引寺が服役している岡山刑務所

JR岡山駅から路線バスで約20分。「牟佐下」という最寄りのバス亭で降り、5分ほど歩くと、金網で囲まれた岡山刑務所の白い建物が見えてくる。このあたりは山あいに田園と住宅が混在する田舎町だが、多くの凶悪犯を収容している建物はのどかな周辺の景色に案外違和感なく溶け込んでいる。

2010年6月に12人が死傷したマツダ工場暴走事件の犯人、引寺利明(47)と面会するため、この刑務所を訪ねたのは9月初旬のことだった。引寺とは、彼が裁判中に広島拘置所にいた頃から面会、手紙のやりとりを重ねてきた。だが昨年秋、無期懲役判決が確定し、引寺が岡山刑務所に移されて以降は手紙のやりとりだけの関係になっていた。

前回紹介したように、引寺は手紙に無反省のまま、楽しそうな刑務所生活を送っているように書いてきた。だが、これまでに直接取材してきた印象として、この男には偽悪的な一面があるように筆者は感じていた。実際には、刑務所で他の受刑者にいじめられたりして、落ち込んでいたりしないだろうか――。そんな想像をしながら訪ねた面会だった。

◆げっそり痩せていた暴走犯

岡山刑務所に到着後、面会の受け付けを済ませて、待合室で待機すること10数分。「18番の方、1号面会室にお入りください」と呼ばれ、面会室に通じる重いドアをあける。すると、廊下に5つの面会室のドアが並んでおり、1号面会室は一番奥だった。

面会室に入り、まもなく透明なアクリル板の向こう側に引寺が姿を現した時、筆者は思わず、「うわっ……」と声が出そうになった。頭を丸め、緑色の作業服に身を包んでいた引寺がげっそりと痩せこけていたからだ。広島拘置所にいた頃はむしろ肥満気味だったのに……いや、痩せているだけではなかった。「片岡さん。よう来てくれたね」と引寺が口をあけると、前歯がごっそりと抜け落ちていたのである。

本当に、いじめに遭っているのか……と思ったが、引寺によると、そうではないらしい。痩せたことを指摘した筆者に対し、引寺は事情をこう説明した。
「刑務所に来たら、みんな痩せるんよ。理由の1つは、運動をせんこと。もう1つは、好きなもんを食べれんこと。刑務所の食べ物は低カロリーじゃけえねえ。刑務所の中には、メタボはおらんのんよ。ワシ自身、逮捕の時は90キロ近くあったんが、広拘(広島拘置所)で70キロ半ばくらいまで落ちた。それからここにきて、最近、体重を測ったら60キロちょいじゃったわ。じゃけえ、シャバにおった時からすりゃあ30キロくらい痩せたね」

そして引寺は、いじめられているのではないかと想像した筆者の心中を察したのか、うち消すようにこんなことを言った。
「片岡さんら外の人が思うような陰湿ないじめや暴行は刑務所に無いんよ。そういうことしたら、すぐ懲罰に行かされるけえね。刑務所にも気の合う人間はおって、よう話もしよるよ。誰とは言えんけど、広拘におった人も一緒に働きよるしね。同じ出身じゃったりすると、話が合うよね。ああ、そういえば、今回の土砂災害はびっくりしたね。食事しよったらニュースが流れてきて、最初は小規模なやつかと思うとったら、大きなやつじゃったねえ」

引寺は事件を起こす前、8月に土砂災害に遭った広島市安佐南区にあるアパートに住んでいた。実家も安佐南区だ。それだけに、刑務所の中にいながら土砂災害のニュースが気になっていたようだ。12人を死傷させた男もやはり人の子なのである。

◆前歯が無い理由

では、前歯がごっそりと無くなっているのはなぜなのか。引寺は事情をこう説明した。
「歯は元々、シャバにおった時から差し歯じゃったんが、ごっそり抜けたんよ。ごつい差し歯しとったんじゃけどね。最初は逮捕されて、警察の留置所におった時じゃった。そん時は歯医者に連れて行ってもろうて治ったんじゃけど、広拘に移れされてからまた抜けてね。それからはもうマスクをすることにしとったんよ。マスコミが面会に来た時もそうじゃし、弁護士面会の時もそうしとったんじゃけど、ここ(岡山刑務所)じゃマスクができんのよね」

