朝日新聞はリンチ事件に対して明確に態度を示せ! 広島・広陵高校のリンチ事件について思う

鹿砦社代表 松岡利康

ここ甲子園(松岡自宅、事務所所在)では夏の高校野球が開催中で賑わっています。今、甲子園は日本の中心と言っても過言ではありません。私は毎朝甲子園球場の周りを散歩して出社していますが、全国から応援や観戦に来られている人たちを見ると、こちらも何か嬉しいです。

今年は、例えば松坂大輔クラスのビッグスターがいないこともあるのか、一番話題になっているのが広島・広陵高校野球部内におけるリンチ(私刑)事件です。当初出て来た1件のみならず複数に渡るようです。今後のメディアの取材に期待します。

ところで、この高校野球の主催者はどこか? 日本高野連と朝日新聞です。このリンチ事件に対して、朝日新聞は頑ななほど沈黙しています。大会が終わったら、特集でも組むためにネタを仕込んでいるのでしょうか──不可解です。

広陵高校のリンチ事件は、すでに同校OBの元プロ野球選手・金本知憲(広島カープ→阪神タイガース。阪神では監督も経験)の時代からあることを、金本自身が著書で明らかにしています。

《ある日、ぼくはふだん以上にはげしい「説教」を受けた。気がつくと、ぼくは正座をしたまま、一瞬気をうしなっていた。二、三人がかりで、なぐられ、けられたのだ》

《先輩のだれかが、スパイクをはいたまま、ぼくの太ももをふみつけた。スパイクには金属製のつめがついている。そのつめがぼくの太ももの肉をえぐり、血が出た》(金本著『心が折れても、あきらめるな』2009年)

金本については他にも差別されたりイジメられていたようです。おそらく金本が在日であるからだと推認されます。

なのに、これまで放置されてきました。金本が先の著書で明らかにした時点で何らかの方策を取るべきでした、

高野連は果たして知らなかったのか? 朝日は知らなかったのか? 高野連、朝日とも主催者ですから厳しく対処すべきです。また、朝日と競合する他の大手各紙はどうか? この際、徹底して膿を出すべきだし、場合によっては、来年1年ぐらい中止してでも、解体的に出直すべきでしょう。古くは怪童・尾崎行雄、池永正明、太田幸司以来の高校野球ファンである私としては、本件に対しては地元・甲子園で大変怒っています。朝日よ、しっかりしろ!

さて、リンチ事件と言えば、私(たち)が長年一所懸命に取り組んだ、「カウンター大学院生リンチ事件」、事件が起きた場所に因んで「北新地リンチ事件」と呼ぶ人もいますが、「俗称「しばき隊リンチ事件」を思い出さざるをえません。加害者は、「反差別」を金看板にそのジャンヌ・ダルクのようにメディアが崇める李信恵、主要暴行犯・エル金こと金良平ら5名で、当時、某国立大学博士課程在学中のМ君に対し壮絶なリンチ(私刑)を加えました。М君が体に忍ばせていたICレコーダーの録音や事件直後に撮った写真が明らかになり、加害者らも降参するかと思いきや、「デマ」「でっち上げ」「街角の小さな喧嘩」「リンチはなかった」などと開き直りました(現在でもそうです)。人間としていかがものでしょうか?

この事件は発生から1年余り隠蔽され世間には知らされませんでした。朝日はじめメディアは知っていたはずです。М君は朝日の記者にも相談していますから。私たちがこれを知ったのは事件から1年余り経ってからでした。それほど隠蔽工作は徹底して行われました。隠蔽工作の証拠も明らかになっています。

私たちは被害者の大学院生から相談があって以来彼を全力で支援しました。また、裁判闘争を裏付けるために徹底して取材し、多くの資料を入手したり多くのことが判りました。それはこれまでに6冊の出版物として世に問いました(まだ書くことは残っていますが)。

しかし、小出版社たる私たちの力では、広く社会に知らしめることはできませんでした。残念です。

いま、しばき隊(もしくはこの界隈の輩)が各所で暴れ、その傍若無人な様が出て来て、心ある方々から批判され、関連して皮肉にも10年余り前の大学院生М君に対するリンチ事件も語られています。私たちがまとめた6冊のムック本、これらに収めきれなかったことは私のFBや「デジタル鹿砦社通信」をご覧になり、今につながる問題であることを感じ取っていただきたいと熱望いたします。

M君は、その後、何とか博士課程は修了したものの、失意のうちに研究者の途を諦め普通の市井人(給与所得者)として働いています。さらにはリンチのPTSDに苦しみながら生きています。リンチ事件によって人生を狂わされたと断じることができます。胸が詰まります。

このように、暴力は、受けた人の人生を狂わせます。広陵高校野球部でのリンチの被害者も、思い描いた広陵での野球生活を断念し転校を強いられたりしています。おそらくリンチを受けたことは悪夢として忘れられない傷跡を残していることは容易に察することができます。

このМ君リンチ事件でも、被害者М君が朝日新聞(他のメディアにも)などに必死に訴えたにも関わらず、彼ら記者連中は、まさに若い研究者の卵を弄ぶばかりで冷ややかな態度を取り、加害者らの隠蔽工作に加担したと断言いたします。М君や私たちの度々の記者会見要請にも応じませんでした。逆に加害者らを持ち上げ、記者会見は開くわ、賛美記事はどしどし掲載するわ、呆れてものが言えませんが、このこともМ君を苦しめました。彼ら大手メディアであることの変なプライドがあるのか、私たちの取材にも応じませんでした。

高校野球の主催者で日本を代表するマスメディアの朝日新聞は、今こそ<暴力>の問題について、社を挙げて徹底して取り組むことを強く願ってやみません。でないのなら、甲子園に出場した高校がこれまで犯してきた過ちを黙認した加害者として糾弾されても致し方ないでしょう。

【追記】古い話ですが、私は学生時代(1971年)、日本共産党=民青(みんせい)のゲバルト部隊(「ゲバ民」と言います)に襲われ病院送りにされました。また、身近の先輩らで、ゲバ民や敵対党派に襲われ亡くなったり傷ついた人は少なくありません。〈暴力〉の問題については、みずからも襲撃されて傷ついた体験から、その被害者の心身にわたる後遺症がどれほどのものか、機会を見て記述したいと思っています。

※別掲画像は8月17日の甲子園球場(撮影者:松岡)

【著者略歴】梓 加依(あずさ・かえ)。児童文学・子どもの生活文化研究家。1944年長崎生まれ、小学校から高校まで広島市内に在住。公共図書館司書、大学非常勤講師、家庭裁判所調停委員などの仕事を経て、現在は物語を書く会「梓の木の会」主宰。

私の故郷熊本が集中豪雨に襲われました

鹿砦社代表 松岡利康

先ごろ私の故郷熊本が集中豪雨に襲われました。テレビでも報じられているように市内の中心部を直撃しました。私の先祖代々のお寺も所在していますが、幸い無事でした。熊本地震では江戸時代からの本堂や山門など全壊する被害を受けましたが、今回は大丈夫でした。

……っと、NHKのニュースをよく観ると、知人の星原克也君の店が映っていました。星原君は地元・熊日新聞の記者でしたが、彼なりの事情で辞め数年前から熊本産の焼酎を集めた小さな店を始めました。店を開くときに、熊本に数多くの焼酎が存在することを知って驚きました。帰郷するたびに立ち寄っています。結構有名人も、その存在を知り尋ねるほどの名店になりつつありました。店が地下にあるため大被害を受けたようです。さっそく現金書留を持って郵便局に走ったのは言うまでもありません。

