサー人生である。

タイ初試合、ポンテープ戦は判定負け。撮影:パイブーン・フェアテックス 1993.5.4

ソムチャーイ高津は、幼い頃から格闘技に興味を持ち、漫画や映画で公開された「四角いジャングル」を観てより一層格闘技に魅せられていった。

高校3年の1987年8月2日、シューティング(修斗)に入門。アマチュアで3戦したが、プロはまだ無い時代だった。

元々、日本人初のラジャダムナンスタジアムチャンピオン、藤原敏男に憧れを抱いていたソムチャーイ高津は、後に打撃競技をやりたくなったのを機に、1988年8月2日、OGUNI(小国)ジムに入門、藤原敏男氏が厳しい鍛錬に耐えた黒崎道場はすでに無く、その黒崎イズムを継承するのは藤原敏男氏の後輩、斎藤京二氏がトップ選手として活躍する小国ジムであると確信したからだった。

◆タイへ渡って多くの経験!

プロデビューは1989年4月8日、中島貴志(東京北星)にKO勝利。翌年10月の再戦では、激戦の末のドローとなったが、中島貴志のトレーナーだったユタポン・ウォンウェンヤイ氏からタイ式の攻防としても凄く褒められたことで、ムエタイとは切っても切れない縁となったと感じたという。

タイ2戦目、サクアーテット戦も判定負け。撮影:パイブーン・フェアテックス 1993.6.1

そして運命に導かれるままの初のタイ遠征で向かった先はフェアテックスジム。ここはすでにタイで修行を積んだOGUNIジムの先輩が勧める名門で、奇しくも過去の入門日と連鎖する1991年8月2日にジム入り。ここで専属トレーナーとして家族との住居を構える、1960年代の、タイでは5本の指に入る伝説のチャンピオン、アピデ・シッヒラン一家と一つ屋根の下で暮らし。

ジムでは最初は誰もが馴染めぬタイ人との距離も、ソムチャーイ高津は持ち前の明るさと人懐っこさで難なく親しんでいった。アピデ氏夫妻との生活は、タイのお父さんお母さんと呼ぶまでになり、ここでトレーナーを務めるパイブーン・フェアテックス(元・ルンピニースタジアムランカー)とは先生と崇め、切っても切れない縁も連鎖した。

全日本ライト級王座挑戦、内田康弘に判定負け。1996.3.24

タイで初めての試合は1993年5月4日、パイブーン先生の故郷、チャイヤプーム県で、積極的な展開も善戦の判定負け。タイでの戦績が最初は10連敗だったが、勇敢な戦いが続いたことからパイブーン先生から、タイ語のリングネーム付けた方がいいという話が持ち上がり、タイで流行っていた曲の「タオ・ソムチャーイ・ケムカッ!(勇敢な男)」というフレーズから“ソムチャーイ”のリングネームが付けられた。

そこからもタイ遠征する度、試合出場を続けた1997年初春、次にパイブーン先生に掛けられた言葉が、「タカツもそろそろ出家するべきじゃないか?」と言われたことで、タイでは一人前の大人となる通過儀礼ではあるが、アピデさんの息子さんやフェアテックスジムの仲間たちといった身近な人の出家を見て来た縁もあって、違和感無く出家を決意。あらゆる寺が候補に挙がるも、パイブーン先生の実家があるチャイヤプーム県にあるワット・コークコーンに決まり、9日間の出家となった。ムエタイボクサーはブランクを空けない短期出家となりがちだが、短期でもテーラワーダ仏教の教えはその後の人生にも影響を与えていったという。ムエタイ修行の厳しさが活きるが故の習得力だっただろう。

タイに渡る度、パイブーン先生の実家に訪れると、家族のように迎えられるソムチャーイ高津だった。チャイヤプームはもう第2の故郷である。

NJKFライト級王座挑戦、小林聡に何度もヒジ打ちヒットさせるもKO負け。1997.4.6(左)。タイでもうひとつの修行、出家を経験。 撮影:パイブーン・フェアテックス1997.5.18~5.26(右)

◆ムエタイが導いた日本での活躍!

日本に於いては、ムエタイ修行の成果はすぐには表れず、3回戦(新人クラス)時代が長かった。OGUNIジムはタイからチャイナロンというトレーナーを招聘すると、それまでわずかに残っていた黒崎イズムから、今迄に無いムエタイのムードが漂ってきた。

引退試合、OGUJIジムが招聘した二人の名トレーナー、パイブーンとチャイナロンがセコンドに付く。2004.11.23

ソムチャーイ高津はタイでの練習に近い環境が整うと、やがてジワジワと修行の成果が物を言い出してランキングは上昇。後にはパイブーン先生も招聘することに成功したが、全日本ライト級タイトルをはじめとした国内タイトルには、当時のトップクラスに阻まれ、計5度に至る挑戦は実らなかった。

1997年4月のNJKFライト級王座に挑戦した、小林聡(東京北星)戦では、ヒジ打ちを何度も叩き込み、ガチガチ打ち合う一番噛み合った試合となったが最後はローキックで倒された。後に小林聡から「高津との試合がベストバウトだった!」と言ってくれて、お世辞でも嬉しかったという。

2004年11月23日の引退試合を含め、日本で41戦17勝(9KO)17敗7分、タイでは25戦6勝(4KO)19敗だったが、技術的にはまだ伸びていた中、打たれ脆くなったことを意識し、現役を去ることとなった。

引退後はトレーナー人生となったが、タイ修行で得た厳しい指導で多くの後輩をチャンピオンに育て上げることに繋がった。2009年10月18日、大槻直輝がWBCムエタイ日本フライ級初代チャンピオンとなると、パイブーン先生は「よく育て上げたな、タカツは俺が認める一人前のムエタイトレーナーだ!」と恩師から名トレーナーの勲章を頂いたような感動もあったが、パイブーン先生は役目を終えたかのようにタイに帰ることになった。

◆引退してもムエタイとの繋がりはより深く!

ソムチャーイ高津はその後も後輩をムエタイ修行に導いたり、アピデさんやパイブーン先生と酒を酌み交わす為、タイには頻繁に訪れていた。しかしそんな師匠らとの別れの時がやってきた。

アピデさんは肺癌を患い入院。末期には奥様が気晴らしに散歩を勧めても、もう出歩くことを嫌がるほど気力は衰え、2015年4月に永眠された。73歳だった。

引退試合、高野義章戦、最後までヒザ蹴りを活かしたが判定負け。2004.11.23
引退セレモニー、息子を連れて御挨拶、後方にチャイナロンとパイブーンが控える。2004.11.23

ソムチャーイ高津は、「1993年頃、一度だけアピデ父さんの実家に連れて行ってもらいました。近くのワット・バーングンでアピデ父さんは、“いつもこのお寺で練習していたんだ。タカツも一緒に練習しよう”と言われてシャドーボクシングしたことがあります。また、最後の入院した病室では二人きりになった時、“タカツ、一杯やろう”とベッドの下から酒瓶を出し、どうやって厳禁の酒を持ち込んだのか分からないのが笑えてしまった。でも最後の杯を交わしました!」と懐かしく振り返る。

パイブーン先生は帰国後、後に肝硬変で体調を崩し、2017年9月、肝臓癌で永眠。56歳だった。亡くなる前、「俺の葬儀には来るな!」と言っていたという。

言い付けを守り、衰弱した頃にはタイには見舞いも葬儀も行かなかったが、電話で何度も懐かしい話をしたという。辛い別れ方だが、この世に生まれたものは全ては劣化し消えていく諸行無常を知り得たソムチャーイ高津。生涯、タイでの二人の師匠に誇れる人生を送るだけであろう。

今もムエタイ繋がりの仲間は多く、日本で梅野源治や石井宏樹に勝利したゲーオ・フェアテックスの来日の際も付き添った。ソムチャーイ高津が初めてタイに行った時、練習していたゲーオはまだ小学生だった。そんな名チャンピオンの幼い頃を知る仲でのお付き合いが多いのもお金では買えない財産。

憧れの藤原敏男さんとは、知人の飲み会に誘われて一緒に陽気に呑んだことで、その際に「君は面白い奴だな!」と言われ、2016年7月、ディファ有明での、タイTOYOTA CUPのムエタイイベントで、かつてラジャダムナンスタジアムで藤原敏男さんと名勝負を展開したシリモンコン・ルークシリパット氏が来日した際は通訳として呼ばれ、その後も呑む機会に誘われている模様。

