屁世滑稽新聞(屁世26年11月8日)

あなたにも簡単に作れる小渕ワイン……の巻


全国の大きなお友だちのかたがた、ごきげんよう。
屁世滑稽新聞のお時間です。

きょうは、犬HKの朝の連続ドラマ『マッサン』で皆さまもご存じの
おかたと、対談したいと思います。あたくしの『花子とアン』の
“あとガマ”として始まったあのドラマは、主人公「亀山政春(かめやま
まさはる)」として登場し、現実にはニッカウヰスキーの創業者となった
竹鶴政孝(たけつる・まさたか)さんと、彼のワイフでドラマでは「亀山
エリー」として登場しますが、実際には竹鶴政孝さんがスコットランド
から連れて帰ってきた奥様であるリタさんの、国境をこえたステキな
夫婦の愛の物語になっています。

そして、この愛のドラマで、国産ウイスキー実現の“お産婆さん”役と
して大きな存在感をみせているのが、ドラマのなかでは「鴨居(かもい)
商店社長の鴨居欣次郎(かもい・きんじろう)」として登場しますが、
実際には日本でのウイスキーづくりがままならず失望していた竹鶴さんを
自社に迎え入れて応援し、国産初のウイスキー誕生の後ろ盾となった、
サントリー創業者の鳥井信治郎(とりい・しんじろう)さんなのです。

『マッサン』で、玉山鉄二さんが演じる主人公「亀山政春」を励まして、
ウイスキー作りを後押しする「鴨居欣次郎」の役を演じているのは、映画
『ALWAYS(オールウェイズ) 三丁目の夕日』シリーズや『舞妓Haaaan
(ハ~~ン)!!!』などで、パワフルな演技を見せてきた堤真一さんです。
その堤さんが演じる「鴨居」社長は、ドラマのなかで「やってみなはれ!」
と亀山クンを勇気づけていますが、これは架空のセリフではなく、実際に
鳥居信治郎さんが残した名言でした。鳥井さんは「やってみなはれ。
やらなぁ~わからしまへんで!」と仲間を励まし、大胆かつ緻密(ちみつ)な
チームワークで、酒造業界において快進撃を遂げてきたのでした。

鳥井さんの「やってみなはれ!」精神は、サントリーの社訓ともいうべき
朗(ほが)らかで前向きな、チャレンジ・スピリットの言葉なのです。

わたくしは、皆さまご存じのように山梨の農家で生まれ育ったので、
ぶどうの果汁とか、ぶどう酒は大好きです。
お酒は大人の飲みものですから、子供のうちからお酒を飲みつけるのは
習慣になっちゃ困るからダメなのですけれど、子供の皆さんだって、
たとえばクリスマスのお祝いの夜に、ほんのひとくち、ぶどう酒を
なめさせてもらうことくらいはあるでしょうし、お年賀の挨拶(あいさつ)で
お爺さまお婆さまのお家(うち)を訪れたときなどは、すでに酔っぱらって
赤ら顔のお爺さまから、お屠蘇(とそ)をチョッピリ飲ませてもらう
ことだってあるでしょう。

子供のお口には、日本酒なんて“酸(す)っぱくて変なにおいのマズい水”
としか感じられないでしょうし、ましてビールとかウイスキーなんて
ニガくて臭いだけで受け付けないでしょうけれども、人間っていうのは、
長く生きつづけていくうちに、変にひねくれた味の、くさい食べ物とか
飲みものを、美味しく感じるようにもなるのです。……それはきっと、
大人のかなしい性癖(さが)なのでしょうけどね。まぁここでは、
子供にはわからない不思議なことだ、と申し上げておきましょう。

……まあとにかく、今回は『マッサン』でワインの話題が出てきたことも
ありますし、これからの寒い季節には、ワインを熱燗(あつかん)で飲むと
風邪の予防や滋養強精(じようきょうせい)にもってこいでもありますので、
サントリー創業者の鳥井信治郎さんをゲストにお迎えして、ワインのお話し
などをうかがいたいと思いますのよ。

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ところでサントリーの創業者である鳥井信治郎さんは、今から135年も
前の1879年、つまり明治12年に生まれて、1962年すなわち昭和37年に
83歳でお亡くなりになりました。

そういうわけで、鳥井さんはすでに半世紀以上もまえに冥土の人になって
いますので、このままではお話しをうかがうことができません。

そこできょうは特別な趣向として、霊界の亡霊をこの世に降ろして話を
聞くという“口寄せ”稼業、つまり霊媒ビジネスの業界で、日本で一番
成功した“口寄せ師”の大韓流呆(おおから・りゅうほう)先生にお手伝い
いただき、大韓先生のおクチを媒介にして、霊界の鳥井信治郎さんと
お話しをしたいと思います。

