臨時国会の予算委員会を終えて、日本学術会議の会員任命拒否の問題点が明らかになったので、整理して論点をまとめておこう。

「総合的・俯瞰的な観点から任命を考えたということです」「会員と結びつきのある任命を従来の会員任命を既得権と考えて、任命権者として判断したということです」「憲法15条第1項の公務員の任命権」と、オウムのように繰り返すしかなかったのが菅総理の答弁である。そして新たに、内閣府と学術会議の「事前調整がなかあったから、任命拒否という結果になった」と、学術会議の推薦に事前関与してきたことを明らかにしたのだ(自民党議員への答弁)。これは迂闊だったのではないか。

そしてその中身は「考え方のすり合わせということ」としながら、内容はすでに論理破綻している「旧帝国大学に偏っている」「多様な人材の登用」「若い人材の登用」である。けっきょく、個別の人事にかかわることなので、公表することは差し控えたい、という理屈に持っていくのだ。

1985年の中曽根政権による「総理大臣の会員任命は形式的なもの」「学術会議の推薦に介入するものではない」という政府見解を、2018年の内閣府法制局の恣意的な解釈変更(一貫していると強弁)によって、「そのまま任命するものではない」「任命権者として、国民にたいして責任を負える人事権の行使」と、ねじ曲げてしまったのだ。その結果、政権に批判的な言動をした研究者の任命を拒否できる、という本来の理由を開示しないまま、うやむやに終わらせようというのである。だが、上記の「事前の調整」によって、政権にとっても事態は抜き差しならなくなっている。


◎[参考動画]菅総理が本格論戦“矛盾”指摘も答弁かみ合わず(ANN 2020年11月2日)

◆「個別の人事」の基準を明らかにさせよ

そもそも「任命が人事問題であり、個別の人事は明らかにしない」という小理屈を許しているかぎり、この問題は解決しないことが明らかになったのだ。そうであれば、総理が言う個別の人事、すなわち個々の選考基準について明らかにさせる以外にないのだ。この点において、野党の追及は甘すぎる。

この任命拒否問題が明らかになってから、メディアは保守系リベラル系を問わず、拒否の理由を明らかにするべき。と警鐘を鳴らしてきたはずなのに、なぜか「個別の人事」の前に臆してしまっているのだ。けっして明らかに出来ない(政権批判が理由)なのだから、収拾するにはその一線を越えるしかない。

いっぽう、自民党もいら立ちを明らかにしている。下村博文政務調査会長が「野党は学術問題ばかりだ」と、他の審議が遅れるなどと愚痴っているのだ。森友・加計・桜を見る会問題に加えて、政府が「差し控えたい」からこそ審議が進まないのではないのか。そればかりではない。ことは民主主義の根幹にかかわる、学問の自由が存亡の危機に立っているのだ。

それは政府が言うような、「個人の学問の自由」の問題ではない。また、野党が主張する、人事問題が「研究に対して委縮効果」を単に持つからでもない。ほかならぬ政策への批判的な見地こそが、政府の法案や施策にたいして効果的な検証を持ちうるからなのだ。この点を、野党もよく理解できていないのである。

批判を何よりも怖れ、異見を怖がる政権担当者の度量のなさ。いや、臆病なまでの神経過敏が、国の指針を過てる可能性があるからこそ、本来は学術会議のような政府機関(特別公務員)に、批判的な人物を任命する必要があるのだ。

今回、独裁者が本質的に批判を怖れ、臆病なまでに批判者を排除するものであることが、満天下に明らかになったといえよう。

そして危機感からか、ここにきて新たな動きがあった。共同通信が11月8日に「『反政府先導』懸念し拒否 学術会議、過去の言動を問題視か」と題する記事を打ってきたのである。

◆「過去の言動」「反政府運動を先導」

「首相官邸が日本学術会議の会員任命拒否問題で、会員候補6人が安全保障政策などを巡る政府方針への反対運動を先導する事態を懸念し、任命を見送る判断をしていたことが7日、分かった。安全保障関連法や特定秘密保護法に対する過去の言動を問題視した可能性がある。複数の政府関係者が明らかにした」というものだ。
この問題を奉じたリテラは、全国紙の記者の観測を明らかにしている。

「共同は『複数の政界関係者』としていたが、6人を排除した当事者である杉田(和博)官房副長官からコメントをとっていたらしい。おそらく、これまでは理由を伏せてごまかして乗り切ろうとしていたが、国民が納得しないので、逆に6人が危険思想の持ち主であるかのように喧伝して、世論を味方につけようとしているのだろう」と。

つまり、政府のほうから「過去の言動を問題視」して、会員候補が「反政府運動を先導する」から任命拒否をしたのだと、匂わせてきたのである。あきらかに世論をミスリードする意図的な記事だが、むしろ追い詰められて「自白した」というのが正しい受け取り方である。

とりわけ、政府関係者が「扇動」と言ったのを、共同通信が忖度して「先導」と言い替えたのではないかと、思わずわらってしまったのは私だけではないだろう。あきらかに政権は焦れているのだ。思いもよらない躓きで、菅義偉総理の困惑した表情がテレビに映し出され、オウムのように「総合的、俯瞰的な考え方から」と繰り返すたびに、この男の無能さ加減、ボキャブラリーのなさが明らかになりつつあるからだ。

無内容な演説が得意だった安倍晋三ならば、やたらと時間をかけて答弁をはぐらし続けることも可能だった。だが、菅義偉にはその軽薄な能弁もないのだ。


◎[参考動画]菅首相、国会答弁で“自助”できず?【news23】(TBS 2020年11月6日)

◆あまりにもポンコツすぎる

もうひとつ、わずか4日間の集中審議で明らかになったのは、心配されていた菅義偉の総理としての答弁能力である。ポンコツなのである。あまりにも自分の言葉がないのだ。野党議員の質問の意味がわからずに目が泳ぎ、秘書官のメモなしには答えられない場面が続出した。独自の政治哲学や政治構想を披歴できるわけでもない。

やはりこの人は、裏方に徹するべきであった。わずか十数分の、記者クラブの馴れ合い的な質問に「その質問に答えることは差し控えたい」「仮定の質問には答えない」「批判は当たらない」などと定型句で応じ、批判的な記者の質問には「あなたの質問には答えません」と言いなすことができた官房長官とはちがい、総理大臣には「答弁拒否」は許されないのである。

もうこれ以上、集中審議に耐えられないと見たからこそ「政府関係者」は、任命拒否の理由をリークし、任命されなかった研究者たちが反政府運動の「扇動者」であることを、世論リードの水路にしようとしているのだ。だがそれは、任命拒否が政治的な理由であることを、みずから暴露するものにしかならないであろう。菅義偉の無能・ポンコツぶりに危機感を持った官邸関係者が、みずから墓穴を掘りはじめたのだ。


◎[参考動画]【字幕】辻元清美(立憲民主党)VS菅義偉内閣総理大臣 2020年11月4日衆議院予算委員会(国会パブリックビューイング2020年11月7日)

▼横山茂彦(よこやま・しげひこ)

編集者・著述業・歴史研究家。歴史関連の著書・共著に『合戦場の女たち』(情況新書)『軍師・官兵衛に学ぶ経営学』(宝島文庫)『闇の後醍醐銭』(叢文社)『真田丸のナゾ』(サイゾー)『日本史の新常識』(文春新書)『天皇125代全史』(スタンダーズ)『世にも奇妙な日本史』(宙出版)など。医科学系の著書・共著に『「買ってはいけない」は買ってはいけない』(夏目書房)『ホントに効くのかアガリスク』(鹿砦社)『走って直すガン』(徳間書店)『新ガン治療のウソと10年寿命を長くする本当の癌治療』(双葉社)『ガンになりにくい食生活』(鹿砦社ライブラリー)など。

