連合赤軍事件から50年──その教訓を検証する〈7〉指導者の資質 横山茂彦

◆山岳ベースの魔女に仕立てられた永田洋子

8日間にわたる、あさま山荘銃撃戦のあとに同志殺しが発覚し、日本じゅうが驚愕の渦に叩き込まれた。そのとき、メディアが書き立てたのは森恒夫と永田洋子という、ふたりの指導者像についてだった。とりわけ、女性指導者という話題性から、永田洋子の個人的な資質について週刊誌は詮索したものだ。

おりしも日本社会はウーマンリブの台頭期であった。いまの若い人は知らないBG(ビジネスガール=売春婦を想起させる)という言葉がOLに改められ、女性の社会進出が世情を騒がしていた。

マスメディアの俎上に上げられた永田洋子はすこぶる悪評で、まるで殺戮の魔女のような扱いだった。そして法廷でもその資質が問題にされ、事件の本質が彼女と森恒夫の資質にあったかのごとく評されたのである。

1982年6月18日の一審判決(中野武雄裁判長)から見てゆこう。

「被告人永田は、自己顕示欲が旺盛で、感情的、攻撃的な性格とともに強い猜疑心、嫉妬心を有し、これに女性特有の執拗さ、底意地の悪さ、冷酷な加虐趣味が加わり、その資質に幾多の問題を蔵していた」

「他方、記録から窺える森の人間像をみるに、同人は巧みな弁舌とそのカリスマ性によって、強力な統率力を発揮したが、実戦よりも理論、理論よりも観念に訴え、具象性よりも抽象性を尊重する一種の幻想的革命家であった。しかも直情径行的、熱狂的な性格が強く、これが災いして、自己陶酔的な独断に陥り、公平な判断や、部下に対する思いやりが乏しく、人間的包容力に欠けるうらみがあった。特に問題とすべきは、被告人永田の意見、主張を無条件、無批判に受け入れて、時にこれに振り回される愚考を犯した点である」

「被告人永田は、革命志向集団の指導者たる資質に、森は長たる器量に、著しく欠けるものがあったと言わざるを得ない。繰り返し言うように、山岳ベースにおける処刑を組織防衛とか路線の誤りなど、革命運動自体に由来する如く考えるのは、事柄の本質を見誤ったというほかなく、あくまで、被告人永田の個人的資質の欠陥と、森の器量不足に大きく起因し、かつこの両負因の合体による相互作用によって、さらに問題が著しく増幅発展したとみるのが正当である。山岳ベースリンチ殺人において、森と被告人永田の果たした役割を最重要視し、被告人永田の責任をとりわけ重大視するゆえんである」

事件が革命運動とは無縁の、指導者個人の資質的欠陥によるものだったと、いわばとるに足らない凶悪事件と断じたのである。これ自体は、裁判官による永田と森への皮肉をこめた悪罵に近いものがある。

いっぽう、森は裁判の開始を待たずに獄中で自殺した(1973年1月1日)。そのとき永田は「森君、ずるい」と思わず口にしている。世間の非難を一手に引き受けることになった永田に、左翼陣営は同情的だった。

とくに、山岳ベースにおける処刑が革命運動自体に由来するものではなく、永田の個人的資質の欠陥、および森の木量不足に起因するという判決には、事件を個人的なものにしていると批判的なものが多かった。あくまでも、革命運動上の問題としてとらえるべきだという、ある意味では真っ当な批判といえる。

しかしながら、個人の資質に還元すべきではない、という論調のあまり、指導者の資質問題が軽視されてきたのも否めない。森恒夫が発議した体育会的な、暴力による総括援助がなければ、同志殺しが起きていないのは明らかである。そして永田洋子の総括発議と告発がなければ、共産主義化のための総括が始まらなかった可能性は高い。独裁的な指導部として、ふたりが事件の責めを一身に負わなければならないのは言うまでもない。

◆森恒夫の実像とは

判決で「実戦よりも理論、理論よりも観念に訴え、具象性よりも抽象性を尊重する一種の幻想的革命家」と評された森恒夫は、しかしマスメディアでは「臆病者」と評されていた。

事件発覚から初期の段階で、明大和泉校舎事件(69年7.6)から「逃亡した」とされていたからだ(複数の週刊誌報道)。森が7.6事件の現場にいなかったのは事実だが、逃げたというのは事実の歪曲である。

森恒夫が行方をくらましたのは、7.6事件に先立つ6月27日の全逓合理化反対集会の司会役でありながら、現場に現れなかったというものだ。これが事実である(重信房子・花園紀男らの証言)。その後、森は大阪の工場で旋盤工として働いていたという。

それより前に、森恒夫はブントの千葉県委員長として三里塚の現地闘争責任者を務めている。のちに連合赤軍事件を知った反対同盟農民は「森がそんなこと(同志殺し)をするとは思えない」と感想を述べたという。

上記の「逃亡説」に基づいてか、週刊誌は「関東派のリンチに遭って、森はテロらないでくれと哀訴した」と報じている(角間隆の『赤い雪』に採録)。

アスパック粉砕闘争の過程で、赤軍フラクが「関東派」からリンチを受けたのは事実である(『世界革命戦争への飛翔』赤軍派編)。しかし「藤本敏夫といっしょにリンチを受け、藤本は古武士の風格で対応したが、森は自己批判した」(週刊誌報道)というのは誤報である。藤本は単独で毎日新聞記者を名乗る何者かに渋谷で拉致され、数日後に解放されている。そのかんの記憶があいまいで、生前もこの事件について何も語らなかったという(加藤登紀子)。

元赤軍派のS氏に聞いた、森恒夫の人物評を紹介しておこう。相手に対しては、きわめて厳格な物言いをしたという。「お前はどうなんだ?」が口癖だったとは、山岳ベースでの執拗な総括要求を思わせる。

そのいっぽうで、年下の者たちには「親父さん」と慕われていたことは、つとに知られるところだ。理論的には突出力があり、連合赤軍で森に対等の議論ができたのは、塩見孝也の秘書役だった山田孝しかいなかった。

◆残された謎

相互批判・自己批判が「銃と兵士の高次な結合」という「共産主義化論」に応用され、森の体育会的な「総括援助」が暴力の発動となったこと。その思想闘争は際限のない「総括地獄」へと堕ちていった。これらが連合赤軍事件の概略である。

だがそれにしても、犠牲になった「同志たち」がなぜ、山岳ベースから逃げなかったのか。修羅場と化していた「処刑場」から、なぜ逃避しなかったのか、という疑問が残るのだ。じっさいには下山(逃亡)したメンバーがいるので、逃げられなかったという解釈は成り立たない。次回はこれを考察していこう。(つづく)

連合赤軍略年譜

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▼横山茂彦(よこやま・しげひこ)
編集者・著述業・歴史研究家。歴史関連の著書・共著に『合戦場の女たち』(情況新書)『軍師・官兵衛に学ぶ経営学』(宝島文庫)『闇の後醍醐銭』(叢文社)『真田丸のナゾ』(サイゾー)『日本史の新常識』(文春新書)『天皇125代全史』(スタンダーズ)『世にも奇妙な日本史』(宙出版)など。

タブーなきラディカルスキャンダルマガジン『紙の爆弾』2022年3月号!