とにかく、このソムチャーイ高津は羨ましい奴である。ムエタイの英雄、日本の英雄らと常に声を掛けられ、ここまで人望が厚いのは生まれ持った才能とムエタイとキックと仏門での努力の賜物。今もソムチャーイ高津に会いたがっているムエタイボクサーは多い。

是非、私(筆者)も肖(あやか)りたいものである。

日本での試合、ゲーオ・フェアテックスのセコンドを務めたソムチャーイ高津(左)。アピデ夫妻とのスリーショット。2015年春(右)

▼堀田春樹(ほった・はるき)[撮影・文]

フリーランスとしてキックボクシングの取材歴32年。「ナイタイ」「夕刊フジ」「実話ナックルズ」などにキックのレポートを展開。ムエタイにのめり込むあまりタイ仏門に出家。座右の銘は「頑張るけど無理しない」

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キックボクシング、“激動サバイバル”新時代へ! NJKF再開興行

コロナ禍の中、NJKF再開興行はWBCムエタイ日本タイトルマッチ3試合開催。

大田拓真は初防衛、一航は王座獲得と兄弟揃ってチャンピオンとなった二人は、昨年から比べて更にNJKFの新しいエース格的存在となった。一航はホームリングでの有利さでチャンピオンに就いた感が残るが、岩浪悠弥とは今後、倒す技を持って何度も対戦して欲しいところでもあります。

ライト級はNJKFチャンピオンの鈴木翔也がJKAチャンピオンの永澤サムエル聖光に敗れる。両者いずれも国内下部的存在の団体タイトルで、永澤は上位的タイトルのWBCムエタイ日本王座に就いたことは、過去敗れている相手とサバイバルマッチへ向かう大きな前進でしょう。

S-1レディース・バンタム級ジャパントーナメント決勝戦はSAHOとYAYAウィラサクレックが勝ち上がり、11月に決勝戦となります。

大田拓真(兄・左)と一航(弟・右)、来年が楽しみなNJKFを支える兄弟

◎NJKF 2020.3rd / 9月12日(土)後楽園ホール18:00~21:23
主催:ニュージャパンキックボクシング連盟
認定:NJKF、WBCムエタイ日本協会

◆第8試合 WBCムエタイ日本バンタム級王座決定戦 5回戦

2位.岩浪悠弥(元・フライ級C/橋本/22歳/53.5kg)
    VS
4位.一航(=大田一航/新興ムエタイ/19歳/53.52kg)
三者三様の引分け / 主審:宮本和俊
副審:中山47-50. 松田49-48. 小林48-48
チェアマン:斎藤京二、竹村光一

ラウンドを増すごとに距離は縮まって攻防は激しくなり、互いに幼い頃から修練してきた技は上手いが相手を後退させるようなインパクトは無い競り合い。どちらが主導権を奪ったと見えるかの差で三者三様となった。チェアマン2名による審議の上、WBCムエタイ日本協会代表・斎藤京二氏の支持による一航の勝者扱いで第7代チャンピオンに認定。公式記録は引分け。

一航vs岩浪悠弥。一進一退の中、一航のハイキックが岩浪悠弥にヒット
一航vs岩浪悠弥。決定打は少ないが、競り合う攻防は見応えがあった

◆第7試合 WBCムエタイ日本フェザー級タイトルマッチ 5回戦

第7代チャンピオン.大田拓真(新興ムエタイ/21歳/57.15kg)
    VS
挑戦者同級4位.宮崎勇樹(相模原S/26歳/57.15kg)
勝者:大田拓真が初防衛 / 判定3-0 / 主審:小林利典
副審:中山50-47. 松田50-47. 宮本50-47

前半、差の無い展開から次第に大田拓真の蹴りのヒットが目立っていく。後半に入るにつれ、首相撲からの崩しは大田拓真が投げ勝つように優勢を維持するとヒザ蹴りも増え、リズムを掴んだ大田は宮崎の攻めをかわし完全に主導権を奪い、余裕を見せた後ろ蹴りもヒットは軽くても優勢をアピールして終了。

昨年飛躍を遂げた大田拓真が宮崎勇樹をテクニックで押していった
バランスを崩しながらも大田拓真が攻めの勢いで圧していく

◆第6試合 第6代WBCムエタイ日本ライト級王座決定戦 5回戦

2位.鈴木翔也(NJKF同級C/33歳/OGUNI/61.15kg)
    VS
永澤サムエル聖光(JKA同級C/30歳/ビクトリー/61.2kg)
勝者:永澤サムエル聖光 / 判定0-3 / 主審:中山宏美
副審:小林46-50. 松田47-50. 宮本46-50

前半、やや距離ある中での蹴り中心の探り合いから、第3ラウンド後半には距離が縮まり、パンチ、ヒジ打ちでのノックダウンに結び付きそうなスリルを増していった。鈴木のヒジ打ちで永澤の額をカットするが、更に蹴りを交えながら隙を狙った打ち合いが続き、第5ラウンドには永澤がパンチ一発タイミングよく鈴木からノックダウンを奪って判定勝利を導いた。

永澤サムエル聖光と鈴木翔也の接近戦の攻防、この打ち合いは一進一退

◆第5試合 S-1世界スーパーライト級挑戦者決定戦3回戦

WBCムエタイ日本ウェルター級チャンピオン.健太(E.S.G/33歳/63.25kg)
    VS
WBCムエタイ日本スーパーライト級チャンピオン.北野克樹(誠至会/24歳/63.5kg)
勝者:北野克樹 / 判定1-2 / 主審:松田利彦
副審:小林28-30. 中山30-29. 宮本29-30

北野の先手を打つローキック、バック蹴り等で派手に攻める。組み合った際は健太の素早いヒジ打ちなどでベテランの上手さを見せるが主導権を奪うに至らず、北野の勢いを止めることが出来なかった。時代の流れも感じる若手の台頭であった。

珍しい健太の劣勢、北野克樹のハイキックがヒット

◆第4試合 S-1レディース・バンタム級ジャパントーナメント初戦(準決勝)3回戦(2分制)

NJKF女子(ミネルヴァ)スーパーバンタム級チャンピオン.SAHO(闘神塾20歳/53.15kg)
    VS
J-GIRLSフライ級チャンピオン.梅尾メイ(TEAM BARBOSA JAPAN/33歳/52.9kg)
勝者:SAHO / 判定2-0 / 主審:竹村光一
副審:小林29-29. 松田30-28. 中山30-28

僅差ながらSAHOがパンチの攻勢で順当に決勝進出を決めた。

20歳のSAHOと33歳の梅尾メイは優勝候補1番のSAHOが制す

◆第3試合 S-1レディース・バンタム級ジャパントーナメント初戦(準決勝)3回戦(2分制)

NJKF女子(ミネルヴァ)スーパーバンタム級4位.KAEDE(LEGEND/17歳/53.45kg)
    VS
J-GIRLSスーパーフライ級チャンピオン.YAYAウィラサクレック(WSR・F幕張/33歳/53.4kg)

延長戦による勝者:YAYA / 判定0-1(延長1-2) / 主審:宮本和俊
副審:小林29-29(9-10). 竹村29-29(10-9). 中山28-29(9-10)

公式本戦も延長戦も際どい展開を見せるが、タイでデビューした日本国内無敗のYAYAがアマチュア60戦を越えるプロ3戦目のKAEDEを下した。

17歳のKAEDEと33歳YAYAの僅差は人生経験の差でYAYAが制した

◆第2試合 スーパーバンタム級3回戦

日下滉大(OGUNI/25歳/55.2kg)vs雄一(TRASH/32歳/55.3kg)
勝者:日下滉大 / 判定3-0 (30-28. 30-28. 30-28)

◆第1試合 75.0kg契約3回戦

雄也(新興ムエタイ/25歳/74.9kg)vs鈴木健太郎(E.S.G/30歳/74.85kg)
勝者:鈴木健太郎 / 判定0-3 (29-30. 28-30. 28-30)

敵地で日本を代表する王座奪取となった永澤サムエル聖光

《取材戦記》

WBCムエタイ日本王座は、2008年設立時の2団体間(NJKFと当時MA日本)に留まらず、好カード不足を補う事情もあるのか、現在は広域にタイトル挑戦の枠が広まった流れで権威がやや増した感があります。

