終戦から75年目の夏がめぐってきた。

とはいっても、本欄の読者のほとんどが、75年前を直接には知らないであろう。わたしも直接は知らない。いまや日本の国民の大半が、敗戦(終戦)の日を、直接には知らない時代なのである。

しかしながら、祖母や両親から聞かされた戦時の苦労、当時の現実を伝聞されるかぎりにおいて、次世代につなぐ責任を負っているのではないだろうか。

わたしたちは75年前のこの日、国民が頭をたれて聴いた「終戦の詔勅」を、おそらくその一節においてしか知らない。

とりわけ、以下のフレーズ

「然レトモ朕ハ時運ノ趨ク所 堪ヘ難キヲ堪ヘ 忍ヒ難キヲ忍ヒ 以テ万世ノ為ニ太平ヲ開カムト欲ス」の中から、「万世のために太平をひらかんと欲す」という結論部を「子孫のために、終戦(平和)にします」と読み取ってきたのではないだろうか。

だが、詔勅はこの部分だけではないのだ。

詔勅は広く天皇の意志を国民(臣民)に知らしめ、天皇の命令(勅)として、国民に命じるものである。そのなかに、当時の天皇と国民の関係が明瞭に見てとれるので、ここに全文を掲載してみたい。

真夏の一日、わが祖母や祖父、父母の時代に思いをはせながら、われわれの来しかたと将来を見つめなすことができれば。

と言っても、原文は以下のごとく読みにくい。書き下しのひらがな文になれたわれわれには、少々息苦しい漢文体である。原文は冒頭部だけにして、訳文を下に掲げてみました。

 * * * * * * * * * *

官報号外(1945年8月14日)

 朕深ク世界ノ大勢ト帝国ノ現状トニ鑑ミ 非常ノ措置ヲ以テ時局ヲ収拾セムト欲シ 茲ニ忠良ナル爾臣民ニ告ク
朕ハ帝国政府ヲシテ米英支蘇四国ニ対シ 其ノ共同宣言ヲ受諾スル旨通告セシメタリ
 抑々帝国臣民ノ康寧ヲ図リ万邦共栄ノ楽ヲ偕ニスルハ 皇祖皇宗ノ遺範ニシテ朕ノ拳々措カサル所 曩ニ米英二国ニ宣戦セル所以モ亦 実ニ帝国ノ自存ト東亜ノ安定トヲ庶幾スルニ出テ 他国ノ主権ヲ排シ領土ヲ侵スカ如キハ固ヨリ朕カ志ニアラス

【現代語訳】

わたし深く世界の大勢と帝国の現状とにかんがみ、非常の措置を以て時局を収拾しようと思い、ここに忠良なる汝ら帝国国民に告げる。

わたしは帝国政府をして米英支ソ四国に対し、その共同宣言(ポツダム宣言)を受諾することを通告させたのである。

そもそも帝国国民の健全を図り、万邦共栄の楽しみを共にするのは、天照大神、神武天皇はじめ歴代天皇が遺された範であり、わたしの常々心掛けているところだ。先に米英二国に宣戦した理由もまた、実に帝国の自存と東亜の安定とを切に願うことから出たもので、他国の主権を否定して領土を侵すようなことは、もとよりわたしの志ではなかった。しかるに交戦すでに四年を経ており、わたしの陸海将兵の勇戦、官僚官吏の精勤、一億国民の奉公、それぞれ最善を尽くすにかかわらず、戦局は必ずしも好転せず世界の大勢もまた我に有利ではない。こればかりか、敵は新たに残虐な爆弾を使用して、多くの罪なき民を殺傷しており、惨害どこまで及ぶかは実に測り知れない事態となった。しかもなお交戦を続けるというのか。それは我が民族の滅亡をきたすのみならず、ひいては人類の文明をも破滅させるはずである。そうなってしまえば、わたしはどのようにして一億国民の子孫を保ち、皇祖・皇宗の神霊に詫びるのか。これが帝国政府をして共同宣言に応じさせるに至ったゆえんである。

わたしは帝国と共に終始東亜の解放に協力した同盟諸国に対し、遺憾の意を表せざるを得ない。帝国国民には戦陣に散り、職場に殉じ、戦災に斃れた者及びその遺族に想いを致せば、それだけで五臓を引き裂かれる。かつまた戦傷を負い、戦災を被り、家も仕事も失ってしまった者へどう手を差し伸べるかに至っては、わたしの深く心痛むところである。思慮するに、帝国が今後受けなくてならない苦難は当然のこと尋常ではない。汝ら国民の衷心も、わたしはよく理解している。しかしながら時運がこうなったからには堪えがたきを堪え忍びがたきを忍び、子々孫々のために太平をひらくことを願う。

わたしは今、国としての日本を護持することができ、忠良な汝ら国民のひたすらなる誠意に信拠し、常に汝ら国民と共にいる。もし感情の激するままみだりに事を起こし、あるいは同胞を陥れて互いに時局を乱し、ために大道を踏み誤り、世界に対し信義を失うことは、わたしが最も戒めるところである。よろしく国を挙げて一家となり皆で子孫をつなぎ、固く神州日本の不滅を信じ、担う使命は重く進む道程の遠いことを覚悟し、総力を将来の建設に傾け、道義を大切に志操堅固にして、日本の光栄なる真髄を発揚し、世界の進歩発展に後れぬよう心に期すべし。汝ら国民よ、わたしの真意をよく汲み全身全霊で受け止めよ。

裕仁 天皇御璽
昭和二十年八月十四日
   各国務大臣副署

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詔勅における昭和天皇の国民に対するまなざしは、政治機関としての主権代行者(昭和天皇自身は、天皇機関説の支持者であった)として、忠良なる臣民に告げるもの(命令)である。その内容の評価は、それぞれの視点・立場でやればいいことかもしれないので、ここでの論評はひかえよう。

そしてそれを受け止めた国民が、どのように行動したのか。ここがわれわれの考えるべき点であろう。

その大半は「やっぱり負けたんだ」「軍部のウソがわかった」「明日から電気を点けて眠れる」であったり、「われわれは陛下のために、死んで詫びるべきだ」「鬼畜米英の辱めを受けるものか」との決意であったりした。

これらは父母から聴かされた話である。しかしその「感想」や「決意」も、すぐに生死にかかわることではない。しょせんは銃後のことである。

しかし最前線で終戦を迎え、どのように身を処するべきかという立場に立たされた者も少なくなかった。いや、前線の将兵の大半がそうだったのだ。

そこで二つだけ、わたしが知っている事実をここに挙げておこう。

そのひとつは、宇垣纒(うがきまとめ)海軍中将の終戦の日の特攻である。宇垣は海軍兵学校で大西瀧治郎(特攻攻撃の立案者とされる=8月16日に官舎で割腹自決)、山口多聞(ミッドウェイ海戦で空母飛龍と運命を共にする)と同期で、連合艦隊(日本海軍)の参謀長だった人である。

終戦時には第三航空艦隊司令長官の地位にあり、大分航空隊(麾下に七〇一海軍航空隊など)にいた。広島と長崎に原爆を受けたのちの8月12日に、みずから特攻作戦に参加する計画だった宇垣は、15日の朝に彗星(雷撃機)を5機準備するよう、部下の中津留達雄大尉らに命じた。

そして終戦の詔勅を聴いたあと、予定どおり出撃命令をくだす。滑走路には命令した5機を上まわる11機(全可動機)と22人の部下が待っていた。宇垣がそれを問うと、中津留大尉は「出動可能機全機で同行する。命令が変更されないなら命令違反を承知で同行する」と答えたという。結果、宇垣をふくむ18人が帰らぬ人となった。

もうひとつは、年上の友人の父親の談(志那派遣軍)で、部隊名もつまびらかではない。南京の要塞に立てこもっていたところ、終戦の詔勅を聴くことになる。玉砕を主張する古参兵がいる中、部隊長の将校は兵たちにこう言ったという。

「お前たちは生きろ。生きて家族のもとに帰れ」「わが部隊は、ここで解散する」と。

その瞬間、それまで思考停止に陥っていた兵たちは、われ先に要塞から飛び降りた。三階建てほどの建物を要塞にしていたが、そこから無事に飛び降りていたという。どこをどう逃げ、引き揚げ船に乗ったのか、あまり記憶にないと語っていたものだ。

住民が巻き込まれる、悲惨な事件も起きている。

沖縄の久米島では、有名な住民スパイ虐殺(米軍の投稿勧告状を持ってきた住民を、海軍の守備兵がスパイ容疑で、軍事裁判抜きで処刑した事件=事件は6月以降、守備隊が米軍に投降したのは9月4日)も起きた。全島が戦場となった沖縄のみならず、満蒙開拓団のソ連軍からの逃避行も惨憺たるものだった。戦争はあらゆるものを巻き込んだのである。

あるいは生死が紙一重で死んだり、あるいは生き延びたりしたのであろう。悲劇なのかどうかも、すべては今にして言えることだ。合掌。

▼横山茂彦(よこやま・しげひこ)

編集者・著述業・歴史研究家。歴史関連の著書・共著に『合戦場の女たち』(情況新書)『軍師・官兵衛に学ぶ経営学』(宝島文庫)『闇の後醍醐銭』(叢文社)『真田丸のナゾ』(サイゾー)『日本史の新常識』(文春新書)『天皇125代全史』(スタンダーズ)『世にも奇妙な日本史』(宙出版)など。医科学系の著書・共著に『「買ってはいけない」は買ってはいけない』(夏目書房)『ホントに効くのかアガリスク』(鹿砦社)『走って直すガン』(徳間書店)『新ガン治療のウソと10年寿命を長くする本当の癌治療』(双葉社)『ガンになりにくい食生活』(鹿砦社ライブラリー)など。

