1995年1月17日早朝に発生した「阪神大震災」から23年になる。震災の記憶を「風化」させてはならない、と神戸などでは毎年行事が行われる。はたして震災の記憶を「風化」させないことにはどのような意味があるのだろうか。またそれは可能だろうか。

◆悲しみは20年程度で消えるものではない

「阪神大震災」だけではない。おそらくは1995年から日本は地震の活動期にはいり、その後20年ほどのあいだに大地震が頻発した。ここ半世紀ほど経験のなかった震度6級の地震が北海道、岩手、福島、新潟、長野、島根、熊本(それ以外にも震源地はある)と全国で発生している。

記憶の「風化」は揺れの経験者や被災者には起こらない。忘れようにも体に染みついた揺れへの恐怖心や、被災による悲しみは20年程度で消えるものではない。被災の苦しみは後遺症や生活困窮となり現在進行形でも被災者を苦しめている。困難の渦中にあるひとびとにとっては「風化」どころではない。

他方、大地震を経験せず、東日本大震災も映像や報道でしか触れなかったひとびとは「震災」をどう感じているだろうか。もちろん一様ではないだろう。共感力の優っているひとは、自分の身に何が起こらずとも情報からだけでも自然災害へのある種の「畏敬」や被災したひとびとの苦難を、わがこととして感じ得よう。あるいは自分も揺れを体感しても、すぐ近くで苦闘しているひとたちに思いをいたすことができないひとが、震災直後からいたことは、1995年の西宮と大阪の意識格差から思い出される。


◎[参考動画]阪神淡路大震災当日 東灘区、灘区の様子(hanahana1187 2015/01/16公開)

◆「もうええ加減、会社出てこられへんの?」 

「もうええ加減、会社出てこられへんの?」 震災から3日後に大阪市南部にある中小企業に勤務する知人は西宮の自宅へ連絡を受けていた。1月17日早朝の大地震発生直後、テレビは即、大阪、京都の震度を報じたが、なぜか神戸の震度だけはしばらく抜けていた。京都で揺れを感じたわたしは「神戸だ」と直感し、親戚、知人に安否を確認すべく電話をかけまくった。幸い直接の知人には、犠牲者や怪我人はいなかった。が、その数分後から関西地方を中心に有線電話はほとんど使えなくなった。

阪急神戸線は大阪(梅田)から西宮北口までは運行していた。その先神戸方面へは不通だった。大阪(梅田)駅周辺には目立った被害は確認できない。地震の直後にビルの屋上で作業用のクレーンが倒れた映像が繰り返し放映されていたが、大阪中心部の被害は、その程度だった。阪急電車が西へ動き出すと景色は少しづつ変化を見せた。ブルーシートを屋根に被せた民家の姿がところどころにみられるようになってきた。武庫川にかかる西宮大橋を渡ってからは街の姿が一変する。何年か前に本通信に書いたが、西宮北口駅周辺は「爆撃を受けた町」の様相だった。

知人は本当であればそこから2駅宝塚方面に乗り換えると、駅から近い場所に住んでいたが西宮北口から宝塚へ向かう電車は運行していないから、徒歩で向かった。新しく建てられた住宅は外見上無事に見えるが、古い民家は軒並み全壊で、崩壊した文化住宅にはまだ救助の痕跡すら見当たらなかった。まだ荼毘に付されない亡骸がそここに埋まっている。そんな状況が地震発生3日後の西宮だった。

阪神高速道路が横倒しになり、新幹線の高架が何か所も崩れ落ちている映像はその日のうちに全国に放映された。それでも大阪から電車で特急なら15分、距離にして15キロの被災者に向けて「もうええ加減、会社出てこられへんの?」と声をかけるひとが震災3日後に実在した。

そのひとにとって「阪神大震災」はどう感じられたのだろう。彼にとっては、身近な知人が被災していても、町が火に包まれ、寒空の下路上に家から逃げ出したひとが途方に暮れていても、特段心に感じるもののない光景だったのだろう。そのようなひとに「感じろ!」と詰め寄っても意味はない。感じられないひと、心動かないひとに「こんなに酷いんだよ、こんなに困っているんだよ!」と丁寧に話せば話すほど、そのひとの心中はますますしらじらと冷めてゆく。「風化」どころではない「不感」である。


◎[参考動画]阪神大震災 1995年(平成7年)1月17日(kinnsyachi2012 2017/09/25公開)

◆「人間が自然を制御できるはずがない」

どうして、「阪神大震災」の記憶を語り継がねばならないか。どうして「風化」させてはならないか。その回答は単純だ。

「人間が自然を制御できるはずがない」

この分かり切っているようで、やもすると日々の生活で勘違いしそうな大原則を思い起こすことが、今日ますます重要になっているからだ。だけれども、不幸なことに、日本列島は「阪神大震災」のあと、数々の大地震を数年おきに経験している。原発4機爆発首都圏4000万人避難の可能性も検討された東日本大震災まで起きてしまい、東日本は地震と津波だけでなく放射能汚染にもさらされてしまった。

過剰にすぎるいいかたになるが、もう揺れは日常なのだ。そしてひとびとはその危険性と恐怖をむしろ「忘却」しようと無意識に「日常」をこしらえる。もちろん毎日、毎日怖がってばかりいたら精神が持たないし、穏やかに暮らすこともできない。でも「阪神大震災」を「風化」させるな、というのであれば、「正しく怖がる(物理的、精神的に準備する)」ことしか被災者以外のひとにはなすすべがあるだろうか。犠牲者を追悼することに異議はない。それはしかし震災に限ってのことではないはずだ。

「自然の力に人間は到底及ばない。そんな程度の生物であることを自覚しなおそう」とでも明確に伝える方が「風化」を嘆くより意味があるかもしれない。


◎[参考動画]阪神大震災発生当日 西明石から被災中心地へ(yankayanka 2015/01/17公開)

▼田所敏夫(たどころ としお)
兵庫県生まれ、会社員、大学職員を経て現在は著述業。大手メディアの追求しないテーマを追い、アジアをはじめとする国際問題、教育問題などに関心を持つ。※本コラムへのご意見ご感想はメールアドレスtadokoro_toshio@yahoo.co.jpまでお寄せください。

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