◆新人時代

斉藤京二(1955年12月1日、山形県西置賜郡小国町出身)は、昭和のテレビ放映時代から平成初期まで幾多の苦難を乗り越えながら名勝負を展開した、オールドファンの記憶に残る名チャンピオンである。

キックボクシングを始める切っ掛けは、テレビで観たスーパースター沢村忠を倒すことを目標として全国から上京し、ジム入門を果たした若者が多かった時代の一人でもあった。
     
知人に、沢村忠の所属する目黒ジムに対抗する強いジムはどこかを尋ねて、目白ジムの存在を知り、20歳の夏、1976年(昭和51年)7月に上京すると翌日には目白ジムに入門した。

だが、キックボクシング業界の仕組みを知らない者でもやがて気が付くのが、目黒ジムと目白ジムは加盟する団体が違い、通常対戦する機会は無いことを知ることとなった。

「残念でした、もう遅いよ!」と友人なら笑える事態も心機一転、目標を同じ全日本系の偉大なるチャンピオン藤原敏男に定め、厳しい練習に耐える日々が続いた。
入門当時の目白ジムは、先輩の指導も厳しいのは当然として、黒崎健時先生がジムに現れるとジムの空気が一変したという。先輩達もピリピリしていたその威圧感に驚き、皆この環境下で強くなったんだと悟った斎藤は、初めは島三雄先輩からまず構えとワンツー、ローキックから教わり、入門一週間程経った頃、先輩達とのマススパーリングをやらされ、太腿を蹴られて真っ赤に腫れ、脚を引きずりながら帰る日々が続いたという。

この悔しさで、「早く強くなって必ずやり返すんだ!」と自分に言い聞かせながら、一日も休まず練習に通った頑張りを認められて同年9月11日、入門から一ヶ月半でデビュー戦を迎えた。

「技術は全く無く勢いだけでしたが、KO勝利出来たあの時の快感は今でも忘れられず、練習がキツくても試合で良い結果が出た時の達成感は、何物にも変えられない喜びでした。」と語る。

変則ファイター内藤武に左フックを合わせる(1983.5.28)

◆試練続きの現役生活

デビュー戦から5戦5勝(5KO)し、ランキングが上がるとなかなか倒せずも10戦超えまで連勝は続いた。当然“ポスト藤原敏男”と期待は高まる中、1981年(昭和56年)5月30日には、意外にも早く藤原敏男との同門対決が実現した。第2ラウンドに斎藤のローキックから隙を突いた右フックで藤原敏男はノックダウン。タオル投入によるあっけない幕切れながら新スター誕生となった瞬間であった。

藤原敏男を倒した男という注目度が増したところで、ここからが本当の試練が始まった。1982年7月9日にはヤンガー舟木(後の船木鷹虎/仙台青葉)と引分けるも、ハイキックで顎を砕かれる重傷。手術で口が開かないよう上歯茎と下歯茎を糸で縛られ、歯の間から流動食という日々を6週間も送った。

この負傷で同年秋に始まった1000万円争奪オープントーナメントには出場辞退となったが、1984年5月26日、オープントーナメント62kg級優勝の長浜勇(市原)に右ストレートで2ラウンドKO勝利。それまでにも内藤武(士道館)やレイモンド額賀(平戸)、日本系の実力者、河原武司(横須賀中央)、千葉昌要(目黒)に勝利と交流戦には恵まれるもタイトルマッチは停滞した時代で、なかなかチャンピオンベルトには縁が無かった。

しぶといレイモンド額賀を逆に翻弄、TKO勝利する(1984.1.28)

事実上の頂点、長浜勇を倒し、実力を証明(画像はKO前、この後にKO)(1984.5.26)

統合により業界が再浮上した後の1985年5月17日には、三井清志郎(目黒)との打ち合いで左頬骨陥没の重症。この年の3月、飛鳥信也(目黒)に判定勝利して得た、長浜勇が持つ日本ライト級王座への挑戦権は棄権せざるを得なかった。デビュー10年目でやがて30歳。2度目の顔面骨折。周りは「斎藤は終わった!」と囁かれる中、見舞いに来た後輩には「クソ、このままで終ってたまるか、怪我を治して絶対に上を目指す!」と語気強く再起を誓っていたという。

ここに至るまでにも別の苦難があった。斎藤京二が所属する黒崎道場(1978年に目白から名称変更)は、藤原敏男が引退興行を行なった1983年6月17日で事実上閉鎖となっていた。

その決定からすでに小国ジム開設が計画されており、この翌日から斉藤京二後援会会長であった矢口満男氏がジム会長となり、移籍した選手をマネージメントされていた。実際はジム建屋は無く、公園や路地での練習や、他のジムを間借りする肩身の狭い日々を3年あまりも送ったが、現役生活を続けながらの建屋計画は後援会の協力もあって1986年10月、板橋区中台にようやくバラック小屋ながらもジムが完成。そこから充実した練習で同年11月24日、一度引分けで逃した甲斐栄二(ニシカワ)が持つ王座を4ラウンドKOで念願の日本ライト級王座に就いた(第3代MA日本)。
翌年4月19日、飛鳥信也に再度判定勝ちし初防衛のあと、斉藤にまた新たな試練がやって来た。

念願の日本ライト級王座獲得、甲斐栄二を倒す(1986.11.24)

◆エース格として、常に上を目指す戦い

1987年5月、復興した全日本キックボクシング連盟に移ったジムの中、小国ジムもその一つだった。斎藤京二は認定による第5代全日本ライト級チャンピオンとして連盟エース格。これまでにない若い世代の石野直樹(AKI)、小森次郎(大和)、杉田健一(正心館)の挑戦を受けての3度の防衛と3度のWKA世界王座挑戦(王座決定戦含む)を経験。後楽園ホールでロニー・グリーン(イギリス)、フランスでリシャール・シーラ、オランダでトミー・フォンデベーといずれも敗れたが、常に上位を目指した挑戦はエース格に相応しい軌跡を残した。

[左]王座獲得後のチャンピオンベルト姿撮影(1987.1.25)/[右]飛鳥信也を下し初防衛(1987.4.19)

1990年11月23日、元・タイ国ラジャダムナン系ジュニアフェザー級チャンピオン、マナサック・チョー・ロッチャナチャイにローキックで散々足を攻められ、5ラウンドTKOで敗れたことで引退を決意。試合で負けると毎度「クソ、今度は絶対に倒してやる!」という悔しさ満々だったが、その燃える気持ちがだんだん薄れてしまったという気力低下が要因だった。かつての激戦を経た対戦相手らのほとんどはすでに引退しており、闘志が薄らぐのも止むを得ない時代の流れであった。そして1991年5月26日、功績を称えられ、日本武道館で華々しく引退式を行なった。

心残りは、日本人の誰もが勝てなかった全米プロ空手(WKA)で長く世界王座に君臨したベニー・ユキーデや、分裂によって対戦の機会を失ったが、元・日本ライト級チャンピオン須田康徳(市原)と戦いたかったという。ファンも期待した昭和時代に残されてきた期待のカードでもあった。

[左]全日本キックに移っての初防衛、若い石野直樹を倒した(1988.1.3)/[右]全日本キックでは国際戦が多かった、ジョアオ・ビエラに判定勝利 (1988.7.16)

小国ジム新会長就任パーティーにて、抱負を語る斎藤京二氏(1992.2.9)

◆引退後もなお新たな挑戦

引退後は小国ジム新会長に就任(矢口満男氏は名誉会長へ)し、自身が受けられなかったタイ人コーチの指導を若い選手に受けさせてやろうとタイからコーチを招聘し、1995年1月には立地条件と練習設備向上を目指し、現在の豊島区池袋本町にジムを移転した。

1996年8月、ニュージャパンキックボクシング連盟を設立した藤田真理事長と共に興行運営に力を注ぎ、後の2007年1月には藤田理事長の任命を受け新理事長就任。

2008年にはJPMC山根千抄氏が掲げたWBCムエタイ日本実行委員会発足に賛同し、「プロボクシングの世界組織の在り方に非常に羨ましくもあり、キックボクシングもこうならなければならない。」という理想を持って、これまでにない組織運営に乗り出した。

2018年末、若い会長との世代交代として連盟理事長を勇退したが、2019年5月1日、新たに発足したWBCムエタイ日本協会長に就任し、より一層体制を整え「キックボクシングが、社会的に認知されるスポーツ組織として未来永劫続くよう運営していく。」と抱負を語る。

小国ジム(2003年6月、OGUNIに改名)は当初、黒崎イズムを継承するジムとして入門して来る選手が多かった。ソムチャーイ高津もその一人である。斎藤京二氏の現役時代、練習時や試合前は誰もが近付き難い黒崎道場独特のピリピリした威圧感があったが、引退後は人が変わったようにニコニコ笑顔の穏やかな人柄で、これが本来の斎藤さんだったのかと驚くほどムードも変わったが、タイ人コーチによる指導も成果を出し、10名あまりのチャンピオンを誕生させてきた。

現在は多くのプロモーターが独自の開催するビッグイベントが増えた中、WBCムエタイの権威向上へ舵取りが注目される斎藤京二氏である。

時代は移り変わりNJKF理事長を勇退、坂上顕二新理事長より花束が贈られる(2019.2.24)

▼堀田春樹(ほった・はるき)[撮影・文]

フリーランスとしてキックボクシングの取材歴32年。「ナイタイ」「夕刊フジ」「実話ナックルズ」などにキックのレポートを展開。ムエタイにのめり込むあまりタイ仏門に出家。座右の銘は「頑張るけど無理しない」

◆通信教育でスタート

高谷秀幸(たかや・ひでゆき/1963年8月31日、東京都大田区出身)はタイトル歴は無いが、「目立ってやろう精神」は好奇心旺盛に団体と時代を渡り歩いた名脇役であった。全日本キックボクシング連盟ではリングネームを兜甲児としてリングに上がった。

空手会場で演舞を披露していた頃もある高谷秀幸(20歳頃)

幼い頃から活発で、ブルース・リーなどを見様見真似のアクションで遊んでいたが、15歳で空手を始めた。そんな頃、雑誌ゴングの広告で見た、みなみジムのキックボクシング&マーシャルアーツの通信教育に興味を持って申し込み、日々テキストに従った練習に励んだ。

一定の通信過程を経て実技審査に入る際はスクーリング制度で、みなみジム宿舎泊まり込みで技術を披露。

元々から充分鍛えていた高谷は何一つ劣ることなく体力テストもクリアし修了審査を終えると、「じゃあまた連絡するから!」と南会長に言われてジムを後にし、10日ほど経ったある日、電話が入った。

「オイ高谷、デビュー戦決まったから入門しろ!」

「えっ、デビュー戦? 入門前にデビュー戦って決まるもんなの?」という疑問は聞ける雰囲気ではなく「ハイ、分かりました!」と応えるのみ。

入門したのは1981年10月1日、デビュー戦は10月25日だった。これが当時、日本キックボクシング協会と全日本キックボクシング協会で分裂が起こって設立された日本プロキックボクシング連盟の設立記念興行だった。ライト級デビュー戦同士で鈴木庄二(西川)と対戦した高谷は勝つよりも目立ってやろうという意識が強く、バックハンドブローを炸裂させたことが判定勝利に結び付いた。これで自信を持った高谷は後々の得意技となっていった。

デビュー戦のリングに立った日(1981年10月25日)

◆夜逃げ

みなみジムでは1戦のみだったが、会長は「もっと左ミドルキック蹴らなきゃダメだ!」といった試合のダメ出しが多く、何かと威圧的に煩いこと言われ続け、傍から見ればどちらも血気盛んな性格なだけだったが、高谷は突然の退会を申し出て、後は夜逃げ同然のように宿舎から去った。

高谷は千葉県内に移り住んでいたが、一度やったキックボクシングは簡単には止められない魔力に憑りつかれていた。やがて千葉県内のキックボクシングジムを探し出すと、総武線の稲毛駅付近で車窓から見えたのが「TBSで放映中!キックボクシング千葉ジム」の古い看板。迷わず稲毛駅を降りてすぐに向かった。

