キックボクシングの地味だが重要なノックアウトパターン、ローキックの威力! 堀田春樹

◆相手の動きを止める技

キックボクシングは骨と骨がぶつかり合う競技である。その中のローキックとは名の通り“低い蹴り”を意味しますが、位置的には腰より下の脚を狙うことになります。その蹴り易い位置にあるのが大腿筋(太腿)を狙ったローキックでしょう。最近はカーフキックが注目されていますが、これもローキックの一種です。

ムエタイとは異なり、キックボクシング式に考えれば、パンチとローキックのコンビネーションブローがノックアウトに繋がり易い展開で、昭和40年代の創生期こそはローキックに対する防御が出来ない選手も居たようですが、ムエタイから学ぶテクニックが浸透していくと蹴り方や避け方、ブロックの仕方が熟練していきました。

しかしそこはプロの戦い。互いが戦略持って戦えば、駆け引きの中で上手く蹴れない展開や逆にやられてしまう敗北もありました。

ヤンガー舟木のローキックをブロックする須田康徳、昭和の名勝負の中で(1982年12月18日)
松本聖がローキックで逆転KOに結び付けた酒寄晃戦(1983年3月19日)
笹谷淳の得意のカーフキック、天雷しゅんすけにヒット(2022年6月18日)

◆防御

相手の蹴りを自分の胸の高さまでは膝(ヒザ)から脛(スネ)を盾にしてブロック。ハイキックを避けるには腕ブロックもしますが、腕で受けては強い衝撃で負傷の恐れがある為、動きが読めるなど可能な限りスウェーバックして避けた方がいいと言われます。

その脛を鍛える為にはビール瓶で脛を叩く伝説もありますが、ジムのリングの鉄柱を軽く蹴ったり、野球バットを打ち付けるのはあまりやらない方がよく、多くはミット蹴りやサンドバッグを長期間蹴っているうち、脛は自然と堅くなるようです。
或いは大きいサンドバッグの詰め物が重力でしっかり詰まった底の堅い部分を蹴るといいとも言われます。

そんな練習で鍛え上げた脛を持つプロ選手に「どこからでも蹴ってみろ!」と言われても簡単に脛でブロックされるので、それが素人にとっての脛は弁慶の泣き所で、痛いと分かるから本気で蹴れない怖さがあるでしょう。

技術的には、パンチ主体の構えでは脚のスタンスが広く重心が前に掛かり気味で、比較的ローキックは貰い易いと言われます。蹴り主体のスタンスでは膝を柔軟に、重心を真ん中(両足)に、踵(かかと)は常に上げ気味にフットワークを使い、対ローキックには脛ブロックで対応出来る感じです。

細田昇吾のカーフキックがTOMOにヒット(2022年11月20日)

◆経験談

顎(アゴ)にパンチや蹴りをまともに喰らえば脳震盪を起こし、ボディーに喰らえば腹部全体が鈍痛で呼吸困難になり、ローキックを脚に何発も貰うと麻痺して歩くことも困難に立ってもいられなくなると言われます。

過去のインタビューから得た話ながら、テツジム会長の武本哲治氏はプロ・アマチュアのボクシングの経験の後、キックボクシングデビュー戦で早くもローキックで痛い目に遭いました。脛ブロックも身に付いておらず、第2ラウンド中盤には脚を引き摺り、第3ラウンドには立っているのがやっとで、諦めた訳でもないのに脚が言うこと聞かず三度のノックダウンを奪われノックアウト負け。悔しさからリング上で号泣。そこからローキックの蹴り方と避け方、パンチとのコンビネーションブローを研究するも、真っ新な新人よりボクシングを熟知しているが為に、逆に身に付き難いコンビネーションに苦労したと言います。

元・全日本バンタム級チャンピオンの赤土公彦氏は「デビュー前のまだ脛ブロックも覚えていないのに、先輩方に散々ローキックで脚を蹴られて、脛ブロックの大切さを痛感。プロになって以降、家族や知り合いの前で無様にノックダウンするところは見せられないという意地が芽生えました。」と言う経験談。

空手経験者の話では、練習生に太腿を蹴らせて我慢する練習方法もあるようで、ダメージには慣れていく対処法もある様子。

1990年代までのキックボクシングの指導では「パンチからローキック!」と短絡的な指導中心だったという当時のチャンピオンも居ますが、「上下の打ち分けや、様々な蹴り方を研究する時代に入って進化した」と言われます。

昔の指導で「ボディーブローとローキックで負けるのは恥!」と言われたのは、「忍耐力が無い」と言った意味合いがありますが、忍耐力はあってもローキックで脚が麻痺して立てなくなることは、赤土氏が言うような、あまり見せたくない無様と思える展開なのでしょう。

則武知宏のローキックをブロックする藤原あらし(2022年12月24日)
岩橋伸太郎にローキックをヒットする内田雅之(2023年1月29日)

◆技の進化

最近はカーフキックが注目され、MMA(Mixed Martial Arts)などの総合格闘技から流行りだしたと言われますが、キックボクシングでもよく見かけるようになりました。

堅い脛を避けて、脹脛(ふくらはぎ)側面や後ろから上手く蹴れたら効果的ながら、脛を蹴ってしまうと蹴った方にダメージが残ったりします。

カーフキックを貰ってしまうのは、蹴りに対する対応を甘く見ていたり、「脛ブロックしないから効いてしまうんだ!」と言う意見も多い中、

「スパーリングで左ミドルキックを蹴ったら、右ローキックを合わされ、右脹脛を蹴られて歩けなくなって、それまでカーフキックを軽く見ていましたが、やはり脛ブロックがいちばんの防御でしょう。」という昔の某選手が甘く見ていて蹴られた感想。

1990年代のムエタイ名チャンピオン、ジョンサナン・フェアテックスは足払いみたいな形でカーフキックをよく使っていたようです。この蹴り難いカーフキックを的確に当てられたら、それは芸術的なテクニックで、そんな選手が増えていくかもしれません。

今回のテーマは、キックボクシング関係者からの一定の情報で纏めており、もっと高度な技術論もあるかと思いますが、あくまで一般向け解説として御理解ください。

笹谷淳のカーフキックがカズ・ジャンジラにヒット(2023年2月18日)

▼堀田春樹(ほった・はるき)[撮影・文]
昭和のキックボクシングから業界に潜入。フリーランスとして『スポーツライフ』、『ナイタイ』、『実話ナックルズ』などにキックレポートを寄稿展開。タイではムエタイジム生活も経験し、その縁からタイ仏門にも一時出家した。

ピョンヤンから感じる時代の風〈25〉なぜ急がれる「解散・総選挙」 小西隆裕

◆「解散・総選挙」騒動

昨年7月、参院選での圧勝により、自民党は、「黄金の三年」を迎えた。向こう三年間、国政選挙なしに好きに政治ができると言うことだ。

一方、長期に渡り続いて来た自民、公明の選挙協力には、ひびが入って来た。自民側の選挙での協力拒否に怒った公明側が東京都での自民との選挙協力について破棄を言い渡してきたのだ。

岸田首相の口から「解散・総選挙」の話が漏れたのは、そうした中でのことだった。

「寝耳に水」とはこのこと。誰もがこの報には耳を疑った。特に慌てたのは、当の自民党だったのではないのか。「こんな時に総選挙をなぜやるのか。敗北必至だ」という声が挙がる一方、親米派第一人者、麻生太郎氏からは、「一人でできない奴は資格がない」という声が挙がるなど、党内は右往左往だ。

自民党、そして全政界を巻き込んだすったもんだの末、「今国会中は選挙はやらない」の岸田首相の言により、ひとまず一件落着。「選挙は秋の臨時国会終了後」ということで収まっているかに見える。

だが、火はまだ完全に消えたわけではない。それより何より岸田首相は、なぜあんなことを言ったのか、疑問はくすぶったままだ。

◆今なぜ「解散・総選挙」なのか

「解散・総選挙」。この岸田発言をめぐって考えられるのは、「様子見」だ。そのように言えば、政界はどう動くか。反応を見ることに目的があったのではないのか。

もちろん、岸田首相自身、「様子見」をすることは有り得る。だが、その場合の、政界、自民党内、あるいは国民の間での反響など、首相にとってのマイナス面は小さくない。

では誰か。岸田氏でないとすれば、誰の意図、誰の要求から、あの発言はなされたのか。そう考えた場合、考えられるのは、やはり「米国」しかない。米国側の何らかの示唆により、岸田首相が「解散」を口にしてみた。これは十分に有り得ることだ。

この辺りから、話は完全に、私個人の独断と偏見になっていくのだが、もし仮にそのようなことがあったとしたなら、米国は一体なぜ、何のためにそうしたのだろうか。

そこで考慮すべきは、今、米国がその覇権回復戦略として、「米対中ロ新冷戦」を敢行して来ており、日本をその最前線に押し立てて来ているという事実だ。

この「新冷戦」にあって、米国は、「民主主義陣営」と「専制主義陣営」、二つに世界を分断し、後者を包囲する一方、前者に属する同盟国、友好国を米国の下に統合することにより闘いを有利に進めようとしている。中でも日本との統合は、あらゆる意味で、その模範として決定的な意味を持つ。駐日米大使に「剛腕」で知られる元大統領首席補佐官、ラーム・エマニュエル氏を据えて来たのもそのためではないのか。

今、鳴り物入りで宣伝されたウクライナによる「5月反転攻勢」が行き詰まり、戦争がロシアペースで長期化の様相を強める一方、「新冷戦」で米国が中ロとの二正面作戦に耐えられず、中国との和解に出ざるを得ず、G7でのインドやブラジルなど、グローバルサウスの国々の引きつけにも失敗して、非米主権国家群が米国との距離をさらに大きくしている今、米国にとって、日本との統合は、一層急を要する切実なものになっている。

こうした時の「解散・総選挙」は、当然、それを促進するものになるはずだ。だが、執権党、自民党にとって、当面の「解散・総選挙」は、先述したように、決して有利ではない。むしろマイナスの面が大きい。自民党内から懸念の声が挙がったのはそのためだ。ではなぜ、米国は「示唆」をしたのだろうか。

