私の内なるタイとムエタイ〈53〉タイで三日坊主!Part.45  還俗式を迎えて、いよいよ寺を後にする!

最後に撮ったスパープくん、勉強熱心な比丘だった

◆還俗式に臨む

静まり返ったクティで、9時を回わると和尚さんがホーム・サンカティを纏って現れた。私が自分の部屋から様子を伺っていると、「オーイ、こっち来い!」と笑顔で手招きしている。すぐ和尚さんの前に座り三拝するが、儀式っぽい雰囲気も無く還俗式は始まった。

和尚さんが短いお経を唱え、「私に続いて復唱しろ」と言う。いつまで経っても読経出来ない私だったから最後まで手取り足取りの口移しによる読経となった。

ここから還俗者が一人で願い出る経文で、「シッカン・パンチャッカーミ・キヒティ・マン・タレタ……」と続くが、ここだけは暗記したはずも途中で飛んでしまった。

そして「これで仏門との縁を切るぞ、比丘には戻れないぞ、いいな?」の問いに、「ハイ、いいです!」と応えると、和尚さんは私の肩に掛かっていたサンカティを肩から二の腕側に落とした。

先に捧げた白ワイシャツと腰巻(前もって渡しておいた着る物一式)を授けられ、「よし、着替えて来い!」と指示され、10メートル程ある自分の部屋に戻る。ここで黄衣を解けばもう比丘ではなくなる。まだ黄衣を纏っている今を噛み締めるように我が姿を振り返った。

そして一つずつサンカティを、上衣を下衣を内衣を脱いだ。窓は閉めたが、本来はここで腰巻が必要なのだろう。スッポンポンからパンツを穿いた。白ワイシャツを着た。ズボンを穿いた。ベルトを通した。夢から醒めたようなこの感触。物心ついた頃から30年あまり同じ動作をして来たのだ。忘れる訳は無いが、意外とすんなり手が動く。その手触りが妙に懐かしい。長期入院していたり刑務所に入っていたり、退院や出所の時、私服に着替える時もこんな感じかと思う。着替え終えると再び和尚さんのもとへ向かう。

「今度はこっちに座れ!」と一段低い方を指される。もう俗人側なのだ。和尚さんと同じ立ち位置ではない。

「今後も仏教徒として精進し、仏教発展の為に活動しなさい」という忠告を受け、聖水を掛けられ終了。寺ではカメラを持って歩き回り、比丘として間違った行為だったであろうことも謝った。和尚さんも「マイペンライ(気にするな)!」を繰り返し、相当不信感を持っただろうに最後は優しい和尚さんだった。

最後にペンダント型の仏陀像(お守り)を2個授かり、

「またいつでも遊びに来て泊まっていきなさい!」と言う言葉には涙が出そうになる。

「さあ、行っていいぞ!」と肩を軽くポンポンと叩いて笑顔で送り出してくださった。着替えも含め12~13分。あっけなく終わるのが還俗式である。

最近撮った寺の写真と春原さんから送られていた、特別に和尚さん用にとっておいたカレンダーをプレゼントし、この席を後にした。

手前はネーン(少年僧)で彼も比丘の輪には加われない

◆生まれ変わり

これで自由な身となった。すでに成人しているから新社会人ではないが、男として一人前となっての社会再デビューとなる。

比丘ではなくなった今、予定どおりバンコクに帰らねばならない。前日から持って帰る荷物を纏めていたが、やはりカメラ機材とフィルムが嵩む。更に黄衣もバーツも、ノンカイで使った蚊帳と傘も持って帰るつもりだった。その為、もうひとつカバンが必要だ。さて買いに行こう。靴下を穿き、クティ門で靴を履いて外に出た。靴の履き心地が懐かしい。風を切る心地良さが黄衣とは違って感じる。やっぱり清々しい気分だった。

バイクタクシーを拾って銀座に向かい、雑貨屋入ってカバンを選んでいると、店のオバサンがやたら親切に接客してくれた。白ワイシャツを着ているし、ほんのさっきまで比丘だったことを察したようだ。こういう還俗直後の、新たに社会に旅立つ者に接客できるのは、目出度いものに肖れて嬉しいものらしい。

寺に帰る前、バイクタクシーに乗ってやって来たデーンくんと擦れ違った。「オッ、還俗したんだ!」といった笑顔だった。寺に帰っても何かと残り物を物色しに来る仲間達。

自分が使った毛布や枕なども記念に持って帰りたかったが、さすがに嵩張り過ぎる。これを当てにしている奴も居るから、この辺りはケチらずコップくんやサンくんにあげよう。

コップくんは「これからのカメラマンとしての活躍を願っているよ!」と和尚さんがくれたものと同じタイプの仏陀像をひとつ授けてくれた。

還俗して撮った食事シーン、もうこの輪には加われない

◆最後の御奉仕

昼食時は俗人となった私から仲間達へプラケーン(食事を捧げる)をして、もう身分は彼らより下に戻ったのだと実感する。比丘達のこの輪にはもう加われない寂しさもこみ上げて来た。そして後片付けを手伝って、以前から「仏陀像と写真撮りたい」と言っていた数名の比丘らに声掛けたが、「和尚さんが見てるから」と避ける者が多い。

やっぱり皆から見れば、和尚さんの前で行儀悪いことはしたくないんだなと感じるところだった。でも時間をズラし、和尚さんが席を外した隙を狙って何とか数名を撮ってあげた。

やがて寺を出る頃、私の隣の部屋だったアムヌアイさんにはお別れの挨拶をしておく。

「今迄ありがとうございました。最初に剃髪してくれたことは忘れません。いろいろ御指導ありがとうございました!」と言葉を掛けると、アムヌアイさんも送る側の顔となって、「日本に帰るのか?この寺のこと忘れんなよ、俺もハルキを忘れないからな!」と言葉を掛けてくれて送り出してくれた。学園ドラマのような、門の前に全員が並んで泣きながら手を振るといったシーンは無い。寝て居る者、外の作業に掛かって居る者、「じゃあな!」とだけ言う者。寺とはそんなモンである。

得度式の後、授かった得度証明書

◆寺を後にする

寺を出ればもう俗人というより完全なる一般日本人。重い荷物を抱え、トゥクトゥクを拾おうとするも、バイクタクシー兄ちゃんが「乗れ!」と言う。

「いや、荷物多いから」と言っても「大丈夫だ、乗れ!」で、バランス悪い中、バイクに跨った。ゆっくり走ってくれて、今朝まで托鉢で歩いた道を通り、エアコンバスターミナルへ到着。もうタンブンを受ける身ではないが、タダにしてくれた兄ちゃんに感謝。

着いた途端、出発寸前のバスの扉を開け、バスの若いキレイな女性車掌さんが、
「お兄さん、バンコク行くの?早く乗って!」と叫ぶ。

トランクに荷物を預ける間も無いまま、乗り口の高い段に居た車掌さんが、私の荷物を引っ張る。そのしゃがみ気味のミニスカートから見える太モモが至近距離で目に入ると、私の脳内は爆発寸前。「ウォオオオー!」と妄想が膨らみ、ムクムク股間も膨らみそうになる。

車内で買ったバス券も、サービスのコーラもパー・プラケーンを介する受け渡しも無く車掌さんと直接手が触れ合う。3ヶ月ぶりだなあ女性の肌。渡されたコーラの美味しいこと。開放感の中での爽やかさ。この味は一生忘れられない。

出発直前に乗って左側最前席に座らされたが、右側最前席には品のいい比丘2名が座っていた。年輩の比丘と若い後輩比丘のようだった。私も藤川さんとこのような感じに見えただろうか。私らは低俗な比丘だったが。

バンコクのサイタイマイバスターミナルに向かう中、車窓を眺めながら、「ナコーン・キーリーの女の子に会いに行くの忘れてた」と思い出す。でも還俗直後だし、開放感から羽目を外し過ぎないよう気を付けなければならないと思う。藤川さんから教わった幾多の説教と笑い話は忘れないように活かそうと思うところだった。

朝まではこの仲間と一緒だったが、もう今は違う立場

▼堀田春樹(ほった・はるき)[撮影・文]

フリーランスとしてキックボクシングの取材歴32年。「ナイタイ」「夕刊フジ」「実話ナックルズ」などにキックのレポートを展開。ムエタイにのめり込むあまりタイ仏門に出家。座右の銘は「頑張るけど無理しない」

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滋賀医大附属病院の「治療妨害を断罪」! 岡本医師の治療を希望する前立腺癌の患者さんと、岡本医師が仮処分申し立てへ

参加者はメッセージや訴えの方法を工夫していた(2019年1月12日草津駅前集会)
 
滋賀医大小線源治療患者会による草津駅前集会とデモ行進は長蛇の列に(2019年1月12日)