しかしこの日のメインイベントの岩浪悠弥vs一航戦で、チェアマンによる採点集計に不備が生じ、発表から一旦訂正される慌ただしさが見られました。結果的に引分けが覆ることは無かったものの、これが勝敗が覆るとしたら大騒動になった可能性高いでしょう。

このWBCムエタイルールでのタイトルマッチでは引分けの場合、タイトルマッチの最高責任者とはいえ、チェアマンの支持によるチャンピオン認定というシステムには異論の声も多いところです。プロボクシング新人王トーナメント戦システムに倣うとしたら、優勢支持する権利は引分けを下した副審判に委ねるのが妥当でしょう。

また、トーナメント戦のような期限が限られる試合ではないので、本来なら時期を置いて再戦が望ましいところです。

今回も後楽園ホール1階入口付近でコロナ抗体簡易検査がありました。後楽園ホールの規定でリングサイドカメラマンのマスク、フェイスシールドかゴーグルの着用義務は、8月16日のジャパンキックボクシング協会興行と同じでした。フェイスシールドもゴーグルもカメラと擦れあってやっぱり傷だらけ。

リングアナウンサーのコンタキンテさんはこの時代の象徴のように、フェイスシールドを律義に最後まで付けてアナウンスしていたようで、将来皆がそんな画像や映像を見て「こんなこともあったね!」と懐かしく振り返るのかもしれません。

現在、マスクは絶対必要と思いますが、タイ・ラジャダムナンスタジアムでのカメラマンはマスクのみのようで、緩やかにでもコロナ終息に向かうならば、フェイスシールドは不要に向かって欲しいと願うところです。

次回、NJKF興行は11月15日(日)に後楽園ホールに於いて行なわれます。興行数から言えばまだ春先の雰囲気の中、早くも年内最終興行となります。

▼堀田春樹(ほった・はるき)[撮影・文]

フリーランスとしてキックボクシングの取材歴32年。「ナイタイ」「夕刊フジ」「実話ナックルズ」などにキックのレポートを展開。ムエタイにのめり込むあまりタイ仏門に出家。座右の銘は「頑張るけど無理しない」

最新! 月刊『紙の爆弾』2020年10月号【特集】さらば、安倍晋三
一水会代表 木村三浩 編著『スゴイぞ!プーチン 一日も早く日露平和条約の締結を!』
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格闘群雄伝〈06〉佐藤正男 格闘技の神髄へ好奇心旺盛に挑んだキックボクサー

◆目指すは名門黒崎道場

佐藤正男(さとう・まさお/山形県酒田市出身/1963年3月12日生)は幼少期から格闘技に興味を示し、黒崎道場に入門後も人知れず探究心を持って格闘人生を歩んだ。

小柄だが強かったマーノーイ・サクナリンにKO勝利(1991.10.19)

小学1年生で中国拳法を習い、高校1年生で極真空手を始めた。20歳で大道塾総本部(宮城県仙台市)入門。しかし大道塾だけの修行ならば、同期らとの差は簡単には付かないだろうと考えた佐藤正男は大道塾と平行して、キックボクシング仙台青葉ジムにも入門し、通い始めた。

初めてのキックボクシングの練習は、アマチュアとは違うマンツーマンの指導と僅かなフォームの矯正も徹底していて、プロへの道を強く意識することとなった。仙台青葉ジムはヤンガー舟木など名選手が揃う大手ではあるが、東京で勝負したかった佐藤正男は、「やはり、ラジャダムナン王座に上りつめた藤原敏男が所属した黒崎道場しかない!」と考え、21歳となったばかりの1984年(昭和59年)3月末に上京。4月1日、新格闘術・黒崎道場入門。

そこはやはりプロの世界。「しばらく通い始めて、ミット打ちミット蹴りサンドバッグ打ちも、初級同然だった!」という。

そしてまた思い立ったらすぐ行動に出る佐藤正男。「やはりキックボクシングとしては、パンチに関しては幾ら頑張ってみても、黒崎先生には大変申し訳ないが、全盛のトーマス・ハーンズ、ロベルト・デュランの様なパンチの技術、連打やその強さを百分の一たりとも習得することなど無理だろう!」と自問自答。

不破龍雄にはヒジで切られて流血の惜敗(1992.4.25)

◆デビュー戦に向けた練習

そして、黒崎代表には内緒で帝拳ジムへも入門。そこでは当時トレーナーであった元・世界ジュニアライト級チャンピオン、小林弘氏の指導を受ける機会を得た。周りを見ればKOキング浜田剛史は居る、穂積秀一は居る、それに他のジムから続々と出稽古に来る日本・世界ランカーらとのスパーリング等を連日目の当たりにして、
「パンチの技術は拳法、空手、キックと比べれば雲泥の差。プロボクシングとはこんなにも凄いのか!」という率直な感想。

そして、黒崎道場入門から1年近く経った頃には格段に進歩。黒崎代表も、さすがに何百人と指導していた経験で、“進歩の過程が他の奴とはちょっと違うな”と気付いた様子で、「お前、格段と上手くなったな、何でだ?」と聞かれて、「先生の指導を基本にボクシングやキックのビデオ等を繰り返し見て、自分なりに研究しました!」と言うと、「ああそうか!」と納得させてしまった。

打撃だけで飽き足らない佐藤正男は、その頃まで喧嘩では一度も負けたことがなかったと言うが、体の大きな奴に組まれたりすると押される場合があって、組技の重要性を認識。そこで文京区春日の講道館に入門。

「乱取りでは、初段クラス程度ならば力でなんとかねじ伏せた事もあったものの、三段クラスになると全く歯が立たなかった。柔道ってこんなにも強いものだったのか!」という新たな経験値となった。 それまでにボクシングやキックをわずかでも習得した佐藤正男には、空手は空手、柔道は柔道、ボクシングはボクシング、それぞれの競技の対比は強い弱いではない、全く別個性を持った競技なのだと体験をもって感じていた。

その中で、黒崎道場で行なう筋トレなどをはるかに超える圧倒的なパワーの必要性をも痛感していた佐藤は、近くのウェイトトレーニングセンターにも通い始め、このパワーアップトレーニングは何年も継続し、講道館での柔道は黒帯を取得。

あらゆる技術をマスターした佐藤正男のキックボクシングプロデビュー戦は1986年(昭和61年)6月28日、堂々たる試合運びで2ラウンドKO勝利を飾った。

選手入場シーン、不破との戦いに挑む前のリング下(1993.4.17)

◆渡辺ジムへ移籍

黒崎道場は目黒ジムに対抗する業界トップクラスの名門だったが、藤原敏男が引退した1983年(昭和58年)春には実質閉鎖されたジムだった。しかし名門だけに入門希望者は絶えなかった。そこで黒崎氏は若者を受け入れる鍛錬の場は残されたが、佐藤正男の入門当時は、黒崎代表から「望むなら幾らでも試合に出してやる。」と言われたが、現実的には自主興行は無く、入門後4年間でたったの3試合のみ。

そんな時期、夜は黒崎道場に通い、夕方迄の時間や日曜・祝日は可能な限り、帝拳ジム、講道館、ウェイトトレーニング、あとは重労働の仕事(体力を使う職種で入社10人中10人辞める程の会社)という目まぐるしい生活。

更にはムエタイにも興味を示し、休暇が取れる程度の短期間ながらタイに渡り、当時、ディーゼルノイやチャムアペットなどスーパースター級が揃っていたハーパランジムで修行。日本のジムとは別世界の、行なうもの全てが斬新な練習で本場の強さを実感した。

20代前半、黒崎道場入門からの4~5年は試合は少なかったが、自身最も過酷なスケジュールで駆け抜けた時期だった。

ここでプロ生活の分岐点。経緯は省くが、実戦を積みたかった佐藤正男は黒崎健時代表に相談し、日本キックボクシング連盟の渡辺ジムに移籍することが決まり、黒崎健時氏と渡辺信久会長が対面することになった。

黒崎健時氏は「佐藤正男は藤原敏男と同じく21歳で私の所へ来た。何とか形を作ってやりたかったが、ジムそのものを閉鎖した後だったから、5年居たが何も残してやれなかった。その正男が君の所へ行きたいと申し出て来た。正式に移籍させたいので正男のこと、どうか宜しくお願いします!」と渡辺会長に頭を下げられたという。

