7月7日、よど号メンバー・魚本公博さんから届いた『紙の爆弾』6月号「地方で考える この社会と私たちの生活の行く先」への感想と、解説とを投稿した。彼らとの「往復メール書簡」第2回目は、デジタル庁発足と、その背景に何があるのかということを取り上げる。

ノートパソコンに向かうよど号メンバー・魚本公博さん(平壌「日本人村」にて、よど号メンバーが撮影)

◆魚本さんからの問題提起 「データ主権なきデジタル化とは」魚本公博

9月1日にデジタル庁が発足する。コロナ禍で露呈した「デジタル敗戦」をテコに、デジタル化が急速に進められようとしている。

今やデジタル化なしに国の安全保障・軍事・外交・経済は考えられず、人々の暮らし、働き方など、社会のあり方も変える。デジタル庁はその司令塔。内閣直属でトップは首相だ。人員は500名ほど。菅義偉首相はこれを「規制改革のシンボル」と言い、担当する平井卓也氏は「今までで一番大きな構造改革」と位置づける。

新聞などは、このデジタル化の問題点について、人材不足、縦割り(縦割り行政の弊害)、横割り(国と地方自治体のシステムの不統一)、デジタル庁に出向する民間人と業者の癒着の可能性、さらには個人情報保護の問題、デジタル格差の問題などを指摘する。

確かにそれも問題だ。しかし1番の問題は、「データ主権」ではないだろうか。デジタル化において「データ」が決定的だからだ。政府や識者も「決定するのはデータ」「データこそ成長エンジン」と指摘している。

そのデータに対する主権はどうか。日本政府の立場は「国を超えた活用」。日本は、TPP交渉の過程で米国が要求する「国境をまたぐデータの自由な流通の確保、国内でのデータ保存要求の禁止という原則」を受け入れている。すなわち、日本はデータを国内で保存・管理することを禁止し、その全てを米国の巨大IT企業(GAFAなど)に提供するということだ。

すると、日本のデジタル化は、米国の巨大IT企業がおこなう。人材もその関係者であり、彼らが日本を運営し、個人情報もその管理下に置かれる。まさに、デジタルを使った日本の米国への組み込み。そのための、「かつてない構造改革」だ。そんなものを許せば、日本は一体どうなるのか。

そして注目してほしいのは、ここで地方が重要視されていること。前回の「平壌からの手紙」(http://www.rokusaisha.com/wp/?p=39411)で指摘したように、政府ファンドをつくり、地方の銀行や企業に人材が派遣されるのだ。自治体を企業統治の方法で管理する。あるいは上下水道や交通、公共施設などの運営権を米系外資に譲渡するコンセッション方式。これらがデジタル化の名で急速に進められる。

デジタル化自体は、これからの日本の発展、地方の発展にとって必要不可欠だ。問題は、それを誰がやるか。「データ主権」を米国に譲渡すれば、日本のデジタル化は米国が手がけることとなる。

今、各地で地域振興がさまざまな形でおこなわれている。その血の滲むような努力を米国に売り渡すかのような政府のデジタル化策。何としても「データ主権」を打ち立て、その下で地域住民が主体となり、デジタル技術を活用して地域を振興すること。それが、切実に求められている。

「デジタル庁(準備中)Webサイト」(https://www.digital.go.jp/)

◆デジタル化の背後に潜む「権力」と「金」

デジタル改革関連6法が5月の参院本会議で可決・成立したことを受け、内閣直属でデジタル庁が9月1日に発足する。魚本さんが触れたように地方自治体の行政システム統一化のほか、各省庁にまたがるIT調達予算の一元化、マイナンバー活用の拡大なども手がけ、行政手続きのオンライン化推進や利便性向上を目指す。

マイナンバーは監視の色合いが濃いと考えていてわたしは反対なので、いまだマイナンバーカードも入手していない。ただし、地方行政に関わり、デジタル化の遅れや厳しすぎるセキュリティ、縦割り行政の弊害を受け、日々、悪戦苦闘を強いられている立場でもある。

たとえば韓国などは住民登録証が長らく活用されているが、このルーツは朝鮮のスパイを割り出すためだったという話もある。ただし、現在では、この制度は穏健に使われている印象もあるのだ。いっぽう日本では、情報漏洩の報道がしきりになされる。それ以前に、政府や与党に対する不信感が大きく、デジタル化にも不安や疑念ばかりが大きくなりがちだ。この現在の政治への不信感は、福祉をはじめ、さまざまな政策に影響するものであり、そもそもは政権交代がなされなければ、まともな政治運営は期待できない。

さて、デジタル化だが、新型コロナへの対応に関し、「デジタル敗戦」という表現が誕生した。これは、デジタルを活用したアプリやサービスがまったく使えないものだったということが背景にある。

デジタルはうまく活用すれば大変便利なものであり、いまやなくてはならないが、そもそもセキュリティに関して個人的には、十数年前に仲間との話し合いから、「情報を抜こうと思えばいくらでもどこからでも抜かれる。その覚悟が必要だ」という結論に達したことがある。以降、そのつもりで活動しているのだ。

デジタル庁の「発足時の人員は非常勤職員らを含め約500人」とのこと。これまでを鑑みれば、またもや竹中平蔵が会長を務めるパソナグループなどに大量の金が流れることを懸念せざるを得ない。しかも、新たな省庁の発足に民間はともかく非常勤職員を大きく想定することが当然となったこと自体に対し、わたしたちは疑問を投げかけるべきだろう。

ちなみに、縦割り行政の弊害に関しても、わたしは移住以降、痛感している。最近、若手が横につながり、いろいろなことが進められるようになった。若手であれば、デジタルに関する問題も起こりにくい。これは致し方ないことかもしれないが、デジタル・ディバイド(インターネットやパソコン等の情報通信技術を利用できる人と利用できない人との間に生じる格差)の解消は必要だ。これらは、やはり行政の個別の対応や民間のサービスなどによって、地道に取り組んでいくしかない。他方からみれば、広いビジネスチャンスでもある。だからこそ、「悪用の余地」には注意が必要だ。

「データ主権」については、まさに『紙の爆弾』6月号の誌面で、「インターネットによる情報革命で、デジタルが発展し、仮想通貨も生まれた。通信網としてはケーブルや衛星、ワイヤレスなどの技術が用いられているが、これらはそれぞれ独自に進化し、統一できていない。するとプラットフォームをつくった人が儲けることとなり、GAFA(Google・Amazon・Facebook・Apple)が台頭した」と記した通りだ。また、アメリカ国家安全保障局 (NSA)の国際的監視網(PRISM)の実在を告発したエドワード・スノーデンがロシア国籍を申請したことなども思い出される。ビッグデータを筆頭に、「データこそ成長エンジン」かどうかはともかく、個人に関するあらゆる情報を誰が握るのかという問題になるのだ。

そもそも、本来的な独立を果たしておらず、敗戦後の処理が完全には済んでいない日本。しかも、アメリカの企業にデータを管理されていることに疑問を抱かなくても、韓国との関連でLINEについては騒ぐなど、国内は不思議な状況になっている。左派のなかでも、Facebookはフル活用されているが、これすら絶対に使わないという人もいる。現実としては、おそらく「情報を抜こうと思えばいくらでもどこからでも抜かれる」。だから、どこが情報管理について甘いのか、どこからどんな情報を抜かれることがおそろしいことなのか、どこがわたしたちに対する権力をふるっているのかを考えなければならない。

デジタルを口実にした地方への企業などの進出は、容易に想像できる。地方は都会やデジタルに弱く、東京の企業のプレゼンテーションや売り込みの内容は理解しなくても、行政の担当者も仕事をしている姿勢をアピールしやすくなることもあり、それに乗っかることは理解できる。つまり、市民の声に耳を傾け、市民も、市民の1人である行政もともに考え、物事を進めていかなければ、いいカモにされるだろう。そこから、地方は崩壊の一途を辿りかねない。

わたしたちは、戦後の社会民主主義的な政治から変わり、ネオリベラリズムが進められていることを、自覚しなければならない。あらゆる事柄について、情報を収集し、考え、意見を交換し、行動へと結びつけていかなければならない時に来ているのだ。

先日、デジタル庁の事務方トップ「デジタル監」に、米マサチューセッツ工科大(MIT)メディアラボ元所長・伊藤穣一氏を据える方針が固められた途端、富豪で少女らへの性的虐待などの罪で起訴されたジェフリー・エプスタイン元被告(拘留中に死亡)から伊藤がメディアラボ所長時代に多額の資金援助を受け、それを匿名化しようとしていたことが報道され、辞任に追い込まれた。実際にリーダーとして起用される人物が、どのような面々となるのか、どこに金が流れていくのか今後、注目したい。

デジタル庁>採用情報>中途採用「デジタル庁の創設に向けて人材募集中。」>「第三弾・中途採用の募集を終了しました」より

▼小林 蓮実(こばやし・はすみ)
1972年生まれ。フリーライター、編集者。労働・女性運動等アクティビスト。個人的には、労働組合での活動に限界を感じ、移住。オルタナティブ社会の実現を目指す。月刊誌『紙の爆弾』9月号には、巻頭「伊藤孝司さん写真展『平壌の人びと』から見えてくる〝世界〟」、本文「写真、発言、映画が伝える『朝鮮の真実』」寄稿。

【伊藤孝司写真展「平壌の人びと」&関連イベント】
この写真展関連のトークイベントに、筆者はオンラインからコメンテーターとして参加を予定。
[東京]8月24日(火)~9月5日(日)11:00~18:45(28日・29日は16:45まで)
Gallery TEN(東京都台東区谷中2-4-2)
https://fb.me/e/1bYYVkwH6

タブーなきラディカルスキャンダルマガジン 月刊『紙の爆弾』9月号

◆戦史は歴史観か、それとも史料になるのか

年々、新たになるのは古代史や中世史だけではなく、現代史においてもその中核である日中・太平洋戦争史でも同じようだ。今年の終戦特集番組はそれを実感させた。

 

