《12月のことば》望むことは あなたと生きることだ(鹿砦社カレンダー2022より。龍一郎揮毫)

師走に入りました。このカレンダーも最後の1枚となりました。

皆様方にとって、この1年はいかがでしたか?

世間の大半は、コロナ禍の影響で塗炭の苦しみを味わっておられることでしょう。

加えてウクライナ戦争や円安による物価高──。

特にウクライナ戦争は対岸の火事ではなく、かつてのベトナム戦争を想起させて深刻です。

いつ日本に飛び火してくるかもしれません。

一日一刻も早い停戦を望みます。

先の大戦で、世界で初めて原爆を落とされ、沖縄を最前線として全土が焦土化された日本は、今こそイニシアティブを取り和平に向けて奮闘すべきです。

今、どのような苦しみを味わおうとも、日々多くの人々が殺されているウクライナの情況に比すればなんともありません。

「望むことは あなたと生きることだ」──励まし合い共に生きていこう!

*来年のカレンダーが出来上がってまいりました。『紙の爆弾』の定期購読者/会員の皆様から(同誌と一緒に)発送を開始いたします。ご期待ください!

(松岡利康)

『紙の爆弾』と『季節』──今こそタブーなき鹿砦社の雑誌を定期購読で!

この8月、上念素子・著『廻船問屋の中ぼんさん──明治~昭和初期の大阪・商家の物語』という本を出版しました。

 

上念素子・著『廻船問屋の中ぼんさん──明治~昭和初期の大阪・商家の物語』(2022年 鹿砦社)

「鹿砦社らしくない本だね」という声も聞きましたが、失礼な(苦笑)、かつてはこういう類の本をよく出版していましたので、私にとってはべつに珍らしいことではありません。

水の都・大阪で繁栄した廻船問屋の興亡をめぐる、著者の祖父の物語を小説風に書いた力作です。いわば「ノンフィクションノベル」といったらいいでしょうか。廻船問屋のことや、最期は沖縄戦で火炎放射を浴びて戦死した主人公については、ぜひ本書をご購読いただき目を通してみてください。

昨年末、突然、本書の著者が参加している児童文学研究会の先生・梓加依さんからお電話があり、「ぜひ読んで欲しい原稿がある」ということで、師走の慌ただしいさなか、お二人で来社されました。

原稿を預かり、ざっと目を通し、一所懸命に書かれたことが文脈から窺えましたが、「今の私の会社では出版できない」と著者に伝えようとしたところ、「松岡さんには迷惑かけない。売れ残ったらみなで売る」からと梓さんから綺麗な直筆でお手紙をいただき、小部数で出版することにしました。実際に下記にある『主婦の手づくり選挙入門』も、その数年前に出した宇治児童文学会・編著『お母さんたちが読んできた児童文学100冊の本』も、女性パワーで一気に売ったという経験もあり、研究会を主宰しておられますから「売れ残ったらみなで売る」という言葉にも信憑性もありました。

原稿の送り付けや出版企画の話は1年に何度かありますが、ほとんど断っています。梓さんの紹介がなければ一顧だにせず断っていたでしょう。

梓さんと知り合ったのはもう30年余り前の1991年4月、「あしたをひらく女性の会」編著で前記の『主婦の手づくり選挙入門──もっと女性議員を!! 兵庫県川西の熱き体験』という書籍を出版したことに遡ります。この本の編集は、『季節』と「デジタル鹿砦社通信」の編集長・小島卓君が務めましたが、この本が縁で、梓さんの当時のペンネーム「長崎青海」さんと知り合ったのです。

当時、鹿砦社と同じく、関西で言う「阪神間」の一角、兵庫県川西市は汚職と選挙違反で荒れ、無党派の女性らが「あしたをひらく女性の会」を結成、出直し市議選に2人立候補させ2人とも当選、この記録を一冊の本にまとめたものです。あらためて紐解くと、今でも十分に通用する内容です(その後、同会は分裂したと風の噂で聞き、梓さんもそれを機に会を離れたということでした)。

これを前後して梓さんと知り合うのですが、どういう経緯だったか私も梓さんも、さすがに30年余り前のこと、思い出せません。

その翌年の1992年2月、長崎青海・著『豊かさの扉の向こう側』という書籍を出版しましたが、これが梓さんの人生を変える一冊になったということです。これまで知りませんでした。

あしたをひらく女性の会・編著『主婦の手づくり選挙入門 : もっと女性議員を!! 兵庫県川西市の熱き体験』(1991年 鹿砦社)と長崎青海・著『豊かさの扉の向こう側』(1992年 鹿砦社)

この本を、教育委員会の方が偶然読まれ感銘を受け、「研修で使いたいので20冊持って来てほしい」とお電話があったそうです。売れ残りを私から買い取って手元にあったので、すぐに持って行ったそうです。