彼とはもう10数年前、高校の同級生の東濱弘憲君(故人)がライフワークとして始めた島唄野外イベント『琉球の風』の記録本を作る過程で知り合い、その本に名前が出てくることでピンと来た、中学の同級生・有田正博君が、若い頃一時期東濱君が開いたブティックで働いていたことを知り引き合わせてもらいました。有田君と会うのは中学を卒業(1967年)以来40年ぶりでした。有田君は、今や世界的ブランド「Paul Smith」を日本に初めて持ってきたことで知られ、一時は熊本市内で3つのビルを持つほど大儲けしました。Paul Smithさんが若くて無名の頃、アメリカの見本市で出会ったということです。本年初め、惜しまれながら店を閉じました。私の先祖代々の墓が近くに在ったことから、その後、帰郷するたびに立ち寄って会っていました。

星原君は今、不屈の根性(肥後もっこす)を持って、さっそく再開に向けて立ち上がりました。以下は最近のFBの記述です。

◆     ◆     ◆     ◆     ◆

ホシハラ カツヤ
36分
·
数日に渡りテレビジョンに登場したため、多くの人に69spiritsの濡れ鼠っぷりが知れ渡りました。

https://www.tku.co.jp/news/?news_id=20250813-00000011

常連さん、同級生、先輩後輩、遠方からご来店いただくお客さま方。先ほどは先隣にお住まいの方からもお見舞いいただきました。いただく激励のメールや電話、励みになります。開き直ってお願いした69spirits AIDにもたくさんのご賛同いただき感謝感激です。
ありがとうございます。

復旧に向けて全力を尽くしています(休み休みですが)。盆明けに清掃の見積もり、被害総額の確定などやることは盛りだくさんなのですが、皆さまのお心遣いを糧に、来月中の再開店をめざしています。

今日も夕方から被災焼酎の頒布を行います。まったり一人でうだうだしてますので、冷やかしにどうぞ。エアコンは動いてますが、冷蔵庫や冷凍庫は水損で稼働していません。手ぶらでどうぞ。

すべての作業を終え、無事に69spiritsが再開したときに…
ありがとうございました
と、笑顔で言えるように。

(松岡利康)

梓加依・著『広島の追憶』(鹿砦社 2023年)

戦争が‟対岸の火事“ではなくなった2025年8月──今こそ〈反戦〉の意味を考える〈3〉ある無名教師の記録

鹿砦社代表 松岡利康(龍一郎 揮毫、竹内護画)

祈り(龍一郎 揮毫)

先日、母親から古びた文集のコピーをもらいました。3年前に亡くなった従兄の竹内護(まもる)さんが書いたものでした。護さんは長年宮崎県下で小学校の教師をし、これを全うされました。

護さんが終戦後朝鮮半島から命からがら栄養失調の状態で帰還されたことは生前聞いていました。

「先の大戦では、国民のみんなが何等かの形で戦争の悲惨さを味わったと思います。
わたしの体験も六才で孤児となり祖国日本へ向けて朝鮮半島を縦断するというありふれたものです。しかし、一面では特異なものかも知れません。」

こうしたことが「ありふれたもの」だった時代、護さんも幼くして戦争に巻き込まれます。

1943年(昭和18年)、護さんが4歳の時、一家3人は住み慣れた熊本の地より北朝鮮に渡ったそうです。北朝鮮で父は人造石油会社の社員として比較的裕福で「幸福に暮らしていました」。

「そんなわたしたちの家族に不幸が訪れたのは、昭和二十年の八月でした。」

「そして、八月十四日、会社の方より『明日から一晩泊りで社員ピクニックを催す』との連絡がありました。」

「何も知らないわたしたちは歌など歌いすっかりピクニック気分にひたっていました。
それが、八月十五日のことでした。ところが、社宅より相当離れた所まで来た翌朝、会社の幹部の人より『ピクニックに参加した人たちに話があります。』と告げられ、みんながやがや言いながらも一か所に集まりました。
その時の話は、『実は日本は、昨日戦争に負けました。そこで、これから日本へ向けて避難します。』と言う意味のことでした。
話を聞いたみんなはびっくりしました。楽しいピクニック気分も一度にふっとんでしまいました。」

そうして、日本へ向けて「避難」が開始されます。

長い逃避行の中で、身重だった母と、突然閉鎖された鉄橋で離ればなれになってしまいます。その後、母はなんとか故郷・熊本へ辿り着いたということです。

父と二人で逃避行を続け、興南で引揚船が出るというデマに乗って興南に行くと、そこは収容所でした。

収容所では強制労働の日々で、そのうち父は酷い凍傷にかかり、ますます酷くなり父は自殺を図り亡くなりました。

祖国への逃避行

収容所では、時折軍用トラックがやって来て、
「髪の長い人、つまり女の人を連れ去って行くのでした。女の人の悲鳴がいつも聞こえました。このようにして連れて行かれた女の人たちは、二度と帰って来ませんでした。」

「母と離別し、父とは死別して名実ともに孤児になったわたしは、お年寄りのグループに入れてもらい、収容所をぬけ出し再び祖国日本に向けて南下の旅を始めました。」

そうして何度も三十八度線を越えることを試みるも失敗を繰り返しますが、
「おとしよりたちが、色のついた大きな紙のお金を何枚か漁師に渡し」
「ヤミルートを通して、やっとのことで三十八度線を越えることができたわけです。」

一方、離別した母親は、身重だったところ途中で産気づき、双子の女の子(つまり護さんの妹)を山の中で生みましたが、1人はすぐに亡くなり、もう1人は1カ月ほど生きて亡くなったそうです。

「そんな時、母は心の中で、『たとえこの子が死んでも護は必ず生きて帰る』と信じて疑わなかったそうです。母のこの願いで、わたしは生きて帰れたのかもしれません。」

そうして、三十八度線を越えた護さんらはソウルの孤児院に入れられ、院での粗末な食事では耐えられず、時々街に物乞いに出たそうです。

物乞いは「子供心にも、みじめで恥ずかしい気持ちになったものです。」

「そんな中で、時々、夜になると孤児を慰問に来てくれるアメリカ軍の将校さんに会うのが、唯一の楽しみでした。
なぜかと言うと、チューインガムやチョコレートなどの美味しいお菓子やおもちゃを持って来てくれるからです。」

「地獄に仏」ということでしょうか。──

収容所にて

そうして、なんとか引揚船に乗ることができ、「なつかしの祖国日本の山々を見ることができ」たのです。

時に昭和21年6月11日のことでした。すでに終戦から10カ月も経っていました。

引揚船が博多港に着くと、孤児らは本籍地別に分けられ、両親の名前と本籍地を言うと熊本行きとして送られることになり、熊本に着いたらまた孤児院に入れられました。

「熊本市は、両親の出身地だし、母は元気で帰国したことを知っていましたので、母にはすぐ再開できると思っていました。
しかし、敗戦の混乱のせいかなかなか会えませんでした。」

ある子供のいない学校の先生が護さんを養子にもらいたいという申し出があり、この期限の日の昼すぎに母が孤児院にやって来たのです。実に11カ月ぶりの再会でした。

「思えば苦しい旅でしたが、そんな中で、私が無事帰国できたのも、名も知らぬ多くの人々の善意のおかげだと思います。」

そうして、

「敗戦という未曽有の混乱のさなか、人間の醜さを嫌という程に見せつけられた中で、きらりと光った同胞愛と人間性を、これら恩人たちのためにも知ってもらいたく、また、一人の一人の子どもが受けた戦争の悲惨な体験をも知ってもらいたく、そして、二度と再びこのような事が起こらないように念じペンをとった次第です。」

その後、護さんは鹿児島大学に進み、卒業後は宮崎で小学校の教師となります。在学中に60年安保闘争のデモにも参加したと聞いています。それは、

「これから先は戦争そのものは勿論、それにつながることへも常に反対し、教え子たちには、ずっと私の体験を語り継いでいきたいと思います。
それが、残留孤児として親探しもせず、幸せに暮らしているわたしの義務だと思うからです。」

正直、護さんがここまで苦労されたとは知りませんでした。この文集のコピーで初めて知った次第です。貴重な戦争の記録です。生前もっといろいろ聞いておけばよかったと悔いています。