大韓流呆(おおから・りゅうほう)先生は、至高神「エラ・アカンタレ」と
名乗っておられ、お釈迦(しゃか)さまやキリスト様だけでなく、昨今の俗人が
誰もが知っているタレントや話題の人物たちの“背後霊”なんぞも
勝手に降ろして対談本を乱発して、お金を稼いでいらっしゃるお方ですのよ。

大韓(おおから)先生に勝手に“背後霊”を降ろされた有名人のかたがたは、
もう枚挙のいとまがないほど沢山いらっしゃいます。最近の例だけでも、
たとえば村上春樹さん、宮﨑駿さん、秋元康さん、本田圭佑さん、池上彰さん、
膳場貴子さん、小保方晴子さんや、さらにはジャニーズ事務所の木村拓哉さん
や岡田准一さんまで、いつのまにやら“背後霊”が大韓(おおから)先生に
勝手に現世にひきずり降ろされて、むりやり“霊界対談”をさせられて
いらっしゃいますのよ。この強引なやりかたは、一種の「霊的レイプ」と
言ってもよいでしょう。この見さかいのなさときたら、昔なつかし東映映画の
“不良番長”の美女“千人斬り”を思い起こすほどですワ。

……前置きが長くなりました。さっそく「エラ・アカンタレ」こと大韓流呆
(おおから・りゅうほう)先生をお迎えして、先生に“口寄せ”していただいて、
霊界の鳥井信治郎さんと対談したいと思います。
それでは大韓先生、おねがいします。

自称の芸名「エラ・アカンタレ」を名乗る口寄せ名人
大韓流呆(おおから・りゅうほう)師を媒介にした、
赤玉ワイン創業者・鳥居氏と花子先生の対談

エラ・アカンタレ 「花子さん、きょウはヨロスク」
花子先生 「流呆(りゅうほう)先生、こちらこそ宜しくお願いします」
エラ・アカンタレ 「アナタに霊言を与えるまえに、言っておきたいことがある」
花子先生 「何でしょうか?」
エラ・アカンタレ 「アナタ、わたしが有名人のシュゴレーと対談してきたのを、“霊的レイプ”とか“千人斬り”とか言ったね! 許せないニダ! 謝罪を求めるニダ!」
花子先生 「流呆(りゅうほう)先生、お顔が真っ赤ですわよ。それに息がものすごく唐辛子くさいですわ。あまり興奮すると、血圧が上がって脳溢血(のういっけつ)を起こしますわよ。もうすこし冷静になって下さいませ」
エラ・アカンタレ 「ケンチャナ~! 仕事に入るまえに、わが教団を侮辱するようなあなたの言辞を糾弾(きゅうだん)せねば気が済まないニダ!」
花子先生 「教団ですって? 流呆(りゅうほう)先生、わたしはあなたの“教団”に物言うつもりは、更々ありませんわ。ただあなたの“お口寄せ”のお仕事のやりかたが、日本人の謙譲(けんじょう)の美徳を踏みにじるワイセツで強引なものだと、批評しただけですのよ。ここは日本なのですから、言論の自由がありますのよ。お隣の半島ではないのですから」
エラ・アカンタレ 「わが“光復の科学”を貶(おとし)めたのだから、ここで謝罪ハセヨ!」
花子先生 「まあ……流呆(りゅうほう)先生、お顔が燃えるように真っ赤ですわよ。あなたや、あなたのお取り巻きのかたがたが常々行なっているような、強引で反社会的なやりかたというのは、けっして日本人の発想ではありませんわよ」
エラ・アカンタレ 「もうすぐ“光復の科学大学”を発足させて、ワレワレの仲間の元イルボンジエ軍大将・駄藻紙(だもがみ)ソンセンニムなどを教授に迎える予定だけれど、アンタはぜったい光復の科学大学に呼ばないから、覚悟してオケヨ!」
花子先生 「はいはい(笑)。流呆(りゅうほう)先生、ここで悪態をついていないで、あなたのお得意な“口寄せ”をお願いいたしますね」
エラ・アカンタレ 「謝罪と賠償を…… アイゴ~! 死霊が下りてきた~!」(……と叫びながらぶっ倒れ、全然ちがう形相になって徐[おもむ]に起き上がる……)

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鳥井信治郎 「……花子先生、ワシを呼んでくれてオオキにな!」
花子先生 「まぁ! 鳥井会長、はじめまして! 俗世に帰ってきたのですね」
鳥井信治郎 「天国でほろ酔い気分で散歩しとったら、エラが張ったアヤシイあんちゃんに呼びとめられてな。そのあんちゃん、ワシの御居処(おいど)をいきなり触ったんじゃ。そのとたんに足もとがガラガラと崩れてのォ。気がついたら成仏するまえの、俗世に逆戻りやわ(笑)」
花子先生 「まぁ! それは大変に申しわけございません。無事に成仏したホトケさまを、あの霊媒がそんなふうにして“この世”に引き戻しているだなんて、ぜんぜん知りませんでした。ご迷惑をおかけして、俗世の一堂を代表して、お詫び申し上げます」
鳥井信治郎 「いまさら謝られても、俗界に引き戻されたんやから、しょうもないわ」
花子先生 「せっかく俗界にお帰りになられたのですから、しばし私と、ワインのお話しをいたしませんか?」
鳥井信治郎 「ワインかいな? ええのぉ! なつかしいのぉ!」