その後、やはりこの本が縁で、ある国立大学の非常勤講師の話があり、自分は高卒で不適当だと断ったそうですが、それでもいいからと採用されたということです。しかし、これ以降、いくつか非常勤講師や家裁の調停員などの仕事が舞い込むことになります。当時、梓さんは図書館のアルバイト職員で、高卒ですから当然司書の免許もなかったそうですが、高卒のままではいけないと、意を決して、近畿大学の通信教育に入学し卒業、司書の免許も取得します。向学心の強い彼女は、さらに神戸大学の大学院にも進み50歳を過ぎて博士課程前期(修士)を修了したそうです。

 

梓 加依『おかあちゃんがほしい──原爆投下と取り残された子どもたち』(2018年 素人〔そじん〕社)

『豊かさの扉の向こう側』出版後、いつのまにか付き合いがなくなり、こういうことがあったのを、最近まで知りませんでした。さらに驚いたのは、彼女の単著『おかあちゃんがほしい──原爆投下と取り残された子どもたち』(素人〔そじん〕社刊、2018年)での「あとがきにかえて──もう一つの物語『養護施設と私』」におけるカミングアウトです。

梓さんは、一見上品で裕福なイメージですが、これを覆すような記述です。正直驚くと共に涙が出てきました。彼女は終戦前年の1944年(昭和19年)に異国で生まれ、敗戦濃厚の引揚の混乱で実の母を亡くし見知らぬ女性に引き取られ育てられたそうです。少し長くなりますが、このくだりを引用します。──

「私も戦争中に誰の子どもかわからずに育ての親に養育されました。そこことを戦地にいた父は知りませんでした。戦争から帰ってきて自分の子どもだと聞かされて私を育てたのです。父が戦争に行くときに母はお腹が大きかったのです。けれどもその子どもは死産でした。代わりに私をもらったようです。戸籍は実の子どもになっていました。当時はそんなこともできたのです。
 私が高校を卒業する時に記念に献血をしたことで、私が父の子どもではないことを、父も私も知ることになりました。血液型が父と違ったのです。その後、母がこのことで自殺未遂をしたり、父が家に帰らなくなったり、私は母からひどく叱られ憎まれたりして、『あなたなんかもらわなければよかった』という母の言葉で家族は崩壊しました。私はそのすべてが自分の存在のせいだと思われて苦しい時間を過ごしました。何度も死ぬことを考えました。」

普通こういうことは「墓場まで持って行く」ようなことでしょうが、梓さんは齢七十を過ぎ、なにかを達観されたのか、自己の生きてきた道程を書き記しておかなければならないという強い想いが強迫観念のように込み上げて来たのではないでしょうか。

加えて、引き揚げてきた長崎には、翌年8月9日、原爆が落とされ育ての母は被爆し、その後がんで亡くなったそうです。当然1歳かそこらの梓さんも被爆したはずですが、母は、差別を心配し梓さんは被爆していないと通したということです。梓さんはその後、広島に転居し、高校を卒業するまでを過ごしたとのことです。高卒後、大阪に出て働き始め結婚、出産、阪神大震災で被災、長女の震災鬱と死を経て、現在に至ります。まさに波乱の人生です。震災後の96年、次女が鹿砦社に勤めたこともありました。

手前味噌ながら『廻船問屋の中ぼんさん』は良い本ですが、販売面では苦戦しています。印刷所への支払いも頭の中に過っていたところ、つい数日前の夕方、そろそろ帰宅しようかと思っていたところに電話があり、取ってみると梓さんでした。開口一番「銀行口座を教えて」ということでした。「松岡さんが30年前に私の『豊かさの扉の向こう側』を出してくれたお蔭で、その後、大学の講師などに就けた。松岡さんには恩があるので、本の製作代金を支払うわ」ということでした。「えっ!」唖然としました。翌日、本の製作代金を遙かに上回る金額が振り込まれました。

「一冊の本が人の運命を変えることがある」とは、よく言われることです。私も常々言ってきましたが、実際に、身近でこういうことが起きるとは……。ひょっとしたら、『廻船問屋の中ぼんさん』の著者・上念素子さんも、この本を出版したことで、のちに運命が変わるかもしれません。

『豊かさの扉の向こう側』はちょうど30年前の出版、30年の歳月を越えて梓さんとの再会にもまたなんらかの運命的なものがあるように感じます。

コロナ禍、円安と物価高、ウクライナ戦争と暗いことが続く世の中、久しぶりに気持ちが清々しくなるような話でした。ぜひともみなさんに知って欲しくて書き記しました。

*『豊かさの扉の向こう側』『主婦の手づくり選挙入門』は在庫有りません。

(松岡利康)

