正月のこととて、あまり生々しい政治論や天皇制論などは避けて、しっとりとしたテーマを選びましょう。文化論として読めば、天皇史は神仏崇拝・神社仏閣の歴史であり、和歌や宮中儀典など古今伝授をめぐる文化史でもある。

とはいえ、史実の裏側を読み解くのがこの連載の持ち味である以上、やはりスキャンダラスなものにならざるをえない。今回は「昭和天皇の妹」のことである。

すでにご存じの方も、かのお方が三島文学の最期のエッセンスのヒントになったことをめぐりながら、文学散歩としてお読みいただければ幸甚です。

◆男女の双子だった?

大正天皇は貞明皇后(九條節子)とのあいだに、4人の皇子をなした。近代天皇の中では、男ばかりつくったのは稀である。明治天皇が15人中5人の男子、昭和天皇は7人中男子は2人である。

だが、その大正天皇にも娘がいた、という説があるのだ。しかもそれは、男女の双子であったことから、畜生腹を嫌う皇室および宮内省において、他家(山本實庸子爵)へ養女に出されたというものだ。

したがって、その説は「悲劇の皇女」ということになる。その内親王になるはずだった娘の名は、山本静山尼(じょうざんに)という。

 

河原敏明『昭和天皇の妹君』(2002年文春文庫)

唱えたのは、皇室ジャーナリストの河原敏明である。

河原敏明は1952年(昭和27)に皇室ジャーナリストになり、『天皇家の50年 激動の昭和皇族史』(講談社・1975年)、『天皇裕仁の昭和史』(文藝春秋・1983年2月。文庫版は「昭和天皇とその時代にと改題)など、多数の皇室関連の著書がある。そのうちの一冊が、『悲劇の皇女 三笠宮双子説の真相』(ダイナミックセラーズ・1984年7月)なのである。

大正天皇の4人の息子たちを確認しておこう。

昭和天皇(迪宮裕仁親王)、秩父宮雍仁親王(淳宮)、高松宮宣仁親王(光宮)、三笠宮崇仁親王(澄宮)の4人である。

河原によれば、このうち三笠宮と双子だったのが奈良円照寺の門跡、山本静山尼(絲子)だというのだ。したがって、前述のとおり昭和天皇の妹ということになる。
河原説には、証言もあるという。ひとりは末永雅雄という考古学者(関西大学名誉教授)で、橿原考古学研究所初代所長を務めた人物である。もともと、この人の証言から出発した河原説である。

もうひとりは、静山尼の兄君とされる高松宮である。

『高松宮日記』昭和15年(1940年)1月18日条には「15時30分 円照寺着。お墓に参って、お寺でやすこ、山本静山と名をかへてゐた。二十五になって大人になった」とある。

円照寺は有栖川宮(江戸初期からの宮家で、大正2年に威仁親王が薨去して廃絶)ゆかりの寺院である。その有栖川宮の祭祀を継承したのが、高松宮なのである。したがって山本静山が、高松宮から「やすこ」と呼ばれる特別な人物であったことが分かる。

静山がしばしば上京したときに皇居をおとずれ、天皇をはじめとする皇族たちと歓談していたこと、それはとりわけ若いころの慣習だったなどとしている。そして静山尼が昭和天皇によく似ている、と河原はいう。

◆本人も宮内庁も否定する

河原がこの説を『週刊大衆』に掲載した当初、宮内庁側は黙殺していた。昭和の時代は、南朝熊沢天皇やご落胤説などが流行った時代でもあった。

ところが、1984年(昭和59年)1月になって再度取り上げられ、今度は大きな話題となった。同年1月20日、宮内庁はこの説を全面的に否定する声明を発表した。

さらに河原の「皇室が双子を忌み嫌う」という主張に関して、宮内庁は近代以降も伏見宮家の敦子女王と知子女王の姉妹(1907年生)が双子として誕生し、いっしょに成長した事例を反証として挙げた。

ついで、山本静山尼みずから、河原説を否定する。そして末永雅雄教授も、河原への証言そのものを否定した。

こうして、河原敏明の「昭和天皇の妹説」は、はなはだ論拠を欠くものとなってしまったのだ。

三笠宮夫妻も後年になって『母宮貞明皇后とその時代 三笠宮両殿下が語る思い出』(工藤美代子著、中央公論新社、2007年)中のインタビューで、河原の双子説を否定する。

静山尼本人は、いたって鷹揚とした女性だった。「河原さんは、もうそればっかりで」などと、笑いながらあきれたように会話し、河原の双子説を楽しんでいるかのようだ。

◆大正天皇のご落胤か?

河原の説を新しい地平に押し上げたのが、原武史(日本政治思想史・明治学院大学名誉教授)である。

原は『高松宮日記』の記述に加え、『蘆花日記』の大正4年(1915)11月25日および12月3日、『貞明皇后実録』昭和15年(1940年)9月30日、山本静山の誕生日(1月8日)と三笠宮の誕生日に1カ月あまりのズレがあることを根拠に、「崇仁とともに生まれた二卵性双生児の妹ではなく、大正天皇とある女官との間に生まれた庶子ではなかったか」と推測している(『皇后考』講談社・2015年)。

生涯、貞明皇后を唯一の伴侶にしたはずの大正天皇にご落胤があった、というのだ。これなら落ち着きやすい仮説だが、今後の研究が待たれるとしておこう。静山尼は5歳のときに京都大聖寺で落飾し、8歳で円照寺に入山したという。5歳で出家とは、いかにも理由がありそうだ。

◆三島が会った静山尼

三島由紀夫の最後の長編『豊饒の海』は、朝廷をめぐる婚姻の悲恋をひとつのモチーフにしている。第一部『春の雪』における綾倉聡子と松枝清顕の恋、そしてそのもつれから物語が錯綜し、聡子が洞院宮治典王との縁談に勅許が下ることで、禁断の愛へと転化するのだ。ふたりは逢瀬をかさね、堕胎ののちに聡子は出家を決意する。

三島は作品のモチーフを『浜中納言物語』としているが、サブモチーフには加賀前田家における悲恋、島津藩西郷家における悲恋譚を取材している。そして自身のモチーフとして、正田美智子(上皇太后)との縁談があった。

そして作品中の月修寺を取材するために、山本静山尼が門跡をつとめる円照寺を訪れたのだ。(つづく)

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▼横山茂彦(よこやま・しげひこ)
編集者・著述業・歴史研究家。歴史関連の著書・共著に『合戦場の女たち』(情況新書)『軍師・官兵衛に学ぶ経営学』(宝島文庫)『闇の後醍醐銭』(叢文社)『真田丸のナゾ』(サイゾー)『日本史の新常識』(文春新書)『天皇125代全史』(スタンダーズ)『世にも奇妙な日本史』(宙出版)など。

月刊『紙の爆弾』2021年1月号 菅首相を動かす「影の総理大臣」他

渾身の一冊!『一九七〇年 端境期の時代』(紙の爆弾12月号増刊)

鹿砦社創業50周年記念出版『一九六九年 混沌と狂騒の時代』