◆狙われる「政界再編」

今、「解散・総選挙」があった場合、一番有利だと目されているのは日本維新の会だ。一挙にその議席数は、倍増するのではないか。一方、他の諸党はよくて微増。自民党に至っては、公明党との不調の中、下手をすると大幅に議席を減らす可能性すらある。

こうした中、岸田首相に「解散」を示唆したとするなら、米国の狙いは何か。

それについて、この間、見えてくるものがある。それは、「政界再編」への動きだ。

小沢一郎氏が立憲民主党、国民民主党、そして自民党などの国会議員に呼びかけてつくった「一清会」(15人)、前原誠司氏が国民民主党、日本維新の会、立憲民主党、そして自民党など超党派で募った台湾行きの代表団、この立て続けに現れた政党、党派を超えた動きは何か。これと「解散・総選挙」は連動しているのではないか。

元来、この数年、国政、地方政治を通じて、その選挙をめぐり自民党内の分裂は甚だしいものになっていた。党中央と地元の対立、派閥間の抗争、それが中央の統制を聞かず激化し、党内分裂選挙が常態化してきていた。

こうした中、自公の選挙協力が破綻したらどうなるか。自民党の分裂、さらには立憲民主党や国民民主党の分裂までそれが波及して大きな政界再編にまで発展する可能性はすでに十分すぎるほど熟している。

そこで考慮すべきは、その政界再編が何をめぐって推し進められるようになるかだ。

先述したように、今、日本に提起されている最大の問題は、日本が「米対中ロ新冷戦」の最前線に押し立てられ、それとの連関で「日米統合」が要求されてきていることだ。それを置いて他にない。実際、安保防衛から経済、教育、地方地域、社会保障とあらゆる部門、領域にわたって、日米の統合に向け、各種改革が要求され、敢行されてきている。新設された自衛隊統合司令部やデジタル庁だけではない。すべての大手企業や大学、地方自治体に至るまで、指揮と開発の日米統合が強行されてきている。

それが日米間の激しい摩擦を陰に陽に生み出さないはずがない。事実、トヨタなどで会長職の人選をめぐり、米助言会社の方から豊田章男会長をはずせとの「助言」が入り、それにともなう米系株主の動きが見られるなど、熾烈な日米の攻防が繰り広げられてきている。

この全国、全領域に及ぶ攻防が今起きている政界再編への動きと無関係であるはずがない。

◆内外情勢発展と「解散・総選挙」の早期強行

日本内外の情勢発展にあって米国は、「解散・総選挙」の早期強行とそれにともなう日本政界の根本的な再編を求めている。もはや、これまでの自民党体制では、安保防衛、経済、教育など、日本のあり方をその根本から変える改革など、激動する内外の情勢発展に対応することはできないということだ。そこから、自民党内改革派や「改革」の旗を掲げる日本維新の会、そして立憲民主党、国民民主党内改革派などを結集しての日米統合・改革新党や連合の早期結成、形成が狙われているのは、容易に予測されることだ。

これに対し、中ロと対決する「米対中ロ新冷戦」にはとてもついていけず、米国の下に日本が統合される改革である日米統合の改革にも賛成できない自民党をはじめ各政党内の勢力は、いまだその自覚と目的意識性が明確でなく、その結集軸も定まらず、結集力も弱く未熟な情況にある。この有様で「解散・総選挙」に直面したらどうなるか。彼らがとてもそれに対応できないのは目に見えている。米国が求める日本の政界再編を実現する好機ではないのか。

その上、目を外に転じれば、米英メディアによる「大本営」発表にあっても隠し果せないほど、あのウクライナ戦争の帰趨はますますロシアに有利に転じており、「新冷戦」の趨勢も中ロなど非米の自国第一、国民第一の優勢が一層明確になり、米国内にあっても「米国第一(アメリカファースト)」のトランプの勢いが数々の妨害を乗り越え、それを力にして、増大してきている。

この内外情勢の進展が、日本の「解散・総選挙」のできるだけ早期の実施を要求して来ているのは十分に予測可能なことではないだろうか。

◎ピョンヤンから感じる時代の風 http://www.rokusaisha.com/wp/?cat=105

小西隆裕さん

▼小西隆裕(こにし・たかひろ)さん
1944年7月28日生。東京大学(医)入学。東京大学医学部共闘会議議長。共産同赤軍派。1970年によど号赤軍として渡朝。現在「かりの会」「アジアの内の日本の会」会員。HP「ようこそ、よど号日本人村」で情報発信中。

『抵抗と絶望の狭間 一九七一年から連合赤軍へ』(紙の爆弾 2021年12月号増刊)
『一九七〇年 端境期の時代』

『紙の爆弾』2023年8月号に寄せて 『紙の爆弾』編集長 中川志大

安倍晋三元首相銃撃事件から1年。いまだ山上徹也被告の裁判も始まっていないなか、複数の“謎”が残されていることは、本誌で指摘してきたとおり。そして、岸田文雄政権下で“安倍以上”ともいわれる軍国化が進められています。今月号では元外務省国際情報局長・孫崎享氏が、安倍政権を総括しつつ、その死にまつわる“謎”とともに、これまで触れられてこなかった安倍元首相の発言についても分析しています。

 
7月7日発売! タブーなきラディカルスキャンダルマガジン 月刊『紙の爆弾』2023年8月号

岸田軍拡と同様、グリーントランスフォーメーション(GX)あるいは環境変動対策の名の下で、加速を続けているのが原発再稼働の策動です。福島第一原発の汚染水は「海洋放出せざるをえない」と説明されていますが、核のごみ問題と同様、そのこと自体が、そもそも原発が人間の手に余るものだということを示しています。海洋放出を語るときには、それを前提とすべきです。既成事実化することで、「いざとなったら海に捨てればいい」との前例にもなるでしょう。流していいかどうかの問題ではありません。

その岸田政権下で起きたスキャンダルが、首相の長男・岸田翔太郎・元首相秘書官の「公邸宴会」と、“官邸の軍師”こと「木原誠二」官房副長官の愛人問題。とくに前者の翔太郎氏は、今回の問題があっても世襲議員の道を閉じたわけではありません。その動向に注目が続けられるべきですが、首相秘書官更迭後の現職は不明です。検察出身の郷原信郎弁護士は、ジョンソン英首相が辞任に追い込まれる原因となった、2022年の公邸「パーティーゲート」と多くの点で共通していると指摘しています。

6月14日、岐阜市の陸上自衛隊日野基本射撃場で起きた銃乱射事件。その“原因”がどこまで解明されるか、あまり期待はできません。仮に、発砲した18歳の候補生自身が何らかの問題を抱えていたとしても、国内の練習場ですらこういう事件が起きたわけで、戦地の極限状況ではどうか。6月号では「イラク戦争20年」を振り返りました。その中でも触れられているとおり、イラク日報はいまだ多くが黒塗りです。そして、戦地に派遣された自衛官には、精神を病む人が多く、自殺に至るケースも少なくありません。

今月号でも複数記事で採り上げたAIをめぐる危険。メディアの「チャットGTP」礼賛を見ていて感じるのは、まずAI導入ありきで、人の生活を良くするような、需要から生まれる発明とは趣が異なることです。本誌で紹介したような、リスクに関する専門家の警告が日本で大きく報じられないのは、すでに社会が実験場となっていることを意味するのでは、とも危惧しています。さらに藤原肇氏は今回の記事で、世界の経済システムが「ポンジ金融」化していると指摘しました。だとすれば、科学技術のイノベーションも、その動機が健全なものばかりではないことがわかります。あるいは、それは科学技術に限ったことではないかもしれません。 そして、神宮外苑再開発に伴う「樹木伐採」問題。6月4日投開票の大田区都議補選で当選した元都民ファーストの会の森愛氏が、会派内で「森喜朗元首相の利権だから終わったこと」との発言があったと暴露。詳細は本誌レポートをお読みください。「紙の爆弾」は全国書店で発売中です。ご一読をよろしくお願いいたします。

『紙の爆弾』編集長 中川志大

7月7日発売! タブーなきラディカルスキャンダルマガジン 月刊『紙の爆弾』2023年8月号

「冤罪被害者」袴田巌さんの無実の訴えを退けた存命の裁判官たちに公開質問〈05〉1994年に再審請求を棄却した静岡地裁の裁判官・内山梨枝子氏(現在は長野地家裁松本支部長) 片岡 健

国民の大多数から「無実なのに死刑囚にされた冤罪被害者」と認識されている袴田巌さんの再審がついに行われることになった。袴田さんは1966年の逮捕から現在まで57年にわたり、殺人犯の汚名を着せられてきたが、無事に再審が行われれば、無罪判決を受けることは確実だとみられている。

 
内山梨枝子氏。現在は長野地家裁松本支部長をしている

このような状況の中、過去に袴田さんに対し、無実の訴えを退ける判決や決定を下した裁判官たちはどのような思いで、どのように過ごしているのだろうか。当連載では、該当する裁判官たちの中から存命であることが確認できた人たちに対し、公開質問を行っていく。

5人目は内山梨枝子氏。静岡地裁の裁判官だった1994年8月8日 、鈴木勝利裁判長、伊東一廣裁判官と共に袴田さんの第一次再審請求審を担当し、再審請求を棄却する決定を出した人だ。

◆「内山氏の略歴」と「内山氏への質問」

内山氏は1960年8月12日生まれ、北海道出身。1989年4月に千葉地裁で裁判官人生をスタートさせ、その次に勤務した静岡地裁で鈴木裁判長らと共に袴田さんの再審請求を棄却した。

その後は1995年4月に静岡家地裁浜松支部、1999年4月に名古屋地裁、2003年4月に静岡家地裁、2007年4月に静岡家地裁富士支部、2009年4月に静岡地家裁富士支部長、2012年4月に大阪高裁、2015年4月に静岡家地裁、2018年4月に横浜地家裁小田原支部──という異動を重ね、2022年4月より長野地家裁松本支部長を務めている。

見ておわかりの通り、内山氏の勤務地は、袴田事件が起きた静岡県もしくはその隣県がほとんどだ。

そんな内山氏に対しては、以下のような質問を書面にまとめ、郵便切手84円分を貼付した返信用の封筒を同封のうえ、長野地裁松本支部に特定記録郵便で郵送し、取材を申し込んだ。

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【質問1】

袴田巌さんは再審が決まり、無罪判決を受けることが確実な状況となりました。内山様はこの状況をどのように受け止めておられますか?

