5月15日、沖縄が日本に「返還」(併合)されて50年が経ちました。

50年前の5月15日、私はデモの中にいました。ビルの谷間に空しくこだまするシュピレヒコールが記憶に残っています。

1972年5月15日付けの『琉球新報』

1972年5月15日付けの『沖縄タイムス』

 

映画『沖縄決戦』ジャケット

事実上の沖縄決戦は前年の1971年でした。『沖縄決戦』という映画も作られ放映されました(監督・岡本喜八、脚本・新藤兼人、東宝。8月14日封切り。俳優も、小林桂樹、仲代達也、丹波哲郎、加山雄三、田中邦衛、大空真弓、酒井和歌子ら錚々たる布陣)。映画の中で、終戦間近、敗色濃い沖縄決戦直前、大本営は精鋭部隊の派遣をドタキャンし、その理由として「沖縄は本土のためにある。それを忘れるな」と語っていますが、ヤマトンチュのこの意識は「返還」後もずっと続き、今はどうでしょうか。

返還協定調印(6月)から批准(11月)まで沖縄現地、「本土」ともに激しい抵抗がなされました。翌72年は、連合赤軍事件があったりで、沖縄「返還」に対する抗議行動は、わずかにブント戦旗日向派が「5・13神田武装遊撃戦」を最後の火花のごとく実力闘争で闘ったことが記憶に残るぐらいです。同派は前年、精鋭の「共産主義武装宣伝隊」が権力中枢の外務省に突入を試みたことがありましたが、5・13は、権力の中枢とは程遠い御茶ノ水での闘いでした。かなりの数の逮捕者を出しましたが、それだけの逮捕者を出してまでもやるのなら、もっと権力中枢でやってほしかったところで残念です。

70年安保闘争が1970年その年の闘いではなく、67年羽田闘争から69年秋期決戦まで続き雌雄が決っしたように、沖縄決戦は、1971年に大きなうねりとなり闘われ敗北しました。

71年5・19沖縄返還協定調印阻止闘争(京都)

71年6・17沖縄返還協定調印阻止闘争(東京)

よく69年の闘いに敗北し、その後の反戦運動、社会運動、学生運動(以下それらをまとめて「運動」と略称します)がそこで終わったかのように記述されますが、70年にも闘いを続ける人たちはまだ多くいました。当時私も大学に入ったばかりで「遅れてきた青年」(大江健三郎の同名の小説のタイトル)でその運動に参加しました。今と違い学園には立看が林立し日々多くのビラが撒かれました。深夜喫茶などもあって、夜遅くまで喧々諤々の議論が交わされました。熱い季節はまだ続いていました。

1971年には、三里塚闘争も山場を迎え、また国公私立大の学費値上げ阻止闘争と連繋し沖縄闘争が闘われました。当時のドキュメント映像が時に放映されますが、みな真剣でひたむきな目をしています。この頃の時代の空気や闘いの記録、記憶は、昨年に発行した『抵抗と絶望の狭間 一九七一年から連合赤軍へ』に、詳細な年表と共に、多くの執筆者が書き記している通りですので、未読の方はぜひご購読いただきたいと思います。

11・14沖縄返還協定批准阻止闘争(東京渋谷)

11・19沖縄返還協定批准阻止闘争(東京日比谷)

72年5・15偽善的「返還」にひとり気を吐いたブント戦旗日向派の72年5・13神田武装遊撃戦

◆盛り上がった運動に水を差した分裂と、死者を続出させた内ゲバ

1971年の運動は盛り上がりましたが、それに水を差したのは運動の分裂と、死者が続出した内ゲバだといえます。

運動の分裂としては、新左翼最大党派の一つブントが、いわゆる戦旗派(日向派)と連合派(関西派、さらぎ派、神奈川)に4・28沖縄デーでの日比谷公園でのゲバルトで分裂に決着、これが第二次ブント最後の分裂かと思いきや、以後も分裂や離合集散を繰り返しています。ブントは、60年安保前夜に結成、60年安保闘争を闘い、その後分裂し、ようやく66年に再建しましたが、以来毎年のように分裂してきました。なんのための再建だったのでしょうか。

