熊本県民に愛されている歌に『火の国旅情』があります。1年に1度行われる関西の熊本県人会総会では最後にこの歌をうたうことが定番になっているほどです。県内の地域に因んで30数番までありますが、この中で、今回豪雨被害を受けた球磨地方と熊本市の部分を引用しておきましょう。──

「球磨のしぶきに泣きながら
古城に独り君憶う
落ち行く先は 九州の
相良さびしや霧が湧く
霧が湧くふるさとよ」
*ここの「古城」は人吉城、「相良(さがら)」は球磨郡相良村で平家の落人が住み着いたといわれる。

「風よ吹け吹け雲よ飛べ
越すに越されぬ田原坂
仰げば光る 天守閣
涙をためて ふりかえる
ふりかえる ふるさとよ」
*ここの「天守閣」は熊本城のそれ。


◎[参考動画]ばってん荒川 火の国旅情

わが故郷・熊本が未曾有の豪雨被害に遭いました。4年前の熊本地震は、熊本市を中心とする県内北部での被災でした。今回は人吉市を中心とする球磨川沿いの県内南部の被災でした。亡くなられた皆様に心より追悼申し上げ、被災された皆様方に心よりお見舞い申し上げます。

震災直後の熊本城

4年前の地震で、私の青春の象徴だった熊本城の天守閣や「武者返し」といわれる石垣が損壊いたしました。爾来こつこつと修復中ですが、4年経った今でも完遂していません。自慢するわけではありませんが、例の特別給付金10万円が振り込まれましたので、即全額熊本城修復のために寄付いたしました。もたもたしていると、こういうお金は、何に使ったかわからないうちになくなるものですから、あまり深く考えずに送金しました。

良いことを行えば、なぜか良いことがあるもので、GW前に目の疾患で手術入院した際の保険金35万円が出ました。さらに最近は、このかんの売上減少を見かねてか、在庫の書籍・雑誌を各1冊づつ(1600冊余り)を購入したいという申し出があり、失礼ながらウソかと思っていたところ、ぽんとに140万円が振り込まれ驚きました。こういうこともあるものですね。

在庫リストにない本もありましたので、実際に出版した本は、もっとあり多分2000点近くになると思いますが、今回、あらためてチェックすると、よくもこれだけ硬軟織り交ぜて出版したものだとわれながら感心した次第です。

一方、故郷・熊本では、新型コロナの影響で知人や同級生が経営していた飲食店も2つ閉店しました。残念ですが、これからも、帰郷した折には旧交を温めたいと思います。年初からのコロナ蔓延と併せ故郷・熊本の頑張りを見守りたいと思います。「がまだしなっせ」(がんばりなさいという意味の熊本弁)

同上

手前味噌で恐縮ですが、年初からのコロナ蔓延で、当社も例外ではなく売上減少に見舞われています。近くのショッピングモールの2つの書店は4月、5月とまるまる休業し売上ゼロに近いので、出版社に響かないわけはありません。書店さんや飲食業などのように直接販売ではないので90パーセント減というようなことはありませんが、書店さんの売上減少が反映し、当社もかなり売上減少していることは否定いたしません。どこの出版社もそうでしょう。さらには、本年前半期で出版社・書店で20社余りが倒産したと報告されています。『商業界』とか「おうふう」といった老舗出版社もあります。

「事業継続給付金」は月に50%以上の売上減が対象ですが、さすがに月に50%減といえば1千万円以上の減となりますので、ここまでは落ちていません。ここまで落ちて200万円もらっても夜逃げ資金ぐらいにしかなりません(苦笑)。これに対し、安易に借入するのではなく、まずは「身を切る改革」、私の役員報酬を半額にしたり、広告出広を削減したり、さらに生命保険を解約し、この返戻金を得たりし、月々の保険負担を圧縮したり……このようにして月に150万円ほど圧縮できました。まだまだ圧縮できる余地はあると思います。考えられるどのような手を使ってでも何としてもこの国難ともいうべき災厄を乗り越えようと努めています。諦めずに生き延びてさえいれば、きっと良いこともあります。

基本は、あくまでも社員ファースト、第一は社員の雇用を守ることです。それも金額を減らさず遅れずに。今のところは、それはクリアし、また印刷所、ライターさんら取引先への支払いも遅れることなく迷惑を懸けないでいけています。本年後半は不透明ですが、社員と一致団結して、この困難を乗り越えていきたく考えております。売上が減少したとはいっても、豪雨被害やコロナ感染で亡くなられたり甚大な被害を蒙られた方々に比べれば圧倒的にましです。

私や鹿砦社はこれまで、壊滅的打撃を受けた15年前の出版弾圧(2005年)、その前の阪神大震災(1995年)など、幾度となく困難に見舞われてきましたが、その都度、皆様方のご支援を賜り運良く乗り越えてまいりました。会社を再興したここ10年は、ヒットが続いた際には、高校の同級生がライフワークとして始めた島唄野外ライブ「琉球の風」はじめ志あるイベントや運動に利益を還元してきました。寺脇研さんの映画や3・11東北大震災(日本赤十字社)などにも100万円単位で寄付しました。中には還元する相手を見誤ったこともありましたが(苦笑)。今はそうもいかなくなりましたが、何卒ご容赦ください。

そのようにお金に執着しない生き方をしてきた私もそろそろリタイアーを考えないといけない歳になりましたが、こんなことをやってきましたから、建売の23坪の自宅1軒が残ったぐらいで資産も預金も残せませんでした。無計画な中小企業経営者には退職金もありません。3千万円も4千万円も退職金をもらえる公務員が羨ましくないわけではありませんが、小役人的生き方を拒否してこの仕事に入ったわけなので、まあ仕方ありませんね。今のところはまだましなほうでしょう。なにしろ15年前は地獄に落とされ、「もう終わったな」と思ったぐらいですから──。

とりとめのない話になりましたが、自分を鼓舞するために書いています。たまにはご容赦ください。ともかく今が踏ん張りどころ、「がまだす」しかありません。

訪れた、ある避難所に貼られた寄せ書き

月刊『紙の爆弾』2020年8月号【特集第4弾】「新型コロナ危機」と安倍失政 河合夫妻逮捕も“他人のせい”安倍晋三が退陣する日

〈原発なき社会〉をもとめて『NO NUKES voice』Vol.24 総力特集 原発・コロナ禍 日本の転機

両親との関係が良くなかった鹿嶋学は、宇部市の私立高校を卒業後、「寮生活ができるから」という理由で選んだアルミの素材メーカーに就職した。そして萩市の工場に配属され、工場の前にある従業員寮で一人暮らしを始めると、親の目が無いのをいいことに好きなゲームに没頭し、エッチなビデオをほぼ毎日観ていたという。

3月4日、広島地裁で行われた被告人質問。鹿嶋はそのよう会社の寮生活について、自分なりに楽しんでいたように語ったが、会社の仕事では大変な思いをしていたことを明かした。

「定時の出勤時間は午前8時でしたが、実際には、午前6時に出社しなければなりませんでした。午前8時に機械を動かせるようにするために暖気運転をするなど、仕事の段取りをしないといけなかったからです。終業時刻も定時は午後5時ですが、実際は午後6時くらいになっていました。遅い時は午後8時や8時半、部署によっては午後10時まで仕事が終わらないこともありました」

このように会社では、日常的に大幅な時間外労働を強いられたうえ、第1、第3、第5土曜日は出勤せねばならず、休日も少なかった。そのため、鹿嶋と同じ寮にいた同期入社の同僚3人は全員、2年もしないうちに会社を辞めていた。そんな中、鹿嶋は我慢して会社で働き続けたが、通常業務以外にも辛いことがあったという。

「作業効率や生産性を上げるための改善案を2カ月に1回、300人くらいの前で発表しなければならなかったのです。案を考えるのがしんどかったですし、作業でクレームを受けていた時には、発表の場でみんなに謝罪しなければなりませんでした。しかも、会社の偉い人が『何か言うことは無いか』と言って、その場にいる者を指名し、謝罪する人に注意をさせるのです。自分は、みんなの前で発表をするのも嫌でしたが、謝罪をする人に注意をしなければならないのがもっと嫌でした」

会社としては、社員の意識を高めるためにやっていたことかもしれない。しかし、このような社員同士で糾弾させるセレモニーのようなものが2カ月に1回もある職場は、確かに社員にとってきついだろう。鹿嶋の場合、「元々、人に怒るのが苦手」だったそうだから、なおさらだ。こうして鹿嶋は就職後、ストレスを蓄積させていった。

鹿嶋が裁判中に勾留されていた広島拘置所

◆作業中にケガをしたら、心配してもらえずに怒られた

たとえ仕事や職場での人間関係が辛くとも、会社から大事にされているという思いを持てれば、まだ精神的に救われる。しかし、鹿嶋の場合、そういう思いも持てなかった。逆に、こんなショックな出来事があったという。

「右手の親指を機械に挟まれてケガをしたことがあるのですが、工場長に『何しよるんか!』と怒られたのです。俺のことを心配してくれんのか…と思いました。病院に行き、何針か縫ったのですが、会社も心配してくれませんでした」

このように会社は鹿嶋に対して冷たかったが、寮は工場の前にあったため、深夜に「作業員が足らんけえ」と呼び出され、仕事をさせられたりもしたという。こうした鹿嶋の話が事実なら、「ブラック企業」と呼ばれても仕方のない会社だったのだろう。