【質問2】

内山様がこれまで裁判官として勤務された地は、静岡県もしくはその隣県がほとんどです。袴田事件が起きた県であり、釈放後の袴田巌さんやその姉・ひで子さんらが暮らしている静岡県もしくはその隣県の裁判所で勤務されることについて、心理的な抵抗はなかったのでしょうか?

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この質問に対して、内山氏からは以下のような回答が郵便で届いた。なお、内山氏に郵送した「郵便切手84円分を貼付した返信用の封筒」は、回答と一緒に返送されてきた。

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令和5年6月19日

片岡健殿

長野地方裁判所松本支部庶務課

5月22日付けの当支部所属裁判官宛ての取材依頼に対する回答について

標記取材には応じません
なお、返信用切手は返還します。

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内山氏については、追加取材をすることを検討している。

※内山氏の生年月日と出身地、異動履歴は『司法大観 平成二十八年版』と『新日本法規WEBサイト』の情報を参考にした。

▼片岡健(かたおか けん)
ノンフィクションライター。編著に『もう一つの重罪 桶川ストーカー殺人事件「実行犯」告白手記』(リミアンドテッド)、『絶望の牢獄から無実を叫ぶ─冤罪死刑囚八人の書画集─』(電子書籍版 鹿砦社)。stand.fmの音声番組『私が会った死刑囚』に出演中。

「絶望の牢獄から無実を叫ぶ─冤罪死刑囚八人の書画集─」[電子書籍版](片岡健編/鹿砦社)

多発する携帯電話の基地局設置をめぐるトラブル、人命よりもビジネス優先の経営方針 黒薮哲哉

携帯電話の基地局設置をめぐる電話会社と住民のトラブルが絶えない。この1年間で、わたしは40~50件の相談を受けている。今月に入ってからも2件の相談を受けた。両方とも、問題を起こしている電話会社は楽天モバイルである。相談者はいずれも、知らないうちに基地局が設置されていたと訴えている。

5Gの基地局

宮城県丸森町のケースでは、町が所有する土地に楽天が基地局を設置した。工事中はシートで工事現場が覆われていたので、その内側で工事が行われていることには気づかなかったという。筆者は、工事を請け負った業者に事情を聞くために何度も電話したが、一度も応答することはなかった。

わたしに情報を提供した町民によると、地方都市に特有の閉鎖的な空気があり、町役場の方針に反旗を翻しにくいという。町会議員に相談するようにアドバイスした。裁判所に調停を申し立てる方法があることも伝えておいた。

◆東京都大田区のケース

東京都大田区東矢口では、俗にいう「電磁波過敏症」に罹患したAさん(女性)が苦情を訴えている。自宅マンションから100メートルほどの近距離にあるマンションに楽天が基地局を設置したという。近くには別の基地局もあり、Aさんとっては日常生活に困難を来たす状況だ。基地局と自宅の間には、障害物がないので、電磁波が住居を直撃する。

Aさんの自宅近くに設置された基地局

Aさんは2014年まで米国に生活の基盤を持っていた。米国に多いオール電化のマンションに住み、Wi-Fiを設置するなど、後から考えると「電磁波過敏症」を発症しやすい環境で生活していた。香料の類いも必需品として日常的に使っていた。

「電磁波過敏症」と化学物質過敏症は併発することが多い。いずれも電磁波や化学物質により神経が攪乱され、脳が誤作動してさまざまな症状を発現させる。Aさんの場合は、化学物質過敏症を先に発症した。

ある日、電車に乗っているとき、香水の匂で気を失いそうになり、つり革につかまった。これを機に身体が化学物質に敏感に反応するようになった。その後、電磁波にも体が反応するようになったのである。

現在では電子レンジもスマホも使えない。職場にいるときよりも、自宅にいる時のほうが顕著な症状がでるという。

◆朝霞第2小学校の正門前の楽天基地局

わたしの自宅の近くにも楽天モバイルの基地局が立っている。埼玉県朝霞市の朝霞第2小学校の正門から、50メートルほどの距離である。簡易の測定器で電磁波の密度を測定したところ7.35μW/c㎡という数値(2022年6月)がでた。欧州評議会の勧告値が0.1μW/c㎡だから73.5倍の強度である。危険な領域だ。

楽天モバイルに対して撤去を申し入れて1年になるが、何の措置も取っていない。児童の安全よりも、電話事業を優先しているのである。

また、やはりわたしの自宅近くにある城山公園の敷地内に、KDDIが2020年8月、基地局を設置しトラブルになったが、放置されたままである。公有地の賃借料が月額360円程度である。ただ同然で朝霞市が提供しているのだ。

電話会社が基地局問題の対策を取らない背景には、ビジネスを優先するメンタリティーと、電磁波による人体影響を正しく理解していない事情があるようだ。

◆電磁波による人体影響は客観的な事実

電磁波や化学物質による身体の不調は、心因性のものもかなりあるが、一定の割り合いで「電磁波過敏症」の患者が存在する。罹患すると生活に支障を来たし、重症になると電磁波の「圏外」に逃げなければ生活できなくなる。事実、わたしの知人で、電磁波の届かない長野県の山中に住居を移した人もいる。患者本人にとっては非常に厄介な病気なのだ。

たとえ頭痛や吐き気、目まいといった症状がなくても、基地局の近くでは、癌が多発していることが、海外の疫学調査(ドイツ、ブラジル、イスラエル)で明らかなっている。5Gで使われる電磁波の安全性に関しては、現時点では確定的な評価をするだけの十分なデータが揃っていないが、電磁波にはエネルギーの大小にかかわらず遺伝子毒性があることが判明しており、当然、5Gの電磁波にも高いリスクがある。

しかし、電話会社は、「総務省の規制値を厳守している」の一言で、住民の迷惑をかえりみずに、電話ビジネスを拡大している。基地局の設置は、自分たちの権利でもあるかのように振舞っている。

わたしは楽天に対して、次の2点を問い合わせた。

【質問事項】

基地局設置をめぐるトラブルについて、貴社の見解をお尋ねします。

現在、わたしは次の3件の係争を取材しています。

① 宮城県丸森町の町有地に貴社が基地局を設置しようとしている問題。
② 大田区東矢田のマンションに貴社が基地局を設置した問題。
③ 埼玉県朝霞市の朝霞第2小学校の正門から50メートルの地点に貴社が基地局を設置した問題。

①~③のケースでは、住民に対していずれも事前に十分な説明をしなかったと聞いております。

今後、住民の健康状態をどのようにして確認されるのでしょうか。

22日の夕方までにご回答ください。

【楽天モバイルの回答】

お問い合わせいただいている件につきまして、
ご連絡までお時間をいただき恐縮ですが、以下の通り回答申し上げます。

①~③への回答:
「お問い合わせいただいている件でございますが、個別の事案については回答を控えさせていただきます。」

以上、ご確認の程、よろしくお願いいたします。

▼黒薮哲哉(くろやぶ・てつや)
ジャーナリスト。著書に、『「押し紙」という新聞のタブー』(宝島新書)、『ルポ 最後の公害、電磁波に苦しむ人々 携帯基地局の放射線』(花伝社)、『名医の追放-滋賀医科大病院事件の記録』(緑風出版)、『禁煙ファシズム』(鹿砦社)他。
◎メディア黒書:http://www.kokusyo.jp/
◎twitter https://twitter.com/kuroyabu

黒薮哲哉『禁煙ファシズム-横浜副流煙事件の記録』(鹿砦社)
黒薮哲哉のタブーなき最新刊!『新聞と公権力の暗部 「押し紙」問題とメディアコントロール』

平和記念公園とパールハーバー国立記念公園が姉妹協定?! 原爆被爆地の広島が米国核戦略にお墨付きを与える「HIROSHIMA」に変質する さとうしゅういち

6月29日、広島市の松井市長はエマニュエル駐日米国大使と会談し、平和記念公園とパールハーバー国立記念公園とが姉妹公園協定を結ぶことを発表しました。筆者は呆れるとともに「来るべきものが来たか」という感想も抱いています。

◆「姉妹都市協定」との違い 米国政府相手の協定

姉妹都市協定と今回の姉妹協定は違います。姉妹都市協定は自治体同士の協定で、例えば広島市とホノルル市は姉妹都市です。これは大昔、広島から多くの移民がホノルルを中心としたハワイに移住したご縁によります。

今回の協定は、平和記念公園を管理する広島市とパールハーバー記念公園を管理する米国政府の間で結ばれる協定です。言うなれば、1945年8月6日に広島市を核兵器で攻撃した米国政府と組む、ということです。

広島平和記念公園

◆日本政府と広島市のスタンスの違い

日本政府は、ご承知の通り、米国政府と日米安全保障条約や日米FTAなどを結んでいます。アメリカを盟主とする従属的な同盟を日本政府は結んでいると言えます。日本政府は核兵器禁止条約には反対しており、米国政府がかつて核兵器先制不使用を打ち出そうとしたときにこれを止めたこともあるくらいです。2023年5月開催のG7広島サミットで岸田総理が発表した広島ビジョンも上記日本政府の立場を一歩も出るものではなく、それどころか、2000年のNPT再検討会議での核兵器廃絶の明確な約束にすら触れぬ核兵器有用論です。

しかし、広島市は世界で初めて戦争により被爆した街として、世界に対して核兵器の惨禍を二度と繰りかえさぬよう、誰も被爆者が二度と同じような思いをすることがないよう、核兵器廃絶と恒久平和を訴えてきました。

明確に日本政府とはスタンスの差があります。

◆ヒロシマとパールハーバーを「おあいこ」にしかねない

だが、今回、広島市は米国政府と協定を直接結ぶことになりました。米国政府は、ヒロシマ・ナガサキで核兵器を使用したことについてこの78年間まったく反省はありません。ヒロシマ・ナガサキへの核攻撃は必要だったというスタンスを堅持しています。

そして、パールハーバー記念公園は平和記念公園と性格が異なります。平和記念公園は、原爆と言う無差別殺戮で犠牲になった方々を悼み、世界恒久平和を願う公園です。パールハーバー国立記念公園は、当時の大日本帝国が米帝国主義に攻撃を仕掛けた、いわば帝国主義国の軍隊同士の戦闘の地です。そして、米国政府の視点で戦死者を顕彰するものです。これは、ヒロシマへの核攻撃を正当化することと地続きです。

この二つにどういう共通点があるのか? 無理に組んだとしても、結局は、ヒロシマへの原爆投下とパールハーバーをおあいこにすることにつながるのではないでしょうか?
 
