本能寺の変、黒幕説は以下のとおりである。

【かなり疑わしい】徳川家康・羽柴秀吉・足利義昭
【疑わしいが、本人たちにとって意味がない】イエズス会・朝廷(公卿たち)
【疑わしいが、その実力がない】津田宗及(堺商人)・島井宗室(博多商人)
【疑わしいが、黒幕である意味がない。むしろ前面に立ちたかったのでは?】本願寺教如・長宗我部元親・安国寺恵瓊
【誰でもいいからという説】濃姫(帰蝶)・森蘭丸

前回は徳川家康黒幕説、イエズス会黒幕説について検証してみた。家康説は興味深いが、あまりにも証拠が少ない。

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イエズス会説はルイス・フロイスの「日本史」を引用したとおり、明智光秀こそずる賢い悪魔の手先で偶像崇拝者というのが、イエズス会の光秀評だ。かれらが庇護者である織田信長を殺した黒幕というのは、したがって到底あり得ない。むしろ被害者となったかれらは動機においても、まちがいなくシロであるという結論だった。

◆魅力的な朝廷黒幕説

黒幕説でもっと魅力的なのが、朝廷説(正親町天皇および京都の公卿たち)であろう。この説は多くの歴史研究者や作家が取り組んできた。その有力な動機は、暦の編纂権をめぐってである。

信長は三島歴・尾張歴・そして朝廷が専権的な編纂権を持つ京歴(宣命歴)の矛盾を指摘していた。

すなわち宣命歴では、天正十一年の正月に続けて閏正月を入れるところ、尾張歴では、天正十年の十二月に続けて閏十二月を入れる形だったのである。信長は京歴ではなく、尾張歴でやるべきだと主張しはじめたのである。

朝廷側は「信長が歴問題に口出しをしてきた」と受け止めた。ようするに”時”を支配する天皇の大権を、信長が侵しはじめたとみたのである。

じっさいに、勧修寺晴豊は自身の日記である『日々記』の中で「十二月閏の事申し出、閏有るべきの由(よし)由され候(そうらふ)。いわれざる事なり。これ、信長無理なる事とおのおの申す事なり」と記している。

そして天正10年の上洛時は、別個に政治的な課題として三職推認問題が浮上していた。信長は右近衛大将を辞任してから、官職がない状態だった。何とかして信長を朝廷の政治の中にとどめたい公卿たちは、関白・征夷大将軍・太政大臣のうち、好きな官職を与えると提案していたのだ。このように、当時の信長と朝廷のあいだには、微妙な政治問題が横たわっていた。

何となく、朝廷が関与していそうな。もしも関与していたら、京都という街の公家文化・朝廷の伝統が、革命児たる信長を殺したという、ある種の魅力をもった仮説として読む者を惹き込むのだ。

事実、公卿の吉田兼見は、天正10年に記述した光秀に同情的な部分をすべてカットした日記「兼見卿記」の「正本」を作成している(別本が存在する)。変後に光秀と親しくした一切を、書き換えているのだ。だが、これだけでは確たる証拠とはいえない。そこで論者たちは、無理な読み込みをするのだ。

勧修寺晴豊の「天正十年夏記」には、以下の記述がある。

「六月十七日、天晴。早天済藤蔵助ト申者明智者也。武者なる者也。かれなと信長打談合衆也。いけとられ車にて京中わたり申候」

ふつうに訳せば、生け捕られて京都市中を引き回されている斎藤利三を見かけた晴豊が「かれは信長を討った談合衆(仲間)の武者である」と書いているのだが、朝廷黒幕論者はこれを「われわれと信長を討つために話し合った武士だ」と読み込むのである。黒幕説の文献史料は、これ以上でも以下でもない。京都が信長を殺したという、ロマンあふれる印象が残るばかりだ。

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◆将軍足利義昭黒幕説

これはいまなお、藤田達生が自説としている。おもな証拠になる史料としては、本能寺の変の10日後に紀州の武将、土橋重治に宛てて書いた光秀直筆の書状である。

「なおもって、急度御入洛の義、御馳走肝要に候、委細上意として、仰せ出さるべく候条、巨細あたわず候、仰せの如く、いまだ申し通ぜず候ところに、上意馳走申し付けられて示し給い、快然に候、然れども御入洛の事、即ち御請け申し上げ候、その意を得られ、御馳走肝要に候事」

「上意馳走申し付け」の上意は将軍義昭の意であり、相手に「その意を得られ、御馳走肝要」と感謝していることから、光秀の意志とはべつに、将軍家の意志が働いていることがうかがえる。