浪江町民の鈴木正一さんが詩で綴る〝原発事故棄民のリアル〟〈上〉 鈴木博喜

福島県双葉郡浪江町民が申し立てた集団ADR(裁判外紛争解決)での和解案(慰謝料一律増額)を東京電力が6回にわたって拒否し続けた問題。国や東電を相手取って起こした「浪江原発訴訟」の原告団長として721人の先頭に立って闘っている鈴木正一さん(71)が昨年11月27日、詩集「棄民の疼き」を自費出版した。原発事故で国や東電に棄てられた人々のリアルな怒りが哀しみを言葉で紡いだ背景には、4年前に亡くなった前町長の想いや長引く裁判闘争で疲弊する原告たちの団結を願う気持ちがあった。

 
鈴木さんが自費出版した詩集「棄民の疼き」

「お買い得物件」
東電の社長さん!
お勧め物件のご案内です
廃炉指揮の社宅として
私の終わりの住処いかがですか?

2年以上も前に避難指示は解除
続いて内閣府の行政指導で今年度から固定資産税が課税
よくご存知ですよね
第一原発から10㎞未満の近さ
これからの原発事故にもすぐ駆けつけて行けます
放射線量は原発管理区域の1・5倍
あなた達が言う安全なところです
放射線被曝も毎日体験できますよ
世界の中でもここにしかないお買い得物件です
いかがですか?
(初出2019年9月「腹の虫」第10号)

強烈な皮肉がこめられた風刺詩。

「私の家を買えるかって。安全だと言っているけれど買えないでしょう。そういう想いでつくった風刺詩なんですよ。汚染水の海洋放出問題もありますしね」

避難元自宅のある地域は福島第一原発から北西約9キロメートル。事故後に居住制限区域に指定され、南相馬市内に新たな住まいを確保した。2017年3月末で政府の避難指示が解除され鈴木さんは自宅を修繕して戻った。

「一昨年に改築を始めたんです。亡くなった馬場有町長が『まさかずさん、あそこ(自宅前のため池)を除染したら帰って来てくれるかい?』と言うから、私は『そのつもりでお願いしているんだよ』と答えました。で、汚染も酷かったこともあって一番最初にやってくれた。馬場町長は2018年6月27日に帰らぬ人となってしまったけれど、私は自宅に戻りました。実は、馬場町長がこの裁判の原告団長になるという話もあったんですよ」

浪江の自宅と娘の暮らす南相馬を行き来する生活。浪江で生活する時間が多くなったが、それは馬場町長との約束があったから。被曝リスクへの懸念はある。自宅の庭は3度にわたって除染されたが、3回目の除染後に行われた環境省による測定でも空間線量は毎時1.8マイクロシーベルトに達した。これが、詩で言う「あなた達が言う安全なところ」の現実。2019年5月の第1回口頭弁論で意見陳述した鈴木さんは、こう述べている。

「放射線管理区域の基準である年5.2mSvを上回るのに、国から『年20mSvが基準だ』と説明されて避難指示が解除された。しかも先日、固定資産税の納税通知書が届きました。放射能に汚染されたままで利用出来ない土地や家屋にも、情け容赦なく課税されていくのです。原発事故被害の実態を見ようともしない、政府の非情な政治判断の一例です。これが『被災者に寄り添う』と言っている者の真の姿です」

昨年末の時点で「浪江町に住んでいる人」として町役場が公表しているのは1788人だが、この数字には除染や復興事業の作業員なども含まれている。震災・原発事故発生時に町内で暮らしていて戻った「町民」は1200人を上回る程度。一方、町に戻れていないにもかかわらず、土地や建物へ固定資産税を課されている町民は少なくない。

浪江だけではない。富岡町から神奈川県内に避難した男性も「福島原発かながわ訴訟」の控訴審で同じような意見陳述をしている。各種減免措置の終了は、避難指示区域からの〝強制避難者〟に重くのしかかっているのだ。男性は、法廷で次のような趣旨の意見を述べた。

「原発事故後は減免されていましたが、今年度から満額の固定資産税を請求されるようになりました。評価額が低いから固定資産税といっても年1万円にならない程度だけれど、死ぬまで払い続けなければなりません。本当は処分したいですが、買い手などつきません。売りたくても売れないんです。年齢や放射線量を考えると、改めて自宅を新築するなど難しい。結局、処分できない土地と固定資産税だけが残ったのです…」

国や東電による原発事故後の「棄民」に対する怒りを綴った鈴木正一さん

鈴木さんは「東電に払わせるべきだ」と語気を強める。

「土地を持っていると、浪江に住んでいなくて固定資産税を払っている人もいるわけですよ。本来であれば東電に払わせるべきだと思います。避難しているにもかかわらず浪江で暮らしているかのように税金もとられるようになっていく。これから国保税などの減免もなくなる可能性もあるのです。まったく『被災者に寄り添う』なんて良く言いますよね」

そもそも裁判など起こさなくても良かったのだ。東電が原発事故被害者と誠実に向き合ってさえいれば…。

浪江町民が2013年5月に申し立てた集団ADR(精神的損害に関する賠償の増額など)で、東電は原子力損害賠償紛争解決センター(ADRセンター)が提示した和解案を実に6回も拒否した。ADRセンターが再三にわたって受諾を勧告しても東電の姿勢は変わらなかった。

東電は「3つの誓い」の中で「最後の一人が新しい生活を迎えることが出来るまで、被害者の方々に寄り添い賠償を貫徹する」、「原子力損害賠償紛争解決センターから提示された和解仲介案を尊重するとともに、手続きの迅速化に引き続き取り組む」と〝宣言〟している。しかし和解仲介案に対する振る舞いは、自らが立てた「誓い」からはほど遠いものだった。加害者意識に乏しいと言わざるを得ない東電の態度。2018年3月26日にも東電が受諾を拒否したため、同年4月5日をもって集団ADRは打ち切られた。鈴木さんたち109人は馬場前町長が亡くなってから5カ月後の2018年11月27日、福島地裁に提訴した。国や東電に慰謝料の支払いを求めている。今年は原告本人尋問が始まる。

馬場前町長の命日が6月27日、提訴日が11月27日。そして、詩集の発行日も11月27日。詩集には、集団ADRの先頭に立ち続け、志半ばで逝った馬場有さんの想いも詰まっていた。(つづく)

「憂える帰還」では、汚染水の海洋放出計画に疑問を投げかけている

◎鈴木博喜「浪江町民の鈴木正一さんが詩で綴る〝原発事故棄民のリアル〟」
〈上〉 http://www.rokusaisha.com/wp/?p=41937
〈下〉 http://www.rokusaisha.com/wp/?p=41944

▼鈴木博喜(すずき ひろき)

神奈川県横須賀市生まれ。地方紙記者を経て、2011年より「民の声新聞」発行人。高速バスで福島県中通りに通いながら、原発事故に伴う被曝問題を中心に避難者訴訟や避難者支援問題、〝復興五輪〟、台風19号水害などの取材を続けている。記事は http://taminokoeshimbun.blog.fc2.com/ で無料で読めます。氏名などの登録は不要。取材費の応援(カンパ)は大歓迎です。

タブーなきラディカルスキャンダルマガジン『紙の爆弾』2022年3月号!
〈原発なき社会〉を求めて『NO NUKES voice』vol.30(紙の爆弾 2022年1月号増刊)