上念素子・著『廻船問屋の中ぼんさん──明治~昭和初期の大阪・商家の物語』(2022年 鹿砦社)

amazon https://www.amazon.co.jp/dp/4846314707
鹿砦社 http://www.rokusaisha.com/kikan.php?group=ichi&bookid=000705

《11月のことば》今を生きろ(鹿砦社カレンダー2022より。龍一郎揮毫)

2022年のカレンダーも残すところ2枚となりました。いつまでも終息しない新型コロナ禍、これに苦しめられながらアップアップの日々でした。加えて台風、水害などの自然災害、知床観光船の沈没事故、沖縄「本土復帰」50周年、安倍前首相暗殺、目を世界に転じれば、2月に始まったロシアによるウクライナ侵略戦争……目まぐるしくいろいろなことが起きました。あまりに日々の生活に追われ気づきませんでしたが、じつは本年は歴史の転換点だったのかもしれません。

目を背けたくなるような出来事が続き、また酷暑、コロナ禍などに苦しめられてきましたが、現実から逃げることなく「今」を精一杯生きようではありませんか!

「鹿砦社カレンダー2023」の制作も、校了し今月末の完成予定です。『紙の爆弾』『季節』定期購読の皆様方には、12月発行の本誌と共にお届けいたします。まだ定期購読をなされていない方は今からでもよろしくお願いいたします。毎年好評で品切れになりますので、お早目にどうぞ!

(松岡利康)

『紙の爆弾』と『季節』──今こそタブーなき鹿砦社の雑誌を定期購読で!

去る10月23日、秋晴れの日曜の午後、労働者の街・大阪釜ヶ崎で、先頃出所した重信房子さんやホリエモンこと堀江貴文氏も獄中で聴き感動した女性デュオPaix²(ぺぺ)のやさしい歌声が響きました。

Paix²は20数年間、マネージャーが運転するワゴン車「ぺぺ号」に音響機材を積み、全国の矯正施設(刑務所、少年院など)を回り獄内で収容者を前にライブ(彼女ら言うところの「プリズン・コンサート」)を行ってきました。その数505回! 驚異的な数です。全国の刑務所は北は網走から南は沖縄まですべて踏破、少年院もほぼ踏破しているとのことです。そうしたことで以前は「受刑者のアイドル」とか言われました。

「はなママ」こと尾崎美代子さんの発声で始まりました

Paix²登場!

また、今回もそうでしたが、音響機器のセッティングも自分らで行い、終われば後片付け、撤収も3人で行います。現在はコロナ禍で休止しているとのことですが、仮に今やめても驚異的な数です。客観的に見ても歴史に残る快挙だと言わざるをえません。

ということで、去る10月12日には、「安全で安心なまちづくりの推進に尽力した功績」で内閣総理大臣表彰を受けました。これには、総理大臣の名のある表彰ということで異論もありますが、それはそれとして長年のPaix²の労苦をせめて顕彰させようという刑務所関係者、法務省の職員のみなさん方の善意のプッシュが大き力となっています。

Manamiさん(左)とMegumiさん(右)

私がPaix²を知ったのは15年ほど前になります。例の出版弾圧で勾留され保釈になり、裁判闘争を闘い、ようやく事業回復しつつあった中で、ある雑誌社から送られてきた実話誌(『実話Gon!ナックルズ』だったと記憶します)に掲載された漫画を偶々見たことから連絡し、東京・新宿の喫茶店で会ったのが最初となります。自分自身が実際に逮捕、勾留されたことでリアリティを感じ胸を打たれた次第です。この漫画は今も切り取って保存しています。

その後、西宮で今回の規模のライブを行い、その後、小さなライブを10回以上やっていますし、縁あって非常勤講師を務めさせていただいた関西大学の講義でミニライブをやったり、忘年会・新年会や記念イベントなどでも歌っていただいたりしました。

プリズン・コンサート300回、500回を達成した折には記念本も出版いたしました。せめてもの贈り物です。

今回は久しぶりの生ライブということで非常に緊張し、失敗したらもう釜ではやれないな、という、私なりの強い想いで取り組みました。スケジュールや選曲も私のほうで行わせていただきました。特に現在、ウクライナ戦争のさなか、反戦歌も2曲歌っていただきました。一つは忌野清志郎版『花はどこへ行った』(私たちが若い頃はPPMことPeter Poul & Maryらでヒットしました)、もう一つは寺山修司作詞でシューベルツが歌った『戦争は知らない』です。Paix²という名は元々「Paix」は「平和」という意味で、この二乗で「Paix²」ということですから、この名に恥じないように今こそ反戦歌を歌って欲しいという願いからです。

受刑者の家族からの手紙で感動を誘い、『元気だせよ』で一気に盛り上がり、2曲の反戦歌、そしてアンコール曲『いいじゃんか』で会場の熱気は最高潮に達し、この日のライブは終了したのでした。

満員の会場!