本コラムでたびたびお伝えしてきた、滋賀医大附属病院問題で、近く大きな動きがある。消息筋によると岡本医師による治療を希望する、高リスク前立腺がんに罹患した患者数名と岡本医師がともに、滋賀地裁に「滋賀医大附属病院による『治療妨害』」の撤回をもとめ2月7日仮処分の申し立てを行う。

滋賀医大附属病院は、6月末で岡本医師の治療停止、12月には実質上の追放を宣言しているが、「岡本メソッド」と呼ばれる岡本医師の前立腺がん治療は高リスク前立腺癌でも再発率が5%以下という卓越した結果を残していることから、いまでも全国から岡本医師の治療を希望する患者さんが滋賀医大附属病院には「診察の申し込み」を行っているが、そのほとんどは窓口で門前払いされているという。また現在岡本医師の診察を受けていても、6月末までに手術の予定が間に合わない患者さんもいる。患者の一人は「岡本先生でしか私の前立腺癌の治療はできないと思います。その機会を奪われることは私の命が奪われることと同じです」と訴えている。

 
岡本圭生医師

岡本医師は「目の前にいる私に治療できる患者さんを治療しないことは、人道的に許されません。私が希望するのは『患者さんを治療させよ』ということだけです」と語る。

滋賀医大附属病院をめぐっては、昨年の8月1日に、岡本医師の治療を受けられると思っていたら、泌尿器科の医師による手術が画策されていたことがのちにわかり、心身の損害賠償を求め、4名の患者さんが原告となり民事訴訟が提起されているほか、昨年11月16日には病院のホームページや院内の掲示物に書かれた内容に事実と異なる点がある、として岡本医師が仮処分を申し立てた。

さらに、今年に入って岡本医師の手術を受けた患者さんに対するQOL調査に、本来あってはならない氏名欄が設けられていただけではなく、氏名が当該患者さんではない何者かによって記入されたり、質問への回答が改竄されていた事実が判明。次いで実に1000名に上る患者さんのカルテが不正に閲覧されていたことなどが、次々に明るみになっている(この不正閲覧には院長、泌尿器科医師のほとんど、事務職員もかかわっている)。これら連続する不祥事に対して滋賀医大附属病院は1月31日になり、同病院のホームページに、

との見解を発表したが、当の松末吉隆院長が「不正閲覧」を行っていた本人であるので、このように何の証拠も、検証もされていない文章では説得力がない。

泌尿器科外来で診察を待つ患者さんに聞いたところ「問題があるのは知っていますよ。でもいまさら滋賀でほかの病院に行けないからねぇ。滋賀県の病院は滋賀医大の先生が多いから転院しようにもねぇ」と困った表情で本音を語っていた。

仮処分申し立ての詳細はまだ不明であるが、患者と医師が「治療をさせろ」と裁判所に判断を仰ぐのは、極めて稀な事態であることは間違いないだろう。医師や病院は患者さんがそのような属性の人であれ、目の前の患者に対して(物理的に治療が無理な場合などを除けば)「治療拒否」はできないはずだ。そもそも治療希望者を追い返す国立病院など存在が許されるのであろうか。仮処分の詳細は明らかになり次第、本コラムで引き続きご紹介する。

滋賀医大小線源治療患者会による草津駅前集会(2019年1月12日)

◎患者会のURL https://siga-kanjakai.syousengen.net/
◎ネット署名へもご協力を! http://ur0.link/OngR

《関連記事》

◎1000名のカルテを組織的に不正閲覧! 院長も手を染めた滋賀医大附属病院、底なしの倫理欠如(2019年1月19日)
◎岡本医師のがん治療は希望の星! 救われる命が見捨てられる現実を私たちは許さない! 滋賀医大小線源治療患者会による1・12草津駅前集会とデモ行進報告(2019年1月14日)
◎滋賀医科大学 小線源治療患者会、集中行動を敢行!(2018年12月24日)
◎滋賀医大病院の岡本医師“追放”をめぐる『紙の爆弾』山口正紀レポートの衝撃(2018年12月13日)
◎滋賀医科大学医学部附属病院泌尿器科の河内、成田両医師を訴えた裁判、第二回期日は意外な展開に(2018年11月28日)
◎滋賀医科大学に仮処分の申し立てを行った岡本圭生医師の記者会見詳報(2018年11月18日)

▼田所敏夫(たどころ としお)
兵庫県生まれ、会社員、大学職員を経て現在は著述業。大手メディアの追求しないテーマを追い、アジアをはじめとする国際問題、教育問題などに関心を持つ。※本コラムへのご意見ご感想はメールアドレスtadokoro_toshio@yahoo.co.jpまでお寄せください。

田所敏夫『大暗黒時代の大学──消える大学自治と学問の自由』(鹿砦社LIBRARY 007)
月刊『紙の爆弾』2019年2月号 [特集]〈ポスト平成〉に何を変えるか

マイ・センチメンタル・ジャーニー〈4〉俺を倒してから世界を動かせ!! ──   〈2月1日〉に想う 松岡利康

「ぼくは二十歳だった。それがひとの一生でいちばん美しい年齢だなどとだれにも言わせまい」(ポール・ニザン『アデン・アラビア』)

遙か彼方の1972年2月1日、酷寒の京都、その時私は二十歳だった。
「ひとの人生」には、それぞれメモリアル・デーがあろう。まずは誕生日、ひとによっては次が結婚記念日だったり震災の日だったり……するだろう。

私にとっては、1972年2月1日と2005年7月12日だ。後者は私が、のちに「厚労省郵便不正事件」での証拠隠滅で逮捕・失職する大坪弘道検事に率いられた神戸地検特別刑事部に「名誉毀損」容疑で逮捕された日であり、これによって会社は壊滅的打撃を受けた。ここで「前科調書」として思わぬ書類が出てきた。前者1972年2月1日に逮捕された事件の判決文である。時の経過と共に引っ越しなどで紛失していたものだ。72年から33年余りも経っていたが、日本の捜査機関はきちんと保存していて、のちにどこで逮捕されてもすぐに出してくる──日本の捜査機関も侮れないな、と思った次第だ。ちなみに、ポスター貼りでも、警官に見つかって検挙され1日2日留置所に泊められても「前歴」として残るということをプロレス団体の人から聞いたことがある。ここまで日本の捜査機関はやるのか。

1972年2月1日付け京都新聞

逮捕されたのは京都なので裁判が行われたのは京都地裁だ。あらためて読むと、当時の京都地裁の裁判官が、意外にも私たちに同情的で「被告人らは春秋に富む若者であり前科もないことから」(判決文)「懲役3カ月、執行猶予1年」の寛刑であり、被告団10人のうち1人はなんと無罪だった。この1人M・K君は、支援で駆けつけてくれた京都大学工学部のノンセクトのグループに属し黒ヘルメットを被っていたが、逮捕された際に私たちが被っていた赤ヘルメットを無理やり被せられ、これが決め手となって無罪となったのだ。それにしても、このように判決文に「春秋に富む若者であり……」云々という表現、時代を感じさせる。最近ではパソコンに登録した文章をちょこちょこといじった判決文が多い。私たちも検察側も控訴せず決着した。判決は76年12月3日、逮捕からやがて5年が経とうとしていた──。

本年は69年の東大安田講堂攻防戦から50周年ということで、テレビでも当時の映像が流れたが、これに比べれば私たちの闘いは、火炎瓶が飛び交うわけでもなくチャチと言えばチャチなものだったが、私たちは真剣だった。

60年代後半の学園闘争、いわゆる全共闘運動が、機動隊導入によりバリケード解除され収束に向かう中で、1971年、全国の私立大学で次年度からの学費値上げ問題が浮上した。東京では早稲田、関西では同志社、関西大学が中心となった。早稲田、関大は、いつのまにか霧散したが、私たち同志社だけは最後の最後まで身を挺し徹底抗戦することで意志一致した。闘うべき時に闘わずして、みずからの存在価値はないし、たとえ運動や組織が解体させられても徹底抗戦するしかない! 〈革命的敗北主義〉の精神である。

私たちが参考としたのは、60年代後半の明治大学(当局と裏でボス交し収束)と中央大学(白紙撤回)の学費闘争だった。この2つの闘いはよく勉強した。

私たちが拠って立った「全学闘争委員会(全学闘)」と「学友会(全学自治会)」は、60年安保闘争以来ブント直系の運動として、その戦闘性で全国の学生運動を牽引した流れを汲みつつも、同志社のブントが崩壊して以来、ブント系ノンセクトとして健在だった。歴史の後智恵で、徹底抗戦せず組織や運動を守る手がなかったのか、という意見もあろうが、私たちは、そんなことは緒から考えなかった。明大のように当局とボス交して収束をはかるなど論外だ。闘わずして生き延びた運動や組織は腐敗する。東大安田講堂攻防戦前夜に敵前逃亡した革マル派のように、のちのち後ろ指を差されることはやりたくない。たとえ、たった1人になっても戦い抜けば、それによって必ずや後から続くと信じた──(実際は、多くの逮捕、起訴者を出しガタガタになったところに、闘わなかった輩による運動の成果の簒奪が始まり、政治ゴロの介入を許し、場所的経済的利権を狙った草刈り場となったのだが。どのように運動の成果が簒奪され歴史が歪曲されようが、真に闘ったという事実は真に闘った者が知っている)。