そんな会社で働きながら、鹿嶋は誰にも相談せず、愚痴も言わず、問題を一人で抱え込んでいた。相談する相手がいなかったからだ。先述したように同じ寮にいた同期入社の同僚は全員辞めていたし、宇部の両親は一緒に暮らしていた頃から必要最低限の会話しかしない関係だった。友人がまったくいないわけではなかったが、その友人にも相談しづらかったのだという。

「週末にはいつも原付で3時間かけて宇部に帰っていましたが、実家に寝泊まりすることはなく、ほとんど友だちの家に行っていました。その友だちに会社のことを相談しなかったのは、その友だちが年下だったので、相談するのは恥ずかしいという思いがあったのかもしれません」

◆3年半、1回もゴミを出さずに寮の部屋がゴミ屋敷に…

鹿嶋は就職後、こうしてストレスを蓄積させる中、次第に生活が荒んだ。会社に勤めた期間は3年半に及ぶが、この間、ゴミ出しを1回もせず、「ゴミ屋敷」のような状態にしてしまったという。

弁護人から「他にも寮生活のことで何か覚えている出来事はありますか」と質問され、鹿嶋はこう答えた。

「風呂に入ろうと思って火をつけたのに、つい寝てしまい、ガスが出なくなったことがありました。そのことも恥ずかしくて、しばらく誰にも言えませんでした。会社の人が気づいてくれ、ガスが出るようになるまで1カ月か、2カ月か風呂に入らずに過ごしました」

ガスが出なくなったのは、おそらく安全装置が作動したためで、それを解除すればガスはすぐにまた出る状態になっていたはずだ。鹿嶋は人に相談できず、その程度のことになかなか気づけなかったわけである。いずれにしても、風呂に入れない状態を「1カ月か、2カ月か」という期間も我慢するというのは、ある意味、我慢強い性格でもあるのだろう。

鹿嶋は会社についても、ストレスをため込みながら、辞めることは考えなかったという。その理由をこう明かした。

「会社を辞めなかったのは、父から辞めてはいけないと言われていたからです」

鹿嶋が父と血がつながっておらず、複雑な関係にあったことは前回触れた通りだ。鹿嶋は小さい頃から父のことを「怖い」と思い続けて育ち、中学時代には、本当は剣道をやりたかったのに、父に言われるまま陸上部に入部したりした。そして「ブラック企業」のような会社で、ストレスを溜め込みながら辞めずに働き続けたのも父の存在があったからだったのだ。

しかしある日、鹿嶋は会社を突然辞めてしまう。そしてその翌日、萩市の従業員寮から遠く離れた広島県廿日市市で高校2年生の北口聡美さんを殺害する事件を起こすのだ。そのきっかけは実に些細なことだった――。(次回につづく)

《関連過去記事カテゴリー》
 廿日市女子高生殺害事件裁判傍聴記 http://www.rokusaisha.com/wp/?cat=89

【廿日市女子高生殺害事件】
2004年10月5日、広島県廿日市市で両親らと暮らしいていた県立廿日市高校の2年生・北口聡美さん(当時17)が自宅で刺殺され、祖母のミチヨさん(同72)も刺されて重傷を負った事件。事件は長く未解決だったが、2018年4月、同僚に対する傷害事件の容疑で山口県警の捜査対象となっていた山口県宇部市の土木会社社員・鹿嶋学(当時35)のDNA型と指紋が現場で採取されていたものと一致すると判明。同13日、鹿嶋は殺人容疑で逮捕され、今年3月18日、広島地裁の裁判員裁判で無期懲役判決を受けた。

▼片岡健(かたおか けん)
全国各地で新旧様々な事件を取材している。原作を手がけた『マンガ「獄中面会物語」』【分冊版】第9話・西口宗宏編(画・塚原洋一/笠倉出版社)が配信中。

月刊『紙の爆弾』2020年8月号【特集第4弾】「新型コロナ危機」と安倍失政 河合夫妻逮捕も“他人のせい”安倍晋三が退陣する日

「絶望の牢獄から無実を叫ぶ ―冤罪死刑囚八人の書画集―」(片岡健編/鹿砦社)

◆飛鳥時代の始まり

飛鳥信也(あすか・のぶや/目黒/1958年8月11日生)の17年に渡るプロ現役生活は“青春の完全燃焼”だった。更に引退後の人生に於いては学生キックボクシングやキック版オヤジファイトに関わり、人生の完全燃焼を目指している。

本名は住野幾哉(すみのいくや)。リングネームは当時の目黒ジム、野口里野会長が名付けた。

1978年(昭和53年)8月12日、飛鳥信也は20歳でデビュー。目黒ジムに入門したのは、当時住んでいた八王子にあったキックボクシングジムは閉鎖された為、目黒ジムと目白ジムが視野に入った。そこで比較的近かったのが目黒ジムだった。

[左]川谷昇戦。MA日本vs全日本のライト級チャンピオン対決を制す(1992.6.27)。[右]敵地で目黒ジムの存在感を現した藤本会長とのツーショット(1992.6.27)

因縁の対決となった山崎道明との再戦(1992.11.13)

1988年(昭和63年)1月に越川豊(東金)を破り、日本ライト級王座を奪取。

飛鳥信也は22歳の時、駒沢大学に入学し、後にチャンピオンとなってから知名度は各大学に広まり、創価大学体育会から指導員を依頼されたり、各地からの講演も殺到した時期だった。

「青春を完全燃焼したか不完全燃焼で終わったかで、大いなる人生の分岐点がある。」それが飛鳥信也の持論だった。

同年9月、越川豊との再戦となる初防衛戦で敗れ王座は失ったが、飛鳥時代はここからが始まりだった。

1989年(平成元年)4月には、新日本プロレスの東京ドームでの興行で、かつての日本人キラー、ベニー・ユキーデ(米国)と対戦。

判定無しルールのドローながら唯一、ベニー・ユキーデに倒されなかった日本人となり、東京ドームで戦ったキックボクサー第1号として名を残すことになった。

1990年5月、日本ライト級王座決定戦で菅原忠幸(花澤)を破り王座に返り咲き、1992年6月には、全日本ライト級チャンピオンの川谷昇(岩本)との交流戦で事実上の頂上を制した。

ヘクター・ペーナと並ぶ。キックでは珍しかった調印式を開いた飛鳥信也(1993.11.26)

ヘクター・ペーナと対峙する飛鳥信也 再戦で(1994.5.17)

ヘクター・ペーナ再戦。蹴りでは優る飛鳥信也、米国選手が強いのはボクシング技術(1994.5.17)

◆メジャー化への挑戦

1993年(平成5年)11月、キックのメジャー化を視野に入れていた飛鳥信也は、WKBA世界スーパーライト級王座決定戦に漕ぎつけた。

指導している創価大学体育会キックボクシング部や後援会などイベントを支えてくれる仲間はいたが、自身が中心的に各スポーツ新聞社等10社以上に告知し、新宿京王プラザホテルで調印式、記者会見を開いた。

会見に現れたマスコミの格闘技専門誌以外では、共同通信と週刊プレイボーイだけだった。

イベントを一般紙にまで売り込んだのは、プロボクシング世界戦に迫る意気込みを表し、国内の組織統一を目指す風潮に逆行して、キックボクシング創始者、野口修氏が創設以来活動が乏しいWKBA(創設は1967年、キック生誕翌年)を活性化させ、世界の頂点を確固たるものへ創り上げ、日本選手がここに集まる業界にして国内を纏めようという狙いだった。

しかし試合は、ヘクター・ペーナ(米国)に判定負け。翌1994年5月、再戦に漕ぎつけたが、4ラウンドに3度ノックダウンした初のノックアウト負け。

目指した頂点に立つ夢は消えたことから引退が頭を過ぎったという。

それでも最後まで完全燃焼に拘り、1995年12月、17年間の現役生活集大成として最強の相手を選び、引退興行に力を注いだ。

相手はギルバート・バレンティーニ(オランダ)。名選手のラモン・デッカー(オランダ)にも勝っているハードパンチャーだった。

引退試合に向けて。目黒ジムで最後の追い込みをかける飛鳥信也(1995.11.28)

飛鳥信也は無謀と言われながらも倒す気でいたが、バレンティーニの圧力ある突進のパンチをかわせず、デビュー以来、初めての意識が飛ぶノックアウト負けを喫した。

それでも試合後には予定どおり引退式を行ない、グローブをそっとリング上のマットの上に置いて、テンカウントゴングを聴いた。これぞ完全燃焼の生き様だった。

[左]バレンティーニも強打の選手、凌げなかった飛鳥信也(1995.12.9)。[右]現役を完全燃焼してテンカウントゴングを聴く引退式(1995.12.9)

◆生涯現役のリングへ

時は流れ、キックボクシング界は分裂は繰り返す低空飛行も、競技人口は増加していく傾向があった。

それはムエタイがプロ・アマチュアともに国際化が進んでいたことに繋がっていた。

2018年7月(7月21日~30日)に全日本学生キックボクシング連盟は、タイ国パタヤ市で開催された34ケ国、約230名参加の第1回世界学生ムエタイ選手権大会に出場。4名の学生選手を率いて参加したナショナルチームリーダーは連盟常務理事を務める飛鳥信也。

