国連の「地球の持続可能性に関するハイレベル・パネル(GSP)」が先月30日に出した報告書は、もっと危機感を持って読まれるべきだ。メディアの報道も受け取る人の対応も切迫感がない。何か、別な惑星のことのような受け止め方だ。

報告書は「世界人口 は現在の約70億から2040年までに90億近くに増えるとみられるほか、ミドルクラス人口は今後20年間で30億人増えるため、資源に対する需要は飛躍的に拡大」すると警告している。

この報告書が予想する数字の中で、たぶん、一番人目を引くのは90億という全体の数字だろうが、最も深刻なのは、現在約10億といわれているミドル・クラスが3倍に増えること。人口の絶対数ももちろん重要だが、それ以上の意味を持つのはその人口がどれだけメシを食い、どれだけエネルギーを消費するかということだ。ぶっちゃけると、世界の人がみんなバングラディッシュの人並みな暮らしをしていたら、問題はぜんぜんない。ところが、アメリカ人や日本人のように暮らしていたら地球が3つも4つも必要になる。

ミドルクラスの一番の問題は、自分たちが裕福な暮らしをしていることに気づかないことだ。つまり、わたしたちのこと。そこそこの暮らしをしているだけじゃないかと思い込んでいる。「絶対的な貧困に生活する人は、世界人口の46%(1990年)から27%に減った」が、それでも20億の人が飢餓に喘いでいる。それなのに、今でもわれわれはエネルギーや食料を(ほとんど無意識のうちに)じゃかすか使っている。

この中間層の伸びを加味して,国連の報告書は「2030年まででも、現在よりさらに少なくとも50%の食糧、45%のエネルギー、30%の水が必要になる」とはじき出す。報告書は一体、それがどこから手に入るのかには言及していない。

今から20年足らずの間に、どこから今の5割増の食糧を手に入れらるのか。もちろん、飽食国家の無駄をなくすことでかなりの人口が養えるのは事実だが、それにも限りがある。世界の耕地面積にも限りがある。年間伐採される森林は520万ヘクタール、すでに魚の85%が乱獲、枯渇した。

日本に暮らしていると分かりにくいが、真水も世界では次第に手に入りにくくなっている資源のひとつだ。食糧を生産するためには土地だけでなく、水も必要だ。インドなどでは恐竜がいた頃にできた水にすでに手をつけている。無駄をなくし、節水に努めていっても、やはり限りがある。今の3割増の水需要をどう確保するのか。

エネルギーはどうなのか。今、世界では一日に8800万バレルの原油が消費されている。これの5割増といえば1億3000万バレル以上の原油(換算)のエネルギーが必要になる。これはいったい、どこから来るのか。

国連報告書は「世界で急増する人口の需要を満たすのに十分な食糧、水、それにエネルギーを確保するための時間がなくなりつつある」と指摘しているが、時間さえかければどうにかなるものではない。どんなに時間や金を費やし、知恵を出し、労力をつぎ込んでも解決できないことがある。使いっきりの資源は、まさにそれである。人間が使える土地や水などにも限りがある。地球には限りがある。

GSP報告は、これらの水やエネルギーや食糧が見つからなかった場合、30億の人々が貧困に追いやられると警告する。それだけの数の人間が生と死の瀬戸際に追いやられ、もうまかなえなくなるという意味だ。もう、収奪できる空気も、森林も、水資源も、魚もあまり残されていない。増え続ける人口を養うには、地球はすでにぼろぼろだ。そして自分も、その30億の一人になるかも知れない。あなたの子供もその一人になるかも知れない。

昨今、エコ、エコとねこもしゃくしも口にする。エコってのが本来の意味で、生態系に根ざした生き方ということならば、生態系の経験は次のような事実を突きつける。

手に入るエネルギーや食糧が増える時、人間を含めた個体は増える。それが70億であり、90億の人口だ。しかし、手に入るエネルギーや食糧が減る時、それに支えられた個体の人口は減らざるをえない。人間だけが生態系の制約を受けないという理由はまったくない。人口がこのまま増え続けるということは有限な地球環境の中ではあり得ない。減らざるをえない。

問題は、いかにして人口を減らし,特に中産階級の環境負荷を減らすかということである。それを他人任せにすれば、きわめて非人道的なやり方を強いることもありうる。どんな理不尽なことであれ、生態系の要求は容赦なしだ。

その実感がなければ、エコはうわっすべりする。

2030年の話だ。今生まれた赤ん坊が成人に達する前の話だ。報告書は「小手先の細工では不十分で,現在の世界的な経済危機は大がかりな改革の機会」だというが、世界中で10億といわれるミドルクラスの人間には、どこまでそれが理解できるのか。あなたとわたしの生き方が問われている。

(RT)