「赤ヘルの学生おのがコート脱ぎ われに着せたり激論の中」(秦孝次郎)

秦氏は当時の理事長(総務部長だったかな?)で近鉄資本(同志社は近鉄が持っていた土地を格安に購入)とのつながりが強かった人で、秋深まった11月のキャンパスで長時間に及んだ大衆団交でドクターストップがかかりつつも大学当局の意志を貫き、学費値上げ、そうして以後相次ぐ値上げを強行し、田辺町移転―大同志社5万人構想実現に向けて走り出すのである。

一時は、ほとんどの学部や女子大までが田辺に移転し、加えて近くに在った立命館広小路キャンパスも予備校に売却し移転、学生で賑わっていた今出川界隈も寂しくなった。いちど私が大学に入学する際に入った近くの喫茶店の女性オーナーに「寂しくなりましたね」と言ったことを思い出す。ところが、近年文系学部が今出川に戻り、当時喧伝された、航空工学部、宇宙工学部を新設したりする大同志社5万人構想も、現在学生数は政策学部、文化情報学部、生命医科学部、スポーツ健康科学部、グローバル・コミュニケーション学部など新たな学部をかなり増やしたり学科を学部に増員・改組させた(当時は6学部)りしたことにより3万人弱(大学院含む)と当時より1万人増えてはいるが、航空工学部、宇宙工学部は頓挫し、田辺町移転―大同志社5万人構想が全くの失政だったことが証明されている。私たちの主張は正しかった。

大学の価値というものは、キャンパスが広いとか、施設が良いとかではない。あの狭い今出川キャンパスで、ランチタイムになれば、どこからか授業を終えた学生が出て来てトランス状態になった光景が忘れられない。

私たちは、団交やストを繰り返したりして学友へ学費値上げの不当性をアピールし続け、年末に入り学生大会で無期限バリケードストライキを決議し決戦態勢に入った。正月もバリスト状態で過ごした。多くの学友の支持もあり、教職員も心ある人たちが多く、さしたる妨害はなかった。問題は、私立大学にとって最大のイベントたる入試である。同志社では毎年2月初めに行われる。日程からして1月下旬から2月5日頃までがリミットだろう。

大学内部にいる、かつて自治会運動などに関わった心ある教職員からの情報が刻々と伝えられる。決戦は〈2月1日〉だ!

私ら決死隊は最後までバリケードに留まり逮捕覚悟で、今出川キャンパスの中心にある明徳館の屋上に拙い砦を作り立て籠もった。

一方、決死隊逮捕の報に、学生会館や近くの寮などに待機した仲間や、先のM君らが、京都市内から学生会館中庭に続々と結集していた。その数約300、ほとんどが同志社の学友だが、M君のように他大学の者もいた。

私たちは裁判が終わったあとに『われわれの革命』という小冊子を発行したが、それによると、──
「封鎖解除(機動隊導入)、明徳館砦死守(四名)不当逮捕
 学生会館中庭で、三百余名抗議集会、再封鎖に向けて、丸太、竹ヤリの突撃隊を先頭に今出川に出立する際、機動隊と正面衝突戦を展開(百二十数名不当検挙、四十三名逮捕、十名起訴、重体数名)」
とある。

この闘いは、東大全共闘はじめ全国の戦闘的な学生による安田講堂攻防戦のような、現代史の本には必ず載るようなものではなく、(東京からすれば)一地方の〈小さな火花〉にすぎなかったが、私たちにとっては、その時に、みずからの立場をどう鮮明にするのかを問うものだった。いわば「単ゲバ」の私たちには迷うことはなかった。「やるしかない!」

「しらじらと雨降る中の6・15 十年の負債かへしえぬまま」(橋田淳『夕陽の部隊』)

「6・15」とは60年安保闘争の際、国会前で樺(かんば)美智子さんが機動隊に轢死させられた日、私たちにとって忘れてはならない日として長らく伝えられてきた。かつてこの日には記念の集会やデモがなされていたが、今では国会前で当時の仲間らが集まる程度だ。ちなみに日本共産党にとってこの日は、樺さんがブントに指導された全学連主流派だったという理由で、その歴史には存在しない。

「橋田淳」(仮名)とは、私の当時の“上司”で今は児童文学作家のS・Kさん。もう何十年も過ぎているので「十年の~」ではないが、私たちが、かつてみずから血を流した闘いの中で背負った〈負債〉とは何か? 毎年2月1日になると、自らに問いかけ続けているうちに、〈負債〉を「かへしえぬまま」47年の月日が流れた──。もう私たちは「過激派」でも「極左」(47年前の行動でいまだに性懲りもなく「極左」呼ばわりする輩がいる)でもなく、たまに反原発のデモに行っても「お焼香デモ」だし、学生時代のような元気はないが、それでも、かつて怒りで身を挺して闘った時の志を忘れないようにしたい。かのレーニンが1905年革命(第一革命)の総括で、「武器を取るべきではなかった」という日和見主義的見解に対して「もっと決然と、もっと精力的に、またもっと攻撃的に武器を取るべきであった」(『モスクワ蜂起の教訓』)と言ったことの精神だけは忘れまい。

「俺を倒してから世界を動かせ!!」(明徳館砦に書いた落書き)

当時は「われわれが~」とか「私たちが~」と言っていたが、つまるところ、ここぞという時に「私が」どうするのか、ということだろう。だから逮捕されることが必至のこの闘いには、躊躇する者には無理強いはしなかった。あくまでも、本人の意志に委ねた。平時は格好良い言葉を発していても、いろんな私的な事情で逃げるようなことを恥として私は学費値上げ問題に立ち向かった。当時の全学闘は党派に指導されたものではなく、60年安保闘争以来のブント系の同大学生運動の戦闘性を継承しつつも全員がノンセクトであり、その後はちりじりばらばらになった。党派に属していれば、その党派の指示に従って組合に入ったりするのだろうが、私たちの場合それはなかった。S・Kさんのように苦労して児童文学作家として名を成した人もいれば、U・Mさんのように草創期のコンビニ業界に入り企業活動で名を成した人もいる。私のように斜陽産業の出版界で呻吟している者もいる。それでいいんじゃないだろうか。

私はここ3年ほど、「反差別」運動、いわゆる「カウンター」内で起きた凄惨なリンチ事件の被害者支援と真相究明に関わっている。私の所に辿り着くまで被害者は放置され正当な償いも受けずに「人権」を蔑ろにされてきた。かつて学費値上げに怒りを覚えたのと同様に怒りが込み上げてきた。私の怒りはシンプルだ。悪いことは悪い! 私にとって47年前に学費を値上げと集団リンチ問題に関わることは同じ〈位相〉なのだ。いつまでも怒ることを忘れないでいよう。

加害者側の弁護士(共産党系!)は詰(なじ)る。「極左の悪事」だと。問題の本質はそうではないだろう。何度も言う、悪いことは悪い! くだんの弁護士は言う、「正義は勝つ」と。裁判に勝ったからといって、それが「正義」だとは限らない。歴史の中には、むしろ負けた者や少数派の主張に正義や真実があることのほうが多い。行政訴訟は住民側がほとんど負けるが、住民側にこそ正義や真実があることがほとんどだ。それでもくだんの弁護士は、「正義は勝つ」とでも言うのか!?