月刊『紙の爆弾』2020年9月号【特集】 新型コロナ 安倍「無策」の理由

『NO NUKES voice』Vol.24 総力特集 原発・コロナ禍 日本の転機

全国でも有名な未解決事件の1つとなっていた廿日市女子高生殺害事件は、2018年4月、犯人の鹿嶋学(当時35)が別件の傷害事件を起こしたのをきっかけに検挙され、発生から13年半の時を経て、ついに解決した。

そして今年3月3日、広島地裁で開かれた鹿嶋の裁判員裁判の初公判。その法廷では、鹿嶋の逮捕後に作成された被害者・北口聡美さん(享年17)の友人女性2人の供述調書が検察官によって朗読された。

◆「私の話をいつも笑って聞いてくれた」

「私は事件当時、北口聡美さんとは高校のクラスメイトでしたが、一緒に学んだ期間はたったの半年間しかありませんでした」

1人目の友人Aさんの供述はそんな言葉から始まった。

 * * * * * * * * * *

普通の女子高生だった聡美が突然殺されてしまい、殺された理由も犯人もわからず、胸にしこりを抱えたまま、13年半もの長い月日が流れてしまいましたが、ようやく犯人が捕まりました。ニュースで見た犯人はまったく知らない男で、犯人を見ると悔しく、やりきれない思いになります。

私は、聡美とは高校2年生で初めて同じクラスになりました。けれど、聡美のことはクラスメイトになる前から知っていました。私は中学生だった時、廿日市市内の塾に通っていたのですが、a中学の生徒だった聡美もその塾に通っていて、a中から通っていた生徒が少なかったので、憶えていたのです。

中学の時には、私たちは話をしたことはなかったですが、高校2年生で同じクラスになった時、縁を感じて私たちはすぐに仲良くなりました。聡美は、見た目は高校生にしては大人びた感じで、同級生の中でもおしゃれに気を使っているほうで、女性らしかったです。

けれど、聡美は大人びた外見とは裏腹に、おっとりした性格で、天然なところもあり、まじめだけど、意外と抜けていて、そんなところがとてもかわいらしかったです。

聡美は頭がよく、数学が得意で、塾に通うなど、勉強をすごく頑張っていて、私は聡美のことを尊敬していました。聡美はすごく明るい性格で、話も聞き上手で、私が話をすると、いつも笑って聞いてくれていました。

私が2年生になってからクリーニング工場でアルバイトをしていた時に、きっかけは忘れてしまいましたが、聡美を誘って一緒にアルバイトをするようになり、聡美とは週に1、2回、学校帰りに一緒にアルバイト先のクリーニング工場に行っていました。一緒にいて、楽しかったです。

聡美には、クラスメイトに親友のBさんがいました。2人はお互いのことは何でも知っていて、学校では常に一緒にいて、「2人だけの世界」って感じだったので、聡美の交友関係は「広く浅く」というよりは「狭く深く」といった関係が多かったのかな、と思います。

◆「誰かに恨まれるようなことをする子では、絶対になかった」

当時、ニュースで、聡美の事件は怨恨が理由じゃないかと流れた時、「聡美に限ってそんなことはありえない」と思っていました。誰かに恨まれるようなことをする子では、絶対になかったからです。聡美について、あること無いこと噂されていて、中には、尊厳を傷つけるような酷い噂もあって、聡美のことを知っている私たちからすれば、すぐに否定できるようなことでも、聡美のことを知らない人は噂を鵜呑みにしてしまうんだという怖さを感じました。

このことで、聡美のご家族はたくさん傷ついていたと思います。今回、犯人が捕まって、聡美に何の落ち度もなかったことが明らかになったと思うので、その点では良かったと思います。

私たちのクラスは、聡美の存在が根底にあって、ものすごく絆が深いです。聡美と同じ2年4組のクラスメイトは、聡美の命日が近づくと、集まれる人が集まって聡美の墓参りに行っています。

今回、ようやく犯人が捕まったので、クラスメイトが集まって、墓参りに行く予定です。毎年、「早く犯人が捕まればいいね」とやるせない思いで聡美に会いに行っていましたが、今年はようやく聡美にいつもと違う報告ができます。

犯人が捕まったことは良かったです。けれど、ニュースでは、通りすがりでたまたま聡美が被害に遭ったと流れていました。意味がわからない。なぜ、聡美が殺されなければならなかったのでしょう。聡美は優しい子で、頭が良かったし、将来があったのに。本当に許せない。犯人に対しては、聡美の生命を奪ったのだから、同じように生命を奪って償って欲しい。死刑を望みます。

 * * * * * * * * * *

以上、Aさんの供述だ。

◆「いまだに聡美がいない今が現実なのか、よくわからない」

供述調書を朗読されたもう1人の友人は、Aさんの供述の中にも出てきたBさんだ。

「北口聡美さんとは高校の同級生で、1年、2年と同じクラスでした。聡美は、私の一番の親友でした」

Bさんの供述は、そんな言葉から始まった。

 * * * * * * * * * *

あの日、聡美が殺されてから14年。正直、もう犯人が捕まることはないと思っていました。けれど、ようやく捕まり、聡美が導いてくれたんじゃないかと感じていました。

これから、犯人が捕まるまで私がどんな気持ちで生きてきたかをお話します。

聡美のことは、あれから14年経っても、いまだに気持ちの整理がついていません。いまだに聡美がいない今が現実なのか、よくわからなくなります。聡美の夢をよく見ますし、目を覚まし、聡美がもうこの世にいないことを突きつけられると、悲しくなるのです。

聡美は、普通の女子高生でした。いい子だけど、ものすごくいい子ってわけでもなくて、たまに悪口を言い合っていました。好きな人の話では、延々と盛り上がって話し続けました。

聡美は、まじめだったので、塾に通ったりもしていて、私も聡美と一緒に勉強したりと、お互いに高め合える、すごくいい関係でした。

何か特別なことがあるわけじゃないけど、うれしいこと、腹が立つことをいつも共有してくれて、常に味方でいてくれました。だから、聡美といることは心地よくて、私は1年生の時から聡美とずっと一緒にいました。2年のクラス替えで、聡美とまた一緒のクラスになれた時には、うれしくて思わず、叫んでしまいました。

2年生になっても、私たちはずっと一緒にいて、周りから見ると、「2人の世界」って感じだったと思います。家に帰ってからもメールばかりしていました。大切な親友だったのです。

事件が起きた日のことは、何度もフラッシュバックしてしまいます。「なんで、事件のあの日に、一緒にいなかったのかな」って後悔ばかりしています。試験が終わった後、帰ろうとする聡美をとめていれば。ニュースで犯人がたまたま聡美を見かけたと知ってからは、特にそう思います。夜に考えていたら、寝られなくなります。

聡美が殺されたことは、高校の教務室で流れていたラジオで知りました。居残り勉強をしていたら、体育館に移動するように校内放送が流れて、体育館に移動する途中に先生に呼ばれ、「何だろう?」と思って教務室に入ると、「北口聡美さんが刺されて、まもなく死亡しました」ってラジオが流れたのです。

意味がわからなくて、「さっきまで聡美は一緒にいたのに」って、頭がパニックになりました。信じられずにいた時、警察官から「聡美さん、どんな子だった?」と過去形で聞かれたことが、すごく印象に残っています。

◆「テレビ局に話したことが編集で意図とは違う報道をされ、傷ついた」

それからまだ気持ちの整理がつかず、聡美はもう帰ってこない。二度と会えない。犯人はまだ捕まらず、聡美がなぜ殺されたのかわからないままで…。ニュースでは、怨恨ではないかと流れました。けど、17歳で何を恨まれることがあったのか? 私の知らないところで恨まれたのかな? 私は聡美のこと、全然知らないんだ。でも、聡美に限って恨まれるわけがない。私は聡美にとって、いい友達だったのかな? ずっと、そんなことを考えていました。

事件解決の力になればと、テレビ局の取材に応じて話したことが編集されて、聡美には「裏の顔」があったなどと意図とは違う報道をされ、傷ついたこともありました。聡美は、かわいくて頭もいいから妬まれたのか。酷い噂話も広まっていました。今回、犯人がようやく逮捕されて、聡美には何の落ち度もなかったことがわかって、その点では安心しています。

事件が未解決の頃、聡美さんの友人Bさんは解決の力になればとテレビの取材に応じたが…(2015年6月12日放送のフジテレビ「金曜プレミアム・最強FBI緊急捜査SP日本未解決事件完全プロフ)

Bさんは、自分の話を意図とは違う内容で報道され、傷ついたという(2015年6月12日放送のフジテレビ「金曜プレミアム・最強FBI緊急捜査SP日本未解決事件完全プロファイル」より)

今回、犯人が捕まったことは良かったけれど、聡美が生き返るわけではありません。私は結婚し、1歳の子供がいます。最近、聡美が生きていたらどうなっていたかな? と考えます。聡美も結婚して子供がいたかな? 聡美はしっかりしているから子供をしっかりしつけていそうだな。子育てで色んな相談ができたかな? 私の子供をすごくかわいがってくれただろうな。もし生きていたら、聡美に会わせたかった。聡美がいないことが無性に悲しいのです。