当時はテレビも離れ、分裂も繰り返し起こったキックボクシング業界低迷期で、ジムは閑散としたもの。戸高今朝明会長も「こんな時代だが、やりたい奴はやればいい」と、過去の経歴は拒むことなく高谷を迎え入れた。みなみジムとは難なく話は纏まっていた様子だったという。ジムのバラック小屋には後々、中二階が作られ宿舎スペースと高谷はそこで暮らすことになった。

再デビューもライト級で1982年10月3日、三浦英樹(西川)に判定勝利。

1984年3月31日には、あのベニー・ユキーデと戦った新格闘術ライト級の内藤武(士道館)と対戦(5回戦)。高谷は映画・四角いジャングルや梶原一騎の影響を受けた世代として、憧れの内藤武には上を行く変則ファイトに翻弄され判定負け。

この頃は10kg以上あろうと格上だろうと堂々とマッチメイクするのが千葉ジム流。というのもキックボクシング創生期からそんな大雑把なこと当たり前の時代の名残りだった。

甲府での北島利秋(西川)戦(1983年9月18日)

日本キックボクシング連盟設立興行での西純猛(渡辺)戦(1984年11月30日)

千葉ジムでの練習。今時少ないパンチングボール(1985年頃)

翌1985年6月、ここでも思わぬマッチメイクも発生した。

日本フェザー級タイトルマッチ、渡辺明(渡辺)vsロバート高谷(千葉)と書かれたポスター。「ロバートって誰だ?」と思った途端、自分の顔写真に気付いた。

「えっ? 渡辺明と? フェザー級? 無理だろ!」

ここには1ヶ月前に起こった日本キックボクシング連盟の分裂からくる皺寄せが来ていた。そのもう一方の団体ならフェザー級は充実したランカーが揃っていたが、こちら側の団体では閑散としたもの。知らぬ間に一階級下のフェザー級でマッチメイク、更に格上過ぎる勢いある渡辺明。キック人生初のタイトルマッチだったが、バックハンドブロー炸裂で渡辺明が鼻血を流すシーンを見せるも、無理な減量も影響し、ヒザ蹴り猛反撃を食らった高谷は1ラウンドもたずの2分55秒KO負けを喫した。

こんな減量が響く無理なマッチメイクがあったり、千葉ジムにはしっかり指導できるトレーナーが居ないことからこれで引き際と決意し、次の試合が決まったと聞きながら、そっと千葉ジムを離れた。二度目の夜逃げ同然だった。

◆兜甲児となって

暫く空手などの試合に出場していたが、やがてまた「もう一度キックボクシングをやってみたい」という憑りつかれた魔力には勝てず、新空手の試合会場で山梨県の不動館・名取新洋会長に会うと、「現役を離れて5年のブランクがありますが、キックをやらせて頂けないでしょうか!」と入門を願い出ると、かつて不動館の興行に出場したことある高谷のことを知っていた名取会長は難なく了承。

この時期はキックボクシング低迷期を脱し、徐々に若い世代が台頭してきた時代で、各階級で充実したランカーが揃っていた。再起のリングとなった全日本キックボクシング連盟で、高谷はマジンガーZの主人公・兜甲児の名をリングネームとして3回戦(新人戦)からやり直すことになった。

ここから対戦した相手は後々、チャンピオンとなる選手が多かった。再々デビュー戦は1991年4月21日、林亜欧(SVG)に左フックでKO勝ち。松浦信次(東京北星)にバックハンドブローでKO勝ち。金沢久幸(富士魅)には判定負け。全日本キックで最後の試合となったのが1994年3月26日、小林聡(東京北星=当時)に僅差の判定負け。5回戦に上がることは無いままだったが、対戦相手には恵まれた3年間を送って30歳で引退を決意。最後は綺麗な引き際で不動館を後にした。

[写真左]再々デビュー戦となった林亜欧(SVG)戦(1991年4月21日)/[写真右]勝山恭二(SVG)戦(1991年10月26日)

[写真左]松浦信次(東京北星)戦(1992年3月28日)/[写真右]松浦に勝利した兜甲児(高谷秀幸)(1992年3月28日)

レフェリーを務める高谷秀幸(2006年12月10日)

◆引退してもキックとは腐れ縁

引退後はアマチュアキック・空手関係の試合でレフェリーを務めていたが、日本ムエタイ・レフェリー協会を発足させていたサミー中村氏から「プロでもやってくれないか」と誘われた。好きなキックとは腐れ縁で、なるがまま新日本キックボクシング協会でレフェリーを務めた。ちょっとユニークな動きを見せるレフェリーとして異質な存在感を見せたが、新日本キックで審判団入れ替えの事態が起きた2014年11月に終了となった。

高谷は2008年頃には35歳以上が参加出来るアマチュア枠のイベント「ナイスミドル」にも何度か出場しKO勝利を収めている。

タイへ観光に行った際には、田舎やお祭りのリングで余興にも出場。バックハンドブローを元・ラジャダムナン系ランカーにヒットさせると、そこから物凄い首相撲で何度もひっくり返されヘロヘロになったという仕打ちも「キックボクシング第4の人生の楽しい経験」と笑って言う。

高谷のバックハンドブローは、怯んだフリをして相手に背中を向け、向かって来たところを迎え撃つ手法で、チャンスと見た相手はガードが下がり気味でヒットし易いという。

新人戦から元・ムエタイランカーにまでヒットさせた、バックハンドブローの名手・高谷秀幸だった。

2017年3月にこの鹿砦社通信で掲載されたテーマ「試合から逃げた選手たち」に挙げた一人は高谷秀幸だった。しかし高谷は試合から逃げたのではなく、会長から逃げたパターン。若気の至りだった。

完全引退してから千葉ジムを訪れた際、「そんな昔のこと忘れちゃったよ、元気だったか!」と言ったのは戸高今朝明会長である。

みなみジム・南俊夫会長には、高谷がまだ現役時代にリングサイドで、「押忍、御無沙汰しております!」と元気よく挨拶すると「オウ、久しぶりだな、元気にやっとるか!」と返す南会長の笑顔があった。爽やかさが残るのが高谷秀幸という男。

現在は依頼があれば指導、演舞などをこなし、公園や体育館で空手やキックボクシングを、歳に合わせた自己練習の日課を今も続ける少年の心を持ったオッサン高谷秀幸57歳である。

▼堀田春樹(ほった・はるき)[撮影・文]

フリーランスとしてキックボクシングの取材歴32年。「ナイタイ」「夕刊フジ」「実話ナックルズ」などにキックのレポートを展開。ムエタイにのめり込むあまりタイ仏門に出家。座右の銘は「頑張るけど無理しない」

タブーなき月刊『紙の爆弾』2021年4月号

◆キックボクシングの衝撃

新日本キック時代の玉川英俊レフェリー(2004年5月30日)

玉川英俊(1968年12月4日東京都葛飾区出身)はプロキックボクシング試合出場の経験は無いが、空手経験が縁でキックボクシングレフェリーを長く務めた経験を持つ大田区議会公明党議員である。

玉川英俊は玩具卸売りを営む両親に育てられた三人兄弟の末っ子で、兄によくプロレス技をかけられていたという遊びから、小学生の頃は漫画タイガーマスク、あしたのジョーが大好きだった。

高校生になって、空手部に所属していたクラスメイトの教室での大人しい姿と、道場での勇ましい姿とのギャップに驚き、玉川自身も空手部に入部。そこから空手バカ一代や四角いジャングルの漫画をはじめ、格闘技雑誌の創刊ブームなど、時代の流れに乗って格闘技にどんどん夢中になっていった。

1987年5月、創価大学一年の時、友人に元・極真空手の竹山晴友の試合を観に行こうと誘われ、後楽園ホールで初めてのキックボクシング生観戦。プロの技の衝撃、興奮が収まらず、どんどんキックボクシングにハマっていく中、大学でフルコンタクト空手のサークルを創設。大丈会(=ますらおかい)として試合出場も果たし、打撃技術を求めて、大学のある八王子市在住のキックボクサーとして、日本ライト級チャンピオンとなる頃の飛鳥信也(目黒)氏に指導者として丈夫会に迎え入れ、目黒ジムに見学や体験入門を果たした。

1990年5月、大学4年の時、第1回全日本新空手道選手権大会では、師である飛鳥信也氏と同門で、後にWKBA世界スーパーライト級チャンピオンとなる新妻聡と対戦していた。結果は「もうやめてくれ!」と言わんばかりの防戦一方のTKO負け。 他にも杉山傑(治政館)に判定勝利、今井武士(治政館)に判定負けと、後のチャンピオンとの対戦は多かった。大学卒業後は目黒ジムに正式入門。1995年頃までプロデビューは目指さず練習生のまま、ミット持ちなどトレーナーも務めた。

NO KICK NO LIFEにて緑川創vsアンディー・サワー戦を裁く(2014年2月11日)

◆レフェリーに転身

1995年頃から、新空手道、学生キックボクシング連盟等でレフェリー(主審・副審)として要請され参加。その後、新日本キックボクシング協会の運営関係者からもレフェリーとしての依頼の声が何度となく掛かり、「アマとプロは違うから」と断り続けていたが、最後は目黒藤本ジムの藤本勲会長から直接お電話でお願いされたことで、それまでたくさんお世話になってきたことへの恩返しとの思いで引き受けることになった。 しかし、プロのレフェリーでは思った以上に厳しい局面に立たされ、苦労が絶えなかった。

「アマチュアの試合では“早めのストップ”が重視され、その癖がプロの試合でも出てしまい、セコンドから罵声を浴びせられることは多々ありました。早く止めてKO負けにしたとき、その選手所属のジムの会長が泣きながら主催者に抗議されていたのを覚えています。またジャッジでも、興行終了後に某ジム会長が審判控室に『この採点したのは誰だ!』と怒鳴り込んで来られたこともありました。」という威圧的な抗議は脳裏から消えないという。

また2006年には「チャンピオンの地元での日本タイトルマッチで、1-2判定で挑戦者が勝った試合がありました。判定結果が出た直後、不服とした関係者がリング上でレフェリーを平手打ちし、会場は暴動寸前となり、その後、審判団は一旦全員解雇。継続したい者は残れと言われたものの復帰の見込みは無く、その後暫くして退くことにしました。」という形で一旦、プロ興行のレフェリーから去ることになった。

その後、アマチュアのみに戻り、学生キックボクシング連盟でのレフェリーを務め、ナイスミドル(キック版オヤジファイト)から声が掛かり、ここでのレフェリーも務めていた。そして2014年2月11日、リニューアル大田区総合体育館として初めてのキックボクシング興行が開催された、小野寺力氏の「NO KICK NO LIFE 2014」で、レフェリーとして依頼され復帰をしたが、2016年6月24日、「KNOCK OUT」移行による「NO KICK NO LIFE~THE FINAL ~」を最後にレフェリーから退くことになった(主に議員活動の多忙と興行が重なる事情有)。

審判を務めた経験の中には失態もありつつ、「2005年のある日本の王座決定戦で、本戦・延長戦共に、私のみ勝者“青コーナー選手”の採点を付けましたが、結果は2-1で赤コーナー選手“の勝ち。赤コーナー陣営から罵声を浴びましたが、あの時の自分の採点は間違っていないと毅然と立ち振る舞った試合もあります。」と言い、これが採点が分かれる場合もレフェリー・ジャッジそれぞれが取るべき大事な姿勢であろう。

ザカリア・ゾウガリーvs水落洋祐戦を裁いた後の勝利者コール(2016年3月12日)

NO KICK NO LIFEでの審判団(提供:玉川英俊氏)

選挙演説に出向いてマイクを握る(提供:玉川英俊氏)

◆大田区議会議員へ挑戦

1991年、格闘技人生とは裏腹に、日常では大学卒業と共にIT関連会社に就職し、後に大田区北千束に移り住むと、26歳で大学時代の同級生と結婚し、一男一女を儲け、後々には大学卒業まで立派に育て上げていた。

