東京大学総長の濱田純一は1月16日以下の声明を発表した。
下記やや長いが、後世歴史的に重要な文章となろうから敢えて全文を引用する。

◎東京大学における軍事研究の禁止について(広報室)

濱田純一=東京大学総長

学術における軍事研究の禁止は、政府見解にも示されているような第二次世界大戦の惨禍への反省を踏まえて、東京大学の評議会での総長発言を通じて引き継がれてきた、東京大学の教育研究のもっとも重要な基本原則の一つである。この原理は、「世界の公共性に奉仕する大学」たらんことを目指す東京大学憲章によっても裏打ちされている。

日本国民の安心と安全に、東京大学も大きな責任を持つことは言うまでもない。そして、その責任は、何よりも、世界の知との自由闊達な交流を通じた学術の発展によってこそ達成しうるものである。軍事研究がそうした開かれた自由な知の交流の障害となることは回避されるべきである。

軍事研究の意味合いは曖昧であり、防御目的であれば許容されるべきであるという考え方や、攻撃目的と防御目的との区別は困難であるとの考え方もありうる。また、過去の評議会での議論でも出されているように、学問研究はその扱い方によって平和目的にも軍事目的にも利用される可能性(両義性:デュアル・ユース)が、本質的に存在する。実際に、現代において、東京大学での研究成果について、デュアル・ユースの可能性は高まっていると考えられる。

このような状況を考慮すれば、東京大学における軍事研究の禁止の原則について一般的に論じるだけでなく、世界の知との自由闊達な交流こそがもっとも国民の安心と安全に寄与しうるという基本認識を前提とし、そのために研究成果の公開性が大学の学術の根幹をなすことを踏まえつつ、具体的な個々の場面での適切なデュアル・ユースのあり方を丁寧に議論し対応していくことが必要であると考える。

平成27年1月16日
東京大学総長 濱田純一

[東京大学広報室の2015年1月16日掲載「お知らせ」を全文引用転載]

この持ってまわった言い回しは「東大話法」(安冨歩言うところ)の典型であり、浜田純一の得意とする詭弁でもある。あれこれいったい何が言いたいのか、本当の所はどうなのか、と煙に巻きながら結論は「軍事研究を推進します」と言う宣言に他ならない。

◆あまりに支離滅裂な濱田総長声明の「非論理性」

あまりに支離滅裂で、矛盾を全て指摘していると長くなり、読者には退屈だろう。だからこの文章の「非論理性」を象徴している一部だけを指摘しておこう。

「軍事研究の意味合いは曖昧であり」

と濱田は言う。そんなことは全くない。軍事研究は軍事研究に他ならずそれ以外の何物でもありえない。誰にでも分かる極めて自明な事柄を平然と歪曲している。

「学問研究はその扱い方によって平和目的にも軍事目的にも利用される可能性(両義性:デュアル・ユース)が、本質的に存在する」

これは一面事実ではある。科学技術、工業技術は最終的な完成品が何であるかによって、その性格付けがなされる。だから、平和に与するための科学はより慎重でなければならないとこれまで明確に「軍事研究」の禁止を建前にしていたものを、こともあろうに危険極まる「両義性」を理由に「どっちかわからないんだから軍事研究をしてもいいじゃないか」と開き直っているのだ。

東大が平然と軍事研究を行うと宣言したからには、おこぼれにありつこうとこれから雑魚どもが後に続くだろう。解釈改憲、有事法制の悪質な準備、そして大学における「軍事研究」の明確な開始宣言。悪くするとあと5年で徴兵制導入もあながち絵空事ではなくなってきた。

◆2012年3月の質疑応答で感じた濱田総長への不信感

総長一人でこの決定をしたわけだはないだろうけれども、私には濱田に対する決定的な不信感が以前からある。濱田は大学の秋入学実施を提言してみたり、目立ちたがりの人間であるが、研究者としての業績は極めて少ない。確かに話をさせるとなかなかの詭弁使いではあるけれども、その詭弁も以前から「これが東大総長のレベルか」と聞いている方が情けなくなる内容だった。

2012年3月3日東大で「日本マス・コミュニケーション学会60周年記念シンポジウム『震災・原発報道検証ー「3・11」と戦後の日本社会』が開催された。当時この学会の会長だった濱田は基調講演を行った。だが、ご想像の通り「原発報道」に関する問題指摘は一言もなく「表現の自由が、『絆』、あるいは頑張ろうという気持ちを醸しだしている」などと頓珍漢な話に終始した。

シンポジウムの最後に質疑の時間があった。そこで私は濱田に「マスコミの話をする前に原発推進大学の総長としての見解を聞かせろ」と質問をした。濱田は「確かに原発を推進した学者もいたが反対した学者もいた。組織として一定の考えを意見の内容や研究の内容について何か意思決定する、ということはすべきではないと思っています」と答えた。そして「私が今日お話したことは、表現ということ、情報を伝えるということの原点についてのお話しでした。それについてはご理解いただきたい。それと、原発の関係の学者が答えていない、とおっしゃいました。それをご本人たちがどう答えるかはわかりません。しかし、私は、きちんと自分たちで検証しろと。それは促しています。その結果彼らがどういった形で発表していくのか。それはわかりません。私は、組織としては、本人に対して検証しろと言う、それで十分だと思いますと」と語った。

濱田が私に答えた最後の部分は非常に重要な意味を持っている。「私は、きちんと自分たちで検証しろと。それは促しています。その結果彼らがどういった形で発表していくのか。それはわかりません。私は、組織としては、本人に対して検証しろと言う」と学会の場で約束をしたのだ。

東大の原発推進御油学者どもに発表の方法は決めないが「自分で検証しろ」と命じる、と明言したのだ。

さて、その後どうだろう。嘘八百を並べ立ててこの国を、あわや滅亡の危機にまで陥れた学者どもが何らかの反省の弁や、自分の検証をしただろうか。そんな奇特な輩は今のところ一人も見当たらない。

さて、この話には後日談がある。マスコミ学会は主催したシンポジウムなどをまとめて年に1度学会誌を出してる。そこには講演内容だけでなく質疑応答も掲載される。だが、私が質問をし、濱田が答えたこの日の質疑応答だけは学会誌に掲載されていないのだ!

空手形を口にしてしまった濱田が恣意的に削除したか、マスコミ学会の判断かは分からないが、濱田が「御用学者に検証させます」と約束した証拠を残したくなかったのだろう。
▼田所敏夫(たどころ としお)
兵庫県生まれ、会社員、大学職員を経て現在は著述業。大手メディアの追求しないテーマを追い、アジアをはじめとする国際問題、教育問題などに関心を持つ

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