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70年という年をどう考えるか。それは「68年論」として語られる戦後政治文化、カウンターカルチャーの決算。あるいは高度経済成長の到達点であり、政治文化(学園紛争)と経済成長(公害の顕在化)が沸騰点で破裂し、ある種の頽廃を招いた。といえば絵面をデッサンすることができるだろうか。

多感な時期にこの時代の息吹を感じながらも、わたしはその後のシラケ世代と呼ばれる意識の中にいた。その意味では、あと知恵的に時代を解釈することになるが、おおむね二つの史実に則って『端境期の時代』が描く時代を批評することにしたい。

 

『一九七〇年 端境期の時代』(紙の爆弾12月号増刊)

その象徴的なふたつの史実とは、赤軍派に代表される新左翼運動の「頽廃」、そしてその対極にある三島由紀夫事件である。関連する記事にしたがえば、長崎浩の「一九七〇年岐れ道それぞれ」、若林盛亮「『よど号』で飛翔五十年、端境期の闘いは終わっていない」、三上治「暑かった夏が忘れられない 我が一九七〇年の日々」、板坂剛の司会になる「激突座談会“革マルvs中核”」、そして中島慎介の労作「『7.6事件』に思うこと」である。

三島事件(市ヶ谷蹶起)は50年を迎えるので、別途この通信において集中的にレポートしたいと思う。近年になって、あらたに判明した事実(証言)があるので、あえてレポートという表題を得たい。『紙の爆弾』今月号には、「市ヶ谷事件から50年 三島由紀夫の標的は昭和天皇だった」(横山茂彦)が掲載されているので、ぜひともお読みいただきたい。

◆単なる「流行」だったのか?

さて、70年という年を回顧する前に、68・69年の学生叛乱が何だったのか。という問題から出発しよう。

その当事者たち(今回「『続・全共闘白書』評判記」を寄稿した前田和男)も、当該書の副読本が必要(現在編集中)と述べているとおり、あの時代を読み解く必要がある。ひるがえって言えば、あれほどの学生運動・反戦運動の高揚がいまなお「わからない」というのが、当事者にとっても現実なのである。

あの時代および運動の間近にいたわたしも、明瞭に説明することはむつかしいが、単純に考えればいいのかもしれない。わたしの仕事上の先輩にあたる地方大学出身の人は言ったものだ。「流行りであった」と。過激な左翼であること、反戦運動を行なうことは、たしかに「流行り」だった。流行りはどんな時代も、若者のエネルギーに根ざしている。

たとえばコロナ禍のなかでも渋谷や道頓堀につどう若者たちは、いつの時代にもいる跳ね上がり分子ではないだろうか。既成左翼から、わたしたちの世代も含めて新左翼運動は「はみ出し」「跳ね上がり」と呼ばれたものだ。

いや、自分たちで「跳ねる」とか「跳ねた」と称していたのである。デモで機動隊の規制に逆らい、突っ張る(暴走族用語)ことを「跳ねる」と表現したのだ。跳ねたくなるほど、マルクス主義という外来思想、実存主義や毛沢東主義という流行。冷戦下において、ソ連邦をふくむ「体制」への反乱が「流行った」のである。

団塊の世代に「あれは流行りだったんでしょ?」と問えば、いまでは了解が得られるかもしれない。わたしの世代は内ゲバ真っ盛りの世代で、さすがに革命運動内部の殺し合いが楽しい「流行り」とはいかなかったが、おそらく60年安保、その再版としての68・69年(警察用語では「第二次安保闘争」)は、楽しかったにちがいない。70年代にそれを追体験したわたしたちも、内ゲバや爆弾闘争という深刻さにもかかわらず、その余韻を楽しいと感じたものである。


◎[参考動画]1970年3月14日 EXPO’70 大阪万博開幕  ニュース映像集(井上謙二)

◆赤軍派問題と三島事件は、60年代闘争の「あだ花」か?

前ふりが終わったところで、本題に入ろう。まずは赤軍派問題である。

言うまでもなく赤軍派問題とは、ブントにとって7.6問題(明大和泉校舎事件)である。二次ブント崩壊後にその分派に加入したわたしの立場でも言えることは、赤軍派は組織と運動を分裂させた「罪業」を背負っているということだ。

その意味では中島慎介が云うとおり、赤軍派指導者には政治的・道義的責任が集中的にある。その一端は、嵩原浩之(それに同伴した八木健彦ら)においては赤軍派ML派・革命の旗派・赫旗派という組織統合の遍歴の中で、政治的に赤軍派路線(軍事優先主義の小ブル急進主義)の清算として果たされてきた。今回、中島が仲介した佐藤秋雄への謝罪で、道義的な責任も果たしたのではないか。

ただし、植垣康博をはじめとする、連合赤軍の責任を獄中赤軍派指導部にもとめるのは、違うのではないかと思う。当時のブントおよび赤軍派において、獄中者は敵に捕らわれた「捕虜」であり、組織内では無権利状態だった。物理的にも「指導」は無理なのである。

それにしても、中島のように真摯な人物があったことに驚きを感じる。というのも、ついに没するまでブント分裂の責任を回避しつづけた塩見孝也のような指導者に象徴されるように、赤軍派という人脈の組織・政治体質には「無反省」と「無責任」が多くみられるからだ。日本社会の中で大衆運動を責任を持って担ってこなかった、その組織の歴史に大半の原因があると指摘しておこう。大衆運動の側を見ていないから、安易な乗り移りで思想を反転させることができるのだ(塩見の晩年の愛国主義を見よ)。

赤軍派が発生した理由として、第二次ブント自体の実像を語っておく必要があるだろう。

第二次ブントという組織は、その結成から連合組織であった。第一次ブントの「革命の通達派」のうち(第一次戦旗派・プロレタリア通信派は革共同=中核派・革マル派へ合流)、ML派と独立社学同(明大・中大)が連合し、単独して存続していた「関西地方委員会」と合同。独自に歩んでいた「マルクス主義戦線派」を糾合して1966年に成立した。しかしすぐにマル戦派と分裂することに象徴されるように、その派閥連合党派としての弱点は覆うべくもなかった。

たとえば、集会が終わってデモに出発するとき、各派閥の竹竿部隊(自治会旗を林立させ)が「先陣争い」と称してゲバルトを行なうのが習わしだった。つまり、集会とデモは「内ゲバ」を、祝砲のように行なわれるのが常だったのだ。

というのも、各大学の社学同(共産同の学生組織)ごとに、ブント内の派閥に属していたからだ。7.6事件では中島と三上が詳述しているように、仏徳二議長は専修大学の社学同、赤軍派は京大・同志社・大阪市大・関東学院などを中心にしたグループ、その赤軍派幹部を中大に監禁したのは、明大と医学連の情況派、その現場は中大社学同の叛旗派の縄張りだった。

故荒岱介の証言として、社学同全国合宿のときに、仏徳二さんが専修大学の学生だけで打ち上げの飲み会を行なっていたことを、のちに赤軍派となる田宮高麿が「関西は絶対、ああいうこと(セクト的な行動)はさせへんで」と批判していたという。

そのような連合組織としての弱点、党建設の立ち遅れ(これはもっぱら、革共同系の党派との比較で)を克服するために、とくに68年の全共闘運動の高揚から70年決戦に向かう組織の革命がもとめられたのだ。その軍事的な顕われが赤軍派だったのである。

