糸口が見つかると、そこから連鎖が起きて事件が拡大することがある。煙草の副流煙で「受動喫煙症」になったとして隣人が隣人を訴えた横浜副流煙裁判で新しい動きがあった。日本禁煙学会の作田学理事長と共に意見書を提出して原告を支援した宮田幹夫・北里大学名誉教授の医療行為に汚点があるとする内部告発が筆者のもとに寄せられたのだ。

 

宮田幹夫・北里大学名誉教授

既報してきたように、横浜副流煙裁判では作田医師が作成した診断書が信用できないしろものではないかとの疑惑が浮上した。原告の請求は棄却され、作田医師は刑事告発された。警察の取り調べ後に検察へ書類送検された。不起訴になったものの、検察審査会が「不起訴不当」の判断を下した。

患者の自己申告に基づいて所見を作成し、しかも現地を取材することなく煙の発生源を特定していたからだ。診断書交付の手続きにも、医師法20条(無診察による診断書交付の禁止)に違反するなどの汚点があった。

こうして捻じ曲げられた診断書を根拠に原告の患者らは、隣人に対して裁判へと暴走し、4518万円の金銭を請求したのである。

この裁判で原告は、宮田医師が交付した診断書も裁判所に提出した。宮田医師はその診断書に化学物質過敏症の病名を付していた。

この診断書自体が患者の自己申告による根拠に乏しいものだという証拠はなにもないが、宮田医師について筆者は、容易に化学物質過敏症の診断書を交付してくれる医師であるという評判をたびたび聞いていた。

11月に、化学物質過敏症の治療を行っているあるひとりの医師から筆者のもとに内部告発があった。宮田医師が安易に化学物質過敏症の病名を付した診断書を交付するというのだ。筆者は、告発者の酒井淑子(仮名)医師から、その裏付け証拠を入手した。

 

5省庁(消費者庁、文部科学省、厚生労働省、経済産業省、環境省)が制作した香害」防止を呼び掛けるポスター

◆化学物質過敏症とは診断できず

酒井医師は、具体例として患者A(女性40代)のケースを報告した。Aさんは、社労士を同伴して酒井医師の外来を受診した。化学物質過敏症を理由に障害年金を申請するので、化学物質過敏症の病名を付した診断書を交付してほしいというのだった。治療を受けることは希望していなかった。Aさんは、酒井医師の外来を訪れる前には、他の医療機関を転々としていた。酒井医師が言う。

「入室するなり、この場所にいるとしんどいとか、窓を開けてとか、様々な症状を訴えておられました。当院は患者さんに配慮してかなり無香料にしていますが、化学物質過敏症になったことがある私にも感じられない臭いを訴えておられました。ジェスチャーも派手でした。診断書を交付してもらえるかどうかをずっと心配しておられました」

ちなみに酒井医師によると、Aさんに同伴した社労士が着ていた衣服から柔軟剤の臭いがしたという。

酒井医師は問診を行った後、Aさんを検査した。最初に神経経路に異常がないかを確かめるために眼球運動の検査を実施した。患者にランプの光を目で追ってもらい、反応を確かめる。Aさんは「見えない」「追えない」と繰り返すだけで、目で光を追う努力をしない。酒井医師が、「これでは診断書は書けませんよ」と注意すると大声で泣き始めた。

「わたしは、Aさんに『頑張ってランプを追いかけてくれた方が悪い所見が取れるから』と言って再検査を行いました。検査の結果は、念のために知り合いの専門家にもアドバイスを求め、最終的に化学物質過敏症とは診断しませんでした。受診するときの様子からして心因性の疾患を強く疑いました」

◆診断書を「エイヤッと書いております」

酒井医師から診断書交付を断られたAさんは、電車を乗り継ぎ、5時間かけて上京し、東京都杉並区にある宮田医師のクリニックを訪れた。そして宮田医師から化学物質過敏症の病名を付した診断書交付を受けたのである。これらのことは、後日、酒井医師が宮田医師のクリニックのスタッフと電話で話して判明した。スタッフはAさんについて、「一人でいらっしゃいましたよ」と言ったという。

宮田医師は9月に酒井医師に対して、Aさんの診断書交付について報告する書簡を送付してきた。それによると宮田医師も、心因性のものなのか、それとも化学物質過敏症であるかの判断に悩んだようだ。たとえば次の記述である。

「精神科の医師が診断書を書くか、私が書くか、だけの違いだと思って、エイヤッと書いております」

「ともかく火の粉をかぶるつもりで、診断書を書かせて頂きました」

「何かありましたら、お馬鹿な宮田へ回して頂きたいと思います」

病状が明確に判断できないのに、「エイヤッ」で化学物質過敏症の診断を下し、その責任は自分が取ると言っているのだ。

その後、Aさんが実際に診断書を根拠に障害年金を申請したかどうかは不明だが、最初に酒井医師の外来を受診したとき、社労士を伴っていたことからしても、障害年金が目的で、診断書を入手しようとしていたことが推測できる。酒井医師が言う。

「本当に重症な化学物質過敏症であれば、5時間も電車に乗って宮田先生の外来まで行けないと思います」

筆者は宮田医師の外来を受診したひとを何人か知っているが、全員が化学物質過敏症の診断書を交付してもらったと話している。

◆市民運動・住民運動に客観性に乏しいデータは禁物

化学物質過敏症は客観的な病気のひとつである。それゆえに本当にこの病気に罹患して苦しんでいる患者は、障害年金などで手厚く保護しなければならない。しかし、心因性の患者が多いのも事実なのである。また、他の病気との区別が難しい。たとえば頭痛や吐き気やめまいといった症状は、化学物質過敏症に罹患していなくても現れるからだ。それを無視して、化学物質過敏症と断定してしまうと、病状の正確な実態と、患者の広がりの実態が客観的に把握できなくなる。

病状の原因が不明なのに、「エイヤッ」で診断書を交付することは、科学者の姿勢として間違っている。

 化学物質や電磁波による複合汚染の問題に取り組んでいる市民運動や住民運動は全国各地にある。宮田医師の診断書は、これらの運動の重要な根拠になってきた。しかし、その診断書に疑義があるとなれば、運動を破滅に追い込みかねない。客観的な事実を前提に運動を進めなくては、運動が広がらないだけではなく、深刻な2次被害を招きかねない。その典型が横浜副流煙事件なのである。

また障害年金などの不正受給に繋がりかねない。

筆者は宮田医師に対しAさんを化学物質過敏症と診断した根拠などについて、書面でコメントを求めた。回答は次の通りである。

「お問い合わせのありました化学物質過敏症の診断基準については、1999年に米国国立衛生研究所主催のアトランタ会議において、専門家により化学物質過敏症の合意事項が設けられております。こちらをご確認頂ければと思います」

1999年の合意事項とは、次の6項目である。

【1】化学物質への曝露を繰り返した場合、症状が再現性をもって現れること。

【2】健康障害が慢性的であること。

【3】過去に経験した曝露や、一般的には耐えられる曝露よりも低い濃度の曝露に対して反応を示すこと。

【4】原因物質を除去することによって、症状が改善または治癒すること。

【5】関連性のない多種類の化学物質に対して反応が生じること。

【6】症状が多種類の器官にわたること。

化学物質過敏症の診断は一筋縄ではいかない。診断に関する疑問が浮上した以上、学閥や派閥を排除してオープンな議論や論争を行うべきだろう。科学の世界に上下関係はないはずだ。さもなければ2次被害に繋がりかねない。

▼黒薮哲哉(くろやぶ・てつや)
ジャーナリスト。著書に、『「押し紙」という新聞のタブー』(宝島新書)、『ルポ 最後の公害、電磁波に苦しむ人々 携帯基地局の放射線』(花伝社)、『名医の追放-滋賀医科大病院事件の記録』(緑風出版)、他。
◎メディア黒書:http://www.kokusyo.jp/
◎twitter https://twitter.com/kuroyabu

黒薮哲哉『禁煙ファシズム-横浜副流煙事件の記録』

7日発売!タブーなきラディカルスキャンダルマガジン 月刊『紙の爆弾』2023年1月号

◆無名に終わったボクシング時代!

ガルーダ・テツ(武本哲治/1970年7月5日、岡山県備前市出身)はアマチュアボクシングからプロを経て、キックボクシングに転向。対抗団体エース格、小野瀬邦英に倒されてはまた挑み、同時期に活躍した別団体の立嶋篤史、小野寺力らとは違った荒くれ者的存在でも、実は心優しい、大阪が拠点のキックボクサーだった。

我武者羅に向かった小野瀬邦英戦初戦(1995年10月21日)

腕白な幼少期を過ごした小学生4年生の時、8歳上の兄がボクシングでインターハイ出場し、「兄貴が出来るなら俺も出来る」と、プロボクシングの世界チャンピオン目指し、高校入学とともにボクシング部へ入部。

16歳でのアマチュアボクシング初戦がルール知らない為の失格負け。オープンブローは注意されても分からなかったという無頓着ぶり。「俺が負けるわけがない!」と思っていた天狗の鼻へし折られて、ここからしっかりルールを勉強。バンタム級で国体岡山県2位(準優勝)まで進出。アマチュア戦績14戦8勝6敗。

1989年(平成元年)3月、高校卒業すると大阪で就職と共にプロボクシングを始め、同年7月18日、陽光アダチジムからバンタム級でプロボクシングデビューするも判定負け。

1990年、デビュー戦で負けた相手との再戦となった西日本バンタム級新人王トーナメント決勝に進むも、またも判定負けでの準優勝には落胆した挫折を味わった。
更にお祖母ちゃん子で育った武本哲治は大好きだった祖母の死去もあって、半年ほどボクシングから遠ざかった日々を過ごしたという。プロ成績6戦2勝3敗1分。

◆ガルーダ・テツ誕生!

翌年、知人にキックボクシング観戦に誘われた大阪府立体育会館で、「あっ、オモロそうやな、これやったら一番に成れる。これからはキックボクシングや!」と天職への新たな決意。

小野瀬邦英戦第2戦のリングに上がった直後の表情(1996年2月24日)

プログラムの広告は、大阪では勢力あった北心ジムが大きく掲載されていたが、「こういう募集広告がデカいところは行かん方がいい」と考え、大阪横山ジム入門。プロボクシングで所属した陽光アダチジムは、ちょっと理想と違っていて、そんな警戒心が働いた。

プロボクシングと比べればキックボクシングは人気・知名度は落ちるが、「この団体で一番になったる!」と当時存在した大阪拠点の日本格闘技キック連盟で、目標持ってジムに通うようになった。

1992年1月23日、フェザー級でのデビュー戦はローキックを凌げずKO負け。いずれのデビュー戦も敗北からのスタートとなってしまった。更にパンチからキックへの連係はなかなか難しく、2戦目は引分け。

そんな頃に心機一転、リングネームを付けようと当時トレーナーで元・プロボクサーのアンチェイン梶さんに相談すると、昭和のキック漫画にもあった“ガルーダ”を提案された。

「インド神話に登場する神の鳥」と言う意味があるらしいが、期待した名前ではなく、しかし先輩の好意に拒否も出来ず、本名の一文字を加えたガルーダ・テツとなったが、ここから飛躍できたことで、後々アンチェイン梶氏に感謝の念は強いと言う。

組織が確立したプロボクシングでは、JBC管轄下のしっかりしたルール・システムで運営されているが、その実態を見ているガルーダ・テツは、キックボクシングは何といい加減かと思う事態も経験。計量は一般家庭用ヘルスメーターで、柔らかい床で量ったりと、しっかり調整して来たのにアナログの目盛りがちょっとオーバーになって文句言おうもんなら「そんなこと言うんか?みんな平等やからな!」で抑え込まれてしまった。

「理不尽なこと沢山あったけど、これも運命と全てのことを受入れて、ただひたすら一番目指して頑張りました!」と語る。

小野瀬戦第2戦、得意のパンチでクロスカウンター(1996年2月24日)/テンカウントアウトされた瞬間の表情、悔しさが表れる(1996年2月24日)

◆小野瀬邦英との抗争!