2011年には19年間勤めた会社を退職し、大田区議会議員選挙に挑戦していた。在職中の総務部で防災担当として培ってきた経験を活かして、災害に強い街づくりに取り組んでいくことを志していたが、選挙の一ヶ月前に東日本大震災が起こり、その志は更に強く持ち、格闘技に関わって来た忍耐と、どこにでも足を運ぶ行動力が基盤となった活動で同年4月24日、見事当選されている。

議員としての活動は日々忙しく多岐に渡るが、この3期10年間、東北や伊豆大島の被災地支援ボランティアにも参加し、現地で学んだことを大田区の防災強化に活かす為、議会で提案・討論を続けている模様。

また小中学校との交流も重ね、防災教育にも力を注ぐことが、人の命を救うこと、いじめや差別を無くす人間教育にも繋がるという取り組みも行ない、玉川氏が格闘技を通じて身に付いた、人の痛みの分かる指導が今後も活かされるだろう。

PETER AERTS SPIRITイベント開催に際し、ピーター氏表敬訪問にて、右から2番目が松原忠義大田区長、中央がピーター・アーツ、左端は大成敦レフェリー(提供:玉川英俊氏)

選挙演説にてマイクを持って公約、抱負を語る(提供:玉川英俊氏)

◆議員として格闘技界に手助け出来ること

旧・大田区体育館は新日本プロレスが1972年(昭和47年)3月6日に旗揚げ興行を行なった会場として有名だが、2008年3月に老朽化により解体、新たに建設され2012年3月に新・大田区総合体育館として竣工。ここから大晦日にプロボクシングの世界戦が行われる年が多く、玉川英俊氏は「ここで格闘技興行を行ないたい人達が多く居る」ということを議会でも訴え、主催者や選手たちの想いを直接、大田区・松原忠義区長に届ける為に、イベント告知や結果報告などで、小野寺力会長やピーター・アーツ氏、那須川天心選手他、多くの格闘技関係者による区長・区議会への表敬訪問の場をセッティングしてきた。

玉川英俊氏は「大田区には21世紀の“格闘技の聖地”大田区総合体育館があり、この会場でプロレスや格闘技の名勝負が繰り広げられてきたという歴史、伝統を継承し、この格闘技の聖地を世界に知らしめていきたい!」と語り、敷居の低い、使い易い、観戦し易い、格闘技に優しい会場として位置付けようと活動に力を注いでいる。

ここ数年はJR大森駅前ロータリーで開催されるお祭「ウータンフェスタ」で、KICKBOXジム鴇稔之会長のもと、所属選手やチビッコ等による公開スパーリングやアトラクションマッチのレフェリーもしているという(昨年はコロナ禍で中止)。今後、またプロ興行でその姿が見られるとしたら、その玉川議員レフェリーの姿をカメラに収めたいものである。

お祭りイベントにて、女子選手不満爆発のイジメ!?に耐える玉川レフェリー(提供:玉川英俊氏)

▼堀田春樹(ほった・はるき)[撮影・文]

フリーランスとしてキックボクシングの取材歴32年。「ナイタイ」「夕刊フジ」「実話ナックルズ」などにキックのレポートを展開。ムエタイにのめり込むあまりタイ仏門に出家。座右の銘は「頑張るけど無理しない」

タブーなき月刊『紙の爆弾』2021年4月号

◆バンドからダイエットへ

北沢勝(1968年10月10日、東京都大田区出身)は26歳でプロデビューし、あまり注目される存在ではなかったが、頑丈な体格とバンド時代からの得意技の気合と根性で日本ウェルター級チャンピオンに上り詰めた。

北沢勝は高校時代にコピーバンドを始め、後にSHELL SHOCKというバンドに誘われ、ドラマー担当をした。卒業後もアルバイトしながらスタジオでレコーディング。ライブをして全国をツアーするという生活だった。

「ライブが終わったら飲み会。そんな生活をしていたら太り始めて80kg超え。何かダイエットしなくてはと思いました。」という北沢は元々プロレスファンで、当時UWFに夢中だったが、テレビで安生洋二と対戦するチャンプア・ギアッソンリットのミット蹴りを見た衝撃でムエタイこそが最強と確信し、これがキックボクシングを始める切っ掛けとなった。

SHELL SHOCKのリリースされたCDの一枚、いちばん右側が北沢勝(提供:北沢勝)

◆ムエタイから学ぶ

1993年4月、ダイエットにはキックボクシングをと、家から近くのジムを探すと目黒ジムが見つかったが、そこは名門といった歴史は知らないまま入門。

それまでスポーツというスポーツはやったことは無かったという北沢は腹筋が割れるほどの筋肉質のダイエットに成功。こうなると目指すはプロデビュー。チャンプアの蹴りの影響から始まった本場ムエタイの体験を希望すると、先輩に勧められるがまま翌年2月、バンコクのソー・ケーッタリンチャンジム(後々ゲーオサムリットジムへ移行)での修行に向かった。バンドは我儘を言って辞めた後だったが、辞めた以上は強くならねば恰好がつかない追い詰められた立場でもあった。

渡タイ目的の一つはムエタイ観戦だった。週に三日は夕方の練習が終わると一人でスタジアムに向かって、出来る限り間近で一流の試合を観て、技を真似て練習で実践して、またそこで一流のトレーナーに修正してくれたことが後々役立っていった。

1994年11月25日、ライト級でデビューすると10戦目に日本ライト級1位の今井武士(治政館)に判定負けするまでは、一つの引分けを挟み8連勝(3KO)。26歳でデビューは年齢的には遅いデビューだが、ランキング上昇は努力と研究の賜物。身体が頑丈でコツコツ頑張る気持ちのある努力型という周囲の見方が多かった。

デビュー1ヶ月前のタイでの練習(1994年10月17日)

伊東マサル戦に備えた目黒ジムでの練習(1996年1月24日)

伊東マサル(トーエル)戦は判定勝ち(1996年2月9日)

1998年8月には元・ラジャダムナンスタジアム・ウェルター級チャンピオンだった第一線級から離れて間もないパヤックレック・ユッタキットと68.0kg契約で対戦の話が舞い込んだ。人生最大の危機……いやチャンス。これを逃せば悔いが残ると思うと断る理由は無かった。結果は重い蹴りを受け続けた判定負け。無事生きて帰れたと安堵するが、下がらぬ戦いに周囲の評価は高い。

北沢は身長が170センチには至らず、周囲から「ライト級でも低い方!」と言われたり、体格を活かす為にも1998年末まではライト級登録のままリミット超えの契約ウェイトで頑張ったが、鷹山真吾(尚武会)との日本ライト級挑戦者決定戦は、走っても利尿剤を使っても体重はリミットまで落ちず、ウェイトオーバーという屈辱的な失態は残酷な展開で判定負け。

後日、偶然前回対戦のパヤックレックと会うと、「アナタ、私と試合したのに何、この前の酷い試合は! 今後はウェルター級でやりなさい!」とダメ出しされ即答で承知。小野寺力先輩方にも諭されていたが、「後々思えば無理してライト級でなくてもよかった。ムエタイボクサーにもいろいろなタイプが居た。そこから背が低くてもその戦い方があるのだ」と悟った。「スーパーライト級があればいいのにね。」という声にも「ウェルター級では俺が一番強いからスーパーライト級なんて必要ないですよ。」と笑って返していた。

武田幸三から健闘を称え合う笑顔(2000年1月23日)

武田幸三(治政館)戦、アッパーが鼻をかすめる、棒立ちで次に繋げない(2000年1月23日)

◆チャンピオンへ上り詰める

北沢勝はウェルター級に上げ、適正階級となると3連勝し、2000年1月23日、日本ウェルター級タイトルマッチに挑んだ。チャンピオンはタイ・ラジャダムナンスタジアム王座に挑む前の武田幸三(治政館)。「武田を倒せばラジャダムナン王座挑戦権は俺のもの!」という図式は成り立たないが、全てを奪いに行く覚悟で挑むも、武田の蹴りは速くて上手かった。武田を苦しめ善戦はしたが「武田には負けると思っていたけど、よく頑張ったな!」と言われるのもそう思われるのも嫌いだった。

「あそこまでの引き出ししか無かった。もっと頭使って技を出していればと思います。アッパー当たっても棒立ち状態で、次に繋げていない。」と反省の弁は多いが、「やっぱり北沢は凄いよ!」という声は多かった。

2002年1月27日、次のチャンピオンとなっていた米田克盛(トーエル)から王座奪取。チャンピオンにはなったが、国内無敵の武田幸三を倒せなかったことが心残りも再戦は叶わなかった。

北沢は新日本キックボクシング協会が年一回行なっていたラジャダムナンスタジアム興行「Fight to MuayThai」にはチャンピオンとして2回出場。

2002年のラジャダムナンスタジアム初出場の際には「ビデオで見てた計量のシーンとかに自分が居る。感慨深いという言葉では表せないような舞い上がりでした。」という大舞台に立つ感想。

更に「相手のフェートサヤームはゴツゴツした腹筋は無く、三流のタイ人を連れて来たなと思っていたら、ゴングが鳴った瞬間に貰った蹴り、パンチのあまりの重さにイヤな予感がした瞬間にヒジ打ちを貰って流血。日本人観戦ツアーもいる中、もう死ねるもんなら死にたい、でもその前にお前を殺す。と立ち向かったタフネスさで、最後はフェートサヤームが諦めるように倒れ込んでKO勝ちはしたけど、誰が一番強かったかと言われたら、武田幸三でもパヤックレックでもなくフェートサヤームでした!」というラジャダムナンスタジアム初出場の感想だった。

[左写真]米田克盛(トーエル)から王座奪取(2002年1月27日)/[右写真]初のチャンピオンベルトを巻いた北沢勝(2002年1月27日)

庵谷鷹志(伊原)をKOし初防衛(2003年1月26日)

2003年1月26日、北沢は庵谷鷹志(伊原)にKO勝利で初防衛後、ヒジ関節を手術する時期はあったが、リハビリも順調に進み、ブランクを空けるつもりもなく試合出場の準備は整えていたが、出場停止でもないのに試合が組まれない時期が9ヶ月続いた。その間にランキング1位の米田克盛がムエタイ王座挑戦となれば、やりきれない気持ちになるのも当然だった。ブランク明けの外智博(治政館)とのノンタイトル戦は凡戦の引分け、2年目「Fight to MuayThai」は判定負け。翌2004年1月25日には米田克盛に判定負けで王座を奪回されてしまう。

最終試合が2004年5月8日、阿佐見義文(治政館)戦は1ラウンドKO負けで、不甲斐ない試合が続くに至ったと悟り、リングを去る決意をした。

◆ジム経営を任せられる

引退後は小野寺力氏のRIKIXジムや現役時代にお世話になったジムでトレーナーとしてお手伝いを続けていたが、現役時代のスポンサーで応援団長だった「がぜん」という全国規模の居酒屋チェーン店のオーナーからジム経営を任された。「まさか自分がジム経営なんて!」と戸惑う間もなくジム会長として、ジム名は幾つも候補が却下される中、西岡利晃が対戦したレンドール・ムンローの腹筋が6パック割れより凄いと言われていたことや、タイでは9がラッキーナンバーというこじつけが認可され“ナインパック”に決まり、2011年3月1日、足立区関原の東武伊勢崎線西新井駅から近い地域にオープンとなった。

キックボクシングはチャンピオンになっても生活が成り立たない職業。チケット売りながら将来のことも考えながら暮らしていたら勝てるものも勝てない。そんな苦労を経験した北沢は「毎日お酒を飲んでも腹筋は割れるよ!」という誰でも出来るダイエットや健康増進をモットーに、「プロで教わったパンチや蹴りの効果を教えて、会員さんが試合観ても技の解説できるような楽しめる教え方をしたい。」と語る。現在は会員数が150名ほど。入会が増えたと思っても退会も多かったり、関わってみてわかるが、経営は難しい部分が多いという。