あの“鬼の黒崎”が自身より若輩者に頭を下げるとは。渡辺会長も恐縮することしきり。目の当たりにした佐藤正男は黒崎代表に対し、黒崎道場出身として恥じないキックボクシング人生を送る誓いを告げるのだった。

そして渡辺信久会長にしても責任重大。

「佐藤、覚悟を決めて送り出されてここに来たなら、そのつもりでしっかりやれよ、こっちもそのつもりで教えてやる。多少勝ち続けたとしてもこの世界、戦積・キャリアがないとナメられるぞ!」と聞かされた。

この渡辺ジム移籍は1988年(昭和63年)5月20日。そんな試合に飢えている佐藤正男は、「交流する他団体興行を含め、可能ならばすべての興行に出場させて欲しい!」と嘆願すると、「それは面白い!」と渡辺会長はニンマリ。

◆エース格に君臨

移籍後、豪快に2連勝(2KO)した。移籍3戦目は同年12月16日、初の5回戦で、ベテランの日本キック連盟ライト級1位、元木浩二(伊原)と対戦。渡辺会長も伊原会長も、「この佐藤、キャリアこそ少ないが、あの黒崎道場に4年居て、渡辺ジム移籍後の2戦も圧倒的な勝利だった、元木浩二との対戦は面白いかも!」と思ったのかもしれない。

周囲は「佐藤は元木とやるのはまだ早い!」と言われていたが、1ラウンド後半、佐藤正男が速攻のパンチで3度のダウンを奪ってノックアウト勝利。移籍後、早くもトップクラスに立つ存在となった。

[写真左]一流戦士は体幹が強い、ルーラウィー・サラウィティーにローキックで攻められる(1992.10.10)/[写真右]ルーラウィーに蹴って出ても力及ばず(1992.10.10)
ツーショットでアクシデント(1992.10.10)

その後、ムエタイ戦士との対戦も増えていった。元・ムエタイ3階級制覇のケンカート・シッサーイトーン(タイ)と対戦するも判定負け。

結局移籍後は3年間で20戦程やり、諸々の経緯を経て1991年(平成3年)4月27日、日本キック連盟ライト級チャンピオン、酒井敏文(平戸)に挑戦。判定勝利し初のタイトル獲得。

日本キックボクシング連盟でエース格となった王座獲得後第1戦目では、シームアン・シンスワングン(元・ムエタイランカー)と対戦するが、ハイキック食らったノックダウンで判定負け。

1992年10月、元・タイ国BBTV(タイ7ch)フェザー級チャンピオン、 ルーラウィー・サラウィティーと対戦し、これも重い蹴りとバランス良い組み技に苦しめられ判定負け。本場ムエタイの強さと奥深さを改めて痛感させられる戦いが続いたが、「皆、体幹のバランス良く、当たり前のように強かった。俺が人生を懸けて挑んだムエタイはこんなにも凄いものか、目指した最高峰がとてつもない険しい山だったことに嬉しくさえなった!」と語る。

ラストファイトは1993年4月17日、前年にヒジ打ちで切られて敗れた不破龍雄(北心)にパワーで押し切る雪辱の判定勝利。1994年4月9日、豪勢な引退式を行なった。

不破龍雄と対峙する佐藤正男(1993.4.17)
[写真左]雪辱果たした佐藤正男、パワーで押し切った(1993.4.17)/[写真右]結果的に最後の勝利でのファイティングポーズとなった(1993.4.17)

8年の現役生活で約30戦、日本キックボクシング連盟は他団体から比べれば地味な興行が続く中ではあったが、佐藤正男はここまで人知れずも中身の濃い選手生活だった。

そして数々の格闘技を体験した経験値からトレーナーとしての実力も発揮。渡辺ジムから相原将人、小野瀬邦英ら後輩達のチャンピオン6名の誕生に貢献した。

2011年5月7日には、引退前から日本キックボクシング連盟を後援する会社との縁で知り合った女性と長いお付き合いの末、一般的には難しい靖国神社本殿で結婚式を挙げた。

そんな格闘技人生の中ではジム移籍の経緯、帝拳ジム、大道塾、講道館での存在感、靖国神社でのエピソードも話題が尽きない佐藤正男。また触れることがあれば第2弾を書き綴りたいものである。

引退式が行われた日は後輩の相原将人がフライ級チャンピオンとなった(1994.4.9)

▼堀田春樹(ほった・はるき)[撮影・文]

フリーランスとしてキックボクシングの取材歴32年。「ナイタイ」「夕刊フジ」「実話ナックルズ」などにキックのレポートを展開。ムエタイにのめり込むあまりタイ仏門に出家。座右の銘は「頑張るけど無理しない」

最新刊!月刊『紙の爆弾』2020年9月号【特集】新型コロナ 安倍「無策」の理由
一水会代表 木村三浩 編著『スゴイぞ!プーチン 一日も早く日露平和条約の締結を!』
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正月明けから7ヶ月ぶりの再開! ジャパンキックボクシング協会興行!

昨年、団体分裂によって設立されたジャパンキックボクシング協会。代表は長江国政氏でしたが、満1周年となった5月1日付けで小泉猛氏に交代されています。

NAGAE ISMと銘打たれた今回の興行。2年ほど前から神経性の病で歩行困難になり、闘病を続ける長江国政氏に勝利の報告を届けなければならない治政館ジム勢の戦い。そして当協会の今後の浮上を懸けた戦いでもある。

さらにコロナウィルス蔓延で、7月からプロボクシングの興行も無観客で徐々に再開されて以降、キックボクシングでも無観客や客席を半分以下に減らしての開催が始まりました。

正月明けから7ヶ月ぶりとなった当協会興行。ソーシャルディスタンスを保っての興行で、なかなか厳しい状況が続いているキックボクシング55年目の夏です。

選手皆が復帰戦のような立場の中、閉鎖された藤本ジムからRIKIXへ移籍したHIROYUKIは6月、他興行に出場しており、勘の鈍りは少なかったかもしれなません。

メインイベンター馬渡亮太は不完全燃焼に終わる。今後の出場で本領発揮を期待したい。

◎NAGAE ISM / 8月16日(日)後楽園ホール開場17:00 開始18:00
主催:ジャパンキックボクシング協会(JKA)

馬渡はアグレッシブに攻めるも、今少し距離が足りない

◆第8試合 56.0kg契約 5回戦

馬渡亮太(前・JKAバンタム級C/治政館/56.0kg)
    VS
ダウサコン・モー・タッサナイ(元・ラジャダムナン系スーパーフライ級3位/タイ/55.45kg)
引分け0-0 / 主審:椎名利一
副審:仲49-49. 和田49-49. 桜井49-49

ムエタイのリズムが続く両者のパンチ、ヒジ、ヒザの時折強いヒットを見せるも相手を弱らせるに至らない。馬渡の方がパンチ蹴りの手数が多いが、首相撲の展開に移るとダウサコンがやや上手を行き、互いの決定打が無い展開が続く。日本での試合、決め手が無ければ引分けになるのが何となく読める中、ジャッジ三者とも49-49ながら、各ラウンドの三者の採点が揃わない展開が続く終了となった(4Rだけ2者ダウサコン、1者馬渡)。  

飛びヒザ蹴りを幾度か見せた馬渡、ボディに炸裂は効果有りか
距離が掴めない中での馬渡のハイキック、巧みにかわすダウサコン

◆第7試合 52.5kg契約 5回戦

JKAフライ級チャンピオン.石川直樹(治政館/52.4kg)
    VS
HIROYUKI(前・日本バンタム級チャンピオン/RIKIX/52.5kg)
勝者:HIROYUKI / KO 3R 2:11 / 主審:仲俊光

両者は5年前に対戦し、HIROYUKIが判定勝利。若さとここ最近の勢いでHIROYUKIがスピードで優り調子を上げていく。石川の組みついてのヒザ蹴りを許さない距離から右フックで第1ラウンドにノックダウンを奪い、第3ラウンドにも蹴りからのパンチがヒットしてノックダウンに繋げ、石川は何とか立ち上がるも足下がおぼつかず、レフェリーがテンカウントを数え、HIROYUKIが余裕のノックアウト勝利を飾った。

HIROYUKIの右ハイキックが石川直樹の頬にヒット
HIROYUKIの攻めが冴える。石川直樹はリズムを掴めない
蹴りからパンチをヒットさせ、ノックアウトに繋げたHIROYUKI