これまで、もっぱら赤軍派の元指導者、ブント系の論客(評論家やジャーナリスト)によって赤軍派問題と連合赤軍総括問題は論じられてきたが、現場の証言が物語るその実態は、理論的に整理された美辞麗句をはるかに超えている。この貴重な成果のひとつが、今回の中島慎介の証言にほかならない。じつに具体的に、しかも他者の証言をもとに反証をしながらまとめられているので、ぜひとも読んでほしい。

その貴重な証言が、元赤軍派を中心とした書籍の準備において、こともあろうか「全体の四割が削減され、文面も入れ替えられ、更に残りのゲラの一割の部分をも削除され、意味不明の代物とされてしまいました」(中島)というのだ。

「事実究明に程遠い『事前検閲』『文章の書き替え』など、どこかの政府を見習ったかのような行為は、恥ずべき行為だ」と言いたくなるのは当然である。

まさに、60年代闘争の「あだ花」としての赤軍派の体質がここに顕われている。本人たちは嘘と歴史の書き替えで、晩節を飾るつもりだったのか? アマゾンにおける関係者の酷評「執筆者各位の猛省を促す」が、その内実を物語っている。


◎[参考動画]1970年3月31日 赤軍派 よど号 ハイジャック事件(rosamour909)

◆赤軍派と殉教者にせまられた、三島蹶起

三島由紀夫の天皇との関係(愛と憎悪)を先駆けて論じたのが『三島由紀夫は、なぜ昭和天皇を殺さなかったのか』(鹿砦社ライブラリー)を書き、今回「三島由紀夫蹶起――あの日から五十年の『余韻』」を寄せた板坂剛である。今回は具体的に、事件後の知識人・政治家たちの混乱を批判している。とりわけ、村松剛の虚構の三島論はこれからも指弾されて当然であろう。わたしに言わせれば三島の男色を隠すことで、村松が遺族との関係、したがって三島批評の立場を保ったにすぎない。その結果、村松の論考は、現在の三島研究では一顧だにされなくなっている。

もうひとつは、赤軍派との関係である。一過性のカッコよさではあったにせよ、論考を寄せている若林盛亮らのよど号事件が、三島に与えた影響は大きいだろう。これを板坂は「70年の謎とでも言うべきだろうか」としている。

よど号事件後の三島が、赤軍派の支離滅裂な政治論文を漁っていたとの証言もある(安藤武ほか)。そのほか、三島が「計画通り」の蹶起と自決を強行したのは、東京五輪銅メダリスト円谷幸吉(68年)、国会議事堂前で焼身自殺した自衛官江藤小三郎(69年)の影響を挙げておこう。70年という時代が、三島を止めなかったのである。これについては、別稿を準備したい。


◎[参考動画]1970年11月25日【自決した三島由紀夫】(毎日ニュース)

◆革マル vs 中核

やってくれた、鹿砦社と板坂剛! これはもう、わたしが編集している雑誌でやりたかった企画である。ただし、もっと自省的に語る「過ち」「錯誤」「悔恨」などであれば、まったく敬服するほかなかったが、板坂が司会の「激突座談会」は罵詈雑言、罵倒の応酬である。まったく愉快、痛快である。

元革マルの人も元中核の人も、対抗上こうなったのか。あるいは元べ平連の出席者が疑問を呈するように、もしかしたら現役なのか。

しかしいつもどおり、板坂の企画は読む者を堪能させる。前回の「元日大全共闘左右対決」も何度も読み返したものだが、今回は前回よりも底が浅い(お互いの個人的な因縁が、両派の主張に解消されてしまった)にもかかわらず、留飲を下げたと、感想を述べておこう。


◎[参考動画]2020年10月16日 公開中核派拠点を警視庁が家宅捜索 関係者が立ち入りの捜査員を検温(毎日新聞)

▼横山茂彦(よこやま・しげひこ)

編集者・著述業・歴史研究家。歴史関連の著書・共著に『合戦場の女たち』(情況新書)『軍師・官兵衛に学ぶ経営学』(宝島文庫)『闇の後醍醐銭』(叢文社)『真田丸のナゾ』(サイゾー)『日本史の新常識』(文春新書)『天皇125代全史』(スタンダーズ)『世にも奇妙な日本史』(宙出版)など。医科学系の著書・共著に『「買ってはいけない」は買ってはいけない』(夏目書房)『ホントに効くのかアガリスク』(鹿砦社)『走って直すガン』(徳間書店)『新ガン治療のウソと10年寿命を長くする本当の癌治療』(双葉社)『ガンになりにくい食生活』(鹿砦社ライブラリー)など。

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◆沖縄から生まれた名キックボクサー

長浜勇(ながはま・いさむ/市原/1957年11月16日沖縄県出身)の本名は、長浜真博(まさひろ)。デビュー当時に市原ジムの玉村哲勇会長の名前から一字頂き、“勇”をリングネームとした。

長浜勇は、昭和50年代のキックボクシング界の底知れぬ低迷期から復興時代への変わり目に、向山鉄也と共に業界を牽引した代表的存在で、団体が分かれている中では最も統一に近い時代の日本ライト級チャンピオンである。

1985年1月、日本ライト級チャンピオンとなった長浜勇(1985.1.6)

◆地道に進んだ新人時代

長浜勇は高校3年生の時、アマチュアボクシングで沖縄と九州大会で準優勝。推薦で大学進学の道もあったが、両親への学費の負担を考えて進学はしなかった。一旦地元で就職したが、1979年(昭和54年)初春、21歳で上京し、千葉県市原市の土木関係の会社に転職。

そこで先輩に市原ジム所属選手が居たことが長浜勇の運命を決定付けた。先輩に勧められてジムを見学すると、「こんなところにもジムがあるんだなあ、いいなあこの汗臭い雰囲気!」と戦う本能や、沖縄にいた時、テレビで同郷の亀谷長保(目黒)の活躍が頭を過ぎり入門を決意した。

1979年4月、長浜は入門わずか1ヶ月あまりでデビューした。仕事の合間を縫って練習に通ったのは10日間ほど。選手は少なく、誰かが教えてくれるといった環境も無く、蹴りなんて全く素人のまま。しかし、玉村会長は大胆にも試合を組み、「蹴らなくていいからパンチだけで行け!」と言うのみ。そんないい加減な時代でもあったが、アマチュアボクシングの経験を活かし、そのパンチだけでノックアウト勝利した。

市原ジムの独身選手はジムのほんの近くでアパートか平屋の借家暮らし。長浜勇はそんな借家で夏は全ての窓開けっぱなしで寝ていた。そんなある日、観ていたテレビはキックボクシング。

当時は深夜放送に移ったが、まだTBSで週一回の放映があった時代。同じ日にデビューした目黒ジム所属選手は放映されたのに、長浜勇はせっかくのKO勝利も放映が無くて残念だったという。

いずれはもっと勝ち上がってテレビに映ることを目指しながらも、テレビレギュラー放映は打ち切られ、キック業界は興行が激減していった頃だった。

その後、市原で就職した会社は辞め、玉村会長が興していた、同じ土木専門の玉村興業で働くことになった。それはジムでの練習に向かう時間の融通を利かせる為ではあったが、器用な長浜勇はやがて現場監督に昇格し、後々であるが現場から離れられない時間が増えていった。残業の上、家に帰っても受け持つ幾つかの工事現場の翌日の派遣人員配置や、生コンクリートをどの現場にどれぐらい発注するかといった業務等で電話しまくり。ジムに行って練習する時間など無かった。「それでどうやって勝てるのか!」という不安はあったが、人の見ていないところで練習するというのは事実だった。例え30分でもジムへ行って集中してサンドバッグを打込む。そんな話を本人からチラッと聞いたことがあった。