ジムへ務める今はバンドのSHELL SHOCKからも復帰の声も掛かるという。新たな展開が見られるかもしれない北沢勝のバンドの活動にも進展があるならば注目したいものである。

ナインパックジム会長北沢勝 M-150(タイで有名、エナジードリンク)を持つ(2021年1月7日)

▼堀田春樹(ほった・はるき)[撮影・文]

フリーランスとしてキックボクシングの取材歴32年。「ナイタイ」「夕刊フジ」「実話ナックルズ」などにキックのレポートを展開。ムエタイにのめり込むあまりタイ仏門に出家。座右の銘は「頑張るけど無理しない」

◆ヤンガー秀樹時代

元・全日本ウェルター級2位.伊達秀騎(本名・鈴木秀樹/1970年5月、宮城県仙台市出身)はチャンピオンには届かなかったが、その叶わなかった夢をタイに向け、現地で正規のジムを構え、ムエタイ二大殿堂チャンピオンを誕生させたことは、タイ側から見た外国人初の快挙を成し遂げた。

フェアテックスジムでのミット蹴り(1991年7月)

鈴木秀樹は中学1年から器械体操を学んでいたが、通学中に「練習生募集中」の看板を見て興味本位に仙台青葉ジムを覗いた。

「丹下段平ジムみたいな掘っ立て小屋の窓から覗いてみたら、蹴ったら自分の脚を痛めそうなヘビーバッグが吊るしてあって、これは普段見る学校のクラブとは比べられない別世界と感じた」というキックボクシングという世界の最初の印象だった。

高校は体育科だったが新設校で、1年目はまだ体操部が無かったことや、兄がブルース・リーが好きだった影響で格闘技に興味があった鈴木秀樹は、運命に導かれるがまま仙台青葉ジムに足を運んだ。

器械体操で鍛えた体幹はバランス抜群の蹴りを備え、デビュー戦は高校2年になった1987年(昭和62年)6月25日、地元の宮城県スポーツセンターで高橋真(山木)に判定勝利。

ここで瀬戸幸一会長からジムの次期エースと期待できる選手に与える、歴代リングネーム“ヤンガー”を授けられた。初代はヤンガー石垣(後の轟勇作)、二代目はヤンガー舟木(後の船木鷹虎)に続く“ヤンガー秀樹”となった。しかし、素質は誰もが認めるも高校卒業時までに7戦2勝5敗。三代目ヤンガーを継承したが、連敗が続くことにプレッシャーを感じていたという。

◆伊達秀騎時代

「戦績も悪くなり、何か練習環境を変えなければと、東京でやろうと思ったのが切っ掛けです」という鈴木秀樹は、高校卒業後上京。親戚が居た板橋区に住むと、やがて近くにあった小国ジムを見つけ仮入門。当初はまだ仙台青葉ジム所属のまま試合出場して大村勝巳(SVG)にTKO勝利。特に難しい条件は無く、これで円満移籍した。

リングネームは自身で考えた、伊達秀騎に改名(以後文中、伊達秀騎)。出身地の英雄、伊達政宗から名前を肖った。

移籍初戦は勝山恭次(SVG)に判定負け。それまでにも判定に納得いかないことが多かった為、リスクを伴うが倒すスタイルに移行。2連続KO勝利するが、1992年(平成4年)10月、全日本ライト級挑戦者決定トーナメントで杉田健一(正心館)に顎を打ち抜かれKO負けしてしまう。

ダメージ回復の休養と自分を見つめ直す為にブランクを作るが、空手大会出場やパンチの技術を学ぶ為、プロボクシング転向を試み、沖ジムに入門を果たしていた。自分のパンチはどこまで通用するか、当初は真剣にプロボクシングデビューを志し、プロテストは無事合格を果たすが、キックボクシングへの情熱を拭いきれず、デビュー戦を前に、お世話になりながらも感謝の気持ちを持って沖ジムを後にした。
後のキックボクシング復帰は1994年6月、仙台興行で日本人キラーだったジャルワット・オーエンジャイ(タイ)にKO勝利して再起を飾る。

ここから全日本ウェルター級挑戦者決定トーナメント出場となるが、松浦信次(東京北星)にKO負けする大失態。大飛躍のチャンスを落としたことは周囲にとっても大きな落胆だった。

アナン会長のゲーオ・サムリットジムで調整(1993年9月)

ジャルワット・オーエンジャイ戦、仙台での復帰戦をKO勝利(1994年6月25日)

王座挑戦へのトーナメント、松浦信次戦は悔しい敗戦となる(1994年9月23日)

◆ムエタイ修行で人生転換

伊達秀騎が初めてタイ修行したのは1990年5月、バンコク・ドンムアン空港から発つ飛行機の真下で、騒音が酷い地域にある名門ムアンスリンジムだった。練習以外もキツい環境で、通気性の悪い倉庫のような選手の宿舎。初めてタイ修行に行く者にとって、文化や生活環境の違いは耐え難い状況だっただろう。

もう行きたくないと思っていたというタイだったが、1991年7月、「同門の高津さんに付き合う形で一緒に行きました」と言う、ジムで先輩から勧められていたフェアテックスジムに赴いた。トレーナーを務める伝説のチャンピオンと言われるアピデ・シッヒランさん宅にホームステイする形で修行し、1ヶ月ほど我が子のように慕って貰ったことから一転、タイとムエタイに惚れ込んでいき、後々の運命を変える人生の分岐点となる修行であった。

タイでの初試合は1993年9月のバンヤイシティースタジアム。それまでフェアテックスジムでの修行だったが、層の薄い重量級では試合は組まれ難いものの、逆に選手が足りない事態も起こり、後々深い縁となるゲーオサムリットジムのアナン・チャンティップ会長から声が掛かり試合出場した。

「逆転KO勝ちでしたが、試合が盛り上がると、インターバル中にもギャンブラーからチップをくれて、興行一座のドサ周りみたいな感じが面白くて、タイでの試合にハマりました」とムエタイ初試合の印象を語る。

1994年10月には、メコン河を挟んだラオスとの国境となる街、ノンカイでの試合はKOで敗れたが、タイ全土にテレビ生中継され、倒しに行く姿勢で相手を苦しめた試合内容を評価されたことで再戦が決まり、翌年1月、チェンマイでもタイ全土にテレビ生中継の中、敗れるが大激戦となり、アナン氏からより一層信頼される存在となっていた。

当時、日本で大事な試合に敗れ、更に団体は分裂を起こし、目指していた目標は消え、モチベーションも低下する中、タイで仕事をしながら現役を続けられるのではと考えた伊達秀騎は日本のリングを去った。

アナン会長が冗談を言いながらバンテージを巻くリラックスした試合前(1994年10月18日)

[左]ノンカイでの試合、タイ全土に放映されるサーティット戦(1994年10月18日)/[右]チェンマイで再戦、バックヒジ打ちでサーティットを苦しめる(1995年1月29日)

1996年10月、心機一転タイに移住し、人材紹介会社に就職した。

しかし、タイでも仕事を任せられれば徐々にジムに向かう時間が無くなるのは当然だった。それでもアナン氏から試合のオファーが来ると断らずに受けていた。まだ26?27才で、現役時代の厳しいトレーニングの貯金で動けていた身体だったが、移住1年程経った時期、ラジャダムナンスタジアムでの試合で3ラウンドTKO負けの頬骨陥没骨折。全身麻酔で手術を受けて8日間入院。今でも頬骨にボルトが入っているという。舐めてはいけない本場ムエタイの仕打ちだった。

怪我は癒えた後々、現役に悔いを残さない想いをもって挑んだラジャダムナンスタジアム・ミドル級1位の強豪にKO負け。これでリング上では全てをやり終えた伊達秀騎だった。

同スタジアム、激戦に持ち込む伊達秀騎(1995年6月)

サムローンスタジアムでワイクルー(戦いの舞い)を舞う伊達秀騎(1995年6月)

◆タイビジネスの恩人

その後、30歳を目前にして起業。ムエタイや撮影のコーディネート、ムエタイ日本語情報誌の発行などを興し、2002年2月、バンコク中心部スクムビット地区に目標としていたイングラムジムを設立した。

2004年にブアカーオ・ポー・プラムックを来日させると、K-1 MAX初出場で優勝。その後、サガッペット・イングラムジム(タイ)をルンピニースタジアム・ライト級、ジョイシー・イングラムジム(ブラジル)は欧米人初のラジャダムナンスタジアム・ウェルター級の二大殿堂スタジアムでチャンピオンを輩出する日本人としては初の快挙を成し遂げた。

しかしムエタイ業界に限らず、どこも競争が激しい世界。ルンピニースタジアムのプロモーター傘下では、あらぬ嫌がらせも受けたという。そんなことはよくある業界内特有のしがらみで、ラジャダムナンスタジアムに移ることもあった。

しかし、ルンピニースタジアムに出場していた弟子のダーウサミン・イングラムジム(後のWPMF世界スーパーフライ級チャンピオン)が、前座ながら白熱した試合で、チャンピオンやランカーを差し置いて月間最優秀試合賞を獲得し、本気になって選手を輩出していれば外国人でも認めてくれるのだと、イングラムジムの名前が認められてきたと思ったという。

ここまで這い上がって来れたのは、アナン会長との縁で、試合オファーには出来る限り応じた為、ジム運営やビジネス面では多くのバックアップをしてくれた恩人だという。アナン氏自身も苦労人から這い上がり、多くの強豪選手を輩出し、タイ国ムエスポーツ協会監査役員になるなど実績高い人物だった。そのサクセスストーリーを間近で見てきた伊達秀騎の成功があるのだろう。

2020年初頭は、スポンサーだった日本企業のバックアップで、BTS(バンコク高架鉄道)エカマイ駅近くの800平米もの好物件を見つけジムを移転し、オープン当初は順調だったが、コロナ禍が直撃し3月には政府からタイ全土に営業禁止の通告が出され苦境に陥り、9月末を持ってジム閉鎖に至ってしまった。

その後、ムエタイ界の重鎮達からは、新たなジム開設を勧められているが、現在はどのような形で再開可能かをいろいろと模索している状況という。

2015年には結婚し、翌年長女が生まれて現在4歳。もう言葉が話せるのは当然として、日本語、英語もある程度話せるという。生き甲斐は我が妻と娘いう伊達秀騎。もうとっくの昔に“ビジネスマン鈴木秀樹”に戻っているが、2021年は新たなビジネス展開を見せてくれるだろう。

国家が絡むビッグイベント記者会見に並ぶ、前列左から伊達秀騎、アナン会長、ブンソン大佐(タイ国ムエスポーツ協会副総裁) (2017年3月)

▼堀田春樹(ほった・はるき)[撮影・文]

フリーランスとしてキックボクシングの取材歴32年。「ナイタイ」「夕刊フジ」「実話ナックルズ」などにキックのレポートを展開。ムエタイにのめり込むあまりタイ仏門に出家。座右の銘は「頑張るけど無理しない」

月刊『紙の爆弾』2021年2月号 日本のための7つの「正論」他

◆よくある入門動機

赤土公彦(1967年6月29日大阪市出身)は時代の変わり目に突如現れた期待の新星。中学2年生の時、父親の仕事の都合で東京の小岩に転居してきたが、後に喧嘩でボクシングを習っている奴にボッコボコにされ、もっと強い競技を習って見返そうと、地元のキックボクシング西川ジムに足を踏み入れた。1983年(昭和58年)、高校入学したばかりの頃だった。

当時の国鉄小岩駅から3分ほど歩いたところにある雑居ビル5階の西川ジムは静かでガラーンとしたもの。毎度の謳い文句だが、キックボクシング界低迷期、興行を細々と続ける時代、どこのジムも閑散としたものだった。