定番『元気だせよ』で大盛り上がり!

この後、Paix²から抽選で観客の皆様方にプレゼントがありました。けっこう数があり、この日のライブに対する彼女らの想いを感じました。

当日のライブは午後3時きっかりに始まり5時に終了、その後、懇親会で思う存分語り合い大阪・釜ヶ崎の夜は暮れていったのです。

今回は釜ヶ崎で小さな食堂を経営する「はなママ」こと尾崎美代子さんがライブの案内を公にするや一気に予約が殺到し早目に申し込みを打ち切らざるをえませんでした。参加したかったのにできなかった皆様方、申し訳ございませんでした。早晩、またライブの企画を検討しようと思っていますので、次の機会にはぜひご参加ください。

車いすの方が心からの花束贈呈

ウクライナ戦争が一刻も早く終わることを祈り、カオリンズも加わり会場と一体化して『戦争は知らない』を合唱

Paix²、カオリンズ、尾崎さんらと初老の爺さん

(松岡利康)

◎Paix²(ぺぺ)オフィシャルウェブサイト https://paix2.com/
◎Paix²(ぺぺ)関連記事 http://www.rokusaisha.com/wp/?cat=77

『塀の中のジャンヌ・ダルク――Paix²プリズン・コンサート五〇〇回への軌跡』

amazon https://www.amazon.co.jp/dp/4846313581/
鹿砦社 http://www.rokusaisha.com/kikan.php?bookid=000626

『逢えたらいいな――プリズン・コンサート300回達成への道のり』(DVD付き特別記念限定版)

amazon https://www.amazon.co.jp/dp/4846308723/
鹿砦社 http://www.rokusaisha.com/kikan.php?bookid=000285

世の中には不思議なことが往々にしてありますよね。このかん私が体験したことをお話しします。

◆半世紀前の学生時代に出会った海藤壽夫弁護士

私は学生時代、まだ学生運動の余韻が残っていた1970年代初め学費値上げに抗議して逮捕されました(1972年2月1日)。150人ほどの学友が検挙、逮捕され、その内、私を含め10人が起訴され裁判闘争に入りました。大学を出てからも裁判は続きましたが、弁護団の頑張りで「寛刑」で、あろうことか支援に来てくれた京大生のMK君は無罪を勝ち取ることができました。

松岡が逮捕され海藤壽夫弁護士が弁護を担当した72年2月1日学費決戦を報じる京都新聞同日夕刊

 

海藤壽夫弁護士(京都総合法律事務所HPより)

この時、中心になって弁護活動を行ってくれた弁護団の1人に海藤壽夫(かいどう・としお)弁護士がおられました。前年の71年4月に弁護士になられたばかりでした。海藤先生は、かの塩見孝也さんと同期、また1期下に連合赤軍事件で亡くなった山田孝さんがいたそうです。3人は京大生協組織部で活動し、総代会で日本共産党に敗れ、海藤先生は司法試験に専念し、塩見さん、山田さんは政治活動の道に突き進んだそうです。

時代は70年安保を前にして学生運動が燃え拡がります。塩見さんと山田さんは先頭に立って闘い、残念ながら悲惨な目に遭います(塩見さんは獄中約20年、山田さんは連合赤軍事件でリンチ死を遂げます)。

ちなみに、海藤先生は、京都地裁の横に在った坪野米男法律事務所に所属され、坪野事務所は新左翼系の学生の弁護を一手に引き受けていました。坪野先生は弁護士の傍ら社会党の京都府連委員長も務めておられ、リベラルな方だったようです。

◆半世紀後に出会った森野俊彦弁護士

先の10月16日のこの通信に森野俊彦弁護士の著書『初心 「市民のための裁判官」として生きる』を田所敏夫さんが評していました。田所さんの紹介で森野先生に出会い、2件の民事訴訟の代理人を受任いただきました。この通信でもたびたび登場する、いわゆる「しばき隊大学院生リンチ事件」関連訴訟(対李信恵控訴審、対藤井正美訴訟一審)の2件です。

 

森野俊彦弁護士(あべの総合法律事務所HPより)と最新著『初心 「市民のための裁判官」として生きる』(日本評論社)

特に対李信恵控訴審では、李信恵のリンチ事件への関与を高裁が認め判決の変更、賠償金の減額を勝ち取ることができました。

ここでまず一つ不思議なことが判りました。なんと森野先生と、先の海藤先生とが司法修習の同期、同クラスだったとのことです。偶然とはいえ、こんなこともあるのですね。

……と驚いていたところ、“私にとって偉大な先輩”が指導し逮捕された1968年6月28日のASPAC反対大阪御堂筋突破デモ「事件」の判決文の草稿を、71年4月に裁判官に任官されたばかりの駆け出しの森野先生が書き判決を下したそうです(71年10月8日)。

