◆格闘技人生の始まり!

元NJKFライト級1位.ソムチャーイ高津(ソムチャーイ・タカツ/1969年6月16日、神奈川県藤沢市出身)は、ムエタイの師匠、パイブーン・フェアテックス氏が名付け親となるリングネーム。タイトル獲得歴は無いが、不思議な人望と人脈を持つ、オモロイキックボクサー人生である。

タイ初試合、ポンテープ戦は判定負け。撮影:パイブーン・フェアテックス 1993.5.4

ソムチャーイ高津は、幼い頃から格闘技に興味を持ち、漫画や映画で公開された「四角いジャングル」を観てより一層格闘技に魅せられていった。

高校3年の1987年8月2日、シューティング(修斗)に入門。アマチュアで3戦したが、プロはまだ無い時代だった。

元々、日本人初のラジャダムナンスタジアムチャンピオン、藤原敏男に憧れを抱いていたソムチャーイ高津は、後に打撃競技をやりたくなったのを機に、1988年8月2日、OGUNI(小国)ジムに入門、藤原敏男氏が厳しい鍛錬に耐えた黒崎道場はすでに無く、その黒崎イズムを継承するのは藤原敏男氏の後輩、斎藤京二氏がトップ選手として活躍する小国ジムであると確信したからだった。

◆タイへ渡って多くの経験!

プロデビューは1989年4月8日、中島貴志(東京北星)にKO勝利。翌年10月の再戦では、激戦の末のドローとなったが、中島貴志のトレーナーだったユタポン・ウォンウェンヤイ氏からタイ式の攻防としても凄く褒められたことで、ムエタイとは切っても切れない縁となったと感じたという。

タイ2戦目、サクアーテット戦も判定負け。撮影:パイブーン・フェアテックス 1993.6.1

そして運命に導かれるままの初のタイ遠征で向かった先はフェアテックスジム。ここはすでにタイで修行を積んだOGUNIジムの先輩が勧める名門で、奇しくも過去の入門日と連鎖する1991年8月2日にジム入り。ここで専属トレーナーとして家族との住居を構える、1960年代の、タイでは5本の指に入る伝説のチャンピオン、アピデ・シッヒラン一家と一つ屋根の下で暮らし。

ジムでは最初は誰もが馴染めぬタイ人との距離も、ソムチャーイ高津は持ち前の明るさと人懐っこさで難なく親しんでいった。アピデ氏夫妻との生活は、タイのお父さんお母さんと呼ぶまでになり、ここでトレーナーを務めるパイブーン・フェアテックス(元・ルンピニースタジアムランカー)とは先生と崇め、切っても切れない縁も連鎖した。

全日本ライト級王座挑戦、内田康弘に判定負け。1996.3.24

タイで初めての試合は1993年5月4日、パイブーン先生の故郷、チャイヤプーム県で、積極的な展開も善戦の判定負け。タイでの戦績が最初は10連敗だったが、勇敢な戦いが続いたことからパイブーン先生から、タイ語のリングネーム付けた方がいいという話が持ち上がり、タイで流行っていた曲の「タオ・ソムチャーイ・ケムカッ!(勇敢な男)」というフレーズから“ソムチャーイ”のリングネームが付けられた。

そこからもタイ遠征する度、試合出場を続けた1997年初春、次にパイブーン先生に掛けられた言葉が、「タカツもそろそろ出家するべきじゃないか?」と言われたことで、タイでは一人前の大人となる通過儀礼ではあるが、アピデさんの息子さんやフェアテックスジムの仲間たちといった身近な人の出家を見て来た縁もあって、違和感無く出家を決意。あらゆる寺が候補に挙がるも、パイブーン先生の実家があるチャイヤプーム県にあるワット・コークコーンに決まり、9日間の出家となった。ムエタイボクサーはブランクを空けない短期出家となりがちだが、短期でもテーラワーダ仏教の教えはその後の人生にも影響を与えていったという。ムエタイ修行の厳しさが活きるが故の習得力だっただろう。

タイに渡る度、パイブーン先生の実家に訪れると、家族のように迎えられるソムチャーイ高津だった。チャイヤプームはもう第2の故郷である。

NJKFライト級王座挑戦、小林聡に何度もヒジ打ちヒットさせるもKO負け。1997.4.6(左)。タイでもうひとつの修行、出家を経験。 撮影:パイブーン・フェアテックス1997.5.18~5.26(右)

◆ムエタイが導いた日本での活躍!