また、対立はありつつも表面上は分裂を回避してきた新左翼系の統一運動体・全国全共闘(八派共闘)が、6月15日に大きく二つ(奪還派〔中核・第四インター〕と返還粉砕派〔解放派・フロント・ブント・プロ学同など〕)に分裂しました。

さらに沖縄の青年組織も、「沖縄青年委員会」(略称「沖青委」。中核派と共闘)と「沖縄青年同盟」(略称「沖青同」。解放派等と共闘)に分裂し、前者は皇居突入、後者は国会内で爆竹を鳴らすなどの抗議行動を行いました。

分裂はしつつも死者を出すまでもなく、各派、各組織ともに権力(当時の佐藤政府)に対して懸命に72年欺瞞的「返還」に抗議・抵抗しました。

71年4・28 ブントの内ゲバ(東京日比谷公園)

 

71年6・15 全国全共闘の分裂

ところが、中核vs革マル間の内ゲバが、70年に革マル派学生が1名亡くなった後も続き、71年には横浜国大寮で革マル派学生が中核派に襲撃され1名が死亡(10月)、革マル派も反撃し学費値上げ反対闘争を闘っていた関西大学のバリケードを深夜襲撃、そこにいた中核派の中心的活動家2名が亡くなっています(12月)。そのうち1名は面識があった人でした。

さらに、これはあまり知られていませんが、沖縄人民党(「返還」後に共産党に合流)民青が琉球大の寮で革マル派を襲撃、1名死亡させています(6月)。

この当時、沖縄人民党の党首は、ここ数年ヒーロー扱いされている瀬長亀次郎でした。私はよく言うのですが、瀬長を持ち上げる人たちは、その事件をどう考えるのか、教えていただきたいと思います。瀬長が、駐留米軍と闘ったことと共に、この死亡事件に対しどう対処したのかも併せて考えないと瀬長の総合的な評価はできないんじゃないでしょうか。

そうして決定的だったのは、72年3月に発覚した連合赤軍事件でした。この事件については、前出『抵抗と絶望の狭間』はじめ本年になって続々と刊行された書籍を参考にしてください。

沖縄人民党民青による革マル派襲撃1人死亡

◆沖縄は変わったのか?

沖縄が「本土」に「返還」(併合)されて50年、果たして沖縄は変わったのでしょうか?「本土」との往来は自由になったとはいえ、相変わらず米軍の基地が、沖縄本島のかなりの面積を占め、米軍関連の事故や事件もなくなってはいません。観光産業が基幹産業で、国家的に抜本的な産業振興策もあまり聞かれませんし経済的にも恵まれているとはいえません。

50年前の私たちのスローガンに「沖縄の侵略前線基地化阻止!」がありました。当時沖縄は、ベトナム戦争のまさに最前線でした。では、ベトナム戦争が終わったからといって、米軍基地が沖縄からなくなったでしょうか。いわずもがなです。今はアジア支配への最前線、日米安保体制の要であり続けています。沖縄に米軍基地がなくなれば、どれほど美しい島になるでしょうか。基地に働くみなさんの生活はどうする? 政府がきちんとした経済政策を採ればいいだけの話です。沖縄県は「返還」以来、いわゆる「革新」知事が長かったこともあるのか、自民党政府も、お金が要る経済政策はおざなりだったのではないでしょうか。

沖縄の民意は基地反対! 辺野古新基地を問う県民投票の結果を報じる『琉球新報』

同じく『沖縄タイムズ』

「返還」直前の70年12月、米兵の乱暴狼藉が続き、日米両政府への不満が一挙に爆発したのが、70年12月の「コザ暴動」でした。一時「騒乱罪」が適用されようとしましたが不起訴になりました。当時のコザ(現在の沖縄市)は『あめりか通り』(ネーネーズ)という歌になっているように繁栄していたようですが(当時行ったことはありませんので記録や語りで察するしかありませんが)、今は閑散としています。数年前に一度行って驚いた次第です。「これがあの『コザ暴動』が起きた街か」と感じたことを覚えています。