ここから7連勝した1994年12月、西日本キックボクシング連盟が新たに設立された(前身は日本格闘技キック連盟)。関西のジムが集まって設立された北心ジム中心の団体だった。

この設立興行で、ガルーダ・テツはムエタイの強者、ピーマイ・オー・ユッタナーコーン戦を迎えることとなった。

「あの立嶋篤史や前田憲作に圧倒勝利した超一流ピーマイがこんな大阪の弱小団体にホンマに来るんかいな?」と半信半疑だったというガルーダ・テツは、本物ピーマイと対面するまで信じられなかったという。

「ピーマイの偽者ぐらい簡単に用意出来るやろう」と過去のキックボクシング界の替え玉説も耳にしていたガルーダ・テツ。ところが計量で視界に入って来たのは本物ピーマイだった。相手が誰だろうと全力で倒すことを信念で戦って来たガルーダ・テツも、ちょっと緊張が走ると共に俄然気合いが入ったのも当然だった。

この設立興行を前に思わぬ知らせが入っていた。ジムにFAXで送られてきたのは「西日本ライト級チャンピオン、ガルーダ・テツ」の肩書きと名前だった。

当時、東京の日本キックボクシング連盟で、関東vs関西の対抗戦が企画される中の、チャンピオンに認定される興行の都合だった。団体枠ではあるが、ひたすら目指したチャンピオンの座はタイトルマッチを迎えることなく紙切れ一枚で達成されてしまった。

その肩書きで同年12月20日、対峙したピーマイは距離の取り方が上手く懐が深い。視界に入って来ないような鋭いハイキックや脚を潰しに来る重いローキック、接近すれば吹っ飛ばされる前蹴りに翻弄されて判定負けに終わったが、東京進出に先駆け貴重な経験を積むことが出来た。

引退前の神島雄一戦は圧倒の判定勝利、この後引退宣言(2000年6月4日)

東京での初戦は翌1995年4月の佐藤剛(ピコイ近藤)戦。この佐藤剛とは後に再戦して2戦2勝。後に日本キック連盟ライト級チャンピオンとなる小野瀬邦英に対しては雑誌に挑戦状を送り付けて公開アピールしていた。何か批難すればよりヒートアップする互いの発言も過激で、初戦は1995年10月21日、「何かムカつく存在で、本当に殺してやろうか、って言うぐらいの気持ちで迎えましたよ!」というも捻じ伏せられてKO負け。

対小野瀬戦3戦目までは作戦を立てないのが自己流だったが、倒されるには原因があると、4戦目でしっかり作戦を立て、ローキックで小野瀬を倒せそうな流れも、ヒジ打ちで切られて逆転負け。ドクターに「ちょっと待ってよ!」と言っても待ってはくれなかった。「あと2発蹴ってたら倒れただろうに!」と悔しい敗北。

小野瀬邦英と同門の大塚一也(同・連盟フェザー級チャンピオン)には倒し倒され1勝2敗。

2000年6月、神島雄一(杉並)に判定ながら完勝したリング上で引退を表明。

「最後はこの男と戦わないと辞められへんと思っていたので、マイクでアピールしました。」と最後の相手として小野瀬邦英を指名。

同年12月の引退試合でも特攻精神は変わらず。小野瀬の猛攻にヒジ打ちで額を切られ、4度のノックダウンを喫しながら立ち上がった判定負けで、最後まで前に出続けた壮絶な完全燃焼。5戦して一度も勝てなかったが、負けても悪態付く為、小野瀬がより一層対抗してくれたことが知名度アップに繋がった良きライバルに巡り合えた現役生活だった。

特攻精神で挑んできた現役生活で、入場テーマ曲は「勇ましくリングに向かおうぜ!」という意気込みで「出征兵士を送る歌」などの軍歌は会場が異様なムードに包まれたが、荒くれ者キャラクター、ガルーダ・テツらしさがあった。プロキック戦歴:34戦16勝(8KO)14敗4分。

引退試合の小野瀬邦英戦、最後も容赦なく攻められた(2000年12月9日)/引退セレモニーにて、小野瀬邦英から労いの言葉が贈られた(2000年12月9日)

引退テンカウントゴング後、仲間らに胴上げされたガルーダ・テツ(2000年12月9日)/戦い終えた控室、横山義明会長とのコンビも抜群だった(2000年12月9日)

◆日本列島テツジム計画!

今年、大阪から東京進出して、2月20日に葛飾区立石でテツジム東京をオープン。

引退後の、2001年8月、岡山県備前市で始めたテツジム時代から今年10月29日に森井翼がNKBバンタム級王座奪取するまで計5名のチャンピオンを輩出。

過去には、2006年9月に岡山でテツジム主催初興行「拳撃蹴破」を開催し、2013年1月には大阪市都島区にテツジム大阪開設。現在、東京を軸に国内9ジム、韓国に1ジムを開設。今後、中国四国、北陸、九州、北海道にも進出して日本列島テツジム計画を目論んでいる。

また、ジム経営とプロ興行に留まらず、2015年11月、オヤジファイトのキック版、オヤジ・オナゴキックをスタート。東京では2019年5月26日にゴールドジムで初開催。通算20回ほどの開催に達している。

「イベントは1~2回やるのは簡単なんです。でも世間に浸透させるには何回も繰り返していかないと駄目なんです!」と“継続は力なり”を実践してここまで活動範囲を広げて来たガルーダ・テツ。ここまで来れたのはガルーダ・テツの優しい人柄が表れ、支援者が多かったのも事実だろう。東京での物件探しもジム経営は難しい条件下でも京成立石駅間近に見付けることが出来たのも仲間の縁。現在、小学校一年生も通う53名の会員が居るという。

今後は、日本列島の各テツジムからプロ興行の更なる充実、オヤジ・オナゴキックの全国浸透を目指し、現役時代以上となる有言実行の活動が気になる今後の展開である。

チャンピオン4人誕生時の剱田昌弘とツーショット(2022年6月18日)

▼堀田春樹(ほった・はるき)[撮影・文]
フリーランスとしてキックボクシングの取材歴32年。「ナイタイ」「夕刊フジ」「実話ナックルズ」などにキックのレポートを展開。ムエタイにのめり込むあまりタイ仏門に出家。座右の銘は「頑張るけど無理しない」

7日発売!タブーなきラディカルスキャンダルマガジン 月刊『紙の爆弾』2023年1月号

◆広報室長・廣瀬氏の証言

次に、1月12日、動燃の行った3回の会見すべてに同席した広報室長・廣瀬氏の証言記録を見てみよう。

廣瀬氏は、大石氏に「12月25日と正直に答えなさい」と指示をされたのは、1回目の会見後の打ち合わせだったと証言している。ならば、その直後の2回目会見で、大石氏自身が正直に12月25日と答えれば良かったのではないか? そうすれば、3回目の会見に西村氏は駆り出されたりすることも、さらに死ぬこともなかったのだ。

弁護人にそのことを質問された廣瀬氏は「理事長はやはり理事長としての立場がございますから、やはり物事の本質論ですとか、そういうことを述べるというのが当然だと思います」などと証言した。

また、廣瀬氏は、会見を終えた西村氏に、科技庁の会見場から出た廊下で「なぜ1月10日と言ったのか?」と尋ねたという。その際、西村氏からは「年をまたいだら、もたないだろうと思った」と言われたと証言した。妻のトシ子さんは「一職員でしかない西村がそんなこというかしら」と言う。確かに、理事長が「12月25日と正直に答えなさい」と指示しているのに、一職員の勝手な判断でそんなことをいうだろうか。

しかし、西村氏がそう言ってしまったために、廣瀬氏と安藤氏は「訂正会見をやらなければ」と帰りの車中で話しあったという。

そもそも安藤氏と廣瀬氏は、西村氏の会見で同席しながら、西村氏が理事長大石氏の指示に従わず、「1月10日」と発言したならば、「何を言っているんだ」と驚いたはずだ。しかし、3回の会見を取り仕切った、廣瀬氏の部下A氏は、そのとき廣瀬氏、安藤氏に特別変わった様子はなかったと控訴審で証言している。

一方、西村氏の発言をその場で訂正できなかったか理由を質問された廣瀬氏は「常識論として、調査をした人間の答えを調査しない人間が、間違いじゃないかというのは、プレスがたくさん集まって、テレビのカメラが回っている状況の中でできるかどうかというのは、常識的に考えれば、それはパスするということになるんじゃないでしょうか」などと、どこか居直ったように証言した。

理事長・大石氏、理事長秘書役・T氏、広報室長・廣瀬氏(いずれも当時)他4名、計7名の314頁に及ぶ証言記録

 

福井県敦賀市白木地区で出会ったおばあさん。「あの近くにうちの畑があった」と指さす先にもんじゅが建っていた

納得いかない弁護士は、廣瀬氏にこう迫った。

弁護士 西村さんの地位は何ですか。

廣瀬  総務部の次長です。

弁護士 大石さんの地位は。

廣瀬  理事長です。

弁護士 大石さんの指示は12月25日だったんでしょう。

廣瀬氏 そうです、はい。

弁護士 どちらが重いんですか。

廣瀬氏 ……。(無言)

◆西村さんの会見は失敗ではなかった

西村氏の死が自殺だというなら、動燃に安全配慮義務違反があったのではないかと訴えた裁判の一審は敗訴した。トシ子さんはすぐに控訴した。2007年に始まった控訴審で、トシ子さんらは「動燃は、記者会見で真実を公表するか虚偽の事実を公表するかの二律背反的な進退窮る状況におき、結果として虚偽の発表を強いた」旨に一部主張を改めた。

こういうことだ。大石氏は、理事長として、打ち合わせで「2時ビデオが本社にあったことがわかった日は12月25日と正直に答えなさい」と指示しつつ、自身の会見では「初めて知ったのは昨日(11日)の夕方」と真っ赤な嘘をついたことから、西村氏は12月25日と正直に答えるか、大石氏に合わせて、(大石氏に報告した前日の)1月10日と嘘をつくかの二律背反的な状況を強いられ、結果、嘘をつかざるを得なかったのである。

