老いの風景〈06〉要介護1でなお、変わらぬ個性

平均寿命が延び、高齢の親御さんやご親戚家族の健康について、悩みを抱える方が多いのではないでしょうか。私自身、予期もせず元気で健康、快活だった母の言動に異変を感じたのは数年前のことでした。そして以降だんだんと認知症の症状が見受けられるようになりました。今も独り暮らしを続ける89歳の母、民江さん。母にまつわる様々な出来事と娘の思いを一人語りでお伝えしてゆきます。同じような困難を抱えている方々に伝わりますように。

◆認知症を除けば、足腰丈夫な健康体

民江さん89歳は、すこぶる健康体で認知症を除いてこれといった大きな病気はありません。転んだことをきっかけに杖を勧められて使うようになりましたが、足腰は丈夫です。

ですからその右手に持った補助的な杖は、別の用途で使うことがあります。道端で弱った子猫を狙うカラスに向かって杖を振り回して追い払った時は『なんと勇ましい!』で済みましたが、指で示す代わりに杖の先で示してしまうのは困りものです。

外出中に何かの理由で杖を水平に持ち上げて教えてくれることが度々あります。スーパーで店員さんを呼び止めて「これ」とお茶のペットボトルの箱を杖で指し、ショッピングカートに積んでほしいと指示していることもありました。

病院で少し離れたところにスリッパを、杖を使って履きやすい位置に動かしていました。私がたまたま少し離れていたときは慌てて駆け寄り、周りの方々に頭を下げて謝ることになりますが、本人はシャキッと突っ立ったままです。「杖を持ち上げたり、杖で物を指したりしたら、危ないし失礼だからやらないでね。」と何度言ってもやめることはできないようです。

姿勢の良さは羨ましいほどです。父親に厳しく躾けられたと昔から誇らしそうに語っていた通り、今でも背筋はまっすぐ伸びています。最近特に慎重にゆっくりと歩きますので、胸を張ったその姿は悠然として貫録があります。

病院の待合室でもソファーにもたれかかることはなく、背筋を伸ばして顎を引き、手は膝の上に置いて凛として周りを見回しています。これなら杖は要らないんじゃないか(だって立ったまま「ヨイショ」と声を出して見事にズボンを履いていますし)と私なんかは思うのですが、「転ぶといけないから要る」と本人は頑なです。はいはい、どうぞ使ってください。

◆『してやったり』の目つきも口調も昔と一緒

性格としては、昔から誰にでも平気で話しかけるタイプでした。ベビーカーに座った赤ちゃんを見ると「あら、可愛い」と声を掛けますし、軒下で雨宿りをしている親子を車に乗せて家まで送ってあげたのは30年ほど前のことです。そして……犬のリードを外して散歩をさせている飼い主さん、橋の上で鳩に餌をあげているおじさん、駅の階段でしゃがみこんでいる高校生の集団、電車の中で足を広げてふんぞり返っている若いサラリーマン……などなど、見逃すことは決してありません。いつか反撃されるのではないかと家族はひやひやしていたものです。

そんなアグレッシブを絵にかいたような民江さんが、要介護1の認定を受け、身の回りのことが出来なくなり、自分から何か出来事を話してくれることがなくなってきたこの頃、急に思い出したように言いました。

「電車でね、若い男が足を広げて座ってるから注意してやったわ。」「えっ、いつ?」「昨日かなぁ、その前かなぁ」と。確かに二日前に久し振りに電車に乗って一人でお昼ご飯を食べに出かけています。急に昔のことが蘇ってきただけか単なる幻覚かとも考えられますが、この表情を見る限り、これは実際に今回起きたことなのではないか、目に飛び込んできたものが脳を叩き起こしたのではないかと感じました。

この『してやったり』の目つきも口調も昔と一緒です。89歳の杖をついた白髪のお婆さんが若者を叱りつけている姿を思い浮かべて、私は生まれて初めて心配よりも誇らしい気持ちが勝った瞬間でした。

認知症だからといって人間性まで変わることはないのでしょう。歳を重ねて我が強くなり家族は困ることがありますし、ぼんやりしているので一見弱々しくて心配になることもありますが、民江さんの個性は健在です。安心しました。いつまでも民江さんらしくいてください。病院の帰り道、今日も民江さんは後部座席からマナーの悪い運転手を狙ってるかと思うと面白くなりました。

▼赤木 夏(あかぎ・なつ)
89歳の母を持つ地方在住の50代主婦。数年前から母親の異変に気付く

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