◆第6試合 67.0kg契約3回戦

JKAウェルター級チャンピオン.モトヤスック(治政館/66.7kg)
    VS
ジャックチャイ・ノーナクシンジム(元・ラジャダムナン系バンタム級6位/タイ/66.1kg)
勝者:ジャックチャイ / 判定0-3 / 主審:桜井一秀
副審:椎名28-30. 和田28-30. 仲29-30

蹴りから首相撲の距離に移るとジャックチャイが主導権支配。モトヤスックのパンチと蹴りは連打が少なく、接近した瞬間にモトヤスックの額にヒジ打ちをヒットさせるジャックチャイ。元ムエタイランカーのテクニックにもう一歩及ばなかったモトヤスック。

ジャックチャイが巧みに自分の距離を保った

◆第5試合 57.5kg契約3回戦

JKAフェザー級1位.瀧澤博人(ビクトリー/57.5kg)
    VS
NJKFフェザー級1位.小田武司(拳之会/57.5kg)
勝者:瀧澤博人 / TKO 2R 2:33 / 主審:椎名利一

左ジャブで小田の出方をコントロールする瀧澤。ミドルキック、ヒジ打ちで次第に瀧澤ペースが勢いづいていく。第2ラウンド、瀧澤はヒジ打ちで小田の額をカットして、レフェリーが様子を見て止め、ドクターの勧告を受入れレフェリーストップ。

ベテラン瀧澤博人の右ハイキックで若い小田武司を攻める

◆第4試合 67.25kg契約3回戦

JKAウェルター級1位.政斗(治政館/67.25kg)
    VS
NKBウェルター級2位.稲葉裕哉(大塚/67.0kg)
勝者:政斗 / 判定3-0 / 主審:和田良覚
副審:椎名30-28. 桜井30-29. 仲30-28

政斗が打ち合いの中、右ヒジ打ちで稲葉の額をヒットさせ、勢い増していき政斗が判定勝利。

稲葉裕哉と政斗のパンチの交錯

◆第3試合 女子ピン級3回戦(2分制)

女子(ミネルヴァ)ピン級1位.祥子JSK(治政館/45.1kg)
    VS
同級3位.TOMOMI(TEAM FOREST/45.1kg)
勝者:TOMOMI / 判定0-3 (28-29. 28-30. 29-30)

◆第2試合 50.0kg契約3回戦

空明(治政館/49.9kg)vs谷津晴之(新興ムエタイ49.7kg)
勝者:谷津晴之 / 判定0-3 (28-30. 28-29. 29-30)

◆第1試合 56.0kg契約3回戦

義由亜JSK(治政館/55.6kg)vs姉川良(REON Fighting Sports/55.4kg)
勝者:義由亜 / 判定3-0 (30-28. 30-27. 30-27)

《取材戦記》

半年ぶりに後楽園ホールに訪れると、当日計量の午前10時より外で報道陣も含めたコロナ抗体検査が行われ、開場時には靴裏の消毒、センサーによる体温測定が行われていました。リングサイドカメラマンはマスクをした上、フェイスシールドを義務付けられ、ファインダーが覗き難かった。フェイスシールドがカメラと擦れあって傷付くとより靄が掛かって見え難くなったが、これは扱い方が悪かったのかもしれない。

注意喚起の上ではあるが、観衆が声を出さないのは異様な光景でした。客席数を半分に減らした上に空席も目立ったので、かなり静かだった。笑いの起こる野次が懐かしい。

団体や主催者、会場によって規制の違いや、今後のコロナ蔓延拡大によっては状況が違ってくるでしょう。選手の戦いの場に、これ以上の中止自粛が続かないことを祈りたいものです。

1席ずつ空けてのソーシャルディスタンス、満席になる日はいつか

▼堀田春樹(ほった・はるき)[撮影・文]

フリーランスとしてキックボクシングの取材歴32年。「ナイタイ」「夕刊フジ」「実話ナックルズ」などにキックのレポートを展開。ムエタイにのめり込むあまりタイ仏門に出家。座右の銘は「頑張るけど無理しない」

月刊『紙の爆弾』2020年9月号【特集】新型コロナ 安倍「無策」の理由
一水会代表 木村三浩 編著『スゴイぞ!プーチン 一日も早く日露平和条約の締結を!』
上條英男『BOSS 一匹狼マネージャー50年の闘い』。「伝説のマネージャー」だけが知る日本の「音楽」と「芸能界」!

格闘群雄伝〈05〉石井宏樹 ── キックボクシングの聖地から生まれたムエタイ殿堂チャンピオン

◆デビュー戦は負ければいい!

石井宏樹(いしい・ひろき/1979年1月16日生)は名門・目黒ジムから生まれた念願のムエタイ殿堂チャンピオン。4度目の挑戦でキックボクシングの聖地から打倒ムエタイを果たした。その因果応報は周りから愛された結果、現在も注目される存在感が続いている。

デビュー戦を控えて藤本コーチの指導を受ける(1996.1.8)
デビュー戦は藤田純にKO勝利(1996.1.28)

15歳の春、高校入学すると同時に目黒ジム入門。デビューが近い1995年暮、当時トレーナーの藤本勲氏が言った。「こいつは天才、ムエタイのチャンピオンになるよ!」

17歳直前、機敏に動く石井宏樹。蹴りが速い。デビュー前から小野寺力のような動き。藤本トレーナーが言う意味が分かる気がした。入門前は何をやっていたのか尋ねてみると、「中学時代は、野球と卓球をやっていました!」と語る。速い球を追うことで反射神経を養ったのだろう。

目黒ジムに入った切っ掛けは、「家が近くて、昔、親父がボクシングやってた影響で、子供の頃に手を引っ張られてガラス張りの目黒ジムまで観に行かされていました。その後、中学に入る頃から太りだしたので高校に入ったタイミングでダイエットがてら入門しました!」

家が近い、お父さんがボクシング経験あり、ガラス張りの目黒ジム、これはもう運命の導きしかない。

そんな頃、「デビュー戦は負ければいい!」という当時の目黒ジム、野口和子代表の声も聞かれた。「この子は今のうちに負けの辛さを味わった方がいい。でも必ず這い上がってくるよ!」と読めたからだった。

1996年1月28日、そのデビュー戦は3ラウンドKO勝利。しかしその後判定で2連敗。周囲からは予想できた試練だが、当の本人にとってはかなり辛いものだったようだ。

日本ライト級チャンピオンベルトを巻いて披露(2000.1.23)
鷹山真吾(尚武会)を倒して日本ライト級王座獲得(2000.1.23)

石井宏樹は後々、「デビュー戦をKO勝利し、このまま連勝街道だと調子に乗っていた矢先に連敗しました。 技術的な反省よりも、完全にプロの世界や人生を舐めていましたね。 鼻っ柱を折られた結果となってプロの世界は辞めようと思いました。

そんな中、当時憧れだった小野寺力先輩に、“辞めるのは簡単だ、もう一度死ぬ気でやってみたら”と声をかけて頂き、その言葉が有難く、絶対諦めないで続けようと決心しました!」と語っていた。

次なる試練はKO率の低さ。

「連敗後は判定勝利が続き、何でも出来るけど一発が無い、“器用貧乏だ”と言われていた時期はとても悩みました。自分には“これ!”といった必殺技は持ってないので、攻防を進める中で今相手が何をやられたら嫌なのか考えながら、そこを突いて行くスタイルで倒して行きました!」

研究を重ねる努力。それは長い年月を要するものだった。

◆ムエタイの壁

判定勝利が続く中、2000年1月23日に日本ライト級王座挑戦。チャンピオンだった鷹山真吾(尚武会)を豪快に倒し、ようやく二つ目のKO勝ち。初のチャンピオンベルトを巻いた。

順調に防衛を重ね、2005年8月22日に国立代々木第2体育館に於いて、念願のタイ国ラジャダムナン系ライト級王座に挑戦。チャンピオンのジャルンチャイ・チョー・ラチャダーゴンには僅差の判定負けで王座奪取は成らず。しかしこの僅差が厄介な壁となるムエタイの難しさ。

