◆飛鳥時代の始まり

飛鳥信也(あすか・のぶや/目黒/1958年8月11日生)の17年に渡るプロ現役生活は“青春の完全燃焼”だった。更に引退後の人生に於いては学生キックボクシングやキック版オヤジファイトに関わり、人生の完全燃焼を目指している。

本名は住野幾哉(すみのいくや)。リングネームは当時の目黒ジム、野口里野会長が名付けた。

1978年(昭和53年)8月12日、飛鳥信也は20歳でデビュー。目黒ジムに入門したのは、当時住んでいた八王子にあったキックボクシングジムは閉鎖された為、目黒ジムと目白ジムが視野に入った。そこで比較的近かったのが目黒ジムだった。

[左]川谷昇戦。MA日本vs全日本のライト級チャンピオン対決を制す(1992.6.27)。[右]敵地で目黒ジムの存在感を現した藤本会長とのツーショット(1992.6.27)

因縁の対決となった山崎道明との再戦(1992.11.13)

1988年(昭和63年)1月に越川豊(東金)を破り、日本ライト級王座を奪取。

飛鳥信也は22歳の時、駒沢大学に入学し、後にチャンピオンとなってから知名度は各大学に広まり、創価大学体育会から指導員を依頼されたり、各地からの講演も殺到した時期だった。

「青春を完全燃焼したか不完全燃焼で終わったかで、大いなる人生の分岐点がある。」それが飛鳥信也の持論だった。

同年9月、越川豊との再戦となる初防衛戦で敗れ王座は失ったが、飛鳥時代はここからが始まりだった。

1989年(平成元年)4月には、新日本プロレスの東京ドームでの興行で、かつての日本人キラー、ベニー・ユキーデ(米国)と対戦。

判定無しルールのドローながら唯一、ベニー・ユキーデに倒されなかった日本人となり、東京ドームで戦ったキックボクサー第1号として名を残すことになった。

1990年5月、日本ライト級王座決定戦で菅原忠幸(花澤)を破り王座に返り咲き、1992年6月には、全日本ライト級チャンピオンの川谷昇(岩本)との交流戦で事実上の頂上を制した。

ヘクター・ペーナと並ぶ。キックでは珍しかった調印式を開いた飛鳥信也(1993.11.26)

ヘクター・ペーナと対峙する飛鳥信也 再戦で(1994.5.17)

ヘクター・ペーナ再戦。蹴りでは優る飛鳥信也、米国選手が強いのはボクシング技術(1994.5.17)

◆メジャー化への挑戦

1993年(平成5年)11月、キックのメジャー化を視野に入れていた飛鳥信也は、WKBA世界スーパーライト級王座決定戦に漕ぎつけた。

指導している創価大学体育会キックボクシング部や後援会などイベントを支えてくれる仲間はいたが、自身が中心的に各スポーツ新聞社等10社以上に告知し、新宿京王プラザホテルで調印式、記者会見を開いた。

会見に現れたマスコミの格闘技専門誌以外では、共同通信と週刊プレイボーイだけだった。

イベントを一般紙にまで売り込んだのは、プロボクシング世界戦に迫る意気込みを表し、国内の組織統一を目指す風潮に逆行して、キックボクシング創始者、野口修氏が創設以来活動が乏しいWKBA(創設は1967年、キック生誕翌年)を活性化させ、世界の頂点を確固たるものへ創り上げ、日本選手がここに集まる業界にして国内を纏めようという狙いだった。

しかし試合は、ヘクター・ペーナ(米国)に判定負け。翌1994年5月、再戦に漕ぎつけたが、4ラウンドに3度ノックダウンした初のノックアウト負け。

目指した頂点に立つ夢は消えたことから引退が頭を過ぎったという。

それでも最後まで完全燃焼に拘り、1995年12月、17年間の現役生活集大成として最強の相手を選び、引退興行に力を注いだ。

相手はギルバート・バレンティーニ(オランダ)。名選手のラモン・デッカー(オランダ)にも勝っているハードパンチャーだった。

引退試合に向けて。目黒ジムで最後の追い込みをかける飛鳥信也(1995.11.28)

飛鳥信也は無謀と言われながらも倒す気でいたが、バレンティーニの圧力ある突進のパンチをかわせず、デビュー以来、初めての意識が飛ぶノックアウト負けを喫した。

それでも試合後には予定どおり引退式を行ない、グローブをそっとリング上のマットの上に置いて、テンカウントゴングを聴いた。これぞ完全燃焼の生き様だった。

[左]バレンティーニも強打の選手、凌げなかった飛鳥信也(1995.12.9)。[右]現役を完全燃焼してテンカウントゴングを聴く引退式(1995.12.9)