最近出会った、フォーク・シンガーの中川五郎さんの歌に『一台のリヤカーが立ち向かう』があり感動した。鹿砦社の新年会でも最後にこれを歌ってくれた。私も歳とってずいぶん丸くなった(と自分では思う)が、なんと言われようが、悪いこと、理不尽なことに怒りを持つことを忘れずに、私は「たったひとり」で時代遅れの古い「リヤカー」に乗って闘い続けたい。

「たたかい続ける人の心を、だれもがわかってるなら、たたかい続ける人の心はあんなには燃えないだろう」(吉田拓郎のデビュー曲『イメージの歌』)

広島から東京に出て来たばかりの吉田拓郎は、こんな歌を歌っていた。中島みゆきも、
「闘う君の唄を闘わない奴等が笑うだろう」(『ファイト!』)
と歌っている。

それでも私はこれからも、かつて2005年に逮捕された際に言ったように、「血の一滴、涙の一滴が枯れ果てるまで闘う」だろう。もう初老の域に入った私もやがては老いさらばえるだろう、最後に「人知れず微笑(ほほえ)み」(樺美智子)ながら──。

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*『夕陽の部隊』は、松岡・垣沼真一編著『遙かなる一九七〇年代‐京都──学生運動解体期の物語と記憶』に再録されています。残部僅少です。お早目にお求めください。

政治決戦へ、すでに火蓋は切られた 山本太郎議員の講演会に立錐の余地なし

1月29日に東京のたんぽぽ舎で、参議院議員の山本太郎さんの講演会がおこなわれた。もともと山本さんは政治家になる前から反原発運動にかかわり、たんぽぽ舎との縁は浅くない。「久しぶりに、故郷にもどってきた気分」(山本議員)だという。

首都圏で反原発運動のステージを作ってきた、たんぽぽ舎はしかし無党派の市民運動体であって、選挙には中立の立場である。したがって、今夏の参院選挙に出馬する予定の山本議員の講演会は、たんぽぽ舎の個人が主催するかたちとなった。このあたりは運動的な原則の問題だが、いまデジタル鹿砦社通信の本記事を書いていることも、実は事前運動スレスレの行為なのである。以前、次の選挙に出るのが確実な議員さんを、ある雑誌でインタビューしたときに、当時はまだ総務省ではなく自治省だったが、事前運動の線引きは捜査当局がやることであって、当方は関知しない(言葉としては、「わからない」)という返事をいただいたことがある。

そこで、今回の講演会の質疑のなかで出された選挙戦術についても、取り締まり当局の目が光っていることを勘案して、最低限にとどめて報告したい。なお、3月発売の『NO NUKES Voice』vol.19において、山本太郎さん独得の節まわしをふくめて、全レポートをお伝えする予定なので、くわしくは同誌の発売をお待ちいただきたい。期待は裏切らないとお約束しておきましょう。

◆混沌のなかの野党再編

すでにご存知のとおり、山本議員が属する自由党は、国民民主党との合同を決めた。これによって、国民民主党は立憲民主党と同規模の会派となり、国会に占める影響力および選挙(全国比例区など)での規程力が増した。とはいえ、山本議員の地盤である参院東京選挙区は1増となったが、それゆえに各党派がしのぎを削る大激戦区である。自民2、公明1、立憲民主1、国民民主1、共産1という議席配分はほぼ決まりで、さらに自民党が3人目、立憲民主が2人目を擁立すると厳しい事態となる。

かりに政策のすり寄せがままならないまま、あいまいな立場での国民民主党からの出馬となれば、前回の勢いまで到達できない可能性もある。そこで全国比例区での出馬や、前回同様に無党派での出馬も考えられないではない。講演会場での質問は、山本議員を再選させるには、どうしたらよいのかという議論が百出した。

街頭では4月の統一地方選にむけた選挙戦がはじまっている。地方選挙と同じ年の参院選は、公明党の地方議員・地方組織が選挙疲れをするので、自公にとっては不利だとされている。それに加えて、たとえば高知県(地方紙)では自公の支持率が25パーセントという衝撃的なアンケート結果が出ているのだ。森友・加計疑惑、厚生労働省の勤労統計の不正など、安倍政権に愛想をつかした国民の自公政権ばなれは加速している。問題なのは、受け皿になる野党の「かたまり」がまだ未成熟な現実であろう。選挙戦術としては、ネット署名を考えているという。万単位のネット署名をもとに、各選挙区で立候補者に反原発の公約を取り付けるのは有効であろう。

 

◆経済に明るい山本太郎

講演会では、さすがに反原発団体たんぽぽ舎のホールを会場にしているだけに、原発廃炉にむけた運動の必要性が参加者から訴えられた。しかしそこには、消費増税をふくめた経済がしっかりとリンクしていることを、山本議員は明瞭に語ってくれた。原発事故のために故郷をうしなった人々の経済的な損失、そして廃炉までの何兆円、何十兆円というコストを暴露することで、原発事故が現在の問題であることを多くの国民が確認できるはずだ。そこで「原発いらない」は「これ以上損をしたくない」と身近な損得に言い換えることも可能だ。

さらには、赤字国債による財政赤字が、実は国と日本銀行の資金の還流、すなわちリフレによってインフレターゲット2パーセントまでは問題なく行なえること。つまり、財政赤字は虚構であると山本議員は強調した。このままインフレに転じるまでは、お札を刷り続けてもいいのにもかかわらず、政府は消費税増率でインフレ抑制するという愚策を行なっているというのだ。意外にも経済に明るい政治家だった。この男を総理にしてみたいと思ったのは、わたしだけではないはずだ。


◎[参考動画]2019年選挙の年に『山本太郎おおいに語る』「本当のこと言って何か不都合でも?」−山本太郎が実行したい、いくつかの提案−(UPLAN撮影=2019年1月29日スペースたんぽぽにて)

▼横山茂彦(よこやま しげひこ)
著述業・雑誌編集者。主な著書に『軍師・黒田官兵衛に学ぶ経営学』(宝島文庫)、『真田一族のナゾ!』『山口組と戦国大名』(サイゾー)など。医療分野の著作も多く、近著は『ガンになりにくい食生活――食品とガンの相関係数プロファイル』(鹿砦社LIBRARY)

『NO NUKES voice』Vol.18 特集 2019年 日本〈脱原発〉の条件
月刊『紙の爆弾』2019年2月号 [特集]〈ポスト平成〉に何を変えるか

「煽り運転」裁判報道で考えたニュースの優先順位 ── なにより権力犯罪や構造的な社会不条理を解き明かせ

事故による被害者が減ることに異議はない。だからといって、そのために「今までもあったこと」がことさら新たな現象のように演出され、加害者が重罪を課されることを称揚するのは、いかがなものであろうかと思う。「煽り運転」についての議論である。


◎[参考動画]【報ステ】あおり運転で殺人罪認定 懲役16年(ANNnewsCH 2019/01/25公開)

◆「煽り運転」はいまに始まったことではない

まず、車を運転する方であれば、多くの方がご経験であろうが、高速道路や車線の多い道路を走行していると、自分が運転している車の車種(大型あるいは高価そうな車か、おとなしい庶民に人気のある車か)で、周囲、あるいは後方から追い抜きをかけてくる車の態度が明らかに違う。わたしは、これまで10台ほどの自家用車を保持したことがあったけれども、庶民性の高い(おとなしそうな)車であればあるほど、ほかの車からは軽く見られ、いわゆる「煽り運転」を受ける傾向があると感じている。

事故寸前の乱暴な運転に遭遇したのは、いずれも後方からの無理な追い抜きや、割り込みだ。そんなとき、次の赤信号で停止した乱暴な運転をする車に、やわら運転席から降りて歩み寄り、その車の運転席のガラスをノックすると、10中8、9、運転手は、腰を抜かしかけ、平謝りに頭を下げる。まさかわたしのような「紳士(!)」が運転していたなどとは思わなかったのであろう。このように運転者には車種により運転態度を変える習性が一定程度あり、この傾向はわたしの知るところ、30年前から変わらない。

なにを言いたいのかといえば、「煽り運転」は最近マスコミや警察が、頻繁に使うので、この時代に起き始めた新たな焦眉の問題のようにとらえられているけれども、呼称こそなかったものの、昔から同様の現象はあったということである。

他方、交通事故には「厳罰主義」が一定の効果を発揮することは統計も証明していて、飲酒運転の厳罰化により、飲酒運転が原因の死亡事故は激減している。交通事故による死者が1万人を下回った大きな要因は飲酒運転の厳罰化にあることは明らかであろう。それは結構なのではあるが、「煽り運転」があたかも今日的社会の最重大事件のように報道される姿勢には、疑問を投げかけざるを得ない。

◆火事や交通事故は「速報」に値するテレビニュースなのか

もちろん被害者の方が気の毒であることに異存はない。しかしながら、テレビニュースに詳しい知人によると、民放の夕方6時の全国ニュース(当然生放送)では、最近「速報」として交通事故(死亡事故でなくとも)や、火事が放送されることが増えているという。

交通事故にしろ、火事にしろ、被害を被った方はお気の毒だ。けれどもその現象がどれほど社会性をもって全国にニュースで報道されるべき性質のものであるかどうか、にわたしは疑問を抱くのである。

ひらたく言えば、交通事故や火事は、悪意によらずとも過失や、防ぎようのない原因によりにより一定割合で必ず起きる。これは自明である。他方、社会構造や、大人数の意図的な行為により引き起こされる災禍、犯罪、被害はその広がりや事件の病根が現代社会に根差しているのであるから、個別の事故よりも社会性や影響が大きく、解析や背景を明らかにする価値を有する。

◆メディアは権力犯罪や構造的な社会不条理を解き明かせ

厚労省の「毎月勤労統計」が不適切に行われていた事件や、安倍晋三が内緒で米国から山ほど要りもしない武器を購入していた事件、東京五輪の招致委員長が金銭疑惑で起訴された事件などには、多くのひとびとがに(直観はしないかもしれないが)関係する事件であり、しかも権力による意図的な行為なのであるから、個別の交通事故や火事と比較することが、実は前提から話にならないほど差があるのだ。

