昨年10月12日午後10時過ぎ、反骨と反権力の映画監督、若松孝二氏(本名・伊藤孝)が、新宿区内藤町の外苑西通りを横断しようとしてタクシーに撥ねられ、搬送された病院で同月17日に亡くなった事故は、監督の映画ファンや関係者にとっては、大きなショックだった。
ここ数年、2008年の「実録・連合赤軍あさま山荘への道程」、2010年の「キャタピラー」がヒットし、2012年には、「11・25自決の日 三島由紀夫と若者たち」と「海燕ホテル・ブルー」が公開。今年3月9日には、中上健次原作「千年の愉楽」が公開された。
「千年の愉楽」は、第69回ヴェネチア国際映画祭のオリゾンティ部門に招待された。若松監督作品としては2008年から2012年までの4年間に、ベルリン国際映画祭の「実録・連語赤軍あさま山荘への道程」「キャタピラー」、カンヌ国際映画祭の「11・25自決の日三島由紀夫と若者たち」に続き、世界三大映画祭への出品を果たし、仕事はノリに乗っていた。それだけに監督の突然の訃報は、関係者を悲しませたのだ。

監督の事故死は、脱原発運動支持者からも注目されている。昨年9月4日のヴェネチア映画祭での記者会見で、次回作について「今どうしてもやりたいのが東電の話。誰もやろうとしないから本気になってケンカしてやろうと思っています」と宣言。東電に対して腰が引けた既存のマスコミとは違う、斬新な東電批判が、映画になる事が期待されていたからだ。
『紙の爆弾』3月号では、『警察「交通事故捜査」の闇を追う』というタイトルで、監督の事故について採り上げている。
同記事が掲載される直前に四谷署から検察に送検されたが、一度差し戻しされている。4月の人事異動で担当検事が代わり、六月中には起訴・不起訴が決まるという。

3月号の『紙の爆弾』の記事について一部訂正があるので報告したい。
監督夫人が四谷署に呼ばれ、担当者から、監督が中央分離帯を歩いている写真を見せられたとあったが、実際には、現場近くのマンションに住む目撃者が、ベランダから見ていたのが正しい。この目撃者は、監督が中央分離帯を新宿方向に歩いており、事故の瞬間は見ていないが、車のぶつかる音は、聞いたと証言しているという。
過去の紛争になった交通事故捜査では、当日は現地にいなかったはずの目撃者が証言していたケースがある。あるいは、実際の証言とは違った内容の事が、調書に書かれていたりするケースもあった。こういうことは、裁判になって目撃者が出てこない限りは、検証のしようがない。

また、3月号に書いていない重要な情報がある。タクシーに搭載されたドライブ・レコーダーの映像には、監督がタクシーに轢かれる直前に、中央分離帯寄りの追い越し車線からタクシーを追い越し、監督の横をすり抜けていった黒塗りのハイヤーらしき車両が映っていたという。
四谷署は、現場近くに立看板を設置して、このハイヤーを探しているという。だが、3月号でも批判したように、道路に向けて平行に立てられた立看板の字を走行中の車から読めるはずがない。それに警察のNシステムを使えば、事故当日の時刻に都内を走行中の黒塗りのハイヤーを絞り込むことは可能なはずだ。遠隔操作事件の片山容疑者の車を追跡出来るぐらいなのだから。要は捜査する気があるなしの問題だろう。

3月号で触れた監督の事故から4時間半後に月島区道交差点に倒れていてタクシーに轢き逃げされた朝日新聞科学医療部所属の女性記者については、朝日新聞広報に取材を申し入れている。
また、原発事故から3ヶ月後の2011年6月の深夜に、国会議事堂近くの道路に倒れているのを発見されて、病院で死亡した読売新聞広告局の宮地正弘という人物についても情報を集めている。ネット情報によると、宮地氏は、東電の記者会見場で、司会者に発言を制止されるほど激しく東電批判をしていた人物と、同一人物の可能性があるという。

(高田欽一)