では、3回目の記者会見がどのような様子だったかを、先の廣瀬氏の部下のA氏の証言からみていこう。A氏は、会見の調整役として、12日の3回の会見をすべてを現場で見ていた。事前の打ち合わせに出ていないA氏は、大石氏の指示は知らないため、西村氏の発言が正しいかどうかはわかっていない。しかし、西村氏は、会見では厳しく追及されたものの、終了後は記者らに囲まれ、褒められていたと証言した。

次の場面である。

弁護士 この会見の後、西村さんとあなたは言葉を交わしてますか。

A氏  会見の後は交わしてないですね……。あるとすれば、接点は1回だけあるんですけども、それは(西村さんが)会見場を出てこられたときに記者に囲まれたんですよね。それで記者の皆さんが、非常に立派な会見というのはおかしいかもしれないけど、きっちりしてましたというようなことをおっしゃったんですよ、皆さんが。で、西村さんもお疲れなので、あまりそこでつかまってもあれなので、「じゃあ」ということで私が仕切ったと思います、その入り口のところは……。

弁護士 何かすごく記者が殺気立って、追及みたいなことがあったみたいな情報もあるんですが、むしろそうじゃなかったということですか。

A氏  外のところはなかったです。その会見の席は結構厳しいと思いました。

弁護士 厳しいやりとりはあった。

A氏  あったと思います。

弁護士 それで、これも会見終了後ですけれども、廣瀬さんが、なぜ1月10日というふうに言ったのかというふうに聞いたら、会見場を出た廊下の部分、いま、あなたが言ってたところなんだけど、彼(西村さん)が年をまたいだら持たないと思ったのでそういったと答えたと。ちょうどその本人が会見場を出てきた辺りでやられていたことのようなんですが、それはご記憶ないですか。

A氏  いや、そこではそういう話は多分しないと思いますね、記者に聞こえるところではしないと思います。

弁護士 そこからちょっと離れたところ。

A氏 だから、出て、私は記者をそこで引き留めてしまったので。ほかの方たちはすっと帰られたと思うんですね。

 

夫の「死」の真相を追及する西村トシ子さんの闘いは続く

さらに、A氏は、上司の廣瀬氏から、間違った西村発言を訂正する会見を開く予定は聞いていたかと質問され、「ないです。私にしてみれば、なぜその日にやらないかというふうに思いますけどね」「(夜中でも)かまいません」と、当時は夜中の会見はざらにあったと証言した。

しかし、廣瀬氏と安藤氏は、「訂正しなくてはならないね」と話し合ったものの、その後会見は行わず、翌日の定例会見で訂正する予定だったと証言した。

しかし、翌日は土曜日で、通常定例会見を行うことはなかったと、A氏は証言した。A氏同様、当時会見に参加していた複数の記者が「西村さんは、初めての記者会見にしては堂々としていました。あのような厳しい状況のなかでの会見で、言うべきことははっきり言い、わからないことはわからないと対応していました。割とうまくやったと思います」と話している。

不本意だったとはいえ、西村氏の会見時での発言は、動燃職員としては間違っていなかったのだ。つまり、そのことを苦に自殺することは、まずあり得ないのだ。動燃から西村氏の死についての説明は一切ないなか、T氏の「西村職員の自殺に関する一考察」では、西村氏は、会見で間違った発言をしてしまったことを苦にした自殺とされた。しかもそれに、よって厳しい動燃批判は一挙に沈静化し、再び動燃はもんじゅ稼働を推し進めていった。

「組織防衛のために夫が生贄にされた」。

悔し気にそう話すトシ子さん。

もんじゅが、ほぼ稼働せず、廃炉が決まったのは、西村氏の死から20年後の2016年だった。その日、トシ子さんは、仏壇に置かれた夫の遺影にこう話しかけた。

「もんじゅのために死ぬことはなかった」──。(了)

《関係者証言録公開》もんじゅ職員不審死事件──夫の「死」の真相を追及する西村トシ子さんの闘い【全6回】
〈1〉http://www.rokusaisha.com/wp/?p=44727
〈2〉http://www.rokusaisha.com/wp/?p=44733
〈3〉http://www.rokusaisha.com/wp/?p=44851
〈4〉http://www.rokusaisha.com/wp/?p=44879
〈5〉http://www.rokusaisha.com/wp/?p=44951
〈6〉http://www.rokusaisha.com/wp/?p=44985

※本稿は『NO NUKES voice』30号掲載の「『もんじゅ』の犠牲となった夫の『死』の真相を追及するトシ子さんの闘い」と『季節』2022年夏号掲載の「《関係者証言録公開》もんじゅ職員不審死事件 なぜ西村さんは『自殺』しなければならなかったか」を再編集した全6回の連載レポートです。

▼尾崎美代子(おざき みよこ)
新潟県出身。大学時代に日雇い労働者の町・山谷に支援で関わる。80年代末より大阪に移り住み、釜ケ崎に関わる。フリースペースを兼ねた居酒屋「集い処はな」を経営。3・11後仲間と福島県飯舘村の支援や被ばく労働問題を考える講演会などを「西成青い空カンパ」として主催。自身は福島に通い、福島の実態を訴え続けている。
◎著者ツイッター(はなままさん)https://twitter.com/hanamama58

〈原発なき社会〉を求めて集う 不屈の〈脱原発〉季刊誌 『季節』2022年秋号(NO NUKES voice改題 通巻33号)

タブーなきラディカルスキャンダルマガジン 月刊『紙の爆弾』2022年12月号

今年は、ウクライナで明け、ウクライナで暮れゆく一年だった。ウクライナ戦争に関する論考では、当然のごとくロシアが帝国主義だとする人が多かった。ウクライナ事態を「ロシア帝国主義の侵略戦争とウクライナの民族解放闘争だ」と言う人もいれば「米ロの帝国主義間戦争」として見るべきだという人もいる。いずれもロシアが帝国主義であるとしている。プーチンを皇帝とした大ロシア帝国の復活をめざしているのだという主張もあった。

ロシアが帝国主義かどうかは、まず第一にウクライナにたいする軍事作戦をどうみるかにかかっている。

これについてすでに多くの論戦が交わされ、ロシアによるウクライナ侵略戦争説と、ロシア対米国の代理戦争説に大きく分かれている。今年2月、ロシアがウクライナにたいする特別軍事作戦を開始し、ウクライナ戦争が起こったのだから、ロシアが帝国主義ないし帝国主義同然だと考えるのも無理はない。

しかし、事態の表面、一面だけを見て判断するのはどうかと思う。戦争はすでに数年前から東部ドンバスで始まっていた。ロシア系住人の自治区にたいしゼレンスキーがいわゆる「ミンスク合意(停戦協定)」を破って軍事攻勢をかけたからだ。結果、すでに数万人のロシア系住民が犠牲になったという。そして、米英軍事顧問団にウクライナ兵を訓練させ、大量の米国製武器を持ち込み、ロシア語使用を禁じた。米国がウクライナにたいし所謂カラー革命(政権転覆策動)を執拗に追求してきたうえでの話だ。だから、ロシアにとってはNATOの脅威からロシアの主権を守り、ウクライナ内のロシア系住民を保護することは当然のこととなる、軍事作戦の目的もウクライナの中立化・非軍事化・非ナチ化においた。けっして、ロシアの領土獲得やウクライナ支配それ自体を目的としていない。今年2月の事件だけで見るのではなく、数年、とくにNATOの東方拡大の背景から見なければと思う。そこから見れば、ロシアは侵略者、帝国主義ではなく、逆に米国がゼレンスキーを手先にして代理戦争を行なわせていると見えるのではないだろうか。

第二に、ロシアを帝国主義とする根拠として、経済的に資本主義だから必然的に帝国主義となるとしている主張がある。実際、そうなっているのだろうか。

ある人は、「ロシアと中国は、資本主義が未発達で、民主主義革命に直面していた。そこから社会主義革命へ前進する過程で、工業化とその管理から官僚主義が登場し、官僚制国家資本主義へ変質・転化した。(革命は)ブルジョア革命に終わり、資本主義化し、帝国主義化した。根本はここ。このソ連論・中国論が代理戦争論にはない」と断じている。

たしかに、ロシアに新興財閥や国有企業が存在している。しかし、プーチンが新興財閥の意向を受けてウクライナ特別作戦を行ったのではなく、反対にプーチンは受ける制裁に備えそれを克服する道について新興財閥を説得している。新興財閥にプーチンが動かされているのではなく、新興財閥がプーチンの指導と統制を受けている。だから、経済が決定するとはいえないだろう。

では、ロシアは誰が動かしているのだろうか。それはプーチンが率いる党であるといえよう。そうした政治勢力がナチスドイツの侵略から国家主権を守り抜いた体験をした国民の支持を受けている。とくにソ連崩壊後の混乱を収拾し、国の統一と安定をもたらしたプーチンの業績は大きい。だから、ロシアは独占資本主義に動かされる帝国主義国とはいえないのではないか。

第三に、ロシアを米国と同列視するのかということだ。

勤労人民大衆の自由と解放をめざす闘いは、国を単位にして繰り広げられる。人民大衆は国家権力を握ってはじめて社会の主人となることができ、その国家の主権を守り社会制度を発展させて人民大衆の自由と豊かさと平和を実現していくことができる。民族解放闘争の勝利と新興独立国の発展はそのことを示している。

しかし、帝国主義は植民地を生命線とし各国の主権を否定していくことを本性としている。米国がその典型だ。それゆえ、世界における帝国主義と勤労人民大衆の攻防は、米国のグローバリズムを掲げ国を否定する覇権と各国の主権擁護の戦いとして展開され、現在も続いている。

したがって、ある国を判断するうえで覇権勢力側なのか反覇権主権擁護勢力の側なのかと見極めること、言いかえれば米国の覇権主義に同調しているのか、それに反対しているのかが重要になる。

米国はNATOや日米安保の軍事同盟を強化拡大し、各国で政権転覆策動を繰り広げている。米国が各地で戦乱をひき起こしている戦争の元凶だ。とくに米英はある国を対立させて戦乱を起こすという狡猾な方法を使っている。セルビアにたいしてはコソボ独立、ひいてはユーゴの解体、ロシアにたいしてはジョージア、ウクライナを利用した戦争、ひいてはロシア解体(3月の駐ベオグラードウクライナ大使の発言)、中国にたいしてはウイグル、香港、台湾を利用した分断対立策動をおこなってきた。

 

赤木志郎(あかぎ・しろう)さん

一方、ロシアは、シリア、イラン、キューバ、朝鮮など反帝諸国を支持し支援している。また、ロシアが参加する新興五カ国BRICsや上海協力機構を見ても、国家主権を守ることを国是とし、国を否定する帝国主義側でなく基本的に反覇権勢力の側にたっている。とりわけ、ウクライナへの特別軍事作戦は制裁も予見し非米脱覇権主権勢力を結集して米国の覇権策動を粉砕しようとしたと思う。米国と戦うロシアは帝国主義ではなく、反帝国主義と言えるのではないだろうか。