2007年7月までに日本ライト級王座は8度防衛まで伸ばした後、スーパーライト級での頂点目指し返上。

2008年3月9日、ラジャダムナン王座再挑戦。階級上げた慣れぬ体格差があったか、チャンピオンのシンマニー・ソー・シーソンポンに判定負け。

更にタイ選手に4連勝(3KO)した後、2010年3月22日には現地、ラジャダムナンスタジアムで3度目の挑戦となるスーパーライト級王座決定戦に出場。ヨードクンポン・F・Aグループに僅差の判定負け。キックルールなら優勢な印象も、ムエタイの壁が立ちはだかる厳しさだった。

「ここで獲らなければ次はもう無いという覚悟と、現地で獲れば本物だという気持ちが強かったので、是が非でも勝ちたかった。ギャンブラーが自分に賭けてくれて、一生懸命応援してくれるのを感じ、武者震いしたのを覚えています!」

石井宏樹は、新日本キックボクシング協会が1999年から2003年迄、年一回行なっていたイベント「Fight to MuaiThai」で4度ラジャダムナンスタジアム出場しており、現地では全くの無名ではなかった。ここでは賭けが成立する存在感が大事。ギャンブラー達は石井宏樹のテクニックを覚えていたのだった。

ラジャダムナンスタジアム初登場は判定負け(2000.12.3)

◆思わぬ試練

善戦したラジャダムナンスタジアムでの挑戦で、2010年7月25日は再挑戦への道が与えられた査定試合で、パーカーオ・クランセーンマーハーサーラカームに第2ラウンド、ヒジ打ちで倒され初のノックアウト負け。この結末は誰も予想しない力無く倒れる石井らしくない展開だった。これで石井は終わったと思われたムエタイ殿堂王座への道。

「相手のヒザ蹴りをモロに受け、その瞬間に小腸が破裂していたようです。 お腹は痛い感覚は無かったのですが、試合を続けている中、急激にスタミナも無くなり、ガードを上げる力も薄れて最後はヒジ打ちを貰い倒れてしまいました。 控室に帰っても何故負けたのかも分からず、その後、後楽園ホールを出て、応援して頂いた仲間に挨拶しに向かおうと思った時に、お腹に激痛が走り動けなくなり、そのまま病院に向かい緊急手術となりました。 “もう少し運ばれて来るのが遅かったら死んでいましたよ”と医者に言われました。 まさに九死に一生でした!」

藤本勲会長からは「また挑戦しよう。ラジャダムナンのベルトは俺らの夢だから!」と諦めないでずっとサポートしてくれたことが、気持ちがブレずに突き進めたという。

応援し続けてチャンスをくれた藤本勲会長とのツーショット(2011.10.2)

◆念願のムエタイ王座奪取!

その後3連勝(2KO)し、チャンスは4度びやって来た。2011年10月2日、後楽園ホールでのラジャダムナンスタジアム・スーパーライト級王座決定戦で、アピサック・K・Tジムと対戦。判定だがノックアウトするより難しいと言われるテクニックで、現地審判団を唸らせ、越えられなかった壁を打ち破る勝利で王座獲得。

「今のままの練習ではタイのチャンピオンには勝てないと思い、初めてラジャダムナン王座に挑戦した時の対戦相手、ジャルンチャイを練習パートナーとして日本に呼んで貰い、二人三脚で4度目の挑戦に挑みました。彼なら僕の癖も知り、日本人がムエタイを破る方法も知っているのではないかという狙いでした。彼の指導で毎日朝晩と練習を積み重ねて行くうちに彼と一緒にいれば必ず勝てると言う確信が持てました!」

この勝利は評価が高かったが、まだ“防衛してこそ真のチャンピオン!”と言われる目黒ジムの掟があった。2012年3月11日、ゲーンファーン・ポー・プアンチョンの挑戦を受け、またも蹴りの技術と戦略で優って判定勝利で初防衛。外国人チャンピオンでは初の快挙だった。

2012年9月15日、プラーイノーイ・ポー・パオイン戦は、パンチで圧倒ノックアウトし2度目の防衛。残された課題は現地スタジアムでの防衛であった。

防衛後のリング上で「次はタイでやります!」とマイクで宣言した石井宏樹だが、プロモーターである伊原信一代表は「いずれ必ず現地で防衛戦やらせるから!」と言う約束の下、あと一回、日本での防衛戦を用意された2013年3月10日、残念ながらエークピカート・モー・クルンテープトンブリーにヒジ打ちを貰ってノックアウト負けで王座を失ってしまった。

4度目の挑戦で技術でアピサックに圧倒、念願のムエタイ王座獲得(2011.10.2)

◆受け継がれる完全燃焼

引退か再起か。石井宏樹はここで「現役はあと3戦!」と標準を定めた。

その最終試合となったのは、2014年2月11日、先輩の小野寺力氏が主催する大田区総合体育館での「NO KICK NO LIFE」興行。WPMF世界スーパーライト級王座決定戦で、知名度抜群のチャンピオン、ゲーオ・フェテックスとの対戦となった。5ヶ月前には梅野源治も倒されている過去いちばんの強豪。

「小野寺さんに“ゲーオとやるか?”と言って頂いた時は“やります!”と即答しました。 そして目黒スタイルである、引退試合は最強の相手を迎える伝統を受け継ぎ、現役最後の集大成で悔いの残らない試合をする事だけを考え、守りに入らず自分から攻めに行った結果、第2ラウンド、カウンターの左ハイキックで散りました。 もう何もやり残したことはなく、現役生活何一つ悔いが残らず引退することが出来ました!」

最終試合はゲーオに倒される完全燃焼(2014.2.11)

目黒ジムの先輩、飛鳥信也氏から始まった最強相手に完全燃焼の引退試合は確実に継承されていた。

2014年12月14日には引退テンカウントゴングに送られリングを去り、RIKIXの百合ヶ丘支部と大岡山本部ジムで交互にトレーナーを務める日々となった。

引退セレモニーで感謝を述べる(2014.12.14)

多くの縁が繋がって来た結果、2015年2月11日から「NO KICK NO LIFE」興行でのテレビ解説者として起用され、再びファンの注目を浴びる立場で実力発揮(後にKNOCK OUT興行に移行)。

「まさか自分が引退後、解説者になるとは思ってなかったです!」という石井宏樹。

「現役の頃は他人の試合はほとんど見なくて、解説者というお仕事を頂いてから選手の試合をたくさん見て勉強するようになりました。 今でも喋るのは苦手ですが、元々人間観察は好きなので、解説は嫌いな仕事ではないですね!」

石井宏樹は元々頭の回転が速く、スラスラとトークが進む奴。選手の心理を読む分析力も抜群。キックボクシングを続けて来た因果は、今後もテレビ解説以外でも多くのメディアに登場するであろう名チャンピオン、石井宏樹である。

私生活では2008年に支援者の紹介で知り合った彼女と2016年に結婚し息子さんが誕生。やがて物心ついた頃、息子さんの手を引いてジムに通うのだろう。

解説者としてのデビュー戦は堂々たる語り口(2015.2.11)

▼堀田春樹(ほった・はるき)[撮影・文]

フリーランスとしてキックボクシングの取材歴32年。「ナイタイ」「夕刊フジ」「実話ナックルズ」などにキックのレポートを展開。ムエタイにのめり込むあまりタイ仏門に出家。座右の銘は「頑張るけど無理しない」

最新刊!月刊『紙の爆弾』2020年9月号【特集】新型コロナ 安倍「無策」の理由
一水会代表 木村三浩 編著『スゴイぞ!プーチン 一日も早く日露平和条約の締結を!』
上條英男『BOSS 一匹狼マネージャー50年の闘い』。「伝説のマネージャー」だけが知る日本の「音楽」と「芸能界」!