しかしながら、テレビだけでなく新聞も、ネットニュースも組織的な権力の問題や犯罪と、個別の事故を同等(あるいは個別の事故のほうが価値において優越しているかのように)に扱ってしまうので、世の中では倒錯が生じてしまう。交通事故や火事は努力によればまだ減らすことはできるだろうが、ゼロにはできない。人間の行為には必ずミスや間違いが伴うし、機械には必ず故障(コンピューターにも誤動作が)付き物だからだ。

そういった自明性を前提にすれば、交通事故に過剰な焦点を当てることよりも、権力犯罪や構造的な社会不条理を解き明かすことにこそ、時間やエネルギーはメディアにおいても、個人においても費やされるべきであって、そこから離れることは、権力者や組織的犯罪者の思うつぼである。「報道されることのないもの」の中にある真実や重要性を認識することは難しいが、大切な営為であると思う。

▼田所敏夫(たどころ としお)
兵庫県生まれ、会社員、大学職員を経て現在は著述業。大手メディアの追求しないテーマを追い、アジアをはじめとする国際問題、教育問題などに関心を持つ。※本コラムへのご意見ご感想はメールアドレスtadokoro_toshio@yahoo.co.jpまでお寄せください。

田所敏夫『大暗黒時代の大学──消える大学自治と学問の自由』(鹿砦社LIBRARY 007)
月刊『紙の爆弾』2019年2月号 [特集]〈ポスト平成〉に何を変えるか

中川五郎さんの「熊の言い分」と飯舘村の放射能

「熊の言い分」

熊を殺したやつが 熊も放射能を食ったと言うが
そんなものは食わなかったと 熊が言った

俺が食ったのは 放射能じゃない
芽吹いたばかりのブナの葉や アリやハチ

黄いちごに どんぐり ななかまどの実
雪が降るまえに たらふく食ったさ いつものことだ

俺が食ったのは この美しいたっぷりの自然だ 
きらきらと流れる 沢の水だ

鉄砲を撃って 俺の厚い胸を 撃ちぬいたのは お前だ
だから今度はお前が 俺を食うのだ
食うために 殺したんだろう

俺が食ったのは この美しい自然だ
さあ、それを今度はお前が食う番だ
 

2011年3月11日に起きた大地震とそれに伴う原発事故により、福島第一原発から大量に放出された放射能は、目に見えない、匂いもしない、やっかいな代物だ。事故からまもなく8年経つが、 その間も正体を表さないまま、私たちをこんなにも長く苦しめている。

冒頭の歌は、フォークシンガーの中川五郎さんが、事故後、懇意にしておられる詩人の都月次郎さんに送ってもらった詩に曲をつけた「熊の言い分」という歌だ。


◎[参考動画]熊の言い分 / 中川五郎 & ながはら元(m3sami wakamatsu 2017/01/07公開)

「放射能を食っただろう?」「いや俺は放射能なんか食ってない」という熊と猟師の争いと似たことは、今後各地で起こっていくだろう。

目に見えない、匂いもしない放射能というヤツラの悪どさは、私たちの生活や身体を破壊するだけではない、さまざまな差別をしかけ、それによって被害者たちを分断させようとすることだ。

大地に降り注いだ放射性物質を取り除く「除染」の実態を最初に聞いたのは、飯舘村の元酪農家・長谷川健一さんからだった。「尾崎さん、屋根の瓦をね、一枚一枚キッチンペーパーみたいなもので拭いているんだよ」となかば呆れ顔で話された。

放射性物質を拭き終えた大量の布は、伐採した木の枝や葉、剥がされた土などと分類され、それぞれ大きなフレコンバックに詰み込まれ、中間貯蔵施設への搬入を待っている。飯舘村だけで、その数は未だ200万個以上というが、除染で空間線量が下がったからと、避難指示は次々と解除された。

経済的にそう豊かではないが、自然の恵みをたっぷりと育む土地で、みなで助け合って生活してきた飯舘村には、誰だって戻りたいだろう。しかし、戻っても以前の生業で生活再建できる見込みはまだ少ない。

菅野村長と村議会は、村民に営農再開をしきりに勧め、土地保全のため、生業のため、生きがいのため、あるいは新たに農業を始めたい人たちのために、手厚い補助を与えている。しかし膨大な金をつぎ込んだ除染で、村は事故前の村に戻ったのであろうか?

現在75歳の伊藤延由さんは、原発事故の1年前に、かつて勤務していた東京の会社が飯舘村に作った研修所の管理人を任され、村に入った。研修所の管理と同時に、念願だった農業見習いをはじめ、米や野菜を作ってきた。伊藤さんにとってその1年が人生で一番楽しかったという。そんな夢のような生活が、原発事故であっけなく壊されてしまった。

それ以降も仮設住宅と研修所を行き来し、土壌、野菜、山菜など、あらゆるものの放射能測定を続けている。避難指示の解除をうけ、伊藤さんはそれまで行き来してきた、自身の故郷・新潟県に置いていた住民票を、飯舘村に移した。伊藤さんは事故の処理をめぐる国と東電と、村の対応がどうしても許せず、余生を反原発にかけるという。住民票を村に移したのは、その決意の表れだろうか?

伊藤さんの話では、飯舘村の土地はもともとそう肥沃な土地ではなかったという。それを村の8割を覆う山林で作られる腐葉土を、同じく村の特産である酪農、畜産で出来る豚や牛のたい肥になんども漉(す)き込み、良質な土を作ってきたそうだ。そうして作った土とともに、昼夜の寒暖差が大きいことが、飯舘村のコメや野菜などを良質な「商品」に育て上げてきたのだという。

かつて「日本で最も美しい村」連合に加盟した飯舘村は7割が山林で、今でも春になれば村全体が、事故前とおなじような鮮やかな緑に覆われる。しかし伊藤さんはその緑を「セシウムの色」と揶揄する。その理由を聞いてみた。

村の土作りに欠かせない腐葉土は、山林の木の葉や枝などを長期間かけて腐敗させたい肥にさせたものだが、実は腐葉土の元となる枯れ葉などに放射性セシウムが最も凝縮されていることがわかった。こうして自然の循環サイクルに組み込まれた放射性セシウムは、300年たっても全てなくなることはないと、伊藤さんは断言する。

飯舘村で栽培され収穫された野菜やコメなどは、県の厳しい放射能測定を受けたのち、基準値以外であれば、市場に出回っていく。しかし、それが他と比べて売れないとしたら、どうなるだろう? それをすぐに「風評被害」と非難する人たちがいる。しかし長谷川健一さんは以前こう話していた。「村で採れた大根から0ベクレル、北海道で取れた大根からも0ベクレル。それで村の大根が売れなかったら『風評被害』だが、村の大根から5でも10ベクレルの放射性セシウムが出て、北海道で採れた大根からは何もでない。それで村の大根が売れないのは『実害』だっぺ」と。
 
目に見えない、匂いもしないやっかいな放射能との闘いは、この先、どこまで続くのだろうか? 避難指示が解除された地域では、村に戻った人たちと、戻らずに避難先などで生活を続ける人たちの間に、放射能どうよう目に見えないほどの溝が出来た気がする。

私は「買って応援」には賛成しない。汚染されたままの土壌を耕し、農業をすることで、高齢者とはいえ無用な被ばくはして欲しくないからだ。しかし数年前、長谷川さんに送ってもらった福島の桃の、美味しかい、その味は忘れていない。長谷川さんは昨年こう話した。「今、福島では『福島の野菜は安全です』というアピールはやめて『福島の野菜は美味しいです』に変わってきた」と。

「までいな」(「丁寧な」や「心を込めて」を意味する飯舘村の方言)思いで作った米や野菜や果実はたしかに美味しく、草花は鮮やかな色をつけるだろう。しかしそれでも売れないとしたら……。

冒頭の中川五郎さんの歌「熊の言い分」に戻る。

「もしかして放射能を食っているんじゃないか?」と疑う猟師に「おれは放射能なんか食ってない。おれが食ったのは豊かなこの自然だ」と熊が言い返し、「食うために俺を撃ったんだろう。早く食えよ。今度はお前の番だ」と猟師に迫る。こうした争いごとは、間違いなく今後あちこちで増えるだろう。

美味しくても売れないとしたら、それは誰の責任なのか? 野菜を作った農家のせいでも、成長する過程で、自らの体内に放射性物質を取り込んでしまった野菜のせいでも決してない。その責任は、恵みの土地に放射能を大量にばらまいた東電と、原発を強く推進してきた国にあるのだ。熊と猟師は互いに憎みあい争うのではなく、ともに国と東電に向かって闘いを挑んでいかなければならないのだ。