『不死身の特攻兵(1)生キトシ生ケル者タチヘ』(原作=鴻上尚史、漫画=東直輝、講談社ヤンマガKCスペシャル2018年)

個人的なことだが、父親が予科練(海軍飛行予科練習生)だったので、本棚は戦史もので埋まっていた。軍歌のレコードもあって、聴かされているうちに覚えてしまい、昭和元禄の時代に軍隊にあこがれる少年時代であった。そういうわたしが学生運動にのめり込んだのだから不思議な気もするが、じつは両者は命がけという意味で通底している。

たとえば三派全学連と三島由紀夫へのシンパシーは、一見すると真逆に見えるが、三島研究を進めるにつれて、そうではなかったとわかる。自民党と既成左翼に対抗するという意味で、三島と三派および全共闘は共通しているのだ(東大全共闘と三島由紀夫の対話集会)。

つまり過激なことが好きで、戦争に興味があるのも、ミリタリズムへの憧れとともに、そこに人間の本質が劇的に顕われるからではないだろうか。およそ文学というものはその大半が、恋愛と戦争のためにある。

◆特攻は志願制ではなかった

戦史通には改めて驚くほどのことではないかもしれないが、テレ朝の「ラストメッセージ“不死身の特攻兵”佐々木友次伍長」は、戦前の日本人の死生観を考えるうえで興味深いものがあった。

その特攻隊は、陸軍の万朶隊という。日本陸軍は基地招集の単位で動くので、万朶隊は茨城県の鎌田教導飛行師団で編成され、フィリピンのルソン島リパへ進出した。そこで特攻隊であることを命じられ、岩本益臣大尉を先頭に猛特訓に励む。ときあたかもレイテ海戦で海軍が敗北し、フィリピンの攻防が激化していた。

最近の特集番組で明らかになったのは、特攻隊がかならずしも志願制ではなかったという事実だ。

従来、われわれの理解では部隊単位で各自に志願を問われ、全員が手を挙げて志願することで、特攻は志願者ばかりだった。と解説されてきたものだ。ところが、実態は「どうせ全員が志願するのだから、命令でいいだろう」というものだったようだ。

レイテ決戦のときの「敷島隊」の関行男中佐も「僕のような優秀なパイロットを殺すようでは、日本も終わりだ」と言い捨てたと明らかになっている。従来、敷島隊は「ぜひ、やらせてください」という隊員の反応(これも確かなのだろう)だけが伝わっていた。

 

大貫健一郎、渡辺考『特攻隊振武寮 帰還兵は地獄を見た』(朝日文庫2018年)

さて、特攻を命じられた岩本隊長は、ふだんの温厚さをかなぐり捨てて、大いに荒れたが、部下には「大物(空母や戦艦)がいないなら、何度でもやり直せ。無駄死にはするな」と命じていた。特攻の覚悟はあったが、暗に通常攻撃を督励していたといえよう。

岩本は特攻機を改造もさせている。特攻機は爆弾をハンダ付けし、機体もろとも突入することで戦果が得られる。爆弾を内装する爆撃機仕様の場合は、起爆信管が機体の頭に突き出している。

その「九九式双発軽爆撃機」の3本の突き出た起爆管を1本にする改造を行っている。このときに爆弾投下装置に更に改修が加えられ、手元の手動索によって爆弾が投下できるようになったのだ。

これは番組では岩本の独断とされていたが、鉾田飛行師団司令の許可を得てあったのが史実だ。

だが、その岩本大尉は同僚の飛行隊長らとともに、陸軍第4航空軍司令部のあるマニラに行く途中に、米軍機に撃墜されてしまう。万朶隊の出撃を前に、司令部が宴会をやるので招いたというものだ。

クルマで来るように指示したのに、飛行機で来たからやられたとか、ゲリラがいるのでクルマで行ける行程ではなかったとか、これには諸説ある。

◆9回の特攻命令

雨に祟られた甲子園大会も、なんとか再開したが野球のことではない。

9回特攻を命じられたのは、下士官の佐々木友次伍長である。佐々木は岩本大尉の教えに忠実に、大物がいなかったから通常攻撃(爆弾投下)で戦果を挙げていた。つまり突入せずに帰還したのである。

ところが、大本営陸軍部は佐々木らの特攻で「戦艦を撃沈」(実際は上陸用揚陸艦に損害)と発表し、佐々木も軍神(戦死者)のひとりとされていた。軍神が還ってきたのである。

第4飛行師団参謀長の猿渡が「どういうつもりで帰ってきたのか」と詰問したが、佐々木は「犬死にしないようにやりなおすつもりでした」と答えている。

第4航空軍司令部にも帰還報告したところ、参謀の美濃部浩次少佐は大本営に「佐々木は突入して戦死した」と報告した手前「大本営で発表したことは、恐れ多くも、上聞に達したことである。このことをよく胆に銘じて、次の攻撃には本当に戦艦を沈めてもらいたい」と命じた。

 

鴻上尚史『不死身の特攻兵 軍神はなぜ上官に反抗したか』(講談社現代新書2017年)

ようするに、天皇にも上奏した戦死なので「かならず死ぬように」というのだ。機体の故障、独断の通常攻撃、出撃するも敵艦視ず、また故障。という具合に、生きて還ること9回。正規の命令書に違反しているのだから軍規違反、敵前逃亡とおなじ軍法会議ものだが、なにしろ岩本大尉の「無駄死にするな」という命令も生きている。戦果も上げる(突入と発表される)から故郷では二度まで、軍神のための盛大な葬式が行なわれたという。詳しくは、鴻上尚史『不死身の特攻兵 軍神はなぜ上官に反抗したか』(講談社現代新書2017年)を参照。
そうしているうちに、フィリピンの陸軍航空団もじり貧となり、第4航空軍の富永恭次中将が南方軍司令部に無断で台湾に撤退した。この富永中将は特攻隊員を送り出すときに「この富永も、最後の一機に乗って突入する」と明言していた人物である。

海軍の特攻創始者である大西瀧治郎は、敗戦翌日に介錯なしで自決。介錯なしの自決には、陸軍大臣阿南惟幾も。連合艦隊参謀長(終戦時は第5航空艦隊長官)の宇垣纏は、玉音放送後に17名の部下を道連れに特攻出撃して死んだ。

本当に特攻は有効だったのか、アメリカ海軍の記録では通常攻撃の被害のほうが大きかった。というデータがあり、従来これはカミカゼ攻撃の被害を軽微にしたがっているなどと解説されてきた。だが、海軍の扶桑部隊などの歴史を知ると、訓練不足の若年兵はともかく、ベテランパイロットによる通常(反復)攻撃のほうに軍配が上がりそうだ。ともあれ、特攻が将兵の自発的・志願制ではなく、日本人的な暗黙の強制だったことは明白となってきた。

▼横山茂彦(よこやま・しげひこ)
編集者・著述業・歴史研究家。歴史関連の著書・共著に『合戦場の女たち』(情況新書)『軍師・官兵衛に学ぶ経営学』(宝島文庫)『闇の後醍醐銭』(叢文社)『真田丸のナゾ』(サイゾー)『日本史の新常識』(文春新書)『天皇125代全史』(スタンダーズ)『世にも奇妙な日本史』(宙出版)など。

タブーなきラディカルスキャンダルマガジン 月刊『紙の爆弾』9月号

『紙の爆弾』『NO NUKES voice』今こそ鹿砦社の雑誌を定期購読で!

◆静かに、重くのしかかるメンタリストDaiGoのホームレス蔑視発言

日本列島は連日の豪雨による災害が各地で発生し危険な状態だ。例年なら猛暑のお盆の東京は、異常ともいえる低温が続いている。

いま、主にネット上で炎上している「メンタリストDaiGo差別発言事件」は、炎上という文字から感じられる熱さはなく、冷たい霧雨に纏わりつかれるように、静かに重くのしかかってくる。淀んだ空気に包まれる日本の姿を現しているからである。

“発言”の背景にあるものは何か。

2人の子を連れてホームレスを経験し、長らく派遣労働者として働き派遣切りの経験もある渡辺てる子さん(れいわ新選組衆院東京10区総支部長)が、この問題の構造的な問題を8月21日に東京都内で講演する。

まず、今回の事件の経緯を振り返ってみよう。

◆「俺は処刑される側の人間なんだ」と筆者に思わせた発言

問題発言は8月7日、メンタリストのDaiGoさんのYouTube番組で公開された。
https://www.youtube.com/watch?v=bMHPk…
(8月14日夕方時点で動画は非公開)
(発言の切り抜き)8月7日
https://www.youtube.com/watch?v=6k6hDVD5Emc

私は公開された翌日くらいに視聴して驚いた。まず生活保護受給者についての発言。

「僕は生活保護の人たちにお金を払うために税金を納めてるんじゃないからね。生活保護の人に食わせる金があるんだったら猫を救って欲しいと僕は思うんで。生活保護の人、生きていても僕は別に得しないけどさ、猫は生きてれば得なんで」

というような内容の発言をし、さらにホームレスにつてもおよそ次のように語った。

メンタリストDaiGoYouTube番組(2021年8月14日)

「言っちゃ悪いけど、どちらかというホームレスっていない方がよくない? 正直。 邪魔だしさ、プラスになんないしさ、臭いしさ、治安悪くなるしさ、いない方がいいじゃん」

「もともと人間は自分たちの群れにそぐわない、群れ全体の利益にそぐわない人間を処刑して生きている。犯罪者を殺すのだって同じ」と、貧困者と犯罪者を同一視点するかのように述べた。

この動画が公開された前日の8月6日、私は経産省の月次支援金を申し込むための資料収集と書類作成を始めた。

月次支援金とは、新型コロナウイルス対策として緊急事態宣言等の影響を受けて収入を50%以上減らした法人や個人事業主を支援する制度である。

常日頃、講演会、シンポジウム、イベントなどを取材したり、直接会ってインタビューする仕事が多い私は、外出やイベント自粛に影響されて収入は激減している。

藁をもすがる思いで、この月次支援金に申し込もうとしていたのだ。その作業を始めた翌日にタイミングよく? かの発言があった。

これを聞いて、「俺は処刑される側の人間なんだな」と思った。通常であればこの種の発言を聞いたなら、「ふざけるんじゃない! 何バカなことになって言ってるんだ」と私は怒るはずだ。