第四に、この問題は日本が主体的に、実践的に誰に闘いの矛先を向けるべきかということがもっとも重要な問題としてある。

今日、米国は覇権回復戦略として中ロを敵とする新冷戦戦略をしかけ、世界を「専制主義国VS民主主義国」に分断し、同盟国を糾合し覇権を回復させようとしている。とくに日本に対しては対中代理戦争を行わせようとしている。それが日本国民にとってどれだけ不幸をもたらすのか明白だと思う。エネルギー、食糧など物価高の原因も対ロ制裁が大きな要因となっており、米国に追随した対ロシア制裁は日本の国益に合致していない。米国とロシアの対立にたいしては、日本は国益を基準として中立の立場で臨むべきだと思う。

とくに闘う勢力が、マスコミのロシア=悪の報道に同調し、「中ロの脅威」を主張したり、今日の事態を「米国と中ロの帝国主義間戦争」と見たりするのは、米国にたいする闘いをあいまいにするものである。闘いの矛先は日本に対中代理戦争を行わせようとする米国とそれに従う日本の執権者にこそ、向けなければならないのではないだろうか。

▼赤木志郎(あかぎ・しろう)さん
大阪市立大学法学部中退。高校生の時は民青、大学生のときに社学同。70年赤軍派としてハイジャックで朝鮮に渡る。以来、平壌市に滞在。現在、「アジアの内の日本の会」会員

『抵抗と絶望の狭間 一九七一年から連合赤軍へ』(紙の爆弾 2021年12月号増刊)

『一九七〇年 端境期の時代』

《12月のことば》望むことは あなたと生きることだ(鹿砦社カレンダー2022より。龍一郎揮毫)

師走に入りました。このカレンダーも最後の1枚となりました。

皆様方にとって、この1年はいかがでしたか?

世間の大半は、コロナ禍の影響で塗炭の苦しみを味わっておられることでしょう。

加えてウクライナ戦争や円安による物価高──。

特にウクライナ戦争は対岸の火事ではなく、かつてのベトナム戦争を想起させて深刻です。

いつ日本に飛び火してくるかもしれません。

一日一刻も早い停戦を望みます。

先の大戦で、世界で初めて原爆を落とされ、沖縄を最前線として全土が焦土化された日本は、今こそイニシアティブを取り和平に向けて奮闘すべきです。

今、どのような苦しみを味わおうとも、日々多くの人々が殺されているウクライナの情況に比すればなんともありません。

「望むことは あなたと生きることだ」──励まし合い共に生きていこう!

*来年のカレンダーが出来上がってまいりました。『紙の爆弾』の定期購読者/会員の皆様から(同誌と一緒に)発送を開始いたします。ご期待ください!

(松岡利康)

『紙の爆弾』と『季節』──今こそタブーなき鹿砦社の雑誌を定期購読で!

◆「ロックと革命」舞台はin京都に

ビートルズ「抱きしめたい」脳天直撃から「ならあっちに行ってやる」! そして「特別な同志」OKとの出会いによって、17歳の革命は音楽&恋からその一歩を踏み出した。

「いいんじゃない、若林君はぜんぜん悪くないよ」とOKは言ってくれたけれど、それが17歳の「無謀な決心」であるという事実にはまったく変わりなく、Bob Dylanの“Like A-Rolling Stone”、転がる石ころのごとく、どこに転がっていくのか当てのない船出だった。でも「転石、苔を蒸さず」、転がることによって私の革命は苔蒸さず(錆び付かず)、A-Rolling Stone 途上の逸脱、曲折はあったけれど幸運な出会いが私を前へ前へと進めてくれた。

1965年の春、18歳になったばかりの私は進学校、受験勉強からドロップアウトの「成果」として大阪市大は不合格、同志社の「大学生」となった。結果的には「京都という文化」の地で音楽や人、学生運動と多くの幸運な出会いを経験できた。


◎[参考動画]Bob Dylan – Like a Rolling Stone (Live in Newcastle; May 21, 1966)

◆京都御所の啓示「二十歳 ── それが人生で最も美しい季節だとは誰にも言わせまい」

若林君は大学生になったけれどOKはまだ高校生、だから故郷、草津での個室&路上トークと私書箱文通、ときには長電話の十代トークはそのまま続いた。

この頃だと思うが、OKと神戸国際会館に「愛なき世界」ヒットのPeter & Gordon ライブ公演を観に行った。閉幕後、本場のLiverpoolサウンド二人組を見たくて楽屋付近をうろついていたら同じような女の子達に「あんたのヴォーカルもよかったよ」と言われた。

「はあ~っ??」の私に「堺正章に間違われたんだよ」とOKがにんまり笑った。「なんで僕がマチャアキなんや!?」と憮然の私、でも彼女は女の子達の「評価」にまんざらでもなさそう。それはスパイダースが前座を務めていた時代のお話。


◎[参考動画]Peter and Gordon – A World Without Love (HD) 1964

秋頃には私の髪は女の子のおかっぱ頭越えでさらに成長、“You Really Got Me”大ヒットKinksのリードギターがカッコよくて彼の長髪を真似て真ん中分けにしてみた。

ある日、OKが知り合いのいる美容室に私を連れて行った。当時は男子禁制の場、営業時間終了の店で美容師とOKはああでもないこうでもないと私の頭をいじくり私の真ん中分けはきれいに整髪された。

この美容室にはその後も連れて行かれたと記憶する。OKにとっては私の長髪の成長が「若林君の成長」になっていたのだろう。私とOKは「長髪運命共同体」、どうってないことかもしれないが「長い髪の二人組」にはとても大事なこと、「女の子の授業はあっちだ-ならあっちに行ってやる」は後戻り不可能の地点に。男子の長髪が希少品種であった時代のエピソード。

一年後の1966年、OKも晴れて大学生、同志社近くの私大に入学、二人は「いつも一緒」の時間を持つようになった。

講義の時間帯が合えば通学路も一緒、「若林君います~」とOKが私を誘いに来て「M子ちゃん来はったでえ」と母が私を呼んだ。高校生の頃は「受験勉強中なのに……」と渋顔だった母もこの頃になるとOKの聡明さを認め協力的になっていた。後日談になるが、私がよど号ハイジャック渡朝後、OKが数年に渡って私の母を慰めに訪ねてくれた、そう母は手紙に書いてきた。OKは永遠の恩人、感謝している。


◎[参考動画]The Kinks – You Really Got Me 1964

二人のトークの場は京都に移った。そこは「町の大人の視線」もない自由天地。

烏丸通りに面した同志社通用門がOKとの待ち合わせ場所、今出川通り角の学生相手の広い喫茶店のコーヒー一杯で長時間粘ったあと京都御所の緑陰で憩いのひととき、時折り馴染みのレコード店をのぞいたり夕闇迫る町屋の並ぶ古都の裏通りを散策したり……。しゃれたい気分のときは、『二十歳の原点』の高野悦子さんも通った四条河原町角の小粋な喫茶店フランセにもよく行った。OKは紅茶とホットケーキ、ケーキを半分に切って分けてくれた微笑ましい思い出のお店だ。

京都で実現した「いつも一緒」の時間はとてもすてきで「恋する二人」には申し分のない穏やかな時間が流れていったと言えるだろう。ビートルズはティーンズの英雄から「アーティスト」になっていた。

しかしながら京都でのOKとの「いつも一緒」の日々、それは主観はともかく客観的には単なる「男女交際」、私はただの親のスネかじり、適当に授業に出るずぼら大学生、女の子とデートにうつつを抜かす遊び人、そう言われても反論のしようのない生活でもあった。余談だが、20年ほど前に毎日新聞が私の同窓らを取材、記事には「若ちゃんはぼんぼん」「遊びの話ばっかりしてた」「美容院に行ってたくらいの軟派中の軟派」の記述、それが当時のまわりの正しい評価。

「ならあっちに行ってやる」! 私の革命は当てもなく漂流中、ドロップアウト! 新しい世界に跳む! それはまだ17歳の革命、観念の世界に留まったまま。

そしてまた一年が過ぎ私が二十歳になった1967年の春、いつものようにOKと御所の桜を私はぼんやり見上げていた。そのとき突然、私を襲ったどうしようもない無力感── 華やかこの上ない春爛漫、咲き誇る満開の桜、それに比べて自分はなんてみすぼらしく卑小なことか…… 何やってるんや、僕は! このときの表現しようのない自己嫌悪感はいまも身体に刻まれている。

“そのとき僕は二十歳だった。それが人生でいちばん美しい季節だとは誰にも言わせまい”-まさに「アデン・アラビア」ポール・ニザンの言葉そのままの二十歳の春だった。

OKとの「いつも一緒」に安住したままどこにも動けずにいる私、「ならあっちに行ってやる」の若林君はいったいどこに行ったのだ!

◆しあんくれ~る/Champ Claire ── 心に響いたニーナ・シモン

「いつも一緒」のままでは私もOKも次の一歩が踏み出せないだろう、少なくとも私にはそんな力はない、それぞれが次の一歩を見つけるべきときが来たのだ。当時、そう明確に意識したわけではないが「無力感」「自己嫌悪感」という形で意識されたのはそんなことだと思う。

こうして京都でのOKと「いつも一緒」の時間は後味の悪さを残しながらなんとはなしに終わった。断ち切りがたい想いはありながらも消化不良を起こした青春の未熟、それ以外に言いようがないけれど彼女もそれは感じていたことだと思う。互いに成長のための革命、別行動が必要だったのだ。

 

しあんくれ~るのマッチ

以降の私は空虚な心と孤独を抱えたまま、とにかく次に踏み出す新しい一歩を求めた。

そんなある日、立命大広小路校舎近くの河原町通りを歩いていた私の目に止まった小粋な立て看板、そこには「しあんくれ~る/Champ Clair ジャズ喫茶」とあった。

なんとなく心惹かれて狭い階段を上がった。ドアを開けた中はまさにジャズの洪水、昼間の世界と隔絶した空間だった。明るいお天道様の下を歩くのが億劫になっていた私には絶好の「思案(しあん)に暮れる(くれ~る)」場、以来、私の空虚を埋める居場所になった。後にあの高野悦子さんも通ったとして有名になったあの店だ。

当時はサックスのジョン・コルトレーンが人気で、またA.アイラーなどの前衛ジャズ台頭の時期、「ジャズの洪水」は心地よかったが、ロックに親しむ私には音楽的にはしっくりこなかった。そんななかで「おやっ」と思う歌声が私の心に響いてきた。

 

Nina Simone at the Village Gate(1962)

歌っているのはニーナ・シモンという黒人女性ヴォーカリスト、中でも心に響いたのは“Zungo”、まるでアフリカ大陸から響き渡る祈りのような歌! “Zungo”という単調な歌詞がただ繰り返される短い歌、けれどなぜかじ~んと胸に響いた。以来、私はニーナ・シモンのこのアルバム“Nina at the Village Gate”をリクエスト、「しあんくれ~る」ではいつも彼女の歌を聴いた。