筆者はそんな話を聞き、「ああ、そういえば」と思い出した。広島拘置所にいた頃の引寺は常にマスクをしていたな、と。当時、引寺がいつもマスクをしていたのは、ほこりや病原菌などに神経質な性格なのだろうと勝手に想像していたが、引寺は前歯が無いのを隠すためにマスクをしていたのだ。そのマスクが無くなったことにより、ようやく筆者は引寺の前歯の状態に気づいたわけである。引寺は岡山刑務所に来てから前歯を無くしたのではなく、元々、前歯が無かったのだ。

「片岡さん、お土産無いん?」と引寺が聞いていた。「お土産」とは、本や雑誌のことである。引寺は広島拘置所にいた時から、面会に行くたび、「お土産」を催促してきた。刑務所や拘置所で拘禁された被告人、受刑者を取材していると、本や雑誌の差し入れを頼まれることは多いが、引寺はとくにそうだった。そのことをすっかり忘れ、筆者は手ぶらで面会に来てしまったのである。

引寺は「お土産は無いんかあ。楽しみにしとったんじゃけどのお」と心底残念そうに言うと、こう続けた。
「じゃあ、日用品の差し入れを頼んでええかね。80円切手を何枚か。それと、ボールペンの替え芯。三菱とゼブラのやつがあるんじゃけど、三菱のほうね。間違えんとってね。あと、石鹸が1個欲しいんじゃけど、ええかね」

筆者は「ええ、いいですよ。わかりました」とメモしながら、ふと気になったことを引寺に尋ねた。
「家族は誰も面会に来てないんですか?」
広島拘置所にいた頃は、父親がよく面会に来てくれていると聞いていた。それが判決が確定し、岡山刑務所に移されて以降は誰も家族が面会に来なくなったのではないか。だから、筆者に日用品の差し入れを頼んできたのではないか――と思ったのだ。引寺はこう言った。
「親父が3月に1回、面会に来ただけじゃね。そん時は1万円入れてくれたけどね。広拘おった時みたいに毎月は来てくれんのんよ。まあ、遠いけえね」
父親も大変だな、と思わずにはいられなかった。

◆「逮捕当時の思いはまったく変わらない」

筆者は引寺に対し、引寺から届いた手紙の当欄への掲載許可を求め(※前回紹介した手紙のこと)、承諾を得るという用件を済ませると、今回の面会でどうしても訊いておきたかったことを質問した。
「被害者や遺族に悪いことをしたという思いは、まだ無いんですか?」

引寺は筆者の目を見すえ、きっぱりとこう言い切った。
「逮捕当時の思いはまったく変わりません」
引寺は逮捕当時、「マツダで期間工として働いていた頃、他の社員たちから集スト(集団ストーカー行為)に遭い、恨んでいた」と犯行動機を語っていた。その当時の思いが今もまったく変わらないというのは、つまり、引寺は今も被害者や遺族に対する罪の意識がまったく無い、ということだ。

引寺は「(反省しているなどと)嘘ついても、しょうがないけえね」とシレっと付け加えると、今度はこんな話を始めた。
「ワシはここに来てわかったんじゃけど、刑務所ゆうのは“更生”する施設じゃのうて、(他の受刑者と)“交流”する施設じゃね。まあ、贖罪の気持ちを持っとる人(=受刑者)も少しはおるんじゃろうけどね。(受刑者は)みんな、心の中では、『出たい』『出たい』ばっかりよ。みんな仮釈(放)が欲しいんじゃと思うわ」

そして引寺はこのあと、被害者や遺族が聞いたら卒倒してしまいそうな本音発言を次々に繰り出してきたのである。[つづく]

【マツダ工場暴走殺傷事件】
2010年6月22日、広島市南区にある自動車メーカー・マツダの本社工場に自動車が突入して暴走し、社員12人が撥ねられ、うち1人が亡くなった。自首して逮捕された犯人の引寺利明(当時42)は同工場の元期間工。犯行動機について、「マツダで働いていた頃、他の社員たちにロッカーを荒らされ、自宅アパートに侵入される集スト(集団ストーカー行為)に遭い、マツダを恨んでいた」と語った。引寺は精神鑑定を経て起訴されたのち、昨年9月、最高裁に上告を棄却されて無期懲役判決が確定。責任能力を認められた一方で、妄想性障害に陥っていると認定されている。

▼片岡健(かたおか けん)
1971年、広島市生まれ。早稲田大学商学部卒業後、フリーのライターに。新旧様々な事件の知られざる事実や冤罪、捜査機関の不正を独自取材で発掘している。広島市在住。

タブーなき『紙の爆弾』最新号絶賛発売中!