ところが、なぜか激しい怒りの感情は湧かず、霧雨が降る中で静かに沈んでいくかのような感覚に襲われたのである。そこにこの発言を生んだ社会の深刻さがある。

かろうじて私には住む家がある。しかし、住む家がなく、あるいは家はあっても生活保護水準以下で生活する膨大な人たちの中には、排除されたり、誹謗中傷されたり、貶められても、怒る気力さえなく、ただ沈み込んでいく人も多いのではないか。

さすがに、今回の発言に対しては批判が巻き起こったが、DaiGoさんは、次のように反論した。

「自分は税金をめちゃくちゃ払っているから、ホームレスとか生活保護の人たちに貢献している。叩いている人たちは、ホームレスに寄付したんですか? 継続して炊き出しとかして助けてるんですか?」
https://www.youtube.com/watch?v=SfWuC3edFZw&t=28s
(この動画も非公開になった)

火に油を注ぐことになり、8月13日の夜には、一転して発言を謝罪する動画をアップした。
https://www.youtube.com/watch?v=rShG_1-tzSE (現在非公開)

それでも批判は収まらず、逆に本当に理解していない、という新たな批判も起き始めた。そして翌14日には、いつもとは違う白い壁を背景にしてスーツ姿で現れたDaiGoさんは、再び謝罪した。前日の謝罪動画は取り消し非公開とした。

この謝罪は、それまでの動画のように弁明はなく、ひたすら反省と謝罪を述べる内容になっている。
https://www.youtube.com/watch?v=Eai84ynVtko

◆寒気がするほどマニュアル化された「謝罪動画」

このスーツ姿の謝罪動画を見て、私は恐ろしくなった。完璧な謝罪のしかただったからだ。しかも、数日前には批判されても開き直っていた人間が、わずかな時間で真に反省と謝罪を公にすることに疑問が残る。

完全にマニュアル化された謝罪の方法であり、彼自身がこれまでに「心理学的に見て正しい謝罪の仕方」とでも言うべき動画を何本かアップロードしており、その内容そのままの謝罪になっている。

分かりやすいのは、「正しい謝罪の仕方」という動画だ。


◎[参考動画]正しい謝罪の仕方【メンタリストDaiGo切り抜き】「謝罪 ミスると地獄」2021年6月22日

修正版:正しい謝罪の仕方【メンタリストDaiGo切り抜き】

この動画では、「どういう謝罪が社会的に納得されやすいか」に関する大学の研究調査結果を紹介している。そのポイントは次のとおり。

「やってはいけない謝罪」
① 言い訳をする。行動の正当化をする。
② 他人を責める。
③ 自分の抱えている問題やトラブルについて説明する。
④ 自分の発言や行動が起こした問題を矮小化する。

「やるべき謝罪」
① 自分を被害者の立場に置いてどんな言葉を聞きたいか考えて発言。
② 常に被害者に向けて言葉を発し、罪を認め許しを請う。
③ 可能であれば、賠償と共生の手段を申し出る。
④ 自分の行動と発言を謝罪し、決して自分が誤解されている部分については触れない。

スーツを着て折り目正しく真摯な姿勢で謝罪する姿は、上記の動画を機械的にコピペしたようである。

◆ホームレス経験者は何を考えたか

今回の発言の背景は相当根深い問題が存在しているのは間違いない。DaiGoさんが謝罪し、彼を批判しただけでは収まらない、深く重い何かがある。

そう考えたときに思い浮かんだ人物が、渡辺てる子さんだ。幼い子供を連れてホームレスを経験し、その後も派遣労働者として働き雇止めにあい、貧困問題解決を日々訴えている。その彼女を一緒にこの問題を考えることにした。

自身が貧困の当時者として長年過ごし、いまは政治家として変革しようと日夜活動している人物と話し合うことは、大切なことではないだろうか。

以下、講演概要。

2021年8月21日(土)開催!元ホームレス渡辺てる子さんと一緒に考える「メンタリストDaiGo 生活保護受給者&ホームレス蔑視発言」

◎第138回草の実アカデミー◎
2021年8月21日(土)
元ホームレス渡辺てる子さんと一緒に考える
「メンタリストDaiGo 生活保護受給者&ホームレス蔑視発言」

講師:渡辺てる子氏(れいわ新選組衆院東京10区総支部長)
   元ホームレス、シングルマザー、元派遣労働者
日時:2021年8月21日(土)
13:30時開場、14時00分開始、16:30終了
場所:雑司ヶ谷地域文化創造館 第2会議室
https://www.mapion.co.jp/m2/35.71971291,139.71364947,16/poi=21330448165
交通:JR目白駅徒歩10分、東京メトロ副都心線「雑司ヶ谷駅」2番出口直結
資料代:500円 【申し込み】(定員18名)
フルネームと「8月21日参加」と書いて下記のメールアドレスに送信してください。
kusanomi@notnet.jp

★★★感染防止対策にご協力を★★★
・受付の名簿に必要事項をお書きください。
・会場入りの際は手洗いかアルコール消毒をお願いします。
・会場内ではマスク着用をお願いします。
・暑くても窓を開けて換気をするのでご了承ください。

▼林 克明(はやし まさあき)
 
ジャーナリスト。チェチェン戦争のルポ『カフカスの小さな国』で第3回小学館ノンフィクション賞優秀賞、『ジャーナリストの誕生』で第9回週刊金曜日ルポルタージュ大賞受賞。最近は労働問題、国賠訴訟、新党結成の動きなどを取材している。『秘密保護法 社会はどう変わるのか』(共著、集英社新書)、『ブラック大学早稲田』(同時代社)、『トヨタの闇』(共著、ちくま文庫)、写真集『チェチェン 屈せざる人々』(岩波書店)、『不当逮捕─築地警察交通取締りの罠」(同時代社)ほか。林克明twitter

タブーなきラディカルスキャンダルマガジン 月刊『紙の爆弾』9月号

くだんのリンチ事件に関する大阪高裁判決は、各方面に静かに根深く、重大で深刻な反響を与えているようです。特に李信恵のリンチへの連座と関与を裁判所が認定したことにより、李信恵とその周囲には大変なショックを与えたであろうことは想像に難くありません。事実、7月27日の判決直後に李信恵代理人の神原元弁護士は、相変わらず「正義は勝つ!」とツイートし「勝訴」を宣言しましたが、以降、神原弁護士も李信恵も、本件判決には全く触れていません。“不都合な真実”が判決で認定されたからです。

“不都合な真実”といえば、李信恵らと共にM君リンチに連座した伊藤大介による暴行傷害事件(本件一審本人尋問のあと2020年11月25日深夜)の全容や公判の進捗情況も、一切明らかにされていません。このままなし崩し的に幕引きしようとでも考えているのでしょうか? 伊藤の起こした事件は偶発的、一般的な犯罪ではありません。今回の大阪高裁判決で、リンチ事件への連座と関与が認められた李信恵同様、伊藤はリンチの現場に居合わせた過去を持つ人物です。反差別運動、社会運動と密接に関わる点において、今後反差別運動の方向性を正す意味でも、情報公開し社会的に判断を仰ぐべきです。

7月27日の判決から上告期限の8月10日までの10日間、上告すべきかどうか悩み慌ただしく過ぎた中で、結局は「名誉ある撤退」し、上告せずの結論に至り賠償金(プラス利息=約130万円)も全額振り込み、本通信の削除命令箇所(2017年6月12日同19日8月2日2018年3月22日)も削除いたしましたが、このお盆休み期間に、あらためて判決文を読み直してみました。

判決直後は、原判決(一審大阪地裁判決)に事実誤認や瑕疵があったことで賠償金が減額されたぐらいにしか思っていませんでしたが、判決文をよくよく読んでみると、裁判官もかなり苦慮した形跡が感じられました。

また、少なからずの方々に判決文を読んでいただき意見を寄せてくださいました。この通信〈2〉でお二人のご意見を掲載しましたが、その後も心あるご意見が寄せられています。最も簡潔かつ的確に述べられているのは次の方(弁護士)のコメントです。──

「高裁判決の評価は概ねそれ(注・この通信の〈1〉~〈3〉)でよいと思います。大幅に変更された丁寧な事実認定がされていますし、共謀による不法行為責任は否定しつつ、全体としての集団暴行の事実と李本人の暴行の放置・黙認による道義的責任は認めていますから、政治的には一定押し戻した勝利と評価でき、上告なしの判断は妥当かと思います(そもそも、上告審は憲法違反・判例違反の有無が主要な争点となる法律審ですしね)。」

神原弁護士のツイート。リンチ事件は「虚偽の風説」だって!?

◆李信恵の「粗暴で凶悪な」性格を明確に判決文で認定した大阪高裁判決

 

主な実行犯・金良平のツイート。事件から1年近く経ってもこのザマ。反省の色はない

ところで李信恵は、鹿砦社の出版物等が「原告(注・李信恵)が粗暴で凶悪な犯罪者であるとの印象を与えるものであるから、原告の社会的評価を著しく低下させる」(訴状)としていました。私たちに言わせれば、笑止千万、抱腹絶倒です。

大阪高裁は今回の控訴審判決は、李信恵が「暴行を容認」し「警察への通報や医者への連絡等をしないまま、最後は負傷しているMを放置して立ち去った」と明記しています。感情を含まない表現ですが、この行為は李信恵が「粗暴で凶悪な犯罪者であるとの印象を与え」る可能性がありはしませんか? 高裁判決認定内容と同様の調査取材・出版活動を行った、私企業である鹿砦社を訴えたのですから、李信恵は判決に対して異議があるはずです。そうであれば国賠(国家賠償)請求を起こすのでしょうか?

