MAX163キロの大船渡高校・佐々木朗希投手が高校野球岩手県大会決勝で監督の判断からケガの防止のために登板回避し、敗退した一件をめぐっては、プロ野球解説者の張本勲氏が世間の批判にさらされている。出演番組『サンデーモーニング』(TBS)で、「絶対に投げさすべき」「けがを怖がったんじゃ、スポーツやめたほうがいいよ」などと根性論的な発言をしたためだ。

近年のスポーツ界では、「選手ファースト」の考え方が一般的になっている。そんな中、あのような発言をすれば、批判されるのも無理はない。

ただ、私自身は、張本氏の経歴からして、あのような意見になるのは当然だと思うし、張本氏の意見も1つの意見として尊重されるべきだと考えている。

◆理不尽な形で甲子園出場の望みを絶たれた高校時代

 

『誇り 人間 張本勲』(著・山本徹美/1995年講談社)。不屈の半生が詳細に綴られている

張本氏の経歴の中で、まず見逃せないのは、高校時代に甲子園を目指しながら理不尽な形でその望みを絶たれたことだ。

張本氏は広島市の公立中学を卒業時、地元の野球名門高校である広島商業か、広陵高校への進学を希望し、学業成績からして合格確実とみられていたが、まさかの不合格。野球があまり強くない地元の高校にいったん進学したが、甲子園出場の夢を諦め切れず、大阪の野球強豪校である浪華商業へ転校した。この野球留学では、兄と姉が生活を切り詰め、学費をねん出してくれたという。

しかし、転校してしばらくすると、浪華商業の野球部は不祥事のため、1年間の対外試合禁止処分に。最上級生になってからも、部内で暴力事件が起きた際、濡れ衣を着せられて休部処分を受け、チームは夏の甲子園に出場したのに、張本氏は出場できなかったのだ。

張本氏は、「サンデーモーニング」で次のように述べていた。

「1年生から3年生まで必死に練習してね、やっぱり甲子園が夢なんですよ。私らの時代はね、夢が欲しくてね、小雨の降る路地で泣いたこともあるんです。耐えて、耐えて」

張本氏としては、甲子園に出られるチャンスがありながら、それを自ら手放すに等しい行為は理解できなかったのだろう。

◆野球ができなくなるほどの負傷を2度乗り越えた

張本氏の経歴でもう1つ見逃せないのは、自分自身の負傷歴だ。

張本氏の利き手である右手は、幼い頃に負った火傷の後遺症で、小指と薬指、中指がくっついた状態だ。そのため、中学で野球を始めた時、投手を希望したものの、満足にボールが投げられなかった。しかし、張本氏はそれでも投手を諦めず、左投げを練習してマスターし、四番投手として県大会で優勝するまでになったのだ。

だが、そこまで努力し、左投手として頭角を現しながら、張本氏は高校時代、今度は左肩を故障してしまう。浪華商業のOBである立教大学の捕手がぶらりとグラウンドにやってきて、「受けてやろう」と言われたので、張り切って投球練習をしたのが原因だ。気づけば、300球近くも投げ込んでしまい、左肩を壊してしまったのだ。

「野球をやるからには四番で投手」と考えていた張本氏は、この負傷をした当初、野球をやめることまで考えたという。しかし、監督から「お前には並外れた打撃力があるやないか」と励まされ、奮起。猛練習により、打者として大成したのだ。

このように張本氏は野球自体ができなくなるような大きな負傷を繰り返しながら、その都度諦めずに乗り越え、3000本安打という偉業を成し遂げた。この成功体験がおそらく、「けがを怖がったんじゃ、スポーツやめたほうがいいよ」という言葉の背景にあるのだろう。

そうはいっても、佐々木投手が張本氏と同じ道を歩む必要はまったくないし、むしろ、大船渡高校の監督が教え子の将来性を考え、登板回避させたのは英断だと思う。だが、スポーツ選手はどんなに細心の注意を払っても、選手生命を失うようなケガをすることもある。そういう時、心に刺さるのは、「ケガをさせないことを第一に考える人の言葉」より、「ケガを乗り越えた先人の言葉」だと思う。

だから、張本氏の意見も1つの意見として尊重されるべきだと私は考える。

※参考文献:『誇り 人間 張本勲』(著・山本徹美/講談社)

▼片岡健(かたおか けん)
全国各地で新旧様々な事件を取材している。著書『平成監獄面会記』が漫画化された『マンガ「獄中面会物語」』(著・塚原洋一/笠倉出版社)が8月22日発売。

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