日本に於いては、ムエタイ修行の成果はすぐには表れず、3回戦(新人クラス)時代が長かった。OGUNIジムはタイからチャイナロンというトレーナーを招聘すると、それまでわずかに残っていた黒崎イズムから、今迄に無いムエタイのムードが漂ってきた。

引退試合、OGUJIジムが招聘した二人の名トレーナー、パイブーンとチャイナロンがセコンドに付く。2004.11.23

ソムチャーイ高津はタイでの練習に近い環境が整うと、やがてジワジワと修行の成果が物を言い出してランキングは上昇。後にはパイブーン先生も招聘することに成功したが、全日本ライト級タイトルをはじめとした国内タイトルには、当時のトップクラスに阻まれ、計5度に至る挑戦は実らなかった。

1997年4月のNJKFライト級王座に挑戦した、小林聡(東京北星)戦では、ヒジ打ちを何度も叩き込み、ガチガチ打ち合う一番噛み合った試合となったが最後はローキックで倒された。後に小林聡から「高津との試合がベストバウトだった!」と言ってくれて、お世辞でも嬉しかったという。

2004年11月23日の引退試合を含め、日本で41戦17勝(9KO)17敗7分、タイでは25戦6勝(4KO)19敗だったが、技術的にはまだ伸びていた中、打たれ脆くなったことを意識し、現役を去ることとなった。

引退後はトレーナー人生となったが、タイ修行で得た厳しい指導で多くの後輩をチャンピオンに育て上げることに繋がった。2009年10月18日、大槻直輝がWBCムエタイ日本フライ級初代チャンピオンとなると、パイブーン先生は「よく育て上げたな、タカツは俺が認める一人前のムエタイトレーナーだ!」と恩師から名トレーナーの勲章を頂いたような感動もあったが、パイブーン先生は役目を終えたかのようにタイに帰ることになった。

◆引退してもムエタイとの繋がりはより深く!

ソムチャーイ高津はその後も後輩をムエタイ修行に導いたり、アピデさんやパイブーン先生と酒を酌み交わす為、タイには頻繁に訪れていた。しかしそんな師匠らとの別れの時がやってきた。

アピデさんは肺癌を患い入院。末期には奥様が気晴らしに散歩を勧めても、もう出歩くことを嫌がるほど気力は衰え、2015年4月に永眠された。73歳だった。

引退試合、高野義章戦、最後までヒザ蹴りを活かしたが判定負け。2004.11.23

引退セレモニー、息子を連れて御挨拶、後方にチャイナロンとパイブーンが控える。2004.11.23

ソムチャーイ高津は、「1993年頃、一度だけアピデ父さんの実家に連れて行ってもらいました。近くのワット・バーングンでアピデ父さんは、“いつもこのお寺で練習していたんだ。タカツも一緒に練習しよう”と言われてシャドーボクシングしたことがあります。また、最後の入院した病室では二人きりになった時、“タカツ、一杯やろう”とベッドの下から酒瓶を出し、どうやって厳禁の酒を持ち込んだのか分からないのが笑えてしまった。でも最後の杯を交わしました!」と懐かしく振り返る。

パイブーン先生は帰国後、後に肝硬変で体調を崩し、2017年9月、肝臓癌で永眠。56歳だった。亡くなる前、「俺の葬儀には来るな!」と言っていたという。

言い付けを守り、衰弱した頃にはタイには見舞いも葬儀も行かなかったが、電話で何度も懐かしい話をしたという。辛い別れ方だが、この世に生まれたものは全ては劣化し消えていく諸行無常を知り得たソムチャーイ高津。生涯、タイでの二人の師匠に誇れる人生を送るだけであろう。

今もムエタイ繋がりの仲間は多く、日本で梅野源治や石井宏樹に勝利したゲーオ・フェアテックスの来日の際も付き添った。ソムチャーイ高津が初めてタイに行った時、練習していたゲーオはまだ小学生だった。そんな名チャンピオンの幼い頃を知る仲でのお付き合いが多いのもお金では買えない財産。

憧れの藤原敏男さんとは、知人の飲み会に誘われて一緒に陽気に呑んだことで、その際に「君は面白い奴だな!」と言われ、2016年7月、ディファ有明での、タイTOYOTA CUPのムエタイイベントで、かつてラジャダムナンスタジアムで藤原敏男さんと名勝負を展開したシリモンコン・ルークシリパット氏が来日した際は通訳として呼ばれ、その後も呑む機会に誘われている模様。

とにかく、このソムチャーイ高津は羨ましい奴である。ムエタイの英雄、日本の英雄らと常に声を掛けられ、ここまで人望が厚いのは生まれ持った才能とムエタイとキックと仏門での努力の賜物。今もソムチャーイ高津に会いたがっているムエタイボクサーは多い。

是非、私(筆者)も肖(あやか)りたいものである。

日本での試合、ゲーオ・フェアテックスのセコンドを務めたソムチャーイ高津(左)。アピデ夫妻とのスリーショット。2015年春(右)

▼堀田春樹(ほった・はるき)[撮影・文]

フリーランスとしてキックボクシングの取材歴32年。「ナイタイ」「夕刊フジ」「実話ナックルズ」などにキックのレポートを展開。ムエタイにのめり込むあまりタイ仏門に出家。座右の銘は「頑張るけど無理しない」

最新! 月刊『紙の爆弾』2020年10月号【特集】さらば、安倍晋三

一水会代表 木村三浩 編著『スゴイぞ!プーチン 一日も早く日露平和条約の締結を!』

上條英男『BOSS 一匹狼マネージャー50年の闘い』。「伝説のマネージャー」だけが知る日本の「音楽」と「芸能界」!