また、昔はわからなかったけれど、子供が生まれて、親が子供を思う気持ちがわかるようになりました。1年、子育てをするだけでも、すごく沢山の思い出ができます。聡美のご両親なら、17年間もの思い出がある。大切な子供の生命を奪われた親の気持ちを想像すると、とても辛いです。

犯人は、一度も見たことがない男でした。14年間、自首もせずにのうのうと生きてきたかと思うと、腹が立ちます。叶うなら、死刑にして欲しい。けれど、そうもいかないのだろうと思っています。今の世の中は加害者ばかりが守られる世の中です。被害者のプライバシーは全然守られません。犯人はどう思って、生きてきたのでしょうか。自首もしていないのですから、反省もしていないのでしょう。

聡美の生命が奪われたのに、犯人が生きてきたことに腹が立ちます。聡美の最期は、犯人だけが見ていて、それを犯人が憶えていることにも腹が立ちます。聡美の最期を憶えたまま、14年間生きてきたのでしょう。

どうか聡美の最期を抱えたまま、死刑になって死んで欲しいと思っています。

 * * * * * * * * * *

以上、Bさんの供述だ。

Aさん、Bさん共に事件から13年半の月日が流れ、30代になっても、高校時代の聡美さんとの思い出や事件のショックを克明に記憶しており、犯人が捕まらなかった間のやり場のない憤りや、検挙された犯人・鹿嶋学への憎悪を語った部分も当事者の言葉ならではのインパクトがあった。

この2人の供述調書が朗読される間、被告人席の鹿嶋はずっとうつむいたまま表情を変えず、検察官席にいた聡美さんの父・忠さんは時折、感極まりそうになっていた。(次回につづく)

《関連過去記事カテゴリー》
 廿日市女子高生殺害事件裁判傍聴記 http://www.rokusaisha.com/wp/?cat=89

【廿日市女子高生殺害事件】
2004年10月5日、広島県廿日市市で両親らと暮らしいていた県立廿日市高校の2年生・北口聡美さん(当時17)が自宅で刺殺され、祖母のミチヨさん(同72)も刺されて重傷を負った事件。事件は長く未解決だったが、2018年4月、同僚に対する傷害事件の容疑で山口県警の捜査対象となっていた山口県宇部市の土木会社社員・鹿嶋学(当時35)のDNA型と指紋が現場で採取されていたものと一致すると判明。同13日、鹿嶋は殺人容疑で逮捕され、今年3月18日、広島地裁の裁判員裁判で無期懲役判決を受けた。

▼片岡健(かたおか けん)
全国各地で新旧様々な事件を取材している。原作を手がけた『マンガ「獄中面会物語」』【分冊版】第11話・筒井郷太編(画・塚原洋一/笠倉出版社)がネットショップで配信中。

最新刊!月刊『紙の爆弾』2020年9月号【特集】新型コロナ 安倍「無策」の理由

「絶望の牢獄から無実を叫ぶ ―冤罪死刑囚八人の書画集―」(片岡健編/鹿砦社)

◆東京都医師会の尾崎治夫会長の「法的拘束力もつ休業要請」

新型コロナウイルス感染拡大の中、一般市民からも野党からも「国会を召集しろ」という声が高まっている。

もっともな要求だが、そこには落とし穴もある。

7月30日、東京都医師会の尾崎治夫会長は、法的拘束力のある補償付き休業「要請」が必要だと発表し、話題を呼んでいる。法的拘束力のある要請とは実質「命令」だ。

テレビはこの発言を好意的に取り上げ、賛同する世論もあるが、”コロナファシズム注意報”を発令したい。


◎[参考動画]都医師会 PCR検査1400カ所に「抑える最後のチャンス」(FNNプライムオンライン)

◆自民党憲法草案の緊急事態条項に悪用の恐れ

そもそも、コロナ特措法(新型インフルエンザ等対策特別措置法の一部を改正する法律)は、今年3月13日に可決し翌14日に施行されたばかり。
 
民主党政権時代に成立したインフルエンザ特措法の一部を変えたものである。具体的には、改正前の「新型インフルエンザ等」の定義の改正。法の対象に新型コロナウイルス感染症を追加した。

最大の問題点は、内閣総理大臣が必要と認めれば、緊急事態宣言することができ、権力の集中、市民の自由と人権が強く制限される危険があることだ。
 
これまでの安倍政権は、憲法を守らず、法律に違反し、国会で虚偽答弁を繰り返し、政権に忖度した役人も公文書を改ざん破棄するなどを繰り返してきた。

したがって、今度の新特措法を破ったり強引に拡大解釈してもなんの不思議もない。過去の事実を見る限り、こちらの可能性の方が高いとみなければならない。

もっとも心配なのは、憲法に緊急事態を盛り込む地ならし、ないし布石にしようと政府・自民党は目論んでいる疑いがあることだ。

2012年、自民党は憲法改正憲草案に「緊急事態条項」を盛り込んだ。これは緊急事態と内閣総理大臣が判断すれば、国会機能を停止し、政府が決める政令が法律と同等の効力を持つ。

行政の独裁になり、緊急事態の期間延長も可能という。その危険性ゆえにナチスの全権委任法のようだと批判がある。まさに日本を文明国から野蛮国に転落させる憲法草案といえるだろう。

新型コロナウイルスが問題になり始めた1月30日の二階派の会合で、自民党の伊吹文明元衆院議長が、「緊急事態の一つの例。憲法改正の大きな実験台と考えた方がいいかもしれない」と述べた事実は見逃せない。

人々の不安とストレスに乗じて「法的拘束力を持つ休業」を安易に取り入れた特措法の再改正をすれば、強権的抑圧体制が進むおそれがある。

これは上からの抑圧だが、もっと恐ろしいのが下からの圧力ではないか。

◆権力の弾圧と下からのファシズム──サンドイッチ規制

前述した自民党の伊吹文明氏が言う、憲法の緊急事態条項にコロナ危機を連動させる野望は、上からの民衆弾圧の思想だ。

一方、全体主義的な空気を一般人が下から煽り立てる危険も現実にある。

前回、緊急事態宣言が発出された日のテレビ朝日系『羽鳥慎一モーニングショー』を思い出す。その日のうちに緊急事態宣言発出か、という緊張した日の朝だった。

出演していたジャーナリストの青木理氏は、緊急事態宣言を出せ、政府に強力な権限を持たせよ、という空気が一般人の中にあることについて「非常によろしくない、非常によろしくない」と繰り返し警告していた。

それに対し、テレビ朝日社員のコメンテーターである玉川徹氏が、「上からでなく下から声が上がってきたのは非常にいいこと」という趣旨の発言を、青木氏のコメントに対応するかたちで繰り返した。

自粛警察、自粛ポリス、マスク警察などを見れば明らかだろう。

国家権力が直接的な強権を発動するのではなく、下から人権や私権の制限および権力の強化を求める機運が高まった時こそ、全体主義が暴走しやすい。

自由を求める少数の人々は、国家権力と民衆の間に挟まれるサンドイッチの具になる。デモ隊の左右を機動隊んが挟み込む規制を”サンドイッチ規制”と呼ぶ。それを立体的にしたようなイメージである。

国会を召集するのは当然としても、安易に「コロナ特措法」の強化に対しては、最大限の警戒を持つべきだ。

◆プラスマイナスで総合的に判断を

そうはいっても、これ以上感染が拡大したらどうするのか? 爆発的に増えたらどうするのか? という意見もあるだろう。その一方で、自由や人権が奪われ、権力が肥大化する恐れがある。

両者をプラスマイナスで考え、より深刻なマイナスを除去する方向で判断するしかないだろう。つまり、どちらがより日本社会に打撃を与えるかの判断が必要ではないだろうか。

コロナウイルスは必ず終息する(100%ではないが)が、いちど強権的システムを構築してしまえば、抑圧体制を容易に終息させることはできない。コロナ終息後も時の権力や支配者たちは、そのシステムを維持するだろう。

そうなれば、ステイホーム、Go to などの号令に従って尻尾を振る飼い犬のような生活が長期間続くことを覚悟しなければならないのだ。

▼林 克明(はやし・まさあき)
 
ジャーナリスト。チェチェン戦争のルポ『カフカスの小さな国』で第3回小学館ノンフィクション賞優秀賞、『ジャーナリストの誕生』で第9回週刊金曜日ルポルタージュ大賞受賞。最近は労働問題、国賠訴訟、新党結成の動きなどを取材している。『秘密保護法 社会はどう変わるのか』(共著、集英社新書)、『ブラック大学早稲田』(同時代社)、『トヨタの闇』(共著、ちくま文庫)、写真集『チェチェン 屈せざる人々』(岩波書店)、『不当逮捕─築地警察交通取締りの罠」(同時代社)ほか。林克明twitter

月刊『紙の爆弾』2020年9月号【特集】新型コロナ 安倍「無策」の理由

◎目次概要◎https://www.kaminobakudan.com/

2004年10月5日、広島県廿日市市の高校2年生・北口聡美さんが自宅で何者かに刺殺され、祖母のミチヨさんも刃物で刺されて重傷を負った事件は、長く未解決だった。犯人の鹿嶋学は、2018年4月にようやく検挙されたが、それまで13年半の間、どのように生きていたのか。