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花子先生 「まず鳥井会長の生い立ちから、お聞かせ願えませんか?」
鳥井信治郎 「ええよ。ワシは明治12年の1月の末に、大阪で生まれたんや。ええと……今はいつや?」
花子先生 「屁世26年、西暦ですと2014年です」
鳥井信治郎 「なんや! とんでもない未来に来てしもうたな! え~パチパチパチと……、えっ? ワシいま生きとったら135歳になってるやんか!」
花子先生 「パチパチパチっておっしゃってましたが、どういたしましたの?」
鳥井信治郎 「いやぁなに、頭のなかのソロバンを弾いとっただけや。実家が両替商と米穀商でっしゃろ。んで、ワシも物心ついたころから商人(あきんど)の技能や才覚を叩きこまれたわけや」
花子先生 「ご長男だったんですか?」
鳥井信治郎 「いや、次男や。13歳のときに薬種問屋の小西儀助商店に丁稚奉公(でっちぼうこう)に入った。あんた“ボンド”って知らんか? ボンド!」
花子先生 「合成接着剤のボンドですか?」
鳥井信治郎 「ああ! そうや! 小西儀助商店はそれで日本有数の業者に出世したわけや。のちに社名をカタカナの“コニシ”に変えて、接着剤を手広く扱う専門会社になったけどな。でもワシが奉公していた頃は、洋酒もやってたで。たとえば“アサヒ印ビール”とか……」
花子先生 「それって現在のアサヒビールかしら?」
鳥井信治郎 「おネエちゃんご名答! ……で、丁稚奉公の時代にワシは酒を商いを学んだわけや」
花子先生 「お酒の商いは、運命的なものだったのですね?」
鳥井信治郎 「そういう言い方もできるが、ワシは日本人や。だから何よりも日本人の舌にあう味覚の洋酒を売りたいと思ったし、その夢を実現するために邁進(まいしん)したんや」
花子先生 「丁稚奉公の子ども時代が終わって、どうされたんですか?」
鳥井信治郎 「二十歳のときに独立して、鳥井商店を立ち上げて、スペインからぶどう酒を輸入して売り出したんやけど、それで味噌(みそ)がついてしもうた……」
花子先生 「まあ! ワインに味噌をまぜて売ったんですの?」
鳥井信治郎 「いやいやいや。ちゃうちゃう。失敗したんやわ。なにせ舶来のぶどう酒は酸っぱすぎて、辛すぎてのお。これがちぃとも売れんかった」
花子先生 「……で、どうしましたの?」
鳥井信治郎 「そこからがワシの武勇伝の始まりや! ワシはのぉ……(と言いかけると突然形相がかわり声色が大韓流呆に戻った……)」
エラ・アカンタレ 「ウッゲゲ、ギャア~! 電池が切れた! キムチとマッコリ! キムチとマッコリ! キムチとマッコリを今すぐカッタチュセヨ!」
花子先生 「あらまあ! 霊媒がまぎれこんで来ちゃったわ! いますぐ買ってきますから、ちょっと待っててね!」

(ここで花子先生はキムチとマッコリを買いに出かけたので、
鳥井氏との“霊界対談”は一時中断を余儀なくされた。その後
霊媒のエラ・アカンタレ氏がキムチ5キログラムとマッコリ8本を
貪るように食べて充電を終えたのち、ようやく“霊界対談”が再開。
このかん2時間が無駄になった。)