◆アメリカの戦争責任は追及されていない
 

もちろん、大日本帝国陸海軍がアジア太平洋で行ったことの中には国際法に反することもたくさんありました。評価は分かれるところですが、これらの日本の行為については東京裁判などで裁かれています。

また、不十分な点はあるにせよ、日本政府は第二次世界大戦で被害を与えてしまった国々に対して一定のお詫びは表明しています。

他方でアメリカの戦争責任は全く追及されていません。勝ったからと言ってしまえばそれまでかもしれない。あるいは、日本の先制攻撃に反撃しただけ、と言われればそれまでかもしれない。しかし、いざ戦争が始まったら、侵略側(日本)はもちろん、防衛側(米国)も国際人道法は守らなければ、犯罪を構成することになります。

アメリカが原爆投下でやったことは、日本政府が直後にスイス政府経由で提出した以下の抗議文の通り違法です。

「抑々交戦者は害敵手段の選択につき無制限の権利を有するものに非ざること及び不必要の苦痛を与ふべき兵器、投射物其他の物質を使用すべからざることは戦時国際法の根本原則にして、それぞれ陸戦の法規慣例に関する条約附属書、陸戦の法規慣例に関する規則第二十二条、及び第二十三條(ホ)号に明定せらるるところなり」

違法だけれども、世界最強の国であるアメリカを誰も裁くことができないだけなのです。

◆被爆者は謝罪を求めていないというが

「被爆者は謝罪を求めてはいない。だれにも自分のような思いはさせたくないのだ。」

というのが広島では主流とされていることは、筆者も平和運動の中でも学びました。

しかし、米国政府の側から今回のように「過去を水に流そうぜ」と言わんばかりに握手を求めてくるのは違うでしょう。被害者から握手を差し伸べるのと、加害者から差し伸べるのでは意味が違います。

◆「反省しなくていい」お墨付きを米国政府に与える広島市長

そして、謝罪は求めていないが、当然、反省は求めているわけです。しかし、今回の協定は、米国政府に対して、反省もしなくていいというお墨付きを与えたということになりかねません。

すでに、G7広島サミットにおいて、「広島で核兵器は有用」という趣旨の岸田総理提案の広島ビジョンが採択されてしまいました。そして、今回の広島市長が当事者の協定で米国政府は核兵器使用を反省しなくていいというメッセージが強化されてしまったのではないでしょうか?もっと厳しい方をすれば米国政府の核戦略に広島は利用されてしまいました。

◆広島が与えた「反省しなくていいお墨付き」で核保有国の暴走加速の恐れ

今回の協定は、いわば、広島市が永遠に米国政府に反省しなくていいというお墨付きを与えたということになりかねません。

「アメリカは広島の許しを得たので、もう、原爆投下を反省しなくていい。」

こうなれば、それこそ米国政府の行動も今までよりは抑えが効かなくなるでしょう。

米国政府が今まで以上に開き直るなら、ロシアのプーチン大統領も、中国の習近平国家主席も、朝鮮の金正恩総書記も、インドのモディ首相も、イスラエルのネタニヤフ首相も今まで以上に行動に抑えが効かなくなりかねません。巡り巡って恐ろしいことになりかねません。

◆加速した「米国忖度都市」HIROSHIMA

すでに、広島市教委の平和教育の教材から「はだしのゲン」や「第五福竜丸」などが削除されています。G7サミットを前にバイデン大統領に忖度したと言われても仕方がありません。そして、サミット前後には宮島への法的根拠なき「渡航禁止」(実際はできるけれどもできないかのような報道をマスコミにもさせた)、過剰警備など、米国に忖度して市民の人権や企業活動を過剰に抑制しました。

戦前の広島は脱亜入欧の旧白人帝国主義国家に追随してアジアに派兵する軍都廣島。

そして、原爆投下と、日本国憲法制定に象徴される一定の戦争への反省を経て平和都市ヒロシマへ。

そして、G7広島サミットを経て、米国政府に忖度し、米国政府の核戦略にお墨付きを与える「HIROSHIMA」への変質が今、急速に進んでいます。

◆自民から共産まで県議がサミット誘致評価 広島政治の大政翼賛化に断固抵抗

一方で、このようなサミットの狙いを見抜けずに、統一地方選2023では自民、公明はもちろん、立憲、共産の既成政党の県議候補はことごとくG7広島サミット誘致を評価する、期待する、という趣旨の回答をマスコミや市民団体のアンケートにされていました。筆者と議席を争った共産党県議などは広島ビジョンを見て慌てて批判に転じられましたが、それまでサミット誘致を評価していた事実は消えません。

もちろん、筆者は本稿でも申し上げた理由により「評価しない」「期待しない」と回答しました。今後とも、胸を張って広島政治の大政翼賛化に筆者は断固抵抗する先頭に立ちます。

さて、6月29日は奇しくも広島大水害1999で20人が広島市で犠牲になってから24年です。

「松井市長さん。そんな協定で浮かれている場合じゃない。あなたには平和を考えるセンスはない。〈平和の架け橋〉なんて浮かれて変な協定を結ぶくらいなら、防災対策、きちっとやりましょうよ。あの大水害を思い出す日にしましょうよ。」
こう一市民として申し上げるものです。

▼さとうしゅういち(佐藤周一)
元県庁マン/介護福祉士/参院選再選挙立候補者。1975年、広島県福山市生まれ、東京育ち。東京大学経済学部卒業後、2000年広島県入庁。介護や福祉、男女共同参画などの行政を担当。2011年、あの河井案里さんと県議選で対決するために退職。現在は広島市内で介護福祉士として勤務。2021年、案里さんの当選無効に伴う再選挙に立候補、6人中3位(20848票)。広島市男女共同参画審議会委員(2011-13)、広島介護福祉労働組合役員(現職)、片目失明者友の会参与。
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〈原発なき社会〉を求めて集う 不屈の〈脱原発〉季刊誌『季節』2023年夏号(NO NUKES voice改題 通巻36号)
私たちは唯一の脱原発雑誌『季節』を応援しています!

自分の力を信じ、声を上げ続けよう! 福島第一原発事故被災地でモニタリングポストの継続配置を求め、放射能汚染水の海洋投棄に反対する 片岡輝美

◆声を上げ始めた市民 「モニタリングポストの当面の存続」

岸田政権が原発回帰を決定した。「東京電力福島第一原子力発電所で事故が起き、この国も世界中も震撼していた時に、一体あなたは日本にいなかったのか! なぜ、あの過酷事故から何も学ばないのか!」と、飛びかかりたくなるほどの怒りが心を渦巻く。

12年間、怒り続ける私たちの心は大丈夫なのか……と思うこともあるが、原子力を手放さない権力者たちは、そんなことはお構いなしに、オンボロ原発を稼働させようとしている。

この余りにも横暴な力の前に、私たちは立ちすくむ思いを何度も経験してきた。私たちは何もできないのか……と顔を伏せたくなる思いにもなる。

しかし、そのような時、「いや、まだまだやれることがあるはずだ……」と、自分を奮い立たせるために思い出すのは、2019年5月29日、第10回原子力規制委員会が決定した「モニタリングポストの当面の存続」だ。

福島第一原発事故後、福島県内に住み続ける子どもの生活環境の空間放射線量を測定し、可視化するために3千台のリアルタイム線量測定システム(通称モニタリングポスト)が設置された。

しかし、2018年3月20日、原子力規制委員会は2020年度末を目途に約2400基を撤去すると発表した。理由は除染により、環境放射線量が低くなったから。そしてもう一つの理由は、2020年度末で復興庁が終了するから。つまり予算がなくなることで、子どもの生活環境の空間線量を計測するモニタリングポストは撤去というわけだ。

私たちは直ちに「モニタリングポストの継続配置を求める市民の会」(以下市民の会)を立ち上げ、4月16日、参議院議員会館で第1回目の原子力規制庁交渉に臨み、原発事故後を生きる福島県民にとってモニタリングポストは、日常的に空間放射線量を目視できる唯一の情報源として最低限度の「知る権利」を保障するものであり、撤去または存続の「決定する権利」は、無用な被ばくを強いられている住民側にある。よって福島県民に問うことなく一方的に撤去することは、私たちの権利を蔑ろにする行為である。また原発事故を起こした国は、廃炉になるまで子どもの生活環境のモニタリングは続ける責任があると繰り返し主張した。

しかし、武山松次原子力規制庁監視情報課課長(当時)は、避難指示区域外の地域の空間線量は十分に低くなっていることから、モニタリングポストによる連続的な測定は科学的に役割を終えていると断言し、私たちの訴えは伝わらないままに、第1回の交渉は終わった。

◆約5週間で7市町の首長に面会し、継続配置を訴えた母親たち

市民の会は県内各自治体に対しても要請行動を開始。その際、市民の会が最も意識したのは、撤去方針に違和感を持った市民、特に母親たちが自らの意志で行動し声を上げられるようにサポートすることだった。

5月14日、会津若松市役所前に集まった母親たちには政治参加の経験はなく、緊張した面持ちだった。しかし、市長室のソファーにニコニコしながら座っている我が子の傍らで、「会津若松は他の地域と比較すれば線量は低いと言われている。しかし、絶対起きないと信じ込まされていた原発事故が起きた今、人工放射性物質が確実に私たちの回りに存在するようになってしまった。だからこそ、モニタリングポストは必要不可欠な装置なのだ。登園途中で毎日数値を確認している。街角にあれば必ず数値を確認する。その時の不安な気持もぜひ理解してもらいたい」と、時には声を詰まらせながら訴えた。ある町では幼子をおんぶした母親が首長に継続配置を求める要請書を手渡すなど、母親たちが声を上げ始め、約5週間で7市町の首長に面会し、継続配置を訴えた。