しかし、高校一年生の赤土にとってはどうしても強くなりたいだけ。そこで見た、重く硬いサンドバッグを折るような、ベテランらしき足立秀夫の鋭い蹴りにもう一目惚れ。これは強くなれそうだとその場で入門した。

入門動機を聞いた西川純会長は「喧嘩で強くなるにはプロで20戦以上はしないとな!」と発破を掛けるが、これが後々まで強烈な印象として記憶に残り、志高く持つ動機付けとなったという。

ベテラン土田光太郎にはダブルノックダウンの末、判定負け(1985年11月22日)

10歳年上の坂巻公一をKOして王座戴冠(1986年9月20日)

◆キック界の復興の波に乗り

入門一年を経た1984年(昭和59年)9月23日、17歳でデビューを判定勝利した赤土の周囲には、「凄い先輩達だらけだった!」と言うとおりの西川純会長をはじめ、向山鉄也、足立秀夫といった激戦を経てきた先輩達だったが、入門生が滅多に入らない時期、赤土は先輩たちに厳しい指導を受けつつ、可愛がられる弟のような存在となった。

さらには業界の流れは赤土のデビューを後押しするように4団体統合による復興に一気に好転した時期だった。

しかし、デビュー翌年には同期のライバル、杉野隆之(市原)に判定負け、ベテランの土田光太郎(光)に判定負けも、1986年9月、日本フライ級チャンピオン、坂巻公一(君津)を倒し、19歳で王座に上り詰めた。

「高校三年の時、5戦3勝2敗のくせに卒業文集で『チャンピオンになります!』と宣言していたので、早期に巡ってきたチャンスのプレッシャーに潰されそうになりながら、向山先輩に江戸川の土手まで連れて行かれた坂道で、いつ終わるかも分からない過酷なダッシュを毎日、何十本と命ぜられた成果で勝てました。試合3日後に母校の文化祭があったのでチャンピオンベルトとテレビ放送のビデオを持って生徒皆に見てもらって、有言実行出来たとホッとしました」と当時を語る。

19歳で王座戴冠、当時は乱立少なく価値があった日本チャンピオンベルト(1986年9月20日)

タイ遠征、ノンタチャイジムで鍛える(1989年1月2日)

しかしそんな悠長に構えている場合ではなかった。静養のつもりで家で寛いでいると、向山先輩が訪れ、玄関で「公彦居るか!」と叫ぶとそのまま茶の間まで怒鳴り込んで来たという。

「赤土テメェ、チャンピオンになった自覚あんのか!これからが大変なんだぞ、何で練習に来ねえんだ!」と父親の前で本気で怒鳴られ、驚きつつも涙を流すほど嬉しかったという。

浮かれている場合ではないと自覚した赤土は挑戦者の気持ちを思い出し、初のタイ修行は心細い一人旅を経て、翌年3月、杉野隆之との再戦を闘志むき出しでノックダウンを奪い判定ながら同期対決に雪辱を果たした。

この1987年、復興した全日本キックボクシング連盟に移る事態が発生したが、更なる抜擢、WKA世界フライ級王座挑戦の機会を得た。

向山先輩からは「お前は今一番練習している選手だ、自信を持て!」と言われて不安は無かったと言うが、ミデール・モントーヤ(メキシコ)に僅差の判定で敗れ、慣れぬ2分制の12回戦、ヒジ打ちヒザ蹴り禁止の中での大善戦は周囲の高い評価を得た。

その後、イギリス、韓国、タイ等の国際戦を含め、全日本フライ級王座は宮野博美(光)、有光廣一郎(AKI)を退け、1990年1月、水越文雄(町田)に激闘の判定勝ちで3度目の防衛を果たすも、そこから1年半近いブランクを作ってしまった。フライ級でライバルは少なく、モチベーション低下が要因と思われた。

タイで2戦目、ランシットスタジアムに出場、緊張の試合前(1989年1月9日)

◆体調の異変

その頃、赤土に起きていたことは、「頭痛が頻繁に起こって、サンドバックを叩いても振動でフラっときて、初めて脳外科でCTスキャンを撮ったら先天性の陰があって、『もしボクシングだったらプロテスト受からないよ!』と言われてショックを受けました。そして、引退したらどうなるんだろうと考え出した頃、実家のタイル業を手伝い始めて、目標のバランスが難しくなってきた頃でした。」と語る。

脳疾患の為、暫く安静期間を過ごした赤土は、不完全燃焼のまま終わるわけにはいかないと、以前、日本チャンピオンになった直後、向山先輩に檄を飛ばされたことを思い出し、「あの頃のようにガムシャラにやってみよう!」と決意新たにした赤土は、目標を二階級制覇と定め、1991年(平成3年)4月、再起に備えタイ修行からやり直した。そして6月、自己初のメインエベンターでデンディー・ピサヌラチャン(タイ)に攻勢を許さず、3ラウンドKO勝ちし復活を遂げた。

ようやく勢いづくも同年9月、今度は初のKO負けを喫してしまう。勝っても負けてもKOの少白竜(谷山)の開始早々のパンチの突進で、第1ラウンド、あっという間に3度のダウンを奪われ、あっけなくKO負け。

「日本人に負ける気がしなかった慢心と、少白竜さんの強打を甘くみていた結果だと思います。」と反省。

ムエタイ戦士は蹴りの捌き、試合運びが上手く判定負け(1989年1月9日)

力を出し切れずにリングを降りる屈辱に、すぐに雪辱戦を申し入れると、翌1992年1月、全日本バンタム級王座決定戦として再戦が実現した。赤土もデビュー当時はジーパンをはいても48kgという貧弱な体から、この頃はフライ級には落ちないほど逞しい体に成長していた。相変わらず少白竜はKO狙って強打で突進して来るが、二の舞いは踏まずカウンターパンチで打ち勝ち、第1ラウンドKO勝ちで二階級を制覇した。 

そして休む間もなく、 期待された二大組織の交流マッチが開始された頃の同年3月、日本バンタム級チャンピオン、鴇稔之(目黒)と対戦。

鴇稔之の手数と巧妙さにやや押される部分もあったが、互いの攻防は凄まじく、5ラウンドに右ストレートでダウンを奪うが1-0の優勢ドロー。お互いの名誉と誇りを懸けた、最後に出逢えたライバルと名勝負を展開。

この鴇稔之戦を引き際と考え、リングを遠ざかった後、1994年6月、立嶋篤史とエキシビジョンマッチを披露して引退式を行ない、現役を去った。

「立嶋君とは彼の新人の頃から何度かジムで会ってもメラメラと闘志を感じていたので、戦いたい相手の一人でもあった。」と言う。一度、フライ級で対戦の可能性がわずかにあった時期があるが夢物語に終わっていた。「終了ゴングの瞬間、現役への決別に後悔したくないと右ストレートを思い切り出しちゃいました。」という終了も、そこは心の内知る二人が交わす言葉の中で打ち解けた終了となった。

[写真左]少白竜に雪辱し2階級制覇(1992年1月25日)/[写真右]チャンピオン対決、鴇稔之戦は完全燃焼したラストファイト(1992年3月21日)

◆昭和が残したキックボクサー

赤土は過去のタイ修行で2試合こなしていた。1988年(昭和63年)2月、ルンピニースタジアムに出場したが判定負け。土曜の昼興行だったが、メインイベントで相手がBBTVのチャンピオンだということは試合終了後まで知らぬまま。タイ初戦からかなり強敵だったようだ。

2戦目は1989年(平成元年)1月、ランシットスタジアムに出場。ムエタイ独特の蹴り捌き、ポイント獲り戦法に突破口を見出せず判定負け。タイではいずれも敗れ、ムエタイの壁は厚かったという。

赤土は昭和の匂いを醸し出すキックボクサーだった。そこには西川純会長の教え、向山鉄也先輩の厳しさがあった。

堂々たるチャンピオンの存在感示した赤土公彦(1994年6月17日)

西川純会長からは「プロは練習をしているんだからスタミナはあって当たり前、そして根性もみんな有るんだ。だから技を磨いてそれを競い合うんだ!」という忠告や、「チャンピオンなんだからリングの上で喜ぶな、勝って当たり前という態度でいろ!」と注意されたことも忘れられないという。古い昭和時代の考え方だが、これが本来のキックボクサーたるものだろう。

赤土公彦は引退後、家業を継ぎ、タイル・石施工・左官など外構工事を請負う「KINGタイル」代表を務め、2005年に結婚。年子の息子さんを2人儲け、小学生時代からキックボクシングに興味を持っていたという2人は現在中学生。赤土は毎朝、仕事に行く前に自宅の前で指導もする。キック界で親子チャンピオンは向山鉄也さんと羅紗陀(竜一)親子が最初で、二組目が中川栄二とテヨン(勝志)親子、現在3番目を兄弟揃って達成出来ればと頑張っている。

終了間際に悔いを残さぬ右ストレートを立嶋篤史に打ち込む(1994年6月17日)

▼堀田春樹(ほった・はるき)[撮影・文]

フリーランスとしてキックボクシングの取材歴32年。「ナイタイ」「夕刊フジ」「実話ナックルズ」などにキックのレポートを展開。ムエタイにのめり込むあまりタイ仏門に出家。座右の銘は「頑張るけど無理しない」

◆空手バカ一代からの運命

松田利彦(1960年1月21日、埼玉県狭山市出身)は高校2年の時、劇画「空手バカ一代」を読んで強い男に憧れ、極真空手を始めようとしたが、近所の貼り紙を見て、比較的自宅に近い添野道場(後の士道館)に入門した。この道場が単なる空手道場ではないことが、松田利彦の運命を変えていった。後にキックボクシング日本人現役チャンピオンとして、プロボクシングの世界王座に挑戦した男は、松田利彦以外には存在しない。

若かりし血気盛んな21歳の松田利彦(1981.6.17)

◆チャンピオンに君臨

身体が小さかった松田利彦は先輩から軽いクラスまで階級制があるキックボクシングを勧められ、1978年(昭和53年)1月、正式にキックボクシング部門に移った。同年11月のデビューから反射神経抜群の運動神経で勘も鋭い松田は、先手必勝の勝利を重ね9連勝。フライ級に出現した大天才と期待されていた。

1982年5月、全日本フライ級チャンピオン、高橋宏(東金)と対戦。デビュー前から、「お前を倒すのはこの俺だ!」と目標としていた相手だったが、第1ラウンドに2度のダウンを奪われ大差の判定負け。チャンピオンとの大きな壁は簡単には打ち破れない現実に撥ね返されるも、スランプに陥る松田ではなかった。雪辱に向け動き出しところへ、同年11月、業界が総力を結集して開催された1000万円争奪オープントーナメント52kg級に出場が決まった。周囲は優勝候補の一人として注目する中、初戦にベテランの元・日本フライ級チャンピオン、ミッキー鈴木(目黒)にKO勝利。年を跨いだ1983年1月の準々決勝では得辰男(渡辺)にKO勝利するも右拳骨折する負傷が響き、2月の準決勝で丹代進(東海)に2-1の判定負け。

松田利彦vs得辰男。オープントーナメント準々決勝、得辰男を倒す(1983.1.7)

準決勝で丹代進に敗れる(1983.2.5)

優勝の夢は消えるも、怪我が癒える頃の同年5月28日には、早くもオープントーナメント52kg級決勝を制したタイガー大久保(北東京キング)と対戦の機会を得て、第2ラウンドKO勝利で事実上のフライ級軽量域最強という立場となった。

しかし、チャンピオンの称号が無い松田に王座奪取のチャンスが与えられた。翌年の1984年1月、新格闘術日本フライ級王座決定戦で松井正夫(千葉)に第2ラウンドKO勝利し王座獲得。それは取って付けたに過ぎない王座ではあったが、低迷するキックボクシング界の分裂が続いた他団体でも価値は似たものだった。

実績を高めた同年5月、WKA世界フライ級チャンピオンに上り詰めていた高橋宏とノンタイトル戦ながら悲願の再戦に漕ぎ付けた。試合は互角に進んだ最終ラウンド終了1秒前に松田が打った左フックでノックダウンを奪うとレフェリーはカウントするが、ゴングに救われたのか救われないのか、ノックダウンは有効か無効か、ノックアウトなのか判定なのか、試合直後は説明も無く裁定が曖昧な判定勝利で終わった。