最近になってニーナ・シモンのことを知った。

幼い頃からピアノの才能を認められていたニーナ・シモンはクラシック音楽のトレーニングで有名なジュリアード音楽院に通いカーティス音大への進学を夢見た。しかしそれは叶わなかった、理由は「黒人だから」! 彼女はジャズの道を歩みキング牧師の黒人公民権運動にも参加、でもその非暴力主義運動に飽きたらず過激な主張もするようになった、そして初めての黒人政権ができた中米のバルバドスに移住、ベトナム戦争に反対して税の不払い運動をやって米政府から逮捕状まで出されたという。

そんな不屈の意志の人だったから私の心を鷲掴みにしたあの力強い祈りの歌を歌えたのだろう。


◎[参考動画]Nina Simone – Zungo

◆ニーナ・シモンの取り持つ奇妙な縁 ── 作家志望の詩人

そんなニーナ・シモンの歌声に聞き惚れていたある日、私に話しかけてきた人があった、「いつもこの曲、リクエストされてますよね」と。「これ、あなたも好き?」と聞くと「ジャズはよくわからないけどいまかかってるこの曲はとてもいい」との答えが返ってきた。

その曲はなんと“Zungo”! 意気に感じた私はこの人と「ニーナ・シモンっていいよねえ」談義を交わした。いつしかニーナ・シモンのリクエスト盤が終わって次のジャズ曲に移った。なんとなく話がとぎれてしまいそうで私は「出ましょか?」と彼女を誘った、久々に心を割って音楽談義のできた私は話を続けたかったのだと思う。

白状すればその時の私は新宿から来たヒッピーに以前、教わったドラッグ、睡眠薬のハイミナールをやっていて精神ハイ状態、だから初対面の女性を誘うような挙に出たのかも知れない。

外に出て見るとその人はいかにも真面目な女子大生風、リボンでくくったひっつめ髪に白ブラウス、紺系のタイトスカートに低いヒールのパンプス姿、ヒッピー風の私とはまるで異質のタイプだった。

私たちは荒神口から四条河原町まで歩き、私の馴染みの喫茶店フランセで話を続けた。

彼女は立命文学部の学生、自称「作家志望の詩人」だった。

人生経験未熟のいまは小説はまだ書けない、現在は言葉を磨くために詩作を続けているのだと彼女は言った。作家をめざしてこの大学に来たけれど文学のクラスは大手出版社やマスコミ就職希望の学生ばっか、文学への野心のかけらもない、そんな大学の雰囲気に不満で「しあんくれ~る」で時間を過ごすようになったのだそうだ。空虚を抱えているのは私と同じだった。

店でよく見かける私に対してヒッピーでもなさそうな学生風がなぜ長髪人間なのか? 日頃から気になっていたとか、それは一種の文学的興味なのかもとも。隣り合わせになった機会に思い切って話しかけてみた、ヴォーカル好きの自分とも音楽的にも話ができそうと思ったから等々をうち明けた。

私は明確な志を持つこの人物に強い関心を持った。だから彼女の「文学的興味」に応えて「長髪ひとつで世界は変わる」、「ならあっちに行ってやる」以来の長髪人間の遍歴を語り「特別な同志」OKとのことも包み隠さず話した。この話は彼女の興味を惹いたようで「“あっちに行ってやる”かあ、私も跳んでみたいな」とぽつりもらした。「エエと思うけど思ったより簡単じゃないよ」とまだ次の行動に出れない自分に腐っていることも率直に私は告白した。

すると「簡単じゃないからいいんじゃないですか?」、さらりと返してきた彼女! 「ほお~っ」! 私は正直、唸らされた、この一言に惚れた。

大いに乗り気になった彼女は「お酒でも飲みながら続けません?」と出てきた。ハイミナールで精神ハイな私はこのうえお酒はヤバイと思ったけれど乗り気は私も同じで「ええでしょう」と受けた。サンドイッチ一人分を夕食代わりにして二人はフランセを出た。

木屋町のスナック風バーでは彼女はめっぽうお酒に強くタバコもふかして外見ではわからない一面を見せた。私はウィスキーコーク一杯をちびりちびりなめるだけ。

酒が入ると饒舌になった彼女は文学論を展開。明治の近代黎明期に彗星のごとく現れた「元始、女は太陽であった」の平塚らいてうや樋口一葉が憧れの作家、与謝野晶子はあまり好きじゃない、いま倉橋由美子だとかがいるけど自分は現代の新しい女性や若者を描く新しい作家になる、だから貴男にも興味があるの……等々、野心満々の話は尽きることがなかった。「僕は文学は門外漢、でも貴女の話はとても面白い」、私は話に引き込まれた。大人しい女子大生風の見かけによらず意志の強い女性だった。

一方的な文学論を夜遅くまで続けるうちに深酒してろれつも怪しく足取りも覚束なくなった彼女、それもまた「詩人」の微笑ましい一面。結局、私がタクシーで送り届ける羽目に。民家の下宿生だと思いきや着いたところは当時まだ珍しい広い6畳間ほどの学生アパート、富裕家庭の子女なんだと了解した。

その日は彼女になんか勇気をもらったようで久しぶりに心は晴々、終電車もなくなり泊めてもらう友人の下宿へと長い夜道を快い余韻に酔いながら歩いた。

これがニーナ・シモンの取り持つ奇妙な縁、新たな出会いの始まり。たった一日で多くのことを語り合った不思議なこの日のことはいまも記憶に鮮やか。

「作家志望の詩人」と私の次の一歩、「跳んでみたいな」行動を共にするようになるのは後日のこと。(つづく)

《若林盛亮》ロックと革命 in 京都 1964-1970
〈01〉ビートルズ「抱きしめたい」17歳の革命
〈02〉「しあんくれ~る」-ニーナ・シモンの取り持つ奇妙な出会い

若林盛亮さん

▼若林盛亮(わかばやし・もりあき)さん
1947年2月滋賀県生れ、長髪問題契機に進学校ドロップアウト、同志社大入学後「裸のラリーズ」結成を経て東大安田講堂で逮捕、1970年によど号赤軍として渡朝、現在「かりの会」「アジアの内の日本の会」成員

『抵抗と絶望の狭間 一九七一年から連合赤軍へ』(紙の爆弾 2021年12月号増刊)

『一九七〇年 端境期の時代』

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11月中旬、筆者は度肝を抜かれました。いや、広島市民の多くもそうでしょう。広島県知事の湯崎英彦さんは、広島市内の病院の大幅統廃合計画を発表しました。大義名分は高度医療と人材育成の拠点をつくることです。

「すべての県民が質の高い医療介護サービスを受けることができ、住み慣れた地域で安心して暮らし続けることができる広島県の実現を目指してまいります」と湯崎さんは宣言。

基本構想を拝読すると、いわゆる救急車のたらい回しや中山間地の医師不足などを解消するため、県内の高度医療の資源を集約した病院を新設し、若手の医師を育成することで課題解決を目指すとしています。

具体的には、広島市東区のJR広島病院(275床)と南区の県立広島病院(いわゆる県病院、715床)、中区の平和公園近くの中電病院https://www.energia.co.jp/hospital/index.html (248床)を統合。JR広島病院に近い広島駅新幹線口近く(いわゆる駅北)に1000床近い病院として集約します。さらに、舟入市民病院(156床)の小児科は廃止し、新しいこの駅北の病院に統合するとのことです。

土谷病院の小児循環器機能も新病院に移行します。府中町のマツダ病院などからも一部機能が移行します。これでも、300床近い病床削減となります。

また、新病院の運営形態は一般地方独立行政法人(非公務員型)が望ましい、とされています。JR広島病院と県病院の統合までは、事前に報道もされていましたが、それを上回る規模の統合です。また、全体として、急性期病床を削減し、回復期病床に転換する方向も示されています。

◆国の病院・病床削減の突撃隊としての湯崎さん

「高度医療・人材育成拠点」と言われれば、いかにも素晴らしいことのように思ってしまう方も多いのではないでしょうか?だが、看板に惑わされずに、本質を見極めていく必要があります。

ずばり、湯崎さんがやろうとしていることは、厚労省の方針を「突撃隊」的に進めることではないでしょうか?

厚労省は2019年9月に424の病院について再編・統合の必要があるとしました。そして、そのために2019年4月から10%にアップされた消費税を補助金として投入することになったのです。

「日本の病院・病床数は人口比で多すぎる。これに対して医師や看護師は不足している。」

「軽度の病人が重度の病人が利用すべきベッドを占領している。」

「急性期・慢性期の病床は余り、回復期(リハビリ)の病床は不足している。」

これらを病院・病床削減の大義名分としていました。すでに、1992年のピークの169万床から14万程度削減されています。ところが、その直後にご承知の通り、2019年末からコロナ災害が世界を襲ったのです。そして、再編の対象だった病院の多くが、感染症指定医療機関です。コロナ災害では、こうした医療機関、特に公立の医療機関が多く、コロナの患者を引き受けたのです。これらの病院がなければもっと大変なことになっていたでしょう。

実際、全国に先行して病院を削減した大阪府では、コロナによる死者が6698人と東京の6108人を上回り、全国でも群を抜いています。にもかかわらず、国は病院・病床削減の撤回はしていません。とはいえ、コロナ災害を受けて政府の病院・病床削減方針への世論の批判は強いものがあります。

広島県知事の湯崎さんは、そうした中で、国の方針を「高度医療・人材育成拠点」の名のもとに強行する突撃隊の役目を果たしているのではないでしょうか?

広島県庁。このまま、厚労省の医療切り捨て路線の突撃隊になるのか?(筆者撮影)

◆住民や労働者はおきざり

今回の統廃合計画では、中山間地のため、などといいながら、住民は置きざりです。江田島市に母親が住んでいるという女性は「江田島市は呉よりも船で広島市へ行く方が実は便利。自分の母も、船で宇品港(南区)に上陸し、そこから電車ですぐの県病院に通っている。駅北へ統合された場合、遠くなり不便だ。」と案じます。

実際に、宇品港から県病院までは広島電鉄5号線、3号線、1号線で十分です。しかし、広島駅までは5号線であり、30分で本数も県病院行きよりは減ります。1号線でも広島駅へ行けますが、紙屋町など都心部を通って大回りになり一時間近くかかります。

しかも、広島電鉄の広島駅からJR広島駅を乗り越える形である程度歩かなければいけません。2025年度には広島電鉄が広島駅ビルに突入?する形にリニューアルされますが、それでも一定程度歩かないといけないことに変わりはありません。

あるいは、中区で近所の舟入病院の小児科に通っているお子さんなら、30分近く電車に乗って、さらに広島駅を乗り越えなければならない。健常者ならたいしたことがないかもしれませんが、体が弱い方にとっては負担になります。あるいは、「子どもの病院が近いから」と、その地域を選んでマンションなどを購入した方もおられるかもしれません。

また、二葉の里周辺の道路は慢性的に渋滞が激しい場所です。これは、新幹線・山陽本線で市街地が分断されていることもあります。そこへ、救急車が集中すれば大変なことになりかねない。それこそ、渋滞で手遅れということもあり得る。本当に救急病院を集中させればいいのでしょうか?