再度高裁判決の一部を引用します。──

「被控訴人(注・李信恵)は、(中略)M(注・判決文は実名)が金(注・良平)からの暴行を受けて相当程度負傷していることを認識した後も、『殺されるなら入ったらいいんちゃう。』と述べただけで、警察への通報や医者への連絡等をしないまま、最後は負傷しているMを放置して立ち去ったことが認められる。この間、(中略)被控訴人が暴力を否定する発言をしたことは一度もなく、(中略)金の暴行を制止し、又は他人に依頼して制止させようとすることもなく、本件店舗内で飲酒を続けていた。このような被控訴人の言動は、当時、被控訴人が金による暴行を容認していたことを推認させるものであるということができる。」(高裁判決文。下線・松岡)

「本件傷害事件当日における被控訴人の言動自体は、社会通念上、被控訴人が日頃から人権尊重を標榜していながら、金によるMに対する暴行については、これを容認していたという道義的批判を免れない性質のものである。」(同。下線・松岡)

「被控訴人の本件傷害事件当日における言動は、暴行を受けているMをまのあたりにしながら、これを容認していたと評価されてもやむを得ないものであったから、法的な責任の有無にかかわらず、道義的見地から謝罪と補償を申し出ることがあっても不自然ではない。」(同。下線・松岡)

当然の判断です。傍らで激しい暴行が行われているのに、それを認識していながら、止めもせず、悠然とワインをたしなみ、師走の寒空の下に放置して立ち去るなど、李信恵の「粗暴で凶悪な」性格を表わしている、と考えてもまったく不思議ではありません。一般的な感性の持ち主であれば、到底できないことです。無慈悲な行為です。

こうした行為が大阪高裁で認定されたことを、私たちは強調します。今後彼女を講演会などに招く計画のある主催者の方々には、知っていただく必要があるでしょう。李信恵は、差別被害者として脚光を浴びてきましたが、他方このような「粗暴で凶悪な」行為を行う人物である点を重々考慮せねばならなくなりました。李信恵が心から反省しなければ、「反差別」運動の旗手でなくなる日もそう遠くはないでしょう。

 

同じくリンチに連座した伊藤大介のツイート。この気持ちはずっと変わらず、リンチに連座した後も昨年暴行傷害事件を起こした。こちらも反省の色ナシ!

最近、東京オリンピック/パラリンピックの開会式の音楽を担当していた、ミュージシャンの小山田圭吾が、かつて障碍者の友人に対して行ったいじめが掘り返され解任されました。この解任は、開会式の音楽担当から外されただけではなく、小山田にとって、再起不能といえるほど深刻なものです。李信恵の将来を暗示させるかのうようなスキャンダルでした。

李信恵にとっては、確かに「勝訴」かもしれませんが、M君リンチに連座し関与したことを大阪高裁が認定したことで、M君に早急に公的に謝罪しないと、今後講演に招かれなくばかりか、小山田のように再起不能なまでに陥るのではないかと警鐘を鳴らしておきます。相変わらず隠蔽に務めるのか、心から反省しM君に謝罪するのか、李信恵の人間性が問われています。これは李信恵のみならず他のリンチ加害者4人、リンチの事実を認識しながら李信恵をバックアップしてきた「コリアNGOセンター」、そして岸政彦ら隠蔽に加担した者らも同様です。

思い返せば、M君の訴訟でも、本件一審判決でも、最初に李信恵がM君の胸倉を掴み、その後に一発殴ったことが「平手(パー)」か「手拳(グー)」かが殊更焦点化されました。M君が、1時間もの凄絶なリンチで精神が錯乱し記憶曖昧な発言をしたことでM君の供述全部が「信用できない」とされ、肝心の半殺しの目に遭ったことが軽視されたのです。

つまるところ、「木(平手か手拳か)を見て森(リンチで半殺しにされた事実)を見ない」判断になったものと思います。すっかり神原弁護士の術中に裁判官も嵌ってしまったようです。M君の訴訟で最高裁で確定した判断は、本件訴訟でも覆すことはできませんでした。高裁の裁判官も、上級審の最高裁で確定していることで苦慮したであろうことが想像できます。

また、共謀についても、市民感覚から見れば、誰が見ても李信恵を中心に共謀したことは歴然でしょうが、これもM君の訴訟において最高裁で確定したことによって覆せませんでした。リンチの場にいた加害者5人の関係や立場はフラットなものではなく、李信恵を中心に上下関係があったでしょうし、その場の空気を支配したのは李信恵だったと推認されます。

 

M君への酷いネットリンチ。この者の人間性を疑う

ところで、前回の通信で「名誉ある撤退」することを公言しましたが、これは上告することからの「名誉ある撤退」のことを言っているのであって、私たちが本件リンチ事件から完全撤退するということではありません。まだ検証─総括作業が残っていますし、これまで取材できなかった人たちへの追加取材も考えています。まだ関西カウンターの中心的活動家で鹿砦社に入り込み終業時間の大半をツイッターや私的メール等で本来の業務以外の政治活動を行っていた藤井正美との裁判が残っていますが(次回は9月9日に本人尋問で大詰めに来ています)、対李信恵との訴訟が終結したことで、むしろ桎梏がなくなり気軽に新たな取材もできるようになりました。

◆今、言っておきたいこと

あと少し言っておかねばならないことがあります。

その一つは、大阪高裁の判決で李信恵のリンチ(判決では「本件傷害事件」)が実際にあり、これに李信恵が連座し関与したことが認定されたことで、李信恵ら加害者、そしてバックで李信恵を支えた「コリアNGOセンター」、神原元、上瀧浩子、師岡康子、岸政彦、安田浩一、辛淑玉、野間易通、中沢けい、中川敬、有田芳生、香山リカ、北原みのり、西岡研介、金明秀ら、李信恵を擁護し隠蔽に関わった人たちも、「でっち上げ」とか「リンチはなかった」というような恣意的な風聞を振り撒いたことを謙虚に反省していただかねばなりません。そうでなければ、知識人やジャーナリストとしての存在意義を問われ、かつて「名誉毀損」に名を借りた鹿砦社への出版弾圧に加担した者らが続々再起不能なまでに失脚し「鹿砦社の祟りか、松岡の呪いか」と揶揄されたように、同様の憂き目に直面し失墜していくでしょう。

当初はリンチを認めていた辛淑玉文書。のちに否定

 

ある在日の青年の苦痛のツイート

二つ目は、この5年半ほど、私たちは取材の過程で、多くの在日コリアンの方々に接してきました。みなさんいい方ばかりでした。快く協力してくれました。しかし、ほとんどの方が報復を怖れて名を出すことを躊躇されました。ある方など、陳述書を書き法廷で証言するとまで息巻いてくれましたが、一夜明けると、「報復が怖いので辞退します」ということがありました。訴訟や出版物等でも、ほとんどの方の名は出していません。だからといって、在日の方々に取材していないということではありませんし、第4弾書籍『カウンターと暴力の病理』に付けたリンチの最中の音声を収めたCDなど、内容が内容だけに国内の業者にプレスを発注できなく困っていたところ、ある在日の方が「私に任せてください」と外国でプレスしてくれました。このように蔭ながら多くの方々の協力を得ることができました。

三つ目は、これまでのリンチ事件への対応ですが、李信恵ら加害者、「コリアNGOセンター」、岸政彦ら加害者擁護の立場の人たちの対応は、はっきり言って狡いし醜悪の極みです。

しかし、この事件対応における“狡さ”により、在日コリアン全体が狡いと認識されるのは間違いですし、そうなりかねないことを懸念しています。“狡い”のは、あくまでも李信恵ら一部の人たちです。この意味でも、李信恵をバックアップした「コリアNGOセンター」が中心となって、今からでも遅くはありません、本件リンチ事件に真っ正面から取り組み、血の通った人間として誠実に対応し、まずは被害者M君への謝罪をすべきだと思います。私の言っていることは間違っているでしょうか?

最後になりますが、私たちは、この5年半もの取材で、まだ公にせず“握っている情報”も少なからずあります。あえて表現すれば“ダイナマイト・スキャンダル”です。「弾はまだ残っとるぞ」ということです。

今後、検証-総括作業の過程で取捨選択しなんらかの形で記録として残していきたいと考えています。 (本文中敬称略)

《関連過去記事カテゴリー》
 M君リンチ事件 http://www.rokusaisha.com/wp/?cat=62

『暴力・暴言型社会運動の終焉』

◎amazon https://www.amazon.co.jp/dp/B08VBH5W48/

2014年9月に福岡県警が特定危険指定暴力団「工藤会」の壊滅作戦に乗り出してからまもなく7年。4つの市民襲撃事件で殺人などの罪に問われた同会の総裁・野村悟被告と会長・田上不美夫被告に対する判決が8月24日、福岡地裁で宣告される。野村被告は死刑、田上被告は無期懲役を求刑されながら、ともに全事件で無罪を主張しており、どんな判決が出ようとも大きく報道されることだろう。

かくいう私は今年3月、福岡地裁で弁護側が最終弁論を行った野村、田上両被告の公判を傍聴した。それを聞く限り、捜査や検察側の有罪立証にはあまり報じられていない問題も色々あり、両被告の無罪主張も無下に否定できないように思えた。この場でそのことを少し紹介してみたい。

◆総裁は「隠居」、会長は「象徴」

野村、田上両被告が裁判で罪を問われている事件は、(1)1998年2月の元漁協組合長射殺事件、(2)2012年4月の福岡県警元警部銃撃事件、(3) 2013年1月の看護師刺傷事件、(4) 2014年5月の歯科医刺傷事件――の計4件。検察はすべての事件について、両被告の指示や了承のもと、工藤会の組員が実行した組織的な犯行だと主張しており、対する両被告はすべての事件について関与を否定する構図となっている。

もっとも、裁判では、少なくとも(2)(3)(4)の3件は工藤会の組員が実行したことに争いはない。したがって、同会の最高幹部である野村、田上両被告は道義的な責任を免れないだろう。ただ、両被告が刑事責任まで負わねばならないかはあくまで別の話だ。そして事実関係を見る限り、4つの事件で両被告から実行犯に対し、犯行の指示や了承が本当にあったかというと極めて微妙な印象なのだ。