このモヤモヤした因縁に終止符を打つべく1985年1月3日に再々戦、第4ラウンドに執念のパンチで高橋を倒すKO勝利し、完全決着を付けた。

頂点に立つタイガー大久保を倒す(1983.5.28)

◆プロボクシングへ

団体分裂が続いたキックボクシング界だったが、この時期、最も大きな転換期に入っていた。前年11月に4団体が統合し設立された日本キックボクシング連盟(後にMA日本)に、士道館は加わっていなかったが、統合団体を設立した石川勝将氏も当時、別団体ながら松田利彦を高く評価していた。

しかし、ここで松田に転機となったのはプロボクシング転向。日本のプロボクシングは確立した組織で分裂は無いこともないが、新組織のIBF日本から士道館へ松田の出場打診が入ってきたのだった。士道館率いる添野義二館長は空手家であり、1969年(昭和44年)にキックボクシングに転身した経歴を持つが故に、他格闘技に臨める体制を持った道場であったことが、たまたまこの時代に生きた松田の運命を導いていた。

パンチにも自信を持つ松田は出場を決意。1986年(昭和61年)8月18日、奈良でのデビュー戦はいきなりIBF日本フライ級王座決定戦。ここで内田幹朗(大阪島田)に5ラウンドKO勝利し、初代チャンピオンとなった。同年暮れの王座戴冠第1戦目は両角浩にノックアウト負けする不覚をとったが、翌年4月19日に両角浩との防衛戦は世界挑戦権を懸けての再戦。2度ノックダウンを奪われる苦戦も見せたが、逆転ノックアウトで初防衛成功。

世界戦で敗北、崔漱煥に倒される(1987.7.5 スポーツライフ社刊、マーシャルアーツより引用)

更には5月14日に後楽園ホールでキックボクシングの試合(APKF興行)に出場。パンチ重視の戦略もナラワット(タイ)に距離を取られ引分けに終わる。そして7月5日には韓国で崔漱煥の持つIBF世界ジュニアフライ級王座に挑戦した。さすがに世界の壁は厚く、崔漱煥のパンチはガードを突き破ってくる今迄に無い重さだったという。特攻精神の反撃虚しく第4ラウンドKOに敗れたが、「試合前の国歌吹奏は大舞台に立っている今迄に無い責任感緊張感に武者震いした。」と語っている。

◆キックボクシング一本へ

後に、IBF日本フライ級王座2度目の防衛戦にも敗れ、置き土産のようにベルトを手放しキックボクシング一本へ戻ったが、当然キックボクシング界は松田利彦を待っていた。興行の少ない士道館が、充実した定期興行が続くメジャー団体のマーシャルアーツ(MA)日本キックボクシング連盟に加盟。待ち望まれた松田の参入だった。

1988年(昭和63年)4月2日、両国国技館での初の格闘技の祭典で、松田は過去の実績からいきなり日本フライ級王座決定戦で林田俊彦(花澤)と対戦するも、ボクシングの距離感が染み付いた意外な苦戦での引分け。延長戦でなりふり構わずパンチで圧力を掛けポイントを獲って勝者扱いながら王座を獲得。

林田のローキックを地味にも幾らか貰っており、「蹴りってこんなに痛いものか!」と改めて思ったという松田は再び蹴りの勘を磨き始めた。

しかし、王座獲得後の初戦は格下に手こずる苦戦の判定勝ち。周囲の期待も落ち気味だったが、松田は「俺はまだ終わっていない。冗談じゃねえ!」と奮起。同年7月の初防衛戦では蘇ったような先手を打つ蹴りで神代遼(グレードワン)を圧倒、最後はパンチを的確に打ち込みKO勝利し最強復活の意地を示した。

ラストマッチは1989年(平成元年)7月、第2回目となる格闘技の祭典で、日本バンタム級チャンピオン、鴇稔之(目黒)とのチャンピオン対決だった。中盤に右フックでダウンを奪いながらもラストラウンドに打ち込まれてロープダウンを奪われ、逆転を許してしまう激戦で判定負けだったが最後の大舞台で名勝負を残した。以前から減量もきつく、バンタム級転向も考えていたものの、この年の春から、MA日本キックボクシング連盟は突然の代表辞任による活動休止が長引く中で、松田は30歳を迎える1990年1月、現役生活に区切りをつけ、引退式を行ないリングを去った。

1995年には士道館の先輩から不足していたキックボクシングのレフェリーを勧められ、新たな分野に挑むことになった。理屈に合わないことが無い限り、勧められれば受けるのが松田利彦。それでマッチメイクされる試合は全て受けて来た前向きさ。その上手くやって当たり前、下手すれば叩かれる難しさがあるレフェリー裁きも、卒なくこなす姿は評判がいい。

ジャッジを務める松田利彦、41歳(2001.11.9)

◆知られぬ歴史

プロボクシングとプロキックボクシングで日本チャンピオンになった選手は、後にバンタム級で田中小兵太(田中信一/山木)が居る。JBC管轄下の日本タイトルとIBF日本タイトルでは比べるまでもない格差があり、キックボクシングの日本タイトルと呼べるものは乱立の度合いと業界自体の低迷や隆盛で時代の格差はあるが、松田利彦と田中小兵太はMA日本タイトルを獲得。1987年当時では存在価値の低かったIBFも、後に設立されたWBOと共に勢力を伸ばし、JBCが主要4団体として承認する時代となった。あの時代とは比べられないが、キックボクサー松田利彦がプロボクシング世界王座に挑戦した事実は今も語り草となっている。

今やベテランレフェリー松田利彦。右はモトヤスック(2019.11.9)

▼堀田春樹(ほった・はるき)[撮影・文]

フリーランスとしてキックボクシングの取材歴32年。「ナイタイ」「夕刊フジ」「実話ナックルズ」などにキックのレポートを展開。ムエタイにのめり込むあまりタイ仏門に出家。座右の銘は「頑張るけど無理しない」

月刊『紙の爆弾』2021年1月号 菅首相を動かす「影の総理大臣」他

◆沖縄から生まれた名キックボクサー

長浜勇(ながはま・いさむ/市原/1957年11月16日沖縄県出身)の本名は、長浜真博(まさひろ)。デビュー当時に市原ジムの玉村哲勇会長の名前から一字頂き、“勇”をリングネームとした。

長浜勇は、昭和50年代のキックボクシング界の底知れぬ低迷期から復興時代への変わり目に、向山鉄也と共に業界を牽引した代表的存在で、団体が分かれている中では最も統一に近い時代の日本ライト級チャンピオンである。

1985年1月、日本ライト級チャンピオンとなった長浜勇(1985.1.6)

◆地道に進んだ新人時代

長浜勇は高校3年生の時、アマチュアボクシングで沖縄と九州大会で準優勝。推薦で大学進学の道もあったが、両親への学費の負担を考えて進学はしなかった。一旦地元で就職したが、1979年(昭和54年)初春、21歳で上京し、千葉県市原市の土木関係の会社に転職。

そこで先輩に市原ジム所属選手が居たことが長浜勇の運命を決定付けた。先輩に勧められてジムを見学すると、「こんなところにもジムがあるんだなあ、いいなあこの汗臭い雰囲気!」と戦う本能や、沖縄にいた時、テレビで同郷の亀谷長保(目黒)の活躍が頭を過ぎり入門を決意した。

1979年4月、長浜は入門わずか1ヶ月あまりでデビューした。仕事の合間を縫って練習に通ったのは10日間ほど。選手は少なく、誰かが教えてくれるといった環境も無く、蹴りなんて全く素人のまま。しかし、玉村会長は大胆にも試合を組み、「蹴らなくていいからパンチだけで行け!」と言うのみ。そんないい加減な時代でもあったが、アマチュアボクシングの経験を活かし、そのパンチだけでノックアウト勝利した。

市原ジムの独身選手はジムのほんの近くでアパートか平屋の借家暮らし。長浜勇はそんな借家で夏は全ての窓開けっぱなしで寝ていた。そんなある日、観ていたテレビはキックボクシング。

当時は深夜放送に移ったが、まだTBSで週一回の放映があった時代。同じ日にデビューした目黒ジム所属選手は放映されたのに、長浜勇はせっかくのKO勝利も放映が無くて残念だったという。

いずれはもっと勝ち上がってテレビに映ることを目指しながらも、テレビレギュラー放映は打ち切られ、キック業界は興行が激減していった頃だった。

その後、市原で就職した会社は辞め、玉村会長が興していた、同じ土木専門の玉村興業で働くことになった。それはジムでの練習に向かう時間の融通を利かせる為ではあったが、器用な長浜勇はやがて現場監督に昇格し、後々であるが現場から離れられない時間が増えていった。残業の上、家に帰っても受け持つ幾つかの工事現場の翌日の派遣人員配置や、生コンクリートをどの現場にどれぐらい発注するかといった業務等で電話しまくり。ジムに行って練習する時間など無かった。「それでどうやって勝てるのか!」という不安はあったが、人の見ていないところで練習するというのは事実だった。例え30分でもジムへ行って集中してサンドバッグを打込む。そんな話を本人からチラッと聞いたことがあった。

◆飛躍の軌跡

トップスターへの出発点となったのは1982年(昭和57年)10月3日の有馬敏(大拳)戦だった。

かつてジムの大先輩・須田康徳と名勝負を展開した元・日本ライト級チャンピオン相手に、パンチだけに頼らず、蹴られても前に出て蹴り返し、引分けに持ち込む大善戦だった。

そこから上り調子。翌月から始まった1000万円争奪オープントーナメント62kg級へ出場すると、長浜勇は初戦で三井清志郎(目黒)、準々決勝で砂田克彦(東海)にKOで勝ち上がり、準決勝で予想された先輩、須田康徳と対戦。

世間は決勝戦を須田康徳vs藤原敏男(黒崎)と予測しており、長浜勇自身もそう考える一人だった。それまで須田先輩から多くの指導を受け、尊敬し敬意を表しつつも、普段は仲のいいジムメイト。

「須田さんに怪我でもさせて藤原戦に支障をきたしてはいけない!」と一度は辞退を申し入れたが、玉村会長はこれを許さなかった。先輩であろうと引きずり下ろさねばならないプロの世界だった。長浜勇は心機一転、須田康徳戦に全力で挑み3ラウンド終了TKOに下す。

大先輩、須田康徳を下す大波乱(1983.2.5)

一方の準決勝、藤原敏男は足立秀夫(西川)を倒すも、そのリング上でまさかの引退宣言。決勝戦の3月19日、長浜勇が勝者扱いで優勝が決定。日本中量級のトップに立った新スター誕生だった。

決勝戦の相手、藤原敏男と対面(1983.3.19)

その後も日本人キラーだったバンモット・ルークバンコー(タイ)に5ラウンドKO勝利し、過去2度敗れているライバル足立秀夫を2ラウンドKO勝利で上り調子だったが、ここで一旦、その足を掬われる結果を招く。藤原敏男が引退した後、どうしても避けて通れない相手がその藤原敏男の後輩で、藤原にKO勝利したことがある斎藤京二だった。怪我でオープントーナメントは欠場したが、優勝候補の一人の強豪だった。

過去2敗、ライバルの足立秀夫に雪辱果たす(1984.1.5)

1984年5月26日、その斎藤京二に2ラウンドKO負けを喫してしまった長浜勇。頂点に立った者が崩れ落ち、またまた混沌としていく日本のライト級。そんなキック業界も底知れぬ低迷の中、まさかの統合団体の話が持ち上がったのが同年10月初旬で、11月30日にその画期的日本キックボクシング連盟(後にMA日本と二分)設立記念興行に移っていった。

足を掬われた斎藤京二戦(1984.5.26)

集中力でサンドバッグ打ち、パンチ力は最強(1984.10.5)