私ごとになりますが、1972年夏、この年の2月に学費値上げ反対闘争で逮捕・起訴され、私なりに将来に向け苦悩していたところ宮崎の護さんを訪ねました。「お母さんも心配しとらしたぞ」と言って、宮崎の観光地をあちこち連れて行ってくれました。護さんなりの激励だったかもしれません。途中サボテン公園に行くと父兄が声を掛けてきました。朝も早くから子供らが家に来て騒いでいました。父兄や子供らに慕われた先生だったようです。

なお、護さんは昭和14年4月生まれ、同18年北朝鮮阿吾地に渡り、同21年帰国。同38年鹿児島大学卒業、以後宮崎県下で小学校教師を務める。この文集は戦後39年の1984年(昭和59年)に作成されました。

(松岡利康)

※本稿は昨年同月同日付けの原稿に一部加筆、修正したものです。

【著者略歴】梓 加依(あずさ・かえ)。児童文学・子どもの生活文化研究家。1944年長崎生まれ、小学校から高校まで広島市内に在住。公共図書館司書、大学非常勤講師、家庭裁判所調停委員などの仕事を経て、現在は物語を書く会「梓の木の会」主宰。

リベラシオン社・岩田吾郎さんの死を悼みます!

鹿砦社代表 松岡利康

ブント系を中心とした新左翼学生運動の資料収集のサイトで有名な「リベラシオン社」主宰・岩田吾郎さんが急逝されました。社会運動の研究者にも有名な膨大なサイトです。まだサイトはそのままになっていますので、ご関心のある方は一部でもコピーされたらいいでしょう。趣味の山歩きの途上での事故死ということですが、詳しい情報はまだ入ってきていません。岩田さんがボランティアで手伝っていた『人民新聞』の追悼記事をアップさせていただきましたので、ご一読ください。

『人民新聞』の追悼記事(2025年8月5日付)

岩田さんとは、20年余り前、『田原芳論文集プロレタリア独裁への道』を編纂・出版したいと、先輩Hさん(故人)を介して知り合い手伝いました。完成直前で私が「名誉毀損」容疑で逮捕―勾留され中断しましたが、岩田さんを中心に周囲の方が作業を継続され勾留中に完成しました。手元にある当該書には神戸拘置所の「閲読許可証」が貼られています。保釈後、出版記念会が開催され発言させられた記憶があります。この本はⅡ巻も刊行され、60年安保闘争以来全国に名を馳せた同志社の学生運動を育てた理論家・田原芳さんの貴重な記録となっています。

また、岩田さんは、勾留中の神戸拘置所まで面会に来られ、さらには公判にも毎回傍聴に来られました。その後も細く長い付き合いが続いていました。私が最初に逮捕された72年2・1学費決戦50周年の集いにもお越しいただきました。謹んでご冥福をお祈りいたします。合掌

(松岡利康)

戦争が‟対岸の火事“ではなくなった2025年8月──今こそ〈反戦〉の意味を考える〈2〉

鹿砦社代表 松岡利康(龍一郎 揮毫)

ここ甲子園では、今年も夏の高校野球が始まりました。私は毎日甲子園球場の周りを散歩していますが、日本中から多くの人たちが駆け付け賑わっています。ウクライナやガザでは日々人々が亡くなり悲惨な状況だというのに、地球の遙か遠くの戦火がまるで嘘のような平和な風景です。

一昨年、古くからの知人で児童文学・子どもの生活文化研究家の梓加依さんの著書『広島の追憶 ―― 原爆投下後、子どもたちのそれからの物語』を出版いたしました。梓さんとは不思議な因縁で1992年、『豊かさの扉の向こう側』(長崎青海名義)を出版して以来、一時期娘さんが当社で働いたり、細く長い付き合いです。1992年と言いますから、実に30年余り経っていますが、これもまた何かの縁です。

先の『豊かさの扉の向こう側』を偶然に教育委員会の方が読まれ県下の図書館に置きたいということであるだけ持って行ったり、また、ある国立大学の非常勤講師の話があったりし、もともと勤勉な方で、近畿大学の夜間課程に入学、さらには神戸大学の大学院修士を修了されました。

梓さんは終戦前年の長崎生まれ、その後広島に移住、高校を卒業するまで住まわれていました。戦後の長崎、広島の悲惨な風景に日々接していたはずです。

そうしたことを自著の中で述べてこられました。当社が昨年出した『広島の追憶』は、その体験に基づいたノンフィクション・ノベルで、ぜひご一読いただきたい一冊です。

そして梓さんは、この最後に、
「……そして、戦後八十年に届く日が過ぎた。でも、地球から核の脅威はなくならない。戦争もなくならない。風よ、届けてほしい。被爆地ヒロシマから世界中の子どもたちへ。この八十年の物語が、子どもたちの未来、いいえ、近い将来の物語にならないように……。」
と書き記しておられます。

一見平和な今の甲子園周辺の風景 ―― これはいつまで続くのか? いまや年老いた多くの先達たちが、時に血を流し闘いながら守って来た〈平和〉、ここで挫けることがあってはなりません。改憲の蠢動は断固粉砕しなくてはなりません。

8月6日に続き、再び〈反戦歌〉2曲、加筆し再掲載させていただきます。これらに表現された平和への想いを感じ取って欲しい。

◆ザ・フォーク・クルセダーズ『戦争は知らない』

よく『戦争を知らない子供たち』と間違えられますが、違います。『戦争は知らない』は、それよりも先にベトナム戦争真っ盛りの1967年にシングルカットされ、発売されています。作詞は、演劇の世界に新たな境地を開拓した劇団『天井桟敷』主宰の寺山修司、歌は『たそがれの御堂筋』で有名な坂本スミ子。意外な組み合わせです。

寺山修司は、いわゆるアングラ演劇の教祖ともされる人物ですが、彼がこのように純な歌詞を書いたのも意外ですし、また坂本スミ子に歌わせたのも意外、歌謡曲として売り出そうとしたのでしょうか。

その後、ザ・フォーク・クルセダーズ(略称フォークル)が歌いますが、こちらがポピュラーです。いわば「反戦フォーク」として知られています。私は坂本スミ子が歌ったのを知りませんでしたが、フォークルのメンバーだった端田宣彦(はしだのりひこ。故人)さんに生前インタビューする機会があり(かつて私が編集した『この人に聞きたい青春時代〈2〉』)この際に端田さんから直接お聞きしました。

誰にも口ずさめる歌ですので、みなで歌うことがあれば、ぜひ歌ってください。私たちも先日、コロナの感染で長らくイベントを休んでいましたが、20年余り全国の刑務所・少年院を回り獄内ライブ(プリズン・コンサート)を行っている女性デュオ「Paix2(ペペ)」のライブを行いました。そこでもみなで歌いましたPaix2のPaixとはフランス語で「平和」という意味で、これが2人なのでPaix2ということです。

だったら、今こそ、この曲を歌って欲しいという願いからでした。

◎[参考動画]ザ・フォーク・クルセダーズ 戦争は知らない (1968年11月10日発売/東芝Capitol CP-1035)作詞:寺山修司/作曲:加藤ヒロシ/編曲:青木望

♪野に咲く花の 名前は知らない 

だけど 野に咲く花が好き

帽子にいっぱい 摘みゆけば 

なぜか涙が 涙が出るの

戦争の日を 何も知らない 

だけど私に 父はいない

父を想えば あゝ荒野に 

赤い夕陽が 夕陽が沈む

戦さで死んだ 悲しい父さん 

私は あなたの娘です

20年後の この故郷で 

明日お嫁に お嫁に行くの

見ていてください 遙かな父さん 

いわし雲飛ぶ 空の下 

戦さ知らずに 20歳になって 

嫁いで母に 母になるの

野に咲く花の 名前は知らない 

だけど 野に咲く花が好き

帽子にいっぱい 摘みゆけば 

なぜか涙が 涙が出るの

◆ネーネーズ『平和の流歌』

先に反戦歌として『戦争は知らない』について記述したところ予想以上の反響がありました。私たちの世代は若い頃、日常的に反戦歌に触れてきました。なので反戦歌といってもべつに違和感はありません。最近の若い人たちにとっては、なにかしら説教くさいように感じられるかもしれませんが……。