◆飛躍の軌跡

トップスターへの出発点となったのは1982年(昭和57年)10月3日の有馬敏(大拳)戦だった。

かつてジムの大先輩・須田康徳と名勝負を展開した元・日本ライト級チャンピオン相手に、パンチだけに頼らず、蹴られても前に出て蹴り返し、引分けに持ち込む大善戦だった。

そこから上り調子。翌月から始まった1000万円争奪オープントーナメント62kg級へ出場すると、長浜勇は初戦で三井清志郎(目黒)、準々決勝で砂田克彦(東海)にKOで勝ち上がり、準決勝で予想された先輩、須田康徳と対戦。

世間は決勝戦を須田康徳vs藤原敏男(黒崎)と予測しており、長浜勇自身もそう考える一人だった。それまで須田先輩から多くの指導を受け、尊敬し敬意を表しつつも、普段は仲のいいジムメイト。

「須田さんに怪我でもさせて藤原戦に支障をきたしてはいけない!」と一度は辞退を申し入れたが、玉村会長はこれを許さなかった。先輩であろうと引きずり下ろさねばならないプロの世界だった。長浜勇は心機一転、須田康徳戦に全力で挑み3ラウンド終了TKOに下す。

大先輩、須田康徳を下す大波乱(1983.2.5)

一方の準決勝、藤原敏男は足立秀夫(西川)を倒すも、そのリング上でまさかの引退宣言。決勝戦の3月19日、長浜勇が勝者扱いで優勝が決定。日本中量級のトップに立った新スター誕生だった。

決勝戦の相手、藤原敏男と対面(1983.3.19)

その後も日本人キラーだったバンモット・ルークバンコー(タイ)に5ラウンドKO勝利し、過去2度敗れているライバル足立秀夫を2ラウンドKO勝利で上り調子だったが、ここで一旦、その足を掬われる結果を招く。藤原敏男が引退した後、どうしても避けて通れない相手がその藤原敏男の後輩で、藤原にKO勝利したことがある斎藤京二だった。怪我でオープントーナメントは欠場したが、優勝候補の一人の強豪だった。

過去2敗、ライバルの足立秀夫に雪辱果たす(1984.1.5)

1984年5月26日、その斎藤京二に2ラウンドKO負けを喫してしまった長浜勇。頂点に立った者が崩れ落ち、またまた混沌としていく日本のライト級。そんなキック業界も底知れぬ低迷の中、まさかの統合団体の話が持ち上がったのが同年10月初旬で、11月30日にその画期的日本キックボクシング連盟(後にMA日本と二分)設立記念興行に移っていった。

足を掬われた斎藤京二戦(1984.5.26)

集中力でサンドバッグ打ち、パンチ力は最強(1984.10.5)

撮影の為に気合入れる長浜勇、ミット持つのはサマになっていない素人の私(1984.10.7)

過去のチャンピオン経験者が優先された王座決定戦。

1985年1月6日には日本ライト級王座決定戦に出場した長浜勇は、旧・日本ナックモエ・ライト級チャンピオン、タイガー岡内(岡内)を1ラウンドKOで下し、初代チャンピオンとなった。この後、挑戦者決定戦を勝ち上がって来たのが斎藤京二。因縁の厄介な相手が初防衛戦の予定だったが、斎藤京二は前哨戦で三井清志郎(目黒)に頬骨陥没するKO負けを喫してしまう。

タイガー岡内を倒し、日本ライト級王座獲得(1985.1.6)

同年7月19日、長浜勇の初防衛戦はその代打となった三井清志郎(目黒)戦。過去、長浜に敗れている三井は雪辱に燃えていたが、長浜は冷静沈着。三井の蹴ってくるところへパンチを合わせ主導権を握ると3ラウンドKO勝利。これで難敵をまず一人退けたが、あの当時の日本ライト級は強豪ひしめくランキングだった。後に控える斎藤京二、甲斐栄二、飛鳥信也、須田康徳、越川豊。これらをすべて退けることなど無理だっただろう。

三井清志郎を倒し初防衛(1985.7.19)

◆ピークに陰り、そして引退

1986年(昭和61年)1月2日、2度目の防衛戦で甲斐栄二(ニシカワ)の甲斐の豪腕パンチで左頬骨を陥没するKO負け。やはり来た試練。左の頬骨に固定する針金が飛び出したままの状態が3週間続いた。

復帰戦は同年7月13日、フェザー級から上がってきた不破龍雄(活殺龍)との対戦で、思わぬ苦戦をしてしまう。重いパンチで圧力を掛け、ローキックでスリップ気味ながらノックダウンを奪ったところまでは楽勝ムードだったが、いきなり猛反撃してきた不破のパンチを食らってペースを乱してしまう。今迄に無い乱れたパンチと蹴り。強豪ひしめくライト級で再び王座を狙うには、かなり厳しい境地に陥った辛勝だった。

不破龍雄に大苦戦(1986.7.13)

しかし、まだ長浜勇の活躍が欲しいMA日本キック連盟は翌年1月、石川勝将代表が企画した、本場に挑むルンピニー・スタジアム出場枠に選ばれ、当時、話題の中心人物だった竹山晴友(大沢)と共にタイへ渡った。結果は判定負けながら、初の本場のリングで堂々たる積極的ファイトを見せた。同年4月18日、朴宙鉉(韓国)にKO勝利し、石川勝将代表から「越川豊(東金)とやらないか?」と問われ、着実に上位進出していたその存在があったが、土木業が拡大化してきた背景と、すでに妻子ある守るべき家庭を持っていたこともあり、密かに引退を決意していた。

1988年9月、地元の市原臨海体育館で行なわれた先輩・須田康徳の引退興行は、市原ジムの集大成で時代の一区切りとなった須田と二度目の対決。初回、長浜は須田の強打に三度のダウンを奪われ、最後はダブルノックダウンに当たるが、当時のルールにより3ノックダウン優先のKO負け。互いがガツガツと打ち合った密度の濃い一戦だった。そして長浜勇も須田康徳戦をラストファイトとして締め括った。

長浜勇は引退前に、婚約していた沖縄の同級生と結婚し、後に3人の娘さんの父親となった。長浜勇は普段お酒はあまり飲まないが、仲間内の宴会では飲み過ぎて酔えば暴れて起こしたハプニングは計り知れない。そんな暴れん坊は“市原ジム出入り禁止”なんて事態にも一時的にあったようだが、根は優しく市原ジムのムードメーカーでもあった。還暦を超えた今、お孫さんを可愛がるその姿を見に行きたいものである。

▼堀田春樹(ほった・はるき)[撮影・文]

フリーランスとしてキックボクシングの取材歴32年。「ナイタイ」「夕刊フジ」「実話ナックルズ」などにキックのレポートを展開。ムエタイにのめり込むあまりタイ仏門に出家。座右の銘は「頑張るけど無理しない」

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『紙の爆弾』12月号、11月7日発売!菅首相は「令和のヒトラー」

月刊『紙の爆弾』12月号が本日発売になりました。このかん『紙の爆弾』は、執拗な自公政権追及で部数を伸ばしてきました。今月号もさらに鋭く追及の矢を放ちます。小さくても存在感のある雑誌を自認する『紙の爆弾』ですが、号を重ね創刊15年余り経ちました。『紙の爆弾』は、ご存知のように創刊直後に「名誉毀損」に名を借りた出版弾圧を食らいました。この壊滅的危機を皆様方のご支援で乗り切り現在に至っているわけですが、「ペシャンコにされてもへこたれないぞ」という気概は衰えていないつもりです。

また、本誌の継続的企画として冤罪問題があります。今月号は、労働者の町・釜ケ崎に根づき、仲間と共に不正を追及している尾崎美代子さんが「神戸質店事件」を採り上げています。詳しくは記事をお読みいただきたいですが、一審無罪が、新たな証拠もないのに控訴審でなんと無期懲役に、そして最高裁もこれを追認し確定しています。怖い裁判です。

さらに、先月号から始まった「士農工商ルポライター稼業」についての検証作業、今月号も6ページを割き行っています。今月号は松岡に加え黒藪哲哉さんに寄稿いただきました。本誌を紐解いてお読みいただきたいですが、誤解しないでいただきたいのは、私たちは解放同盟と敵対するものではなく、共同作業として〈差別とは何か?〉について公開で議論していく中から問題の在り処を探究する所存だということです。幸いに解放同盟の方も寛容の心を持って対応していただいています。半年、1年と議論をしていく過程で問題の〈本質〉を抉り出し、ゆくゆくは共同声明としてまとめたいと願っています。

「士農工商ルポライター稼業」問題も継続的に議論検証していきます!