撮影の為に気合入れる長浜勇、ミット持つのはサマになっていない素人の私(1984.10.7)

過去のチャンピオン経験者が優先された王座決定戦。

1985年1月6日には日本ライト級王座決定戦に出場した長浜勇は、旧・日本ナックモエ・ライト級チャンピオン、タイガー岡内(岡内)を1ラウンドKOで下し、初代チャンピオンとなった。この後、挑戦者決定戦を勝ち上がって来たのが斎藤京二。因縁の厄介な相手が初防衛戦の予定だったが、斎藤京二は前哨戦で三井清志郎(目黒)に頬骨陥没するKO負けを喫してしまう。

タイガー岡内を倒し、日本ライト級王座獲得(1985.1.6)

同年7月19日、長浜勇の初防衛戦はその代打となった三井清志郎(目黒)戦。過去、長浜に敗れている三井は雪辱に燃えていたが、長浜は冷静沈着。三井の蹴ってくるところへパンチを合わせ主導権を握ると3ラウンドKO勝利。これで難敵をまず一人退けたが、あの当時の日本ライト級は強豪ひしめくランキングだった。後に控える斎藤京二、甲斐栄二、飛鳥信也、須田康徳、越川豊。これらをすべて退けることなど無理だっただろう。

三井清志郎を倒し初防衛(1985.7.19)

◆ピークに陰り、そして引退

1986年(昭和61年)1月2日、2度目の防衛戦で甲斐栄二(ニシカワ)の甲斐の豪腕パンチで左頬骨を陥没するKO負け。やはり来た試練。左の頬骨に固定する針金が飛び出したままの状態が3週間続いた。

復帰戦は同年7月13日、フェザー級から上がってきた不破龍雄(活殺龍)との対戦で、思わぬ苦戦をしてしまう。重いパンチで圧力を掛け、ローキックでスリップ気味ながらノックダウンを奪ったところまでは楽勝ムードだったが、いきなり猛反撃してきた不破のパンチを食らってペースを乱してしまう。今迄に無い乱れたパンチと蹴り。強豪ひしめくライト級で再び王座を狙うには、かなり厳しい境地に陥った辛勝だった。

不破龍雄に大苦戦(1986.7.13)

しかし、まだ長浜勇の活躍が欲しいMA日本キック連盟は翌年1月、石川勝将代表が企画した、本場に挑むルンピニー・スタジアム出場枠に選ばれ、当時、話題の中心人物だった竹山晴友(大沢)と共にタイへ渡った。結果は判定負けながら、初の本場のリングで堂々たる積極的ファイトを見せた。同年4月18日、朴宙鉉(韓国)にKO勝利し、石川勝将代表から「越川豊(東金)とやらないか?」と問われ、着実に上位進出していたその存在があったが、土木業が拡大化してきた背景と、すでに妻子ある守るべき家庭を持っていたこともあり、密かに引退を決意していた。

1988年9月、地元の市原臨海体育館で行なわれた先輩・須田康徳の引退興行は、市原ジムの集大成で時代の一区切りとなった須田と二度目の対決。初回、長浜は須田の強打に三度のダウンを奪われ、最後はダブルノックダウンに当たるが、当時のルールにより3ノックダウン優先のKO負け。互いがガツガツと打ち合った密度の濃い一戦だった。そして長浜勇も須田康徳戦をラストファイトとして締め括った。

長浜勇は引退前に、婚約していた沖縄の同級生と結婚し、後に3人の娘さんの父親となった。長浜勇は普段お酒はあまり飲まないが、仲間内の宴会では飲み過ぎて酔えば暴れて起こしたハプニングは計り知れない。そんな暴れん坊は“市原ジム出入り禁止”なんて事態にも一時的にあったようだが、根は優しく市原ジムのムードメーカーでもあった。還暦を超えた今、お孫さんを可愛がるその姿を見に行きたいものである。

▼堀田春樹(ほった・はるき)[撮影・文]

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◆格闘技人生の始まり!

元NJKFライト級1位.ソムチャーイ高津(ソムチャーイ・タカツ/1969年6月16日、神奈川県藤沢市出身)は、ムエタイの師匠、パイブーン・フェアテックス氏が名付け親となるリングネーム。タイトル獲得歴は無いが、不思議な人望と人脈を持つ、オモロイキックボクサー人生である。

タイ初試合、ポンテープ戦は判定負け。撮影:パイブーン・フェアテックス 1993.5.4

ソムチャーイ高津は、幼い頃から格闘技に興味を持ち、漫画や映画で公開された「四角いジャングル」を観てより一層格闘技に魅せられていった。

高校3年の1987年8月2日、シューティング(修斗)に入門。アマチュアで3戦したが、プロはまだ無い時代だった。

元々、日本人初のラジャダムナンスタジアムチャンピオン、藤原敏男に憧れを抱いていたソムチャーイ高津は、後に打撃競技をやりたくなったのを機に、1988年8月2日、OGUNI(小国)ジムに入門、藤原敏男氏が厳しい鍛錬に耐えた黒崎道場はすでに無く、その黒崎イズムを継承するのは藤原敏男氏の後輩、斎藤京二氏がトップ選手として活躍する小国ジムであると確信したからだった。

◆タイへ渡って多くの経験!

プロデビューは1989年4月8日、中島貴志(東京北星)にKO勝利。翌年10月の再戦では、激戦の末のドローとなったが、中島貴志のトレーナーだったユタポン・ウォンウェンヤイ氏からタイ式の攻防としても凄く褒められたことで、ムエタイとは切っても切れない縁となったと感じたという。

タイ2戦目、サクアーテット戦も判定負け。撮影:パイブーン・フェアテックス 1993.6.1

そして運命に導かれるままの初のタイ遠征で向かった先はフェアテックスジム。ここはすでにタイで修行を積んだOGUNIジムの先輩が勧める名門で、奇しくも過去の入門日と連鎖する1991年8月2日にジム入り。ここで専属トレーナーとして家族との住居を構える、1960年代の、タイでは5本の指に入る伝説のチャンピオン、アピデ・シッヒラン一家と一つ屋根の下で暮らし。

ジムでは最初は誰もが馴染めぬタイ人との距離も、ソムチャーイ高津は持ち前の明るさと人懐っこさで難なく親しんでいった。アピデ氏夫妻との生活は、タイのお父さんお母さんと呼ぶまでになり、ここでトレーナーを務めるパイブーン・フェアテックス(元・ルンピニースタジアムランカー)とは先生と崇め、切っても切れない縁も連鎖した。

全日本ライト級王座挑戦、内田康弘に判定負け。1996.3.24

タイで初めての試合は1993年5月4日、パイブーン先生の故郷、チャイヤプーム県で、積極的な展開も善戦の判定負け。タイでの戦績が最初は10連敗だったが、勇敢な戦いが続いたことからパイブーン先生から、タイ語のリングネーム付けた方がいいという話が持ち上がり、タイで流行っていた曲の「タオ・ソムチャーイ・ケムカッ!(勇敢な男)」というフレーズから“ソムチャーイ”のリングネームが付けられた。

そこからもタイ遠征する度、試合出場を続けた1997年初春、次にパイブーン先生に掛けられた言葉が、「タカツもそろそろ出家するべきじゃないか?」と言われたことで、タイでは一人前の大人となる通過儀礼ではあるが、アピデさんの息子さんやフェアテックスジムの仲間たちといった身近な人の出家を見て来た縁もあって、違和感無く出家を決意。あらゆる寺が候補に挙がるも、パイブーン先生の実家があるチャイヤプーム県にあるワット・コークコーンに決まり、9日間の出家となった。ムエタイボクサーはブランクを空けない短期出家となりがちだが、短期でもテーラワーダ仏教の教えはその後の人生にも影響を与えていったという。ムエタイ修行の厳しさが活きるが故の習得力だっただろう。

タイに渡る度、パイブーン先生の実家に訪れると、家族のように迎えられるソムチャーイ高津だった。チャイヤプームはもう第2の故郷である。

NJKFライト級王座挑戦、小林聡に何度もヒジ打ちヒットさせるもKO負け。1997.4.6(左)。タイでもうひとつの修行、出家を経験。 撮影:パイブーン・フェアテックス1997.5.18~5.26(右)

◆ムエタイが導いた日本での活躍!

日本に於いては、ムエタイ修行の成果はすぐには表れず、3回戦(新人クラス)時代が長かった。OGUNIジムはタイからチャイナロンというトレーナーを招聘すると、それまでわずかに残っていた黒崎イズムから、今迄に無いムエタイのムードが漂ってきた。

引退試合、OGUJIジムが招聘した二人の名トレーナー、パイブーンとチャイナロンがセコンドに付く。2004.11.23

ソムチャーイ高津はタイでの練習に近い環境が整うと、やがてジワジワと修行の成果が物を言い出してランキングは上昇。後にはパイブーン先生も招聘することに成功したが、全日本ライト級タイトルをはじめとした国内タイトルには、当時のトップクラスに阻まれ、計5度に至る挑戦は実らなかった。

1997年4月のNJKFライト級王座に挑戦した、小林聡(東京北星)戦では、ヒジ打ちを何度も叩き込み、ガチガチ打ち合う一番噛み合った試合となったが最後はローキックで倒された。後に小林聡から「高津との試合がベストバウトだった!」と言ってくれて、お世辞でも嬉しかったという。

2004年11月23日の引退試合を含め、日本で41戦17勝(9KO)17敗7分、タイでは25戦6勝(4KO)19敗だったが、技術的にはまだ伸びていた中、打たれ脆くなったことを意識し、現役を去ることとなった。

引退後はトレーナー人生となったが、タイ修行で得た厳しい指導で多くの後輩をチャンピオンに育て上げることに繋がった。2009年10月18日、大槻直輝がWBCムエタイ日本フライ級初代チャンピオンとなると、パイブーン先生は「よく育て上げたな、タカツは俺が認める一人前のムエタイトレーナーだ!」と恩師から名トレーナーの勲章を頂いたような感動もあったが、パイブーン先生は役目を終えたかのようにタイに帰ることになった。

◆引退してもムエタイとの繋がりはより深く!

ソムチャーイ高津はその後も後輩をムエタイ修行に導いたり、アピデさんやパイブーン先生と酒を酌み交わす為、タイには頻繁に訪れていた。しかしそんな師匠らとの別れの時がやってきた。

アピデさんは肺癌を患い入院。末期には奥様が気晴らしに散歩を勧めても、もう出歩くことを嫌がるほど気力は衰え、2015年4月に永眠された。73歳だった。

引退試合、高野義章戦、最後までヒザ蹴りを活かしたが判定負け。2004.11.23

引退セレモニー、息子を連れて御挨拶、後方にチャイナロンとパイブーンが控える。2004.11.23

ソムチャーイ高津は、「1993年頃、一度だけアピデ父さんの実家に連れて行ってもらいました。近くのワット・バーングンでアピデ父さんは、“いつもこのお寺で練習していたんだ。タカツも一緒に練習しよう”と言われてシャドーボクシングしたことがあります。また、最後の入院した病室では二人きりになった時、“タカツ、一杯やろう”とベッドの下から酒瓶を出し、どうやって厳禁の酒を持ち込んだのか分からないのが笑えてしまった。でも最後の杯を交わしました!」と懐かしく振り返る。

パイブーン先生は帰国後、後に肝硬変で体調を崩し、2017年9月、肝臓癌で永眠。56歳だった。亡くなる前、「俺の葬儀には来るな!」と言っていたという。

言い付けを守り、衰弱した頃にはタイには見舞いも葬儀も行かなかったが、電話で何度も懐かしい話をしたという。辛い別れ方だが、この世に生まれたものは全ては劣化し消えていく諸行無常を知り得たソムチャーイ高津。生涯、タイでの二人の師匠に誇れる人生を送るだけであろう。