格闘群雄伝〈04〉元木浩二 ── 昭和のキックボクシング同志が日本を守る

◆現役時代──1980年のデビュー以来、ノックアウト勝利を重ねた元ストリートファイター

元・日本ライト級1位.元木浩二(もとき・こうじ/1963年1月19日生)は、魅せられるノックアウト勝利を心掛け、その強面とは正反対の、社会貢献に人生を懸けたキックボクサーだった。

幼ない頃から自由奔放の腕白坊主で育ち、十代半ば頃までストリートファイトに明け暮れたが、元木浩二の場合は単なる荒くれ者とはその存在感が違っていた。

1978年(昭和53年)3月、中学を卒業すると、幼ない頃からテレビでキックボクシングを観て、強い憧れを抱いていた名門・目黒ジムの門を叩いた。

1980年1月、元木浩二は17歳になるまでに筋力トレーニングで鍛えた筋金入りの身体でバンタム級でデビューするとノックアウト勝利を重ね、ライト級まで階級を上げていったが、将来を嘱望されながら業界はテレビ放映が終わった低迷期に入り興行は激減。

各々の団体やジムがあらゆる手段で浮上を試みる中、1983年4月、ジムの先輩だった伊原信一氏が新たにジムを興すと、その伊原ジムへ移籍。同年9月、伊原氏が新日本キックボクシング協会を設立すると元木浩二は10月22日、設立記念興行にて、新日本ライト級1位、砂田克彦(東海)にノックアウト必至の一進一退の末、3ラウンドKO勝利。ランキング上位へ浮上した。

砂田克彦戦、攻められながら逆転に導いた(1983.10.22)

1984年11月には、統合団体となって設立された日本キックボクシング連盟に吸収された後、翌年6月7日、なおも分裂騒動が起こった後だったが、タイガー岡内(岡内)に速攻の1ラウンドKO勝利。王座に手を掛けるトップ戦線に浮上した試合となった。

同年11月9日、日本キック連盟ライト級王座決定戦としてタイガー岡内と再戦することになったが、互いのノックアウト狙った激戦の末、疑念が残る僅差の判定で敗れ王座獲得は成らず。再挑戦のチャンスは訪れず、その後は世界大戦シリーズに於いて国際戦に出場、強力多彩な攻めで勝っても負けてもノックアウト必至の激闘を繰り返していた。

王座決定戦でタイガー岡内と再戦 (1985.11.9)
デビッド・トーマスとは激戦の末、敗れ去った(1986.10.18)
引退式でかつて対戦した佐藤正男から花束を贈られる(1990.10.19)

1989年、平成に入ると新たなライバルが出現。新格闘術連盟黒崎道場から移籍して来た佐藤正男(渡辺)がライト級上位に浮上してきた。年齢は同じでも、互いのデビュー時期は業界低迷期を跨いだ時代差があったが、佐藤正男とライト級トップ戦線を争い、元木浩二はコンディション調整失敗から意外にもノックアウトで敗れてしまう。

「佐藤は上位に挑む必死さがあった。俺は気持ちで負けていた。」と反省。これが時代の変わり目でもあった。

この時代は他団体の躍進もあって、元木浩二はあまりスポットライトを浴びる存在ではなかったが、KO率が高く、一つ一つの試合が信念を貫ぬくノックアウト狙いで、他団体チャンピオンとも戦わせてみたい存在だった。

◆父の教え

元木浩二はデビュー戦からファイトマネーの半分を交通遺児施設、老人ホーム、難病患者施設等へ寄付し、災害被災地への救援物資等の支援活動を行ない、現役引退後も1995年1月の阪神大震災、2011年3月の東日本大震災等にも、これらの活動を継続してきた。

デビュー当時はファイトマネーの半分といっても1万円にも満たなかったが、このボランティア活動は当時の目黒ジム会長やトレーナー、後の伊原ジムでも誰も知らないことだった。その元木浩二の強面に似合わぬボランティア精神は、幼い頃から自由奔放に育てられた中にも文武両道で厳しい教育方針の父親の存在があった。

「弱い者、困った者を見て見ぬふりするな、男たるもの常に弱者の見方を心掛けろ、持つ者が持たざる者に分け与える心を持て!」など、これらを当たり前のように叩き込まれて来た元木浩二は、その教えが本能から身に付いた人生。

血気盛んな十代は荒くれ者だったが、弱い者イジメだけはしなかった。そんな心優しい元木浩二は、街での通りすがりに遭遇した、不良が弱者を脅すトラブルを目撃し、見て見ぬフリは出来ず仲裁に入ったことが幾度かあった。その一つでは乱闘に巻き込まれ、首の頸椎を損傷する重症を負ってしまった。救急車で運ばれ、潰れた頸椎に人工骨を入れる手術も受けるも神経障害が残り、杖を突いて歩く身体障害者となってしまい、それが原因で引退に導かれてしまうのだった。

昭和のキック同志会のステッカーデザイン

◆昭和のキック同志会発足

元木浩二は現役当時から世代を問わず、リングに上がった仲間達を飲み会に誘っていた。そこでは昭和の良き時代のキックボクシングの語らいから、自身がやりたいことへの話が進み、自然災害が多い日本の被災地への救援物資協力、義援金送付等の支援活動の想いを語り続けると賛同する仲間が増えていき、2009年に「昭和のキック同志会」を発足。

その後も昭和のキックボクシングに携わった者が中心に集って会食し、この参加費の一部を物資を送る資金として、その後も各被災地の救済に活動を継続している。

飲み会に集まる主なメンバーは、藤原敏男氏、渡嘉敷勝男氏、佐竹雅昭氏といった、そうそうたるチャンピオンクラスや、元木浩二と親交深いスポーツ選手と一般社会人含む大勢が参加している。

昭和のキック同志会パーティーでYAMATO氏のミニライブで盛り上がる (2017.11.18)
かつてのライバル佐藤正男と再会(2017.11.18)

◆続くボランティア

元木浩二は現在、かつて父親が興した建設とリフォーム業の後を継ぎ、株式会社ケーアップジャパンを立ち上げ代表取締役を務める日々。ボランティアではいろいろな現場を訪れたが、昨年の千葉県での台風15号に続き19号と災害をもたらした際は、詐欺業者が横行し、お年寄りが頼みもしないのに勝手に屋根に上がり破損した箇所の補修工事に掛かり、中には手抜き工事をしながら高額な修理費を要求、お年寄りは手に負えず従うままという事件が多発していた。

元木浩二は同志スタッフを引き連れ、無償で十数軒の屋根の修理に掛かったという。お年寄りからは感謝され、御礼金を差し出されても誠意を持って受け取らず、お年寄りを励まし、元気を与えて去って来るボランティアを貫いた。正に父親が教えた弱者への味方を心掛けた精神を受け継いだ行ないだった。

今年もすでに熊本豪雨災害が発生しているが、現地から「救援物資は足りているが、かなりの人手が必要になるかもしれない」と連絡を受けて、救援体制を準備しているという(7月6日時点)。また今後も被災各地へ物資を送る活動も続けていくという。

この昭和のキック同志会では、忘年会や花見の時期など、ある節目ごとに集う会を開いており、今年はコロナウイルス蔓延の影響で暫く遠ざかっているが、コロナ騒動が落ち着いた頃に再開予定。

こんな心優しい荒くれ者が居たのかと思うほど、強面で近づき難かった元木浩二の十代の荒くれ時代から取材を始めていればよかったと筆者は思う次第である。

昭和のキック同志会創始者、元木浩二の語り (2017.11.18)

▼堀田春樹(ほった・はるき)[撮影・文]

フリーランスとしてキックボクシングの取材歴32年。「ナイタイ」「夕刊フジ」「実話ナックルズ」などにキックのレポートを展開。ムエタイにのめり込むあまりタイ仏門に出家。座右の銘は「頑張るけど無理しない」

月刊『紙の爆弾』2020年8月号【特集第4弾】「新型コロナ危機」と安倍失政 河合夫妻逮捕も“他人のせい”安倍晋三が退陣する日
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格闘群雄伝〈03〉向山鉄也 ── 埋もれた存在から激闘で伝説残した名チャンプ

◆運命の目黒ジム入門

向山鉄也(さきやま・てつや/1956年11月27日生)は数々の打ち合いの名勝負で強烈なインパクトを残した昭和の名チャンピオンである。

決戦へ向けてのジムワーク(1983.1.30)

1978年(昭和53年)、電気職人としての仕事帰りに目黒駅に向かう途中、たまたま通りかかった権之助坂のガラス張り目黒ジムの練習風景が目に入り、気紛れにフッと扉を開けてしまったことから人生の運命は変わった。高校時代に空手の経験がある向山は戦う本能が蘇り、すぐに入門。翌年6月、22歳でデビュー。喧嘩スタイルで勝ち星を重ねるも、4戦目でガードガラ空きのアゴにカウンターパンチを受けて失神ノックアウト負けを喫した。負けて覚えるディフェンスの大切さ。それでも挫けることなく勝ち続け、デビュー1年後にはテレビ朝日の特番で放映された日米決戦のリングで、かつて富山勝治(目黒)を下したサミー・モントゴメリー(米国)と対戦も、パンチで額を切られて2ラウンドTKOで敗れたが、堂々たる戦いぶりには将来を嘱望されていた。