3月4日、広島地裁で行われた裁判員裁判第2回公判の被告人質問では、そのことも鹿嶋本人の口から詳細に明かされた。

◆事件後もレイプを扱ったAVを観ていたが、抵抗感はなかった

この事件の真相は、会社を辞めて自暴自棄になった鹿嶋が原付で東京に向かう途中、たまたま路上で見かけた北口聡美さんをレイプしようと考えて聡美さん宅に侵入し、抵抗されたために持参したナイフで刺殺した──というものだった。その後、鹿嶋は山口県宇部市の実家で暮らし、地元の土木関係の会社で逮捕されるまで13年余り働いていた。

会社の社長によると、鹿嶋はこの間、真面目な働きぶりで、信頼できる部下だったという。ただ、鹿嶋には、社長が知らない「ある趣味」があった。弁護人から「事件後もアダルトビデオは観ていましたか?」と質問され、鹿嶋はこう答えた。

「観ていました。その中には、レイプを扱った作品もありましたが、そういう作品を観ることに抵抗感はなかったです。また、そういう作品を観て、事件のことを思い出すこともありませんでした」

ここで弁護人がアダルトビデオの話を持ち出したのは、鹿嶋が犯行に及んだ要因の1つに、アダルトビデオをよく観ていたことがあったと考えられるフシがあるからだ。

というのも、鹿嶋は事件前、「会社の寮でほぼ毎日、エッチなビデオを観ていた」というほどアダルトビデオが好きだった。そして取り調べでは、「会社を辞めて自暴自棄になり、やりたいことをやろうと思い、性行為の経験がなかったので、性行為をしようと思った」と供述していた。さらにこの公判でも検察官の質問に対し、「女子高生が好みだった」「レイプに興味があった」「性行為をしたいと思った時、自分はナンパなどをする性格ではなかったので、レイプ以外の方法は思いつかなかった」などと明かしているのだ。

ただ、鹿嶋によると、事件後に再び「レイプをしたい」と思うことはなかったという。その理由については、こう説明している。

「事件の時は、自暴自棄になって罪を犯すことに抵抗感がなくなっていました。しかし、事件後は、会社に迷惑をかけたらいけないので、罪を犯そうとは思いませんでした」

鹿嶋はそう答えた後、弁護人から「罪を犯さなかったのは、会社に迷惑をかけたくなかったからだけですか」と重ねて質問され、思い出したようにこう答えた。

「いえ、もちろん、人に迷惑をかけたらいけないからというのもありました」

レイプをしたらいけないと考える理由として、普通であれば、まず「被害者となる女性」を傷つけたらいけないからだと答えるだろう。鹿嶋は正直に話しているのかもしれないが、感覚的にズレたところがあるように思えた。

◆「性行為をしてみたい」と思いつつ、風俗店にも行けず……

鹿嶋は事件後も「性行為をしてみたい」という思いは持ちつつ、性行為の経験はないままだったという。風俗店を利用したことすらなかったそうだが、その理由についてはこう説明している。

「自分は性格的にそういうところに踏み出せませんでした」

鹿嶋によると、アダルトビデオを観ること以外の当時の楽しみはオンラインゲームをすることくらい。事件のことは思い出さないようにしていたという。

「事件のことを思い出すと、自分に刺された時の聡美さんの『え、なんで?』という表情や、自分が『クソ』『クソ』と言いながら何回も聡美さんを刺したことを思い出してしまうからです。事件のことをパソコンで調べ、聡美さんが亡くなったことを知りましたが、自分から事件のことを調べたのはそれくらいです。コンビニで未解決事件の本を見かけ、『広島の女子高生』という言葉を見たことはありますが、内容はほとんど見ませんでした」

このように事件のことを考えないようにしていた鹿嶋だが、1つ不思議なことがある。聡美さんを刺したナイフを処分せず、逮捕されるまで自宅の机の引き出しでずっと保管していたことだ。その理由については、こう説明している。

「自分にとって逃げ出したい、忘れたい事件でしたが、ナイフはずっと捨てることができませんでした」

このナイフは鹿嶋が逮捕されたのち、家宅捜索により発見されている。犯人が凶器のナイフを証拠隠滅せず、13年半も自宅で保管しているなどとは、警察も思ってもみなかったことだろう。

事件が未解決の頃、捜査本部が置かれていた廿日市署

◆殺人の容疑で逮捕された時は「ほっとした」

鹿嶋がこの事件の犯人だと判明したきっかけは、2018年4月上旬、部下の従業員の「横着な態度」にカッとなり、尻などを蹴る傷害事件を起こしたことだった。山口県警がこの件で余罪捜査をしたところ、鹿嶋の指紋やDNA型が現場の北口聡美さん宅などで見つかったものと一致したのだ。そして同月13日、広島県警が殺人の容疑で鹿嶋を逮捕した。

鹿嶋は、広島県警が自分を逮捕するために自宅にやってきた時のことをこう振り返った。

「その時、自分は寝ていたので、突然のことに驚きました。ただ、ほっとした気分になりました。ずっと事件のことを引きずって生活し、前向きに生きられていなかったからです」

警察の捜査が自分に及んでこないため、自首せずに過ごしていた鹿嶋だが、元々、「殺人を起こしたのだから捕まって当然だ」と思っており、逮捕されることへの恐怖は感じていなかったという。

弁護人から聡美さんの遺族に対する思いを聞かれると、鹿嶋は「自分の身勝手な行いで、大切な家族の生命を奪ってしまい、申し訳ない気持ちでいっぱいです」と言い、金銭的賠償が一切できていないことについては、「自分ができる限りのことをして払いたいと思います」と言った。

そして弁護人が最後に、「この場で言っておきたいことは?」と質問すると、鹿嶋は大きな声で叫ぶようにこう言った。

「私は、取り返しのつかないことをしてしまい……自分でも、自分は死刑がふさわしいと思っております。大変、申し訳ございませんでした!」

鹿嶋はそう言い終わると、しばらくハーハーと荒い息遣いで、感情がかなり高ぶっているようだった。(次回につづく)

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 廿日市女子高生殺害事件裁判傍聴記 http://www.rokusaisha.com/wp/?cat=89

【廿日市女子高生殺害事件】
2004年10月5日、広島県廿日市市で両親らと暮らしいていた県立廿日市高校の2年生・北口聡美さん(当時17)が自宅で刺殺され、祖母のミチヨさん(同72)も刺されて重傷を負った事件。事件は長く未解決だったが、2018年4月、同僚に対する傷害事件の容疑で山口県警の捜査対象となっていた山口県宇部市の土木会社社員・鹿嶋学(当時35)のDNA型と指紋が現場で採取されていたものと一致すると判明。同13日、鹿嶋は殺人容疑で逮捕され、今年3月18日、広島地裁の裁判員裁判で無期懲役判決を受けた。

▼片岡健(かたおか けん)
全国各地で新旧様々な事件を取材している。原作を手がけた『マンガ「獄中面会物語」』【分冊版】第9話・西口宗宏編(画・塚原洋一/笠倉出版社)が配信中。

最新刊!月刊『紙の爆弾』2020年9月号【特集】新型コロナ 安倍「無策」の理由

「絶望の牢獄から無実を叫ぶ ―冤罪死刑囚八人の書画集―」(片岡健編/鹿砦社)

◆沖縄に苛立つ菅長官

7月28日付の本欄「混迷するポスト安倍 ── 菅義偉「中継ぎ」政権への禅譲の可能性」で詳述したとおり、岸田政調会長の存在感なさすぎから急遽、次期総理候補として浮上してきた菅義偉官房長官。彼らしい冷淡かつ傲岸なもの言いが物議をかもしている。

菅義偉官房長官公式HPより

8月3日の定例会見で、こう沖縄を非難したのだ。

「沖縄県が宿泊施設の確保が十分ではない、こうしたことについて、政府から沖縄県に何回となく、そうした確保をすべきであるということを促している」

沖縄でコロナ感染者が増えていることについて、病床が確保されていないことを質問されたさいの答弁。いや、あからさまな沖縄批判である。この怒り風味の喋りのさいに「チッ」と聴こえたのは筆者だけだろうか。気に入らない質問をされたとき、この人がやってしまう、舌打ちの癖だ。

東京新聞の女性記者との例にあるように、自分が攻撃されたと感じるとき(悪意の批判と思い込む)、この人の反応はかなり感情的だ。そして攻撃的になる。

とりわけ沖縄にたいして「(辺野古新基地建設を)粛々と進める」という言葉が物議をかもしたように(安倍総理らが翁長知事=当時の面会を拒否しつづけた時期である)、なんとも冷淡な気がする。

この菅長官の苛立った発言に、玉城知事は、「沖縄も大変だが頑張ってくださいという励ましを頂きながら(宿泊施設確保の準備を)進めてきた。国とやりとりする中できつい要求などはなかった」と語り、菅長官の怒りを意外なこととしている。

沖縄県の糸数統括監も「国が示した数字に基づいて医療機関と調整しながら進めてきた」とし、菅官房長官の発言を「意外な気がした」と述べている。

この人にとって、沖縄それ自体が苛立たしい存在なのかもしれない。何かと政権に盾をつく、日米同盟の「障壁」になるとでも思っているから、無意識に苛立たしさが噴出してしまうのではないか。

◆米軍基地が感染源だった

だがその苛立ちは、お門違いと言うしかない。そもそも沖縄の感染者増大は、米軍基地のアメリカ人たちによるものなのだ。

沖縄は4月30日に1人の新規感染者が出たのを最後に、7月7日まで、ずっと感染者ゼロを保っていたのである。それを破ったのが、米軍関係者の感染なのだ。7月4日のアメリカ独立記念日には県内で大規模なパーティが開かれ、8日には軍属5人の感染が確認され、キャンプ・ハンセンや普天間飛行場、嘉手納基地などの施設で米軍関係者の感染が相次いだ。まさに、沖縄のコロナ禍は米軍基地、および観光施設が対応をせまられる「GoToトラベルキャンペーン」なのである。そしてその推進者こそ、ほかならぬ菅義偉官房長官なのだ。