私が生まれ育った熊本は沖縄の方々が多い街でした。一時は30万人といわれたそうです。なぜ鹿児島ではなく熊本かといえば、沖縄は島津藩に支配され苛められたからでしょう。中学校、高校の裏手の市営住宅には沖縄出身の方々が多く住んでいて友人も少なからずいました。今住んでいる関西も、その規模は熊本を遙かに凌ぐものです。60年代からの高度成長期、西宮の隣の尼崎は阪神工業地帯の中心として鉄鋼、造船で栄え、特に多く、(これはあらためて調べようと思いますが)沖縄県人会で市議を出していたという話を聞いたことがあります(実際に沖縄をルーツにする市議はいるので、このことを言うのでしょうか?)。いつしか尼崎から基幹産業の鉄鋼、造船はなくなり(と同時に公害もなくなりましたが)、今はパチンコと風俗の街になったとさえ揶揄され残念ですが……。

そうしたことの悲哀を歌ったのがネーネーズの『黄金(こがね)の花』(作詞・岡本おさみ、作曲・知名定男。1994年)で、知名先生も一時は尼崎に住んでおられたそうです。

「家族を故郷、故郷に置いて泣き泣き、出てきたの」――当時(今もそうでしょうが)沖縄には産業らしい産業はなく、多くの方々が、いわば出稼ぎに、主に関西に出てこられたようです。当時は船で移動していましたから東京よりも近い関西ということになったのでしょう。大阪大正区や港区には「リトル・オキナワ」と呼ばれる地域もあります。

「黄金で心を汚さないで 黄金の花はいつか散る」
「黄金で心を捨てないで 本当の花を咲かせてね」

涙が出るような歌詞です。先に書いた「琉球の風」で、ネーネーズのこの歌を聴いていた「かりゆし58」の前川真悟君が涙ぐんでいた映像が残っていますが、聴く者すべてに感動を与える曲です。

ちなみに、作詞の岡本おさみは鳥取出身で、『島唄』の宮沢和史、『さとうきび畑』『涙そうそう』の森山良子、後述する『沖縄ベイ・ブルース』の阿木燿子・宇崎竜童夫妻もヤマトンチュであり、特に山梨県出身の宮沢和史は『島唄』を発表した当初、かなり拒絶されたそうですが、そのひたむきさに知名先生は「いとおしくなった」と仰っていました。

◆これからも沖縄・奄美と共に

これからの日本は、どう転ぼうが沖縄を度外視してはやっていくことはできません。また、忘れられがちな奄美も含めて考えていかないといけないでしょう。ちなみに、沖縄と奄美は対抗意識があるようで、例えば、沖縄は「島唄」、奄美は「シマ歌」ですし(かつて奄美出身の歌者を招きライブを行い、そのフライヤーの原稿が「シマ歌」となっていたので「島唄」と直したところ校正で「シマ歌」と修正され教えていただきました)、沖縄は「泡盛」、奄美は「黒糖焼酎」ですしね。

1971年の沖縄返還協定調印→批准阻止闘争が、60年代後半の闘いに匹敵するほど盛り上がりつつも、運動の分裂や内ゲバの激化を大きな要因の一つとして敗北し、中途半端な形で「返還」(併合)がなされてしまいました。私たちヤマトンチュは、50年余り前の当時、沖縄「返還」(併合)の本質的な意味を理解するに十分ではなく、ともかく「返還」はよかったんだという意識がなかったか? いろいろ反省すべきことが多く、「返還」50年ということで、先のGWに考えながら塞ぎ込んでしまいました。

最後に『沖縄ベイ・ブルース』(作詞・阿木燿子、作曲・宇崎竜童。1976年)の一部を挙げておきます。阿木・宇崎夫妻が「返還」から5年も経たないのに、沖縄の現状を鋭く見つめていたことに驚きます。ここでいう「約束」とは「核抜き・本土なみ」ということですが、いまだにこの「約束」は履行されていません。――

「♪約束はとうに過ぎて 影ばかり震えてるの
今すぐ旅立てるよう 手荷物はまとめてあるわ」

「アーン アーン 聞き違いなの 教えてよ
アーン アーン 待ちぼうけ残して
青い鳥が逃げた」

「約束はオウム返し 唇に乗せてみるの
窓からの月の光 心の壁突き抜けるよ」

「アーン アーン 勘違いなの 教えてよ
アーン アーン 忘れた顔をして
青い鳥が逃げた」

(文中、一部を除き敬称略。また、半世紀も前の話なので記憶違い等があればご指摘ください)

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