新聞衰退論を考える ── 新聞社が新聞の「注文部数」を決めている可能性、新聞社のビジネスモデルの闇、ABC部数検証・兵庫県〈2〉 黒薮哲哉

本稿は、兵庫県をモデルとした新聞のABC部数の実態を検証するシリーズの2回目である。1回目では、朝日新聞と読売新聞を取り上げた。これらの新聞のABC部数が、多くの自治体で複数年に渡って「増減ゼロ」になっている実態を紹介した。いわゆるABC部数のロック現象である。

※1回目の記事、朝日と読売のケース http://www.rokusaisha.com/wp/?p=41812

今回は、毎日新聞と産経新聞を取り上げる。朝日新聞や読売新聞で確認できた同じロック現象が、毎日新聞と産経新聞でも確認できるか否かを調査した。

【注意】なお、下記の2つの表は、ABC部数を掲載している『新聞発行社レポート』の数字を、そのまま表に入力したものではない。『新聞発行社レポート』は、年に2回、4月と10月に区市郡別のABC部数を、新聞社別に公表するのだが、時系列の部数変化をひとつの表で確認することはできない。時系列の部数増減を確認するためには、『新聞発行社レポート』の号をまたいでデータを時系列に並べ変える必要がある。それにより特定の自治体における、新聞各社のABC部数がロックされているか否かを確認できる。

次に示すのが、2017年4月から2021年10月までの期間における毎日新聞と産経新聞のABC部数である。着色した部分が、ロック現象である。ABC部数に1部の増減も確認できない自治体、そのABC部数、ロックの持続期間が確認できる。ロック現象は、「押し紙」(あるいは「積み紙」)の反映である可能性が高い。新聞の読者数が、長期間にわたりまったく変わらないことは、通常はあり得ないからだ。

2017年4月から2021年10月までの期間における毎日新聞のABC部数
2017年4月から2021年10月までの期間における産経新聞のABC部数

前回の連載で紹介した読売新聞ほど極端ではないにしろ、毎日新聞も産経新聞もABC部数がロックされた状態が頻繁に確認できる。ロックしたのが、新聞社なのか、それとも販売店なのかは議論の余地があるが、少なくともABC部数が新聞の実配部数(販売店が実際に配達している部数)を反映していない可能性が高い。従って広告主のPR戦略の指標にはなり得ない。

◆新聞のビジネスモデルは崩壊

新聞のビジネスモデルは、新聞の部数を水増しすることを核としている。それにより新聞社は、2つのメリットを得る。

まず、第1に新聞の販売収入を増やすことである。ABC部数は新聞社が販売店へ販売した部数であるから、搬入部数が多ければ多いほど、新聞社の販売収入も増える。逆説的に言えば、販売収入の減少を抑えるためには、販売店に搬入する新聞の部数をロックするだけでよい。

新聞社は最初に全体の発行部数を決め、それを基に予算編成することもできる。

第2のメリットは、ABC部数が増えれば、紙面広告の媒体価値が相対的に高くなることである。それゆえにABC部数をロックすることで、媒体価値の低下を抑えることができる。もっとも最近は、この原則が崩壊したとも言われているが、元々は紙面広告の媒体価値とABC部数を連動させる基本原則があった。

一方、ABC部数を維持することで販売店が得るメリットは、折込広告の収入が増えることである。販売店へ搬入される折込広告の枚数は、搬入部数(ABC部数)に連動させる基本原則があるので、たとえ搬入部数に残紙(「押し紙」、あるいは「積み紙」)が含まれていても、それとセットになった折込広告の収入を得ることができる。客観的にみれば、この収入は水増し収入ということになるが、販売店にとっては、残紙の負担を相殺するための貴重な収入になる。

もっとも最近は広告主が、折込広告の水増しを知っていて、自主的に折込広告の発注枚数をABC部数以下に設定する商慣行ができている。そのために従来の新聞のビジネスモデルは、崩壊している。残紙による損害を、折込広告の水増しで相殺できなくなっているのである。

◆コンビニの商取引と新聞販売店の商取引の違い

最近の「押し紙」裁判では、だれが新聞の「注文部数」を決めているのかが争点になっている。コンビニなど普通の商店では、商店主が商品の「注文部数」を決めるが、新聞の商取引では、新聞社が「注文部数」を決めていることが指摘されている。その結果、ABC部数のロック現象が顕著化しているとも言える。

これまで兵庫県をモデルケースとして朝日、読売、毎日、産経のABC部数検証を行った。その結果、部数のロックという共通点が明らかになった。

次回の3回目の連載では、日経新聞と神戸新聞に焦点を当ててみよう。経済紙や地方紙にも、ABC部数の「ロック」を柱とした販売政策が敷かれているのかどうかを検証したい。(つづく)

◎黒薮哲哉-新聞衰退論を考える ── 公称部数の表示方向を変えるだけでビジネスモデルの裏面が見えてくる ABC部数検証・兵庫県〈1〉

▼黒薮哲哉(くろやぶ・てつや)
ジャーナリスト。著書に、『「押し紙」という新聞のタブー』(宝島新書)、『ルポ 最後の公害、電磁波に苦しむ人々 携帯基地局の放射線』(花伝社)、『名医の追放-滋賀医科大病院事件の記録』(緑風出版)、他。
◎メディア黒書:http://www.kokusyo.jp/
◎twitter https://twitter.com/kuroyabu

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酷寒のさなか闘った72年2・1学費決戦から50年の日、同志社大学旧学館、今出川キャンパス明徳館前に立つ ── 鹿砦社代表 松岡利康

すでにこのかん記述してきたように、去る2月1日、私たちは、50年前に学費値上げに抗議し身を挺して闘った時の出撃拠点・同志社大学旧学館、拙い砦をこしらえ立て籠もった今出川キャンパス明徳館前に立った。ようやく50年の月日が流れたのか──感慨深い。

コロナ禍で呼びかけるのを憚っていたが、今年になりコロナが収束したかに見えたところで、所在がわかる、かつての同志に案内を送った。しかしコロナ第6波が急拡大したり、平日だったことなどもあり(ほとんどの人が70歳を過ぎても働いているので)、再プッシュしなかった。当時は、たったひとりになっても闘うと決意していたように、かねてから私ひとりでも本年2月1日には同志社大学の旧学館、今出川キャンパス明徳館前に行くつもりだった。

すると、50年前に支援に駆けつけてくれ逮捕された京大熊野寮の垣沼真一さんが駆けつけてくれるという。彼はわざわざ東京から駆けつけてくれた。他にも4人が駆けつけてくれた。従前からもっと周到に準備すれば、もう少しは集まったかもしれないが、このコロナ禍、いたずらに移動を煽るようなことはしたくなかったし、人望のない私が呼びかけても、そんなに共感を呼ばないだろうという気もした。

2022年2月1日 旧学館(現寒梅館)前で

被告団10人の内、私の他に駆けつけてくれたのは、もうひとり、京大熊野寮から垣沼さんと共に駆けつけ逮捕─起訴されながらも無罪を勝ち取ったM君がいる。

M君に再会できたのは本当に嬉しく有意義だった。彼は垣沼さんと同じく京大工学部(垣沼さんは航空工学専攻)で建築を専攻、その後大学院に進み修士課程を修了している。大学院に進んだのは、見るからに秀才肌だった彼の向学心もあったのだろうが、裁判もあったので、なかなか就職もできなかったものと思われる。その後2,3年民間企業で働き、自前の建築設計事務所を開き、今は諸事情で事務所を閉じ自宅で建築設計関係の仕事をしているとのことだった。いろんな起伏もあったようだが、国際的な賞を獲り雑誌の表紙を飾ったこともあるという。