花子先生 「鳥井カイチョウ! 鳥井カイチョウ! 聞こえますか、どうぞ?」
鳥井信治郎 「ハイハイ、こちら鳥井ですドウゾ……って、なんや少年探偵団みたいやな。なんちゅう出来の悪い“霊媒”やろか」
エラ・アカンタレ 「トリイさん、霊媒のワタシに何ってこと言うんだ? 謝罪と賠償を要求する! 世界一うまい“竹鶴17年ピュアモルト”を1カートンよこすニダ!」
鳥井信治郎 「そりゃ宿敵ニッカウヰスキーの商品やで、アホンダラ!」
花子先生 「流呆センセイは、口を出さずに、まじめに口寄せだけおやりになって下さいませ! 霊媒が亡霊と掛け合いをやるなんて、そんな腹話術みたいな降霊術は初めて見ましたわ! インチキじゃないんですの?」
鳥井信治郎 「……いやいやいやいや。お騒がせしたニダ(笑) 対談をつづけようやおネエちゃん!」
花子先生 「……?」
鳥井信治郎 「で、ワイン商売の話やったな」
花子先生 「あゝ、そうでした」
鳥井信治郎 「舶来の輸入酒をそのまま売っても、日本人の舌がそれを受け付けない……となると、日本人の味覚にかなったぶどう酒を作るしかない」
花子先生 「たとえばどういうお酒?」
鳥井信治郎 「まず酸味や辛みをおさえて、甘みをつける。ぶどうの果汁のように香ばしくて、なおかつ異国情緒あふれる精妙なる薬味が効いていて、のむとホンノリ酔ってきて、からだがポッポと熱くなり、心は天使の羽がはえたみたいにスゥ~っと軽くなる葡萄(ぶどう)酒や!」
花子先生 「聞いているだけで、気持ちよく酔ってきちゃうワ」
鳥井信治郎 「あっはっは、なにせワシは若い頃、“しゃべる媚酒(びしゅ)”って呼ばれてたヨッテに。」
花子先生 「それがあの有名な“赤玉ポートワイン”ですか?」
鳥井信治郎 「ご名答! これを完成させて売り出したのは明治40年の春のことや。え~と、おネエちゃんわからんやろうから……パチパチパチと……西暦では1907年、いまから……パチパチパチと……107年まえの春やな。ワシが28歳のときじゃ!」
花子先生 「犬HKの朝ドラでは、“鴨居欣次郎”がワイン売り込みの秘密兵器として、日本初のセミヌードポスターを作りますよね?」
鳥井信治郎 「まあ、あれはドラマ。作りもんの虚構やからショウもないわ。実際にはあのポスターを世に出したのは、もっとずっと後のことや。ワシは“赤玉ポートワイン”を売り込むために、いろいろやりましたでぇ。ポートワインの名前を染め抜いた行灯(あんどん)をギョウサンこしらえて、店のまわりにずらァ~りと並べるとか、赤玉を描いた法被(ハッピ)を社員に着せて、明るく景気よく振る舞わせるとかネ。もっとすごいのは、歌劇団もつくったでぇ!」
花子先生 「まあ! 歌劇団ですか? 宝塚歌劇団とか松竹歌劇団みたいなものですか?」
鳥井信治郎 「ハイな。赤玉ポートワインを出した頃ちゅうのんは、ちょうど明治が終わる頃やったんやけど、歌舞音曲(かぶおんぎょく)もそのころ大きく様変わりしましてなァ……」
花子先生 「……とおっしゃいますと?」
鳥井信治郎 「明治のはじめに文明開化で西洋の音楽がドッと入ってきたんヤけど、その影響をまっさきに受けたのは維新政府の軍楽隊でナァ、つぎに政府が始めた義務教育の学校で、こどもに唄わせる唱歌だったんや」
花子先生 「犬HKの『マッサン』でもスコットランドの民謡が小学唱歌になったことを紹介してましたわね」


(参考:京都楽友合唱団による、日本でおなじみのスコットランド民謡
https://www.youtube.com/watch?v=9oLeqHVZAI4

鳥井信治郎 「で、明治政府は日清戦争や日露戦争を続けざまにやらかしたわけやけど、軍楽調の音曲はだんだんマンネリになってのぅ……明治の終わりには、民間音曲の世界でも“ご維新”が始まったわけや」
花子先生 「……とおしゃいますと? “ご維新”というからには、明治初期の西南戦争のときには西郷どんを討伐するとか、ずいぶんと勇ましい歌も唄われましたが、そんな血なまぐさいのがリバイバルしたんですの?」

(参考:明治10年に勃発した西南戦争のおり、維新政府軍が、
西郷隆盛が率いる薩摩軍を討伐に向かう際に唄われた軍歌『抜刀隊』。
日本の内戦で“反乱軍”を鎮圧したときのこの歌が、なぜかその後、
大日本帝国陸軍の行進曲になり、現在でも自衛隊の分列行進で
使われている。https://www.youtube.com/watch?v=MEYBMpk4ZUM


鳥井信治郎 「いやいやいや、ちゃうちゃう、ちゃうがナ。日本には古来から娘義太夫(むすめぎだゆう)みたいな民間芸能の伝統がある。小娘がオペレッタを演(や)るような、和洋折衷(わようせっちゅう)の新芸能が、雨後の竹の子のようにワッと出てきたんや。つまり少女歌劇団でっせ」
花子先生 「そのブームのなかで、会長さんの鳥井商店も歌劇団を作ったってことね?」
鳥井信治郎 「ネエちゃんご名答やで! 商業広告というか、企業PRの文化事業としての少年少女歌劇団の“走り”は、明治43年の三越少年音楽隊かナ。翌年には白木屋少女音楽隊ってのも生まれた。どっちも当時最先端の都市型百貨店、デパートメントストアや」
花子先生 「デパートの文化戦略っていうと、あたくしなどは西武百貨店・パルコが1970年代から80年代に展開した“とんがり文化の全国発信”を連想しますわ。読者参加型で冗談とかパロディを競い合う『ビックリハウス』なんて雑誌を出したり、フラメンコギターのパコ・デルシアとか、メンバー全員が鬼太郎に出てくる“目玉のお父さん”みたいな目玉のかぶりもので変装して前衛ロックを演奏するアメリカのレジデンツみたいな、本当の趣味人だけ楽しめばいい……って感じの音楽家をどんどん招いてこっそりコンサートをしたり、石岡瑛子さんに百貨店のアートディレクションを任せて、100年前のポーランドの“迷宮の画家”タマラ・ド・レンピッカとか、メキシコ革命時代の激動を生きたフリーダ・カーロのような、すごい女流芸術家をどんどん日本に紹介していたパルコ……。それよりもずっと前に、日本のデパートは文化戦略を仕掛けていたんですね」
(パコ・デ・ルシア https://www.youtube.com/watch?v=0o8vszqVL2U
レジデンツ https://www.youtube.com/watch?v=dkcZp-ofXEE
タマラ・ド・レンピッカ https://www.youtube.com/watch?v=6ir71H8-pno
フリーダ・カーロ https://www.youtube.com/watch?v=bBrbwHJNJLQ