今はおそらくないだろうと思いますが、当時はまだ牧歌的な時代だったのでしょうか、任官1年目の新人にも判決文(の草稿)を書かせるような時代だったんですね。この判決の記事は、当時沖縄闘争、三里塚闘争で私なりに熱心に取り組んでいた頃で、その当時、関西の学生運動は同志社を中心に展開されており、くだんの反ASPAC闘争にも同志社の学生が多数逮捕されていました。

同志社大学の学生会館(今は取り壊され新たな建物になっています)の2階に在った学友会(今は解散してありません)のボックスで、名を知っている先輩方の名を指し、いろいろ語り合った記憶があります。

森野弁護士が判決文(草稿)を書いた68年反ASPAC闘争の「寛刑」判決を報じる読売新聞(71年10月8日夕刊)

 

矢谷暢一郎『日本人の日本人によるアメリカ人のための心理学』(鹿砦社)

◆森野弁護士と“私にとって偉大な先輩”との不思議な因縁

さて、“私にとって偉大な先輩”の名は矢谷暢一郎(ニューヨーク州立大学名誉教授。心理学専攻)さんです。これまでこの通信を含め何度かご紹介しましたので、ご存知の方も少なくはないと思いますが、矢谷さんには、2005年3月15日、こちらも“偉大な先輩”藤本敏夫さんの墓参に帰国され初めてお会いして以来懇意にさせていただいています。

8年前には著書(『日本人の日本人によるアメリカ人のための心理学』)も出版させていただきました。

とりわけ、ここ数年鹿砦社が関わった大学院生リンチ事件、その被害者の深層心理について、関連訴訟の控訴審で長大な意見書を頂き海の向こうから送っていただきました。

リンチ被害者の大学院生M君が殴られたのが手拳だったのか平手だったのか、記憶が飛んだり曖昧で答えに窮したり揺らいだりしたことで裁判所が「信用ならない」と判断したことに対して、こういうこともあり得るということを科学的に説明してもらいました。

ちなみに被害者M君の父親は、私たちが学生時代当時、一時期共闘していた京大のグループの一員でした。

私たちが彼の支援に関わり始めてから判ったのですが、これも何かの因縁でしょうか。

2014年11月14日、同志社での矢谷さん講演(学友会倶楽部主催。同倶楽部は学友会OBの親睦団体)後で労いの食事に誘っていただいた加藤登紀子さんと共に(左が矢谷さん、右が松岡)

◆矢谷暢一郎さんと森野俊彦弁護士との“奇妙な共闘”

 

同じく朝日新聞(71年10月8日夕刊)

前述したように森野先生が判決を下した、68年のASPAC反対闘争の被告人の学生の1人が矢谷さんでした。つまり半世紀を越えて、かつて法廷で外形的には非和解的と思われた、裁判官と被告人が私たち鹿砦社の裁判のために“共闘”してくださったのです。実に“奇妙な共闘”です。凄いと思いませんか?

ところで、マスコミ報道にもあるように、森野先生が判決文(草稿)を書き、下した判決も「寛刑」でした。70年代は司法の反動化が始まったといわれますが(実際に森野先生が任官された71年には7名が裁判官に任官を拒否されています)、そうした中でもまだ証拠と法に照らし客観的に判断する裁判官もいたのです。

「寛刑」だった、50年前の学費闘争の判決文は、被告人らは「春秋に富む若者であり前科もないことから……」云々と、今では考えられない古色蒼然たる文章でした。事実認定もほぼ正しく、私たちの主張にも一定の理解を示したものでした。

◆半世紀前の若者は“老境”に入り巡り合った

半世紀を経て、それぞれの仕事を勤め上げ、私を含め“老境”の域に入ったかつての裁判官と被告人は、勿論当時は予想もしなかった訴訟で、当事者(私)、弁護士(森野先生)、そして私の主張を補強する「意見書」の提出者として矢谷さんが、奇しくも同じ法廷で“共闘”するに至りました。半世紀前の当事者性については、訴訟が進行する中で特別取材班が探り当て(森野裁判官と矢谷元被告人の関係)、私もかなりデリケートになりながら、ご両人に“共闘”をお願いしたところお二人とも、快く引き受けてくださいました。冒頭に挙げた海藤先生も「公平、公正、慎重な審理を要請する要請書」に署名いただきました。

そうした“奇妙な共闘”によって控訴審(大阪高裁)判決では一審(大阪地裁)の稚拙な事実判定が一部覆り、「敗北における勝利」(私)、「実質勝利」(特別取材班)という大きな果実を得ることができました。

それから1年後……半世紀という年月を越えたお二人の関係は、劇的な展開を迎えますが、この話はまた別の機会に述べたいと思います。

(松岡利康)