垣沼さんにしろM君にしろ、語りを聞くと、京大工学部という超ハイレベルな学歴に反し、決してエリートコースを歩んだわけではなかったようだ。垣沼さんは、一時社会的な事件にも巻き込まれてもいる。

2022年2月1日 今出川キャンパス明徳館前で
 
1972年2月1日 当時の学館前での激闘

さらに、これまで一面識もなかった同志社の後輩も参加してくれた。三里塚管制塔闘争があった直後の78年入学で、学生運動の拠点として名が高かった同志社のキャンパスでは、さぞや三里塚闘争で盛り上がっているであろうと予想していたところ田辺移転問題ばかりで三里塚の立看はなくガッカリし、学外で三里塚の運動に関わり現地にも行ったという。

彼の言うことは私も同感で、かつて大きな闘争では同志社の学友会旗、各学部自治会旗、闘争委員会旗が翻り、同志社の学生は持ち前の戦闘性を発揮し先頭に立って闘ったということで知られる。管制塔闘争で同志社の旗が翻ったり同志社の部隊が闘っている報道が見られずガッカリした。

私が入学した70年では、まだまだ闘いの機運は残っており、私もそれに巻き込まれていくのだが、70年代後半から、それまで良かれ悪しかれ同志社の学生運動を牽引してきた全学闘(全学闘争委員会)が弱体化し、あろうことか放逐され、同時に、60年、70年の〈二つの安保闘争〉を、その戦闘性で牽引した同大の革命的学生運動は、政治ゴロや簒奪者らによる“コップの嵐”に終始し、結局は自ら学友会を解散するという前代未聞の喜劇を演じるに至った。私たちの先輩や、これを越えようとした私たちが自ら血を流し闘い守ってきた「同志社大学学友会」の輝かしい歴史が終わったのだ。先輩らの闘い、その想いを蔑ろにするものと言わざるをえない。

 
1972年2月1日 明徳館屋上での抵抗

私は、私(たち)の闘いの足跡を『遙かなる一九七〇年代‐京都~学生運動解体期の物語と記憶』(垣沼さんと共著。2017年。現在品切れ。古書市場では高額な値が付いている)と『抵抗と絶望の狭間~一九七一年から連合赤軍へ』(2021年)にまとめ刊行したことと、この2・1学費決戦50周年で、私にとっては、ひとつのケジメをつけれたと考えている。書き残すべきことは、ほぼ書き残せたので、いつ死んでもいい。前者は、会社も経営的に絶好調の時で比較的ゆったりと仕事ができたが、後者は、コロナ禍で、経営的に想定外の落ち込みに遭遇し、精神的にきつい中での編集作業であったが、私が若い時に闘った足跡を、50年目のこの時期に、なんとしても書き残したいという強迫観念で作業を貫徹した。

思い返せば、以前にも記述したが、南ベトナム民族解放戦線のように三里塚で沼につかり逃げながら闘ったことに比べれば、どうってこともないし、その後も2005年、雑誌『紙の爆弾』を創刊して直後、「名誉毀損」に名を借りた出版弾圧で逮捕・起訴され、50歳を過ぎて192日もの長期勾留をされたり(若い頃の192日と50歳を過ぎてのそれとは、おのずと社会的責任が違い、肉体的、精神的負担も大きく違う)、幾多の困難に直面し、多くの方々に助けられ乗り越えてきた……当時20歳、クソ生意気な若造だった。50年経ち今や70歳、「棺桶に片足突っ込んだ爺さん」などと嘲笑される高齢者の領域に入った。なんとか頑張って、もう一仕事、二仕事、やり終えくたばりたいと思っている。

◇     ◇     ◇     ◇     ◇

報告が遅れましたが、とりいそぎ上記のとおり書き記しました。2・1で逮捕され勾留中に連合赤軍事件が起きました。このあたりのことは『抵抗と絶望の狭間~一九七一年から連合赤軍へ』をご一読ください。

このところ連合赤軍50年ということで関連の新刊本や再刊本が少なからず出されています。『抵抗と~』もその一つと見なされているかもしれませんが、自分では、ちょっと違うと思っています。出版社や著者らの思惑とは外れ、今のところは世間の関心もさほど盛り上がらないように感じられます。えてしてそんなもので、商売気で、そんな本を出しても、そううまくはいかないものですよ。ちなみに、『抵抗と~』のほうは、1971年という地味な年を中心に採り上げたことで取次会社も委託部数をこれまでの本よりも減らしましたが、予想に反し、けっこう追加注文が続いています。

連合赤軍事件、50年経って、あらためてみずからの問題として考えてみる契機であることだけは確かです。(松岡利康)

【追記】

垣沼さんが、当日のことについてコメントされていますので、以下掲載しておきます。

*     *     *     *     *

中身は恥ずかしい限りだが何とか生き抜いて懐かしい場所で縁のある方たちと交流しました。

この半世紀前の明け方に京大の値上げ阻止の無期限バリストから、当局の要請で機動隊が導入されて封鎖が強制排除されようとする同志社に駆けつけました。烏丸今出川北で衝突になり丸太部隊を含む学生側と機動隊の闘いが繰り広げられました。これが京都は勿論ですが多分日本での街頭での本格戦闘の最後になったのかもしれません。多くの仲間とともに私も逮捕され、戦闘部隊にいたので起訴されると思っていたが、どういうわけか起訴だけは免れた。ただし10名の方が起訴されて長い裁判になりました。

この記念日にも複数の元被告の方が駆けつけました。懇親会のことはいずれ書くつもりです。この交流に前後して最近参加している中国による周辺の人々への虐殺、弾圧を阻止する運動の一環として、洛中の様々な場所でウイグルの実情を訴える漫画のパンフレットを配布しました。

2月1日は京大本部、旧教養部ならびに吉田寮、百万遍、同志社で配布。構内は試験とコロナで人疎なのに警備員ばかりでやや陰鬱な感じでした。同大で配布時に感じの良い女性がもうネットで読みましたと嬉しそうに挨拶してくれました。北で配布に続いて、翌3日帰京する前に少し時間があるので 河原町に沿って三条から四条にかけてウイグル人弾圧を暴露する清水ともみさんの「私の身に起きたこと」のパンフレット版を配らせていただきました。北の学生街とは違い受け取る人が激減しますが目を開いて驚く人々が多くて宣伝にはなった。

『抵抗と絶望の狭間~一九七一年から連合赤軍へ』

《飯塚事件発生30年》冤罪処刑の責任者たちを直撃〈2〉裁判官編 片岡 健

1992年2月20日、福岡県飯塚市で小1の女の子2人が殺害された「飯塚事件」は、犯人として処刑された男性・久間三千年さん(享年70)に冤罪の疑いがあることで有名だ。久間氏は一貫して容疑を否認していたうえ、有罪の決め手とされた警察庁科警研のDNA型鑑定が実は当時技術的に稚拙だったことが発覚したためだ。

私は2016年に編著『絶望の牢獄から無実を叫ぶ ―冤罪死刑囚八人の書画集―』(鹿砦社・2021年に内容を改訂した電子書籍も上梓)を上梓した際、この事件の捜査や裁判に関わった責任者たちを特定し、この事件にどんな思いや考えを抱いているかを直撃取材したことがある。事件から30年になる今、同書に収録された責任者たちの声を改めて紹介したい。