◆苦労人ならではの「寛容さ」がない人

菅義偉官房長官は、いわば叩き上げの政治家である。父親(農家から満鉄職員──のちに帰農)も苦労の末に町会議員になっているとはいえ、自民党議員にありがちな地盤を継いだ政治家二世ではない。高校卒業後に集団就職で上京し、板橋区の段ボール工場で働いた。上京から二年後、学費の安かった法政大学の夜間部(法学部政治学科)に入学し、卒業後は電設会社に入社している。

その後、母校の就職課の伝手で自民党議員の秘書となり、横浜市議会議員に転出(1987年)。そこから政治家の道を歩みはじめる。昭和で言えば50~60年代のこと、バブル経済が世を騒然とさせていた時代である。細川連立政権で野に下るなど、自民党政治も決して安逸な時代ではなかった。

やがて所属していた宏池会が分裂し、反主流派の堀内派に参画。ポスト小泉(2006年)で掴んだのが、安倍晋三擁立(第一次政権)の原動力というポジションだった(当選4回で総務大臣就任)。麻生政権のもとで番頭役をつとめて、第二次安倍政権を演出し(甘利明・麻生太郎に呼びかけ)、その官房長官に就任する。上述したように、沖縄をはじめとする政権に批判的な部分に対する冷淡さ、あるいは攻撃性が顕著になっていく。苦労人に特有の「寛容さ」あるいは「気遣い」「親和性」がないのは、どうしてなのだろうか。

かつて東京都知事選において、自民党に真っ向から歯をむいた小池百合子知事にたいしては「コロナは東京問題」と言い放つなど、相手のパフォーマンス(小池百合子の連日のテレビ出演による都民への呼びかけ)を凹ませる。じっさいは全国問題であり、政府の主導力が問題になっているにもかかわらず。このように万事が攻撃的、かつ冷淡な対応なのである。

◆果断さが失政につながる可能性

「寛容さ」がない、あるいは「冷淡さ」は「果断さ」と言いなすことも可能だ。この苦労人ならではの「果断さ」は、党内政治のなかでつちかわれたのかもしれない。

安倍政権での2007年、自民党選挙対策総局長に就任した当時、菅は就任早々「私の仕事は首を切ること」と発言し、候補者の大幅な調整を示唆したという。のちの官邸一元支配は、ここに萌芽をみとめることができる。麻生政権では、中川秀直や塩崎恭久ら党内の反麻生派を、硬軟取り混ぜた様々な手段で抑えたといわれている。
第二次安倍政権になると、2013年には郵政民営化の考えにそぐわないとして、日本郵政社長坂篤郎を就任わずか6か月で退任させ、顧問職からも解任している。同年に発生したアルジェリア人質事件では、防衛省の反対を押し切り、前例のない日本国政府専用機の派遣を行った。2014年5月には、内閣人事局の局長人事を主導し、局長に内定していた杉田和博に代わり加藤勝信を任命したとされる。自らが出演したNHK「クローズアップ現代」の放送内容について、放送後のNHKに官邸を通じて間接的に圧力をかけたと報じられた(事実や関与を否定)。

感情をオモテに出さないポーカーフェイス、それ自体が冷淡さを醸し出してしまう裏側には、苦労人ならではの果断さがあるのだといえよう。じつは感情を圧し殺すためにこそ、あの「粛々とした」冷淡さがあるのだと読み解くことができる。しかしその隠された感情が噴出するとき、思わぬ行動に出ることが危惧される。たとえばの話だが、支持層を失いつつある米トランプ政権が選挙パフォーマンスのために対中国強硬策に出るとき、あるいは北朝鮮にたいする何らかの軍事行動に出るとき。危機に弱い安倍総理に代わって、とんでもない強硬策に便乗する「果断さ」を、この政治家は持っていると指摘しておこう。

▼横山茂彦(よこやま・しげひこ)

編集者・著述業・歴史研究家。歴史関連の著書・共著に『合戦場の女たち』(情況新書)『軍師・官兵衛に学ぶ経営学』(宝島文庫)『闇の後醍醐銭』(叢文社)『真田丸のナゾ』(サイゾー)『日本史の新常識』(文春新書)『天皇125代全史』(スタンダーズ)『世にも奇妙な日本史』(宙出版)など。医科学系の著書・共著に『「買ってはいけない」は買ってはいけない』(夏目書房)『ホントに効くのかアガリスク』(鹿砦社)『走って直すガン』(徳間書店)『新ガン治療のウソと10年寿命を長くする本当の癌治療』(双葉社)『ガンになりにくい食生活』(鹿砦社ライブラリー)など。

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『NO NUKES voice』Vol.24 総力特集 原発・コロナ禍 日本の転機

山口県萩市にあるアルミ素材メーカーの工場で働いていた鹿嶋学は2004年10月5日、自暴自棄になり、会社を辞めて東京に向かう途中、広島県廿日市市の路上で見かけた高校2年生・北口聡美さんをレイプしようと考えた。そして聡美さん宅に侵入したが、聡美さんが逃げようとしたために持参したナイフで刺殺。さらに聡美さんの祖母ミチヨさんの背中などを刺して重傷を負わせ、聡美さんの妹で小学6年生のA子さんを追いかけ回し、一生消えないようなトラウマを与えた。

3月4日、広島地裁で開かれた裁判員裁判の第2回公判。鹿嶋はこのような犯行の経緯を打ち明けたのち、犯行後の行動も詳細に語った──。

◆ホームセンターで両手や顔についた血を洗い、服も着替えた

「小さい女の子(A子さんのこと)を追いかけ、追いつけずに追うのをやめた後は原付で再び東京方面に向かいました」

弁護人から犯行後の行動を質問されると、鹿嶋はそう答えた。そして原付を東へ走らせる途中、まずホームセンターに立ち寄ったという。

「ホームセンターに立ち寄ったのは、両手と顔についていた血を洗うためでした。服にも血がついていたので、この時に服も着替えました。血がついていた服はその後、橋の上から川に捨てました」

こうして証拠隠滅を済ませると、鹿嶋は引き続き、野宿を繰り返しながら原付で東京へと向かった。弁護人からその時の気持ちを聞かれ、こう答えている。

「3日間くらいはすごく後悔し、嫌な気持ちになっていました。何も食べずにずっと原付を東へ走らせました」

被告人質問では触れられなかったが、10月だから、野宿は寒かったはずである。それでも鹿嶋は2週間くらいかけ、東京にたどり着いている。東京到着までにそれほどの時間を要したのは、単純に「急ぐ理由がなかったから」だったという。

そして東京到着後、鹿嶋は重大なことに気づく。それは、「東京で何もすることがない」ということだ。

弁護人から「あなたは何のために東京に行ったのですか」と質問され、鹿嶋は「最初は…」と言い、しばらく沈黙した後、こう答えた。

「なんとなく、漠然と東京に行くことだけを考えていたのだと思います」

鹿嶋が東京に行こうと思ったのは、下関市で暮らしていた子供の頃、温泉に入るために自転車で東京から下関に訪ねてきた人物がいたのを思い出したためだった。元々、東京に何か目的があったわけではない。とはいえ、東京到着までに2週間もあったにも関わらず、この間に東京到着後のことを何も考えていないというのは、やはり思考回路に人と違うところがあるのだろう。

未解決事件としてテレビでも取り上げられていた(2015年6月12日放送のフジテレビ「金曜プレミアム・最強FBI緊急捜査SP日本未解決事件完全プロファイル」より)

◆東京で所持金が無くなって「飢え死に」が怖くなり……

「東京では、お金が無くなるまで適当に原付を走らせるなどして過ごしていました」

弁護人から東京到着後の行動を質問されると、鹿嶋はそう答えた。そして所持金が無くなると、不安な思いにとらわれたという。

「お金が無くなり、何も食べられず、5日間くらい過ごして、飢え死にするのではないかと怖くなりました」

そして鹿嶋が選択したのは、実家がある山口県の宇部市に帰ることだった。そのために鹿嶋は、上京前に「餞別」として5万円をあげていた友人に電話し、銀行口座に金を振り込んでもらった。その金によりバスで宇部に帰ったという。ちなみに上京する前、地元にはもう戻らないつもりで携帯電話は川に捨てていたので、友人に電話をかける際はパン屋で電話を借りたという。

当時の新聞では、広島県警は事件発生当初、現場周辺を中心に犯人の足取りを追っていたと報じられている。その間に犯人が野宿を重ねながら原付で上京し、山口の実家にバスで戻っていたなどとは、県警の捜査員たちは当時、想像すらできなかったはずだ。犯人の鹿嶋の行動があまりにも特異で、合理性を欠いていたことは、この事件が13年半も未解決だった要因の1つだろう。

事件が未解決の頃の報道には、今思うと的外れなものも……(2015年6月12日放送のフジテレビ「金曜プレミアム・最強FBI緊急捜査SP日本未解決事件完全プロファイル」より)

◆事件後に就職した会社の社長との思い出を話し、感極まる

宇部に帰った後、鹿嶋は実家で生活し、2004年12月に土木関係の会社に就職した。そして逮捕される2018年4月まで13年余り、この会社に勤め続けている。弁護人から、「なぜ、長く働き続けられたのですか?」と質問され、鹿嶋はこう答えている。