『抵抗と絶望の狭間 一九七一年から連合赤軍へ』(紙の爆弾 2021年12月号増刊)

『一九七〇年 端境期の時代』

タブーなきラディカルスキャンダルマガジン 月刊『紙の爆弾』2022年11月号

〈原発なき社会〉を求めて集う 不屈の〈脱原発〉季刊誌 『季節』2022年秋号(NO NUKES voice改題 通巻33号)

世界的なベトナム反戦運動と連動し1960年、70年という〈二つの安保闘争〉をメルクマールとする学生運動高揚の時代がありました。同志社大学学友会(各学部自治会、学術団、文連、新聞局、放送局などの全学自治組織)は、その戦闘性で全国の学生運動を牽引してきたことは周知の歴史的事実です。

この、かつての“若き闘士”の集まりが10月15日午後2時から「がんこ」京都三条本店にて開かれました。代表の堀清明さんが病に伏しやむなく欠席、このメッセージを司会の志賀茂さんが代読されました。お二人とも激動の60年代の学友会委員長を務められました。

その後、蒲池裕治さん(三派全学連再建時の副委員長)はじめ主な物故者の名を挙げ追悼、遺族代表の蒲池夫人が挨拶されました。そして献杯──。

こののち各年代、サークル、寮、女子大などの代表から各2分程度の挨拶があり、70年入学の私が“最年少”で、錚々たる先輩方の前でご挨拶させていただきました。70歳を超えて最年少とはどんな集まりや、との声が聞こえそうですが、先輩方、今からデモに出発しようかという熱気に溢れ歓談が続きました。

「朋友(とも)を語り、亡友(とも)を偲ぶ会」の案内状と会の様子

ある参加者は、いわゆる内ゲバで亡くなった望月上史さんの在りし日の写真を拡大して持参され回覧しました(携帯で接写したのでうまく写っていませんが掲載しておきます)。

内ゲバで不遇の死を遂げた望月上史さん

71~72年学費値上げ阻止闘争

同上

 

『抵抗と絶望の狭間 一九七一年から連合赤軍へ』

私は学友会倶楽部の財政の一助にするために昨年出版した『抵抗と絶望の狭間 一九七一年から連合赤軍へ』を全員に献本させていただき、この代わりにこの代金以上のカンパを募りました。

お蔭様で多額のカンパが集まりました。「会社が大変な時に何をやってるんだ!」とのお叱りを受けそうですが、相互扶助こそ同志社の学生運動の精神でもあり、これまでも先輩方、後輩諸君からご支援をいただいてきました。

特に17年前に「名誉毀損」に名を借りた出版弾圧で私たちの会社が壊滅的打撃を受けた際には、学友会や、私のいた寮(かの藤本敏夫さんもいた寮)の皆様方が自発的に動き助けていただいたことが、のちに奇跡的に復活を遂げる大きな要因になりました。

その後も歓談は続き、二次会、三次会と続いても語り合いました。

多くの先輩方が亡くなっていく中で、今後もこうした機会があれば積極的に参加し親睦を深めると共に、歓談の中から出て来る証言を聞きたいと思います。

残念ながら、同志社大学学友会は解散しましたが、繰り返す歴史の高揚の波から要請され必ずや復活することを信じています。

闘争勝利!

(松岡利康)

『抵抗と絶望の狭間 一九七一年から連合赤軍へ』(紙の爆弾 2021年12月号増刊)

『一九七〇年 端境期の時代』

タブーなきラディカルスキャンダルマガジン 月刊『紙の爆弾』2022年11月号

 

映画『日本原(にほんばら)牛と人の大地』

右に掲載しているように、『日本原 牛と人の大地』という映画が全国のミニシアターで上映中です。朝日新聞10月7日夕刊に映画と、主人公の内藤秀之さんのことが掲載されていました。

この映画は、半世紀余り前に学生運動で頑張った方が、それまでとは違うやり方で基地反対運動に半世紀も頑張られたヒューマン・ドキュメントです。

内藤さんは、私も2、3度お会いしたことがありますが、朴訥としたお爺さんで、この人が、若い頃は学生運動の闘士、それも党派(プロ学同。プロレタリア学生同盟)の活動家だったとは思えません。若い頃にはブイブイいわせていたのでしょうか。

プロ学同は構造改革派の流れを汲む少数党派で、指導者は笠井潔さん(当時のコードネームは黒木龍思)や戸田徹さんら、かの岡留安則さん(故人。元『噂の眞相』編集長)もこの党派に所属していました。生前直接聞いています(氏との対談集『闘論 スキャンダリズムの眞相』参照)。

構造改革派は、過激な闘いではなく、ゆるやかな改革を目指す勢力でしたが、学園闘争や70年安保─沖縄闘争の盛り上がりと時期を同じくして分裂し、その左派のプロ学同やフロントは新左翼に合流しラジカルになっていきました。右派は「民学同」=「日本の声」派で、その後部落解放同盟内で勢力を伸ばしていきます。