◎このコロナ禍で、当社も売上減を余儀なくされています。この機会に定期購読で本誌を支えてください。1年分(12号)=6600円を郵便振替(01100-9-48334 口座名=株式会社鹿砦社)でご送金ください。1号お得です。今、お申し込みくだされば、特製ブックカバーに加え、魂の書家・龍一郎揮毫の「2021鹿砦社カレンダー」を贈呈いたします。

本日11月7日発売!『紙の爆弾』12月号!

◎『紙の爆弾』12月号 https://www.kaminobakudan.com/

前回前々回と、新型コロナウイルスに関し、検査数の増加は可能であり、治療薬やワクチンというものは利権構造にまみれやすいということを述べた。

◆その後のワクチンに関する政治の動向

8月、日本政府はイギリスの製薬大手「アストラゼネカ」から6000万人分以上の供給を受けることで基本合意し、うち1500万人分については2021年3月までの供給を目指している(「ワクチン開発に成功した場合、日本に1.2億回分、うち3000万回分は2021年3月までに供給する基本合意」との厚労省資料もある。おそらくファイザー同様6000万人分=1人2回接種で1億2000万回分)。

 

イギリス国内でオックスフォード大学と共同で開発を進めるなか、臨床試験(治験)の被験者の女性1人に副作用が疑われる深刻な症状が確認されたことなどにより、世界各地の臨床試験は9月6日に中断された。だが、安全だと判断されて9月12日以降にイギリスで再開され、10月2日には日本でも再開したと発表された。この「アストラゼネカ」、アメリカのバイオ製薬「ノババックス」と提携する武田薬品工業、第一三共、塩野義製薬、アンジェス、KMバイオロジクスの6社が、ワクチンの生産体制を整備し、厚生労働省はこの6社に対して総額最大約900億円の助成を決定。インフルエンザワクチンを接種しないが、コロナのワクチンについては検討するという人も膨大な数にのぼるだろう。製薬会社にとっては、またとないチャンス。だからこそ、ワクチン関連の報道はチェックし続けたいところだ。

厚生労働省は、10月2日に新型コロナウイルスのワクチンの接種費用を全員無料にする方針を厚生科学審議会の分科会に提示して了承されたことを受け、10月下旬に召集予定の臨時国会にこの無料化の件を含む予防接種法改正案を提出することとなった。

◆「任意」と「強制」

そしてここで、新型コロナウイルスをきかっけとして話題にのぼった、「任意」と「強制」に関し、改めて確認しておきたい。

最近も、航空関連で同様の話題があった。たとえば沖縄の那覇空港や離島8空港では、唾液採取による抗原検査やサーモグラフィーによる体温測定が実施されている。ただし、これらは法令上、任意のため、時間的制約のある人などは協力に応じていない。航空機内などでは、マスク着用をきっかけとしたトラブルが相次ぐ。北海道の釧路空港から関西空港に向かうピーチ・アビエーション機内、北海道の奥尻空港から函館空港に向かう北海道エアシステム(HAC)機内でトラブルとなり、乗客が降ろされている。実際、機内での感染は伝播しにくいという専門家もいる。

接触確認アプリ「COCOA」、ダウンロードも陽性の人の登録も強制ではない。

『Bloomberg』によれば、「香港の林鄭月娥(キャリー・ラム)行政長官は1日、700万人余りの香港市民に新型コロナウイルスの無料検査への参加を呼び掛けた。今回の大規模検査は任意だが、希望者の事前登録が低水準にとどまっている」「労働組合の香港金融業職工総会は、中国の方正証券が香港の従業員に政府実施の新型コロナ検査を受けるよう圧力をかけていると批判した」「希望者のみを対象としている検査であり、従業員のニーズと意思に基づき検査を受けるかどうかは自由であるべきだと主張した」とのことだ。

ワクチンもまた、近年の「自己責任論」を振りかざすため、そして国の責任逃れのために、任意のものとして扱われるだろう。

ちなみに、物事を強制すると、刑法上の強要罪(刑法223条)や暴行罪(208条)に該当する可能性があるようだ。

ただし5月、兵庫県加西市の西村和平市長が「新型コロナウイルス感染症対策基金」を立ちあげて予算が立てられ、特別定額給付金を寄付するよう市の約600人の正規職員などに呼びかけられた際のように、任意としながらも強制だと受け取られるような内容だった例もある。

この社会に特有の任意と強制に対するスタンスについては、歴史・哲学、そして自由や基本的人権の文脈でも調べたが、なかなか決定的な背景にたどり着くことはできなかった。そのような特定の1つのものがあるというわけでは、やはりない。

たとえば国土学の専門家である大石久和氏は、『ニッポン放送』で、「日本では日常の利便性が優先されるのに対して、日本以外の国では安全保障が優先されます。これは、『ある約束を全員が守らなければ全員が死んでしまう』という経験、紛争死(紛争による大量虐殺)を繰り返し経験してきた人々と、自然災害で死んでいった日本人の経験の差(違い)によるものです」「日本人はそういう強制を非常に嫌う国民なのです。先ほど話しましたが、日本人には強制されることで命が守られたという経験がないのです。我々はそういう違いを持った国民であり、民族」と言う。

「海外の世界地図をみれば日本列島は端にあり、まさに文化などの吹きだまりであることがわかる」という話を耳にしたことがある。そのようななか、外からくるものをゆるやかに受け入れて独自に「調理」し続けるような性質が、強制や決定よりも任意や合意を優先することも考え得る。

『産経新聞』によれば、「『日本国憲法に国家緊急権が規定されていないことが背景にある』と指摘するのは、大和大の岩田温准教授(政治学)だ」「戦前の大日本帝国憲法には国家緊急権の規定があったが、現行憲法には存在しない。戦争の反省から国家の暴走を防ぐ意識が働いたとされる。このため日本では戦後、大災害など有事の際は個別の法律を新設、改正して対応してきた経緯がある」「岩田氏は『立憲主義の観点から私権制限には慎重な判断が必要』とした上で、『憲法を守るより、国民を守る政治的判断がより重要となる局面はあり得る。これを機に、憲法に例外的な緊急事態条項を設ける議論をすべきだ』と訴える」「一方、『憲法を変えずとも強い措置は可能』との考えを示すのは東京都立大の木村草太教授(憲法)。科学的根拠があって基本的人権に配慮した感染症対策は、現行憲法は禁じていないとし、木村氏は『憲法上の個人の権利と統治機構のルールを守った上で法整備し、行動規制すればいい。改憲論議と結びつけるのは違う』と論じた」とのことだ。