また、病院で働く医療労働者にとっても大変です。県病院、JR病院、中電病院、それぞれに文化と伝統があります。それこそ、労働組合もそれぞれカラーが違います。そういう中で、本当に合併してうまくいくのかどうか?この点も心配です。

◆医療従事者が少ないから統廃合?

医療従事者が不足するから統廃合する、という国側の論拠の一つに対しては、そもそも、きちんと医者や看護師の労働条件を抜本的に改善して対応すべきでしょう。そこに力を入れずに、統廃合しても、問題の解決にはならないでしょう。

そして、コロナもそうですが、すでに克服されたか、下火になったと思われていた感染症も復活しています。例えば梅毒などもそのひとつです。さらに今後は、気候変動で寒冷地の氷が解けて、封印されていたウイルスなどが出てきて猛威を振るう恐れも指摘されています。本当に急性期病床を減らしていいのでしょうか?大変に疑問です。大阪の失敗を広島で繰り返していいのでしょうか?

いずれにせよ、知事の湯崎さんの美辞麗句に惑わされず、「国の突撃隊」としての湯崎さんについて県民はきちんと監視をしていかなければなりません。県民の代表としての県議会の責任は重大です。

▼さとうしゅういち(佐藤周一)
元県庁マン/介護福祉士/参院選再選挙立候補者。1975年、広島県福山市生まれ、東京育ち。東京大学経済学部卒業後、2000年広島県入庁。介護や福祉、男女共同参画などの行政を担当。2011年、あの河井案里さんと県議選で対決するために退職。現在は広島市内で介護福祉士として勤務。2021年、案里さんの当選無効に伴う再選挙に立候補、6人中3位(20848票)。広島市男女共同参画審議会委員(2011-13)、広島介護福祉労働組合役員(現職)、片目失明者友の会参与。
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◎広島瀬戸内新聞ニュース(社主:さとうしゅういち)https://hiroseto.exblog.jp/

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◆あの日、夫に何が起こったのか?

遺体発見時の10時間前に亡くなっていた動燃職員・西村成生(しげお)氏。しかし、妻・トシ子さんへの遺書には「3:40」との時刻が書いてあった。遺書は確かに西村氏の字だが、数字は別人のものだった。

「夫はどこかで無理やり遺書を書かされたあとで、殺害されたのでないのか」。

トシ子さんはそう確信し、8年後の2004年、ようやく闘ってくれる弁護士に出会えた。しかし、動燃を「殺人罪」で訴えたいというトシ子さんの要求はかなわず、西村氏が自殺したというならば、動燃に「安全配慮義務違反」があったと訴えることになった。

トシ子さんにとっては不本意だったが、証人尋問で証言した、理事長・大石氏、理事の大畑氏、安藤氏、広報室長・廣瀬氏、そして理事長秘書役・T氏らの証言の記録から、西村氏が不審死する前後に何があったのかが明らかになってきた。

もう一度時系列で追ってみる。1996年1月11日夕方、動燃本社で大石理事長、安藤氏、理事長秘書役のT氏らが出席し、調査チーム主催の会議が行われた。8時過ぎには、動燃と科技庁との間で、どのタイミングでメディアに公表するかが話し合われた。しかし、前述の通り、12日、中川科技庁長官が会見で「ビデオは動燃本社に持ち込まれ、本部員も見ていた」などと発言したためメディアが騒ぎ出し、動燃も急きょ会見せざるをえなくなっていた。

1回目の会見で理事の安藤氏は、メディアの質問にまともに答えられず、怒ったメディアから、理事長大石氏の会見が要求された。

安藤氏の会見後、大石氏、関係者らは1回目の打ち合わせを行った。会見前の関係者の打ち合わせは、この1回目と、3回目会見前の2回目があり、証人により、そのどちらの打ち合わせかは違っているが、全員が、大石氏が「『2時ビデオ』が本社に持ち込まれていたことを確認した日は12月25日であると、正直に言いなさい」と指示したと証言した。大石氏がそこまで「12月25日と正直に言いなさい」と指示したとなれば、確かにT氏の「西村職員の自殺に関する一考察」のように、西村氏が間違った発言を苦に自殺したとも推測できる。しかし、裁判で証言した大石氏、大畑氏、T氏、広報室長・廣瀬氏らの証言からは、そうした事実と相反する事実が次々と明らかになった。

◆誰が嘘をついているのか?

2006年2月、東京地裁で大石氏は、「2時ビデオ」が本社にあったことを知ったのは、1月11日の会議の場だったこと、調査チームからは、それまで1度も報告がなかったこと、西村氏には11日初めて会ったと証言した。ビデオ問題が、もんじゅ存続の可否を決める重大事項になっている最中、自ら指示して作らせた調査チームの職員に、会ったたことがなかった……そんなことがあり得るだろうか。

また西村氏、安藤氏、広報室長・廣瀬氏が、会見後に大石氏に報告した際、大石氏は「安藤理事がなんとか無事に記者会見を終えることができましたという旨の報告がありました」「西村氏に変わった様子はなかった」と証言した。

また大石氏は、弁護士に「西村氏がなぜ自殺したと思うか?」「本社に『2時ビデオ』があったことを確認した日が12月25日であったのに、1月10日と発言したことと関連しているかどうかについてはどう思うか?」と問われ、「わからない」と答え、西村氏が「1月10日」と発言したことは、西村氏の死後、秘書役のT氏から聞いたと証言した。繰り返すが、重要な会見で、出席者がどのような発言をしたか、理事長が知らなかったなんて、あり得るだろうか?

では会見後、普段と変わった様子のなかった西村氏が、なぜ自殺しなければならなかったのか? その原因と思われる個所を、西村氏が間違った発言を苦にして自殺したと「考察」したT氏の証言から見てみよう。

西村氏が会見に使った資料(想定問答集)には、西村氏の字で「1月11日頃」との書き込みがあった。それについて、弁護士がT氏に、打ち合わせで何が話し合われたかと質問した。

弁護士 弁護士21号証で、これは調査グループが調査に入ってから、12月25日であるという1つの想定の答えが書いてあって、その右側に1月10日頃という記載があるんですけれども。

T氏  はい、ありますね。

弁護士 どういうやりとりがあったかは思い出せますか。12月25日という書き込みがあり、他方、本当のメモ書きなんだけれども、コピーで1月10日というふうに残っている。この1月10日頃という書き込みの、この字は西村さんの字なんですけども、どんなやりとりが行われたか。

T氏  それは私には判りませんが、やりとりがあったのは私のほうからご質問させていただいたんでよく覚えているんですが、この質問の、Eが保管していた事実が判明したのはいつかということで、12月25日という回答がでたわけですね、議論の中で。

弁護士 回答って、事実でしょう、調査結果の。

T氏  (12月25日を)ここに書きましょうという。それで、そのときに私から理事長に、12月25日ということで本日になって発表すると、いままでの経緯、ビデオ問題をさんざん隠して社会の糾弾を浴びておりましたから、今日になって、12月25日に判明しましたということをいうと、また騒ぎになりますが、それで宜しいですねということを聞きました。そのときに理事長がいいと、事実をありのままに言いなさいとおっしゃったので、よく記憶しております。(中略)

弁護士 第3回目の記者会見に向けて、あなた自身は12月25日の日取りについて不安があったと。12月25日といっちゃうと10日間以上も何をやっていたんだという話になると、大丈夫でしょうかという不安があったとおっしゃるわけね。

T氏  はい。

弁護士 実際には、理事長は本当のことを言いなさいというんだと。第3回目では結局(西村氏は12月25日とは)言ってなかったということになったんですが、その記者会見はどう聞いておられますか。

T氏  だいぶあとですね。僕は(会見で西村氏が)1月10日というふうにいわれたということを知ったのは2日後ぐらいですから。

弁護士 要するに、西村さんが亡くなられたと、関係方面から耳に入ってきたという話ですよね。

T氏  はい。

動燃理事長秘書役(当時)だったT氏が書いた手書き文書「西村職員の自殺に関する一考察」1-2頁

同上 3-4頁

西村氏が発言した3回目の会見後、大石氏に報告した際、西村氏が1月11日と発言したことは、誰からも全く問題にならなかったと、T氏は証言した。西村氏の両隣には安藤氏、廣瀬氏もいたし、事前の打ち合わせで大石氏にあれだけ「12月25日と正直に言いなさい」と指示されながら、西村氏の間違った、ある意味大石氏に背くような発言を行ったことを、咎める、訂正させる人が全くいなかったということがあり得るだろうか?

大石氏が、12月25日と正直に言うことについて、T氏自身が懸念を示していたのだ。であるならば、会議でなんらかの対処法などが検討された可能性もあるが、それについてはT氏はきっぱりと否定。さらにT氏は、11日午前と12日午後に、大石氏はじめ関係者が出席した重要な会議に出席した事実が議事録にも残っているのに、「まったく記憶にない」と否定した。T氏の理事長秘書役という役職は、通常の秘書業務だけではなく、「理事長に関わる問題のほとんど全部についてかかわってくる。理事長に情報を提供したり、いろんな問題について提案をしたりする」と理事長の大石氏が証言していた。その T氏は、理事長秘書役として重要会議に出席していたことを、なぜ頑なに否定するのだろうか?(つづく)

《関係者証言録公開》もんじゅ職員不審死事件──夫の「死」の真相を追及する西村トシ子さんの闘い【全6回】
〈1〉http://www.rokusaisha.com/wp/?p=44727
〈2〉http://www.rokusaisha.com/wp/?p=44733
〈3〉http://www.rokusaisha.com/wp/?p=44851
〈4〉http://www.rokusaisha.com/wp/?p=44879
〈5〉http://www.rokusaisha.com/wp/?p=44951

▼尾崎美代子(おざき みよこ)
新潟県出身。大学時代に日雇い労働者の町・山谷に支援で関わる。80年代末より大阪に移り住み、釜ケ崎に関わる。フリースペースを兼ねた居酒屋「集い処はな」を経営。3・11後仲間と福島県飯舘村の支援や被ばく労働問題を考える講演会などを「西成青い空カンパ」として主催。自身は福島に通い、福島の実態を訴え続けている。
◎著者ツイッター(はなままさん)https://twitter.com/hanamama58

※本稿は『NO NUKES voice』30号掲載の「『もんじゅ』の犠牲となった夫の『死』の真相を追及するトシ子さんの闘い」と『季節』2022年夏号掲載の「《関係者証言録公開》もんじゅ職員不審死事件 なぜ西村さんは『自殺』しなければならなかったか」を再編集した全6回の連載レポートです。

〈原発なき社会〉を求めて集う 不屈の〈脱原発〉季刊誌 『季節』2022年秋号(NO NUKES voice改題 通巻33号)