この動きと連動したのが、各地の住民説明会に参加した市民だ。原子力規制庁は「丁寧な説明で撤去方針を理解していただくこと」を目的として、同年7月から11月まで15市町村18会場で住民説明会を開催。しかし、全ての会場で子育て世代から高齢者までが撤去に反対し、継続を求める声が上がった。そして、市民の会は第3回交渉(2018年12月7日)で原子力規制庁から「目的を住民の声を聞くことに変更した」との言質を取った。

◆モニタリングポストは継続配置へ

市民の会は4回の原子力規制庁交渉を行った。噛み合わないやり取りにジリジリとした思いを抱き、時折飛び出す国の本音に驚いた。緊急事態が起きた際、モニタリングポストの数値を確認して避難するかしないかの判断をするのだと伝えると、「再びの緊急時は無用な被ばくを避けるためにもモニタリングポストを見に行かないでほしい。自分の判断で、勝手に逃げないでほしい」と回答。また「3・11前の福島県はとても空間放射線量が低かった。だから、事故後少しぐらい上がっても問題ない」と発言。私たちは息を呑み、「え? 今、何て言ったの?」と顔を見合わせ、我に返って「それは被害者との危機感と余りにも乖離している」と訴え続けた。

そして先述の通り、2019年5月末、原子力規制委員会は「モニタリングポストの当面の存続」を決定。これは原発核事故被害の当事者である市民の訴えが国に方針の変更をさせた、まさに民主的な決定だった。しかし同時に「当面とはいつまでだろう……」との不安も拭えなかった。

それから2年半後の2021年9月1日、第28回原子力規制委員会は、2022年度の国の予算にモニタリングポストの維持経費の概算を要求し、2021年から10年かけて、毎年300基のペースで線量検出器や電源などの部品交換を行い、部品供給ができなくなった450基については2022年度に新しい機器に取り替える計画が公表された。

これを受けて市民の会は菅義偉首相、更田豊志原子力規制委員会委員長(共に当時)に2019年の当面の存続の決定が具体的に動き出したこと、2021年度からの維持計画を高く評価するとの書簡を送り、今後も注視していくことを伝えた。

さらに2022年12月に閣議決定された2023年度予算案に維持・更新の予算16.6億円が盛り込まれ、部品供給ができなくなる71台が全面更新され、24年度以降、残りの主要部品は交換されていく。

今春、私は福島県猪苗代町の山間部で、色は茶色に変わり、少しコンパクトになった新しいモニタリングポストを見つけた。私たちの声がこの機器の存続を実現させたのだと思うと、ちょっとだけ誇らしかった。

◆間近に迫る放射能汚染水の海洋投棄

そして今、福島第一原発敷地内に保管されている放射能汚染水の海洋投棄が強行されようとしている。高濃度汚染水の流出事故が相次いだ2013年より活動を続けている「これ以上海を汚すな!市民会議」(以下、これ海)はその名の通り、放射能汚染水の海洋投棄を阻止するため、ありとあらゆる行動を続けている。

2020年4月13日、菅政権(当時)が2年後の海洋放出を決定したことに抗議する毎月の「13日スタンディング」は2年間続いている。2年後となった今年4月13日はグローバルアクションとして国内外の市民にスタンディングを呼びかけた。北海道から沖縄、ヨーロッパやアメリカ、カナダ、太平洋諸国、ニュージーランド、そしてアジア諸国の市民がこのアクションに参加し、汚染水の海洋投棄は自分たちの問題でもあると声を上げた。

国が喧伝する「ALPS処理水」の危険性を学ぶ学習会は福島県内各地で行われ、また海外の科学者らを招いたオンライン講演には、海外からの参加者も多く、終了と同時に、仲間と共有するため早くYouTube配信をしてほしいと声が届いた。

内堀福島県知事、伊沢双葉町長、吉田大熊町長に、市民一人ひとりが海洋投棄に反対の声を届ける「ハガキ作戦」は、民の声新聞の報道によれば、5月末現在、約3500通が届いているらしい。

これ海は2020年9月、21年6月、11月と経産省エネルギー庁や東電との交渉を続けてきた。噛み合わない議論の中、毎回要望し続けているのが政府主催の県民公聴会だ。しかし一度も実現していない。なぜ開催しないのか……。私はその理由は2018年のモニタリングポスト撤去を巡る住民説明会での手痛い経験だと考える。原子力規制庁自らが開いた説明会で撤去反対の声が湧き上がり、結果的に存続となった。「当面の存続」が決定された日、河北新報は「市民の声が国を動かした」と速報を出した。

恐らく国は汚染水の海洋投棄を強行するだろう。復興庁が終了する2031年には再びモニタリングポストの大量撤去方針が出されるかもしれない。その度に「やっぱり……」とか「またか……」と落胆もするだろう。でも、それでも私たちは立ち上がり、声を上げ始める。それは、あとから来るいのちのために私たちが果たすべき、せめてもの責任だから、そしてそうできるのは、仲間がいるからだ。汚染水の海洋投棄に反対する声は今日も世界中から届いている。私たち市民は自分の力を信じ、声を上げ続けよう!
 

5.16東京行動 東電本社前での筆者(ウネリウネラ提供)

▼片岡輝美(かたおかてるみ)
モニタリングポストの継続配置を求める市民の会。これ以上海を汚すな!市民会議。1961年福島県郡山市に生まれる。1985年、夫の片岡謁也牧師と共に日本基督教団若松栄教会へ。放射能から子どものいのちを守る会・会津代表、会津放射能情報センター代表。主著に『今、いのちを守る(TOMOセレクト 3.11後を生きる)』(2012年日本キリスト教団出版局)、『クリスチャンとして「憲法」を考える』(2014年いのちのことば社/共著)等。

〈原発なき社会〉を求めて集う 不屈の〈脱原発〉季刊誌『季節』2023年夏号(NO NUKES voice改題 通巻36号)
龍一郎揮毫
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次世代を担う、WBCムエタイ・ジュニアリーグ世界大会開催決定! 堀田春樹

◆競技の基盤はアマチュアから

アマチュアのムエタイ、キックボクシングに関しては、過去にも若干、話題を取り上げることはありましたが、この10年ではアマチュア界は遥かに進化し、競技人口は日本だけでなく海外でも大幅に増えています。裾野が広がり基礎が出来上がれば、数十年後にはプロとしても競技の確立に繋がる期待が高まるでしょう。

ボクシングには大正時代からアマチュアボクシングがあり、競技的には別組織でも、アマチュアからプロへの転向は実績が分かり易く、比較的スムーズな流れを持っています。

キックボクシングは創生期からアマチュア競技は無かったため、空手の経験を経てキックボクシングに移って来ること多く、昭和末期になってキックボクシング団体が母体となる、顔面打撃ありの新空手(全日本新空手道連盟)やグローブ空手(全日本グローブ空手道連盟)といった空手スタイルのアマチュア版キックボクシング競技が普及・継続されてきました。

2005年にはタイ国のムエタイ関係者がプロボクシングのWBCに打診し、プロのWBCムエタイが発足。その影響も含め、2007年頃から幾つかのプロ団体やプローモーターが低年齢層を対象としたジュニアキック・ムエタイ大会をアマチュア枠として活動し始めました。

2019年8月、第5回大会開催
WBCムエタイ日本協会代表を務める齋藤京二氏
2019年、中学生の部の55kg未満で上田咲也と対戦した小林亜維二

現在も多くの組織でアマチュア大会は拡大化し、オリンピック新種目を目指すIFMAといったタイ国が拠点の団体や、世界大会まで段階を組み立てたWBCムエタイ・アマチュア大会が存在します。

WBCムエタイ日本協会(元・実行委員会)傘下に於いては2015年から始まったU-15大会、翌年からU-18も開催。コロナ禍前の2019年8月24日に開催された、WBCムエタイ・ジュニアリーグ第5回U-15(第4回U-18)全国大会では全19階級の覇者が決定。
近年のコロナ感染拡大の影響で、2020年から各国で中止が続いたものの今年は再開に漕ぎ付けました。

WBCムエタイ・ジュニア世界大会は2022年8月にカナダ・バンクーバーで第1回大会が行われており、世界21ヶ国のU-18の代表選手にて開催されました。2年に一度の開催として、次回は第2回大会として2024年2月2日~4日、タイ国ホアヒンビーチにて開催予定です。

その出場選手代表選考会として、2023年11月5日に第6回WBCムエタイジュニアリーグ全国大会が、11月5日(日)に新宿区百人町のGENスポーツパレスにて開催されます。キックボクシング各団体やプローモーター主宰のアマチュア大会は多いものの、プロの柵は無く交流が続けられており、全国大会には各地域のアマチュア大会より代表選手を選出され、世界大会出場権を争うことになります。

WBCムエタイ・アマチュアのチャンピオンベルト

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WBCムエタイ・ジュニアリーグ世界大会日本代表選考会
(第6回WBCムエタイ・ジュニアリーグ全国大会)

2019年、中学生の部55kg未満で優勝した小林亜維二

日時:11月5日(日)午前10時より選手受付計量開始(予定)
試合開始:午前11時30分(予定)
主催:WBCムエタイジュニアリーグ実行委員会

出場年齢、階級、アマチュアとして、また少年期としてのジュニアルール制定、必須用具等の指定が有ります。

ジュニア層は身体の発育期にあり、無理な減量は行なわない指導もされている模様。そのため、世界大会まで極力待機期間が空かない11月開催が予定。

競技会の年齢別カテゴリー(参加は10歳以上)
キッズ・12歳未満(10~11歳)
キッズ・14歳未満(12~13歳)
ジュニア・16歳未満(14~15歳)
ジュニア・18歳未満(16~17歳)