◆生涯現役のリングへ

時は流れ、キックボクシング界は分裂は繰り返す低空飛行も、競技人口は増加していく傾向があった。

それはムエタイがプロ・アマチュアともに国際化が進んでいたことに繋がっていた。

2018年7月(7月21日~30日)に全日本学生キックボクシング連盟は、タイ国パタヤ市で開催された34ケ国、約230名参加の第1回世界学生ムエタイ選手権大会に出場。4名の学生選手を率いて参加したナショナルチームリーダーは連盟常務理事を務める飛鳥信也。

日本勢は残念ながら全員初戦(一回戦)敗退となり、アマチュアと言えども世界の壁の高さを実感する大会となった。

その直後、飛鳥信也は、8月12日に開催される35歳以上の中高年世代を対象にしたアマチュアキックボクシングイベント「ナイスミドル」からオファーが入った。

最初は断ったが、それまで学生を指導したトレーニング量と、最初のプロデビューから丁度40周年となる同じ日。

誕生日も1日違い。「これはリングが俺を呼んでいる」と因縁を感じ出場を決意。
ナイスミドル.ライト級チャンピオン.HIDEJIN(48歳/新興ムエタイ)に判定負けし、翌年も同じ相手と対戦するが、またも判定負け。

「前年は30秒で息切れ、翌年は1分で息切れました。でも勘が戻って来た感じで、2020年も出場予定でしたが、今年はコロナ騒動で中止になってしまい、来年以降も出場を目指しています。プロ現役は37歳までやりましたが、 ナイスミドルでは生涯現役かもしれません。プロでやっていた頃は負けたらボロクソに言われましたが、ここでは負けても関係無い。更にプロ引退後、もう味わえなかったあの頃の緊張感を思い出すのがナイスミドルでした。勝つことが目的ではなく、リングに上がることが目的。戦う相手が居る、そのリングに向かうことが凄くいい緊張感なのです。」と意欲的に語る。

◆研究家としての完全燃焼へ

飛鳥信也氏は学生キックボクシングの指導を続けていくことによって指導の在り方へ探求心は増していき、プロ引退して15年後、2011年4月、スポーツマネージメントを学ぶ為、筑波大学大学院に入学し、学生アマチュアキックボクシング選手を対象としての研究を始めた。

2012年に、選手の心のケアに重点を置き、「スポーツ選手が励まされ勇気づけられた言葉はどのような言葉であったか」という研究結果を論文にしている。そこには選手の内面を変えてやることで、急成長するといったコーチングの在り方、錦織圭にマイケル・チャン(米国)コーチが付いてから急成長したことや、高橋尚子などのマラソンランナーを育てた小出義雄監督などのコーチングを分析し、飛鳥信也氏自身がキックボクサーとして体験し、長年コーチをして頂いた目黒ジム大先輩の藤本勲トレーナーを例に、「選手の個性、考え方、頑張りを見ているからアドバイスはほとんどされなくても、“ジャブ、ロー”だけでリズムを作らせる技がある、子供のすべてを知っている親父のような存在。人格の輝きと力量を持った人が、そこに居るだけで励みになり、エンパワーメントされました。現役時代の私にとってその存在が、藤本コーチでありました。」という存在感があった。

それはコーチ側の受容が選手の心のケアに繋がることであった。

このようなコーチングの重要性や、仲間や家族のどのような応援がどう影響するかなどの研究を続けている飛鳥信也氏。 昔ながらの鬼コーチと言われる逆らえない存在も少なくないキックボクシング界での指導方法や、他競技との比較など、なかなか面白い研究だろう。

更には飛鳥信也氏自身が「ナイスミドル」に出場したことや、アマチュア世界学生ムエタイ大会の出場選手の心の分析もデータの一つとして新たな研究を進めている。若い学生に囲まれた姿は若々しく、プロ現役選手のようであった。(本文中敬称略)

かつて戦った斎藤京二氏と再会。目黒ジム披露懇親会(2005.4.17)

▼堀田春樹(ほった・はるき)[撮影・文]

フリーランスとしてキックボクシングの取材歴32年。「ナイタイ」「夕刊フジ」「実話ナックルズ」などにキックのレポートを展開。ムエタイにのめり込むあまりタイ仏門に出家。座右の銘は「頑張るけど無理しない」

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