日本勢は残念ながら全員初戦(一回戦)敗退となり、アマチュアと言えども世界の壁の高さを実感する大会となった。

その直後、飛鳥信也は、8月12日に開催される35歳以上の中高年世代を対象にしたアマチュアキックボクシングイベント「ナイスミドル」からオファーが入った。

最初は断ったが、それまで学生を指導したトレーニング量と、最初のプロデビューから丁度40周年となる同じ日。

誕生日も1日違い。「これはリングが俺を呼んでいる」と因縁を感じ出場を決意。
ナイスミドル.ライト級チャンピオン.HIDEJIN(48歳/新興ムエタイ)に判定負けし、翌年も同じ相手と対戦するが、またも判定負け。

「前年は30秒で息切れ、翌年は1分で息切れました。でも勘が戻って来た感じで、2020年も出場予定でしたが、今年はコロナ騒動で中止になってしまい、来年以降も出場を目指しています。プロ現役は37歳までやりましたが、 ナイスミドルでは生涯現役かもしれません。プロでやっていた頃は負けたらボロクソに言われましたが、ここでは負けても関係無い。更にプロ引退後、もう味わえなかったあの頃の緊張感を思い出すのがナイスミドルでした。勝つことが目的ではなく、リングに上がることが目的。戦う相手が居る、そのリングに向かうことが凄くいい緊張感なのです。」と意欲的に語る。

◆研究家としての完全燃焼へ

飛鳥信也氏は学生キックボクシングの指導を続けていくことによって指導の在り方へ探求心は増していき、プロ引退して15年後、2011年4月、スポーツマネージメントを学ぶ為、筑波大学大学院に入学し、学生アマチュアキックボクシング選手を対象としての研究を始めた。

2012年に、選手の心のケアに重点を置き、「スポーツ選手が励まされ勇気づけられた言葉はどのような言葉であったか」という研究結果を論文にしている。そこには選手の内面を変えてやることで、急成長するといったコーチングの在り方、錦織圭にマイケル・チャン(米国)コーチが付いてから急成長したことや、高橋尚子などのマラソンランナーを育てた小出義雄監督などのコーチングを分析し、飛鳥信也氏自身がキックボクサーとして体験し、長年コーチをして頂いた目黒ジム大先輩の藤本勲トレーナーを例に、「選手の個性、考え方、頑張りを見ているからアドバイスはほとんどされなくても、“ジャブ、ロー”だけでリズムを作らせる技がある、子供のすべてを知っている親父のような存在。人格の輝きと力量を持った人が、そこに居るだけで励みになり、エンパワーメントされました。現役時代の私にとってその存在が、藤本コーチでありました。」という存在感があった。

それはコーチ側の受容が選手の心のケアに繋がることであった。

このようなコーチングの重要性や、仲間や家族のどのような応援がどう影響するかなどの研究を続けている飛鳥信也氏。 昔ながらの鬼コーチと言われる逆らえない存在も少なくないキックボクシング界での指導方法や、他競技との比較など、なかなか面白い研究だろう。

更には飛鳥信也氏自身が「ナイスミドル」に出場したことや、アマチュア世界学生ムエタイ大会の出場選手の心の分析もデータの一つとして新たな研究を進めている。若い学生に囲まれた姿は若々しく、プロ現役選手のようであった。(本文中敬称略)

かつて戦った斎藤京二氏と再会。目黒ジム披露懇親会(2005.4.17)

▼堀田春樹(ほった・はるき)[撮影・文]

フリーランスとしてキックボクシングの取材歴32年。「ナイタイ」「夕刊フジ」「実話ナックルズ」などにキックのレポートを展開。ムエタイにのめり込むあまりタイ仏門に出家。座右の銘は「頑張るけど無理しない」

月刊『紙の爆弾』2020年8月号【特集第4弾】「新型コロナ危機」と安倍失政 河合夫妻逮捕も“他人のせい”安倍晋三が退陣する日

一水会代表 木村三浩 編著『スゴイぞ!プーチン 一日も早く日露平和条約の締結を!』

上條英男『BOSS 一匹狼マネージャー50年の闘い』。「伝説のマネージャー」だけが知る日本の「音楽」と「芸能界」!

◆日本は防疫後進国だった

コロナ禍がいっこうに収束しないまま、わが国の防疫政策は迷走をきわめている。第二波ともいわれる感染者数の増大のなかで、すでに明らかになっているPCR検査の決定的な不足も解消されていない。本欄でも明らかにて来たとおり、厚労省の医系技官=保健所の消極性、そしてこの問題に限っては官邸政治主導の立ち遅れによるものだ。

PCR検査を増やしたい官邸の意向にもかかわらず、官僚組織と現場が動かないのである。デイリー3000~4000のPCR検査という日本の立ち遅れは、第二波を封じこめた武漢や北京とくらべれば明らかである。

すなわち武漢においては、第一波の収束後40日目に1人の陽性者が出たが、その陽性者の居住団地5000人を一斉検査している。そのうち密接交際者5人を割り出して隔離している。さらには、わずか19日間で全市民990万人にPCR検査を実施したのだ。じつに1日あたり50万人である。その結果、300人の陽性が判明し、これをただちに隔離。その後(6月1日以降)2人の陽性者が出たものの、市外からの旅行者であった。つまり、再発を完全に封じ込めたのである。なぜ中国にできて、わが国にはできないのか?

◆動かすべき組織(厚労省)を動かせず、思いつきで勝負せざるをえない

上述したとおり、それは厚労省医系技官がその要を占める保健所および国立感染研の消極性にほかならない。PCR検査そのものに及び腰(医療従事者の感染の危惧)であること、そして厚労大臣・副大臣・政務官ら政治家ばかりか、安倍総理の意志すら貫徹しない組織に欠陥があるのだ。医系技官たちのセクショナリズム(縄張り主義)、パワーゲーム(事務系官僚との抗争)は、『さらば厚労省』(村重直子、講談社)に詳しい。

官邸・官庁中枢だけではない。感染者数の集計にFAXを用いるというアナログ体質、二か月経ってもマスクひとつ満足に配れない役所と郵便網、持続化給付金を民間に丸投げし、二次受け三次受けを追跡できない体たらくなのだ。思い起こして欲しい、厚労省および社会保険庁のアナログ管理によって消えた年金を。

日本は80年代後半から国鉄・郵便局の民営化によって、親方日の丸体質ともいうべき公的分野の改革を行なってきた。だがそれは、官公労の労働運動を破壊するのが主目的で、赤字部門の清算が副次的な目的であった。鉄道においては赤字路線の廃止、郵便においては公務員的な体質を宿したまま、違法な保険契約でノルマを達成するという弊害を生んだ。

そしていま、官庁中枢において「動かない組織」が明らかになってきたのだ。そして動かない組織を横目に見ながら、なんら策を打ち出せない官邸が思いついたのが、まさに思いつきの「アベノマスク」であり「GO TOキャンペーン」なのだ。動かない組織の問題点を切開(組織と人事編成の再編)するのではなく、ほんらい向かい合うべき政策に背を向けた「アイデア」で勝負しようというのが、安倍総理とその補佐官・秘書官たちなのである。

アベノマスクを発案したのは、佐伯耕三総理大臣秘書官であるといわれている。総理に対して「全国民に布マスクを配れば不安はパッと消えますよ」と進言したとされ、これを「実現」させたのが大型補正予算を仕切る今井尚哉総理秘書官だったという。

◆実現しても危険が大きいアイデア

そして今回の「Go To トラベル キャンペーン」を総理に提案したのは、その今井秘書官の指揮のもと、新原浩朗経産省産業政策局長だといわれている。この新原局長は内閣官房で日本経済再生総合事務局長代理補の肩書もあわせ持ち、今井氏と働き方改革や教育無償化など、総理肝いりの政策を実現させてきた人物だ。タレントの菊池桃子さんと2019年11月に結婚したことでも知られている。


◎[参考動画]菊池桃子さんと結婚の新原氏が会見(NNnewsCH 2019/11/05)

さてその「Go To トラベル キャンペーン」は、東京への観光旅行および東京都民の観光旅行には適用されないという、骨抜きの内容になってしまった。東京で毎日300人近い感染者が出ているというのに、観光旅行なんかやって拡散するつもりか? という世論の批判および東京都の反発に屈したかたちである。その結果、準備をすすめていた観光業者はキャンセルによって打撃を受けている。

いや、そもそも「Go To トラベル キャンペーン」は、収束後の政策ならぬアイデアだったはずだ。

じつはここに、安倍政権の本質が顕われているといえるのだ。危機管理にからっきし弱く、天災や今回のような疫病禍など困難には耐えられない。それゆえに、なるべく明るい話題に飛びつく。早すぎるアイデアの実行に飛びついてしまうのが、安倍総理の抜きがたい体質なのである。

JTBの「Go To トラベル キャンペーン」サイトより

現実には感染者ゼロの岩手県のほか、コロナ感染を収束させた他県への観光を推奨するこのアイデアは、失敗に終わる可能性が高い。35%の旅行費補助や15%のクーポンを目当てに、危険を冒して旅行に出かける人々が多いとは思えない。そもそも歓迎されない観光地に、何を楽しみに行けばいいというのだろうか。

もしも安倍政権が想定したとおりに観光が動いたとして、もしもコロナ感染がその観光地で拡散、死者が出たらどするのだろうか。総理を辞任して済むような話ではないのだ。「Go To トラベル キャンペーン」の予算は1兆7000億円だという。持続化給付金同様に、大手代理店が中抜きをするのだという。

そんなことであれば、その巨額予算はただちに観光業界の支援金に回すか、ホテルや旅館を感染者の一時待機施設として確保する。そんなアイデアこそ実現するべきではないか。

▼横山茂彦(よこやま・しげひこ)

編集者・著述業・歴史研究家。歴史関連の著書・共著に『合戦場の女たち』(情況新書)『軍師・官兵衛に学ぶ経営学』(宝島文庫)『闇の後醍醐銭』(叢文社)『真田丸のナゾ』(サイゾー)『日本史の新常識』(文春新書)『天皇125代全史』(スタンダーズ)『世にも奇妙な日本史』(宙出版)など。医科学系の著書・共著に『「買ってはいけない」は買ってはいけない』(夏目書房)『ホントに効くのかアガリスク』(鹿砦社)『走って直すガン』(徳間書店)『新ガン治療のウソと10年寿命を長くする本当の癌治療』(双葉社)『ガンになりにくい食生活』(鹿砦社ライブラリー)など。

月刊『紙の爆弾』2020年8月号【特集第4弾】「新型コロナ危機」と安倍失政 河合夫妻逮捕も“他人のせい”安倍晋三が退陣する日

『NO NUKES voice』Vol.24 総力特集 原発・コロナ禍 日本の転機

◆大阪維新は、センターからの野宿者追い出しをやめろ!