国家・権力をコントロールするための憲法。それは、制限を受けずに自らの意思に従って行動するさまざまな「自由」を保障する。だが、解釈改憲から現在にいたるまでの民主主義や立憲主義が脅かされるような問題が生じ、3・11もあって、私たちは自分の頭で現在・未来のリスクや可能性を考え、判断しなければならない場面が増えたようにすら感じる。そして現在のこの社会の、権力の問題や成熟の度合いに対する疑問をかんがみれば、やはり個人的にはどうせ国家が責任を負うとも考えにくく、ならば強制でなく任意であり続けたほうがよい面は多いのではないかと考えてしまう。とにかくそれ以前の問題が多すぎる。

たとえばスイスでは直接民主制が発展しており、「スイスでは最終的な決定権を握るのは国民だ。それは憲法改正時だけでなく、新法制定時も同じ。スイスの政治制度で最も重要な柱の一つである国民の拒否権「レファレンダム」は政治家にとって厄介で、立法プロセスが複雑になる要因でもある。だが、国民がいつでも拒否権を行使できるからこそ、持続的かつ幅広く支持された解決策が生み出されている」(『SWI』)というような記事もある。

戦後、政治・経済的にアメリカの「51番目の州」となっている日本社会では、到底なしえない。真の独立と民主化を私たちの手で実現させないかぎり。この程度のボリュームで語り尽くせるテーマではないが、この社会では、新型コロナウイルスに関しても、政府の要請をほぼ受け入れてきたのかもしれない。ぬるま湯のなか、運のよさと、現場や個人の志とで乗り切り続けようとしている。

飲食店などが都の「要請に応じない」と問題視するという話題もあった。これは、後日、補償のテーマで引き続き取り上げたい。

次回以降も、あまり話を戻しすぎないようにしつつ、医療従事者の感染、問題の深刻度、併発と原発被害との比較、対策と公衆衛生学、情報開示、補償と財政などについて引き続き、触れたい。そして、原発、台風、コロナなどの問題を総合的に考えた際、導き出される人類の次の生き方についてまで、書き進めていきたいと考えている。

◎新型コロナウイルスの問題から、次の生き方を再考する 〈1〉 〈2〉 〈3〉

▼小林 蓮実(こばやし・はすみ)

フリーライター、労働・女性運動等アクティビスト。月刊『紙の爆弾』10月号「【ALS嘱託殺人事件】日本ALS協会・岸川忠彦さんインタビュー ALS患者に『決断』を迫る社会の圧力」、11月号「『総活躍』の裏で進行した労働者の使い捨て」、『現代用語の基礎知識 増刊NEWS版』に「従軍慰安婦問題」「嫌韓と親韓」など。

月刊『紙の爆弾』2020年11月号【特集】安倍政治という「負の遺産」他

「大菩薩峠」を知っていますか? 古く(戦前)は中里介山の長編時代小説のタイトルで、今ではほとんど読まれていないのではないでしょうか。私たちの世代では、51年前の1969年のきょう11月5日、赤軍派が首相官邸襲撃―占拠を目指し軍事訓練のために「福ちゃん荘」に集結したところを、事前に情報を入手した警察に53名全員逮捕された事件としてつとに有名です。赤軍派内に入り込んだスパイによってリークされたともささやかれています。このあたりのことは、最新刊の『一九七〇年 端境期の時代』で高部務さんが書いていますのでご一読ください。

警察に急襲され逮捕される赤軍派のメンバー

「福ちゃん荘」の看板(当時と同じものという)

ここまでだったら、激動の時代・60年代後半の一エピソードにすぎないのでしょうが、その後、浩宮(徳仁親王。つまり現天皇。以下「浩宮」と記します)が皇太子時代の2002年9月12日、登山の途中に夫妻で休憩したというのです。このことは、今では消去されていますが、数年前まで「福ちゃん荘」のホームページにも掲載されていました。

普通に考えれば、こういう因縁のある事件があったことで、たとえ浩宮が提案しても、側近や宮内庁が止めるでしょう。よほど浩宮が強く押したのではないでしょうか。浩宮の意図がどこにあるのかわかりませんが、浩宮らしいエピソードです。

さらには、その後(2006年)、かの若松孝二監督は『実録・連合赤軍 あさま山荘への道程』で、この福ちゃん荘を使って撮影したというのです。

「福ちゃん荘」内(当時の新聞記事など掲示)

同上(若松孝二監督のサインを掲示)

あまり知られていないエピソードですが、コアなマニアには知っている人もいるらしく、実際に福ちゃん荘に行って、山荘内を撮影してネットに上げています。山荘内には当時の新聞記事や若松監督のサインも額に入れて飾ってあるというのです(「福ちゃん荘に行ってきた」〔『ちくわブログ』〕。画像も同ブログから転載させていただきました)。いつか行きたいですね。

赤軍派は、この事件以降、翌年の70年には「よど号」ハイジャック事件、連合赤軍による銃撃戦とリンチ殺人事件、M作戦(銀行襲撃)、さらにはテルアビブ空港銃撃事件、「国際根拠地」論に基づくパレスチナでのPFLPとの共闘等々、本気で多くの闘争・事件を起こしていきます。他党派、あるいはノンセクト諸グループ/個々人が本気でなかったなどと言うつもりはありませんが、過激度やスケールが違います。

70年に大学入学以降、足元の学生運動に関わりながら、そうした闘争・事件を見てきました。その想いは、『一九七〇年 端境期の時代』に注ぎ込みましたが、今、60年代後半から70年代はじめにかけての新左翼運動のラジカリズムの在処を検証、総括していかねばなりません。多くの先輩や同級生らがどんどん鬼籍に入っていく中で、私たちは私たちにできる仕方で語るべきだと考えています。ここ数年の『遙かなる一九七〇年代-京都』(品切れ)、『思い出そう! 一九六八年を!!』(品切れ)、『一九六九年 混沌と狂騒の時代』、そして今回の『一九七〇年 端境の時代』へ続くシリーズは、そうした私たちの営為のあらわれです。ぜひご一読お願いいたします。

[追記]11月3日、大阪での「10・8 山﨑博昭プロジェクト」のイベント(映画&トーク)でチラシを配布させていただきましたが、かの東大全共闘代表(当時)・山本義隆さんがみえられていて、ご挨拶し本書を贈呈いたしました。このシリーズは、これまで全て贈呈しています。

渾身の一冊!『一九七〇年 端境期の時代』(紙の爆弾12月号増刊)

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「冤罪王国」。冤罪問題に詳しい人たちの間で、静岡県はそう呼ばれている。世間的に冤罪と認識されている重大事件が多く存在するからだ。

たとえば、死刑判決を受けた人がその後、無罪判決を受けた例を挙げただけでも、島田事件や幸浦事件、二俣事件がある。死刑囚の袴田巌氏に対し、一度は再審開始の決定が出た袴田事件も静岡県の事件だ。こうした「実績」をみると、たしかに静岡県は「冤罪王国」と呼ばれるにふさわしい。

だが、筆者はこれまで様々な冤罪を取材してきて、この静岡県より恐ろしい「裏冤罪王国」があることに気づいた。それは埼玉県である。いわば「表の冤罪王国」である静岡県と比較しながら説明しよう。

さいたま地裁。重大事件の法廷で冤罪の疑いが浮上しながら放置されているケースが目立つ

◆冤罪が「発覚」しやすい土壌があることを窺わせる静岡県

先述したように静岡県では、世間的に冤罪と認識される重大な事件が多く存在する。だが、これは必ずしも悪いことだとは言い切れない。なぜなら、重大な冤罪が多く「発生」しているのではなく、多く「発覚」していることの表れだとも解釈できるからだ。