今回は、この記事を書いた年が沖縄返還(併合)50年ということで、沖縄についての反戦歌を採り上げてみました。

沖縄が、先の大戦の最終決戦の場で、大きな犠牲を強いられたこともあるからか、戦後、沖縄戦の真相や、戦後も続くアメリカ支配は歴然で、それを真剣に学んだ、主に「本土」のミュージシャンによって反戦・非戦の想いを込めた名曲が多く作られました。すぐに思い出すだけでも、宮沢和史『島唄』、森山良子『さとうきび畑』、森山が作詞した『涙そうそう』、阿木耀子作詞・宇崎竜童作曲『沖縄ベイ・ブルース』『余所(よそ)の人』……。

森山良子など、デビューの頃は「日本のジョーン・バエズ」などと言われながら、当時は、レコード会社の営業策もあったのか、いわゆる「カレッジ・フォーク」で、反戦歌などは歌っていなかった印象が強いです(が、前記の『さとうきび畑』を1969年発売のアルバムに収録していますが、当時は知りませんでした)。

『沖縄ベイ・ブルース』『余所の人』はネーネーズが歌っていますが、ネーネーズの師匠である知名定男先生と宇崎竜童さんとの交友から楽曲の提供を受けたものと(私なりに)推察しています。知名先生に再会する機会があれば聞いてみたいと思います。

それは以前、高校の同級生・東濱弘憲君(出生と育ちは熊本ですが親御さんは与那国島出身)がライフワークとして熊本で始めた島唄野外ライブ「琉球の風~島から島へ」に宇崎さんは知名先生の電話一本で快く何度も来演いただいたことからもわかります。熊本は沖縄との繋がりが強く『熊本節』という島歌があるほどです。一時は30万人余りの沖縄人が熊本にいたとも聞きました。それにしても、沖縄民謡の大家・知名先生とロック界の大御所・宇崎さんとの意外な関係、人と人の縁とは不思議なものです。

ところで、ネーネーズが歌っている楽曲に『平和の琉歌』があります。これは、なんとサザンオールスターズの桑田佳祐が作詞・作曲しています(1996年)。前出の『戦争は知らない』の作詞がアングラ演劇の嚆矢・寺山修司で、これを最初に歌ったのが『たそがれの御堂筋』という歌謡曲で有名な坂本スミ子だったのと同様に意外です。しかし桑田の父親は満州戦線で戦い帰還、日頃からその体験を桑田に語っていたそうで、桑田の非戦意識はそこで培われたのかもしれません。

この曲は、在りし日の筑紫哲也の『NEWS23』のエンディングソングとして流されていたものです。筑紫哲也は沖縄フリークとして知られ、他にもネーネーズの代表作『黄金(こがね)の花』(岡本おさみ作詞、知名定男作曲)も流しています。

岡本おさみは、森進一が歌いレコード大賞を獲った『襟裳岬』も作詞しデビュー間もない頃の吉田拓郎に多く詞を提供しています。岡本おさみは他にも『山河、今は遠く』という曲もネーネーズに提供しており、これも知名先生が作曲し知名先生は「団塊世代への応援歌」と仰っています。いい歌です。ネーネーズには、そうしたいい歌が多いのに、一般にはさほど評価されていないことは残念です。

さらに意外なことに、一番、二番は桑田が作詞していますが、三番を知名先生が作詞されています。

サザンは、最初に歌ったイベントの映像と共にアルバムに収録し、シングルカットもしているそうですが、全く記憶にないので、さほどヒットはしていないと思われます。サザン版では一番、二番のみで三番はありません。ここでは一番~三番までをフルで掲載しておきます。

【画像のメンバーは現在、上原渚以外は入れ替わっています。現在のメンバーでの『平和の琉歌』は未見です。】

◎[参考動画]『平和への琉歌』 ネーネーズ『Live in TOKYO~月に歌う』ライブDigest

一 

この国が平和だとだれが決めたの

人の涙も渇かぬうちに

アメリカの傘の下 

夢も見ました民を見捨てた戦争(いくさ)の果てに

蒼いお月様が泣いております

忘れられないこともあります

愛を植えましょう この島へ

傷の癒えない人々へ

語り継がれていくために

二 

この国が平和だと誰が決めたの

汚れ我が身の罪ほろぼしに

人として生きるのを何故にこばむの

隣り合わせの軍人さんよ

蒼いお月様が泣いております

未だ終わらぬ過去があります

愛を植えましょう この島へ

歌を忘れぬ人々へ

いつか花咲くその日まで

三 

御月前たり泣ちや呉みそな

やがて笑ゆる節んあいびさ

情け知らさな この島の

歌やこの島の暮らしさみ

いつか咲かする愛の花

[読み方]うちちょーめーたりなちやくぃみそな やがてぃわらゆるしちんあいびさ なさきしらさなくぬしまぬ  うたやくぬしまぬくらしさみ ‘いちかさかする あいぬはな

ネーネーズの熱いファンと思われる長澤靖浩さんという方は次のように「大和ことば」に訳されています。

「お月様よ もしもし 泣くのはやめてください やがて笑える季節がきっとありますよ 情けをしらせたいものだ この島の 歌こそこの島の暮らしなのだ いつか咲かせよう 愛の花を」

(松岡利康)

※昨年同日に掲載のものを一部修正。

◎[リンク]今こそ反戦歌を! http://www.rokusaisha.com/wp/?cat=103

◎amazon https://www.amazon.co.jp/dp/4846315258/

2025年8月4日付け神戸新聞

日本で唯一の脱(反)原発情報誌『季節』2025夏・秋合併号が8月8日発売です! 

鹿砦社代表 松岡利康

すでにご報告させていただいている通り、本誌反(脱)原発情報誌『季節』創刊10周年/月刊『紙の爆弾』創刊20周年にあたり、4・5東京、7・12関西と二つの「鹿砦社反転攻勢の集い」は、お陰様で盛況裡に終了いたしました。

新型コロナによって厳しい経営環境の下での集いでしたが、当社の出版活動を支持される多くの皆様のご参加、ご支援にて次のステージへ再出発することができました。皆様方のご参加、ご支援、本当にありがとうございました。皆様方のご支援に応え、必ず復活いたします。この件につきましては、すでにご報告させていただいていますので、これに留めます。

そして、明日8月8日にお届けする『季節』夏・秋合併号ですが、合併号ということもありかなり増ページとなりました。とりわけ今号では、5月7日に衆議院第一議員会館にて行われた、われわれの世代のカリスマ、元東大全共闘代表で物理学者の山本義隆さんの長大な講演録が入りました。必読です!

また、本誌創刊10周年記念出版とし昨秋刊行予定だった、季節編集委員会・編『3.11の彼方から──「季節」(NO NUKES voice)セレクション集』ですが、前回お知らせしましたように、ようやく完成の目途が立ち、9月初め発売予定で急ピッチで編集作業を進めています。大幅に遅れての刊行となったことをお詫びいたします。

ところで、これも前回申し述べましたが、実際に編集作業に入ってみると、当初想定した以上にページ数が嵩み、一冊では収まり切れなくなりました。そこで3分冊に分けて出版することにしました。今回は、前身の『NO NUKES voice』創刊号から14号までから選りすぐり収録いたしました。ご予約よろしくお願い申し上げます ! 