鳥井信治郎 「西武百貨店も大した仕事をしたけど、あれは阪急電鉄の猿マネやで。線路沿いに都市開発を行ない、鉄道交通の結節点であり娯楽の殿堂でもある百貨店やら宝塚歌劇団を作ったのは、阪急サンやからなあぁ。東京では東急がまずそれをやった。で、さらに堤ファミリーの西武鉄道と西武百貨店が、それをさらに真似たんやワ」
花子先生 「近代日本の商いの歴史って、奥が深いのですね」
鳥井信治郎 「あったりまえやんけ! ……で、歌劇団の話な。いま言うたように、百貨店が先鞭(せんべん)をつけた。そしてワシが“赤玉楽劇団”を作ったのが、その白木屋少女歌劇団とおなじ明治44年のことや。白木屋サンのやつは“日本最初の少女歌劇団”と呼ばれるようになった。ワシらの“赤玉楽劇団”も、ここで日本最初だったと呼ばせてもらうで!」
花子先生 「我々が知ってる宝塚とか松竹の歌劇団はそのときはまだ……」
鳥井信治郎 「ハイそうだす。まだ出てくる前や。電鉄さんが宝塚新温泉の余興で少女唱歌隊を始めたのが、ワシらの二年あと、大正三年のことや。それがえらい受けてなぁ、翌年には本格的な少女歌劇に発展して、それがいまの宝塚歌劇団になったワケや。それからさらに何年もたって、大正11年には松竹がまず“松竹楽劇部”をつくり、これが昭和になって大阪松竹少女歌劇団に発展し、東京にも松竹少女歌劇団が生まれたんや」
花子先生 「お詳しいですのね」
鳥井信治郎 「そりゃワシ、少女歌劇が好きでっさかい……(笑)」
花子先生 「明治末期から大正はじめにかけての少女歌劇団ブームのことは、なんとなくわかりましたが、なにしろ西暦じゃないとピンときませんわね。元号がコロコロ変わっていたから……」
鳥井信治郎 「じゃあ西暦で言い直すよってに、ちょっと待ってや。……えぇと、はいパチパチパチのパチ。……ええか? 1910年・明治43年に三越少年音楽隊が誕生。翌1911年・明治44年に白木屋少女音楽隊と、ワシらの“赤玉楽劇隊”が誕生。翌1912年・明治45年の7月30日に睦仁(むつひと)天皇はんがお隠れになって、この日に元号が明治から大正になっとる。……で、兵庫県小浜村の宝塚新温泉で宝塚唱歌隊が歌い始めたのが、翌1913年・大正2年。これがさらに翌年の4月1日から、宝塚少女歌劇団として本格的な興行を始めることになる。1922年・大正11年の4月には松竹楽劇部が発足し、これが試行錯誤のはてに興行的な成功を収めて、大阪松竹少女歌劇団に名を変えたのが1934年・昭和9年。東京では1938年・昭和3年に東京松竹楽劇部が生まれて、これが松竹歌劇団に成長していく……。こういう歴史があったわけや。これでお分かりのように、ワシらの赤玉楽劇団は、ホンマに時代の先頭を走っていたんやで!」
花子先生 「赤玉楽劇団はどんな活動をしたんですか?」
鳥井信治郎 「全国を巡回公演して、それぞれの地域で、販売店の店主はんとお客はんを、われらがレビューに無料招待して、大いに楽しんでもらいました。どうや? 今の世知がらい商売よりも、販売店はんも顧客のかたがたも、ずっと楽しめたんやで。エエやろ?」
花子先生 「当世のビジネスよりも、はるかに人情とエンターテインメントがあふれていたのね」
鳥井信治郎 「どや?エエやろ。ステキやろ! ……で、この楽劇団から、日本初の裸体ポスターが生まれたってワケや」
花子先生 「まあ! そうでしたの?」