冤罪被害者の救済は、その事件が冤罪だと「発覚」するところから始まる。そして実際、静岡県には、重大な冤罪が多く「発生」しているのではなく、多く「発覚」している県なのではないかと窺わせる事実が散見される。

たとえば、幸浦事件。1948年に磐田郡幸浦町の自営業者一家4人が殺害されたこの事件は、男性4人が警察の拷問により虚偽の自白に追い込まれた。警察の筋書きでは、4人の自白により浜辺に埋められた被害者の遺体が見つかり、これが「秘密の暴露」にあたるとされていた。

しかし、実際には警察が浜辺から遺体を発見する前、遺体が埋められていた場所に目印の鉄棒が立てられていたことが住人の証言により判明した。それが、男性4人の自白が虚偽だとわかるきっかけの1つとなった。

また、1950年に静岡県二俣町で家族4人が殺害された二俣事件では、やはり容疑者の少年が警察の拷問により虚偽の自白に追い込まれた。この少年が一度は死刑判決を受けながら、無罪判決を勝ち取る過程では、捜査を手がけた山崎兵八刑事が読売新聞紙上で警察の拷問や供述調書の捏造を告発する事態が起きている。

このように住人や現職刑事の告発が冤罪発覚のきっかけになるのは、極めて異例だ。さらに袴田事件でも、静岡県民ではないが、死刑判決を起案した静岡地裁の裁判官・熊本典道氏が袴田氏のことを冤罪だと思っていたことを表明している。

こうして見ると、静岡県には、冤罪が発覚しやすい土壌があることも窺われ、冤罪と認識される重大事件が多く存在することを悪いとも言い切れないわけである。

◆冤罪の疑いが見過ごされた重大事件が最も目につく埼玉県

一方、筆者がこれまで数々の冤罪事件を取材してきた中、「冤罪の疑いが見過ごされた重大事件」が最も目につくのが埼玉県だ。

たとえば、90年代を代表する凶悪事件の1つで、園子温監督の映画「冷たい熱帯魚」のモデルにもなった埼玉愛犬家連続殺人事件。埼玉県熊谷市で犬猫のブリーダー業を営でんいた関根元、風間博子の元夫婦が、金銭トラブルになった客らを次々に殺害していたとして検挙され、いずれも死刑判決を受けた。

だが、風間のほうは殺人の容疑を一貫して否認し、冤罪を主張。現在も獄中から裁判のやり直しを求め続けている。そして実を言うと、取調べで風間の犯行を目撃したように証言していた男が、裁判ではこの証言を覆し、「博子は無罪だと思う」「博子は殺人事件も何もやっていない」と証言する異例の事態となっていたのだ。

しかし、このように裁判で風間が冤罪だと疑わせる事情が明るみに出ながら、あまり報道されず、このことは世間にほとんど知られていない。

また、1999年に話題になった本庄保険金殺人事件。埼玉県本庄市の金融業者・八木茂が債務者たちを愛人女性らと偽装結婚させたうえ、保険をかけて殺害していたとされ、死刑判決を受けた。

しかし、一貫して冤罪を訴えた八木を有罪とする証拠は事実上、共犯者とされる愛人女性らの自白だけ。しかも、女性らの自白供述は心理学鑑定により「連日続いた長期間の取調べにより植えつけられた虚偽の記憶に基づく可能性がある」と判定されていた。そして3人の愛人のうち1人は、服役後、「自白は嘘だった」として再審請求しており、冤罪の疑いは色濃く浮かび上がっている。

しかし、このこともほとんど報じられていないため、知る人は少ない。

そして最後に、1999年に埼玉県桶川市で起きた桶川ストーカー殺人事件。この事件については22日の記事で詳しく紹介したが、冤罪を訴える元消防士・小松武史が裁判でこの事件の「首謀者」とされ、有罪判決を受けたのは、実行犯の風俗店店長・久保田祥史が当初、「武史から被害者の殺害を依頼された」と証言したためだった。

ところが、久保田は裁判でこの証言を覆し、「本当は誰からも被害者の殺害は依頼されていない。自分が勝手に暴走してやったことだった」という“真相”を明かしているのだ。この証言も大きく報道されず、結局、世間にほとんど知られていない。

このように埼玉県では、重大事件で冤罪の疑いを抱かせる事実が判明しながら、そのことが知られないまま放置されているケースが目立つ。だから私は、埼玉県のことを、冤罪王国と呼ばれる静岡県より恐ろしい「裏冤罪王国」と呼ぶのである。

▼片岡健(かたおか けん)
全国各地で新旧様々な事件を取材している。創業した一人出版社リミアンドテッドから新刊『もう一つの重罪 桶川ストーカー殺人事件「実行犯」告白手記』(著者・久保田祥史)を発行。

月刊『紙の爆弾』2020年11月号【特集】安倍政治という「負の遺産」他

「絶望の牢獄から無実を叫ぶ ―冤罪死刑囚八人の書画集―」(片岡健編/鹿砦社)

安倍からす菅へ──。政治とメディアが動き始めている。

昨年10月からの消費増税とコロナショックで生活や社会の破壊が進む中で、政権(とりわけ菅政権)と日本維新の会の蜜月ぶりがはっきりしてきた。

日本学術会議の新会員任命拒否事件で、維新の会の生みの親・橋本徹氏が菅首相をさかんに擁護しているのは周知のとりだ。今や「菅義偉政権と維新」はセット。

この状況において、11月1日の「大阪市を廃止し特別区を設置することについての住民投票」(俗にいう大阪都構想)が焦点になっている。
 
大阪市廃止を批判する中で目立つのが「れいわ新選組」である。次期総選挙で大阪五区立候補予定者の大石あきこ氏をはじめ、山本太郎代表が大阪現地に乗り込み、大阪市を政令指定都市から特別区に格下げすることに反対運動を展開してきた。
 
結果は否決されたが、度重なる山本太郎氏の街頭演説などで世論が動いた可能性がある。今後は、大阪のみならず全国的に「維新VS新選組」が政治の核になる予感がする。維新的なるものVS新選組的なるもの、と置き換えてもいい。

◆山本太郎都知事選出馬で維新の勢力拡大阻止
 
その“予感”が強まったのは、新型コロナウイルスで緊急事態制限が発出されていた今年初夏。7月に予定されていた東京都知事選挙をめぐり様々な人々が水面下あるいは表に出て動いていた。

現職が強いことは自明であり、加えてコロナの影響で小池知事は連日連夜テレビに登場していたのだから、「何か事件」が起きない限り大量得票する可能性が高かった。

対する野党系の候補者として、宇都宮健児弁護士とれいわ新選組の山本太郎代表がリベラル派から期待されていた。

そして宇都宮氏が立候補を表明したのちに、ぎりぎりになって山本氏が出馬表明した。リベラル派分断という批判もおきたが、やはり「山本出馬」には重要な意味があったのではないか。

第一に、前年2019年夏の参院選で旋風を巻き起こした「れいわ新選組」の支持拡大が停滞し、その後大きな風は吹いていなかった。党代表の山本氏が都知事選に立候補しなければ、燃え上がった炎が自然沈下しかねないから政治的イベントが必要だった。

第二は、“維新勢力”の拡大阻止である。宇都宮候補に投票するのは、立憲民主支持の中のリベラル派や共産党支持層など、ある程度限られている。

無党派層を一定程度引き付けられるのは山本太郎だった。維新の会も無党派票をある程度取り込める。前年の参院選で日本維新の会から立候補した音喜多駿氏が当選。東京で初の議席獲得となった。