なお、ページ数の大幅増により定価アップとなりますが、以前にご注文された方は、当時予告した金額のままで結構です。

(松岡利康)

amazon https://www.amazon.co.jp/dp/B0FJXW1RPD/

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戦争が‟対岸の火事“ではなくなった2025年8月──今こそ〈反戦〉の意味を考える〈1〉

鹿砦社代表 松岡利康(龍一郎 揮毫)

八月の空は悲しい(龍一郎 揮毫)

今年も8月6日がやって来ました。── ここ甲子園では平和の象徴ともいえる夏の高校野球が始まりました。

今年は、ウクライナでの戦火に加えパレスチナでもイスラエルによる無慈悲な攻撃により戦火は収まるどころか拡大しています。日本にあっても、もはや‟対岸の火事”ではありません。解決の糸口はあるのでしょうか、絶望的になります。ほとんどの日本人にとっては今に至るも?対岸の火事”のように感じられます。果たしてこれでいいのでしょうか?

かつて1960年代後半から70年代にかけて(75年のベトナム戦争終結まで)全世界にベトナム反戦運動が拡がりました。これが和平への後押しになったことはいうまでもありません。今はどうか?

8月1日付けの本通信でも記しましたが、戦後79年、日本が曲りなりとも平和を維持できたのは、先の戦争の反省から、歴史の曲がり角にあった60年、70年の〈二つの安保闘争〉を中心として、これ以後も地道な抵抗運動があったからだと考えています。8月15日付けの本通信にて採り上げますが、私の従兄は異国で終戦を迎え必死で故郷熊本に戻り、その後大学生時代に60年安保闘争に参加しています。三里塚闘争はいまだに続いています。

異論もあろうかと思いますが、半世紀余り、時にみずから血を流し闘い、半世紀余り自分なりに社会の動向、反戦運動や社会運動の推移を見てきた上での感慨です。決して机上での平和談議ではありません。日本は、曲がりなりにも民主主義社会です(この規定にも異論はあるでしょうが、少なくとも独裁国家や専制国家ではありません)。まだ声は挙げれます。

大学に入った1970年、帰省の途中で広島に立ち寄りました。これまで長崎には何度か行っていましたが広島を訪れたのは初めてでした。8月6日に毎年広島で行われる抗議活動に参加し、その日は広島大学の寮に泊めていただきました。翌日は京都からやって来たべ平連の人たちと岩国の基地反対運動にも参加し右翼からの攻撃に広島大学の学生(中核派やね)らと一緒に対峙したことが、ついきのうのことのように蘇ります。もう55年かあ。この半世紀余りの間、日本の、そして世界の、言葉の真の意味での平和は維持されたのでしょうか ── もう50年余り前の若き日の記憶から思うところを書き記してみました。

翌年1971年の8・6は歴代首相で初めて当時の佐藤栄作首相が広島の慰霊祭に出席するということで荒れました。いまだに記憶に残るのは、ある女子大生が体当たりで佐藤首相に抗議したことです。これは報道写真でも残っています。この年の夏は三里塚闘争で仲間が逮捕されたり9月に予定されている第二次強制収容阻止闘争や沖縄返還協定批准阻止闘争の準備などで広島には行けませんでしたが、報道で観て非常に感銘を受けました。

1971年8月6日の広島平和公園に来た佐藤栄作首相(当時)に抗議の体当たりをする女子学生

今回は、3年前にウクライナ危機に触発されて、若き日に接した反戦歌について書き記した文章に加筆し、この3年間、状況がまったく変わらず、それどころかますます泥沼化し悲劇が拡大している中で、あらためて加筆、再掲載してみました。ぜひお読みいただければ幸いです。

◆矢沢永吉 『FLASH IN JAPAN』

私はこの曲を聴いて大変ショックを受けました。今こそみなさんに聴いて欲しい一曲です。日本のロック界のスーパースター矢沢永吉は広島被爆二世です。これも意外と知られていません。ご存知でしたか? 父親を被爆治療の途上で亡くしています。矢沢がまだ若い頃(1987年)、『FLASH IN JAPAN』という曲を英語で歌い、その映像(ミュージックビデオ)を原爆ドームの前で撮影し、これを全米で発売するという大胆不敵なことをしでかしています。


◎[参考動画]Longlost Music Video: Eikichi Yazawa “Flash in Japan” 1987

5万枚といいますから矢沢のレコードとしては少ないのでしょうが、矢沢にすれば原爆を人間の頭の上に落としたアメリカ人よ、よく聴け! といったところでしょうか。いかにも矢沢らしい話です。このエネルギーが、部下による35億円もの巨額詐欺事件に遇ってもへこたれず、みずから働き全額弁済し復活したといえるでしょう。やはりこの人、スケールが違います。私より2歳しか違いませんが、私のような凡人とは異なり超人としか言いようがありません。

ちなみに私たちの世代にはカリスマ的存在である秋田明大(日大全共闘代表)さんも被爆二世で、毎年8月6日に開かれる抗議集会には必ず実行委員に名を務められたり参加されています。

アメリカで発売されたこの曲に正式な日本語訳はないようですが、ファンの方が訳されていますので以下に掲載しておきます(英文は割愛。藤井敦子補訳)。私も時間を見つけて、あらためて訳してみたいと思います。

俺たちは学んだのか
 治せるのか
 俺たちは皆あの光を見たのか
 雷みたいに落ちてきて 世界を変えちまった
 稜線を照らし 視界を消し去った
 戦争は終わらないんだよ 誰かが負けるまでは
 人々の群れが塔をなぎ倒し
 敵がどこに隠れているのか知っている
 兄妹たちは炎の中をはいつくばったが
 出口に届くことはなかった
 あの空の光は 戦争なのか 雷なのか
 それともまた日本で光るのか
 雨は熱いのか これで終わるのか
 それともまた日本で光るのか
 彼らに何と言えばよいのか
 子供たちよ聞いてくれ
 俺たちが全てを吹き飛ばしてしまったが
 君たちは再出発してくれ
 朝なのに今は夜のようで 夜は冬のようだが
 いくつか変わったこともある
 いつも忘れないでいてほしい
 戦争は終わらない 誰かが負けるまでは
 あの空の光は 戦争なのか 雷なのか
 それともまた日本で光るのか
 雨は熱いのか これで終わるのか
 それともまた日本で光るのか
 あの空の光は 戦争なのか 雷なのか
 それともまた日本で光るのか
 雨は熱いか これで終わるのか
 それともまた日本で光るのか

◆忌野清志郎『花はどこへ行った』/ PP&M『Where Have All the Flowers Gone?』

当初電撃戦で一瞬にしてロシアの勝利と思われたウクライナ戦争が長引いています。電撃戦どころか、ウクライナの予想外の抵抗により(ウクライナとロシアの歴史を見れば、決して「予想外」ではないかもしれません)、もう3年半も続き、解決の糸口は見つからず、さらに長期化する兆しです。ウクライナの予想外の抵抗でロシア軍はなりふり構わず攻撃しウクライナの都市や大地を焦土化し泥沼化しています。かつてのベトナム戦争のように──。

1955年から20年続いたベトナム戦争は60年代には泥沼化し、同時に米国のみならず全世界的なベトナム反戦運動が拡がりました。あの頃の話が「遠い昔の物語」(忌野清志郎の詞)ではなかったことが今になって甦ってきました。ベトナム戦争は、私が幼少の頃に始まり、終わったのは大学を出る頃(1975年)でした。時の経過と生活に追われ長らく忘れていた悲惨な記憶が甦ってきました。

ベトナム反戦の叫びは多くのメッセージソングを生み出しました。

ピート・シーガーが作った『花はどこへ行った(Where Have All the Flowers Gone ?)』もその代表作の一つでした。ベトナム戦争が始まった1955年に作られ、1962年にPP&M(Peter, Paul & Mary)が歌い大ヒットします。日本ではPP&M版が一番ポピュラーのようですが、このほか、キングストン・トリオ、ブラザーズフォー、ジョーン・バエズらが歌っています。曲の遠源はウクライナ民謡(子守唄)ともいわれますが、なにか因縁を感じさせます。