まず疑問なのは、そもそも野村、田上両被告が事件当時、工藤会の組員らに重大な犯行を実行させるほどの権限を本当に有していたのか、ということだ。

というのも、野村、田上両被告の主張によると、工藤会では、総裁は「隠居」、会長は「象徴」という立場であり、会の運営は部下でつくる「執行部」が担っていたという。そして実際、両被告のこの主張を支持する証言も存在する。裁判に証人出廷した当時の工藤会幹部で、対立関係にあった別の幹部を殺害した罪により無期懲役刑に服する木村博受刑者が「(両被告は)口を出したりすることはなかった」と証言し、両被告の主張を裏づけているのである。

田上被告は福岡県警元警部の銃撃事件について、「元警察官を銃撃すれば、警察が全力を挙げて工藤会の壊滅に動くのはわかる。そんな愚かなことはしない」と主張していたが、この主張にも特段おかしなところはない。犯行を主導していたのは執行部であり、「隠居」や「象徴」という立場の両被告が執行部の犯行を止められなかったのが組織の内実だという可能性も充分にありえるように思われた。

野村、田上両被告の裁判が行われている福岡地裁

◆10年以上前に不起訴になった事件で改めて逮捕、起訴

1つ1つの事件に関する弁護側の主張を聞いていると、そもそも警察、検察の捜査に無理があったように思える点も散見された。

とくに1998年2月の漁協組合長射殺事件については、田上被告は2002年に一度、実行犯とされる3人と一緒に逮捕されながら不起訴になっている。それにもかかわらず、10年以上経ってから福岡県警が工藤会の壊滅作戦に着手した際、田上被告は同じ事件の容疑で改めて逮捕され、起訴されたのだ。

弁護側はそのような事実を指摘し、「検察官が起訴したこと自体が違法だ」と主張していたが、確かにこのような警察、検察のやり方は相手が工藤会だということで無理をした感が否めない。

誤解なきようにことわっておくが、工藤会が一般市民を襲撃する凶悪事件を繰り返していたことは確かで、私はそれを「なかった話」にしたいわけではない。そもそも、そんなことをしても私にメリットは何も無い。被告人が誰であろうと、事実は事実として正確に伝えたいと思うだけである。

ということで、今後も当欄では、この裁判について適時、取り上げていきたいと思う。

▼片岡 健(かたおか けん)
ノンフィクションライター。編著に『もう一つの重罪 桶川ストーカー殺人事件「実行犯」告白手記』(著者・久保田祥史、発行元・リミアンドテッド)など。

タブーなきラディカルスキャンダルマガジン 月刊『紙の爆弾』9月号

◆大阪高裁が下した判決の意味

「本件傷害事件当日における被控訴人の言動自体は、社会通念上、被控訴人が日頃から人権尊重を標榜しながら、金(注:良平)によるM(注:判決では実名。以下同)に対する暴行については、これを容認していたという道義的責任は免れない性質のものである。」

「被控訴人の本件傷害事件当時における言動は、法的な責任の有無にかかわらず、道義的見地から謝罪と補償を申し出ることがあっても不思議ではない」。

2014年12月17日深夜、カウンター内で発生したM君リンチ事件について、鹿砦社と李信恵さんが争っていた裁判で、7月27日、大阪高裁が下した判決の抜粋である。被控訴人とされているのが李信恵さんだ。

大阪高裁は、李さんが、M君が凄惨なリンチを加えられている事実を知りながら見て見ぬふりし、挙句負傷するM君の横を素通りし放置したことを、「道義的責任は免れない」「道義的見地から謝罪と補償を申し出ることがあっても不思議ではない」と認定した。

私は、この事件に関心をもち、裁判を傍聴し続けてきた。事件、裁判の経緯などを詳細に記録した鹿砦社発行の、いわゆるリンチ本第6弾『暴力・暴言型社会運動の終焉』には、私からお願いして寄稿させて頂いた。(同書はぜひ読んでいただきたい)。3・11以降、私自身、少なからず関わってきた反原発運動と、このリンチ事件がどう関係するのかを考えたからだ。

「祝勝会」と称し浮かれる加害者と神原元弁護士(2018年3月19日付け神原弁護士のツイッターより)

◆「被ばく」問題を極力軽視する反原連のミサオ・レッドウルフ氏の言動

 

ミサオ・レッドウルフ氏(2015年8月10日鹿児島)

3・11以降、関東を中心に始まった「首都圏反原発連合」(以下、反原連)の運動は、またたくまに全国に波及した。反原連が掲げた「再稼働反対」は、事故後全国の原発が停止する中、2013年、事故後初めて福井県の大飯原発が再稼働するにあたり、喫緊の課題ではあった。

運動が高揚し、警察の弾圧も強まり、関西では関電前では、刑事がわざと活動家の前で転ぶ「転び公妨」で逮捕者がでた。私は初めて店を閉め、関電前に向かった。そこで見たのは、警察の暴挙に抗議する一団とは別に、関電ビルに向かって、ひたすら「再稼働反対」を叫ぶ一団だった。彼らが反原連の関係者と知り、疑問を持った私は、ネットなどの情報から、彼らの運動内では組合旗や党派旗はNGで、日の丸はOKだとか、運動が盛り上がると、いきなり主催者が「解散」と宣言するとか、警官らに「ありがとう」とお礼を言うことなどを知った。「反原連とは何者?」と、ますます疑問が強まった。

そのうち反原連のメンバーが、関東で反原発、被災者支援を行う仲間に嫌がらせを行う様子をネットで見たり、また別の反原連メンバーが、反原発を闘う男性に、丸二日かけて、ツイートを削除しろと迫った場面も見たりした。そこからは、彼らの、放射能由来の被ばくについて、軽視、あるいは否定する傾向が見えてきた。

驚いたのは、反原連の代表であるミサオ・レッドウルフ氏だ。当時、鹿砦社は、反原連に結構なカンパを提供していたこともあり、同社発行の反原発雑誌『NO NUKES voice』にミサオ氏のロングインタビューが掲載されたことがあった。ミサオ氏はそこで「被ばく」の「ひ」の字を一度も使わず、反原発を語っていた。被ばくを口にせず、反原発を語れるとは……ある意味すごい「芸当」の持ち主だ。

事故から10年経た今、小児性甲状腺がんだけでなく、大人たちにも様々な放射能由来の被ばくによる健康被害、疾患が増えている。「再稼働反対」も「さよなら原発」も重要だが、実質再稼働を許してしまっている今、喫緊の課題は、これ以上無用な被ばくを許すな、ではないか。『NO NUKES voice』26号で行った小出裕章氏、水戸喜世子氏、樋口英明氏の鼎談でも、最新号(9月9日発売予定の29号)の井戸謙一弁護士のインタビューでも、そのことが確認されている。

◆反原発・反被ばくを闘う人々に執拗に絡み、攻撃する野間易通氏らのカウンター行動

 

野間易通氏

2013年春から、関西で始まったカウンター行動に、当初、私も数回参加した。その後、関東から助っ人として駆けつけたメンバーを見て、私は参加をやめた。そこには、関東で反原発、反被ばくを闘う知人に、執拗に絡み、攻撃していた反原連の野間易通氏らがいたからだ。カウンター行動も早晩、彼らに利用され、潰されることは、容易に想像できた。まさか、内部でリンチ事件が発生するとは思いもよらなかったが……。

2014年4月、民族派のデモが中止になったことがあった。デモに来る途中、民族派のメンバーが、野間氏らカウンターメンバーらに待ち伏せされ喧嘩となり、警察に拘束され、結果、デモは中止になったようだ。待機していた人たちが「やった!」と喜ぶ姿がネットに上がった。ヘイトスピーチをまき散らす連中のデモは確かに許せないが、それを力づくで止めたことが「勝った」ことなのか?

一基の原発の廃炉が決まっても、その後何十年、一定の確率で被ばく死する被ばく労働に就かざるを得ない労働者が存在する事実、何百年のスパンで被ばくによる健康被害に苦しむ人たちがいる事実が消せないのは、ヘイトスピーチを力づくで封じ込めても、ヘイトスピーチやヘイトクライムがなくならないのと同じではないか。

社会の末端の労働者に一定の確率で確実に被ばく死する労働を強いることを前提として成立する社会構造、様々な社会的弱者を犠牲にして成り立つ社会構造こそが問題にされ、解体されなくてはないのではないか?

◆「ヘイトスピーチ解消法」制定最中に起きたリンチ事件の隠蔽

2016年に「ヘイトスピーチ解消法」が制定されて、今年で5年になる。この法自体が、ヘイトスピーチなどの解消にどれだけ効力をもつか、逆に自らの首を絞めかねない悪法ではないかなどとも指摘されている。しかし、カウンター周辺の弁護士、国会議員、著名人らは、制定に向け躍起になっていた。

その最中に発生したリンチ事件をあの手この手で隠蔽しようとしてきたのは、何が何でも同法を制定させたいからにほかならない。中心的人物の一人・師岡康子弁護士は、支援者にあるメールを送っていた。そこには、「その人(M君)は、今は怒りで自分のやろうとしていることの客観的な意味が見えないかもしれないが、これからずっと一生、反レイシズム運動の破壊者、運動の中心を担ってきた人たち(李信恵氏ら)を権力に売った人、法制化のチャンスを潰した人という、重い批判を背負い続けることになります」などと、およそ弁護士(それも人権派)からぬ表現で告訴を必死で止めさせようととするものだった。

人権派弁護士ならば、えん罪事件をご存知だろうが、例えばえん罪被害者が過去に悪事を働いていても、それはそれとして罪を償うと同時に、疑われたえん罪は晴らさなくてはならない。同様に、師岡氏はじめ神原元弁護士、上瀧浩子弁護士らは、リンチ事件に関わった李氏に反省を求め、その上で在特会との闘いを支援し、差別を解消する法制定へ繋げていけば良かったのだ。運動の人生の先輩たる彼ら、誰ひとり、李氏やリンチ事件の実行犯・金良平氏に「暴力はいけない」「それは差別だ」と助言できなかった。それは彼らを「捨て駒」として利用してきたからだ。執行猶予中の身で辺野古へ向かい、逮捕され、あげく「変死」した男性もいたではないか。

神原元弁護士と師岡康子弁護士

M君の手記によれば、金氏は、カウンターに参加した当初、「自身の無学を恥じて、先輩の凛七星氏に『俺、在日やのに在日の歴史も何も知らんのです。勉強させてください』と本を借りたりしていた」というではないか。何故、周辺の先輩たちは、そんな彼の過激な言動を諫め、「在日として勉強したい」思いを伸ばしてやれなかったのか? それはひとえに、ヘイトスピーチ解消法制定という輝かしい功績(手柄)を手にしたいからではなかったか? 