「今の社長は自分と4歳くらいしか離れていない人ですが、自分が車の免許をまだ持っていない頃には、毎日のように帰りにビールを1杯おごってくれました。自分は、ロクに話もせんのに……」

ここまで話すと、鹿嶋は感極まって沈黙したが、嗚咽しながらこう続けた。

「今の社長の親父さんも、自分が免許を取ったら車をタダでくれたりして…その頃、自分はまだ入社して1年くらいしか経っていなかったのに…そういう人たちに出会えたからだと思います」

毎日、仕事の後にビールを1杯おごってくれるくらいの社長はいくらでもいそうだし、車をタダでもらったという話も「処分することが決まっていた古い車」を与えられただけである可能性を感じた。しかし、前回までに触れてきた通り、鹿嶋は少年時代から血のつながらない父親との関係が複雑だったうえ、高校卒業後に就職し、事件直前まで勤めていた会社も「ブラック企業」と呼ばれて仕方のないような会社だった。それゆえに、社長たちの優しさが深く身に染みたのだろう。

こうして鹿嶋は地元宇部で普通の市民として生活し、警察の捜査が及んでくる気配はまったく無いまま、事件から13年半の月日が流れた。この間、「廿日市女子高生殺害事件」は日本全国でも有名な未解決事件の1つとなり、しばしばメディアで取り上げられたが、鹿嶋は事件のことを思い出さないようにしていたという。(次回につづく)

《関連過去記事カテゴリー》
 廿日市女子高生殺害事件裁判傍聴記 http://www.rokusaisha.com/wp/?cat=89

【廿日市女子高生殺害事件】
2004年10月5日、広島県廿日市市で両親らと暮らしいていた県立廿日市高校の2年生・北口聡美さん(当時17)が自宅で刺殺され、祖母のミチヨさん(同72)も刺されて重傷を負った事件。事件は長く未解決だったが、2018年4月、同僚に対する傷害事件の容疑で山口県警の捜査対象となっていた山口県宇部市の土木会社社員・鹿嶋学(当時35)のDNA型と指紋が現場で採取されていたものと一致すると判明。同13日、鹿嶋は殺人容疑で逮捕され、今年3月18日、広島地裁の裁判員裁判で無期懲役判決を受けた。

▼片岡健(かたおか けん)
全国各地で新旧様々な事件を取材している。原作を手がけた『マンガ「獄中面会物語」』【分冊版】第9話・西口宗宏編(画・塚原洋一/笠倉出版社)が配信中。

最新刊!月刊『紙の爆弾』2020年9月号【特集】新型コロナ 安倍「無策」の理由

「絶望の牢獄から無実を叫ぶ ―冤罪死刑囚八人の書画集―」(片岡健編/鹿砦社)

◆デビュー戦は負ければいい!

石井宏樹(いしい・ひろき/1979年1月16日生)は名門・目黒ジムから生まれた念願のムエタイ殿堂チャンピオン。4度目の挑戦でキックボクシングの聖地から打倒ムエタイを果たした。その因果応報は周りから愛された結果、現在も注目される存在感が続いている。

デビュー戦を控えて藤本コーチの指導を受ける(1996.1.8)

デビュー戦は藤田純にKO勝利(1996.1.28)

15歳の春、高校入学すると同時に目黒ジム入門。デビューが近い1995年暮、当時トレーナーの藤本勲氏が言った。「こいつは天才、ムエタイのチャンピオンになるよ!」

17歳直前、機敏に動く石井宏樹。蹴りが速い。デビュー前から小野寺力のような動き。藤本トレーナーが言う意味が分かる気がした。入門前は何をやっていたのか尋ねてみると、「中学時代は、野球と卓球をやっていました!」と語る。速い球を追うことで反射神経を養ったのだろう。

目黒ジムに入った切っ掛けは、「家が近くて、昔、親父がボクシングやってた影響で、子供の頃に手を引っ張られてガラス張りの目黒ジムまで観に行かされていました。その後、中学に入る頃から太りだしたので高校に入ったタイミングでダイエットがてら入門しました!」

家が近い、お父さんがボクシング経験あり、ガラス張りの目黒ジム、これはもう運命の導きしかない。

そんな頃、「デビュー戦は負ければいい!」という当時の目黒ジム、野口和子代表の声も聞かれた。「この子は今のうちに負けの辛さを味わった方がいい。でも必ず這い上がってくるよ!」と読めたからだった。

1996年1月28日、そのデビュー戦は3ラウンドKO勝利。しかしその後判定で2連敗。周囲からは予想できた試練だが、当の本人にとってはかなり辛いものだったようだ。

日本ライト級チャンピオンベルトを巻いて披露(2000.1.23)

鷹山真吾(尚武会)を倒して日本ライト級王座獲得(2000.1.23)

石井宏樹は後々、「デビュー戦をKO勝利し、このまま連勝街道だと調子に乗っていた矢先に連敗しました。 技術的な反省よりも、完全にプロの世界や人生を舐めていましたね。 鼻っ柱を折られた結果となってプロの世界は辞めようと思いました。

そんな中、当時憧れだった小野寺力先輩に、“辞めるのは簡単だ、もう一度死ぬ気でやってみたら”と声をかけて頂き、その言葉が有難く、絶対諦めないで続けようと決心しました!」と語っていた。

次なる試練はKO率の低さ。

「連敗後は判定勝利が続き、何でも出来るけど一発が無い、“器用貧乏だ”と言われていた時期はとても悩みました。自分には“これ!”といった必殺技は持ってないので、攻防を進める中で今相手が何をやられたら嫌なのか考えながら、そこを突いて行くスタイルで倒して行きました!」

研究を重ねる努力。それは長い年月を要するものだった。

◆ムエタイの壁

判定勝利が続く中、2000年1月23日に日本ライト級王座挑戦。チャンピオンだった鷹山真吾(尚武会)を豪快に倒し、ようやく二つ目のKO勝ち。初のチャンピオンベルトを巻いた。

順調に防衛を重ね、2005年8月22日に国立代々木第2体育館に於いて、念願のタイ国ラジャダムナン系ライト級王座に挑戦。チャンピオンのジャルンチャイ・チョー・ラチャダーゴンには僅差の判定負けで王座奪取は成らず。しかしこの僅差が厄介な壁となるムエタイの難しさ。

2007年7月までに日本ライト級王座は8度防衛まで伸ばした後、スーパーライト級での頂点目指し返上。

2008年3月9日、ラジャダムナン王座再挑戦。階級上げた慣れぬ体格差があったか、チャンピオンのシンマニー・ソー・シーソンポンに判定負け。

更にタイ選手に4連勝(3KO)した後、2010年3月22日には現地、ラジャダムナンスタジアムで3度目の挑戦となるスーパーライト級王座決定戦に出場。ヨードクンポン・F・Aグループに僅差の判定負け。キックルールなら優勢な印象も、ムエタイの壁が立ちはだかる厳しさだった。

「ここで獲らなければ次はもう無いという覚悟と、現地で獲れば本物だという気持ちが強かったので、是が非でも勝ちたかった。ギャンブラーが自分に賭けてくれて、一生懸命応援してくれるのを感じ、武者震いしたのを覚えています!」

石井宏樹は、新日本キックボクシング協会が1999年から2003年迄、年一回行なっていたイベント「Fight to MuaiThai」で4度ラジャダムナンスタジアム出場しており、現地では全くの無名ではなかった。ここでは賭けが成立する存在感が大事。ギャンブラー達は石井宏樹のテクニックを覚えていたのだった。

ラジャダムナンスタジアム初登場は判定負け(2000.12.3)

◆思わぬ試練

善戦したラジャダムナンスタジアムでの挑戦で、2010年7月25日は再挑戦への道が与えられた査定試合で、パーカーオ・クランセーンマーハーサーラカームに第2ラウンド、ヒジ打ちで倒され初のノックアウト負け。この結末は誰も予想しない力無く倒れる石井らしくない展開だった。これで石井は終わったと思われたムエタイ殿堂王座への道。

「相手のヒザ蹴りをモロに受け、その瞬間に小腸が破裂していたようです。 お腹は痛い感覚は無かったのですが、試合を続けている中、急激にスタミナも無くなり、ガードを上げる力も薄れて最後はヒジ打ちを貰い倒れてしまいました。 控室に帰っても何故負けたのかも分からず、その後、後楽園ホールを出て、応援して頂いた仲間に挨拶しに向かおうと思った時に、お腹に激痛が走り動けなくなり、そのまま病院に向かい緊急手術となりました。 “もう少し運ばれて来るのが遅かったら死んでいましたよ”と医者に言われました。 まさに九死に一生でした!」

藤本勲会長からは「また挑戦しよう。ラジャダムナンのベルトは俺らの夢だから!」と諦めないでずっとサポートしてくれたことが、気持ちがブレずに突き進めたという。

応援し続けてチャンスをくれた藤本勲会長とのツーショット(2011.10.2)

◆念願のムエタイ王座奪取!