▼尾崎美代子(おざき・みよこ)https://twitter.com/hanamama58
「西成青い空カンパ」主宰、「集い処はな」店主。

伊藤延由さん(飯舘村在住)講演会「原発事故から8年、飯舘村はどうなったのか?」
2月24日(日)14:00~ 社会福祉法人ピースクラブ4F
大阪市浪速区大国町1-11-1(地下鉄大国町駅下車7分)
資料代 500円 お問い合わせ先 hanamama58@gmail.com 
https://twitter.com/hanamama58/status/1083245006331162624

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《お詫びと訂正》

『NO NUKES voice』18号(2018年12月11日刊)掲載の中川五郎さんインタビュー(43~52頁)に誤りのあることが判明いたしました。
謹んでお詫び申し上げますとともに、下記の通り訂正させていただきます。
(『NO NUKES voice』編集委員会)

◎44頁小見出し、45頁中段11行目、同20行目
[誤]「花が咲く」 [正]「花は咲く」
◎46頁中段22行目
[誤]古田豪さん [正]古川豪さん
◎49頁上段21行目
[誤]「二倍遠く離れて」 [正]「二倍遠く離れたら」
◎50頁下段2行目、同19行目
[誤]「sport for tomorrow」 [正]「sports for tomorrow」

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『NO NUKES voice』Vol.18 特集 2019年 日本〈脱原発〉の条件
月刊『紙の爆弾』2019年2月号 [特集]〈ポスト平成〉に何を変えるか

大坂なおみ、張本智和、ケンブリッジ飛鳥、サニブラウン…… 多様な出自のアスリートたちが〈ニホンジン〉を変えていく

女子テニス全豪オープンで大坂なおみ選手が優勝した。昨年の全米オープンでは日本人として●●●●●●初めて優勝したのに続き四大大会二連勝で、世界ランキング1位に昇りつめた(大坂選手のお父さんはハイチ出身の方で、ハイチでも「ハイチ系日本国籍の大坂選手が優勝して豪州でのハイチの認知が広まるのではないか」と報道されている)。卓球の張本智和選手は若干15歳で世界的な活躍を見せている。陸上短距離ではケンブリッジ飛鳥、サニブラウン両選手が400mリレーのメンバーで活躍し、野球界もカタカナの名前を目にすることは珍しくはなくなった。

なにが言いたいかといえば、「日本人」という概念が確実に変化を見せているということである。かつて大相撲で高見山が活躍していた時代に「高見山は髪が黒いからいいけど白人や欧米人が入ってきたらどうするんだ」とテレビ放送で言い放った解説者がいた。大相撲も一応の「外国人枠」を設けているが、番付表を見ればわかる通り、外国出身力士なしには上位の取り組みは組めない。国技だのなんだのといっても、実体的な国際化はすでに目の前で進行している。


◎[参考動画]カップヌードルCM 「謹賀新年 金がほしいねん 篇」/ 錦織圭・大坂なおみ(日清食品グループ 2018/12/31公開)

◆カタカナ姓名のアスリートたち

日本代表として、カタカナの姓名を持つ褐色の肌をしたアスリートが、競技後のインタビューに流暢な日本語で(あるいは英語で)答える様子を目にすると、気持ちが楽になる。日本国内にいながら「日本」から解放されたような気分になる。彼や彼女が関西弁であったらば、余計にうれしくなる。どう見てもネイティブアフリカンのアスリートが「日本代表」として活躍する。

悪いことではない。1936年のベルリン五輪マラソンで優勝した孫基禎選手と3位になった南昇竜選手はいずれも、日本帝国主義植民地時代の朝鮮半島の選手である。今でも記録のうえでは「日本人メダリスト」として刻まれている痛ましさと、本格的に「多民族化」してきた「日本人」のありようは極めて対照的だ。

世界には200ほどの国があるのに、近隣諸国との友好関係も築けない外交無能な政府とは異なり、「日本人」のかたちは変化する。都市部へ出かけると制服を着た中高生の顔の中に、アジア系ではない多彩なルーツを簡単に見つけることができる。タガログ語を話す団地住民の姿は、もうまったくこの国で違和感がなくなった。


◎[参考動画]グランドファイナル2018 男子シングルス 決勝 張本智和vs林高遠(テレビ東京 2018/12/16公開)

◆アフリカ系、中東系、アジア系の日本人がますます増える

彼ら・彼女らのお父さん・お母さんがどうして日本へやってきたのかについてまで、思いを巡らせれば、必ずしも幸せな理由ばかりではない。まだ日本が経済大国だった頃の「日本」を目指してやってきた方がほとんどであろう。しかし、いまやアフリカ系、中東系、アジア系の日本人がますます増える。「日本書紀」の神話や天皇制、君が代、日の丸と大坂なおみ選手や張本智和選手(両親は中国出身)は、どう無理をしても釣りあわない。国威発揚や「大和魂」の復権に利用されるスポーツの世界で「日本語を話せない日本人」や「褐色のアスリート」の活躍は、当人の意識にかかわらず、スポーツが纏わされる宿命の政治性を否が応でも粉砕してしまう。

「どんな脳みそをしているのか」覗いてみたい衝動に駆られる、ファナティックな国粋主義一色の月刊誌の平積みを書店で目にするにつけ、世界を見ず内向きな自慰行為的言論の横行にげんなりさせられるたびに、そうはいっても大坂なおみ選手や張本智和選手、サニブラウンやケンブリッジ飛鳥選手の存在をありがたく思う。思考が前には決して進まない国粋主義者たちは彼らの存在・活躍をどう感じるだろうか。多様な出自のアスリートにはしかしながら、政治的ななにものも背負ってくれというつもりはない。自由に発言し、思うとおりに活躍をしてくれればよいだけだ。


◎[参考動画]日本を代表するスプリンター!ケンブリッジ飛鳥(TBS Yeahhh!2019/01/22公開)

◆外的要因が「くにのかたち」を変えていく

芸能界(言論界にも)には外国出身者なのに、ほどほどの日本人以上に「日本好き」を演じて稼いでいる連中がいるらしい。それも自由といえば自由ではあるが、一部庶民のレベルの低いファシズム感情に上乗りし、稼ぐという節操のなさは、状況が変わればたちまち、己の身にブーメランとなって返ってくるだろう。親日家は否定しないし、するつもりもないが月刊『Hanada』や『Will』に登場する人物は、出身の如何を問わず信用ならない人物である。

日帝本国人(普通の日本人)は、なかなか自らの力と思想で悪しき「日本人」を解体することができずにいたが、やはりここでも「くにのかたち」を変えるのは外的要因ということであろうか。まことになさけのないない話ではあるが、ありがたい変化はすでに目の前で躍動している。


◎[参考動画]【日本陸上選手権】男子200m決勝 サニブラウン2冠達成(NHK 2017/06/2公開)

▼田所敏夫(たどころ としお)
兵庫県生まれ、会社員、大学職員を経て現在は著述業。大手メディアの追求しないテーマを追い、アジアをはじめとする国際問題、教育問題などに関心を持つ。※本コラムへのご意見ご感想はメールアドレスtadokoro_toshio@yahoo.co.jpまでお寄せください。

田所敏夫『大暗黒時代の大学──消える大学自治と学問の自由』(鹿砦社LIBRARY 007)
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私の内なるタイとムエタイ〈52〉タイで三日坊主!Part.44 還俗迫る時

藤川さんをこの寺に導いた人の親族との撮影がこの寺での最後となった藤川さん(1995年1月中旬)
私も撮って貰った仏陀像と共に

◆還俗前日

1月24日、藤川さんとネイトさんはバンコクへ旅立った。分岐点となった別れの朝、私は私の進む道の第一歩、バンコクでお世話になっているアナンさん宅へ電話する為、大通りにある公衆電話へ向かった。タイの電話事情は前に述べたとおり、街の公衆電話は壊れっぱなしのものが多い。今電話しておかねば後々予定が狂うかもしれないので、使える公衆電話見つけたら並んででも電話しようと思うが、一人順番待っていたお兄さんが笑顔で私に順番を譲ってくれた。これもタンブンだろう。私は修行とは関係ない、還俗後のムエタイの用で電話するので申し訳ない気分になる。黄衣を纏っているうちはこの比丘の身だから仕方無いか。

電話では「オオ、サバイディーマイ?(元気かあ)」と言うアナンさんの懐かしい声に出家した頃を思い出す。「明日還俗したらすぐ帰るから」と言うと、「還俗したら三日ほど残って寺のお世話していくものだが帰って来てもいいのか?」と言われる。そういえばそうだった。しかし、過去の仲間も半日か翌朝までしか残っている者はいなかったから「和尚さんには断ってある」と伝えると、とりあえずチェンマイ行きの貸し切りバスには私も乗せて貰えることになった。