しばらくして日本にも輸入され、「反戦フォーク」として当時の若者の間でヒットし耳にタコが出来るほど聴き歌いました。私もそうでした。また、私と同じ歳の忌野清志郎(故人)もそうだったのでしょう、みずから意訳し歌っています。激動の時代を共に過ごし、時に原発問題とか社会問題にコミットする清志郎の想いがわかるような気がします。

今、ウクナイナでの戦火に触発され加藤登紀子、MISIAらが、この曲を歌い始めました。加藤登紀子はともかく、ライブで『君が代』を歌うようなMISHAがこの歌を歌うのには違和感がありますが……。登紀子さんには、この際、今は全くと言っていいほど歌わなくなった『牢獄の炎』とか『ゲバラ・アーミオ』とかも歌ってほしいですけどね。

つい先日(2024年7月8日)、京都のキエフ(登紀子さんの実家経営)で、私がいた大学の学生運動、および寮の大先輩・藤本敏夫さんの23回忌が開かれました。私とは世代が全く異なり直接の面識はなかったので迷ったのですが、先輩に勧められ、資料コピー係(この世代の常として紙の資料が多いんです)を務め出席させていただきました。

その際、登紀子さんに「今はなぜ『牢獄の炎』を歌わないのですか?」と尋ねましたところ、「あなた、なぜこの曲を知っているの?」と驚かれました。「大学に入ってすぐに先輩に勧められ買いました。私に言わせれば『百万本のバラ』もいいが、『牢獄の炎』や、さらには『美しき五月のパリ』も復活させていただきたく熱望します。

ちなみに藤本敏夫さんは、ここ甲子園の出身です(甲子園三番町。鹿砦社は八番町)。

さて、『花はどこへ行った』は、日本でも多くの歌手がカバーしていますが、異色なところでは、古くはザ・ピーナッツ』や、今ではミスチルら、数年前、フォーククルセダーズが再結成された際のコンサートでは、わがネーネーズも一緒に歌っています。

ベトナム戦争が始まってから70年近く経ち、終わってからも50年近く経ちますが、ウクライナやパレスチナに見られるように、残念ながら、決して「遠い昔の物語」ではなくなりました。この曲は、ベトナム戦争終結とともに次第に歌われなくなっていきました。今後ウクライナ戦争のような戦争が起きるたびに歌われる名曲でしょうが、ウクライナやパレスチナに一日も早く平和が戻り、「遠い昔の物語」として、この曲が歌われなくなることを心より祈ります。


◎[参考動画]ピーター・ポール&マリー(PP&M)/花はどこへ行った(Where Have All The Flowers Gone)

『Where Have All the Flowers Gone?』
作詞・作曲:Pete Seeger、Joe Hickerson

Where have all the flowers gone
Long time passing?
Where have all the flowers gone
Long time ago?
Where have all the flowers gone?
Young girls have picked them everyone
Oh, when will they ever learn?
Oh, when will they ever learn?

Where have all the young girls gone
Long time passing?
Where have all the young girls gone
Long time ago?
Where have all the young girls gone?
Gone for husbands everyone
Oh, when will they ever learn?
Oh, when will they ever learn?

Where have all the husbands gone
Long time passing?
Where have all the husbands gone
Long time ago?
Where have all the husbands gone?
Gone for soldiers everyone
Oh, when will they ever learn?
Oh, when will they ever learn?

Where have all the soldiers gone
Long time passing?
Where have all the soldiers gone
Long time ago?
Where have all the soldiers gone?
Gone to graveyards, everyone
Oh, when will they ever learn?
Oh, when will they ever learn?

Where have all the graveyards gone
Long time passing?
Where have all the graveyards gone
Long time ago?
Where have all the graveyards gone?
Gone to flowers, everyone
Oh, when will they ever learn?
Oh, when will they ever learn?

Where have all the graveyards gone
Long time passing?
Where have all the graveyards gone
Long time ago?
Where have all the graveyards gone?
Gone to flowers, everyone
Oh, when will they ever learn?
Oh, when will they ever learn?


◎[参考動画]花はどこへ行った~トランジスタラジオ 忌野清志郎

『花はどこへ行った』
忌野清志郎詞、ピート・シーガー作曲

野に咲く花は どこへ行った
遠い昔の物語
野に咲く花は 少女の胸に
そっと優しく抱かれていた

可愛い少女は どこへ行った
遠い昔の物語
可愛い少女は 大人になって
恋もして ある若者に抱かれていた

その若者は どこへ行った
遠い昔の物語
その若者は 兵隊にとられて
戦場の炎に抱かれてしまった

その若者は どうなった
その戦場で どうなった
その若者は死んでしまった
小さなお墓に埋められた

小さなお墓は どうなった
長い月日が 流れた
お墓のまわりに花が咲いて
そっと優しく抱かれていた

その咲く花は どこへ行った
遠い昔の物語
その咲く花は 少女の胸に
そっと優しく 抱かれていた

野に咲く花は どこへ行った
遠い昔の物語
野に咲く花は 少女の胸に
そっと優しく抱かれていた

※昨年同日に掲載のものを一部修正。

(松岡利康)

◎[リンク]今こそ反戦歌を! http://www.rokusaisha.com/wp/?cat=103

【著者略歴】梓 加依(あずさ・かえ)。児童文学・子どもの生活文化研究家。1944年長崎生まれ、小学校から高校まで広島市内に在住。公共図書館司書、大学非常勤講師、家庭裁判所調停委員などの仕事を経て、現在は物語を書く会「梓の木の会」主宰。

《8月のことば》広島・長崎の青い空を見上げる……

鹿砦社代表 松岡利康

《8月のことば》広島・長崎の青い空を見上げる……(鹿砦社カレンダー2025より。龍一郎揮毫)

本年、8・6広島、8・9長崎の原爆投下、そして8・15敗戦からそれぞれ80年が経ちます。また、その後のベトナム戦争終結から50年です。歴史的にもエポック・メーキングの年です。

残念ながら、ウクライナ、ガザではまだ戦争が続いています。

私たち戦後生まれの世代は、もちろん戦争を知らずに生きてきましたが、私たちの青春時代にはベトナム戦争が激しく、そのベトナムへの米軍の出撃拠点となっていた沖縄の現実にも目を向け、ベトナム反戦の集会やデモに連日参加しました。それが当たり前のキャンパスの風景でした。

私が転がり込んだ寮では、戦中、学徒出陣で出征する寮生を母子で見送った寮母さんは反戦意識が強く、集会やデモの日に寮でくすぶっていると「何をしとん、早く行け!」と叱るような人でした。今はそんな寮母さんなどいません。

べ平連(ベトナムに平和を!市民連合)など参加しやすい運動もありました。もっとラディカルな運動もあり、みずからの意志でどれにも参加できる環境でした。

今はどうか? 多様な運動自体がなくなり、参加しようにもできない状況です。私のいた大学は当時(1960年代から70年代にかけて)全国的にも中心となったところでしたが、その後、混乱と低迷の時代に入り学生みずから学友会(全学自治会)を解散するという前代未聞のことをやらかしました。

今、キャンパスは静かで綺麗です。戦争反対を謳う立看一つ立てれません。私たちが日夜切磋琢磨の拠点としていた学生会館も取り壊され、どでかい近代的な建物に変わっています。果たしてこれでいいのでしょうか? 建物は綺麗でも、なにか無味乾燥です。

8月は鎮魂の季節であると共に、私たちの心の中に<反戦>の火をふたたび燃やす季節にしなくてはなりません。

近く発売になる『季節』夏・秋合併号には、かつて東大全共闘代表を務めた山本義隆さんの長大な講演録が掲載されます。

かつての学生運動で、東大といえば日大ですが、日大全共闘代表は秋田明大さんです。あまり知られていないようですが、広島出身の秋田さんは被爆二世です。毎年、8月6日の集会にはいつも、こっそりと呼びかけ人に名を連ねられています。ご存知でしたか? その後の無骨な秋田さんの人生が想像されます。山本さんの次は秋田さんに登場いただきたいですね。

1970年の8月6日、この年の4月に大学に入学、帰省の際、広島で途中下車し広島大学の寮に泊めてもらい、反戦集会に参加したことが思い出されます。18歳の夏のことでした──。

(松岡利康)

《緊急アピール!》対エル金訴訟、一審判決(東京地裁立川支部。被告森奈津子と鹿砦社に損害賠償11万円等)の取り消しを求め東京高裁に控訴! 人生を台無しにされ、いまだにリンチのPTSDに苦しむ大学院生(事件当時)М君に対する残忍なリンチ事件の主要暴行実行犯・エル金こと金(本田)良平の開き直りを私たちは人間として決して許さない! 圧倒的なご支持、ご支援をお願いいたします!