戦前に数々の傑作広告を生んだ“広告作家(アドライター)”片岡敏郎
たちが1922(大正11)年に作った『赤玉ポートワイン』の宣伝ポスターは
日本初のヌードポスターとなった。モデルは“赤玉楽劇団”のトップスター
松島栄美子である。


鳥井信治郎 「赤玉楽劇団のプリマドンナの松島栄美子に、モデルになってもろぅて、思いきってヌード写真にしたわけや。もちろん日本初やで。革命的なデザインやったから、発表当時は天地をひっくり返すような衝撃力で、これでおおいにワインを売らせてもろぅたわ!」
花子先生 「会長さんはホントにアイデアマンだったのね」
鳥井信治郎 「あたりまえやんケ! ワシらは絶対に自信があるものを作っとった。ひとりでも多くの人に買ってほしい。だからそのためには、ものすごぅ奮闘したんや。商売人の本懐やで!」

★          ★          ★

花子先生 「今や、赤玉ポートワインの発売から107年が経ちました。生きておられればすでに135歳になっていらっしゃる今年、2014年に、あえて会長さんを霊界からお招きしたのは、日本の食文化のなかで、ワインについて何だかトンデモない勘違いをしている事例が、昨今まま見られるからなのです。それで会長さんのご意見をうかがいたいナと思いまして……」
鳥井信治郎 「ワシに言わせれば、お酒は“百薬の長”でっせ。その基本を踏みあやまると、酒は毒にも麻薬にもなる。ワシはサントリーを日本有数の会社に育てましたけど、会社ってのは矢鱈(やたら)に大きくなると、安定を望むだけの怠け者の雑魚(ざこ)ばかり寄ってきて、組織が腐ってしまう。けっきょくはこういうコトやね。……権力者のまわりには、小賢(こざか)しい欲たかりの小人物たちが集まるワイな。こいつらは世間体を気にして、小賢(こざか)しく、せせこましく、常識的に振る舞うわけや。そういう木っ端(こっぱ)役人みたいのが、吹きだまりみたいに集まった組織はどうなるか? 花子先生、どうなると思う?」
花子先生 「ソニーみたいになるんでしょ?」
鳥井信治郎 「イエス! あるいはお台場に移転後のフジテレビみたいに、こざかしいばかりの烏合(うごう)の衆の集まりになって、まさにオ~!ダイバ~!……ってことになるわけヤがな(笑)」
花子先生 「盛者必衰の法則ですわね」
鳥井信治郎 「仏教思想の真髄に触れるわけですワ。これは深いでぇ!」
花子先生 「……で鳥井会長さん、今どきのサントリー社員に、言いたいことはありますか?」
鳥井信治郎 「あるあるある! ワシは日本人の舌に合う革新的な洋酒を作って売り出したという自負があります。絶対的に自信があった商品やし、それを日本の国民に受け入れてもらいたかったから、広告だって、もう命がけで創意工夫したもんダス。ところがな、そういう奮闘努力の結果、会社がエろぅ大きくなったんやけど、そうなると安泰をのぞむなまけ者ばかりが吹き溜まるようになったんや。いまのサントリーを見てみい。ひどいもんや。ワシは死んでも死に切れん悔しさがある、と言いたいくらいや。まあ俗世から昇天してずいぶん経(た)ってるさかい、若いもんにやらせるしかないと思うとるけどな」

★          ★          ★

花子先生 「鳥井会長さんのご奮闘のおかげで、いまや日本でも、ワインがすっかり定着いたしましたのよ」
鳥井信治郎 「さよか、それはうれしいワ」
花子先生 「わたしの故郷の山梨もワインの名産地になりました。内陸のやま国は、ブドウ栽培に適しているので、ワインを特産品としている地域もたくさんありますのよ」
鳥井信治郎 「さよか。ワシが葡萄酒を商(あきな)い始めた頃は、あんな酸っぱ辛い洋酒はなかなか受け入れてもらえなかった。やっぱり隔世の感がありますナ」
花子先生 「ところで会長さん。昨今ではワインを“名刺代わり”に使ってる政治家もいるらしいのですが」
鳥井信治郎 「あのなぁ花子はん、酒というのは百薬の長にもなるし麻薬にもなる。いい酒は風味で人を酔わせる。ワシらはポートワインで大成功したのち、ウイスキーの製造販売に乗り出して、それもうまく行った。ワシらはウイスキーの商品名をもとに、社名を“サントリー”に変えたほどやった。……だけどな、ほんとに大切なのは看板じゃないデ。お酒そのものの品質なんやで! 酒を“名刺”に使(つこう)てる政治家なんて最低の俗物やし、そういう奴に“名刺がわり”に使われている酒は、ほんまカワイソウやと思うわ。名刺がわりに使われることを知りながら、酒を提供している蔵もとがあるとすれば、それはもう外道やで。そんな酒蔵はワイン酵母に恨(うら)まれて、祟(たた)られて亡びるのが関の山やな(笑)」
花子先生 「冥土にいらっしゃる会長さんは、ご存じないかもしれませんが、群馬県出身の政治家が、地ワインに自分のラベルを貼って選挙民にプレゼントしていた騒動がありました」