第2回は裁判官編(所属・肩書は取材当時)。

◆確定死刑判決を宣告した裁判官は強固な姿勢で取材拒否

一貫して無実を訴えた久間氏に対し、裁判の第一審で死刑判決を宣告したのは福岡地裁の陶山博生裁判長だ。この死刑判決を控訴審で福岡高裁の小出錞一裁判長、上告審で最高裁の滝井繁男裁判長が追認し、久間氏の死刑は確定した。この3人の裁判長のうち、滝井氏は2015年2月に78歳で死去しており、残る2人に取材を申し入れた。

陶山氏は2013年3月、福岡高裁の部総括判事を最後に依願退職し、現在は福岡市を拠点に弁護士をしている。

私は以前、本書とは別の仕事で陶山氏に取材を申し入れたことがあり、その時は電話で取材を断られたため、氏が所属する羽田野総合法律事務所の入ったビルの前まで訪ねて再度取材依頼したのだが、「全然お話するつもりはありません」「黙秘です」「急ぎますので」などと頑なに拒否された。

そして今回、改めて取材依頼の手紙を出したうえ、返事を聞くために事務所に電話したのだが、陶山氏は電話にも出てくれなかった。取材拒否の姿勢がいっそう強固になった印象だった。

福岡高裁・地裁の旧庁舎。ここで久間氏は死刑判決を宣告された

◆控訴審の裁判官からは丁重に取材を断る手紙が届いたが……

一方、控訴審の裁判長だった小出氏は2006年2月に名古屋高裁の部総括判事を最後に依願退官。その後は2012年まで専修大学法学部で教授を務め、取材当時は大学生らに奨学金の給与などを行う中山報恩会という公益財団法人で選考委員に名を連ねていた。

手紙で取材を申し入れたところ、小出氏から以下のような返事があった。

〈お手紙の転送を受け、拝見いたしました。ご丁重なお手紙をありがとうございました。

担当した事件については、すべて、立場上、 取材をお受けすることはできないと考えております。これまで、担当した少なからぬ事件について、新聞社、放送局の記者、そのほかのジャーナリストの方々からこのような申し込みをいただいたことがありますが、趣旨如何にかかわらず、すべてお断りして参りました。担当しない事件などについてのコメントを退官後求められることも少なくありませんでしたが、小生としてはこれもすべてお断りしてきております。

そのようなわけで、取材のご希望は一切お受けすることはできませんので、今後はご放念いただきたく、よろしくお願しい申し上げます。

末筆ながら、今後のご活躍とご健勝をお祈り申し上げます。〉

誠実さを感じさせる文面だが、実を言うと、小出氏は名古屋高裁の裁判長だった2005年、世間の多くの人が冤罪と信じる名張毒ぶどう酒事件の奥西勝死刑囚に対し、再審を開始する決定を出した裁判でもある(この再審開始決定は検察官の異議申し立てをうけ、同高裁の門野博裁判長に取り消された)。そのため、冤罪問題に詳しい人たちの間でも小出氏の評判は決して悪くない。

そんな裁判長でも飯塚事件のような酷い死刑判決を追認してしまうところに、事実を見きわめる難しさが示されている。(つづく)

▼片岡健(かたおか けん)
ノンフィクションライター。stand.fmの音声番組『私が会った死刑囚』に出演中。編著に電子書籍版『絶望の牢獄から無実を叫ぶ―冤罪死刑囚八人の書画集―』(鹿砦社)。

「絶望の牢獄から無実を叫ぶ[改訂版]―冤罪死刑囚八人の書画集―」(片岡健編/鹿砦社)
タブーなきラディカルスキャンダルマガジン『紙の爆弾』2022年3月号!

貧困や政治の問題を赤裸々に描く ストリーミングサービス『Netflix』のドラマたち 小林蓮実

広告を挟めば無料から楽しめる『YouTube』、テレビ的に観ることが可能な『AbemaTV』など、インターネット上で鑑賞できる動画には多種存在する。筆者もTV自体はかなり昔に処分して以来、持っていないが、映画、報道、K-POPや韓流ドラマ、DIYを扱ったものなど、さまざまに楽しんでいる。

そのようななか、断続的に利用しているのが『Netflix(ネットフリックス)』だ。今回、最近、話題の2作品について触れてみたい。

◆貧困の問題にまっすぐに向き合ったヒリヒリするような人間ドラマ『イカゲーム』

まず、2021年9月より配信されている、韓国発「サバイバルドラマ」が『イカゲーム(오징어 게임)』。多重債務者や貧困にあえぐ456人が人生を逆転するため、命がけでだるまさんが転んだや型抜き、綱引きや綱渡り、ビー玉や飛び石といった子どもの遊びがモチーフとなっているゲームに参加する。最後まで勝ち残った1人には456億ウォンの賞金が支払われるが、1つひとつのゲームに負ければその場で死ぬことになるのだ。


◎[参考動画]『イカゲーム』予告編 – Netflix

監督・演出・脚本はファン・ドンヒョク。出演はイ・ジョンジェ、パク・ヘス、ウィ・ハジュン、カン・セビョクほか。複数の媒体で監督は背景を説明しているようだが、エンタメ業界紙『The Hollywood Reporter(THR)』の記事(https://hollywoodreporter.jp/interviews/1234/)を引用しておく。「脚本を手に資金集めをしていた時に、全く上手くいかず、漫画喫茶でひたすら過ごしている時期がありあました。そこで、『LIAR GAME』『賭博黙示録カイジ』『バトル・ロワイアル』などのサバイバル系のものや、自分自身も経済的に困窮していた為、借金を抱える主人公が生死を賭けた戦いに挑む様な作品に夢中になりました。本当にそんなゲームがあれば絶対参加して、今の状況から抜け出して大金を手にしたいと考えて没頭していたんです。そんな時にふと思ったんです。『監督なんだからそんな映画を作ってしまえばいいんじゃないか』と」。本作が全世界で公開されると、11月、94か国でランキング1位を獲得。シーズン2の制作も明らかになっている。

わたしが感じたことは、貧困の問題に対し、ある種まっすぐに向き合っているということだ。国内でもおそらく韓国でも、差別的な視線やバッシングはあるだろう。しかし本作では、きれいごとではすまされない現状と、そのいっぽうで人間性や1人ひとりの人間ドラマが描かれている。グロ映像が苦手な人には向かないが、10?20年前くらいには国内でもこのようなヒリヒリするドラマ映画が多数あり、個人的によく観ていた。このような作品が世界で鑑賞されたのは、やはり格差が拡大し、正直者がバカをみるような世界となり、資本主義の限界が露呈し始めたからではないかと考えている。ちなみに、脱北者の女性も登場し、ゲームのなかで特殊な友情を育む。思い入れが強くなった登場人物がゲームに負けたりして命を落とすシーンでは、涙も流してしまうだろう。

◆意味が深い作品だからこそ真摯に対応して手本を示してほしい『新聞記者』の問題

次に注目されたのが、『新聞記者』。19年公開の映画も話題になったが、東京新聞の望月衣塑子(いそこ)記者による同名の著作(角川書店)を原案に、財務省の公文書改ざん事件をモチーフにした社会派ドラマだ。Netflixでシリーズ化され、映画と同様に藤井道人(なおひと)監督が手がけ、やはり全世界で配信された。キャスティングがなかなか絶妙で、米倉涼子さん、綾野剛さん、吉岡秀隆さん、寺島しのぶさん、吹越満さん、田口トモロヲさん、大倉孝二さん、萩原聖人さん、ユースケ・サンタマリアさん、佐野史郎さんなどが名を連ねる。