その後3連勝(2KO)し、チャンスは4度びやって来た。2011年10月2日、後楽園ホールでのラジャダムナンスタジアム・スーパーライト級王座決定戦で、アピサック・K・Tジムと対戦。判定だがノックアウトするより難しいと言われるテクニックで、現地審判団を唸らせ、越えられなかった壁を打ち破る勝利で王座獲得。

「今のままの練習ではタイのチャンピオンには勝てないと思い、初めてラジャダムナン王座に挑戦した時の対戦相手、ジャルンチャイを練習パートナーとして日本に呼んで貰い、二人三脚で4度目の挑戦に挑みました。彼なら僕の癖も知り、日本人がムエタイを破る方法も知っているのではないかという狙いでした。彼の指導で毎日朝晩と練習を積み重ねて行くうちに彼と一緒にいれば必ず勝てると言う確信が持てました!」

この勝利は評価が高かったが、まだ“防衛してこそ真のチャンピオン!”と言われる目黒ジムの掟があった。2012年3月11日、ゲーンファーン・ポー・プアンチョンの挑戦を受け、またも蹴りの技術と戦略で優って判定勝利で初防衛。外国人チャンピオンでは初の快挙だった。

2012年9月15日、プラーイノーイ・ポー・パオイン戦は、パンチで圧倒ノックアウトし2度目の防衛。残された課題は現地スタジアムでの防衛であった。

防衛後のリング上で「次はタイでやります!」とマイクで宣言した石井宏樹だが、プロモーターである伊原信一代表は「いずれ必ず現地で防衛戦やらせるから!」と言う約束の下、あと一回、日本での防衛戦を用意された2013年3月10日、残念ながらエークピカート・モー・クルンテープトンブリーにヒジ打ちを貰ってノックアウト負けで王座を失ってしまった。

4度目の挑戦で技術でアピサックに圧倒、念願のムエタイ王座獲得(2011.10.2)

◆受け継がれる完全燃焼

引退か再起か。石井宏樹はここで「現役はあと3戦!」と標準を定めた。

その最終試合となったのは、2014年2月11日、先輩の小野寺力氏が主催する大田区総合体育館での「NO KICK NO LIFE」興行。WPMF世界スーパーライト級王座決定戦で、知名度抜群のチャンピオン、ゲーオ・フェテックスとの対戦となった。5ヶ月前には梅野源治も倒されている過去いちばんの強豪。

「小野寺さんに“ゲーオとやるか?”と言って頂いた時は“やります!”と即答しました。 そして目黒スタイルである、引退試合は最強の相手を迎える伝統を受け継ぎ、現役最後の集大成で悔いの残らない試合をする事だけを考え、守りに入らず自分から攻めに行った結果、第2ラウンド、カウンターの左ハイキックで散りました。 もう何もやり残したことはなく、現役生活何一つ悔いが残らず引退することが出来ました!」

最終試合はゲーオに倒される完全燃焼(2014.2.11)

目黒ジムの先輩、飛鳥信也氏から始まった最強相手に完全燃焼の引退試合は確実に継承されていた。

2014年12月14日には引退テンカウントゴングに送られリングを去り、RIKIXの百合ヶ丘支部と大岡山本部ジムで交互にトレーナーを務める日々となった。

引退セレモニーで感謝を述べる(2014.12.14)

多くの縁が繋がって来た結果、2015年2月11日から「NO KICK NO LIFE」興行でのテレビ解説者として起用され、再びファンの注目を浴びる立場で実力発揮(後にKNOCK OUT興行に移行)。

「まさか自分が引退後、解説者になるとは思ってなかったです!」という石井宏樹。

「現役の頃は他人の試合はほとんど見なくて、解説者というお仕事を頂いてから選手の試合をたくさん見て勉強するようになりました。 今でも喋るのは苦手ですが、元々人間観察は好きなので、解説は嫌いな仕事ではないですね!」

石井宏樹は元々頭の回転が速く、スラスラとトークが進む奴。選手の心理を読む分析力も抜群。キックボクシングを続けて来た因果は、今後もテレビ解説以外でも多くのメディアに登場するであろう名チャンピオン、石井宏樹である。

私生活では2008年に支援者の紹介で知り合った彼女と2016年に結婚し息子さんが誕生。やがて物心ついた頃、息子さんの手を引いてジムに通うのだろう。

解説者としてのデビュー戦は堂々たる語り口(2015.2.11)

▼堀田春樹(ほった・はるき)[撮影・文]

フリーランスとしてキックボクシングの取材歴32年。「ナイタイ」「夕刊フジ」「実話ナックルズ」などにキックのレポートを展開。ムエタイにのめり込むあまりタイ仏門に出家。座右の銘は「頑張るけど無理しない」

最新刊!月刊『紙の爆弾』2020年9月号【特集】新型コロナ 安倍「無策」の理由

一水会代表 木村三浩 編著『スゴイぞ!プーチン 一日も早く日露平和条約の締結を!』

上條英男『BOSS 一匹狼マネージャー50年の闘い』。「伝説のマネージャー」だけが知る日本の「音楽」と「芸能界」!

『紙の爆弾』9月号が8月7日発売になりました。力の入った記事ばかりですが、私のイチ押しは、岡本萬尋「出て来りゃ地獄へ逆落とし 古関裕而の軍歌を聴く」(連載「ニュースノワール」第64回 特別編)と、昼間たかし「政治屋に売り飛ばされた『表現の自由』の末路」です。

 

最新刊!月刊『紙の爆弾』2020年9月号【特集】新型コロナ 安倍「無策」の理由

岡本の連載は、気づくともう64回、近く書籍化の予定です。岡本は元朝日新聞の記者です(また、朝日か。苦笑)。古関裕而は、ご存知の通りNHK朝ドラの『エール』のモデルとなっていますが、これもみなさんご存知『六甲おろし』や『栄冠は君に輝く』などを作曲しています。しかし軍旗はためく時代には数多くの軍歌を作曲し戦意高揚に多大の貢献をしています。準A級戦犯といっていいんじゃないでしょうか。

ここで、私が思い出したことが2つあります。1つは、かつて国民的女優・沢村貞子の生涯を描いた『おていちゃん』(1978年)もNHK朝ドラの1つでしたが、沢村貞子は、古関裕而が軍歌作曲にいそしんでいた頃、演劇運動に没頭し、治安維持法で逮捕・勾留されています。戦中のことですから、私の逮捕・勾留とは全く違って厳しいものだったと想像できます。この公判の場面が『おていちゃん』に出てきました。「私はこれからも文化運動に頑張ります」というようなことを陳述しています。「えーっ、NHKも粋なことをやるもんだ」と感じ入った次第です。『おていちゃん』から40数年経って今後の『エール』の展開がみものです。

もう1つは、『私は貝になりたい』(1958年)という民放テレビドラマです。私と同世代(より以前の世代)の方にはよく知られたドラマです。主人公は、嫌々ながら徴兵された田舎の散髪屋でC級戦犯、上官の命令で捕虜を殺傷しようとして軽傷を負わせたということで、戦後逮捕され死刑判決を受けます。実話から採ったドラマで、非常に衝撃を受けたことを今でも覚えています。2008年に中居正広、仲間由紀江らでリメイクされたので覚えておられる方もおられると思います。この主人公に比べれば、古関裕而の罪は遙かに大きいと言わざるをえません。

昼間の渾身の記事のうち、私が畏れ入ったのは後半の「無礼と陰気に満ちた反ヘイト活動家の実態」の箇所です。昼間たかしとは旧知ですが、正直彼がこういう文章を書くとは思ってもいませんでした(失礼!)。

昼間を有名にしたのは『コミックばかり読まないで』(2005年、イーストプレス)でしょう。これは「長年、マンガやアニメを中心に表現の自由にまつわるルポルタージュを何本も書いてきた」体験をベースにしたものということですが、今では「一時はライフワークとも考えた『表現の自由』というテーマは、何も魅力がないものとしか見えなくなってしまった」といいます。『コミックばかり~』から5年の間に昼間の周辺に何が起きたのでしょうか? ぜひご一読ください。

月刊『紙の爆弾』2020年9月号より

最新刊!月刊『紙の爆弾』2020年9月号【特集】新型コロナ 安倍「無策」の理由

◎目次概要https://www.kaminobakudan.com/

福島第一原発事故で全町避難を強いられた福島県双葉郡浪江町で7月31日、仮設商店街「まち・なみ・まるしぇ」が幕を閉じた。まだ避難指示部分解除前の2016年10月にオープン。避難指示部分解除後の2017年4月には、安倍晋三首相が訪れて「なみえ焼きそば」を食べてみせた。翌8月1日には「道の駅なみえ」が華々しく開業したが、仮設商店街から道の駅に出店する店舗はゼロ。切り捨てられた格好の店舗からは「道の駅に優先的に入れてやるという話だったのに……」と怒りの声があがっている。

8月1日、華々しくオープンした「道の駅なみえ」。しかし、仮設商店街から移った店はゼロだった

◆町長「大いに貢献された」

7月31日夕、浪江町役場横の「まち・なみ・まるしぇ」で、感謝状の贈呈式が行われた。吉田数博町長が10店舗の代表者一人一人に手渡した。

「皆さんが先駆者として仮設商店街に出店いただき、町民の帰還意欲につなげていただいた。大変な御苦労が多かったと思うが、おかげさまで今は160を超える飲食店や工場が町内で再開している。皆様方のご尽力の賜物だ」と吉田町長。休憩ずる場所も無く、食事も買い物も満足に出来なかった浪江町内で、一時帰宅した町民のために営業を続けてきた仮設商店街。関係者のみの小さなセレモニーを経て、ひっそりと幕を閉じた。感謝状には次のように綴られていた。

「あなたは東日本大震災および福島第一原子力発電所の事故により甚大な被害を受けた町の商業機能回復にご協力を賜り、町民の生活環境の向上に大いに貢献されました。よって、その御厚意に対し、心より感謝の意を表します」