維新としては、ホップからステップを狙って小野泰輔氏を擁立したことだろう。立候補を表明する少し前、テレビ各局は維新の吉村洋文大阪府知事をさかんに持ち上げ、ブームを作ろうとしていた。その波に乗って小野氏が当選しないまでも順位をどこまで上げるかが最大のポイントだった。

ブームに乗った維新だから、仮に山本太郎代表が立候補しなければ、小池氏につづく第2位についた可能性もなくはないのだ。

そうなれば、東京都知事選というよりも、国政において与党勢力・右派勢力が一気に拡大し、リベラル派による挽回はきわめて困難になる。

結果は、(1)小池、(2)宇都宮、(3)山本、(4)小野、となった。東京都知事選という最大の首長選での4位は明らかに敗北であり、山本票より下回った事実は重い。山本票との差は約4万票で大差とは言えないが、勝つか負けるかは政治的に重大だ。これにより、春先からの維新勢力拡大にブレーキがかかったのである。

この結果をもたらしたのは、山本太郎出馬だろう。筆者は、現職の小池VSその他候補よりも、あるいは宇都宮と山本のどちらが得票数が多いかよりも「維新VS新選組」の結果に注目していた。

なぜなら、今後は維新か新選組かどちらに向かうかで日本は大きく変わる可能性があると考えるからである。

◆1869年体制と新自由主義勢力の行方

この原稿で二つの政党の略称である「維新」と「新選組」を取り上げるのは、明治維新に至る1860年代に実在した尊王攘夷派(維新勢力)と新撰組と同じ名称だからである。それは偶然なのか、それとも必然なのか。

言うまでもなく、戊辰戦争という内戦で江戸公儀(江戸幕府)を倒し明治維新を成就させたのが尊王攘夷派である。彼らを「維新勢力」と呼んで差し支えないだろう

これに最も激しく敵対したのは、江戸公儀を守る新撰組であったのは言うまでもない。彼らを現在の政党名で使用されている漢字になおし「新選組」と呼ぼう。

1869(明治2)年に戊辰戦争に勝利した明治維新勢力が、その思想や文化、機構などを根底に残し2020年の現在まで続いている。昔とは大幅に変わったとは言え、「維新勢力」が日本を統治している。

現在の日本維新の会は、「改革」「既得権打破」と口では言うが、いま権力を握っている支配層のシステムや思想を改革するどころか強化している。とりわけ新自由主義政策の拡大にやっきだ。

それに思想やシステム全般にノーを突き付けているのが「新選組」ではないか。まるで1860年代の政治闘争が再現されたかのようだ。

象徴的なのは、いわゆる大阪都構想をめぐる「日本維新の会(大阪維新の会)VSれいわ新選組」の対決だ。

11月1日投票の住民投票「大阪市を廃止し特別区を設置することについての住民投票」が告示された10月12日、山本太郎・れいわ新選組代表が反対の街頭演説を行っていたとき、大阪府警が妨害した事件があった。


◎[参考動画]大阪府警が山本太郎氏の街頭演説を中止させようとしたときのYouTube映像

大阪府警に力を及ぼせるのは与党である大阪維新の会である。

大阪市廃止を叫ぶ「維新」と全面対決する「新選組」。この間の両勢力の行動を見ている、150年以上前は主に京都市内で刃を交わしていた維新勢力と新撰組の闘争が大阪市内で再現されたかのようだ。

2020年の今は日本刀を振り回すわけではないが、意味的には通じるものがある。大阪の住民投票の結果の如何にかかわらず、維新VS新選組の構図は深まっていくだろう。

▼林 克明(はやし・まさあき)
ジャーナリスト。チェチェン戦争のルポ『カフカスの小さな国』で第3回小学館ノンフィクション賞優秀賞、『ジャーナリストの誕生』で第9回週刊金曜日ルポルタージュ大賞受賞。最近は労働問題、国賠訴訟、新党結成の動きなどを取材している。『秘密保護法 社会はどう変わるのか』(共著、集英社新書)、『ブラック大学早稲田』(同時代社)、『トヨタの闇』(共著、ちくま文庫)、写真集『チェチェン 屈せざる人々』(岩波書店)、『不当逮捕─築地警察交通取締りの罠」(同時代社)ほか。林克明twitter

月刊『紙の爆弾』2020年11月号【特集】安倍政治という「負の遺産」他

〈原発なき社会〉を求めて『NO NUKES voice』Vol.25

現代史の端境期〈1970年〉とはどのような時代だったのでしょうか。個人的には、この年、私は大学に入学し、九州・熊本から京都に出て来ました。大学に入る、まさにその直前、大阪万博が開幕し、「よど号」ハイジャック事件が起こりました。70年安保の年ですが、前年の安保決戦で新左翼勢力は敗北し、全般的に「カンパニア闘争」に終始したといわれます(が、それでもかなりの数の学生や反戦労働者が逮捕されました。今だったら「武装闘争」の部類でしょう)。

大阪万博

「よど号」ハイジャック事件

また、同時に、水俣病闘争や反公害闘争が、それまでになく盛り上がってきた年でもありました。

いわゆる「内ゲバ」も、中核派が革マル派学生を殺し、革マル側も報復し、以後、血で血を洗う中核vs革マル戦争が始まった年です。

そうして、11月25日、作家・三島由紀夫が市谷・防衛庁に立てこもり決起し自決します。

6・23安保自動延長に抗議するデモ

三島由紀夫蹶起

私は私で、これまで見たことのない人たちと出会い、カルチャーショックを受けました。京都の大学に入らなければ、また違った人生だったことでしょう。

こうしたこともあり、本誌は、東京で発行される出版物と違い、同志社色の濃いものになっています。私の人脈から同大OB4人(中川、高橋、若林、中島)に寄稿いただきましたが、これだけでも東京発のものとは色合いが違っています。

昨年、『一九六九年 混沌と狂騒の時代』を出し、『一九七〇年~』は、この流れにありますが、『一九六九年~』よりも40数ページ増えていて、想像以上に苦戦しました。

私自身の体験や見知ったことを基に企画を立案しましたが、1970年の雰囲気を醸し出していると自負します。一人でも多くの方にお読みいただきたい、渾身の一冊です。発行部数も9700部と、この種の出版物としては多い部数です。今すぐ書店に走ってください!

渾身の一冊!『一九七〇年 端境期の時代』(紙の爆弾12月号増刊)、本日11月2日発売!

◎amazon https://www.amazon.co.jp/dp/B08KGGRXRQ/

《11月のことば》無心(鹿砦社カレンダー2020より/龍一郎・揮毫)

今年のカレンダーもあと2枚を残すのみとなりました。──

今年は、年頭から新型コロナウィルスが一気に蔓延し、まさに無心でなんとしても生き延びることに必死で過ごしてきました。

当社も、一時はデスペレートな気分になりましたが、なんとか持ち直してきました。売上減には違いがありませんが、売上80パーセント、90パーセント減という小売業や飲食業などに比べればまだマシです。諸経費や広告を削減し、保険を一部解約し、さらに私の報酬を半減したりして、売上減を最大限カバーしてきました。社員ファーストで、雇用を守り社員の給料には触らないことを優先して、この急場をしのいできました。さらに、取引先には支払いの遅れがないようにし、特に個人営業のライターさんらには早め早めに支払うように努めて来ました。あと残す2カ月をなんとしても乗り切る決意です。

今年のカレンダーを引き継いで来年2021年のカレンダーの制作も大詰めです。もうすぐ師走、皆様方に「2021鹿砦社カレンダー」をお届けいたします!

月刊『紙の爆弾』2020年11月号【特集】安倍政治という「負の遺産」他

〈原発なき社会〉を求めて『NO NUKES voice』Vol.25

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