鹿砦社代表 松岡利康

別途「デジタル鹿砦社通信」で述べていますように、元大学院生М君に対する凄惨なリンチ事件(俗称「しばき隊リンチ事件」)の張本人、エル金こと金(本田)良平が、作家・森奈津子さんに粘着し、これから逃げるために、やむなく金良平らによる集団リンチ事件の「略式命令」書を晒したことが「プライバシー侵害」だとして110万円の損害賠償等を求める民事訴訟で、その一部を認容した一審判決の取り消しを求め、森さんと鹿砦社は7月25日、東京高裁に控訴いたしました。さっさと「はい、そうですか」と賠償金11万円を支払って終わりにすることの方が経済効率的には賢いのかもしれませんが、私たちは、くだんの集団リンチ事件によって人生を狂わされ、研究者の途を断念、いまだにリンチのPTSDに苦しんでいるМ君の胸中を思うとやり切れなく、ここはお金の問題ではなく、かの奥崎謙三級のしつこさを持って徹底的に闘うしかありません。

狂犬・金良平

「リンチはなかった」「デマだ」「街角の小さな喧嘩」などと吹聴し開き直る徒輩を私たちは決して許しません。リンチ直後に撮った被害者M君の顔写真を私たちは冷静に見れません。またリンチの最中の音声データも平常心で聴けません。時が経てば解決するなどということはありません。

被害者М君、リンチ前と後の画像を比べれば、これが「デマ」「リンチはなかった」「街角の小さな喧嘩」などではないことは歴然!

一審で原告・金良平は、関西から首都圏に移住したことは述べつつも実際の住所を明らかにせずして提訴しました。「住所」としているのは代理人の神原元弁護士の事務所の所在地です。

控訴状
控訴状
控訴状

かつて、あれだけの凄惨なリンチに手を染めた狂犬が、いったんは「謝罪文」をМ君に渡しつつも、すぐに反故にし開き直り、時を経て今度は森さんに粘着し、森さんの居住地の首都圏に移住したことで、森さんに危害を加える危険性が強く懸念され、私はやむなく、すでに〈公知の事実〉とされてきた罰金40万円の「略式命令」書を森さんに送り、これを大っぴらにしてでも身を守るように申し述べました。森さんは私のアドバイスに従い、それをX上に公開しました。これが「プライバシー侵害」だというのです。

それ以前には、先に森さんを提訴したグループの連中は森さんの自宅周辺を徘徊したり、昨年には正体不明の輩から殺害予告がありました。さらに、森さんや私も面識のある山梨学院大学の小菅信子教授は何者かに愛猫を殺され、またエッセイストの室井佑月さんは自宅前に汚物を撒かれたりしています。小菅、室井両氏とも、金良平に繋がる連中(いわゆる「しばき隊」とか「カウンター」といわれる)を批判したことが共通しています。こうしたことが脳裏を過りました。

森さんが、くだんの「略式命令」書を公開するや金良平による粘着はやみましたので効果はあったと思います。誤解を恐れず申せば、「毒には毒をもって制す」ということです。自分の身は他人が守ってくれるわけではありません。24時間介護の重度身障者の夫を持つ森さんの行為はみずからの身を守るためだったのです。

あれだけの凄惨なリンチをやった者が「プライバシー侵害」だって!? 笑わせないでいただきたい。

ところで、私たちが大学院生リンチ事件について被害者支援、真相究明に本格的に関わり始めるや、被害者周辺はもちろん、加害者周辺からも多くの資料が寄せられました。これらのうち一部は6冊の出版物に掲載していますが、掲載していないものも少なからずあります。くだんの「略式命令」書はそうで、この他には「カウンター」「しばき隊」界隈の活動家住所録なども寄せられ、取材に使わせていただきました。金良平など狂犬のような徒輩がいるので、多くの方々は面従腹背を装っていますが、代わりに多くの情報や資料を寄せていただきました。

今後、森さんら、しばき隊界隈に批判的な人たちに危険が生じるようなら、私は綺麗事は棄て、どんどんディープな情報を公開しても身を守ることを優先いたします。かつて「おっかけマップ」を出して芸能ゴロや原発貴族を震撼させたように──。

尚、一審係争中の本年正月早々、森・鹿砦社代理人の内藤隆弁護士(1996年から鹿砦社の東京方面の訴訟を依頼。主な事件に、日本相撲協会から東京地検特捜部への刑事告訴[不起訴]、「名誉毀損」に名を借りた出版弾圧の対アルゼ民事訴訟などがある)が急逝され、以後、内藤先生の先輩の清井礼司弁護士が引き継がれ、本件控訴審も清井弁護士が代理人を務められます。いずれも動労千葉弁護団であり、相手方の神原弁護士(ら日本共産党に近い者ら)からは「極左」と詰られる弁護士です。清井弁護士は、偶然ながら、私が10年間のサラリーマン生活を辞め本格的に出版の世界に入った際に、手取り足取り教えていただいた師匠=府川充男(装丁家、活字研究家)さんの親分で、ある新左翼党派の理論家でした。府川さんは軍団を率いこれには坂本龍一も加わっていたそうです。

ともあれ、私たちは一審判決取り消しを求め控訴しました。圧倒的なご支持、ご支援をお願い申し上げます。裁判の遂行を経済的に保障するご支援のカンパをお願いいたします。本件専用の口座を設けましたので、ご支援のカンパはここにご入金をお願いいたします。

三井住友銀行 甲子園支店 普通 0966462 口座名=別口株式会社鹿砦社

ちょっと奇異な口座名ですが、これが正式な口座名です。
皆様方の圧倒的なご支持、ご支援をお願い申し上げます! 勝利をわれらに!

(松岡利康)

《ご報告とお礼》『紙の爆弾』創刊20周年/『季節』創刊10周年7・12「鹿砦社反転攻勢の集い・関西」、盛況裡に終了! 4・5東京に続く二つの「反転攻勢の集い」の成功によって、共に苦境を突破しよう!

株式会社鹿砦社代表 松岡利康

鹿砦社の出版活動を理解し支援されるすべての皆様!

私たちは去る7月12日、鹿砦社のホームグラウンドである兵庫県西宮において「鹿砦社反転攻勢の集い・関西」を催し、50名余の方々が参加され盛況裡に終了することができました。

4月5日、東京日比谷・日本プレスセンターでの集いが100名余ですから、人数だけを見ると半分ですが、元々関西にはライターさんが少なく、いつもこんなところです。

また、集いの構成も三部構成で、第一部は20年前の7・12事件の検証と回顧、私が基調報告を行い、当時、地元テレビ局記者として精力的に取材をされ何度もニュース番組で特集を組んでくださったNさん、私が保釈された直後に同じ神戸地検に逮捕されたWさん(当時宝塚市長)も当時の神戸地検の捜査の酷さを証言してくださいました。第二部は、今年デビュー25周年を迎え、このかん全国の刑務所、少年院などを回り獄内ライブ(ご本人らが言うプリズン・コンサート)を行ってきた「Paix2(ぺぺ)」のミニライブ、第三部が懇親会という流れで、3時間という長丁場でした(東京は2時間)。さらに二次会にも15名の方が残り、遅くまでいろいろ語り合いました(東京は二次会なし)。硬い話ありライブあり飲み食いあり自由な歓談ありの濃密な一日でした。

基調報告をする松岡

◆4・5、7・12の二つの「反転攻勢の集い」をステップとして苦境を突破し、『紙の爆弾』『季節』を、存在感のあるミニメディアとして継続させよう!