それぞれのワインのラベルには、こう書いてある。
白ワイン:「優しさ輝く日本の未来 おぶち優子 OBUCHI YUKO」
赤ワイン:「おぶち優子 伝えたいふる里の心 OBUCHI YUKO」

鳥井信治郎 「ワシらの霊界にも、生前に新聞屋(ぶんや)をしていて早耳だけがとりえの亡者とかが沢山いてな、そういう連中は“珍奇な見聞をよそから持ってきて吹聴する”という習慣が、死んでも抜けないんやわ(笑)。そういう連中から聞かされとったから、アンタの話はワシも知っとる。群馬の小渕優子はんの騒動やろ?」
花子先生 「ご名答です! 冥土にお暮らしなのに、よくご存じで……」
鳥井信治郎 「そりゃそうヤで。ワシらのほうが次元が上やから。アンタらの世界は、ワシらからみたら小さな培養皿のなかで増えたり減ったりしている雑菌みたいなもんやわ(笑)」
花子先生 「まあっ! そんなもんですの、冥土からみた私たちって?」
鳥井信治郎 「ハイな! ……で“小渕ワイン”の件やけど、ワシにはとっても気になることがある」
花子先生 「……とおっしゃりますと?」
鳥井信治郎 「小渕ワインは、群馬の榛名山(はるなさん)のふもとで製造してるらしいナ。冥土に伝わってくる話では“群馬県吾妻郡中之条町”の国道沿いの店らしいけど」
花子先生 「よくご存じで……」
鳥井信治郎 「あたりまえや。冥土の情報力からみれば、俗世なんて便所虫の世界やで。アンタもいっぺん死んでみなはれ(笑)」

「小渕ワイン」の製造元は、群馬県中之条町市城1384で
「群馬の地ワイン」を作っている「■■農園」だという
(気の毒なので、あえて名を伏した)。椎名山のふもと
にあり、フルーツワインなど各種のワインを製造する
有名酒蔵だ。

花子先生 「鳥井会長さん、“死後の世界”のことなんて、お釈迦様さえ語らずに済ませたのに、あなたはブッダを超越していらっしゃいますワね。……でも、あなたのお話しは、俗世の霊媒芸人さんのお口をつうじて語られていますから、話半分に聞いておきますワ」
鳥井信治郎 「そりゃ寂(さび)しいのぅ。まあ、口寄せなんぞという貧乏くさい商売が、俗物世界にはびこっているから、しょうもないけどな(笑)」
花子先生 「ところで、会長さんが気になっておられることって何ですの?」
鳥井信治郎 「そやそや、忘れるとこだったわ。アノなぁ、群馬の榛名山のふもとっていうのは、福島原発の爆発で、ごっつぅ死の灰をかぶったところなんや」
花子先生 「まぁ! 鳥井会長も俗世の放射能汚染を気にしておられるの?」
鳥井信治郎 「あったりまえや! 最近、ぶらぶら病でこっちに来る連中がゴッツ増えてな。ワシらは豪快に昇天したから、辛気(しんき)くさいホトケさんが続々とやってくるのには閉口しとるで」
花子先生 「俗世のあたしたちには想像もつかない事情がおありですのね」
鳥井信治郎 「……でなぁ、花子先生。2011年に福島原発が爆発して、“死の灰”が関東一帯に降りましたやろ。もちろん群馬県にも、ぎょうさん降ったわけや。その直後から、関東周辺が放射能でどない汚れたかは、当時の政府でさえ、ちゃんと測定しとった」

小渕ワイン製造所周辺の放射能汚染の推移。福島原発の爆発事故以降、
文部科学省が進めてきた、全国的な放射能汚染の実態を、時系列順に
示した。この分布図で示したのは原発事故から半年後の2011年9月から、
翌2012年末までの代表的な放射性セシウム(Cs134とCs137)による
汚染状況である。セシウムは少なくとも39種類の同位体があり、その
うちのセシウム133以外は、すべて放射性同位体である。あまりにも
種類が多いので、政府はこれら全部を測定したわけではない。
半減期が2年のセシウム134と、使用済み核燃料から発生する放射能の
大部分を占めるセシウム137(半減期30.17年)だけを測定したわけだ。
もちろん原発の爆発で野外環境に放出されたのはセシウムだけでない。
だからこの分布図は、福島原発による放射能汚染のほんの一部を示した
にすぎない。“小渕ワイン”の製造元も残念ながら、福島原発災害が
もたらした放射能汚染の“ホットスポット”に位置していることが、
この分布図から見てとれる。時が経つにつれて、本当にゆっくりと
ではあるが、放射性セシウムの放射線量は減衰している。主な測定対象
のセシウム137の半減期がわずか30年だから、こうした傾向が見られる
のは当然だ。しかし福島原発公害による放射能汚染はセシウムだけでは
ない。もっと長寿命の放射性元素による汚染も当然起きているが、測定
してないから「見えてこない」だけだ。
(出典:放射線量等分布マップ拡大サイト/電子国土