2016年10月に盛大にオープンした時とは異なり、取材に訪れた記者は筆者の他に地元紙の2人だけ。テレビカメラは1台も無かった。仮設商店街の目の前にはイオンも出来た。

贈呈式後、取材に応じた吉田町長は「一応、今日を節目にしたい。そうでないとけじめがつかない。道の駅に入りますか、という話もしたが、町内に店を構える人もいるし、高齢だからもう良いよという人もいた。場所代を納める体力が無いという話もあった。運営会社を維持するために売り上げの20から25%を納めていただく必要がある。こういう田舎では高いなという気もするが、全国の道の駅の状況を考慮して率を決めたようだ。仮設商店街から一つのお店も道の駅に入らないのは寂しいですけどね」と話した。

そう、仮設商店街から道の駅に引っ越して営業を続ける店舗はゼロなのだ。「感謝」の言葉が飛び交う一方で、道の駅に受け皿は用意されていなかったのだ。

吉田町長から各店舗に贈られた感謝状。3年半の〝功績〟を称えているが、切り捨てられた格好の店側からは怒りの声もあがっている

◆店舗「切り捨てられた」

浪江町商工会の関係者が怒りをこめて話す。

「道の駅に移って営業を続ける店はゼロ。誰も行きません。『いいたて村の道の駅までい館』と全く同じですね。まあ、同じコンサルタント会社が担当したようですから、そうなるのでしょう。しかし誰がこうしてしまったのだろう。町長なのか議会なのかコンサルタント会社なのか……。様々な利権が絡み合っているのでしょうね。こうなる事で得をしている連中がいるのでしょう。前の町長と今の町長をうまく操った奴がいるんですよ。始める時は『道の駅に優先的に移れる』というふれこみだったが、途中から変わってしまった。だから皆、怒っているんです。感謝状なんか要らねえよって」

ある店舗の関係者は「道の駅を地元の人みんなで作り上げていくという感じじゃ無いですね。なぜ道の駅に出店しなかったのか? 手数料? 場所代? 運営会社に納めるお金が高くて払えないからですよ。いずれは道の駅に入れるという事で、赤字覚悟で営業を始めたのにね…。結局は切り捨てられたんですよ。そういう社会なのだから仕方ないですね」と肩を落とした。「切り捨てられた」という言葉が重い。

別の店舗は「お役御免」という表現を使った。

「そっくりそのまま道の駅に移る事になるのだろうって、私たちもそう思っていたんです。だから赤字でも皆で3年半、一生懸命頑張ってきた。でも、道の駅の説明会に行ってみたら全く話が変わっていた。7月いっぱいで出て行ってください、もう役目は終わったから、と。新しい場所が見つかるまではお貸ししますけどなるべく早く出て行ってください、という事になっていたんです」

「役場も完全に道の駅にシフトしちゃったんですね。結局、道の駅が出来るまでの体の良い〝つなぎ〟だったんだね。だから私たちは〝お役御免〟なんです。本当は今日で出て行かなければいけないんだけど準備が間に合わなかった、ここでしばらく営業を続けます。明日からは家賃と光熱費が発生します。家賃は3万円だったかな。確かに安いけど3万円売り上げるって大変なんですよ。人件費もありますしね」

◆町議「いつまでも甘えるな」

「皆さん、町内の生活環境が全く不十分な時期に創業いただきました。まだイオンも何も無い時期でした」

浪江町産業振興課の担当者は10店舗に感謝しつつ、当初からの予定通りだと繰り返した。

「元々、仮設の商業施設という事で、期限を区切っているという事は承知の上で入居していただいているはずです。未来永劫あそこで営業出来るという事ではありません。『なるべく早く出て行ってください』と、そこまで強烈な言い方をしているかどうかは分かりませんが、7月末をもって機能を終了するという事は以前から伝えています。道の駅と併存する事はありません」

「様々な事情があってしばらく残る場合には、いつまでも家賃無償というわけにもいきません。町内で事業を再開している方々が増えてきている中で、公平性を確保しなければいけないという観点もあります。一つのターニングポイントとして、8月1日以降は一定程度の負担をしていただきます。具体的に終了の時期が迫ると様々なご意見が出るのでしょう。いずれにしても、初めから期限を区切ってのスタートだったのです」

ある町議はさらに厳しい言葉でこう語った。

「今までタダでしょ。いつまでも甘えるなって事ですよ。当たり前じゃないですか。町内で事業を再開した人たちは全員、お金を払ってやってるわけですから。今まで家賃がタダだっただけでも……。これ以上、まだ甘えるの?いつまでも甘えるなって。仮設商店街に町は年間5000万円かけてたんだよ。ここで全員、店を閉めて退去するべきだと思いますよ」

別の町議は「悔し紛れにいろいろと言ってるんでしょ」と相手にしていない。原発避難者の住宅問題と似た構図がここにもあった。

仮設商店街の一角でカフェ「コスモス」を営んできた高野洋子さんは、馬場有前町長(故人)とは保育所からの同級生だという。

「『仮設商店街を始める事になったんだけど、やってくれる人が全然いない。誰かいないかな』って有(たもつ)に相談されてね。それで手を挙げたのよ」

役場近くには立派なホテルが出来た。道の駅の営業も始まった。一方で家屋解体が進み、さら地は増える一方。町立5校も年内には取り壊される。そして仮設商店街も。これが馬場前町長の描いた「町残し」のあるべき姿なのだろうか。

「まち・なみ・まるしぇ」のリーフレット。故・馬場町長は「町にとっての復興のシンボル」と綴っていた

▼鈴木博喜(すずき ひろき)

神奈川県横須賀市生まれ、48歳。地方紙記者を経て、2011年より「民の声新聞」発行人。高速バスで福島県中通りに通いながら、原発事故に伴う被曝問題を中心に避難者訴訟や避難者支援問題、〝復興五輪〟、台風19号水害などの取材を続けている。記事は http://taminokoeshimbun.blog.fc2.com/ で無料で読めます。氏名などの登録は不要。取材費の応援(カンパ)は大歓迎です。

『NO NUKES voice』Vol.24 総力特集 原発・コロナ禍 日本の転機

月刊『紙の爆弾』2020年8月号【特集第4弾】「新型コロナ危機」と安倍失政

誰もがいくばくの不安や、気持ち悪さを共有しているであろう、珍しい光景。それもこの国だけではなく、ほぼ世界すべての国を覆いつくしているCOVID-19(新型コロナウイルス)。

「緊急事態宣言」と、大仰な「戒厳令」もどきが発せられたとき、報道機関は一色に染まり、この疫病への恐怖と備えを煽り立てたのではなかったか。あれは、たった数か月前の光景だった。為政者の愚は使い物にならないマスクの配布に象徴的であった。安倍が「無能」あるいは「有害」であることを、ようやくひとびとが理解したことだけが、この惨禍の副産物か。

いま、ふたたび(いや、あの頃をはるかに凌ぐ)感染者が日々激増している。「接触する人の数を8割減らしてください」と連呼していた声は、どこからも聞こえない。それどころか、国は感染対策をきょう時点で、まったくといってよいほどおこなっていない。毎日感染者は激増するだろう。そして都市部から順に医療は崩壊する。COVID-19(新型コロナウイルス)による死者は春先に比べて、少ないようではあるが、医療機関内の混乱とひっ迫に変わりはない。

たった数か月前の「緊急事態」すら発した人間も、発せられた人間も、あの時のことを忘れてしまったのか。そこまで人間の頭脳は、「記憶」機能を失なったのか。

数か月前を想起できないのであれば、75年前を肉感的な事実として、想像したり、それについて思索を巡らすことなど、望むべくもないのだろうか。

残念ながらわたしの体は、それを許さない。

あの日、広島市内で直撃を受けながら生き永らえ、50歳過ぎに癌で急逝した叔父から聞いた、あまたの逸話。その叔父だけではなく同様にあらかじめ寿命が決まっていたかのように、50過ぎに次々と急逝していった叔父たち。そして高齢とはいえ、100万人に1人の確率でしか発症しない、といわれている珍しい癌に昨年罹患した母。担当医に「被爆との関係が考えられますか?」と聞いたが、「それはわかりません」とのお答えだった。それはそうだろう。お医者さんが簡単に因果関係を断言できるわけではない。

不可思議なのだ。長寿の家系……

ついにその足音はわたし自身に向かっても聞こえてきた。

長寿の家系であったはずの、母方でどうして「癌」が多発するのか。科学的因果関係などこの際関係ないのだ。わたしの記憶には生まれるはるか昔、経験はしていないものの、広島の空に沸き上がった巨大なキノコ雲と、その下で燃え上がった町や、焼かれたたんぱく質の匂いが現実に経験したかのようにように刻み込まれている。

人間はどんどん愚かになってはいないだろうか。記憶や想像力を失ってはいないか。

8月の空は悲しい。

▼田所敏夫(たどころ としお)

兵庫県生まれ、会社員、大学職員を経て現在は著述業。大手メディアの追求しないテーマを追い、アジアをはじめとする国際問題、教育問題などに関心を持つ。※本コラムへのご意見ご感想はメールアドレスtadokoro_toshio@yahoo.co.jpまでお寄せください。

月刊『紙の爆弾』2020年8月号【特集第4弾】「新型コロナ危機」と安倍失政

『NO NUKES voice』Vol.24 総力特集 原発・コロナ禍 日本の転機

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