しかしこの時期はめっきり興行が減るキック界の低迷期に突入していたこともあり、強豪ひしめく中での戦いを求めて、単身タイに渡った。1981年から1982年にかけてムエタイランカーを打ち破り、1982年1月度のランキングでラジャダムナンスタジアム・ウェルター級8位にランクイン。自力で切り開いた本場の壁。あと2試合勝ち上がれば王座挑戦のところまで上り詰めていたが、あと少し手が届かなかった。
現地で国際式プロボクシングも経験し、ラジャダムナン系ライト級チャンピオンのラクテー・ムアンスリン(国際式でも同級チャンピオン)を右ストレートで1ラウンドKO勝利している。向山が語るベストバウトのひとつだという。

合宿を行なった1983年元旦のロードワーク、江戸川の土手を走る(1983.1.1)

◆埋もれた存在から浮上

帰国前には元・東洋フェザー級チャンピオン、西川純氏が興した西川ジムに移籍(厳密には自ら興したキングジムに在籍)し、帰国後、江戸川区北小岩のジム寄宿舎となる六畳一間のアパートに暮らし、テレビは持たず身軽な生活だった。日常は建設現場で電気配線を設置する職人として働きながら、キックブームが起きていた香港での試合に赴いていた。

西川純会長のミットを蹴る。新しいジムが出来た頃(1983.1.30)
独身時代の孤独な部屋はポスターだらけ、バンテージを巻きジムに向かう前(1983.1.30)

1982年(昭和57年)10月3日、閑散とする日本国内でも日本プロキック・ウェルター級王座決定戦で岩崎新吾(花澤)に1ラウンドKO勝利し王座獲得。初のチャンピオンとなったが、リングサイドに一社の報道関係者も来ない中では知名度は全く上がらなかった。しかしここから激闘の名勝負を残していくことで知名度、存在感は業界トップクラスに浮上していった。

1983年2月5日、業界が集結した1千万円争奪オープントーナメントの枠外ながら、他団体の日本ナックモエ・ウェルター級チャンピオン、レイモンド額賀(平戸)とのチャンピオン対決を迎えた。

しぶといファイトで定評あるベテラン、レイモンド額賀の顔面が向山鉄也のパンチ連打でボコボコに腫れあがり、普通ならすでに倒れているであろう状態から、しぶとく向かってくる額賀のヒザ蹴りで向山の鼻が“くの字”にひん曲げられた。カウンターパンチでダウンを奪った向山が判定勝ちしたが、内容は両者血みどろの凄絶な展開、向山が「最も疲れた」と語る一戦だった。

当時でも好カード、そして激闘となったレイモンド額賀戦(1983.2.5)
コーナーに帰った表情、しぶとい相手に次なる戦略を練る(1983.2.5)

両者は1985年1月6日に再戦。前年11月に4団体が統合されて設立された日本キックボクシング連盟の日本ウェルター級王座決定戦。前回に劣らぬ両者血を見る激闘の中、向山はガードも打ち破る強引なパンチとヒジ打ちの猛攻で、レイモンド額賀の額にはまたも大きなコブを作ったが、判定は三者三様のドロー。規定による延長戦で向山がパンチで滅多打ちにして額賀を戦意喪失に追い込みレフェリーストップ。この時代、最も統一に近い日本ウェルター級初代チャンピオンに認定された(公式記録は引分け)。マスコミも向山の過激なファイトをする存在として注目し始めた試合だった。

向山鉄也はこの前年に約1年間、アメリカ遠征もしていた。日本の低迷期とあって多くの強豪と頻繁に戦えない中では積極的に海外へ向かう冒険が必要だった。突然タイに行ったかと思えば次はアメリカに渡る風来坊で、1984年3月3日にミシガン州で、かつて富山勝治とWKBA世界ウェルター級王座を争い、KO勝利で王座獲得していたディーノ・ニューガルト(米国)に挑戦。これもパンチの打ち合いでダウンを奪い合う両者血みどろの戦いで12ラウンド2-1の判定で敗れている。

第2戦レイモンド額賀と乱闘寸前となった第4ラウンド終了後(1985.1.6)
ボコボコに殴り付けても倒れないレイモンド額賀との死闘(1985.1.6)

◆伝説の名勝負

1985年(昭和60年)11月にはヤンガー舟木(仙台青葉)に判定勝利で日本ウェルター級王座初防衛。翌年5月12日の2度目の防衛戦では、一時的ながらやっとテレビに映るまで復興したキックボクシングの目玉カードとして大役を任された向山鉄也の相手は、元・日本ライト級チャンピオンで名を馳せた須田康徳(市原)と死闘を繰り広げた。ノックアウトパンチを持つ両者の、蹴りがほとんどない打ち合いだった。一度ノックダウンを奪いながら須田康徳が底力を見せた逆転のノックダウンを奪われ、口が半開きの向山に、セコンドの西川会長がタオル投入を躊躇うほどのダメージを負いながら、向山はこの我慢比べを制し、第4ラウンドKO勝利。「もうこんな試合したくない」と語るほど疲れ、ダメージを負う激闘だった。この名勝負はこの年のMA日本キックボクシング連盟での年間最高試合となった。

ヤンガー舟木の挑戦を受けた第1戦(1985.11.22)

同年11月、向山鉄也はタイ国ラジャダムナン系ウェルター級チャンピオン、パーヤップ・プレムチャイ(タイ)とノンタイトルで対戦。両者は過去、タイと香港で対戦し、向山は1敗1分。パーヤップの大木のような重い左ミドルキックを何十発と受け、向山の腕と右脇腹から背中までの広範囲にケロイド状にまで腫れ上がっていく中、第4ラウンドにパンチでスリップ気味ながらダウンを奪った。それに反発して勢い増すパーヤップにより激しく蹴られ、結果は2-0の僅差判定負け。内容的には惨敗ながら、逆に強い向山を印象付けた試合となり、この試合もテレビ東京で放映され、年間最高試合の候補に挙がっていた。

パーヤップ戦。蹴られても最後まで倒れなかった向山鉄也。これが強さを印象付けた(1986.11.24)

向山鉄也にとって最後のビッグマッチは、1987年7月15日の全日本キックボクシング(旧・岡村系)復興興行のメインエベント。タイ国ラジャダムナン系ウェルター級新チャンピオンとなっていたラクチャート・ソー・プラサートポン(タイ)戦での4ラウンドKO負け。パーヤップのような強い蹴りはないが、オールラウンドプレーヤーの上手さに翻弄され、パンチで倒された。

ピークを過ぎた頃で怪我も伴いブランクを作ったが、ラストファイトは1990年1月、全日本ウェルター級チャンピオン、船木鷹虎(=ヤンガー舟木/仙台青葉)に挑むも、かつて勝利した相手に1-0の優勢ながらの引分けで返り咲きは成らず、引退を決意した。

◆世代交代となっても伝説の人

引退後の1993年(平成5年)5月、向山鉄也は所属するニシカワジムを受け継ぐ形で、かつて自ら持っていたキングジムを復興させ、江戸川区一之江でバラック小屋のジムを開き、後進の指導に当たった。2007年2月には、それまでの不便な立地条件から江東区大島の都営新宿線大島駅近くのビル2階に新設されたジムは近代設備を整え、女性も入門しやすい広くて明るく綺麗なジムとなっている。

現役時代にタイ人女性と結婚した後は、風来坊といった生活から一転して落ち着いた家庭を持ち、一男二女を儲け、日々自らミットを持って後進の指導に当たっている。長男の竜一は羅紗陀というリングネームでWBCムエタイ日本スーパーフェザー級とライト級チャンピオンに育て、他、スーパーライト級でテヨン(=中川勝志)、スーパーウェルター級でYETI達朗、女子アトム級でPIRIKAをWBCムエタイ日本チャンピオンへ育て上げている。

令和の時代となっても、苦しい境地から踏ん張り激闘となった昭和の名勝負は伝説となって今後も語り継がれていくだろう。

▼堀田春樹(ほった・はるき)[撮影・文]

フリーランスとしてキックボクシングの取材歴32年。「ナイタイ」「夕刊フジ」「実話ナックルズ」などにキックのレポートを展開。ムエタイにのめり込むあまりタイ仏門に出家。座右の銘は「頑張るけど無理しない」

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