7月6日、昨年閉鎖されたセンター前に組合のバスを置く釜ヶ崎地域合同労組や、北西角に団結テントを設置する仲間に、「土地明け渡し請求事件」の訴状などが届いた。「出ていけ!」と訴えるのは大阪府だ。コロナ災いが続く中、センターから野宿者を追い出したいのは、都構想とリンクする西成特区構想を前に進めたいがためだ。

西成あいりん総合センンター(以下センター)は、昨年3月31日閉鎖予定だったが、当日大勢の労働者、支援者が「シャッター閉めるな」と声をあげたため閉鎖できなかった。翌日から始まった自主管理活動には、全国から支援の声・物資・カンパなどが届けられた。4月24日、国と大阪府は警察がタッグを組み、センター内の労働者らを暴力的に排除したが、それ以降も大勢の野宿者がセンター周辺や釜合労のバスで寝泊まりし、炊き出しや寄り合いなどの支援活動も続けられている。

そんな中、今年2月5日、大阪地裁の執行官は、大阪府、市の職員、警察とともにセンターを訪れ、野宿者に土地と荷物などを「執行官に引き渡せ」という「仮処分決定書」を手渡し、野宿する路上に「告示書」を打ち付けていった。

大阪府はこの申し立てを、昨年12月26日に大阪地裁に行っているが、その3日前の23日には、センター解体後にできる広大な跡地をどうするかを検討する「まちづくり会議」で、センターに入っていた2つの労働施設、「あいりん職安」と「西成労働福祉センター」(現在、隣接する南海電鉄高架下に仮移転中)を、跡地の南側に移転することが決まったばかりである。国道に面し、使い勝手や立地条件の良い北側の広大な跡地には、観光バスの駐車場やタクシー乗り場や外国人向けの屋台村を作るなどの案が出たという。

そもそもセンターは1970年、「あいりん地区の日雇い労働者の就労斡旋と福祉の向上」を目的に設置されたものだ。中には2つの労働施設の他に、水飲み場、足洗い場、シャワー室、洗濯場、娯楽室など最低限のライフラインが備わっていたうえ、地区内では毎日どこかで炊き出しが行われていることから、職や住処を失った人も、ここに来れば、どうにか生きていくことができた。しかし新たにつくられようとしている「まち」には、そうした労働者の居場所はない。

数日前から夜遅く、店近くで野宿を始めた60代男女。10万円が給付されたらドヤに入る予定だが、訳あって生活保護は受けたくない

◆大阪維新行政・だまし討ちの手口

釜ヶ崎を追い出された労働者はどこへいけばいいというのか! 長引くコロナ禍のもと、苦境に立たされている若者や非正規雇用労働者を助けることも重要だが、そのためにもともと釜ヶ崎にいる野宿者やおっちゃんらを切り捨てる、あるいはそれに加担することにな るのであれば、元も子もないだろう。

訴状には稲垣浩氏ほか21名(計22名)の氏名が漢字かカタカナで書かれているが、これは昨年11月、大阪府や大阪市の職員らが、福祉相談を装って名前を聞き出したものだという。しかしその際、本人には何に使うかなどの説明はなかったという。自分が訴えられるなら、名前を明らかにすることに躊躇した人もいるはずだ。自分の名前が書かれた「告示書」が目の前に釘で打ちつけられ、怖くなり他の地に移動した野宿者もいる。だまし討ちのあまりに酷いやり方だ!

◆労働者の健康など全く考えていない大阪行政のご都合主義

閉鎖前、早朝センターのシャッターが開くと、大勢の人たちが荷物を運び入れ、ゆったり一日中過ごしていた。その数は1日50人から80人。野宿者だけでなく、働けなくなり生活保護を受けるようになった人たちも、大勢センターに集まっていた。「Aはたいがい2階の娯楽室で将棋さしてるで」「Bを探してるんか? アダチ(センター前の酒店)の前に夕方いるで」「次の日曜日、三角公園でプロレスあるで。もちろんタダや」等々、センターはまさに仲間とつながり、情報を交換し合う社交の場だった。

センター閉鎖後、行政はそうしたセンターの代替場所の1つとして、センター南側の萩の森跡地に居場所を作った。運動会で使われる白いテントを数張り置いただけだが、雨の日も真夏でも労働者は集まってきた。その萩の森跡地のテントが最近、「整備のため」と撤去され、近くの萩の森北公園(旧仏現寺公園)に移された。しかし3、4張りあったテントは1張りだけ。未だコロナ禍は収束せず、感染拡大の危険性が叫ばれる中、テントは結構「蜜」な状態だ。行政が、釜ヶ崎の労働者の健康や体のことなど全く考えていない証拠だ。

聞けばこの公園は、1977年、炊き出しや寝泊りしていた労働者が、大阪市に行政代執行で追い出された所だ。それ以降は子供達の遊び場として遊具が設置され、朝鍵が開けられ晩には鍵がかけられていた。それが今回は「居場所に使え」だと。行政の都合で「不法」になったり、「適法」になったり、ご都合主義も甚だしい。

センターの代替場所だった萩の森公園跡地が閉鎖され、新たに作られた代替場所。テントは一張りのみ。結構「密」だ

◆コロナより都構想の大阪維新の給付金対策とは?

コロナ対策の特別定額給付金の支給も大阪が一番遅れている。大阪都構想を進める副首都推進局の職員数80名以上に対して、特別定額給付金を担当する市民局の職員数が18名と非常に少ないことも理由の1つだろうが、市民局がどこにあるかも「非公開」にするなど、吉村知事、松井市長のコロナ対策はあまりにいい加減過ぎるからだ。

現在、様々な団体、個人などが「全ての人に給付金を支給するように」と訴え、交渉を続けている。直近の交渉で大阪市は、NPOやシェルターなどに住民票を移し、申請書を受け取る案で調整中だそうだ。それで給付金が受けれるならば、大いに利用すればいいが、問題なのは、その後そこに居住実態がない場合、再び住民票を削除するということだ。

これはかつて、大阪市が、住民票のない労働者らが各種資格、免状、日雇い労働者被保険者手帳などを取得する際に、釜ヶ崎開放会館や市民団体の住所に住民票を置くことを積極的に勧めておきながら、2007年一方的に2088名の住民票を強制削除したことと同じことではないか?

私が弁当を配り始めた5月頃、センター南側の路上で、開放会館においていた住民票を削除された労働者に実際会った。あれから13年経ち高齢化したため、野宿しながら、銅線、鉄、アルミ缶などを集め、日に千円稼ぐのが精いっぱいとこぼしていた。大阪市はまずは、この2088名の住民票を復活させろ!

2007年、解放会館に置いていた住民票を勝手に削除された男性。銅線、アルミ缶など集め、1日千円稼ぐのがやっと

7月15日の弁当。昨夜出会った男女に渡すことができた

このままでは、給付金がもらえない人が出てくることは必至だ。何度もいうが、おぎゃあと生まれた赤ちゃん、DVで住民票がある場所から避難する人、無戸籍者にも給付金は支給される。住民票がない人に対して、住民票すらまともにとれない酷い生活をしてきたから「自業自得」という人もいるが、じっさいに何らかの罪を犯し刑務所に服役する人も、そして労働者の血税を好き放題むしり取る悪の親玉、安部や麻生にも一律に支給されるのが給付金だ。それなのに、なぜ住民票がないくらいで、給付金支給の権利が奪われなければならないか? すべての人に給付金を渡すため、大阪市は1人1人の野宿者から氏名を聞き出し、戸籍などを確認する作業を必死で行え!