金氏を擁護するわけではないが、「捨て駒」に汚れ仕事をさせて、自らの手には一滴の血もつけず、のうのうと運動の成功者のようにふるまえる著名人、国会議員、弁護士、そしてその神輿を必死で担ぎ上げてきたメディアこそ、私は許せない。リンチ事件の最大の加害者だ!

◆おわりに

ご存知のように、反原連は今年活動休止を宣言した。理由の一つに寄付金の減少をあげているが、金があろうがなかろうがやめることが出来ないのが、反被ばく、反原発の闘いだ。

リンチ事件で、李信恵氏に「道義的責任」を問う判決が下されたことと、反原連が休止宣言したことは無関係でないだろう。李氏、反原連がこのような状況に陥った背景には共通点があると考えるが、それはまた別の機会に述べたい。

誰もが矛盾を抱え、間違いを犯す、もちろん私も。ただ、私が誇れるのは、私には批判してくれる仲間がいることだ。

福島第一原発の収束作業で白血病を発症したあらかぶさん。東電と国に対して「俺たちは捨て駒じゃない」と闘い続けている

▼尾崎美代子(おざき みよこ)
新潟県出身。大学時代に日雇い労働者の町・山谷に支援で関わる。80年代末より大阪に移り住み、釜ケ崎に関わる。フリースペースを兼ねた居酒屋「集い処はな」を経営。3・11後仲間と福島県飯舘村の支援や被ばく労働問題を考える講演会などを主催。自身は福島に通い、福島の実態を訴え続けている。
◎著者ツイッター(はなままさん)https://twitter.com/hanamama58

《関連過去記事カテゴリー》
 M君リンチ事件 http://www.rokusaisha.com/wp/?cat=62

『暴力・暴言型社会運動の終焉』

◎amazon https://www.amazon.co.jp/dp/B08VBH5W48/

『NO NUKES voice』Vol.28 《総力特集》〈当たり前の理論〉で実現させる〈原発なき社会〉

私たちは唯一の脱原発雑誌『NO NUKES voice』を応援しています!

戦後の皇室民主化にさいして、最大の障壁になったのは旧華族たちの抵抗、なかんずく宮中女官たちの隠然たる抵抗だった。まずは、その前史から解説していこう。

女官というのは、平安期いらいの宮中女房のうち、官職を持った女性のことである。男性史観の人々のなかには「女性は官位を持たない」と主張する人も少なくないが、五代将軍徳川綱吉の母・桂昌院が従一位の官位を得たのは知られるところだ。

緋袴におすべらかしの結髪、華やかな小袖が宮中女官たちの衣裳である

ただし、宮中女官においては、帝と主従関係をむすぶ立場であって、尚侍(ないしのかみ)以下の官職ということになる。いわゆる「後宮十二司の職掌」というのが正確なところだが、尚侍が従三位(じゅさんい)の位階。典侍(ないしのすけ)が従四位下(じゅしいのげ)、掌侍(ないしのじょう)が従五位上(じゅごいのじょう)の位階となる。

従五位下の位階で、勅許による昇殿がゆるされる身分(殿上人)となる。上杉謙信や織田信長も守護代時代には従五位下(武田信玄は従四位下)だから、まあまあ偉いといえる。現代の政治的な地位でいえば、政令指定都市の市長か、実力のある県の副知事といったところだ。官僚なら局長クラス、国政では国会議員に相当するだろう。

◆後宮をつくった明治大帝

明治天皇、昭憲皇太后に仕え、著書『女官』を残した山川三千子が出仕の時(1909年)には以下の女官がいたという。

・女官長典侍(ないしのすけ)=高倉寿子
・典侍=柳原愛子(大正天皇の母)
・権典侍(ごんないしのすけ)=千種任子(天皇との間に2児)、小倉文子、園祥子(天皇との間に8児)、姉小路良子(姉小路公前の娘)
・権典侍心得(ごんないしのすけこころえ)=今園文子(天皇の気に入られず、自己都合で退官)
・掌侍(ないしのじょう)=小池道子(水戸藩士の娘で徳川貞子の元教育係)
・権掌侍(ごんないしのじょう)=藪嘉根子、津守好子、吉田鈺子、粟田口綾子(粟田口定孝の三女)、山川操(仏語通弁)、北島以登子(英語通弁、鍋島直大家の元侍女)
・権掌侍心得=日野西薫子
・権掌侍出仕=久世三千子(のちに山川三千子)
・権掌侍待遇=香川志保子(英語通弁)
・命婦(みょうぶ)=西西子
・権命婦=生源寺伊佐雄、平田三枝、樹下定江、大東登代子、藤島竹子
・権命婦出仕=樹下巻子、鴨脚鎮子

ほかに葉室光子(典侍)、橋本夏子(典侍)、四辻清子(典侍)や、下田歌子(士族出身の初の女官)、税所敦子、鍋島栄子(結婚前)、松平信子(通弁)、壬生広子(掌侍)、中川栄子(掌侍待遇)、六角章子(権掌侍)、堀川武子(命婦)、吉田愛(権命婦)などがいた。職掌だけでざっと40人弱、たいへんな勢力である。

このほか、官職をもった女官に使える女中たち、天皇夫妻の寝室を清掃する女嬬(にょじゅ)、便所や浴室を掃除する雑仕(ざっし)などをあわせると、数百人におよんだという。江戸時代の大奥をそのまま再現したようなものだ。

女官たちのうち、明治天皇のお手がついて出産したのは5人だった。一説には天皇は女官に片っ端から手をつけた、ともいわれている。(本連載〈24〉近代の天皇たち ── 明治天皇の実像)

前近代の女官・女房がそうであったように、天皇の「お手つき」となる可能性が高かったことから、女官は御所に住み込みで仕え、独身であることが条件だった。

典侍の柳原愛子が大正天皇を生み、権典侍の園祥子が明治天皇との間に8人の子供をつくったことからも、女官が側室に近い存在だったことがわかる。

上記の山川三千子は明治天皇が没すると、そのまま昭憲皇太后の御座所にとどまり、大正天皇および貞明皇后には侍従していない。彼女は貞明皇后のお転婆風(西欧風)を嫌ったのである。そのいっぽうで、新皇后に出仕する女官たちと、女官たちのなかに新旧の派閥が形成されるのが見てとれる。

大正天皇も自分が女官の子であることに愕き、一夫一婦制を遵守したかのように見られているが、新任女官の烏丸花子は事実上の側室だったという。

貞明皇太后

◆昭和の女官たち

昭和天皇は、即位後まもなく女官制度の改革を断行し、住み込み制は廃止され、自宅から通勤するのが原則となった。また既婚女性にも門戸が開かれた。

この改革は、自分が側室の子だったことにショックを受けた大正天皇の影響や、若いときに欧州、とりわけイギリス王室(一夫一婦制)に接した近代君主制思想によるものと考えられる。女官たちの人数も大幅に削減され、天皇夫妻はおなじ寝室で休むことになった。これでもう、側室的な女官は存在しないのと同じである。

この改革が貞明皇太后の反発を生み、昭和天皇との確執に発展する。貞明皇太后が秩父宮を偏愛し、弟宮たちの妃を娘のように可愛がったのは、前回の「天皇制はどこからやって来たのか 昭和のゴッドマザー、貞明皇大后(ていめいこうごう)の大権」で見たとおりだ。

子だくさんで、国母とも呼ばれた良子皇后

大きな改革が、守旧派の抵抗に遭う。神がかり的な貞明皇太后は、洋式の生活に慣れた昭和天皇が、長いあいだ正座できないことを批判していた。新嘗祭をはじめとする宮中神事において、長時間の正座は必須である。

ために、宮中神事を省略したがる昭和天皇に、貞明皇太后はいっそう伊勢神宮への戦勝祈祷を強いる。これが太平洋戦争を長びかせた、ひとつの要因でもある。

そして昭和天皇への不信と憤懣が、皇后良子(ながこ)へと向かうのである。おっとりとした皇女である良子は、つねにその動きの愚鈍さを詰られたという。

いずれにしても女官制度の改革をはじめとする変化は皇室改革へとつながり、昭和皇太子の家族観において、母親が子を育てるという普通の近代家族の形式を皇室にもたらすことになる。

だが、それにたいする抵抗勢力は強靭だった。その抵抗の矛先は平民皇太子妃、正田美智子へと向かうのである。

貞明皇太后にイジメられた皇后良子が、その急先鋒だった。良子が宮内庁の守旧派を背景に、高松宮妃、秩父宮妃、梨本伊都子、松平信子らとともに、婚約反対運動を展開したのはすでに述べた。次回はその新旧の確執が水面下にありながら、大きな民主化へと結実していく様をレポートしよう。(つづく)

◎[カテゴリー・リンク]天皇制はどこからやって来たのか

▼横山茂彦(よこやま・しげひこ)
編集者・著述業・歴史研究家。歴史関連の著書・共著に『合戦場の女たち』(情況新書)『軍師・官兵衛に学ぶ経営学』(宝島文庫)『闇の後醍醐銭』(叢文社)『真田丸のナゾ』(サイゾー)『日本史の新常識』(文春新書)『天皇125代全史』(スタンダーズ)『世にも奇妙な日本史』(宙出版)など。

8月15日 鎮魂(龍一郎・揮毫)

今こそ鹿砦社の雑誌!