◎[参考動画]『新聞記者』 予告編 – Netflix

1月18日に『日刊ゲンダイ』(https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/geino/300079)は、「Netflix『新聞記者』海外でも高評価 現実と同じ不祥事描写に安倍夫妻“真っ青”』と題し、「海外でも上位に食い込み、香港と台湾の『今日の~』で9位にランクイン(17日時点)。英紙ガーディアンはレビューに星5つ中3つを付け、〈日本が国民の無関心によって不正の沼にはまろうとしつつある国だと示している〉と評価した」と記す。実際に、安倍夫妻が真っ青になったという事実をつかんだという話ではないようだが。

しかし、1月26日付の『文春オンライン』(https://bunshun.jp/articles/-/51663)によれば、プロデューサーの河村光庸氏が2021年末、森友事件の遺族に謝罪していたことが『週刊文春』の記事によって判明。「公文書改ざんを強いられた末に自殺した近畿財務局職員・赤木俊夫さんの妻、赤木雅子さんと面会し、謝罪していた」という。また、「赤木俊夫さんを診ていた精神科医に責任があるかのような河村氏の物言いなど、いくつかの点に不信感を抱いた赤木さんは“財務省に散々真実を歪められてきたのに、また真実を歪められかねない”と協力を拒否」とのことだ。さらに、「2020年8月以降、一方的に話し合いを打ち切り、翌年の配信直前になって急に連絡してきた河村氏に、赤木さんは不信感を強め、こう語ったという。『夫と私は大きな組織に人生を滅茶苦茶にされたけれど、今、あの時と同じ気持ちです。ドラマ版のあらすじを見たら私たちの現実そのままじゃないですか。だいたい最初は望月さんの紹介でお会いしたのだから、すべてのきっかけは彼女です。なぜ彼女はこの場に来ないのですか』 河村氏はこう返すのが精一杯だった。『望月さんには何度も同席するよう頼んだんですが、「会社の上層部に、もう一切かかわるなと止められている」と』」とも記されている。

そのうえ、遺族から借りた遺書を含む資料を返していないという疑惑も持ち上がった。このような状況に対し、『はてなブックマーク』には、「メディアにとって仮パクは当然のことよ。得ダネ関係は他所に資料が渡らないように積極的に仮パクするよ。俺も業界関係の取材受けたとき渡した資料未だに戻ってこないから 探してると返答あってからもう6年経つ」というような反応も寄せられた。

2月8日、望月衣塑子記者はTwitterで、「週刊誌報道について取材でお借りした資料は全て返却しており、週刊誌にも会社からその旨回答しています。遺書は元々お借りしていません。1年半前の週刊誌報道後、本件は会社対応となり、取材は別の記者が担当しています。ドラマの内容には関与していません。」とつぶやいた。しかし、これに対しても、「文春報道から2週間かけてこの回答。借用書がなかったのなら「返したことにするしかない」と決めたとしか思えないね。あれだけ森友に粘着してて、それで押し切るんだな。東京新聞も含め。」というようなコメントが人気を集めていた。

私は取材・執筆をする側が、勇気をふるって行動する被害者を応援しないどころか邪魔をするようなことをおこなうことは誤りだと考えている。新聞などの報道の現場に携わるわけでもないため、批判でなく支援になればとの思いがある場合、原稿内容が妨げとならないか、力となるかを確認してもらっている。そのうえで、問題提起として強い個所が削除になったり、わかりづらい内容になったとしても、当事者の思いを優先するよう心がけているつもりだ。

個人的には、望月記者を信じたい気持ちもある。また、ドラマだからこそ、わかりやすく、広く問題が伝わるという面ももちろんあるだろう。エンターテインメントの力というものも信じている。だが、本作はフィクションであるとうたってはいても、明らかに事実をとりあげているのだ。そして、会社の意向、ドラマ化に携わる側の意向、金のからみなどによって、真実がゆがめられることはよくある。私自身も取材を受け、意をくみ取ってくれて感心したこともあったが、おもしろおかしくされて怒りに震え、びっしりと赤字を入れて原稿を戻したこともある。

いずれにせよ、事実を正直に公開し、関係者は遺族に対して心からの謝罪をしたうえで今後の対応に関する希望を聞き、疑惑を残さずに、この問題を解決してほしい。東京新聞のことも監督のことも信じたい。問題を追及する側だからこそ、真摯に対応し、手本を示してほしいのだ。

▼小林 蓮実(こばやし・はすみ)
1972年生まれ。フリーライター、編集者。労働・女性・オルタナティブ・環境 アクティビスト。月刊誌『紙の爆弾』202年2月号に「北海道新幹線延伸に伴う掘削土 生活も水も汚染する有害重金属」、3月号に「北海道新幹線トンネル有害残土問題 汚染される北斗の自然・水・生活」寄稿。読者のリクエストに応じ、札幌まで足を伸ばしたものなので、ご一読いただけたらうれしい。全国の環境破壊や地域搾取について調べ続けていると、共通の仕組がわかってくる。

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連合赤軍事件から50年──その教訓を検証する〈6〉なぜ暴力が用いられたのか? 横山茂彦

◆共産主義化とは何か?

森恒夫によれば、各自の革命運動へのかかわりを問い質し、みずからの活動の総括(反省)をもとめる。その「総括」を達成することで、銃と高次な結合(共産主義化)が果たせるのだという。

これが、連合赤軍の指導者森恒夫の「共産主義化論」である。もともと赤軍派は、組織的に「相互批判・自己批判」を行なってこなかった。

この「相互批判・自己批判」は、中国共産党が延安への「長征中」に行なった、整風運動の方法である。お互いに批判し合い、自己批判することで政治的態度を改める。それを通じて党員の思想傾向を改め、党風を整頓する。いわば党内の思想闘争である。

 
『情況』2022年1月号

この思想闘争はもともと、赤軍派にはないものだった。思想闘争にもとづいた、精緻な組織活動。その違いは、両派が遭遇した「同志の処刑」で露呈したものだ。

革命左派が呻吟ののちに「処刑」を実行したのに対して、赤軍派は曖昧なまま実行できない組織だったのである。

植垣康博はその違いを「真面目な革命左派にたいして、われわれはいい加減だった。その違いだった」と語っている(『情況』2022年1月発売号)。

だからこそ、森は「革命左派は進んでいる」と感じたのだ。そして森は、革命左派の「進んでいる部分」を巧みに摂取する。

森はこう記している。

「赤軍派に於て69年の闘争時から中央軍兵士のプロレタリア化(共産主義化=引用者注)の課題が叫ばれ、大菩薩闘争の総括では『革命戦士の共産主義化』が中心軸として出されてはいたが、その方法は確立されていなかった。私は革命左派の諸君が自然発生的にであれ確立してきた相互批判・自己批判の討論のあり方こそがそうした共産主義化の方法ではないかと考えた」(逮捕後の「自己批判書」)。

ところで、森の理論的な卓抜さに対抗できる指導者は、革命左派にはいなかった。

その結果、森の「共産主義化」の理論をそのまま受け容れることになるのだ。森は革命左派の組織内の相互批判を、上記の「共産主義化のための総括」に適用したのだった。
そこまでならば、山岳ベースで大量の死者が出ることはなかった。