住民票がないとの理由で、給付金が支給されない人が出ることになれば、「全国すべての人々へ」という給付金支給の理念を著しく逸脱する大問題になるだろう。


◎[参考動画]仕事も住民票もないホームレスたちに“10万円”は届くのか…「西成・あいりん地区」で弁当配り見守る女性の活動(2020年5月26日放送 MBSテレビ「Newsミント!」内『特集』より)

▼尾崎美代子(おざき みよこ)

新潟県出身。大学時代に日雇い労働者の町・山谷に支援で関わる。80年代末より大阪に移り住み、釜ケ崎に関わる。フリースペースを兼ねた居酒屋「集い処はな」を経営。3・11後仲間と福島県飯舘村の支援や被ばく労働問題を考える講演会などを主催。自身は福島に通い、福島の実態を訴え続けている。
◎著者ツイッター(はなままさん)https://twitter.com/hanamama58

月刊『紙の爆弾』2020年8月号【特集第4弾】「新型コロナ危機」と安倍失政 河合夫妻逮捕も“他人のせい”安倍晋三が退陣する日

〈原発なき社会〉をもとめて 『NO NUKES voice』Vol.24 総力特集 原発・コロナ禍 日本の転機

◆乙巳(いっし)の変──王家独裁のためのクーデター

推古天皇のあとをうけた舒明天皇の后が、皇極帝(宝皇女たからのひめみこ)である。夫の舒明天皇が崩御すると、彼女は四十八歳で帝位に就いた。

もともと蘇我蝦夷が舒明帝を擁立したこともあって、蘇我氏の後見のもとに即位した女帝だったが、古代史上もっとも有名な政変劇が彼女の眼前でおきる。近臣の者たちが斬り合う、突然の惨劇だった。乙巳(いっし)の変(大化の改新のはじまり)である。

殺されたのは蘇我入鹿、殺したのは女帝の実の息子・中大兄皇子(のちの天智)である。

剣で斬られた入鹿は、女帝に「なぜだ?」と問う。女帝は「わたしは何も知らない」。

そして、わが子・中大兄皇子を叱責するが、息子は入鹿の悪行を並べ立てて弾劾するのだった。入鹿が殺されたことを知った蝦夷は、自邸に火をかけて自死する。

この政変は従来、専横をきわめる蘇我氏を排除するための改革とみられてきたが、どうやら天皇親政、端的に言うと王家独裁のためのクーデターだったと思われる。

というのも、律令制は蘇我氏を中心にした豪族の連合政体(官僚システム)をめざしていたからだ。蘇我馬子と聖徳太子が描いてきた政権構想である。律令のもとで豪族は位階のある貴族(公家)となり、天皇を頂点とした官僚制度がつくられつつあったのだ。

ところが、中大兄皇子は中臣鎌足とともに、筆頭貴族の蘇我氏を排除することで、律令の官僚制を骨抜きにしたのである。のちに藤原氏の祖となる鎌足にとっては、当面する政敵の打倒にほかならなかった。

◆女帝によって築かれた古代王朝の全盛時代

なお、皇極が最初に結婚した相手とされる高向王が、蘇我入鹿である可能性を指摘する説もある(『日本の女帝』梅澤恵美子)。梅澤さんによれば、信州の善光寺には、皇極が地獄に堕ちたという伝承があるという。伝承の根拠は、殺された入鹿の呪詛だろうか。だとしたら、中大兄皇子は母親の不義、奸臣との癒着を断罪したことになり、事件は甚(はなは)だ生々しい気配をおびてくることになる。

政変ののち、皇極女帝は譲位して弟の軽皇子(孝徳天皇)が即位する。皇統史上はじめての譲位だった。孝徳天皇は大化と元号をさだめ、大化の改新がこのもとで行なわれた。中大兄皇子と中臣鎌足の独壇場である。遣唐使がもたらす書物によって、律令制はさらに整備されたが、なぜか政権は空中分解してしまう。

皇太子となった中大兄皇子・鎌足・皇祖母尊(皇極)の三人が、孝徳帝が遷都したばかりの難波宮から、飛鳥に引き上げてしまったのだ。天皇は失意のうちに亡くなった。蘇我氏から人材を得た孝徳帝を、中大兄皇子らが見限ったのだといわれている。してみると、大化の改新はやはり、蘇我氏をはじめとする豪族の官僚制を掘り崩す、古代朝廷権威の発揚とみるべきであろう。その古代王朝の全盛時代は、男性の帝によってではなく、歴代の女帝によって築かれたのである。

斉明帝として重祚(ちょうそ)した女帝は、巨大な公共事業をくり広げる。香具山の西から石上山まで水路を造り、二〇〇艘の舟で石を運ばせたという。水路の掘削に要した水工夫が三万人、石垣の造営に七万人の工夫が動員された。人びとはこれを「狂心の渠(たぶれごころのみぞ)」と批判した。近年、酒船石遺跡の石積みが発掘された。それが儀式のための施設なのか、城砦なのかをめぐって古代史の議論を呼んでいる。

いずれにしても、独裁的に進められた公共事業は、天皇の強権への意志を感じさせるものがある。そして韓半島の騒乱に軍事介入し、百済復興のために出兵したものの、敗退して権益をうしなった。そして女帝も、遠征先の九州朝倉の地で没した。

◆シャーマンと官僚の闘い

政治家としてはともかく、人物はいたって優しかったようだ。母・吉備津姫王が病をえたとき、女帝は母が亡くなって喪葬がはじまるまで、そのかたわらを離れなかったという。可愛がっていた孫の健王が八歳で亡くなったときは、挽歌でその気持ちをのこしている。

飛鳥川 漲らひつつ 行く水の 間も無くも 思ほゆるかも
(飛鳥川があふれるように盛り上がって流れている、その水のように間もなく健王のことが思い出されることか)

山越えて 海渡るとも おもしろき 今城のなかは 忘らゆまじき
(山を越え海を渡って旅をしていても、健王の墓所のことが忘れられないでしょう)

女帝はまた旅行好き、温泉好きでもあった。有馬温泉、道後温泉、紀伊白浜の湯崎温泉に行幸したことが記録に残っている。

乙巳の変のまえのこと、蘇我入鹿が雨乞いをしても雨が降らなかったところ、女帝が跪いて四方を拝み天に祈ると、雷鳴とともに降雨があったという。シャーマンとしての資質もあったようだ。このシャーマンという女帝の特性を、読者諸賢はおぼえていて欲しい。古代王権をめぐる女帝と律令官僚の争闘はまさに、シャーマンと実務官僚の闘いとして帰結するのだから。

◎[カテゴリーリンク]天皇制はどこからやって来たのか

▼横山茂彦(よこやま・しげひこ)

編集者・著述業・歴史研究家。歴史関連の著書・共著に『合戦場の女たち』(情況新書)『軍師・官兵衛に学ぶ経営学』(宝島文庫)『闇の後醍醐銭』(叢文社)『真田丸のナゾ』(サイゾー)『日本史の新常識』(文春新書)『天皇125代全史』(スタンダーズ)『世にも奇妙な日本史』(宙出版)など多数。

月刊『紙の爆弾』2020年8月号【特集第4弾】「新型コロナ危機」と安倍失政 河合夫妻逮捕も“他人のせい”安倍晋三が退陣する日

「思い出せる限り、当時のことを正直に話したいと思っています」

3月4日、広島地裁の第302号法廷。午前10時に始まった鹿嶋学に対する裁判員裁判の第2回公判では、被告人質問が行われた。その冒頭、鹿嶋はそう宣言し、弁護人の質問に答える形で、自分の生い立ちを詳細に語った。

鹿嶋は1983年3月、山口県下関市で生まれた。家族構成は両親と妹が1人。中学2年生の時、家族で宇部市に引っ越したために転校し、中学卒業後は市内の私立高校に進学した。中学、高校を通じて学校の成績は悪かったが、授業をさぼったりはしていないという。つまり、素行が特別悪かったわけではないようだ。

ただ、ワンパクではあったという。鹿嶋はこう打ち明けた。

「小学校の頃には、ニワトリ小屋に野良犬を離して大惨事になったり、友だちと喧嘩した際に代本板(※)で頭を殴り、血が出るようなケガをさせたりしてしまいました。中学時代も、カッとなると周りが見えなくなり、暴力をふるってしまうことがありました」

※「だいほんばん」と読む。図書館で本が本来置かれるべき場所にない時に、本の現物に代わって置かれる板のこと。

このようにワンパクだった鹿嶋だが、家ではおとなしい子供だったという。そうなった事情として語ったのが父親の存在だ。

「父については、『怖い』という思いが昔からありました。挨拶は『おはようございます』と言うように言われ、実際にそうしていました。小さい頃、理由はわかりませんが、父親に家を追い出され、家の前でワンワン泣いたことがありました」

鹿嶋によると、子供の頃、父親や母親とは必要最低限の会話しかしなかった。食事の時も両親、妹は会話をしていたが、鹿嶋は会話に参加せず、黙々と食事をしていたという。

「両親を頼ったり、両親に何かを相談したりすることもありませんでした。子供の頃からそうでした」

両親との関係が良くなかったことは明らかだが、その最大の原因と思われるのが父親と血がつながっていなかったことだ。鹿嶋によると、そのことは「25歳の時、父親から直接聞かされた」とのことだが、実は鹿嶋は生まれる前から複雑な事情を抱えた子供だった。それについては、被告人質問が終わった後、情状証人として出廷した父親自身がこう明かしている。

「妻が自分以外の男の子供を妊娠していることがわかったのは、結婚前に交際していた時期のことでした。しかし、私は自分の子供として育てようと決意し、そのまま妻と結婚したのです」

文章にすると、普通に話しているような印象になるが、この話をしている時の父親は歯切れが悪かった。鹿嶋の出生をめぐる人間模様については、父親にとって人前で話したくないことなのだろう。一方、父親が証言中、鹿嶋は被告人席から父親を険しい表情で凝視しており、父親に対して今も悪感情を抱いていることが察せられた。

広島地裁に入る、鹿嶋を乗せているとみられる車

◆剣道をやりたかったが、父親に言われるまま陸上部に入部

鹿嶋の話を聞いていると、その人間形成に父親との関係が大きく影響したのは間違いない。そのことは、中学、高校時代のクラブ活動に関する証言を聞いていてもよく伝わってきた。