電話を終え、寺へ帰ろうとした時、私の得度式で親代わりとなってくれたオジサンと偶然出会った。いつもの儀式で読経を先導する俗人側の人で、明日還俗することを伝えた。

「寺入りから得度式、日々の儀式、そして今日まで有難うございました」と御礼を言う。このオジサンの経歴を軽く聞くと、「ワット・タムケーウで出家して、14年ほど仏門生活を送り、還俗して15年経つんだ」と言っていた。読経は上手いし、私の得度式での先導もしっかり務めてくださった。有難かったと思う。

オジサンに「寺まで送ってやる」と言われて、乗っていたバイクに跨らせて貰らって寺に帰った。

寺ではこの日も特に葬儀も無く通常の一日。寺の周りの掃き掃除、足洗い場の水換え、我が部屋の片付けなど、いつも以上に念入りに行なう。要る物要らない物分けて、洗剤はいろいろ教えてくれたイアットさんにあげて、托鉢で受けたミロやお菓子はもう食べないからデックワットにあげた。ミロ飲んだ湯飲みカップなど一部の食器、儀式用の黄衣は藤川さんに返す物だが、もう会えないだろうから貰っておこう。

カティン祭で寄進された日用品セットの西洋皿は日々飯食った皿だが、日本に持って帰って、ボンカレーでも食べながら寺で使ったことを懐かしく振り返ろうと思う。
明日の還俗に際して、和尚さんに相談すると、「いつものように托鉢に行きなさい。朝食もいつもどおりに食べなさい。還俗式は9時にここでやるから」と和尚さんがいつも座る定位置を指す。ブンくんらが還俗した時と同じ場所である。
夜は引越しのように纏まった多くの荷物に囲まれながら、ここでの最後の就寝となった。

◆最後の托鉢

いつもどおり、目覚まし時計が4時30分に鳴った。この“ピピピピッ”を繰り返すアラームも耳に残ってしまう朝の音色となった。クティの下で歩き回るお寺の風物詩、鶏の鳴き声も毎朝の響きだった。

洗面を済ませて、いつもどおり5時30分に寺を出て、最後の朝は一人托鉢となった。お世話になったなあと思う常連の信者さんに、心の中でお別れを言う。施しを受けに歩く比丘の務めで、お世話したことになるのはこちら側だが、にわか僧の私には日本人流に考えてしまう。お菓子オバサンには「今日還俗します」と伝えた。明日から現れないから気にされてもいけないと思ってのことだった。前々から「還俗したらどうするの? 日本の地震は大丈夫? 貴方の田舎は? 御両親は?」なんて聞かれていたから、「震源地から遠いですから大丈夫です」とか「後日、チェンマイに仕事で向かいます」と話した。

比丘たる者が、還俗後のことなど寺の外で軽々しく言うものではないが、息子を見守るような目線のオバサンで、毎日御飯とは別に、修行の合間に寛げるようにと気持ちがこもったお菓子を余分にサイバーツしてくれていたような、そんな感情が読み取れて、我が身の事情も話していたのだった。

托鉢に野良犬と遭遇することは毎日だった。殴りつけてはいけません(撮影は出家前)

◆托鉢での出来事

裸足で歩くと痛かった足の裏もさほど気にならないほど慣れていた。そういえばタイの道路は汚いものだが、ガラスや金属片などが落ちていることは少ないと思った。朝方はいつも道路脇を掃いている清掃業者さんや子供を見たことあるし、托鉢僧の足下を考えた地域のボランティアかもしれない。

食べ物の匂いを嗅ぎ付けた、おとなしい野良犬が小走りに付いて来るのも日々の光景だった。しかしある日、唸り声を上げた野良犬2匹が後ろから追って来たことがあった。

“ヤバッ、噛まれる”と思ったところが、私を追い越し、前を歩く藤川さんの前に回り込み、藤川さんに向かって凄い勢いで吠えたことがあった。頭陀袋を振り回して追い払っていたが、ノンカイで藤川さんに聞いた話では、以前、藤川さんがこの煩い犬が鬱陶しく、思いっきり殴り付けたことがあるらしい。比丘が動物虐待である。それを覚えている犬も賢いものだ。

托鉢中に、道の向かい側で待つ年頃の可愛い女の子に「ピー、ニーモンカー!(寄進を受けてください)」と叫ぶ声で気が付き、うっかり見落としたことで申し訳なく苦笑いして近づくと、一緒に笑顔になった女の子たちにまた癒されたり、寺を出たばかりの朝、暗い空を見上げて歩くと星が綺麗で、我が地球も宇宙空間の星のひとつで、歩いている自分の地面から滑り落ち、宇宙に放り出されるような錯覚を起こし、心許無い足取りとなったこともあった。最初の頃は厳しい托鉢行だったが、余裕出てきてからは、いろいろオモロイことがあったなあと思う。

月や星が綺麗に見える日も多かった。フィルムの付着ゴミか星か分からないが

◆還俗式に向けて

そんな托鉢から帰ると最後の務めも終わった達成感に対し、寂しさもこみ上げてきた。

托鉢後の食事もいつもどおりに進む。皆と輪を囲むのもこれで最後だ。

ヒベが「還俗したらすぐ帰るのか?」と問い掛けて来る。「うん!」と頷くもヒベは「礼儀知らずめ!」と不快感を持ったかもしれない。

ワット・マハタートから頻繁に訪れているベテラン比丘のポンさんにも「キヨヒロ(藤川)とカンボジア行くのか?」と聞かれ、「もう別々の道を歩んでいるから行きませんよ」と愛想良く応えたが、この先も藤川さんと一緒だろうと思われているのか、そんな親子のような関係に見えていたかもしれない。

朝食後、アムヌアイさんが気を遣ってくれて、還俗式に使うお盆や得度式でも使ったような飾り、ローソクなどを用意してくれた。

「仏陀像に三拝して、和尚さんに三拝してから還俗式は始まるから、そこで白ワイシャツと腰巻をお盆に載せて和尚さんに捧げるんだ」と言ってくれた。自分が着るシャツだから授けられることになるのだろう。最後の纏いとなるホーム・サンカティはキチンとした纏いへ、アムヌアイさんが手伝ってくれた。

そして誰も居なくなったクティ内。「忘れられているんじゃないか」と思うほどクティ内がガラ~ンと静まり返っていたが、みんな外のいつもの作業に掛かっていただけ。私は一人ホーム・サンカティに纏ったまま、その時を待つ。もうすぐ黄衣を脱ぐ秒読み段階に入った還俗式前だった。

中央がワット・マハタートのポンさん(撮影はまだ11月中旬)

▼堀田春樹(ほった・はるき)[撮影・文]

フリーランスとしてキックボクシングの取材歴32年。「ナイタイ」「夕刊フジ」「実話ナックルズ」などにキックのレポートを展開。ムエタイにのめり込むあまりタイ仏門に出家。座右の銘は「頑張るけど無理しない」

上條英男『BOSS 一匹狼マネージャー50年の闘い』。「伝説のマネージャー」だけが知る日本の「音楽」と「芸能界」!
一水会代表 木村三浩=編著『スゴイぞ!プーチン 一日も早く日露平和条約の締結を!』

自動車は〈凶器〉である ── 堺市「煽り運転」殺害裁判で殺人罪適用


◎[参考動画]あおり運転で大学生殺害 元警備員の男に懲役16年(ANNnewsCH 2019/01/25)

司法の重刑化には反対の立場だが、この事件は特筆しておかなければならないだろう。大阪府堺市で起きた煽り運転の裁判である。公判では煽り運転をした「未必の故意の殺人」とする検察側の事実関係がみとめられ、懲役16年の実刑判決がくだった(求刑18年)。

事実関係をたどっておこう。昨年7月2日の午後7時35分ごろ、被害者(22歳の大学生)が乗った大型バイクに追い抜かれた被告(40歳)が腹を立てて、パッシングをするなど煽り運転をしている。クラクションやハイビームで煽ったうえ、時速100キロで約1キロメートル追跡し、最後は96キロで追突したのである。15秒後に「はい、おしまい」とつぶやいた被告の言葉が、ドライブレコーダーに残されている。速度制限60キロの一般道での出来事である。

裁判で争点になったのは、殺意があったかどうかである。被告側弁護人は「被告には殺人の動機がない」「殺意はなかった」と検察側に反論している。そこで「死んでしまっても仕方がない」すなわち、相手が死ぬかもしれないと認識して、その行為を行なった、という未必の故意が成立するかどうかである。