全体を訳してみよう。

「将軍を京都に迎えるためにご助力いただけることをお示し頂きありがたく存じます。将軍が京都に入られることにつきましては、既にご承諾しています。そのようにご理解されて、物事がうまく運ぶように努力されることが肝要です」

だがこの書状は、日付が6月12日と本能寺の変から10日も経過している。さらに義昭は、羽柴秀吉や柴田勝家にも上洛を支援するようもとめている。ようするに、支援の要請を乱発しているのだ。これでは「事前共謀」の黒幕の証拠とは言いがたい。

もっと決定的なのは、毛利家の庇護下にあった将軍義昭(備前の鞆に御所があった)が、秀吉の撤退(中国大返し)とともに毛利家を動かしていないことである。最も信頼できるはずの毛利家を動かせず、織田家臣団に自身の上洛への支援要請をしているようでは、とうてい上洛はおぼつかない。

将軍義昭は信長存命中も、上杉謙信や北条氏政、武田勝頼に内書を送っては上洛を援けよと支援をもとめているのだから。

◆茶人たちの暗躍

変の前日、本能寺では茶会が開かれている。たまたま、島井宗室(博多商人)が上洛していた。信長はその島井宗室が持っている楢柴肩衝を手に入れたかった。そのため、千宗易(利休)から島井宗室に連絡をさせた可能性があるのだ。

この仮定が正しければ、信長は安土城から38点の「大名物茶器」を運んでまで、楢柴肩衝の茶入欲しさに5月29日の大雨の中、無防備な形で本能寺に入ってしまったことになる。

信長の茶頭(師匠)である今井宗久、津田宗及の二人は、その日は堺で徳川家康、穴山梅雪らの接待をしているので、長谷川宗仁が茶頭として茶会を取り仕切ったのではないかと考えられる。じつは千宗易(利休)だけが、その所在が明らかではない。それゆえ、千宗易(利休)から島井宗室に連絡をさせた可能性がある、と仮定したのである。慎重なる仕掛け人は、犯行現場に姿をあらわさない。

この茶会が信長を丸腰に近いかたちで呼び寄せるものだとしたら、本能寺の変の黒幕は堺の茶人たちということになる。動機はいろいろとこじつけられるが、信長の御茶湯御政道(茶器の召し上げ)をこころよく思わなかったとか、御しやすい光秀や秀吉に天下を賭けてみたという理屈も立つかもしれない。茶人たちにしかできない方法で、信長の武装解除が史実で実現したがゆえに、じゅうぶんに成り立つ黒幕説といえよう。しかしながら、かれらが光秀と謀議をはかった証拠は何もない。

◆補記

本願寺教如(信長の宿敵)・長宗我部元親(四国の覇者)・安国寺恵瓊(毛利家臣)らは交戦中か交戦前で、まさに信長を滅ぼしたい人々であろう。ただしこの人たちは、わざわざ黒幕になる必要もない、実力の持ち主である。変後に光秀と提携した形跡はない。

濃姫(帰蝶)・森蘭丸とかになると、もう誰でも黒幕になれます的なものだ。濃姫は結婚後の消息が史料になく、安土殿という本能寺の変後の記述がそうではないかと考えられる程度の存在感の希薄さ。森蘭は本能寺で死んだのだから、わざわざ黒幕に挙げる人の気が知れない。やはり本能寺の変のあとに二条御所で死んだ信長の嫡男・信忠を黒幕とする説もあることを付記しておこう。

いっそのこと、浅井茶々(淀殿)黒幕説とかどうですかね。いちおう信長に父親を殺されていますし、その髑髏を酒器にされて酒宴もされてますからね。(完)

▼横山茂彦(よこやま・しげひこ)

編集者・著述業・歴史研究家。歴史関連の著書・共著に『合戦場の女たち』(情況新書)『軍師・官兵衛に学ぶ経営学』(宝島文庫)『闇の後醍醐銭』(叢文社)『真田丸のナゾ』(サイゾー)『日本史の新常識』(文春新書)『天皇125代全史』(スタンダーズ)『世にも奇妙な日本史』(宙出版)など。医科学系の著書・共著に『「買ってはいけない」は買ってはいけない』(夏目書房)『ホントに効くのかアガリスク』(鹿砦社)『走って直すガン』(徳間書店)『新ガン治療のウソと10年寿命を長くする本当の癌治療』(双葉社)『ガンになりにくい食生活』(鹿砦社ライブラリー)など。

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