「中学時代、自分は陸上部でしたが、本当にやりたかったの剣道でした。陸上部に入ったのは、小学校の頃にゼンソクで学校を休むことがあったため、父親から『体力をつけるために陸上部に入れ』と言われたからでした」

こうして中学時代、入りたくもない陸上部に入った鹿嶋は、練習に出たり出なかったりした末、3年生になって園芸部に転部。そして高校入学後、再び陸上部に入ったが、今度は練習に出なかったという。父親に入部するクラブを決められたため、屈折した青春時代になった様子が窺える。

その反動が出たのが、高校卒業時の進路選択だ。鹿嶋は大学には進学せず、就職しているのだが、就職先はこんな選び方をしたという。

「就職したのは、アルミを溶かし、板などを製造する会社です。学校から紹介された会社でしたが、選んだ理由は、機械の操作が好きだったことと、寮生活ができることでした。一人暮らしがしたかったのです」

鹿嶋はこの会社に就職を決める際も親には相談していない。とにかく家を出たかったというわけだ。

◆「一人暮らし」をしたくて選んだ会社でゲームとエッチなビデオに没頭

就職後、配属された工場は萩市にあり、実際に工場の前にある寮で生活できるようになった。この寮生活は鹿嶋にとって楽しいものだったようだ。

「自分はゲームが好きなのですが、寮では好き放題にゲームができました。それに、エッチなビデオも自由に観られました。高校の頃もエッチなビデオは観ていましたが、自分の部屋にビデオデッキがないため、親が家にいない時しか観られませんでした」

高校卒業後に一人暮らしを始めた若い男が、親の目が届かないのをいいことにゲームやエッチなビデオに没頭するというのはお決まりのパターンだ(今ならエッチなビデオではなく、エッチなネット動画かもしれないが)。ただ、鹿嶋の場合、「会社に入ってから、エッチビデオはほぼ毎日観ていました」というから、人並み以上にエッチなビデオが好きだったのだろう。

一方、女性との性行為は「してみたい」という気持ちはあったそうだが、性行為の経験は無いままだった。弁護人から「風俗店に行こうという思いはなかったのですか」と質問されると、こう答えた。

「自分は、そういうところに行く性格ではなかったので、当時は考えませんでした」

こうしてエッチなビデオを毎日のように観る一方、女性との性行為の経験が無いまま過ごした鹿嶋。このあとの話を聞く限り、こうした暮らしぶりは事件を起こしたことと決して無関係ではない。(次回につづく)

《関連過去記事カテゴリー》
 廿日市女子高生殺害事件裁判傍聴記 http://www.rokusaisha.com/wp/?cat=89

【廿日市女子高生殺害事件】
2004年10月5日、広島県廿日市市で両親らと暮らしいていた県立廿日市高校の2年生・北口聡美さん(当時17)が自宅で刺殺され、祖母のミチヨさん(同72)も刺されて重傷を負った事件。事件は長く未解決だったが、2018年4月、同僚に対する傷害事件の容疑で山口県警の捜査対象となっていた山口県宇部市の土木会社社員・鹿嶋学(当時35)のDNA型と指紋が現場で採取されていたものと一致すると判明。同13日、鹿嶋は殺人容疑で逮捕され、今年3月18日、広島地裁の裁判員裁判で無期懲役判決を受けた。

▼片岡健(かたおか けん)
全国各地で新旧様々な事件を取材している。原作を手がけた『マンガ「獄中面会物語」』【分冊版】第9話・西口宗宏編(画・塚原洋一/笠倉出版社)が配信中。

月刊『紙の爆弾』2020年8月号【特集第4弾】「新型コロナ危機」と安倍失政 河合夫妻逮捕も“他人のせい”安倍晋三が退陣する日

「絶望の牢獄から無実を叫ぶ ―冤罪死刑囚八人の書画集―」(片岡健編/鹿砦社)

前回の通信(7月8日)後、あらい商店・朴敏用が反応したようだと知人がそのtwの魚拓を送ってくれました。

7月10日付けの朴敏用のtw

「あらい商店って屋号に反応するしょーもないやつらが多い」とは私たちのことでしょうか? 私たちが「あらい商店」に「反応」するのは、リンチ被害者M君を精神的に追い詰めた村八分運動=「エル金は友達」祭りをあらい商店店主・朴敏用が主唱し煽ったからです。そうでなければ、カウンター/しばき隊の面々がたむろする飲み屋のオヤジぐらいの認識で、さほど問題にはしません。

◆「黒田ジャーナル」の流れを汲む『うずみ火』

『新聞うずみ火』は、かつて毎年戦争展を開いたり関西で多大の社会的影響力を持った読売新聞大阪社会部長・黒田清が読売内の権力闘争に敗れ(いろいろ評価はありますが私はそう見なしています)不本意ながら同社を去った後に部下の大谷宏昭と創設した「黒田ジャーナル」の流れを汲んでいます。発行部数は1500部前後と少ないながら、ある意味で関西メディア界の「名門」の流れといえるでしょう。黒田死後、「黒田ジャーナル」は解散し、大谷は矢野らと袂を分かちフリーのジャーナリストとして大阪読売本社の近くに事務所を構え活躍しています。

一方、「黒田ジャーナル」のスタッフだった矢野宏(現・株式会社うずみ火の代表兼編集長)と、のちに「黒田ジャーナル」に参画した栗原佳子(上毛新聞出身。現・『新聞うずみ火』副編集長)らは「株式会社うずみ火」を設立し大阪駅北側の古いビルに事務所を構え月刊『新聞うずみ火』(以下『うずみ火』と略記)の発行を始めます。私が「名誉毀損」事件で逮捕され勾留中の2005年暮れのことで、前回記したように、創刊メンバーで戦場ジャーナリストの西谷文和が神戸拘置所を訪れ創刊号に私のインタビュー記事を掲載しました。義理と仁義を人生のモットーとする私は、このことにより、鹿砦社再建後『うずみ火』に有料広告を毎月掲載してきたわけです。もう7、8年になります。

なお、リンチ本で私は、矢野が読売から黒田、大谷と「黒田ジャーナル」にスライドしたと従前から誤認し、「元読売新聞記者」と記載していましたが、矢野の前職は読売ではなく『日刊新愛媛』でした。この場を借りて訂正します。

◆「あらい商店」に通い詰めた『うずみ火』矢野、栗原は、店主・朴敏用が主唱した村八分運動=「エル金は友達」祭りを知っているのか?

ところで、何の因縁か知りませんが『うずみ火』の矢野、栗原は旧「あらい商店」にはよく通ったようで、これまでも彼らのFacebookなどでその様子が記載されていました。一例を挙げておきます。

『うずみ火』代表兼編集長・矢野宏(左)/あらい商店がご贔屓の副編集長・栗原佳子のFB(右)

そうして今回の朴敏用のインタビュー記事、不本意ながら閉店し再起を期してキムチの通販を始め新店舗開店を準備しつつある朴を応援しようということでしょうが、その前に朴がリンチ被害者M君にやった陰湿きわまる「ネットリンチ」「セカンドリンチ」である村八分運動=「エル金は友達」祭りについて総括した上でやっていただきたいものです。M君を支援してきた私たちとしては不快感を覚えざるをえません。激しいリンチを受けたM君が今でもその後遺症(PTSD)に悩まされているのが判っているのでしょうか!?

◆黒田清が生きていればリンチ事件に毅然たる態度をとった! 私たちの「質問書」に真摯に答えない『うずみ火』代表・矢野と、逆ギレした副編集長・栗原

生前の黒田清

黒田清という人は、私個人としては、以前に対談をいったんは承諾しつつも謝礼が安いことで断られたことがありましたが、それはそれとしても、時に独善的に見える、その強権的体質(昔風に言えば「スタ官」)は好きではありません。しかし、彼の正義感というか、悪いことは悪いと断じる性格は高く評価しています。矢野らもその黒田の性格を継承し、くだんのリンチ事件に対しても断固たる態度をとるものと思っていましたが、実際はまったく優柔不断なものでした。

ある方は、次のように述べられました。──

「今にして思えば、『うずみ火』の矢野さんらも事件の後に比較的早い段階で、あらい商店や呉光現らから自分たちに都合のいいような説明を聞いていて、鹿砦社からの話や質問に耳を傾ける気など微塵もなかったのではないでしょうか。
 コリアNGOセンターのマスコミへの売り込み方も相当なものです。
 自分たちを正義の被害者とするためになりふり構わず売り込んで、それが現時点ではうまくいっているのでしょう。」

おっしゃるとおりかもしれないですね。

ある時は、旧知のジャーナリスト・山口正紀(元読売記者)が『うずみ火』主催の講演会に来られるというので、鹿砦社社員が挨拶に伺ったところ、栗原は、何をとち狂ったのか、当社社員に対し凄い勢いで怒り狂い詰め寄ったということです。幸い傍に知人(証人!)がいたこともあり大事には至りませんでした。この頃、リンチ加害者に繋がる人物やメディア関係者らに「質問書」(別掲)を送りましたが、これに「もし黒田さんが生きておられたら、どう対応されたとお思いでしょうか? 正義感を奮って採り上げられたか、逆にずるく立ち振る舞われたか、いかがお考えですか?」(質問書)という箇所があったことが気に触ったからだったようです。