参加選手の年齢は、試合当日の生年月日で決定されます。
ジュニアカテゴリーでの参加選手の最高年齢は17歳を超えてはなりません。

ラウンド数
キッズ/12歳未満(3回戦/1分制/インターバル1分)
キッズ/14歳未満(3回戦/1分半制/ インターバル2分)
ジュニア/16歳未満(3回戦/2分制/インターバル2分)
ジュニア/18歳未満(3 回線/3分制/インターバル1分半)
ジュニア王座決定戦(5回戦/2分制/インターバル2分)

制限                      
ヒジ打ち無し、キッズ(14歳未満)は頭部顔面への攻撃は禁止、ジュニアは頭にヒジ打ち、ヒザ蹴りは禁止。    

着用必須用具(グローブ・トランクス以外)
ボディプロテクター、マウスピース、肘サポーター、ノーファールカップ、バンテージ、レッグガード(脛保護サポーター)、ヘッドギア

階級
キッズ(kg)は10歳から13歳まで30kgから60kgまで2kg間隔のリミット、60kg超から71kg超まで異なるリミットが存在します。

ジュニア:16歳未満、18歳未満。基本的には大人と同じ階級。
階級はミニフライ級からライトヘビー級までプロボクシングの階級に準じ、クルーザー級以上はスーパーヘビー級まで異なる4階級のリミットが存在します。

他、医療関連の問題に関する適格性
最終決定は、計量時前のメディカルチェック時に医師によって行われます。

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2022年1月、ウェルター級でプロデビューした小林亜維二、山内ユウと対戦

十代の成長は早いものです。個人差はあれど、3ヶ月で1~2cm、体重も2~3kg増えそうなものです。長期に渡るトーナメント戦は成人の場合と違い、ウェイト制の難しさがあるので開催はしない模様。アマチュアの試合なのでワンデートーナメントが多いものの、世界大会出場権を得ての3ヶ月は大事に過ごして欲しいものです。

かつては他のアマチュアイベントに於いて、那須川天心、福田海斗、吉成名高らがアマチュアジュニアムエタイを経てプロで名を馳せました。WBCムエタイ・ジュニアリーグだけでないジュニア世代の、今後も新たなスター発掘となる十代の活躍でしょう。

2019年、第5回大会の表彰選手達、今年の優勝者は誰か

▼堀田春樹(ほった・はるき)[撮影・文]
昭和のキックボクシングから業界に潜入。フリーランス・カメラマンとして『スポーツライフ』、『ナイタイ』、『実話ナックルズ』などにキックレポートを寄稿展開。タイではムエタイジム生活も経験し、その縁からタイ仏門にも一時出家。最近のモットーは「悔いの無い完全燃焼の終活」

《7月のことば》人生に無駄なものなどなにひとつない 鹿砦社代表 松岡利康

《7月のことば》人生に無駄なものなどなにひとつない(鹿砦社カレンダー2023より。龍一郎揮毫)

今年も半分が過ぎ折り返しました。速い速い!
今月の言葉は一番好評で、これでみたびの登場です。
私たち一人ひとりの人生で成功もあれば失敗もあります。栄光も挫折もあります。
成功や栄光ばかりの人は一人もいないでしょう。
しかし、失敗や挫折は決して「無駄」なことではありません。
いや、失敗や挫折の中にこそ次の成功や栄光の種が潜んでいます。

偉そうに、かく言う私も失敗と挫折の繰り返しでした。
その都度、みなさんに心配と迷惑をかけてばかりで助けられました。
再起不能と言われたことも何度もあります。

しっかり反省や教訓化しているとは言えませんが、これも与えられた試練だなと思い頑張ってきました。コロナ前は、もう失敗することもなく後進に道を譲れるなと思っていましたが、そうはいきませんでした。よもやのコロナ来襲と転落、正直苦しかったですが、皆様方のご支援でなんとか耐えれました。
この経験は「無駄」だったとは思いません。

私も齢70を越え、これからどれだけ仕事をできるかどうかわかりませんが、コロナ来襲による打撃を決して「無駄」にせず、もうひと踏ん張りするつもりです。

これを書いた書家・龍一郎は、「ゲルニカ事件」(関心のある方は調べてください)という挫折を経験して今があります。

「人生に無駄なものなどなにひとつない」── なかなか言いえて妙です。

(松岡利康)

タブーなきラディカルスキャンダルマガジン 月刊『紙の爆弾』2023年7月号
〈原発なき社会〉を求めて集う 不屈の〈脱原発〉季刊誌『季節』2023年夏号(NO NUKES voice改題 通巻36号)

ロックと革命in京都1964-1970〈09〉孵化の時 ── 獄中は「革命の学校」、最後の京都は“Fields Of Gold” 若林盛亮

◆綾瀬警察署留置の「ズンム天皇」

1969年1月19日午後、東大安田講堂バリケードを破壊し内部に突入してきた機動隊に私たちはたいした抵抗もすることなく全員逮捕された。それは闘いのあっけない幕切れだった。一列に立たされ怒気に満ちた若い機動隊員に集団リンチを受けた。私も観念したがタオルで覆面の長い髪の私を女の子と見たのかヘルメットの上をポコンと鉄パイプで叩かれる程度ですんだ。

そして夕闇迫る頃、手錠をかけられた私たちは装甲車に乗せられた。「闘いは終わったのだ」という虚脱感、「囚われの身」の敗北感のようなものがひしひしと胸に迫った。手錠につながれた仲間達もみな押し黙ったまま、二日間に渡る攻防戦の疲労感もあったのだろう。私たちは精いっぱい闘ったのだ。

 
「よど号ハイジャック犯・若林容疑者」手配写真(綾瀬警察署撮影)

私は綾瀬警察署に留置された。

写真を撮られ指紋をとられた。「犯罪者」にされた侮辱を感じた。このとき撮られた写真は「よど号ハイジャック犯」手配写真に後に使用されたが、それはとても人相の悪いもの、いかにも「凶悪犯」、おそらくふて腐れてカメラをにらみつけていたからだろう。

翌日から取り調べが始まった、担当刑事は少年課の小太りの中年男と「タタキ専門」という若手、「逮捕学生が多くて臨時動員された」と言っていた。完全黙秘が意思統一されていたので私は「黙して語らず」と宣言した、すると刑事はその言葉を調書にそのまま書いた。少年課刑事はなだめすかす役、「タタキ専門」は強面(こわおもて)役、なるほど取り調べとはそうやるのかと思った。

「おい、ズンム天皇、取り調べだ」! 

看守というか留置場担当の警官に東北出身者がいて、私をいつも「ズンム天皇」と呼んだ。真ん中分け長髪に淡いまばらなあご髭の私は彼に言わせれば「神武天皇」、東北のズ~ズ~弁では「ズンム天皇」になる、ちょっと太った人の良さそうな看守で「おい、ズンム天皇」の呼びかけになんとなく親愛感を感じたものだ。

同房のおっちゃんは「下場木(げばぎ)一家の親分」と自分を紹介した。刑務所で服役中に余罪がばれてまた警察に送られてきたのだそうだ。「弱っちゃうよな~、詐欺罪だなんてみっともなくてみんなに言えねえよ。せめて暴行とか傷害だったらいいんだけどね~」とよくぼやいたが、あの世界では詐欺は「恥ずべきこと」らしい。ヤクザ世界の名誉と恥、ちょっと社会勉強をした。この親分とは仲良くなって「学生、出たらウチを訪ねてこいや」とも言ってくれた。下場木一家は栃木あたりのヤクザらしく親分の口調はズ~ズ~弁っぽい愛嬌のある訛(なま)りがあって人がよさそうに見えた。同房の法政の学生とも親しくなったが互いに完全黙秘の身、自分のことは話せないからいつも「親分」が会話の中心になった。

留置場の弁当は極度に量がなく常時、飢えていた。飢餓感とはこういうものかと思うほどで毎晩くらいなにかを食べる夢を見た。食事時間が近づくと自然に唾が出てきて壁の時計ばかりを見た、秒針が妙に遅いとイライラしたものだ。取調室では所持金で店屋物をとって食べられる、空腹にカツ丼はとてもおいしかった。だから取り調べがいつの間にか待ち遠しくなるから不思議だ。他の学生らも「お座敷(取り調べ)まだですか~」と看守に言ったものだ。飢えさせるのも警察の「犯人を落とす」手法の一つかもしれないとも思った。

◆取り調べの怖さ ── いちばん怖いのは自分自身の心の弱さ

留置期限の23日間が終わりに近づくと釈放される学生も出てきて「釈放か起訴か」が気になり始める。「起訴覚悟」とは言え、やはり「早く娑婆に出たい」「出れるかも」という気持ちも芽生える。この時が危ない。担当刑事が「おまえ釈放されたら着替えとか要るし、誰かに迎えに来てもろわなきゃならんだろう」などと話しながら「せめて名前と住所くらい言えや、親か親戚に連絡してやる」と誘いを入れてくる。こうなると「釈放」の二文字が大きく頭の中で踊り始める。「名前と住所くらいはいいか、心証も悪くしない方がいいかも」という甘い幻想が芽生え始める。

「東京には姉が居るし」と私はつい名前と出身地を話した。すると急に刑事の態度が一変、「講堂のどこに居た? 指揮者は誰だ」と突っ込んできた。これで私の目が覚めた。「それは黙秘します」と答えた。すると少年課の刑事は「今頃の琵琶湖は……」とかなんとか郷愁を呼ぶような話をした、タタキ専門の若手は「黙ってたら出れないぞ」と脅しに出た。取り調べも闘争なのだ! そのことを実感した。

姉が東京にいることも話したので姉が面会に来た。私は姉の持ってきたおまんじゅうを一箱ぺろりとたいらげた、そんな私の姿を見て姉はぽろぽろ涙をこぼしていた。

完全黙秘はできなかったけれど最後の一線で踏みとどまることができた。

私は「取り調べの怖さ」を体験した。いちばん怖いのは自分自身、心の弱さであるということ、自分自身との闘争なのだ、と。一言でいって、「起訴を免れたい」「早く出たい」という自分の心の弱さとの葛藤にうち勝つことだが、案外、これが難しいということを身を以て体験した。

当然ながら私は起訴と決まった。留置場を出るとき、仲間の学生達から「がんばれよ!」といっせいに声をかけられた。なにか熱いものがこみあげ、「さあ、これから新しい闘争が始まるのだ」と気を引き締めた。