いかに過酷な相互批判・自己批判であっても、討論をしているだけで人が死ぬことはない。同志たちが死んだのは、総括の「援助」として殴ったからなのである。食事を与えず縛り上げ、死ぬほど殴ったから死んだのだ。極寒の中で放置されたからこそ、かれら彼女らは死んだのである。

◆森の総括体験

その暴力は、どこからやって来たのだろうか。この連載の前回で、連合赤軍の「処刑」がどこから発想されたのは、いまも流布している「連合赤軍服務規律」(ニセ文書)を参考にしたのではないか、という公安当局の推測を批判してきた。それが共産主義政党の綱領的な部分に抵触するがゆえに、政治的な「服務規律」足りえないことも明らかにした。したがって、「処刑」は規約によるものではない。だがまぎれもなく、連合赤軍は「処刑」を実行したのだ。当初の「敗北死(総括をしきれずに、敗北することで死んだ)」から始まり、12名の同志が殺されたのである。

その「暴力的な総括支援」の思いつきは、じつは森恒夫の高校時代の体験にあった。高校時代の森恒夫は、剣道部の主将だったのだ。かれは剣道の稽古のさなか、転倒して後頭部を打ったことがある。脳震盪で意識をうしない、その後覚醒して「生まれ変わった気分だった」という。

剣道協会によれば、つばぜり合いのときに後ろ頭から倒れて脳震盪を起こす事故があるという。それを避けるために、倒れるときは腰を落として倒れるのが、事故防止のためには良いとされている。森はこの脳震盪を体験したのである。読者諸賢はいかがであろう、脳震盪の「意識喪失」の体験はありますか? 

ボクシングでダウンするのは、グローブでの打撃が脳を揺さぶり、脳震盪を起こすからだ。ラグビーもタックルで何度か、頭からぶつかるうちに脳震盪を起こす。かつては「魔法のヤカン」で頭に水を垂らすと、倒れていた選手が蘇生するシーンを見たものだ。あれはしかし、きわめて危険である。脳震盪をくり返すうちに、それがパーキンソー病の因子になる。

ともあれ、森恒夫は高校剣道部時代の体験から、気絶する(脳震盪を起こす)ことで、人間が生まれ変わると信じていたのだ。永田もそれを信じていた(『あさま山荘1972』坂口弘)。

◆「同志」を殺した戦後教育の体罰

じつは森恒夫をして、気絶させて蘇生させる「総括援助=体罰」は、戦後教育の遺産なのである。けっして戦前のものではない、戦後民主主義教育の体罰なのだ。

現在、60歳以上の男性なら記憶にあるはずだ。教室で早弁(お弁当を早めに食べる)しては、教師から往復ビンタを喰らい、野球部の部活では「ケツバット」の罰をお見舞いされた。昭和50年代までの日本では、体罰はふつうに行なわれていたのだ。

家庭でも同じだった。戦争(軍隊)を生き残った父親はすこぶる厳しく、ことあるごとに息子を殴ったものだ。筆者も同年齢を前後する3歳ほどの同輩の証言で「親父を殺したいと思ったことがある」というのを聞いたことがある。ちなみに、小学生のわたしを殴った父親は、片耳が聴こえなかった。予科練で教官に殴られたときに、鼓膜を失ったのである。

もともと野球やラグビー、サッカーなどの「外来競技」は、きわめて民主的でスポーツマンシップにあふれたものだった。少なくとも、戦前のスポーツはリベラルアーツ(教養主義)を体現したものであって、体罰などとは無縁のものだったのだ。

ところが、近代の市民革命を経なかった日本の軍隊は、上からの暴力的な畏怖をもって、農民兵(当時の国民の大半)を統制する必要があった。スパルタ式という体罰教育も、じつは旧軍由来のものなのだ。

陸軍における内務班暴力(公認された私的制裁)、海軍における精神注入棒。最も先進的とされた海軍兵学校ですら、上級生による問答無用の鉄拳制裁が容認されていたのである。

こうした旧軍における暴力が徴兵された男たちに叩き込まれ、戦後になって日本全国に伝えられたのだ。

それは息子を鍛える父親の家庭における教育、部活動の指導者の暴力的な指導であり、教室内でも教師の暴力制裁は行なわれた。運動会における軍隊式の行進、スポ根アニメの流行、応援団のシゴキ(内部リンチ)、そしてその暴力は左翼運動にも持ち込まれていた。
森恒夫の体育会的な「総括援助」はまさに、戦後教育がもたらしたものだったのだ。殴って教える、殴って総括させる……。

この森の総括援助は過酷な厳しさを求め、やがて食事を与えずに縛りあげ、極寒の山中で同志たちを死に至らしめたのである。連合赤軍の「同志」たちは、左翼の共産主義理論ではなく、旧軍隊ゆらいの暴力によって殺されたのだ。(つづく)

連合赤軍略年譜

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▼横山茂彦(よこやま・しげひこ)
編集者・著述業・歴史研究家。歴史関連の著書・共著に『合戦場の女たち』(情況新書)『軍師・官兵衛に学ぶ経営学』(宝島文庫)『闇の後醍醐銭』(叢文社)『真田丸のナゾ』(サイゾー)『日本史の新常識』(文春新書)『天皇125代全史』(スタンダーズ)『世にも奇妙な日本史』(宙出版)など。

タブーなきラディカルスキャンダルマガジン『紙の爆弾』2022年3月号!

あえて提言する 女性差別撤廃へ議員定数は増やせ! さとうしゅういち

筆者は、以前にもご紹介しましたが、2000年度-2010年度の県庁マン時代に主に広島県内山間部の介護や医療、福祉などの行政に従事した時代の経験から、男女・女男平等の政治を進めることの重要性を強く認識しました。当時、介護保険事業所の指導をさせていただき、現場のみなさまの専門性や使命感に心を打たました。一方で、皆さんの賃金台帳を拝見して、「若造の役人の俺より専門性が高い皆さんの賃金が低いなんてことで日本は大丈夫なのか?」という激しい危機感を覚えました。その後、自分なりに勉強していくうちに、公務労働の現場でも、専門性が高い職種で非正規公務員が多く、女性がおおいこと、女性の仕事ということで軽視されてきたということに危機感を覚えました。

その後、全国フェミニスト議員連盟に所属し、全国で男女・女男平等に敏感な主に女性の政治家の選挙応援などにも北は秋田から西は九州までかけつけたものです。2009年には韓国を訪問して、当時の韓国がすでに、男女平等施策で日本を追い越していることに舌をまきました。2011年1月末に県庁を退職して、金権選挙で有名なあの河井案里さんと4月に対決した選挙以降は、「介護や保育などのケア労働者の抜本的待遇改善」「DV性暴力被害者支援を韓国並に充実」「非正規の差別と使い捨てを許さない」などを公約してきました。

◆与野党とも消極的な男女平等施策

だが、これらの施策は、正直、自公はもちろん、野党(2009-2012は与党)でも本気では取り組んでいただけなかった。だからこそ、コロナ災害のもと、生活に困る人が続出したり、医療や介護や保育の現場が疲弊したりしているのではないでしょうか?