『うずみ火』への「質問書」

ヌエ的な矢野の回答書

「質問書」への回答がまだでしたが、催促し、別掲のような回答書を送ってきました。う~む、黒田精神を継承した者にしては弱いし、誠意のない、ずるい対応だと思いますが、読者の皆様はどうお感じになりますか? 生来鈍愚な私は当時さほど敏感に感じることなく、「回答してくれたんだから、まあいいか」と思いましたが、今あらためて読むと、真摯さに欠け、人を小バカにした回答です。

先の栗原佳子の横暴や、この回答書を読み、普通だったらこれで広告掲載も関係も終わったのでしょうが、人の好い私は、金銭的にさほどの負担でもありませんし、「もうしばらく様子を見るか」と広告掲載を今に至るまで続けたのでした。さすがに関係は疎遠にはなりましたが……。

しかし、専らリンチ被害者を村八分にし精神的に追い詰めることを目的に「エル金は友達」祭りを主唱した「あらい商店」経営者・朴敏用を、あたかもあれほどの村八分行為をやったことなど度外視し、まるでコロナ解雇の被害者の如く持て囃すに至り、私も重大な決断をする決意をしています。遅きに失したかもしれませんが……。

ところで、黒田が生きていたら、どういう態度をとったでしょうか? 黒田の性格、正義感から、リンチやこの加害者らに対しきっぱりした態度をとったとのではないでしょうか。矢野や栗原らが真に黒田精神を継承するというのであれば、リンチという不浄な蛮行に対しては毅然とした態度をとるべきではないのか!? ここでも、私が言っているのは間違っていますか? はっきり答えよ!

ちなみに、講師として講演した山口正紀は、さすがに元新聞記者、その時までリンチ事件を知りませんでしたが、みずから調べM君訴訟で詳細かつ適格で長文の「意見書」まで書いてくれたのでした。ジャーナリストたる者、こうでないといけません。

矢野の回答に対する取材班のコメント(リンチ本第2弾『反差別と暴力の正体』より)

◆「鹿砦社、潰れたらええな」だって!?

呉光現の名誉毀損ツイート

さて、『うずみ火』に幾つか問題のある人物の記事が大きく掲載されています。

まずは、呉光現(オ・グァンヒョン。日本聖公会生野センター総主事/在日本済州4・3犠牲者遺族会会長)。この人はキリスト教団体の幹部ということですが、宗教が決して人格に影響しないことの見本のようなツイートをしています。「鹿砦社、潰れたらええな」だって!? 「文句あったら言ってこいやあ」だって!? 

そう言うから、かの香山リカの「どこに送ったか、ちょっと書いてみては?」と同じく、取材班スタッフが抗議したところ、あえなく謝罪し撤回。鹿砦社に限らずひとつの会社を「潰れたええな」と非難するなど問題ありと判断、鹿砦社として、彼が所属するキリスト教団体上部組織に正式に抗議の内容証明を送ろうと考えましたが、謝罪、撤回したので、心優しい私たちはこれ以上の追及はやめた次第です。

3ページにわたり呉光現が登場する『うずみ火』2018年5月号

◆リンチ事件解決に日和見主義的態度をとり続ける「コリアNGOセンター」を弾劾する!

コリアNGOセンターは、李信恵による「保守速報」らネトウヨに対する訴訟の事務局となり、郭辰雄(カク・チヌン。代表理事)、金光敏(キム・グヮンミン。事務局長)の2人はセンターの執行部を務めています。

リンチ直後には、李信恵ら加害者に対して事情聴取を行っています。当初は、李信恵らに「謝罪文」を書かせたり、それなりに常識的な態度をとり「中立」的立場をとっていたようですが、次第に日和見主義的態度をとり明確に加害者側に立つようになっていきました。

ですから、リンチ事件の真相究明のためにも解決のためにもコリアNGOセンターがどう対応するかが極めて重要だと考え、その2人には各々「質問書」と本を数度送り、その考えを聞こうとしました。

しかし、金光敏は電話取材に応じましたが、郭辰雄はナシの飛礫で一貫して無視しました。コリアNGOセンター、とりわけ幹部の2人が血の通った人間として対応し続けたら、事件の解決も可能だったと私は思っています(甘いかな?)。

なぜ、コリアNGOセンターは日和見主義的対応をとり続けたのでしょうか? 李信恵に弱みを握られているのでしょうか? 私たちが与り知らぬ利害関係があるのでしょうか? あなた方がしっかりしないから、訴訟は中途半端な形で終結したとはいえ、本質的解決には至らないのです。本質的解決には至らないとは、リンチ事件を起こした者たちも、その隠蔽に加担した者らも、M君を誹謗中傷した者らも何ら事件を反省せず、畢竟しばき隊/カウンターやその周辺の社会運動において今後同様の、あるいはもっと取り返しのつかない暴力事件が起こり得るということです。そうではないですか?

そうした中で、『うずみ火』は能天気に2人についてページを多く割きレポートを掲載しています。ジャーナリズムの大義に立ち、真に黒田精神を継承すると言うのなら、こんな偏頗でキレイ事ばかり書き記すのはやめるべきでしょう。

3ページにわたりコリアNGOセンター代表理事・郭辰徳が登場する『うずみ火』2020年1月号(左)/同じく3ぺージにわたりコリアNGOセンター事務局長・金光敏が登場する『うずみ火』2019年9月号(右)

取材班と金光敏との電話のやり取り

同上

矢野さん、栗原さん、あなた方が「反差別」とか「人権」を声高に叫ぶのであれば、リンチ被害者M君を村八分にし、一人の大学院生の人権を物理的に暴力で痛めつけた凄惨なリンチについて、また事後、社会的地位のある者らが多数関与し事件の隠蔽と被害者への不当極まる誹謗中傷が繰り返されたことについて、彼らがとった態度をまずしかと見据え、その上でインタビューなどやればいいでしょう。

また、あなた方も、私たちが投げかけたM君リンチ事件の内容を知り、もっと人間的な対応をとるべきではないでしょうか? すでに5冊のリンチ関連本も送っているので、知らないなどとは言わせません。黒田清の遺志を継ぎ黒田精神を体現するというのは、歯の浮くようなキレイ事を言うのではなく、身近に起きた具体的事件に対して毅然たる態度をとることから始まるのではないでしょうか? 私の言っていることは間違っていますか? 答えてください。

―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

4月から始めたこの連載も16回が済みました。M君の訴訟は一応終わりましたが、鹿砦社が抱える2つの対カウンター/しばき隊訴訟(対李信恵、藤井正美)は、このかんのコロナによる非常事態で一時休戦状態に入ったとはいえ、まだまだ続きます。それら訴訟の報告はじめリンチ事件の検証と総括を行うため、この連載も不定期ながら続けていく所存です。ぜひ続けてお読みください。(本文中敬称略)

《関連過去記事カテゴリー》
 M君リンチ事件 http://www.rokusaisha.com/wp/?cat=62

Amazon https://www.amazon.co.jp/dp/B07CXC368T/
鹿砦社 http://www.rokusaisha.com/kikan.php?bookid=000541

2020年6月30日、中国の全国人民代表大会(全人代)常務委員会は「香港国家安全維持法(国家安全法:国安法)」を全会一致で可決・成立。香港政府はこれを即時施行し、それと同時にようやく条文が明らかになった。中国当局による香港での統制強化が可能となり、「一国二制度」は葬られた。最高刑は終身刑だ。翌7月1日の抗議行動では370人が逮捕され、3日に1名が起訴された。亡命の動きもある。

韓国の劇映画『世宗大王 星を追う者たち』を観て、まず、これらの報道を想起した。世宗(セジョン)大王とは、「聖君」として知られる李氏朝鮮の第4代国王だ。ハングルの生みの親であったことは映画やドラマをきっかけに知っていたが、鑑賞後に調べると、本作の主人公ともいえる科学者チャン・ヨンシルとともに実際、天文台・簡儀台の設置、日時計と水時計の製作などを手がけている。

(C)2020 LOTTE ENTERTAINMENT All Rights Reserved.

◆李氏朝鮮と現在の香港との共通性

なぜ香港の報道を想起したかといえば、やはり当時の宗主国である明の支配、そして長いもの=権力をもつ明にまかれようとする中央官職に就く人々が、世宗やヨンシルの敵として描かれているからだ。

もちろん実際、強大な国である中国は過去から現在にいたるまで拡大志向であり、いっぽうの朝鮮半島はアジア大陸の東端にあって侵略され続けた歴史のなか、幾度も立ち上がってきた。個人的には、現在の共和国の姿勢も、そのような歴史を抱えながら他の社会主義国が追いこまれていく様子を目の当たりにしてきたことが背景にあると考えている。結果、主体(チュチェ)思想が生まれたのではないだろうか。

話を戻せば、時代は変われど、また作品としてタイミングを意識したわけではないにせよ、この中国の属国として葛藤しながら耐え続けた朝鮮と、現在の香港の状況とが重なるように感じたというわけだ。

(C)2020 LOTTE ENTERTAINMENT All Rights Reserved.