今もムエタイ繋がりの仲間は多く、日本で梅野源治や石井宏樹に勝利したゲーオ・フェアテックスの来日の際も付き添った。ソムチャーイ高津が初めてタイに行った時、練習していたゲーオはまだ小学生だった。そんな名チャンピオンの幼い頃を知る仲でのお付き合いが多いのもお金では買えない財産。

憧れの藤原敏男さんとは、知人の飲み会に誘われて一緒に陽気に呑んだことで、その際に「君は面白い奴だな!」と言われ、2016年7月、ディファ有明での、タイTOYOTA CUPのムエタイイベントで、かつてラジャダムナンスタジアムで藤原敏男さんと名勝負を展開したシリモンコン・ルークシリパット氏が来日した際は通訳として呼ばれ、その後も呑む機会に誘われている模様。

とにかく、このソムチャーイ高津は羨ましい奴である。ムエタイの英雄、日本の英雄らと常に声を掛けられ、ここまで人望が厚いのは生まれ持った才能とムエタイとキックと仏門での努力の賜物。今もソムチャーイ高津に会いたがっているムエタイボクサーは多い。

是非、私(筆者)も肖(あやか)りたいものである。

日本での試合、ゲーオ・フェアテックスのセコンドを務めたソムチャーイ高津(左)。アピデ夫妻とのスリーショット。2015年春(右)

▼堀田春樹(ほった・はるき)[撮影・文]

フリーランスとしてキックボクシングの取材歴32年。「ナイタイ」「夕刊フジ」「実話ナックルズ」などにキックのレポートを展開。ムエタイにのめり込むあまりタイ仏門に出家。座右の銘は「頑張るけど無理しない」

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◆目指すは名門黒崎道場

佐藤正男(さとう・まさお/山形県酒田市出身/1963年3月12日生)は幼少期から格闘技に興味を示し、黒崎道場に入門後も人知れず探究心を持って格闘人生を歩んだ。

小柄だが強かったマーノーイ・サクナリンにKO勝利(1991.10.19)

小学1年生で中国拳法を習い、高校1年生で極真空手を始めた。20歳で大道塾総本部(宮城県仙台市)入門。しかし大道塾だけの修行ならば、同期らとの差は簡単には付かないだろうと考えた佐藤正男は大道塾と平行して、キックボクシング仙台青葉ジムにも入門し、通い始めた。

初めてのキックボクシングの練習は、アマチュアとは違うマンツーマンの指導と僅かなフォームの矯正も徹底していて、プロへの道を強く意識することとなった。仙台青葉ジムはヤンガー舟木など名選手が揃う大手ではあるが、東京で勝負したかった佐藤正男は、「やはり、ラジャダムナン王座に上りつめた藤原敏男が所属した黒崎道場しかない!」と考え、21歳となったばかりの1984年(昭和59年)3月末に上京。4月1日、新格闘術・黒崎道場入門。

そこはやはりプロの世界。「しばらく通い始めて、ミット打ちミット蹴りサンドバッグ打ちも、初級同然だった!」という。

そしてまた思い立ったらすぐ行動に出る佐藤正男。「やはりキックボクシングとしては、パンチに関しては幾ら頑張ってみても、黒崎先生には大変申し訳ないが、全盛のトーマス・ハーンズ、ロベルト・デュランの様なパンチの技術、連打やその強さを百分の一たりとも習得することなど無理だろう!」と自問自答。

不破龍雄にはヒジで切られて流血の惜敗(1992.4.25)

◆デビュー戦に向けた練習

そして、黒崎代表には内緒で帝拳ジムへも入門。そこでは当時トレーナーであった元・世界ジュニアライト級チャンピオン、小林弘氏の指導を受ける機会を得た。周りを見ればKOキング浜田剛史は居る、穂積秀一は居る、それに他のジムから続々と出稽古に来る日本・世界ランカーらとのスパーリング等を連日目の当たりにして、
「パンチの技術は拳法、空手、キックと比べれば雲泥の差。プロボクシングとはこんなにも凄いのか!」という率直な感想。

そして、黒崎道場入門から1年近く経った頃には格段に進歩。黒崎代表も、さすがに何百人と指導していた経験で、“進歩の過程が他の奴とはちょっと違うな”と気付いた様子で、「お前、格段と上手くなったな、何でだ?」と聞かれて、「先生の指導を基本にボクシングやキックのビデオ等を繰り返し見て、自分なりに研究しました!」と言うと、「ああそうか!」と納得させてしまった。

打撃だけで飽き足らない佐藤正男は、その頃まで喧嘩では一度も負けたことがなかったと言うが、体の大きな奴に組まれたりすると押される場合があって、組技の重要性を認識。そこで文京区春日の講道館に入門。

「乱取りでは、初段クラス程度ならば力でなんとかねじ伏せた事もあったものの、三段クラスになると全く歯が立たなかった。柔道ってこんなにも強いものだったのか!」という新たな経験値となった。 それまでにボクシングやキックをわずかでも習得した佐藤正男には、空手は空手、柔道は柔道、ボクシングはボクシング、それぞれの競技の対比は強い弱いではない、全く別個性を持った競技なのだと体験をもって感じていた。

その中で、黒崎道場で行なう筋トレなどをはるかに超える圧倒的なパワーの必要性をも痛感していた佐藤は、近くのウェイトトレーニングセンターにも通い始め、このパワーアップトレーニングは何年も継続し、講道館での柔道は黒帯を取得。

あらゆる技術をマスターした佐藤正男のキックボクシングプロデビュー戦は1986年(昭和61年)6月28日、堂々たる試合運びで2ラウンドKO勝利を飾った。

選手入場シーン、不破との戦いに挑む前のリング下(1993.4.17)

◆渡辺ジムへ移籍

黒崎道場は目黒ジムに対抗する業界トップクラスの名門だったが、藤原敏男が引退した1983年(昭和58年)春には実質閉鎖されたジムだった。しかし名門だけに入門希望者は絶えなかった。そこで黒崎氏は若者を受け入れる鍛錬の場は残されたが、佐藤正男の入門当時は、黒崎代表から「望むなら幾らでも試合に出してやる。」と言われたが、現実的には自主興行は無く、入門後4年間でたったの3試合のみ。

そんな時期、夜は黒崎道場に通い、夕方迄の時間や日曜・祝日は可能な限り、帝拳ジム、講道館、ウェイトトレーニング、あとは重労働の仕事(体力を使う職種で入社10人中10人辞める程の会社)という目まぐるしい生活。

更にはムエタイにも興味を示し、休暇が取れる程度の短期間ながらタイに渡り、当時、ディーゼルノイやチャムアペットなどスーパースター級が揃っていたハーパランジムで修行。日本のジムとは別世界の、行なうもの全てが斬新な練習で本場の強さを実感した。

20代前半、黒崎道場入門からの4~5年は試合は少なかったが、自身最も過酷なスケジュールで駆け抜けた時期だった。

ここでプロ生活の分岐点。経緯は省くが、実戦を積みたかった佐藤正男は黒崎健時代表に相談し、日本キックボクシング連盟の渡辺ジムに移籍することが決まり、黒崎健時氏と渡辺信久会長が対面することになった。

黒崎健時氏は「佐藤正男は藤原敏男と同じく21歳で私の所へ来た。何とか形を作ってやりたかったが、ジムそのものを閉鎖した後だったから、5年居たが何も残してやれなかった。その正男が君の所へ行きたいと申し出て来た。正式に移籍させたいので正男のこと、どうか宜しくお願いします!」と渡辺会長に頭を下げられたという。

あの“鬼の黒崎”が自身より若輩者に頭を下げるとは。渡辺会長も恐縮することしきり。目の当たりにした佐藤正男は黒崎代表に対し、黒崎道場出身として恥じないキックボクシング人生を送る誓いを告げるのだった。

そして渡辺信久会長にしても責任重大。

「佐藤、覚悟を決めて送り出されてここに来たなら、そのつもりでしっかりやれよ、こっちもそのつもりで教えてやる。多少勝ち続けたとしてもこの世界、戦積・キャリアがないとナメられるぞ!」と聞かされた。

この渡辺ジム移籍は1988年(昭和63年)5月20日。そんな試合に飢えている佐藤正男は、「交流する他団体興行を含め、可能ならばすべての興行に出場させて欲しい!」と嘆願すると、「それは面白い!」と渡辺会長はニンマリ。

◆エース格に君臨

移籍後、豪快に2連勝(2KO)した。移籍3戦目は同年12月16日、初の5回戦で、ベテランの日本キック連盟ライト級1位、元木浩二(伊原)と対戦。渡辺会長も伊原会長も、「この佐藤、キャリアこそ少ないが、あの黒崎道場に4年居て、渡辺ジム移籍後の2戦も圧倒的な勝利だった、元木浩二との対戦は面白いかも!」と思ったのかもしれない。

周囲は「佐藤は元木とやるのはまだ早い!」と言われていたが、1ラウンド後半、佐藤正男が速攻のパンチで3度のダウンを奪ってノックアウト勝利。移籍後、早くもトップクラスに立つ存在となった。

[写真左]一流戦士は体幹が強い、ルーラウィー・サラウィティーにローキックで攻められる(1992.10.10)/[写真右]ルーラウィーに蹴って出ても力及ばず(1992.10.10)

ツーショットでアクシデント(1992.10.10)

その後、ムエタイ戦士との対戦も増えていった。元・ムエタイ3階級制覇のケンカート・シッサーイトーン(タイ)と対戦するも判定負け。

結局移籍後は3年間で20戦程やり、諸々の経緯を経て1991年(平成3年)4月27日、日本キック連盟ライト級チャンピオン、酒井敏文(平戸)に挑戦。判定勝利し初のタイトル獲得。

日本キックボクシング連盟でエース格となった王座獲得後第1戦目では、シームアン・シンスワングン(元・ムエタイランカー)と対戦するが、ハイキック食らったノックダウンで判定負け。

1992年10月、元・タイ国BBTV(タイ7ch)フェザー級チャンピオン、 ルーラウィー・サラウィティーと対戦し、これも重い蹴りとバランス良い組み技に苦しめられ判定負け。本場ムエタイの強さと奥深さを改めて痛感させられる戦いが続いたが、「皆、体幹のバランス良く、当たり前のように強かった。俺が人生を懸けて挑んだムエタイはこんなにも凄いものか、目指した最高峰がとてつもない険しい山だったことに嬉しくさえなった!」と語る。

ラストファイトは1993年4月17日、前年にヒジ打ちで切られて敗れた不破龍雄(北心)にパワーで押し切る雪辱の判定勝利。1994年4月9日、豪勢な引退式を行なった。

不破龍雄と対峙する佐藤正男(1993.4.17)

[写真左]雪辱果たした佐藤正男、パワーで押し切った(1993.4.17)/[写真右]結果的に最後の勝利でのファイティングポーズとなった(1993.4.17)

8年の現役生活で約30戦、日本キックボクシング連盟は他団体から比べれば地味な興行が続く中ではあったが、佐藤正男はここまで人知れずも中身の濃い選手生活だった。

そして数々の格闘技を体験した経験値からトレーナーとしての実力も発揮。渡辺ジムから相原将人、小野瀬邦英ら後輩達のチャンピオン6名の誕生に貢献した。

2011年5月7日には、引退前から日本キックボクシング連盟を後援する会社との縁で知り合った女性と長いお付き合いの末、一般的には難しい靖国神社本殿で結婚式を挙げた。

そんな格闘技人生の中ではジム移籍の経緯、帝拳ジム、大道塾、講道館での存在感、靖国神社でのエピソードも話題が尽きない佐藤正男。また触れることがあれば第2弾を書き綴りたいものである。

引退式が行われた日は後輩の相原将人がフライ級チャンピオンとなった(1994.4.9)

▼堀田春樹(ほった・はるき)[撮影・文]

フリーランスとしてキックボクシングの取材歴32年。「ナイタイ」「夕刊フジ」「実話ナックルズ」などにキックのレポートを展開。ムエタイにのめり込むあまりタイ仏門に出家。座右の銘は「頑張るけど無理しない」

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