被告が車線変更をして被害者を追跡しているのは事実であり、追突の直前にブレーキをかけたとはいえ、速度は4キロしか低減していない。

結果的に「殺人事件」となったことで、自動車が法的にも凶器とみとめられたことになる。これは画期的と言っておくべきことだろう。わたしは10年前に自動車から自転車に乗り換えた。自分の健康と環境問題という意識もあったが、それよりも自動車が危険な乗り物だという認識からである。時速100キロというスピードは、一秒間に27メートルも進んでしまうのだ。それが標準速度である高速道路は、生死をかけた場所といわなければならないはずだ。じっさいに、初心者教習で高速道路に出た教習者は、口をそろえて「怖かったですねぇ」という感想をもつはずだ。27メートルをわずか一秒で判断し、処理する能力を誰もが持っているわけではない。そのスピードは今回の事故でわかったとおり、一般道でもふつうに行われているのだ。

◆なぜ危険運転致死罪ではなかったのか

懲役18年と、量刑的にはほぼ同じになったが、6月に起きた東名高速での煽り運転事故では、自動車危険運転致死罪が適用されている。煽って走路妨害をしたうえ、追い越し車線でクルマから降ろして暴行をふるい、さらには後続車の衝突によって2人を死なせた「事件」である。この事故の場合にも「走行中の車両が衝突して、死んでしまう可能性」は認識されていたはずだ。いや、仮にそういう認識がなかったとしても、客観的にみて認識できるはずだという評価は可能であろう。にもかかわらず、殺人罪の適用を見送ったことは、検察庁に失策として記憶されていたのではないだろうか。今回の判決が判例(上訴審での最終判決)になれば、交通行政に与える影響も少なくない。

自動車免許は筆記試験では30%前後の不合格率があり、それなりに交通法規の遵守が講じられている。そのいっぽうで、適性検査および運転時の心理カウンセリングはないがしろにされている。今回の事故も東名高速の事故も、加害者の「カッとなった」末に起きた事件、事故である。さらには、合宿免許やオートマ免許によって、免許取得は容易になっているとみるべきであろう。

◆自動車社会への警鐘になるか

自動車運転は「自我の拡張」という人格変化の現象をともなう。たとえば高級車に乗ればゆったりとした運転で、コクピットでの気分も落ち着いたものになる。スポーツカーや高速走行に適したエンジンを搭載したクルマの場合、いつもよりも攻撃的な運転になるし、大型トラックでは居丈高な態度になりがちだという。いつもは排気量の大きいクルマで高速道路をかっ飛ばしている人も、軽自動車で買い物にいくときは街をゆっくりと走る。自動車が運転する人の自我を決める、自我の拡張行為がそこにはあるのだ。そういう観点から、煽り運転の防止は、厳罰化だけでは達成できないのである。

今後、完全な自動運転化が進むとして、その場合の事故は誰が責任をとるのか、今回の判決で「自動車は凶器」と認められた以上、自動車社会は新たな課題を与えられたといえよう。

▼横山茂彦(よこやま しげひこ)
著述業・雑誌編集者。主な著書に『軍師・黒田官兵衛に学ぶ経営学』(宝島文庫)、『真田一族のナゾ!』『山口組と戦国大名』(サイゾー)など。医療分野の著作も多く、近著は『ガンになりにくい食生活――食品とガンの相関係数プロファイル』(鹿砦社LIBRARY)

月刊『紙の爆弾』2019年2月号 [特集]〈ポスト平成〉に何を変えるか
横山茂彦『ガンになりにくい食生活――食品とガンの相関係数プロファイル』(鹿砦社LIBRARY)

嘘つきは泥棒の始まり ── 新自由主義の矛盾と官僚主義の崩壊

「嘘つきは泥棒の始まり」。言い古された故事であるが、今日的には「高級官僚は泥棒の始まり」と言い換えないといけないようだ。厚労省による「毎月勤労統計調査」が2004年から不適切に実施されていたことが判明。同調査は雇用保険などの支給額に直結することから、不正に低い額しか受け取ることのできなかったひとびとが数えきれないほど存在することが判明した。

あれは何年前だったろうか。年金記録5000万件の紛失事件が旧社会保険庁によって引き起こされていたことが分かり、看板が社会保険機構にかけ変わったけれども、いまだに「消えた年金記録」(2007年2月16日以降)の全貌は明らかになっていない。


◎[参考動画]安倍 消えた年金が再燃「ギブアップすることは絶対あってはならない」(2020 summer 2015/06/17公開)

◆「私や妻が関係していたということになれば、私は間違いなく総理大臣も国会議員も辞める」

そういえば、つい最近も「私や妻が関係していたということになれば、私は間違いなく総理大臣も国会議員も辞める」と盗人猛々しく、言い放った安倍晋三が陰に陽に関与した森友学園問題では、やはり公文書の改竄が行われていたが、責任者(本当は犯人と呼びたい)佐川宣寿国税庁長官は「懲戒免職」ではなく「退職」で逃げ切り、高額の退職金を手に入れている。この事件では近畿財務局のまじめな職員が自死するという悲劇を生んでいるが、権力者にとっては末端兵隊の命や内心などは、関心の範疇にはないのである。


◎[参考動画]総理大臣も国会議員もやめるということははっきりと申し上げておきたい(kokikokiya 2017/05/05公開)

◆安倍がどのような交渉をしようとも「北方領土」は返還されない

かつて、「2島返還」と言ったら「とんでもない!」と大方の自民党議員は大反発していたくせに、「平和条約」(?)締結を目指す安倍は「4島返還は現実的ではない。2島返還で交渉する」とのたまっている。本通信で過去何度か、この件については触れたが再度断言する。安倍がどのような交渉をしようとも「北方領土」は返還されない。唯一の禁じ手はアンダーテーブルでの金での交渉だろうが、これまで既に莫大な経済協力をロシアとの間に結んできた安倍としては、いくら、機密費を持ち出したところで「島を買い返す」余裕はないだろう。

中国の経済成長率が前年比6.6%だったと報じられた。これもおそらく相当水増しされた数字だろう。「世界の工場」だった中国の時代はとうに終わり、中国の経済成長は急激な下降側面に入っている。インフレと農村を核とする地方との貧困格差は、やがて大きな混乱局面を迎えることが必至だろう。


◎[参考動画]父の墓前で誓い 安倍総理が日ロ関係進展を強調(ANNnewsCH 2019/01/06公開)

◆小泉純一郎と竹中平蔵の「新自由主義」から生まれた「毎月勤労統計調査」の歪み

というわけで、お偉い官僚は嘘をつくことが習慣化しているようだ。役人の仕事は法律に従い、しこしこと書類づくりに励むことだと思っていたが、2004年から「毎月勤労統計調査」は、急に不適切な調査方法に変わっている。さて、2004年とはどんな年だった、どんな時代だったろうか。そののちに安倍晋三という大災害を生み出すことになる、「新自由主義」の旗頭、小泉純一郎が、竹中平蔵とともに、めったやたらと「規制緩和」の名のもとに大資本の自由度を無原則に広げていた時代じゃないか!


◎[参考動画]竹中元大臣「責任ある試算を」郵政民営化見直しで(ANNnewsCH 2009/10/25公開)

おそらくは、あの頃から(もっと昔からもあったろうが)、公文書の改竄や、調査の手抜きなどが、横行しだしていたのではないか。「新自由主義」の要請にこたえるためには、現実を曲げないことにはつじつまがあわないのだから。

けれども「新自由主義」が横行しだした1990年代から、この国はどのような状態を辿ってきたのだろうか。消費税が導入される。3%から5%さらに8%から今年はついに10%へ上がる。消費税は「社会保障目的税」と言われているが、消費税がなかった時代に比して社会保障が10倍充実した実感はどこにもない。

かつては特定業種に限定されていた、派遣労働が、「雇用の多様化」の美名のもと、これまた2004年に、港湾運送、建設、警備、医療以外の全職域に解禁される。派遣労働者の激増により、同一労働同一賃金の原則は完全に崩壊し、今や非正規雇用の労働者が約4割に達している(その上前を「パソナ」の竹中平蔵がはねているのだ)。

つまり官僚が書類を偽造することによって、「新自由主義」という資本主義末期の社会矛盾を、なんとかごまかせないかと、悪あがきする。しかし、そんなものは絆創膏程度の役にも立たないから、良くも悪くも「官僚主義」の崩壊を誘因する。かくして、いにしえの多くの賢人が予想した通り、資本主義も官僚主義も終焉を迎えるのだ。


◎[参考動画]【麻生太郎閣下】分かりやすい官僚操縦法(2011年2月19日福岡市にて)

▼田所敏夫(たどころ としお)
兵庫県生まれ、会社員、大学職員を経て現在は著述業。大手メディアの追求しないテーマを追い、アジアをはじめとする国際問題、教育問題などに関心を持つ。※本コラムへのご意見ご感想はメールアドレスtadokoro_toshio@yahoo.co.jpまでお寄せください。

月刊『紙の爆弾』2019年2月号 [特集]〈ポスト平成〉に何を変えるか
田所敏夫『大暗黒時代の大学──消える大学自治と学問の自由』(鹿砦社LIBRARY 007)