◆水道工事が運命

須田康徳(すだやすのり/1954年5月10日、千葉県市原市出身)は昭和のTBS系キックボクシング、最後のスター選手。そんなキャッチフレーズが似合う実力とカリスマ性が備わり、まだ団体乱立前の最も価値ある時代の日本ライト級チャンピオンまで上り詰めた。

沢村忠や藤原敏男といった全国に名を轟かす存在ではなかったが、デビューして5年超えの脂が乗りきる二十代後半を迎える頃は分裂が起こり、キックボクシング業界が最も低迷期に突入した時期だったことが悔やまれる。

水道工事店を営む家庭で育った須田康徳は、両親と兄二人と共に家業を営むが、市原ジムの玉村哲勇会長の玉村興業と業務提携で結び付くと、玉村会長はまだ21歳だった須田康徳の運動能力を見抜き、得意の言葉で上手く唆しプロデビューへ導いた。須田康徳にとってもテレビで観た沢村忠や亀谷長保に憧れた想いに惹かれ、1976年(昭和51年)9月、市原ジムに入門。

当時は誰とも喋ることは少なく、トレーナーの指示には首を縦に振るだけで黙々と練習する選手だったとトレーナーは言う。

入門2ヶ月後の11月には早くもデビュー。須田康徳は周囲も目を見張る呑み込みの早さでKOパターンを身に付けた。静かなモーションからの蹴りは意外な印象を与えるほど重い蹴りを持つ連系技として、ローキックからパンチ、右ストレートとアッパーは強烈だった。

スロースターターで早々にノックダウンすることはあったが、眼が覚めたかのような反撃は凄まじかった。“これが当たれば絶対倒せる”といった自信を持ったパンチで必ず立ち上がり、これが逆転劇の好きな日本のファンに感動を与えていった。

レイモンド額賀戦。劣勢から逆転狙う表情(1981.11.22)

レイモンド額賀のパンチは重かった(1981.11.22)

日本系(TBS系)の日本ライト級チャンピオンベルトを巻いた須田康徳(1984.10.7)

◆ピーク時は不運な時代

1978年1月3日には昭和52年度日本ライト級新人王獲得。デビューから13連勝すると「この頃が少し天狗になっていた。」と玉村会長は言う。1979年には早くも結婚したり、タイへ修行も行ったが、「河原武司(横須賀中央)に倒されて、ふて腐れてジムに来なくなった。でも放っておいても3ヶ月もすれば、またジムにやって来る。多かれ少なかれ皆そんな壁にぶつかるんだ。そしてタイ帰りの初戦は皆負けやすい。」と言う玉村会長。現地でチャンピオンらと練習するとムエタイを崇拝し過ぎて、本来の自分のスタイルを見失う。たった1~2ヶ月学んだ程度のムエタイ式にのんびり構えているから、そこを突かれて倒されるのだという。そんな経験も知的な須田は反省と弱点の克服は早かった。

1980年2月の500万円争奪オープントーナメント準決勝でライバルの日本ライト級チャンピオン、有馬敏(大拳)にノックダウンを奪い返してギリギリの判定勝利。同年6月に王座を賭けた再戦では引分けたが、12月の再挑戦では最終ラウンドにノックダウンを奪って判定勝ちし、念願の王座奪取となった。有馬敏越えはキック人生で最も過酷で充実した時期だっただろう。

オープントーナメント決勝での伊原信一(目黒)戦には判定で敗れたが、これがTBS放映での最後のビッグマッチでもあった。

翌1981年1月、テレビ朝日で特別番組を組まれた日本武道館での日米大決戦では、変則技の曲者、トニー・ロペス(米国)をパンチとローキックで翻弄し、4度のノックダウンを奪って大差判定勝ち。国際戦にも備えたチャンピオンとしての戦いで、これから最も輝く時代に入るはずだった。

その後、キックボクシング業界はテレビのレギュラー放映は復活成らず。目標の定まらない須田は引退を口にすることは無かったが、「全く練習しないまま試合に出るようになった。」と玉村会長は言う。団体乱立がより低迷に陥り、輝く舞台を用意してやれなかった玉村会長は煩くは言わなかった。それでも上手い試合運びでKOしてしまう天性の才能には恐れ入ったものだった。しかし強豪とぶつかるとなれば、そうはいかない。

「練習しないといっても、誰も居ない深夜にジムの灯りが点いていて、覗いてみると人の見ていないところではやっていたよ。全盛期には及ばないが須田さんほどの熟練者になると、新人の頃のガムシャラにやる練習とは内容が違ってくるよ!」とジムのすぐ近くに住む後輩の選手は言う。

1982年11月には業界が総力を結集した、1000万円争奪オープントーナメントはその豪華顔ぶれには須田も奮起した。元・ムエタイ殿堂チャンピオンの藤原敏男(黒崎)を倒せば超一流のレッテルが貼られることは王座以上の勲章。須田は初戦でヤンガー舟木(仙台青葉)に判定勝ち。準々決勝で千葉昌要(目黒)を激闘の逆転KOに葬り、準決勝戦では同門の後輩、長浜勇に3ラウンド終了TKOで敗れる意外な脱落で藤原敏男戦は夢となったが、藤原敏男も勝利後引退宣言して身を引き、時代の変わり目を感じた準決勝戦となった。

◆初の名誉チャンピオン

1983年5月、須田康徳は足立秀夫(西川)を王座決定戦で倒し、日本プロキック・ライト級チャンピオンとなったが、団体乱立する中の箔を付けるに過ぎない王座。翌1984年夏、引退興行まで計画されたところ、11月に業界再建目指す四団体統合の日本キックボクシング連盟設立され(後にMA日本と枝分かれ)、ベテラン須田は再び奮起。引退どころか衰えぬ強打で存在感を示した。

ベテラン千葉昌要には劇的逆転KO勝利(1983.1.7)

強打の後輩、長浜勇に不覚を喫する(1983.2.5)

足立秀夫を倒して二つ目の王座獲得(1983.5.28)

中川栄二のしぶとさに手こずるも大差判定勝利(1983.9.18)

香港遠征が多かった時代、現地でも人気があった須田康徳(1983.11.17)

一度敗れている甲斐栄二に雪辱のKOへ結びつける(1985.9.21)

1986年5月、当時のMA日本キックボクシング連盟が仕掛けたテレビ東京での久々の放映復活に際したビッグカードを打ち出し、須田が日本ウェルター級タイトルマッチ、向山鉄也(ニシカワ)に挑戦する試合に起用された。ピークを過ぎた頃に一階級上の激戦の強者、向山との打ち合いは、さすがに過酷だった。一度はノックダウンを奪われ、右アッパーで逆転のダウンを奪ったものの、最後は打ちのめされた。
1987年7月、日本ライト級王座決定戦でも越川豊(東金)に判定で敗れたが、劣勢から逆転に導けない動きの悪さは以前には無かった寂しい姿だった。

「もう一度、須田康徳のチャンピオンベルトを巻いた姿が見たかった!」そんな声も多かった。MA日本キックボクシング連盟での二階級での挑戦は実らなかったが、過去の日本タイトルを含む実績は計り知れない重さがあり、その後も過酷な激戦を続けて来た功績を称えられ、同年11月には、同・連盟代表理事・石川勝将氏(=当時)より“名誉チャンピオン”の称号が贈られた。須田康徳の存在感やデビュー当時からの過程を知る石川代表の粋な計らいだっただろう。

1988年9月、須田は地元の市原臨海体育館で後輩の長浜勇との再戦で1ラウンドKO勝ち。借りを返す形で最後の花道を飾り、11月に後楽園ホールで引退式を行なった。

◆父子鷹成らず

マスコミが一人も来ない。そんな寂しい時代の1984年3月31日、千葉公園体育館で日本プロキック・フェザー級チャンピオン、葛城昇(習志野)との当時のチャンピオン対戦。

そんな激闘必至を迎える前の、朝の計量後に玉村会長から「飯食ったら俺の家の漏水工事やっておけよ、やんないとファイトマネー払わないぞ!」と脅しではないが、試合の日も働かされた須田康徳。会長宅で正味10分程度の水道工事だったが、工具を運び、慣れた手つきで早々に終わらせた姿はさすが職人。玉村会長は選手に強引な言いつけも多かったが、家族のような選手らとの、ゆとりのコミュニケーションであった(試合は互いの持ち味を発揮する激戦の末、須田康徳が僅差の判定勝利)。

葛城昇とはテクニック酷使の激闘で判定勝利(1984.3.31)

そんな須田康徳氏は、デビュー当時から大人しい人だったが、後に長浜勇(格闘群雄伝〈8〉)が入門後、やがてムードメーカーとなると須田氏もよく喋べり、冗談好きで子煩悩な一面が見られる御茶目な本性を表した様子だった。こんな温かい環境で戦って来れたことは幸せな現役生活だっただろう。

「将来は須田ジムを興せ!」と檄を飛ばす玉村会長の暗示には掛らずも、息子さんの悦朗くんをプロデビューさせた。彼は赤ん坊の頃からジム仲間に抱き抱えられ、いつも可愛がられる存在だった。1999年、18歳の時にリングに立ったが、残念ながら3戦程で辞めた様子。父子鷹とはならなかったが、須田康徳氏が育て上げる令和のスターや名誉あるチャンピオンと共に立つ姿が見たいコアなファンの夢は尽きない。

▼堀田春樹(ほった・はるき)[撮影・文]
フリーランスとしてキックボクシングの取材歴32年。「ナイタイ」「夕刊フジ」「実話ナックルズ」などにキックのレポートを展開。ムエタイにのめり込むあまりタイ仏門に出家。座右の銘は「頑張るけど無理しない」

タブーなきラディカルスキャンダルマガジン 月刊『紙の爆弾』9月号

秋の総選挙前に、興味深いレポート記事がそろった。そして北朝鮮をテーマにした記事、とくに小坂浩彰氏の登場に「興奮」だ(後述)。

 

