400名を超える学生が暮らす自治寮「熊野寮」には「自由」の空気が流れている。これだけの大所帯なので運営も一筋縄ではいかないだろう。社会や政治に強い興味のある学生も、そうでない学生も暮らす空間は、学生「自治」の最後の砦かも知れない。議論の中で私は「法政大学が監獄大学になるのに10年も要さなかった。京大は確実に権力からタ―ゲットにされていると思う。このまま行けば5年後この場所はないかも知れません」と懸念を述べた。この意見にはKさんも同意され、戦後経験したことの無い、弾圧と反動が今起こっていることについての認識で一致した。

 

議論は終息をみそうになかったが、頃合いを見て気を利かせた卒業生が缶ビールを差し入れしてくれた。熊野寮食堂に冷房はない。当日も扇風機が回っていたが滲み出る汗を抑えるまでの効果はなかったのでビールには助かった。懇談会はあらたまった「閉会」を宣言することなく「もう帰らんと家に着かれへんから」、「明日試験なので勉強して来ます」といって一人抜け二人抜け、また知り合いの顔を見つけた学生が、他の席に移動して行ったりで流れ解散となった。

この日驚いたのはKさんが実に多くの学生を良く知っており、またKさんも学生から認知されていることだった。ビールを数本開けた頃Kさんは「どうですか、この雰囲気は」と私に尋ねた。「いいですね。昔を思い出して懐かしいです」と私が答えると、Kさんは「ここにいた時代は、私の人生にとって何物にも代えがたいんですよ。ここで出会った友人たちが結局人生の中で最も重要な友人となりました」と隠し立てせず思いを語って下さった。

私はよくその気持ちが理解できるような気がした。ここで誤解を招かないように、Kさんの人となりについて若干触れておく必要があるだろう。Kさんは大学卒業後いくつかの企業で先端技術の関連業務に従事していた(現役時代は世界中を飛び回り先端技術者として世界にその名を知られていた)。定年後も独自でコンサルタント業をいとなんでいる。クライアントには海外の企業も多いそうだ。つまり彼は一般的な意味で「社会的に成功した」人物であり、仕事も趣味もない単なる「懐古主義者」とは全く異なる人物であることを強調しておく必要があろう(現役時代の収入は相当なものだったと想像される)。

そのKさんから思いを綴った下記の文章を頂いた。

京大正門には同学会やサークルの立て看板に混じって、ノンセクトの学生が出したと思われる立て看板が有った。「封鎖はオカシイ、でも停学処分はもっとオカシイ、学生に窓口がないなら実力行動は1つの手段だ」とありました。

1970年全共闘運動の終焉の年に京大に入った私にとっては、とうとう来るべきものが来たかであった。文部官僚がじわじわと大学を追い詰め、とうとう本丸に手を出してきました。広範な市民的活動が求められていると思います。

この事件に関しては既に京大当局は同学会を告訴して 関与した中核派が6名逮捕されたが、検察は3月に不起訴にしています。

詩人であり事業家でもあった故堤清二さんは戦後すぐの学生時代に共産党員になり分裂を経験したり、ご尊父との確執があったりして非常に懐の深い人でした。彼が社会思想関連の対談中で「やはり関西では 京大の存在が大きい」なる旨の発言をしています。

戦前京大は河上肇をなどのファシズムに抵抗した多くの知識人、社会主義者を輩出した。大学の自治を守ろうとした滝川事件は有名です。戦後では天皇事件をはじめ、以降綿々と継続しているリベラルの伝統は周知のことです。反原発の原子力研究者が無傷でいられたのも京大らしいといえます。その京大でおおきな反動が起こってきている、全容に迫ろう。

40年以上も前だが京大教養部で学生運動の片隅にいた。当時は三派全学連や全共闘の「実力闘争」は衰えてはいたが、京大では学生運動はそれなりに存在感を示していて、構内はそれぞれの革命を主張する人達でが入り乱れていた。日本共産党と新左翼系は鋭く対立していたが、まもなくその中で中核─革マル─青解の三つ巴の内ゲバが始まった。彼らとは少しはなれて、京大ではブント系が教養部と各学部でゆるくまとまり反帝国主義の旗の元、同学会を日共から奪還したりしてきた。全共闘の崩壊、連合赤軍の破綻、米中友好、などを経て、運動方針をめぐる本質的な亀裂が進行して深刻な事態になってきた。

そんな中で理不尽な暴力を受けたことはあったが、幸運なことに自身が相手の物理的な打撃を目的としたテロに手を染めることはなかった。自分史を語るのが本稿の目的ではないのだが、近年の学生運動を述べるための今の学生と環境を少し比較しよう。

◇経済生活
学費 1970年=12,000円/年 → 2005年=535,800円/年  35年で44.7倍。
この間に、給与5.0倍、白米12.6倍 学費に関してとんでもない値上げが継続してきたことは間違いない。給与との実感では学費は約10倍になっているはずだ。

当時家から定期的な送金がなかった私は自主管理寮にはいり生活費を抑えながらアルバイトを繰り返して何とか食べていた。さすがに学生運動家には無理だろうが、アルバイトだけで郷里へ送金していた人も寮には居たそうだ。文系であれば可能だっただろう。70年代初頭くらいまではこのように社会的な流動性が担保されていたと言えるのではないか。家の経済状況が相当悪い人でも国立大学にそれなりに入っていたことが解る。

現在の学費、入学金、下宿代などを考えると国立大でも入学時に約百万円かかることになる。京大以外ではほとんどの自主管理寮がなくなっているのだから、今大学進学志望者と、その家族は経済的に追い詰められていると思う。まるで新しい封建制が確立しているようだ。

 

◇学生生活
半世紀前との決定的な違いは その余裕のなさだ。当時は文系の学生などは、学生運動やサークル運動に参加しなければそれこそ 「デッカンショ」の世界で、一日中好きな勉強や読書にいそしむことができた。いまやどの講義も出席が単位習得と連動して厳しく管理されている。また英語教育を強化するとして、自習型のコンピューターシステムが導入されて課外での負担も増えているようだ。総じて今京大生はむやみに拘束されて疲れはてて不活発になっている。 (つづく)

▼田所敏夫(たどころ としお)
兵庫県生まれ、会社員、大学職員を経て現在は著述業。大手メディアの追求しないテーマを追い、アジアをはじめとする国際問題、教育問題などに関心を持つ。※本コラムへのご意見ご感想はメールアドレスtadokoro_toshio@yahoo.co.jpまでお寄せください。