◆「星を追う」名シーン

ちなみにお気づきの方もいらっしゃるかもしれないが、わたしは韓流ファンでもある。ドラマに始まり、映画、K-POP、バラエティーにもはまっているのだ。特に、最初に心を奪われた韓流ドラマの時代物では、下層から人柄やセンス、能力や努力によって這い上がっていくストーリーが多く、そこにはまった。

本作でも、奴婢(賤民)だったヨンシルが能力や努力を買われ、世宗と交流していくさまは、BL(ボーイズラブ)否、男2人の深い友情物語として満喫できる。ヨンシルは北極星は世宗だと言い、世宗はその脇の明るい星(四輔星:サボソンだったか)をヨンシルだと言う。星の見えない夜にも、ヨンシルは世宗に「星空」を見せる。これらのシーンはとても美しく、本作のみどころの1つといえるだろう。ただし、ラストシーンは、思い入れをもって観るほどに、複雑な心境となるかもしれない。だが実は、ここにもまた史実の一片が含まれていることを、鑑賞後に調べて知った。

(C)2020 LOTTE ENTERTAINMENT All Rights Reserved.

韓流映画やドラマのファンとしては、やはりスタッフや俳優陣のチェックも楽しみとなる。『世宗大王 星を追う者たち』の監督であるホ・ジノは『八月のクリスマス』『四月の雪』や最近Abema TV でも時々放送されている『オガムド 五感度』などを手がけている。世宗役のハン・ソッキュは、映画なら同じく『八月のクリスマス』やあの『シュリ』など、ドラマでは実は『根の深い木 世宗大王の誓い』でも世宗を演じていたのだが、『根の深い木』も大変興味深い作品なので、ぜひご覧いただきたい。ヨンシル役のチェ・ミンシクも映画では『シュリ』『オールドボーイ』『バトル・オーシャン 海上決戦』などの出演するほか、ドラマでも活躍している。もちろん脇役にも、見た顔がちらほら。そんなチェックも楽しみたい。

(C)2020 LOTTE ENTERTAINMENT All Rights Reserved.

◆ともに夢を見る者の間に育まれた友情

さて、侵略に話を戻す。日常でも人は、他人を味方につけ、敵でないと安心したいものかもしれない。しかし、侵略には限りがなく、現代においては多くの国家においては基本的に否定されている。ところが、武力・財力など、さまざまな武器を用い、いろいろな侵略をおこなっているのだろう。それに対抗するにはどうすればよいかという話の先に9条の議論もあるのかもしれない。

しかし少なくとも、壁と卵なら壁の側が武力を行使してはならず、また卵であるところの現場に生きる1人ひとりの市民・民衆の声に耳を傾けねばならないだろう。その点で、世宗は民が学べるようにと独自の文字を編み出したように、香港の民主化・独立を求める大きなうねりをつぶしてはならず、中国は香港の市民の声を聞かねばならない。香港には知人の活動家もいて心配であり、これは国内での思想の左右を問わない問題であるように思われる。

『世宗大王 星を追う者たち』を観て改めて、夢をともに追い求める人間の姿やその間にある愛情をぜひ感じてほしい。そして、あなたにも「星」を追い続けてほしいと思う。


◎[参考動画]映画『世宗大王 星を追う者たち』日本版予告(株式会社ハーク)

2020年9月4日シネマート新宿ほか全国順次ロードショー
監督:ホ・ジノ 出演:ハン・ソッキュ、チェ・ミンシク、シン・グ、キム・ホンパ、ホ・ジュノ、キム・テウ
【2019年/韓国/韓国語/133分/スコープサイズ】 英題:Forbidden Dream 配給:ハーク
公式HP: http://hark3.com/sejong/

▼小林 蓮実(こばやし はすみ)
フリーライター、アクティビスト。映画ファン、韓流ファンでもあり、ソウル訪問のほか訪朝も3回。『現代用語の基礎知識 増刊NEWS版』に「従軍慰安婦問題」「嫌韓と親韓」、雑誌『neoneo」No.08に「朝鮮を外から描くドキュメンタリーが抱える妄念」、ここ『デジタル鹿砦社通信』に「闘う姿に胸を打たれ、自らの闘いを問われる2作品 ── チェ・スンホ監督『共犯者たち』『スパイネーション/自白』」などを寄稿。

月刊『紙の爆弾』2020年8月号【特集第4弾】「新型コロナ危機」と安倍失政 河合夫妻逮捕も“他人のせい”安倍晋三が退陣する日

〈原発なき社会〉をもとめて 『NO NUKES voice』Vol.24 総力特集 原発・コロナ禍 日本の転機

今年も〈7・12〉がやって来ました──毎年この日になると、私たちなりに思うところがあります。それはそうでしょう、私松岡が逮捕(その後192日間の長期勾留)され、本社、東京支社、松岡自宅、取引先などに大掛かりな家宅捜索がなされ、会社が壊滅的打撃を受けたのですから──。10周年までは毎年集会を開き、この弾圧の意味をみなさん方と共有し、またみずからを鼓舞して来ました。それも10周年の2015年以来開いていませんでした(今年は『紙の爆弾』創刊15周年と併せ節目なので開くつもりでしたが、コロナ蔓延で中止になりました)。

朝日新聞(大阪本社版)2005年7月12日朝刊

朝日新聞(大阪本社版)2005年7月12日夕刊

わざわざ東京から神戸に出向き裁判を傍聴してきた、ジャーナリスト・山口正紀のレポート

捜査は、のちに厚労省郵便不正事件に連座し逮捕・失脚する大坪弘道神戸地検特別刑事部長(当時)の指揮によって行われ、これに絡んだパチスロ大手アルゼ(現ユニバーサルエンターテインメント)創業者オーナー(当時)岡田和生も海外で逮捕、実子や妻、子飼いの社員らに会社から放逐されたり、この15年の間にいろいろなことが起きました。

大坪弘道逮捕を報じる朝日新聞2010年10月2日朝刊

ユニバーサル(旧アルゼ)のフィリピン・カジノ不正を報じる朝日新聞2012年12月30日朝刊

みずから創業し育てた会社から放逐された岡田の泣き言(『週刊ポスト』2019年3月22日号)

岡田逮捕を報じる2018年8月6日付けロイター電子版

月日の経つのは速いもので、もう15年が過ぎました。当時の新聞記事や資料などを見るたび、15年前の2005年7月12日と、これ以降の出来事が走馬灯のように甦ります。

出版弾圧は『紙の爆弾』創刊(2005年4月7日)直後になされました。このことから『紙の爆弾』が発行され続け定着することに対する先制攻撃とも言われました(元大阪高検公安部長・三井環の指摘)。

比較するにはおこがましいですが、かの『噂の眞相』の「皇室ポルノ事件」も創刊直後でした(張本人は、いまや鹿砦社ライターとなった板坂剛)。

そういうことから、出版弾圧と『紙の爆弾』創刊15周年に絡め同誌5月号巻末に多くの画像と共に長文の総括文「『紙の爆弾』が創刊された2005年に何が起きたのか?」を掲載いたしました。私なりに長年考えてきたことを書き綴りました。あまり反響はありませんでしたが、一所懸命に書きましたので、今からでもぜひお読みいただきたく望みます。

 

『紙の爆弾』2020年5月号(創刊15周年記念号)。「『紙の爆弾』が創刊された2005年に何が起きたのか?」(別帳16ページ)掲載

詳しくはそれに譲りますが、今、新型コロナウイルス蔓延で社会や経済が麻痺し、鹿砦社も売上減となり苦しんでいます。いや、書店は休業を余儀なくされ出版界全体が苦しんでいますし、社会全体が苦しんでいます。

しかし、私たちは、15年前、あれだけの壊滅的打撃を受け地獄に落とされましたが、にもかかわらず復活を遂げることができました。読者やライターら社内外の多くの心ある皆様方のご支援や、運が良かったこともあります(自分で言うのも僭越ですが、土壇場で悪運が強い!)。ですから、ちょっとやそっとで潰されない自信があります。

一方、他人の不幸を喜ぶわけではありませんが、私たちを地獄に落とし栄華を謳歌していた弾圧の張本人、大坪弘道や岡田和生らは逮捕・失脚し地獄に落ちました。人をハメた者は、みずからもハメられる、ということです。まさに「因果応報」です。

皆様方、この国難とも言うべき未曾有の困難に対し、共に苦しみの中から起ち上がり共に前進していこうではありませんか! 闘争勝利!

◎6月6日に『紙の爆弾』創刊―出版弾圧15周年集会を予定していましたがコロナ蔓延で中止せざるをえませんでした。これに参加された方には『紙の爆弾』創刊号、もしくは弾圧直後に出版された同誌2005年9月号を贈呈する予定でしたが、かないませんでした。よって、『紙の爆弾』定期購読(新規、更新)された方には、どちらか希望の号を贈呈いたします(どちらを希望か明記してください。なくなり次第終了)。定期購読によって『紙の爆弾』を支えてください!

定期購読は、1年分(12号)6600円(1号分お得!)を郵便振替(01100-9-48334、口座名=(株)鹿砦社)にて送金してください。ご住所、氏名、×号からを明記してください。

左から『紙の爆弾』創刊号(2005年5月号)、『紙の爆弾』2005年9月号(7・12弾圧緊急発行)、『パチンコ業界のアブナい実態』(紙の爆弾特別取材班・編/事件から2年余り経った2007年10月刊行。7・12弾圧から最高裁上告棄却までの経過報告と中間総括)

月刊『紙の爆弾』2020年8月号【特集第4弾】「新型コロナ危機」と安倍失政 河合夫妻逮捕も“他人のせい”安倍晋三が退陣する日

〈原発なき社会〉をもとめて 『NO NUKES voice』Vol.24 総力特集 原発・コロナ禍 日本の転機

« 次の記事を読む前の記事を読む »