「Beyond Borders」──。今年に入ってから関西のJRに乗ると頻繁にこのコピーを用いた立命館大学の広告を目にする。今年度、あるいはここしばらく立命館大学がキーワードとしてシリーズで広告を展開するようだ。

私が最初にこの広告を目にして「え!」と驚いたのは本年3月だった。ソチ五輪スノーボードハーフパイプで銅メダルを獲得し、立命館大学に「入学予定」(まだ入学はしていない)の平岡卓選手が宙を舞っている写真とともに単身取り上げられていた。

在学生や卒業生の活躍を大学が広告に利用することは珍しいことではないが、入学予定者(仮に進学が内定していたとしても)を大々的に広告に利用するのは極めて異例である。この広告ひとつからも、現在の立命館大学が持つ特徴の一端が表われていると見ることができる。要は「度を越えている」のだ。

◆京都の庶民派大学、滋賀や大分に「越境」して大変身

立命館大学の歴史は1869年に遡る。京都に西園寺公望が「私塾立命館」を設立し、1900年中川小十郎が「京都法政学校」を夜学として開校する。1913年に広小路に校舎が整い「立命館大学」の名称へ変更され、実質的に今日に続く立命館大学の歴史がはじまる。

立命館は昔から「関関同立」と呼ばれる関西難関私大の一角を占めてはいたものの、他の3大学に比べると、どこか野暮ったく(よく言えば庶民的であり)校地も手狭であったため、華々しい印象を与える大学ではなかった。その立命館が変化を見せるのが1990年代からである。事務職員上がりのたたき上げ、川本八郎氏が理事長に就任し、権限の集中化を進めると積極的な「改革」、「経営」に舵を切る。

京都にしか校地を持たなかった立命館は1994年に滋賀県草津市から校地の提供を受け念願の広大なキャンパスを手に入れる。京都由来の大学としては龍谷大学も大津市にキャンパスを設けており、京都と滋賀県は隣接することからやや大げさな表現になるかもしれないが立命館にとってはこれが最初の地理的な「Beyond Borders」だったと言えるかもしれない。

その後、中曽根康弘が首相時代に提唱した「留学生10万人計画」(2000年までに留学生を10万人受け入れる)に沿う形で2000年、大分県に「立命館アジア太平洋大学」(APU)を開学する。

ただし、APUの開学は地元の反対などで、当初の計画よりも1年遅れた。APUは学生の半数を留学生とし、講義を英語で行うなど先進的な試みを謳い開学したものの、当初は十分な留学生数を確保することが出来ず、世界各国に「授業料は無料で構わないから」と学生募集に奔走していたとの噂が大学業界ではまことしやかに語られていた。

◆「改革者」の理事長が進めた「独裁」

京都は狭い盆地の中に数多くの大学がひしめき合っている。公式に各大学の担当者が集まって定期的に開催される会合もいくつかあり、それ以外でも各大学にそれぞれ知り合いの教職員がいることが多いため、虚々実々の噂が耳に入ってくる。

1990年代中盤以降、立命館大学の職員と接する度に、他の大学関係者は何かしら大学職員としての違和感を感じていた。だから、裏では「株式会社立命館」と呼ばれていた。
系列高校の買収や新学部の創設に邁進する川本理事長は、敏腕経営を実践する「改革者」としてマスコミにも頻繁に登場していたし、氏は京都に限らず全国の大学や企業から声がかかり講演を多数こなしていた。しかし、結果からいえば川本氏は強引な手法を用いて自らに権限を集中し「独裁者」として君臨し、彼に異を唱える者は誰もいないという状況を作り出していたのである。

川本氏は職員時代から日本共産党員であった(たぶん現在もそうであろう)。1960年代から1970年代のいわゆる「学生運動」が盛んだった時期に、立命館大学は京都の中では飛び抜けて教職員、学生とも日本共産党員あるいはそのシンパが多数在籍していた。

京大、同志社では日本共産党から分かれた新左翼系の学生が勢力を強めていったのと対照に、立命館大学では学生自治会もほぼ民青(日本共産党の学生組織)が掌握していた。当時、自治会委員長を務めた人間は学生課長であった川本氏と「共同作業で学園の正常化を進めた」と回顧している。そういった側面からも、立命館大学のどこか地味なイメージというものが定着していったのかもしれない。

◆独裁体制の「一線を越えた」大失態

川本独裁体制に移行して以来、立命館の経営は「イケイケドンドン」に変容した。川本氏は時に日本共産党仲間の人間を学外から抜擢し要職に着任させるなどの独自の手法を用いながら、それでも基本的に人の話に耳を貸さない、独裁者としての確たる地位を確立し、ついに大失態を演じてしまう。

2005年、川本氏は「立命館の一時金は高過ぎるのでカットしたい」と発議し実行する。その一方で「常勤役員退職慰労金」の基準を2倍に高める(年額500万円から1000万円へ)という変更を同時に行った。「常勤役員退職慰労金」とは分かりにくい名称であるが、これは「退職金」ではない。常勤の理事等役員がその役職を離れる時にその間の功労に応じて支払われる制度である(退職金は別途退職の際に支給される)。

その結果、驚くべきことに一般の教職員の一時金を減額しておきながら、川本氏には1億2000万円の「常勤役員退職慰労金」が支払われることとなる。この事件は立命館大学としてのモラル崩壊という点で「Beyond Borders」と言えるだろう。

さすがにこの無茶苦茶さに黙ってはいられないと立命館教職員の有志が理事会を相手取り訴訟を起こすこととなり、新聞、テレビ等でも大々的に報道されることとなる。[次号へつづく] (田所敏夫)