さて、69年秋は70年安保闘争の頂点で、内藤さんの後輩の糟谷孝幸さんは11月13日、大阪・扇町公園で機動隊の暴虐によって虐殺されます。

1969年11月13日、大阪・扇町公園で機動隊の暴虐によって内藤さんの後輩の糟谷孝幸さんは虐殺された

下記新聞記事では、牛飼いになったのは「友人の死だった」とし(「友人」というより”後輩”でしょう)、「デモ隊と機動隊が衝突し、糟谷さんは大けがを負って亡くなった」と客観的に他人事のように記述されていますが、この頃の闘いは、まさに生きるか死ぬかの闘いで、熾烈を極めました。学生にも機動隊にも死者が出ています。それをマスコミは「暴力学生」のせいと詰(なじ)ったことを、くだんの記事を書いた朝日の記者は知っているのでしょうか!?

2022年10月7日付朝日新聞夕刊

 

『語り継ぐ1969 ― 糟谷孝幸追悼50年 その生と死』(社会評論社)

 

その後内藤さんは、ここが私たちのような凡人と違うのは、医学生への途をきっぱり拒絶し、糟谷さんの遺志を胸に人生を懸けて基地反対闘争を貫徹するために牧場家に婿入りしたというのです。

爾来半世紀近く黙々とこれを持続してこられました。当時流行った言葉でいえば「持続する志」です。

内藤さんの営為は、日本の反戦運動や社会運動の歴史、個人の抵抗史としても特筆すべきもので記録に残すべきです。

……と思っていたところの、この映画です。

また、これに先立ち内藤さんは、後輩活動家の糟谷さんの闘いの記録を残すために奔走されました。

一緒に決戦の場に向かった後輩が志半ばにして虐殺されたことが半世紀も心の中に澱のように残っていたのでしょう。

多くの方々のご支援で、これは立派な本として完成いたしました。そうして、今回の映画となりました──。

多くのみなさんが、内藤さんが中心になって出版した糟谷さんを偲ぶ書籍と、内藤さんと一家を追った映画をお薦めします。闘争勝利!

(松岡利康)


◎[参考動画]映画『日本原 牛と人の大地』予告篇

『抵抗と絶望の狭間 一九七一年から連合赤軍へ』(紙の爆弾 2021年12月号増刊)

『一九七〇年 端境期の時代』

タブーなきラディカルスキャンダルマガジン 月刊『紙の爆弾』2022年11月号

アントニオ猪木さんが亡くなりました──われわれの世代にとって猪木さんは特別の存在です。力道山の時代からプロレスを観ていた私は、一時期観なくなった時期もありましたが、猪木さんやタイガーマスク(佐山聡)が登場しプロレスブームが到来するや、また観るようになりました。ストロング小林との死闘、モハメド・アリとの歴史的試合も観ました。

マイオカ・テツヤ画(『いかすプロレス天国』〔鹿砦社刊〕所収)

 

板坂剛『アントニオ猪木・最後の真実』【復刻新版】

特に1985年、板坂剛さんの『アントニオ猪木・最後の真実』(現在品切れ)を出版してから、どういう因縁かプロレス関係書をどんどん出版するようになりました。

遂には月刊『プロレス・ファン』を出すまでになりました。賞杯を出したりもしました。

しかし、その頃になるとプロレスは冬の時代に入り、猪木さん率いる新日本プロレスも経営が苦しくなり、全日本女子プロレスも倒産しました。

「吉本女子プロレス」なんて団体を吉本興業が作ったり、1冊写真集を出しましたが、全く売れませんでした。

というより、プロレス本自体が売れなくなり撤退を余儀なくされました。

『アントニオ猪木・最後の真実』は、序文を今は亡き岡留安則さん(いわずと知れた『噂の眞相』編集長)が書き、イラストは平口広美さんでした。一夜で、私が本文を入力し、初版は2000部、一日で売り切れすぐに増刷、ある書店からは600部の注文が入った記憶があります。ずいぶん売れました。

「元気があればなんでもできる」「苦しみの中から立ち上がれ」……慎んでご冥福をお祈りします。合掌。

(松岡利康)


◎[参考動画]アントニオ猪木 Antonio Inoki Tribute 2022-10-03 / Family secret story 家族秘話(めざまし8 2022-10-03 Fuji Tv )

タブーなきラディカルスキャンダルマガジン 月刊『紙の爆弾』2022年11月号

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円楽(襲名前・楽太郎)さんが亡くなりました。

落語家としての世間の評価は高いようですが、私の関心は別の所にあります。

円楽さんは1968年に青山学院大学に入学、やはり時代かなあ、彼も学生運動の波に巻き込まれます。新左翼の主流派・ブント(共産主義者同盟)系の活動家の時期もあったとのことです。

