合計17人の犠牲者を出したフランスでの「シャルリー・エブド」紙襲撃事件に対して、現地時間の11日大規模なデモや集会が行われた。パリの集会では160万人、フランス全土では370万人の参加者があったという。第二次大戦後では最大級の参加者数だったそうだ。

襲撃されたのが風刺週刊誌であったので、人権意識がひときわ高いフランスでは「言論の自由を守る」立場から集会やデモに参加した市民が多数いたに違いない。またフランスだけでなく、ドイツ、英国、イスラエル、そしてPLO議長までが「反テロ」デモに加わっていた。世界中で追悼の意が表明された。

◆「反テロ」デモは「言論の自由」を守ろうとする「国民の決意の表れ」か?

新聞社の襲撃事件と言えば、古くはなるけれども「赤報隊」による「朝日新聞阪神支局殺人事件」(1987年5月3日)を忘れるわけにはいかない。小尻知博記者(当時29)が散弾銃で射殺され、もう一名の記者も瀕死の重傷を負う報道機関を狙った襲撃事件だった。犯人は検挙されず、事件自体はもう忘却されようとしている。

また、大きなニュースにはならないけれども何者かによる襲撃で命を落とすフリーのジャーナリストは毎年100名を超える。

そこで今回のフランスでの襲撃事件後のフランスを中心とした世界の動きをどう見るか、これはジャーナリスムの世界にいる人々にとって、日常どれほど「言論の重要性」を考察しているかどうかが問われる命題になろう。

テレビや大手メディアは「宗教や立場を超えて、言論の自由を守ろうとするフランス国民の決意の表れ」などと、表面しか見ることが出来まい。

調子に乗ったフランスのオランド大統領は「テロとの戦争宣言」などと舞い上がっている。
フランス国会では、開会直後一部の議員が「ラ・マルセイエーズ」(フランス国歌)を歌い出し、議場全体が国歌斉唱でつつまれた。これは第一次大戦勝利以来の出来事だそうだ。

不遜の誹りを覚悟で本音を述べれば、私はこの世界を上げた「反テロ」キャンペーンが気持ち悪い。「テロとの戦争」を21世紀の幕開けとともに傲慢にも言い放ったのは米国のブッシュ元大統領だった。アフガニスタンを攻撃し、イラク、フセイン政権を殲滅した。イラク攻撃の理由は「大量破壊兵器の脅威」だったがイラク戦争後「大量破壊兵器」は無かったことが判明しブッシュは「I made a mistake(私は間違っていた)」と述べた。戦争を仕掛けておいて、何十万人も殺しておいて「私は間違っていた」はないだろう。世界中で少なくない人々がブッシュの罪を断罪しようとしたが奴は今でも健在だ。

◆「テロとの戦争」で舞い上がるオランド大統領は被害者ではない

フランスのオランド大統領から「テロとの戦争」という言葉を聞くと彼が被害者には思えなくなる。この事件のそもそもの原因は「シャルリー・エブド」紙がイスラム教を揶揄するような風刺漫画を掲載したことだった。そして、同紙がイスラム教を揶揄する風刺漫画を掲載したのは、今回が初めてではない。2006年から断続的に同紙はイスラム教を挑発する内容の風刺漫画を掲載しており、その度に、フランス在住のイスラム教徒からデモなどの抗議行動を受けていた。フランス政府も「あまりイスラム教徒を刺激し過ぎないように」と2012年には自粛要請を行っている。

イスラム教風刺にかけて「シャルリー・エブド」は「確信犯」だったわけだ。その証拠に1月14日発売の事件後初の誌面にもまたもや「ムハマンド」の風刺が掲載されている。

同紙は「あらゆる風刺画は許される」とコメントしている。うーん。そうだろうか。「表現の自由は」言わずもがな、貴重な概念だ。世界中で普遍的に認識され浸透すべき基本的人権の一部とさえいえるだろう。だが「表現の自由」は「全く例外なくすべての表現の自由」を意味するのだろうか。確かに言論活動で、「弱者が強者を揶揄(批判)する」ならばかなり普遍的に「自由は」認められるべきだろう。だが逆ならどうだろう。単なる差別にならないだろうか。その実例を近年不幸なことに私たちは国内で「在特会」により見せてもらっているではないか。韓国国旗をゴキブリに見立ててデザインしてみたり、人の首を絞めて殺そうとしている絵を描いて「いい朝鮮人も悪い朝鮮人も殺せ」とデザインされたプラカードは「風刺」の名に値するだろうか。「自由な表現活動」というほど高尚なものだろうか。

◆国際社会から「承認」されている「シャルリー・エブド」は弱者か?

“Je suis Charlie”(私はシャルリー)という言葉が襲撃被害者を悼む言葉として、世界中で語られている。

17名の犠牲者、しかも言論を理由に殺された人々を気の毒に思う気持ちは勿論私にもある。だが”Je suis Charlie”と私は口にする気にななれない。

シャルリー・エブドが「あらゆる風刺画は許される」と言うのは各国首脳をはじめとして、国際世論を味方につけているからではないだろうか。イスラエルからパレスチナ、つまり現在の世界で表面上対立していようとも、本質的には今日的世界を構成している「権力者」達から「承認」を受けているからではないだろうか。つまり「シャルリー・エブド」は国際社会から「承認」されている。決して弱者ではない。

私の杞憂であればよい。でも、そうでなければ同様の「テロ」事件は続発するだろう。

▼田所敏夫(たどころ としお)兵庫県生まれ、会社員、大学職員を経て現在は著述業。大手メディアの追求しないテーマを追い、アジアをはじめとする国際問題、教育問題などに関心を持つ

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