タブーなきラディカルスキャンダルマガジン 月刊『紙の爆弾』2022年12月号

ビクトリージム設立25周年記念興行、前日計量は全員一回でパス。

吉成名高、ジャパンキック協会KICK Insistに初登場

殿堂チャンピオン、吉成名高初出場に、永澤サムエル聖光とモトヤスックも存在感を見せたKICK Insist.14。

◎KICK Insist.14 ~VICTORY GYM 25th Anniversary Event~
11月20日(日)後楽園ホール 17:30~21:20
主催:(株)VICTORY SPIRITS / 認定:ジャパンキックボクシング協会(JKA)

◆第11試合 52.0kg契約 5回戦

名高・エイワスポーツジム(=吉成名高/エイワスポーツ/ 52.0kg)
      vs
チャイチャナ・ウォー・ヴィセットジム(タイ/ 50.35kg)
勝者:名高・エイワスポーツジム / TKO 2ラウンド46秒 / ノーカウントのレフェリーストップ
主審:椎名利一

名高は2019年4月にムエタイ二大殿堂ミニフライ級同時制覇達成。チャイチャナは元・タイ国ムエサヤーム・イサーン地区ミニマム級、ライトフライ級チャンピオン。

試合開始から名高はスピーディーなローキックやミドルキックでチャイチャナに探りを入れていく。チャイチャナは蹴り返して様子見の中、名高の右ハイキックで会場がどよめく衝撃音を出した。

鋭い左ローキックでチャイチャナをノックダウンに繋げた吉成名高

上下蹴り分け、チャイチャナにチャンスを与えなかった吉成名高のハイキック

第2ラウンド開始後、名高はやや様子を窺った後、素早く左右のパンチからの左ローキックで最初のノックダウンを奪う。

立ち上がったチャイチャナにパンチのラッシュから左ボディーへの右ストレートで打ち込み、最後は右フックを顔面に入れ、2度目のノックダウンを奪うと、ボディーへのダメージが大きく、ほぼノーカウントのレフェリーストップで名高がTKO勝利。

試合前、名高は、

「今日は初出場でメインイベントを任されるのは有難いことです。その自覚をもって会場を盛り上げます。KO勝利します。」

とコメント。

名高陣営も「3ラウンドでKOすると思います。」と予測。普段から一緒に練習をして選手とセコンドの連係はしっかりしている様子があった。

試合後の名高は「予告通りKOできました。2度目のダウン前のボディーへのパンチに手応えを感じ、顔面へのパンチで決めることができスッキリしました。」と笑顔で応えた。

◆第10試合 62.5kg契約 5回戦

永澤サムエル聖光(ビクトリー/ 62.5kg)
      vs
コムキョウ・シット・ポーチョーウォー(タイ/ 62.0kg)
勝者:永澤サムエル聖光 / TKO 3ラウンド1分52秒 / カウント中のレフェリーストップ
主審:松田利彦

永澤サムエル聖光はWMOインターナショナル・ライト級チャンピオン。コムキョウは「タイ国ムエサヤーム・パーカン・スーパーフェザー級チャンピオン」の肩書きが発表されている。

開始から永澤サムエル聖光はパンチを加えながらローキック中心の様子見。左フックがコムキョウにヒットするがノックダウンには至らず。コムキョウの右足が永澤のローキックでダメージが増えていた。
第2ラウンド、コムキョウは身長差を活かして間合いを潰そうとするが、永澤がローキックで切り崩し、ラウンド後半、永澤は左フックでコムキョウの顔面にヒットしノックダウンを奪い、右ストレートで2度目のノックダウンを奪う。ラッシュを掛けるがこのラウンドは終了。

第3ラウンド、永澤は左右のローキックで揺さぶり、コムキョウはミドルキックで打開を試みるが、永澤の左フックがコムキョウのボディーに入り、動きが止まったところに左右のストレートが決まるとレフェリーがストップし、永澤がTKO勝利となった。

試合前、永澤サムエル聖光は「何度もタイ選手とやっていますし対策は大丈夫です。KO勝利を狙います。」とノックアウトを予告。
この日のMVPに選ばれリング上で表彰された後に、「予告通りノックアウトしましたね。」と問うと「予告通りしました。次の2月もKO狙います。」と笑顔で応えていた。

勝機を見出し、勢い付いて雄叫びを上げながらコムキョウに蹴り込む永澤サムエル聖光

コムキョウを倒しに行く永澤サムエル聖光、第2ラウンドは時間切れ

◆第9試合 70.0kg契約3回戦

モトヤスック(治政館 / 69.0kg)
      vs
シュートン・ヨーユットムエタイジム(タイ/ 67.7kg)
勝者:モトヤスック / 判定3-0
主審:少白竜
副審:椎名29-27. 仲30-27. 松田30-27

モトヤスックはWMOインターナショナル・スーパーウェルター級チャンピオン。シュートンはWMOインターナショナル・ミドル級チャンピオン。

初回、シュートンの重そうなパンチでモトヤスックはやや面喰った感じも、パンチで返していく展開。

第2ラウンド、モトヤスックは長身を活かす攻撃に切り替えペースを作っていく。シュートンはパンチ主体で攻めるが、ラウンド終盤、モトヤスックの左ストレートが入り、シュートンの動きが止まる。

第3ラウンド、モトスヤックはパンチ主体で出て、右ストレートヒット、更に左右のストレートが決まって攻勢。終了間際残り5秒でモトヤスックは右ストレートでノックダウンを奪う。シュートン選手は立ち上がるも試合終了。

試合前にモトスヤックは「自分のペースで戦う」とコメントし、「ファンの子供達も応援しています」と伝えると照れながら「頑張ります。」とコメント。試合後はノックアウト勝ち出来なかったことを悔しがっていたが、すでに気持ちは次の段階へ向いていた様子。

頑丈な体格のシュートンへ右ミドルキックを蹴り込むモトヤスック

重いパンチ連打でシュートンをノックダウンに追い込むモトヤスックのラッシュ

◆第8試合 72.5kg契約3回戦

光成(ROCK ON/ 72.0kg)
      vs
匡志・YAMATO(大和/ 72.5kg)
勝者:光成 / 判定2-0
主審:桜井一秀
副審:椎名29-29. 少白竜30-29. 松田30-28

光成はジャパンキック協会ミドル級チャンピオン。匡志・YAMATOはWBCムエタイ日本スーパーウェルター級チャンピオン。

初回、光成はパンチで仕掛け、匡志も応戦する展開での探り合い。第2ラウンド、匡志の右ストレートがヒットするも後が続かず、光成はペースを掴み、パンチのラッシュを仕掛ける。

第3ラウンド、光成は体格差を活かして前進、匡志は光成の距離にならないように打開を図る。中盤以降に匡志は光成のミドルキックを受けながら首相撲に持ち込もうとするがペースが掴めず終了し、光成の判定勝利。
試合前の光成は「試合を盛り上げる為に判定は考えず、KO勝ちを狙います。倒します。」と心強いコメント。

試合後は勝利をした安堵感はあったようだが「KO勝ちしたかった。次頑張ります。」と少し悔しさがあった様子だった。

光成が連打で匡志YAMATOをロープ際へ追い込む

◆第7試合 女子46.0kg契約3回戦

藤原乃愛(ROCK ON/ 45.7kg)
      vs
チョンプー・コーラットスポーツスクール(タイ/ 44.5kg)
勝者:藤原乃愛 / 判定3-0
主審:仲俊光
副審:桜井30-28. 少白竜30-28. 松田30-27

藤原乃愛は女子キック(ミネルヴァ)ピン級チャンピオン。チョンプーはアマチュアムエタイ48kg級世界選手権覇者

初回、藤原乃愛はミドルキック、ハイキックで自分の間合いを作りながら主導権を奪いに行き、チョンプーは首相撲からのヒザ蹴りで主導権を握ろうとする展開。

第2ラウンド、藤原乃愛のミドルとハイキックのコンビネーションの数が増え、チョンプーは首相撲に持ち込んでヒザ蹴りで打開を狙うが、藤原乃愛は首相撲から離れ、キック攻撃を繰り返す。チョンプーも蹴り返すが、藤原乃愛が攻勢を維持した流れ。

第3ラウンド、チョンプーは首相撲から切り崩そうとするが、動きが鈍り始める。藤原乃愛は蹴り中心で攻めて行く中、コーナーに追い詰め、左右のストレートも的確にヒットする。チョンプーはパンチのラッシュをかけるが巻き返せず試合終了し、藤原乃愛が判定勝利。

藤原乃愛は試合前、「今回は3連続KO勝ちを狙っていきます。」とコメント。
試合終了後のゴングが鳴った瞬間について聞くと、「やり切ったという気持ちになりますね。」と言い、更に「1ラウンド2分は物足りない。3分は戦いたいですね。」とコメント。そして、「女子選手の試合数がまだまだ少ないので、もっと増やして欲しいと思います。」と前向きな姿勢を見せた。
試合後は「試合には勝ちましたが、KOできず悔しかったです。次はKOできるように頑張ります。」とコメント。更に「キック主体のスタイルを作っていきたい。」と改めて今後の課題もコメントし、明るく元気で笑顔を見せながらファンと記念撮影をしていた。

毎度の藤原乃愛の切れ味抜群のハイキックは曲者チョンプーを苦しめた

◆ジュニアキック(小学生)・エキシビジョンマッチ(各1ラウンド)

東蒼馬(ビクトリー)EX島野一颯(治政館)
小幡優来(ビクトリー)EX藤原駈(ROCK ON)
丹野優志(ビクトリー)EX後藤結心(拳伸)

接近戦で睦雅の左ヒジ打ちがヒット、勝利を大きく引き寄せた

◆第6試合 62.0kg契約3回戦

JKAライト級1位.睦雅(ビクトリー/ 62.0kg)
      vs
チャナペット・GTジム(元・ルンピニー系フライ級5位/タイ/ 61.65kg)
勝者:睦雅 / TKO 3ラウンド 1分29秒 / レフェリーストップ
主審:椎名利一

初回、睦雅は重めのパンチで攻め、チャナペットは体格差に動じずミドルキックで主導権争い。

第2ラウンド、チャナペットのミドルキックが的確に決まっていくが、睦雅選手は焦ることなく、体格差を活かしたパンチ主体の攻撃で自分のペースに持ち込んでいく。

第3ラウンド、睦雅のパンチとチャナペットのミドルキックからの首相撲の応酬から睦雅の左ヒジ打ちがチャナペット選手の顔面を捉えノックダウンを奪う。チャナペットはフラフラになりながら立ち上がるも、睦雅の左右のストレートのラッシュを浴び、レフェリーストップで睦雅がTKO勝利。
睦雅は試合前、「自分のペースでKO勝ちを狙っていきます。」と笑顔でコメント。タイトルについては、同じジムの永澤選手がいるので難しいかも」と遠慮がちにコメントしていたが、機会があればいつでも狙うという気持ちは伝わるコメントだった。

試合後は「左のヒジ打ちは感触があり、その後に繋がってKOできたよかったです。」と試合内容には満足していた様子。「次回もKO勝ちを狙っていきます。」と笑みを浮かべて応えた。