 

六代目 三遊亭円楽(1950年2月8日-2022年9月30日)

青学と言えば、ブント系でも中央大学と共に、後に叛旗派となる勢力が強かったです。これは事実で、私の知人のTJ氏は青学の叛旗派の中心メンバーとして71年三里塚第二次強制収容阻止闘争で逮捕・起訴されました。罪状は凶器準備結集罪とともに、なんと「殺人」容疑! 機動隊が3名亡くなった激しい闘いでした。私もこの闘争には参加しましたが、この現場には居合わせませんでした。TJ氏はその後、別の大学に入り直し学究生活に転じ、のちに早稲田の教授となりました。早稲田の奥深さを感じさせる逸話ではあります。

今では考えられませんが、60年代後半から70年代にかけての時代は芸能人、あるいは芸能界に身を転じる人たちも積極的に学生運動や反戦運動に関わった時期でもありました。北野武(明治大学工学部)さんもそうですし、同じ明大で言えば、往年の女優・松原智恵子さんもブント系の活動家だったとは、同じ明大学生運動OBの横山茂彦さんの証言です。

『家政婦は見た』で有名な故・市原悦子さんは、1971年、中村敦夫さんや原田芳雄さんらと共に老舗の劇団・俳優座で叛乱を起こし、その後も反戦歌『フランシーヌの場合』で一世を風靡した歌手・新谷のりこさん(古い!)らと共に長く中核派系の「杉並革新連盟」の候補者の推薦人でした。『家政婦は見た』の市原さんからは想像もできません。けっこう過激な方だったようです。

さて、円楽さんですが、青学の主流派だった、のちに叛旗派に流れる系列とは違い、なんと「さらぎ派」シンパだったとの噂を聞きました。どなたかとの対談で話されているとのことです。「さらぎ派」は別名「蜂起派」ともいい、トップの「さらぎ徳二」さんは当時のブントの議長で、69年4・28沖縄闘争で破防法(破壊活動防止法)の被告人でもありました。69年7月6日には、赤軍派によってリンチされています(いわゆる「7・6事件」。この報復として叛旗系の人たちに赤軍系の同志社大学の先輩・望月上史さんが拉致・監禁され、のちに亡くなります。新左翼運動最初の内ゲバの犠牲者と言われ、盛り上がった学生運動に汚点を残しました)。

話がマニアックになった感がありますが、円楽さんは、本当にそんな系列(さらぎ派)にいたのでしょうか? 信じられませんが、当時は多くの学生・青年が学生運動や反戦運動の渦に飲み込まれた時代ですから、ありえない話でもありません。もう50年余りも経ったのですから、どなたか詳細をご存知ならば、ぜひご教示いただきたいものです。

このところ私と同じ歳か、ちょっと上の世代がどんどん亡くなっています。訃報を聞くたびに、「明日は我が身」と思わざるをえません。特に私と同じ歳で言えば、忌野清志郎さん、大杉漣さんが亡くなった時にはショックでした。

(松岡利康)


[参考動画]【三遊亭円楽さん死去】「笑点」メンバーが追悼 好楽さん「早すぎるよ」

タブーなきラディカルスキャンダルマガジン 月刊『紙の爆弾』2022年11月号

『一九七〇年 端境期の時代』

『抵抗と絶望の狭間 一九七一年から連合赤軍へ』(紙の爆弾 2021年12月号増刊)

《10月のことば》あるがままで いいんだよ(鹿砦社カレンダー2022より。龍一郎揮毫)

「あるがまま」でいることは、実は難しいことです。若い時には、格好つけたり粋がったりしました。必要以上に背伸びしたりもしました。みなさん、そんな経験ないですか?

齢を重ね、酸いも甘いも経験し、もう格好つけることにも粋がったりすることにも背伸びすることにも疲れました。

肩の力を抜いて自然体で生きてゆこう。「あるがまま」に──。

月日の経つのは速いもので、今年のカレンダーも、あと3枚となりました。ここ3年近くコロナ禍との闘いでした。これだけ長期化するとは思ってもいませんでした。税金や社会保険、公的融資等の猶予措置も終わり、挫けるケースも出始めています。励まし合い支え合って、この難局を乗り越えていきましょう!

来年のカレンダーの制作も進んでいます。書家・龍一郎も、ここ数年連れ合いやご母堂、さらには師と仰ぐ中村哲医師を亡くしたり、みずからも大病で病に伏し今も闘っている中で心血を注いで揮毫しています。『紙の爆弾』や『季節』の定期購読者の方々には12月発行の号と共にお届けいたします。ご期待ください! 未だ定期購読を申し込まれていない方は今すぐお申し込みください。

(松岡利康)

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