よく考えてみてください。『紙の爆弾』にしろ『季節』にしろ、わが国には類誌がありません。本来ならもっと売れてしかるべきですが、私たちの宣伝力の弱さにより、いまだに社会的に小さな存在です。『紙爆』はわずかながら黒字ですが、『季節』は創刊以来ずっと赤字です。会社が好況だった時期は、これでもよかったのですが、新型コロナ襲来以降、局面ががらりと変わり、蓄えもすべて溶かし、資金不足、苦境に喘いでいることを隠しません。今現在、両誌を同じ月に発行するのが困難で、やむなく『紙爆』は8月売りの号をお休みさせていただかざるを得ませんでした。

両誌の今後につきましては、極めて重要な選択と改変を迫られており、皆様方にも前向きなご意見を賜りたく存じます。7・12でも『季節』の今後について、私に直談判にお越しになった方もおられました。

私たちは、なんとしても両誌を継続的に発行し、まさに反転攻勢を勝ち取るべく、塩を舐め、たとえ「便所紙」を使ってでも発行を続ける覚悟です。

先の二つの集いには計150名余りの方々がご参集くださいました。これは大きなことです。ふつうなら会社が厳しくなると、こういう集まりを避けられがちになりますが、まだまだ見捨てず時に温かい叱咤激励、時に有り難いご支援をされる方々がおられることは私たちにとって大きな力になります。この方々のお力もお借りし、この苦境を乗り越えていきたく存じます。本来なら自立自存でやっていければいいのですが、残念ながら今は皆様方のご支援なくしてはやってはいけません。

しかし、人件費をはじめ徹底した経費削減、製作費用圧縮、また落ち込んでも一定の売上があることなどによって、月々の不足金も縮小しつつあります。書店や取次会社も元気を失くし書店での売上金が縮小していることは事実で大きな痛手ですが、これを今後は直販などでカバーしたく思っていますので、「セット直販」や『紙爆』『季節』の定期購読と拡販、バックナンバー購読、あるいは書籍の直販など、よろしくお願いいたします。

今しばらく耐え抜き、必ずや勝機を掴みブレイクします! 過去の成功例に酔い知れるのも問題がありますが、私たちはこれまで、幾度となく困難に直面し(その最たるものが20年前の「名誉毀損」逮捕事件)、その都度、皆様方のご支援を得て乗り越えてまいりました。今回も同じく、なりふり構わずなんとしても乗り越える決意です。

◆二つの雑誌の存在意義(レゾンデートル)、鹿砦社の出版活動の社会的意義を、あらためて想起し、再び逆襲、反転攻勢へ!

私たちの出版社・鹿砦社は、良くも悪くも、これまで芸能本の売上によって支えられ、『紙爆』『季節』やその他、社会問題書など、いわゆる“硬派”の書籍の発行を保証してきました。これで年間10億円売り上げたこともありましたので、これはこれで評価すべきでしょう。20年前の「名誉毀損」に名を借りた出版弾圧後、復活の元になったのも芸能本で、私たちの規模の会社でコンスタントに3~4億円の売上が続きました。それが、このコロナ禍によってガラリと崩れました。コロナを甘く見て、これについての対応が後手後手に回ってきました。大いなる反省点です。

トーハン、日販の大手取次も、本来の出版取次業務はずっと赤字で、介護やホテル経営など非出版取次業務のほうにシフトしています。書店も、書籍、雑誌だけでは売上不足で、書店をよくご覧になったらわかりますが、文具など非出版物に力を入れています。

『紙爆』20年、『季節』10年、われながらよく頑張ってきたと思います。しかし、これまでと同様の認識、やり方ではやっていけないことが露呈されました。直販や定期購読などを拡大していくことも一つの方策だと思います。雑誌や書籍などの「紙」の出版をやめて電子書籍にシフトしたら、というご意見もあり、電子書籍はサイゾー社と五分五分の共同出資で10年ほど前に別会社を作りやっていますが、さほど売上が立ちません。『紙爆』も『季節』も「紙」と同時に電子書籍を発売しています。今後はわかりませんが、早急な会社再建の柱にはなりません。

しかし、『紙爆』にしろ『季節』にしろ、社会性があるのは事実で、他に類似誌もありません。書籍でも左右硬軟織り交ぜて鹿砦社らしくタブーなく雑多に出してきました。芸能本でも、例えばジャニーズ問題は1995年から追及し、3度の出版差し止めにもめげず続け、一昨年のジャニー喜多川による未成年性的虐待問題では、事前から水面下でBBCに協力し、その先駆性が高く評価されました。

このかん「セット直販」をやるために、これまで出版してきた書籍の一部をリストをリスト化しましたが、どれも社会性があり、よくもこれだけ出して来たなとあらためて感慨がありました。古い本には、当時の気持ちを思い出し、浮き沈みの激しかった出版人生を想起し、もう一仕事、二仕事し、拙いながらやってきたわが出版人生を全うしないといけないな、と思い知りました。

 やはり、こうした出版は続けるべきだし、販売方法ややり方を工夫すれば、今後も続けていきたいし、続けて行けると信じています。近日、精神科医の野田正彰先生の著作を2点出す予定で進めていますが、今後の試金石になると思っています。

◆私(たち)はくたばらない! 『紙爆』『季節』継続! 後々に残る書籍の刊行を持続します! 

私が本格的に出版を始めた頃、歴史家の小山弘健先生に教えていただいたクラウゼヴィッツの「われわれの出版の目的は一、二年で忘れ去られることのない本を作ることである」という言葉を思い出しました。そうして出版したのが、『日本マルクス主義と軍事科学』という本で、引っ越しで書庫を整理しているとまとまって30冊ほど出てきました。皆様にもぜひ読んでいただきたい一冊です。

4・5、7・12と二つの反転攻勢の集いを準備する過程で、多くの皆様方のご支援、ご厚意に触れることができました。それなりに支援金も集まり、2つの集いの直接的費用を支払っても余剰金が出て経費などに使わせていただきましたが、一番底の時期で、かなり助かりました。

同時に、いろいろ考えることも多く、「われわれはなぜ出版を続けるのか?」という本質的な問題にぶつかりもしました。私の出版人生は、このコロナによる負債(特に皆様のご厚志である社債)を今後返し終えるまではやめれなくなり、少し延びましたが、なんとか「一、二年で忘れ去られることのない本」を、一冊でも二冊でも出して行きたいと思っています。

私(たち)はくたばりません。4・5、7・12の二つの集いは、まだまだ多くの皆様の期待が残っていることを私たちに思い知らせ、「弱音を吐かず、もっと頑張らんかい!」という叱咤激励をいただきました。いろんな意味で収穫が大きかった二つの集いでした。準備などもきつかったですが、共に語り合い共に喜び合った集いでした。最悪の事態は脱し山は越えたとはいえ、もうしばらく苦しい時期は続くかと思いますが、今後共ご支援のほど、よろしくお願い申し上げます。

最後になりますが、二つの集いに参加された皆様、ご支援の賛同金、カンパ、ご祝儀を賜りました皆様、本当に有り難うございました。心より感謝とお礼を申し上げます。

以上簡単ですが、7・12「鹿砦社反転攻勢の集い・関西」のご報告、そして4・5の前後からのご支援への感謝を申し上げます。

本年も超猛暑が続くようですが、くれぐれもご自愛ください。

いつもこの場所にはPaix2(ぺぺ)がいた