◆第5試合 51.5kg契約3回戦

JKAフライ級1位.細田昇吾(ビクトリー/ 51.5kg)
      vs
NJKFフライ級5位.TOMO(K-CRONY/ 51.4kg)
勝者:細田昇吾 / 判定3-0 (30-28. 30-29. 30-28)

◆第4試合 フライ級3回戦

西原茉生(治政館/ 50.8kg)vs 明夢(新興ムエタイ/ 50.55kg)
勝者:西原茉生 / 判定3-0 (30-27. 30-27. 30-27)

◆第3試合 フェザー級3回戦

勇成E.D.O(E.D.O/ 56.8kg)vs 石川智崇(KICK BOX/ 56.75kg)
勝者:石川智崇 / 判定0-3 (28-29. 28-29. 28-29)

◆第2試合 52.5kg契約3回戦

甲斐喜羅(ビクトリー/ 51.3kg)vs カズキ・シッソー(トースームエタイ/ 52.5kg)
勝者:甲斐喜羅 / 判定2-1 (29-30. 29-28. 29-28)

◆第1試合 ライト級3回戦

隼也JSK(治政館/ 60.3kg)vs 岡田彬宏(ラジャサックムエタイ/ 60.7kg)
勝者:岡田彬宏 / 判定0-3 (27-30. 27-30. 28-29)

《取材戦記》

いつものKICK Insistは永澤サムエル聖光や瀧澤博人がメインイベントを務めるが、今回は初出場の、ミニフライ級でムエタイ二大殿堂同時制覇を果たした吉成名高が起用となった。永澤サムエル聖光とのダブルメインイベントと銘打たれているが、大トリは吉成名高である。その実力は実績が物語るとおりのスピードとテクニックで圧倒したTKO勝利でした。

◎今回の試合レポート、インタビューは前回同様、同行の記者によるものです。その感想は下記の通りです。

今回は判定決着が多かったですが、永澤選手と名高選手が王者らしいKO勝ちをしてくれたことで興行が締まり、ジャパンキックボクシング協会年内最終の興行として良い締め括りでした。ジュニアエキビションに出場した子供達数名に話を聞きましたが、王者顔負けの受け答えで、エキビション後、反省までしていたのは驚きました。その子の親、会長の指導が行き届いているようで、こういう底辺から将来を背負う選手が現れるのでしょう。

藤原乃愛選手は、自分のスタイルを確立するという目標をもっていたり、会長の信頼を受けて結果を残した細田昇吾選手や、光成選手、モトスヤック選手のように“王者は団体の顔”と自覚してKO勝ちできなかったことに悔しさを滲ませていた姿を見て、この団体も選手層が厚くなれば、いずれ大手のイベント化した興行を上回るのではないかと期待が持てました。

また、藤原乃愛選手の攻め方に、昭和時代に活躍した竹山晴友さんを思い出し、竹山さんは極真空手仕込みのパンチのラッシュで相手を倒していきましたが、藤原乃愛選手はキックのラッシュで相手をノックアウト、戦意喪失に追い込めるスタイルの確立が期待出来そうです。

来年のジャパンキックボクシング協会最初の興行は1月29日(日)、後楽園ホールで武田幸三さんのYashioジム主催興行が予定されています。

(編集上の都合で割愛した部分はありますが、今後も掲載は上手く工夫して参ります。堀田)

▼堀田春樹(ほった・はるき)[撮影・文]
フリーランスとしてキックボクシングの取材歴32年。「ナイタイ」「夕刊フジ」「実話ナックルズ」などにキックのレポートを展開。ムエタイにのめり込むあまりタイ仏門に出家。座右の銘は「頑張るけど無理しない」

タブーなきラディカルスキャンダルマガジン 月刊『紙の爆弾』2022年12月号

「押し紙」裁判に新しい流れが生まれ始めている。半世紀に及んだこの問題に解決の糸口が現れてきた。

11月14日、西日本新聞(福岡県)の元店主が、「押し紙」で損害を被ったとして約5700万円の損害賠償を求める裁判を福岡地裁へ起こした。訴状によると元店主は、2005年から2018年までの間に3店の販売店を経営した。「押し紙」が最も多い時期には、実配部数(実際に配達する部数)が約1300部しかないのに、約1800部の新聞が搬入されていた。

他の「押し紙」裁判で明らかなった「押し紙」の実態と比較すると、この販売店の「押し紙」率は低いが、それでも販売店経営を圧迫していた。

この裁判には、どのような特徴があるのだろうか?

◆多発する「押し紙」裁判、読売3件・西日本2件・日経1件

 

販売店の店舗に積み上げられた「押し紙」と梱包された折込広告

「押し紙」裁判は、今世紀に入ることから断続的に提起されてきた。しかし、新聞社の勝率が圧倒的に高い。裁判所が、新聞社の「押し紙」政策の存在を認定した例は、わたしが知る限りでは過去に3例しかない。2007年の読売新聞、2011年の山陽新聞、2020年の佐賀新聞である。

※2007年の読売新聞の裁判は、「押し紙」が争点になったが、地位保全裁判である。

現在、わたしが取材している「押し紙」裁判は、新たに提起された西日本新聞のケースを含めて次の6件である。

・読売新聞・東京本社VS販売店(東京高裁)
・読売新聞・大阪本社VS販売店(大阪地裁)
・読売新聞・西部本社VS販売店(福岡地裁)
・日経新聞・大阪本社VS販売店(大阪高裁)
・西日本新聞VS販売店1(福岡地裁)
・西日本新聞VS販売店2(福岡地裁)

販売店主の中には、新聞社の販売局員から面と向かって、

「あんたたちが裁判を起こしても、絶対に勝てないから」

と、冷笑された人もいる。確かにここ1年半ぐらいの間に裁判所が下した判決を見ると、残紙の存在が認定されているにもかかわらず販売店が3連敗しており、「押し紙」裁判を起こしても、販売店に勝算がないような印象を受ける。その敗訴ぶりも尋常ではない。いずれの裁判でも、判決の言い渡し日が2カ月から3カ月延期された末に、裁判所が販売店を敗訴させた。しかも、3件のうち、2件では最高裁事務総局が裁判官を交代させている。つまり裁判の透明性に明らかな疑問があるのだ。

◎参考記事:産経「押し紙」裁判にみる野村武範裁判長の不自然な履歴と人事異動、東京高裁にわずか40日http://www.kokusyo.jp/oshigami/16016/

新聞社が日本の権力構造の歯車に組み込まれ、世論誘導の役割を担っているから、裁判所や公正取引委員会などの公権力機関が「押し紙」問題を放置する方針を取っている可能性が高いと、わたしは考えている。認識できないだけであって、ほとんどの国でメディアコントロールは国策として巧みに組み込まれているのである。

 

新聞拡販で使われる景品。「押し紙」を減らすために、販売店は新聞拡販に奔走することになる

◆新聞特殊指定の下における「押し紙」とは?

しかし、販売店を敗訴させる判決は、原告の理論上の弱みに付け込んでいる側面もある。その理論上の弱みとは、新聞の「注文部数」の定義に関する不正確な見解である。

通常、「注文部数」とは、販売業者が卸問屋に対して発注する商品の数量のことである。たとえばコンビニの店主が、牛乳を10パック注文すれば、注文数は10個である。同じように新聞販売店の店主が新聞を1000部注文すれば、それが注文部数ということになる。このような「注文部数」の定義は、半ば空気のようにあたりまえに受け入れられている。わたし自身も「押し紙」問題を扱った旧著や記事で、「注文部数」をそのように捉えてきた。しかし、これは誤りである。

今、この旧来の「注文部数」の定義の再考が始まっている。

「押し紙」問題に取り組んできた江上武幸弁護士は、新聞は特殊指定の商品であり、特殊指定の下での「注文部数」の定義は、コンビニなど一般的な商取引の下での「注文部数」の定義とは異なると主張している。

実際、1964年に公正取引委員会が交付した新聞特殊指定の運用細目は、「注文部数」を次にように定義している。

「注文部数」とは、新聞販売業者が新聞社に注文する部数であって新聞購読部数(有代)に地区新聞公正取引協議会で定めた予備紙等(有代)を加えたものをいう。

※注:文中の地区新聞公正取引協議会とは、日本新聞協会に加盟している新聞社で構成する組織である。実質的には日本新聞協会そのものである。

この定義によると新聞の商取引における「注文部数」とは、実際に販売店が配達している部数に予備紙の部数(搬入部数の2%とされている)を加えた総部数(「必要部数」)のことである。この「必要部数」を超えた部数は、理由のいかんを問わず機械的に「押し紙」という分類になる。販売店と新聞社が話し合って「注文部数」と決めたから、残紙が発生しても「押し紙」には該当しないという論理にはらないらい。

新聞特殊指定の下における「注文部数」とは、「実配部数+予備紙」の総数のことなのである。

江上弁護士は、独禁法の新聞特殊指定が作成された経緯を詳しく調べた。その結果、一般に定着している「押し紙」の定義--「押し売りされた新聞」という定義が、微妙に歪曲されたものであることが分かった。この誤った定義の下では、新聞社は販売店の「注文部数」に応じて、新聞を提供しただけで自分たちに新聞を押し売りした事実はないと主張できる。「押し紙」問題の逃げ道があるのだ。

公正取引委員会は、新聞特殊指定の下で、「注文部数」の定義を厳格にすることで、社会問題になり始めていた「押し紙」を取り締まろうとしたのである。

◆佐賀新聞の独禁法違反を認定

この理論を江上弁護士が最初に提示した裁判は、2020年5月に判決があった佐賀新聞の「押し紙」裁判である。この裁判で佐賀地裁は、佐賀新聞社に対して1066万円の損害賠償を命じた上に、同社の独禁法違反を認定した。

江上弁護士が打ち出した「押し紙」の定義を裁判所が無条件に認めたわけではないが、裁判官は法律の専門家なので、法律が規定している客観的な定義を考慮に入れて、判決を書かざるを得なかった可能性が高い。新聞特殊指定の下における客観的な「押し紙」の定義が示されているのに、それを無視して判決を下すことは、プロの法律家としての良心が許さなかったのだろう。

11月14日に提起された西日本新聞の「押し紙」では、「押し紙」の定義が、重要な争点のひとつになる可能性が高い。それを前提として、新聞社の公序良俗違反や押し売りなどの不法行為などが検証される。新聞社の詭弁は、徐々に通用しなくなっている。

この裁判の原告代理人を務めるのは、江上弁護士らである。

▼黒薮哲哉(くろやぶ・てつや)
ジャーナリスト。著書に、『「押し紙」という新聞のタブー』(宝島新書)、『ルポ 最後の公害、電磁波に苦しむ人々 携帯基地局の放射線』(花伝社)、『名医の追放-滋賀医科大病院事件の記録』(緑風出版)、他。
◎メディア黒書:http://www.kokusyo.jp/
◎twitter https://twitter.com/kuroyabu

黒薮哲哉『禁煙ファシズム-横浜副流煙事件の記録』

タブーなきラディカルスキャンダルマガジン 月刊『紙の爆弾』2022年12月号

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