タブーなきラディカルスキャンダルマガジン 月刊『紙の爆弾』9月号

まずは8月8日告示となった横浜市長選挙である。(横田一「横浜市長選で菅義偉一派の姑息栓術」

横浜では当選前に「カジノ誘致は白紙」としていた林文子市長(再選立候補)が積極誘致に転じ、市民の期待を裏切ってきた。ハマのドンこと藤木幸夫横浜港ハーバーリゾート協会会長がカジノ誘致の反対の論陣を張ることで、IR(横浜港湾地域の再開発問題)は混迷をふかめてきた。

だが、自民党の小此木八郎国家公安委員長(前衆院議員)が「カジノ絶対反対」を掲げて出馬表明。作家で元長野県知事の田中康夫氏が出馬表明、立憲民主の山中竹春(元横浜市大教授)、維新の松沢成文参院議員(前神奈川県知事)など、カジノ反対派はじつに7人も立候補したのである(記事では8人となっているが、郷原信郎弁護士が立候補を取りやめ)。

すなわち、カジノ誘致反対票が、反対派の立候補者乱立によって、分散してしまうことが確実となったのだ。しかるに、小此木氏とキーマンの藤木氏は三代にわたる家族付き合いがあり、小此木氏の父親の秘書を務めていたのが、菅義偉総理なのである。小此木氏に「隠れカジノ推進派」との疑惑が持ち上がるのは、けだし当然であろう。反対派陣営の候補者一本化への内幕もレポートされている。

いずれにしても、横浜市は菅総理の地元であり、ここで小此木氏が敗れるようなことになれば、政権維持にも直撃する。そこで「カジノ誘致反対(隠れカジノ誘致)」の立場をとりながら、マヌーバー的に誘致へとシフトする。その意味では選挙後の小此木氏の立場にも目が離せないということになる。

◆総選挙は山口三区が焦点に

いまから秋に向けて注目すべきは、派閥の瓦解へのつながる可能性のある、自民党内の政局である。(山田厚俊「衆院選で瓦解へ 自民党内で露見した亀裂」

秋の総選挙で決定的となっているのが、現職の不出馬(引退=10名以上)である。伊吹文明、竹下亘、冨岡勉など、派閥の幹部クラスが相次いで引退することになる。そこで「派閥の瓦解」である。

そのうえで、ポスト菅をめぐる党内亀裂が二階派と宏池会(岸田文雄)との間で起きるのではないかと、山田は指摘する。そのキーマンは、山口三区に参院から衆院に転じる林芳正元文科大臣であるとする。

その衆院山口三区は、二階派の河村建夫元官房長官が公認候補となる予定だ。この亀裂が10年後の自民党の派閥の力関係を決め、将来の主流派を占うのだとしたら、山口三区からは目が離せない。政治の世界は寸分先も見えない。20年前に安倍長期政権、菅政権を予見できた人がいただろうか。

◆怖い噂

NEWSレスQの記事「河井案里事件 自殺した担当検事をめぐる怖いウワサ」が注目に値する。自殺したのは昨年12月だが、その背景には安倍の側近Aなる人物から電話があると、誰かが死を選ぶことになる。という怖い噂だ。

特定秘密保護法を批判した内閣参事、自民党山田健司代議士の不正を告発しようとしていた秘書、UR問題で担当者だった国交省職員、森友学園問題の造園会社社長、そして近畿財務局の赤木俊夫氏と、政権にとって都合の悪い人物が死を選ぶ──。

その赤木ファイルを検証した青木泰「財務省腐敗 改ざんに抵抗した命がけの記録 赤木ファイルが訴えるもの」は保存版であろう。

◆久々の「証言」 小坂浩彰

小坂浩彰氏は、日本にいての北朝鮮のことは絶対にわからない。という、ある意味では当たり前のことから出発する。じっさい、北朝鮮通の小坂氏にしても、わかっているふりをして「予測発言」したが、外れて大恥をかいたという。

ジャーナリストや証言者は「批評家」ではないのだから、当然と言えば当然である。Z世代にもわかりやすく書いているというが、このような記事こそが読者にとどく。

とはいえ、新たなファクトは、あまりない……。小坂氏にはもっと北朝鮮に足を運んでもらい、多少あやしいものでも「証言」を期待したい。

◆「平壌の人びと」伊藤孝司インタビュー by 小林蓮実

これも「証言」ではないが、日本人が課題としなければならない問題。北朝鮮における残留日本人と日本人妻(帰還運動による)、あるいは墓参と遺骨収集などである。

写真展は8月24日~9月5日。ギャラリーTEN(台東区谷中2-4-2)http://galleryten.org/ten/

イベントは8月29日18時~。不忍通りふれあい館(文京区根津2-20-7)
https://www.city.bunkyo.lg.jp/bunka/kanko/spot/museum/fureai.html

◆スポーツとは何かを考える

片岡亮「東京五輪開催の今こそ 大坂なおみの問いを見つめなおす」は、スポーツとりわけオリンピックやプロスポーツを考えるうえで、刺激的な問題提起である。

国籍問題もさることながら、スポーツのありかたをめぐっては、ラグビー協会制度(国籍ではなく、協会所属3年で日本代表に参加できる。イギリスには3つの協会=イングランド、スコットランド、ウェールズが併存する)についても考察を広げるべきであろう。大相撲についても、相撲が「スポーツ」なのか「神事」(神への奉納)なのかという、議論を深めるべきテーマがあるはずだ。相撲協会および横綱審議会が、この点を曖昧にしてきたことも一因である。

私見を申し上げれば、相撲は神事であるとともにスポーツでもある。そこに顕われる品格問題を優先するのか、スポーツとしての可能性をどこまで容認するのか。時々の議論があって成り立つ、ある意味では可変的な論争的な内容を持つがゆえに、魅力のある舞台なのだ。

神事(様式美)で通してしまえば、八百長(無気力相撲)も容認されるし、それへの憤り(スポーツの厳しさ)がまた魅力を増す。その意味では、神事や品格を理解しないモンゴル勢がつよいという矛盾、その危うさこそが大相撲の魅力とも言えるのだ。そこにあるのは、スポーツ文化をめぐる議論の楽しさであり「結論」などはない。

▼横山茂彦(よこやま・しげひこ)
編集者・著述業・歴史研究家。歴史関連の著書・共著に『合戦場の女たち』(情況新書)『軍師・官兵衛に学ぶ経営学』(宝島文庫)『闇の後醍醐銭』(叢文社)『真田丸のナゾ』(サイゾー)『日本史の新常識』(文春新書)『天皇125代全史』(スタンダーズ)『世にも奇妙な日本史』(宙出版)など。

タブーなきラディカルスキャンダルマガジン 月刊『紙の爆弾』9月号

新型コロナウイルス感染症への対応で厚生労働省は8月2日、感染者の多い地域では原則、入院対象者を重症患者や特に重症化リスクの高い人に絞り込み、入院しない人を原則自宅療養とすることを可能とする方針を公表した。(2021年8月2日付毎日新聞)

これまでも、東京、大阪などでは経験していた感染爆発に対して、政府は実質「無策」を宣言したのである。「自宅療養」という言葉は「入院させてもらえない」と書き直さなければならない。多くの識者が早期から指摘し、わたしのような素人でも第5波が、とてつもなく広がるであろうことは、諸外国の感染者増加の様子と、ワクチン接種をしても、なお感染してしまう感染してしまうデルタ株の感染力を考えれば、容易に予想でき得た事態だ。

相変わらず「禁酒法」だけに頼り、飲酒が主たる感染原因であるかのような、視野狭窄対策しか、凡庸政府には浮かばないようだが、「感染理由不明者」の中には、飲酒とどう考えても繋がらない弱・中年層が多数含まれることを、為政者はどのように分析するのであろうか。今回の感染拡大はこれまでに増して速度が速く、大雑把にいえば人口に比例している。

そのことは都市部で既に医療崩壊が発生しており、「自宅療養」を強制せざるをえないところまで追い込まれている事実が示す通りだ。コロナ感染が増加するたびに指摘してきたが、感染症爆発は感染者を救済する観点から大きな問題であるのと同時に、病院機能全体の低下を招くので、コロナとは無関係な患者さんの治療や手術計画にも影響を及ぼす。大都市に暮らさないわたしにも、医師からは、その「警告」がすでに発せられている。

第一波時から医療現場では、治療に当たる際の経験則が蓄積されたので、搬送された患者さんへの適切な初期対応が可能となり、重症化や死亡はかなり抑えられるようになった。他方、次々に生まれる変異株はそれぞれに、異なった症状を引き起こすので、経験則だけでは対応できない、手探りの部分も多いという。知り合いの勤務医に聞いたところ「大都市、地方を問わずこれだけ感染者がふえると、完全にキャパオーバー。いつまで続くかわからないので担当のドクターやナースの心身がいつまでもつのか不安だ」と語っていた。

「安心・安全」とは4回も5回も緊急事態宣言を出される状態を指すのか、菅よ。少しは自分の思い込みではなく、実数や科学的根拠に立脚した分析を基に、政策を官僚に考えさせようとは思わないのか(思わないだろう、国民の生命を重んじる殊勝な首相ならこれまでのような「馬鹿政策」を繰り返すはずはない)。

都道府県の権限は限られるし、市町村はさらに非力だ。猛暑下疾病を抱える人は、既往症に加えて「医療崩壊」への恐怖を募らせる。つくづく、無能で冷酷無比な政権だなあと感嘆する。かといって、菅が辞めれば何かが変わるというものではない。自民党、公明党連立が続く限り、政策に大きな変化はない。

絶望を含んだ気持ちの悪い汗がしたたり落ちる。「私たちは知りません、ご自分で生きてください」と政府は宣言した。

▼田所敏夫(たどころ としお)
兵庫県生まれ、会社員、大学職員を経て現在は著述業。大手メディアの追求しないテーマを追い、アジアをはじめとする国際問題、教育問題などに関心を持つ。※本コラムへのご意見ご感想はメールアドレスtadokoro_toshio@yahoo.co.jpまでお寄せください。

タブーなきラディカルスキャンダルマガジン 月刊『紙の爆弾』9月号

『NO NUKES voice』Vol.28 《総力特集》〈当たり前の理論〉で実現させる〈原発なき社会〉

« 次の記事を読む前の記事を読む »