◆無知からの脱却 ── 資本論に挑戦

私は小菅刑務所(現在の東京拘置所)拘置区に収監された。起訴が決まり私は裁判を控えた「未決囚」になったのだ。

収監前に身体検査があって素っ裸になって肛門の中まで調べられたが、それはとても屈辱的な場面だった。囚人服に着替えると一人前の「囚人」になった。カッコ悪いことこの上ない姿、「世界でいちばんカッコイイ」元ラリーズとかはもう関係のない「囚人No.1115」でしかない人間になる。私は単なる「お尋ね者」になった。

独房は小さな布団を敷ける程度の狭い空間、窓際に小さな机と椅子があって、机の蓋を開けると蛇口付きの洗面台、椅子の蓋を開ければ水洗トイレ、合理的な生活空間になっていた。窓には鉄格子、初めての監獄生活がこれから始まるのだと思った。壁にはペンキで塗りつぶされたなにかで彫った「民族独立行動隊」の落書きが見えた。どういう種類の人間が収容されるのか、よくわかった。

食事は三食を決められた時間にとり、起床、就寝時間も規則的、30分の運動時間もあって、久しぶりに経験する「健全な生活」、かつてのドラッグや不規則な生活でボロボロの肉体が拘置所生活が続く中で肉付きもよくなり健康体を取り戻した。

時間はたっぷりあったので「政治無知」克服のためのいまは学習期間と定めた。いつも政治的無知を痛感していたし、「何のために何をめざして闘うのか」? その解答がほしかった。

 
K.マルクス『資本論』1(岩波文庫1969年1月16日刊)

私はマルクスやレーニンの著作も読んだことがなかったので各党派の機関誌にある指定学習文献を参考にML主義学習を始めた。

マルクス・エンゲルスの『共産党宣言』『賃労働と資本』『資本論』、そしてレーニンの『国家と革命』『帝国主義論』『何をなすべきか』等々。

レーニンからは、国家の本質が暴力であること、帝国主義の経済的基礎は独占資本にあること、その独占資本の経済活動が植民地獲得要求となり、各国独占資本の不均等発展により植民地再分割戦から帝国主義間戦争が起きること、レーニンはこれを内乱、革命へとしていることを初歩的に学んだ。党派の機関紙が言ってることも、こういうことを根拠にしているのだろう程度にはわかった。

いちばん苦労したのは『資本論』だ。克明丹念に読み込まないととても理解が難しい、ノートにとりながら一日に数頁しか進まないこともあった。なんとか頑張って、搾取の本質が剰余価値生産、剰余労働時間の搾取にあることがなんとなく理解できた。生産力と生産関係間の矛盾が資本主義から社会主義への必然性の根拠であることなど史的唯物論についても学んだ。

これまでの私は17歳の「ならあっちに行ってやる」以降、理知の世界から離れ多分に感性的衝動で考え動いてきた。でも政治は理知を知らずにではできない、だから「理」を学ぼうと思った。理詰めで考えることの大切さ、理知がわかれば社会と革命がわかる、やるべきこともわかる、その妙味も学んだ。まだ「真理に目覚めた」にはほど遠かったが……。

安田講堂逮捕以前から政治的無知、「野次馬」から脱しようと必死の私だったが、やっと獄中生活で学びの機会を得た。それは逮捕、起訴、未決囚となることによって覚悟が据わったからだと思う。もう自分にはこの道以外にはないと腹を据えたら、学習にも精力が注げたのだろう。その意味では東大安田講堂籠城戦に志願したのは正解だった。

「革命家の卵からの孵化」、成長途上の時間、獄中はまさに私の革命の学校になった。22歳になったこの年、生涯で初めて自分の目標を持って学ぶということを知った。

「ならあっちに行ってやる」── 進学校、受験勉強からのドロップアウト以降のLike A Rolling Stone 人生、暗中模索の5年を経て私は「革命の学校」に入学した、そんな感じだったと思う。

「戦後日本はおかしい」から「戦後日本の革命」へ! その帰結が「目的を持って学ぶ」ことだった、いまはそう思える。

もちろんML主義を学習したからといって、革命がわかるわけではない。でもそれは後日の問題、この時は「無知からの脱却」「理知を知る」が先決問題だった。

◆「卵からの孵化」── 赤軍派から勧誘

獄中生活は学習だけが全てだったわけではない。

まさかこうなるとは思ってなかったので、菫(すみれ)ちゃんには何も言わないで上京した。住所も聞いてなかったから手紙も出せなかった。でもきっと「Bちゃんは安田講堂に行ったはず」と考えるだろうと信じた。「やっとここまで来たよ」と“True Colors”の恩人に伝えたかった。留置場で食べ物の夢を見たとき、菫ちゃんとどこかの木の下でおにぎりを食べてる夢も見た。きっと「頑張るんだよ」と激励してくれてるだろう、彼女は舞台女優ステップアップの道を着実に進んでいるはずだ-菫ちゃんには負けられない! そう思って気を引き締めた。ここにいる時間を無駄にしてはいけないと思った。 

私は出所してからの自分の政治生活も考えた。組織のない自分はどうすべきか? 当時、労働者の中に反戦青年委員会をつくる運動があって、牛乳配達労組とか新聞配達労組とかがあったので、まずはその辺からでも始めてみるかとか、いろいろ夢想した。

各党派の機関紙も読んだ。この年の4・28沖縄闘争では大規模な首都決戦が叫ばれたが、警察力によって封殺、大量逮捕者を出しただけで闘いが不発に終わったことを巡って総括論争が起きていることも知った。革命の後退局面打開のため武装闘争を掲げる赤軍派が生まれたことも知った。それはブンド(共産主義者同盟)内部の分派闘争になって同志社の望月上史が反赤軍派に拉致されて脱出途上の建物から落下して命を落としたことを知った。

望月は同志社の活動家で私が一目置いている存在だった。なにか思い詰めたような顔をして迫力あるアジテーションをやる栄養不良気味のちっちゃな姿に「こいつは本気だな」と認めていたからだ。そんな彼が選んだ赤軍派に私は関心を持った。活動家に冷淡だった自分は先達である望月の遺志を無駄にしてはいけない、とも思った。

内ゲバで不遇の死を遂げた望月上史さん

機関誌「赤軍No.4」を読んだが、防御から対峙、そして攻撃へという論法に何か主体的な闘争観を感じたものだ。その武装闘争路線にも「ゲバ棒とヘルメット」からの飛躍意欲を感じたし、何よりも「命がけ」の本気度を感じた。世界革命戦争というスローガンもいまでこそ超主観主義そのものだがフランス5月革命、欧米のベトナム反戦闘争、民族解放武装闘争の世界的高揚の中では決して実現不可能なものとは思えなかった。

9月初めの全国全共闘結成集会での赤軍派の登場が「とってもカッコよかったわよ」と面会に訪れた理知的な東大大学院の素敵なお姉さんのお言葉の信用力もあって、入るなら赤軍派かなと漠然と考えていた。

そして9月30日、私たち同志社「東大組」は全員保釈釈放された。翌日、みなが集まった場で同志社のSからのオルグ、赤軍派参加への勧誘があった。私には願ってもないこと、一も二もなくその場で快諾した。

ついに私は組織に巡り会えた、菫ちゃんに遅れること一年、ようやく「卵からの孵化」へと一歩踏み出せた。もう「一匹狼」、「野次馬」じゃない! 私には同志と組織がある! このことが何より嬉しかった。

いま考えれば、「東大保釈組」の私たちには非転向で獄中8ヶ月、闘争で鍛錬された人間、そんな「革命ブランド」が付けられていたのだろう。でもそれはどうでもいいこと。私に組織と同志ができた、そのことが重要なことだった。

11月に上京し赤軍派に合流することになった。求めよ、さらば道は開かれん! そんな気分だった。

◆ささやかな「出所祝い」

保釈後、しばらくは東京在住の姉の家で過ごした。小菅での差し入れや面会では姉夫婦には世話をかけたからお礼もかねての訪問、そして私は懐かしの本拠地、京都に向かった。

「ロックと革命in京都」── 私を育んでくれた恩人達との「出会いの地」京都、私はその京都を離れ新しい活動舞台に移る。私には「最後の京都」となる1969年の10月の日々、それはとてもありがたい感謝でいっぱいの至福の時間になった、そのことを記しておこうと思う。辛い別れを共に越え晴れやかに送り出してくれた最後の恩人への感謝と感傷を込めながら……。

10月初旬、私は京都に帰還した。

イの一番に菫ちゃんに連絡を入れた。「卵からの孵化」を果たしたいま、誰よりもそのことを報告したい人だった。音信不通の獄中8ヶ月を経て思いの外、意気揚々と帰ってきた姿を見て彼女はとても喜んでくれた。逮捕された私がボロボロになって帰ってくるんじゃないかと心配していたようだった。

その日の夜、菫ちゃんと私はささやかな「出所祝い」をやった。

「お酒飲もか」ということで最新のロックが聴けるというスナックバーに行った。私もこんな日はロックが聴きたいと思った。店は意外に広かった。私たちはカウンター席を避けて二人で横並びに座れる壁際の落ち着いた席に着いた。二人だけの「出所祝い」を誰からも邪魔されたくなかった。

何を話したか「記憶は遠い」。この8ヶ月は自分自身との闘いだったこと、とても貴重な体験になったことを話したと思う。そして何よりもやっと「アホやなあ」を卒業、政治組織の一員になれたこと、「卵からの孵化」を果たしたこと、その「勝利の報告」を! “True Colors”「あなたの色はきっと輝く」を歌ってくれた「よきライバル」への感謝の気持ちを込めて。

「ほんま今日はBちゃんのお祝いの日やね」と言って菫ちゃんは私に乾杯してくれた。私はジン・オンザロック、彼女はジンフィーズかなにか。 

「アホやなあ」から一年以上も経て「Bちゃんよかったね」の祝杯。もう僕たちは卵じゃない、温め合ってきた道はほのかだけれど見えてきた。ほどよいアルコールと店に流れるロックに私たちは酔った。こんなときに喜びを分かち合える人のいることがとても素敵な気持ちにさせてくれた。

薄暗い照明は二人だけの時間を過ごす濃密な空間をつくってくれていた。もう言葉は要らなかった。あの時、流れていた音楽、ブラスロックバンド Blood, Sweat&Tears(血と汗と涙)の“Spinning Wheel”(糸車)、そして壁に掛かっていたAl Kooperのレコードジャケット……あの光景はいまも鮮やかに思い浮かべることができる。

「今日はお祝いの日やね」は、私たちにとって新しい門出、祝祭のドラマチックな夜になった。


◎[参考動画]Blood Sweat & Tears – Spinning wheel

ある日の夜、菫ちゃんが「あしたお休みやから遠足に行こか? 私のおにぎり弁当食べさせたげる」と言った。おそらく留置場での夢の話を私がしたのだと思う、「それええなあ」!で決まり。

翌朝、二人で京都駅を出発した。目的地は私の故郷、草津線沿線の野洲川河原。

国鉄東海道線に乗ってキオスクで買ったお茶を飲みながら草津に向かった。この電車に乗って高校や大学に通ったと話した、「へ~、これに乗ってたんや、懐かしいやろ」── 遠足というのは大人でも気分を浮き立たせる。互いの子供時代の話題になって「“若ちゃん”って呼ばれてたんや、昔は可愛かったんやね」──「ほな、いまはどうなんや」!──「ぜ~んぜん」…… こんなたわいのない話に笑い転げるような無邪気で陽気な気分、こんなのはいったい何年ぶりのことやろ?