花子先生 「鳥井会長、福島原発事故のときの政府は民主党政権で、国民に対して『放射能汚染はただちに影響はない』とか、ずいぶんと気休めやウソを言ってたんですのよ。そんな政府を信用できませんわ」
鳥井信治郎 「そりゃアンタの言うことは正しいデ。だけど、そのあとに出てきた安倍はんの盗賊内閣よりもずいぶんマシやないか(笑)。政府なんてのは基本的に盗賊やワ、税金ドロボーの盗賊にはチガイない。……でも原発事故の直後には、政府はちゃんと放射能汚染を計っていたんだから、それさえもゴマカしている安倍はんのドロボー内閣よりは、すこしはマシやろな(笑)」
花子先生 「群馬ワインと放射能汚染のつながりなんて、考えたこともありませんでしたわ」
鳥井信治郎 「政府の測定結果をみるかぎり、小渕ワインの製造所のあたりは、可哀想なことやけど放射能汚染の“ホットスポット”になっていたんやワ。……もちろん、放射能というのは時間の経過とともに減衰する。物理学者はんの言い方を借りれば“半減期”って奴があるからな。でも現実はどうや? 福島原発からは今もとめどなく放射能がもれてるんやで」
花子先生 「日本もトンデモないことになってしまいましたわね」

★          ★          ★

鳥井信治郎 「あのなぁ、花子先生。ワシが赤玉ポートワインの宣伝ポスターを作ったときの同志が、“広告作家(アドライター)”の片岡敏郎クンやったんやけど……」
花子先生 「あの日本初のヌードポスターを作った、世人の心を喚起する天才的な作家さんですわね?」
鳥井信治郎 「そのと~り! その片岡くんが、小渕優子ワインのラベルとポスターを考案してくれたんやわ」
花子先生 「まあ! それはありがたいことですワね。あの世とこの世の共同制作(コラボレーション)ですわ!」
鳥井信治郎 「まず、こっちの世界で悠々自適の片岡クンが、デザインしてくれた小渕ワインのラベルがこれや……」

おぶち憂子・白ワインのラベル

おぶち憂子・赤ワインのラベル

花子先生 「まぁステキ! このラベルを印刷して切りとって、市販のワインボトルに貼れば、だれでもあの憧(あこが)れの“小渕ワイン”を楽しめますワね!」
鳥井信治郎 「さよう。そういう意味では使い勝手のあるラベルやでぇ、これは」
花子先生 「……で、鳥井会長さん。ポスターというのは?」
鳥井信治郎 「ハイな、これや!」

赤玉ポートワインの宣伝ポスターが登場したのは1922(大正11)年、
関東大震災の前年のことである。裸体を写した日本最初の宣伝広告
である。それから92年を経た今、小渕優子議員が、赤恥ワインの
広告塔をつとめることになった。


花子先生 「まぁ! 素敵なポスターですこと。小渕さんの魅力がぞんぶんに描かれた宣伝ポスターですわ」
鳥井信治郎 「そうやろ? 親の七光りで国会議員になっただけのアホ娘かも知れないが、まだこの人には未来がある。がんばってほしいと思うとるワ。最近、優子はんはスキャンダルまみれで経産大臣をやめたけどな……」
花子先生 「だけど優子さんは経産婦ですから、経産大臣になる資格はあるでしょ?」
鳥井信治郎 「あると思うよ。しょせん日本の大臣なんぞ、アメリカさまのご用聞きやさかい、馬鹿でもできる賤業(せんぎょう)でっせ。そやから誰でもできる仕事だす。アホな優子ちゃんにも十分にできる仕事だったはずや」

花子先生 「政治資金をネコババしたくらいで大臣を辞めさせられたのは、可哀想なことですワね」
鳥井信治郎 「……まあ、公金のネコババなんて村会から国会にいたるまで、議員ならたいていはやってることでっしゃろからな(笑)」
花子先生 「けっきょく、“カカア殿下にからっ風”という群馬の風土で、小渕優子さんは、政治上のライバルに刺されたのかも知れませんわね」
鳥井信治郎 「あそこには金玉タヌキがおるからのぅ(笑)」


群馬県出身の自民党議員といえば1980年代に首相をつとめた
中曽根康弘が代表格だ。……だけどこの人はけっきょく
アメリカの対日占領支配の“現地マネージャー”として
日本の対米“売国政策”を、タヌキのキンタマ袋のように
拡げただけだった

 

きょうはこれでおしまい。
また今度、お話しましょうね。
では皆さん、ごきげんよう。 さようなら。

 

 

(屁世滑稽新聞は無断引用・転載を大歓迎します。
ただし《屁世滑稽新聞(http://www.rokusaisha.com/wp/?p=5593)から引用》
と明記して下さい)

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