草津線は草津駅を始点とし関西線につながるローカルな単線、通退勤時間以外は1、2時間に一本程度のディーゼル単線、次の電車までまだ時間があったので、私の家に行って休憩。彼女は私の父母に挨拶をしたと思うが、OK以外の女性は彼らには初めて、「この子は誰や?」と思ったことだろう。発車時間まで懐かしいわが家の苔の庭を眺めながらボブ・ディランか何かのロック系レコードを二人で聴いた。私の歴史を見てほしくて私のレコード・コレクションも説明しながら彼女に見せた。

のどかなディーゼル車に乗って石部駅で降り、野洲川河原でお弁当を広げた。広い河原には一面、葦(あし)がほどよく茂っていてとてもいい感じ、遠足地には申し分なし。京都育ちの菫ちゃんには鄙(ひな)びた田舎風景は清々しい開放感を与えたことだろう。

河原で彼女の心尽くしのおにぎり弁当を開いた。「この握り方はなんや」とか悪態はついたが、彼女のお弁当はとてもおいしかった。「菫ちゃんの料理はおいしいね」と私は素直に誉めながらおにぎりをほうばり、弁当のおかずに舌鼓をうった。留置所で見た夢は正夢になった。

子供時代のように川に石を投げあったり、おっかけっこをしたりで少女時代に戻ったように彼女もはしゃいだ。二人で遊んだ広々とした河原での遠足の一日、久々に心身共に穏やかでのびのびと、こんな一日を楽しむことのできたのは菫ちゃんのおかげ。

草津駅に着いたのは、もう暗くなってから。駅近くの食堂で夕食をとった。二人の楽しい遠足の一日は終了。でもこれからがまた新しい一日の始まりだった。

◆夜の相乗りサイクリング

夕食後、彼女を駅に見送ろうとしたら、菫ちゃんは私にこう仰せになった ──「京都まで自転車に乗せて行って」! 一瞬「ん?」と思ったが、「エエよ」と私は快諾した。

冷静に考えれば、京都までは国電で30分の距離、滋賀と京都の境には逢坂山越えという難所がある。私は高校時代に三段変速のサイクリング車で京都までツーリングしたりしたものだがけっこう時間がかかった。相乗りで行けばどれくらい大変か、しかも夜道、まともに計算すればちょっと考えものの事態。京都に着くのは深夜? 夜明け? 菫ちゃんはなんでこんな「駄々をこねた」のか?? 私はよく考えもしないで彼女が「乗せて行って」と言うから「エエよ」と答えただけ。いま思えば不可思議このうえないこと、たぶん恋時間というのは計算度外視で成り立つものなのだろう。

私の家に戻り三段変速付きサイクリング車に彼女を乗せた。しばらく行くと「お尻が痛くて京都までもちそうにないよ」と彼女が訴えた。サイクリング車の荷台は狭くて相乗り用にはできていない、仕方なく魚屋の友人から荷台の広い営業用の自転車を借りた。荷物を運ぶには便利だが変速機もない重い自転車、でも彼女のお尻が痛くならないならそれでよし、ただそれだけで再出発した。

そのうえこのとき、便利な国道一号線は味気ない、琵琶湖沿岸沿いの道を行こうとなった。これはこれでまた遠回りの夜の田舎道でもっと大変な道中、いや無謀なコース。でもそんなことは考えなかった。菫ちゃんのために少しでもいい景色を走る、が重要だった。

こうして夜の相乗り京都行が始まった。ひんやりした風を受け背中に彼女の体温を感じながら走る相乗り旅路は快適そのものだった。でもやはりこの自転車はしんどかった。何回か休憩しながら瀬田川河口付近まで来ると目の前には夜の琵琶湖が広がっていた。「ちょっと夜景を見ていこか」と道路脇の土手の草むらに座った。夜は人気のない二人で落ち着ける所だった。

相乗り旅の余韻にひたりながら見る夜景は素晴らしかった。浜大津付近の華麗な光のきらめき、星明かりに浮かぶ比叡山の黒々とした山容、中腹には比叡山国際観光ホテルの灯火も見える。湖面は月の光を帯びて揺らめいていた。琵琶湖はとてもロマンチックな夜の魔力に満ちている。「ほんま綺麗やね」とか二言三言、言葉を交わし、しばらくは無言で私たちは夜景に見惚れた。

このように穏やかな気持ちで故郷の景色を眺めたり、恋時間をもつようなことは、もうこれからはないだろう! そんな思いに私はとらわれた。そう思うと琵琶湖と菫ちゃんに「ありがとう」という気持ちで胸がいっぱいになった。涙がこぼれそうでぐいっと夜空をにらんだ。気配を察したのか菫ちゃんはそっと肩を寄せてきてくれた。ありがとう、私は感謝と愛しさでいっぱい、私と菫ちゃんは時の経つのも忘れてそんな切ない時間を共にした。そこだけは時計の針の止まった空間、二人だけの「時のない」世界。

結局、夜の相乗りサイクリング行は体力的に限界、膳所(ぜぜ)の町まで来て自転車を乗り捨て錦織(にしごおり)駅で京阪電車に乗り換え京都に向かった。京阪三条に着いたとき時計の針はもう10時をはるかに過ぎている……。

「京都まで自転車に乗せて行って」の菫ちゃんも、「エエよ」と即答した私も、あの日は頭がおかしくなっていた。ボブ・ディラン初恋の人スーズの言葉を借りるなら「あのとき二人は離れるのがもう嫌になっていた」、たぶん菫ちゃんの「駄々こね」も私の「エエよ」もそういうことだったんだろう。本当に「離れるのがもう嫌になる」一日になった。

◆“Fields Of Gold”── 軽々しい約束はしない、でも僕たちは……

京都最後の日々── それは二つの卵がやっと孵化を果たした幸福の絶頂、互いに温め合った恋時間がその頂点に達した時、しかしそれが同時に二人の時間の終焉をも意味するという時。

赤軍派加入は私が京都からいなくなるということを意味する。彼女は彼女で京都での演劇女優への道が開けたばかり、ましてや軍事の領域に踏み込んだ赤軍派に参加するとは恋時間の入る余地もない非日常の生活に入るということ、私たち二人の共有する時間が互いの志や夢に向かうためのものである以上、「最後の京都」は辛くても避けられない別れの時。

Stingのつくった素敵なラブソングがある。それは“Fields Of Gold”! 

「軽々しい約束はしない(できない)が でも残された日々 僕たちは……」!

Sting“Fields Of Gold”

この歌詞が京都最後の出来事をそのまま語ってくれている。ちょっと美化しすぎかもしれないけれど、でも心は同じ……

軽々しい約束はしないが

誓いを破ったこともある

でも残された日々 僕たちは

黄金の世界を歩もう

これだけは誓おう

……

きっと君は僕を想う

風が大麦をなでるとき

嫉妬する空の太陽に言うんだ

黄金の世界を歩んだと

輝く世界に生きたと

二人の黄金の世界

11月初め、私は京都を離れ、東京に向かった。

最後の京都は“Fields Of Gold”── 胸は痛む、でももう悔いはない、晴れやかな気持ちで心機一新、新しい門出へと旅立った。(つづく)


◎[参考動画]Sting – Fields Of Gold

《若林盛亮》ロックと革命 in 京都 1964-1970
〈01〉ビートルズ「抱きしめたい」17歳の革命
〈02〉「しあんくれ~る」-ニーナ・シモンの取り持つ奇妙な出会い
〈03〉仁奈(にな)詩手帖 ─「跳んでみたいな」共同行動
〈04〉10・8羽田闘争「山﨑博昭の死」の衝撃
〈05〉裸のラリーズ、それは「ジュッパチの衝撃」の化学融合
〈06〉裸のラリーズ ”yodo-go-a-go-go”── 愛することと信じることは……
〈07〉“インターナショナル“+”True Colors”= あなたの色はきっと輝く
〈08〉“ウェスカー‘68”「スミレの花咲く頃」→東大安田講堂死守戦「自己犠牲という花は美しい」
〈09〉孵化の時 ── 獄中は「革命の学校」、最後の京都は“Fields Of Gold”

若林盛亮さん

▼若林盛亮(わかばやし・もりあき)さん
1947年2月滋賀県生れ、長髪問題契機に進学校ドロップアウト、同志社大入学後「裸のラリーズ」結成を経て東大安田講堂で逮捕、1970年によど号赤軍として渡朝、現在「かりの会」「アジアの内の日本の会」会員。HP「ようこそ、よど号日本人村」で情報発信中。

『抵抗と絶望の狭間 一九七一年から連合赤軍へ』(紙の爆弾 2021年12月号増刊)
『一九七〇年 端境期の時代』