結局は、「東大・京大出身高級官僚男性」や「安倍晋三さんのような世襲」ばかりの自民党にも、「大手企業男性正社員中心の組合中心」(とくに参院選広島で顕著)の野党第一党にも、「本気度」は感じられなかったと断じざるをえません。付け加えれば、県議でトップ当選をしてこられた時代の、また参院選広島2019での河井案里さんは、こうした従来型の与野党政治家に失望した方々の受け皿になったのです。

 与野党とわずして、女性議員をふやすことの効果はあります。実際にわたしの公約「DV性暴力被害者支援ワンストップセンター」設立は、2012年に公明党の女性県議が取り上げてくださったことで、広島県でも実現しました。当時も、広島県議会に非自公系の県議はおらず、わたしとしても公明党の女性を頼みの綱とせざるを得なかったのです。

◆衆院選2021でも、「年配男性のえらい人」中心の政治の無限ループ続く

しかし、衆院選2021でも、与党は論外として、野党、とくに第一党もこの点は不熱心でした。「ジェンダー平等」という看板はどこへ。女性の割合は野党第一党の候補者の2割にも達しないありさまです。結局、女性議員率は1割を切り、サウジアラビアの半分以下という惨状です。

日本は間違いなく、与野党関係なく「年配男性のえらい人」中心の政治です。それが、女性の経済力や時間的余裕を低下させる。その結果、女性がなかなか立候補しにくい。できたとしてもいわゆる名誉男性が多くなる。その結果、女性を軽視する政策決定がつづく。この無限ループに日本は陥っています。

政治分野における男女共同参画推進法はこの間できました。政党が男女同数の候補を出すべきという規定もできましたが、あくまで努力規定であり、現実にはまったく機能していません。

◆衆院比例定数(176)を倍増して、増えた部分を女性に割り当て

写真は2009年に筆者が韓国・安養市議会を訪問取材したときのもの。男性ばかりだった同市議会も2006年に比例区を増設して女性議員が複数誕生した

こういう惨状を受けて、どうすればいいのか?ずばり、申し上げます。

衆院比例定数(176)を倍増して、増えた部分を女性に割り当てる。

具体的には、韓国で行っているように、各政党の名簿は女性をかならず奇数番目に割り当てるようにする。

小選挙区での惜敗率女性の1位、男性の1位、女性の2位とする。あるいは、比例単独候補を出すなら、かならず女性を1位とすることを想定しています。

また、都道府県議会、政令指定都市議会は選挙区に分かれて選挙をしています。これについては、韓国を見習って、比例区を増設するのです。そして、女性を比例の奇数番目にするよう各政党に義務つけるのです。なお、この都道府県や政令指定都市議会は中央の政党の枠組みと会派の枠組みが違う場合もあります。会派で比例名簿を提出することも可能にします。

◆女性議員増で長期には好循環も

こうすると小選挙区の289と比例区の352をあわせて641議席となります。そのうち、176は確実に女性の議席となる。小選挙区でも石原伸晃さんを倒した吉田はるみさんら、女性当選者はおられますから、女性議員率は最低でも、現状の3倍にはなる。最低でも、と申し上げるのは、女性に比例区の増分の半数が割り当てられることにより起きる小選挙区での投票行動の変化も考慮にいれれば、もっと増える可能性があるということです。女性候補が比例でも当選の可能性が高い、となれば、それこそ「男性のえらい人」にばかり頭を下げてきたような団体の中にも、対立候補の女性にも少し票を流そうという動きも出てくるからです。衆院選2021において接戦で女性候補者が当選をのがしたような小選挙区でも結果が変わる可能性があります。

女性議員比率が3割~5割にせまる情勢では、法律や予算の使い方も長期にはかわってくるでしょう。育児や介護に関する負担も減ればさらに女性が立候補しやすくなるのは間違いないでしょう。

目に見える成果もでてくると「わたしもやってみようかな」と手を上げる女性も出てくるでしょう。いまでも、当然、若手で政治家としての潜在的な力はお持ちの女性は多いのです。しかし、「起業でもしたほうが世の中を変えられそう」という方も多いように思えます。現に女性が政治にすくなすぎて、なかなか物事が変わらないような状況がある。そこで、政治以外で社会をかえたほうがいいと思われるのは、今の制度を前提とすれば、個人としては最適の行動かもしれません。責められるべきことでもありません。

◆直接的な「男性のえらい人打倒!」よりも議席増の方が抵抗は少ない

議席増なんてできるのか?とおっしゃる方もおられるでしょう。

しかし、そもそも、自民党の党利党略ではありますが、参議院の比例代表を48→50にふやし、各政党が特定枠を設定するようにした例があります。現行の定数のまま、いわゆるクオータ制を導入させようとしても、「年配男性のえらい人」の抵抗は間違いありません。選挙制度は国会の議決を通して変えるしかない以上は「年配男性のえらい人」の席を奪わない形で女性の席を大幅にふやすほうがやりやすいのではないでしょうか?

さらに言えば、「年配男性のえらい人を打倒して女性や若手に席を」という運動は、いまの若い人の反発も買う面があります。一低年齢以下の方はポストモダンな「ほめて育てる」教育、(小中高はともかく、大学では)「多様性を尊重する」教育を受けています。それと、そうはいってもまだ根強い日本古来のムラ社会の気風がハイブリッドしている感じもします。「誰それ議員を打倒!」と受け取られる運動は敬遠されるのは、筆者が街頭で訴えていても感じるところです。

この、「議席をふやして増分はすべて女性に割り当てる」という案は、現代若者の気風にもあいますし、「維新」以外からそう強い反対も起きない案ではないか?このように思えます。

◆日本の議員数は人口比で少なすぎる

日本の国会議員数は人口比ではすくなすぎます。いわゆる第一院の定数はフランスが577議席。ドイツが最低でも598議席(選挙結果で変動)。イギリスが650議席。いずれも、日本より人口が少ない国です。人口が日本の4割の韓国でも定数が300あります。

連邦制で大統領制、中央政府の権力が相対的に弱いアメリカはここでは参考とはなりません。日本より弱い中央政府の大統領を直接選挙で選んでいる上での議会選挙ですから、定数が少なめでも機能はするのでしょう。

そもそも、有権者の代理で官僚をチェックして予算や法律をつくる人の数がすくなすぎれば行政の独裁が強まってしまいます。現状の日本の場合は、英仏独にくらべてもすくなすぎますので、国会議員の歳費の総額はそのままにして、議員定数をふやせばよいのです。

◆「削ることは善」の思い込みは弱者を苦しめるだけ

なんでも「削ることは善」という思い込みが、ものごとの前進を阻んでいるようにおもえます。そもそも、議員定数を減らしても結局は、選挙に強い、「世襲」(地盤がある)や「えらい人」(お金や権力がある)ばかりが生き残りやすくなり、状況が悪化する危険性のほうが高いといわざるをえません。

ちなみに、そもそも、議員の給料が税金で出ている、だから削れ、というのも不正確な認識です。そもそも、日本国に通貨発行権がある以上は、事実上、国が刷ったお金で議員の給料も出ているわけです。透明性を高めることは必要ですが、削ればよいという話ではないのです。

議員の給料を減らしたぞ、という大阪維新などの政治家は豪語しておられます。そうした維新的なものに、「年配男性のえらい人」の既得権益打破を期待しておられる女性の方も少なくはありません。

わたしは、ある女性国会議員と当選前に酒席をともにし、隣同士で話をさせていただく機会がありました。彼女は、「同僚の男性正規公務員が仕事をせずに高給を取っている。そういう既得権益を自民も組合もグルになって維持している。」ことへの苛立ちが政治活動の動機のひとつだ、という趣旨の彼女の本音は承りました。既得権益打破。そのために議員も公務員も減らす、というわけです。しかし、彼女はその後、維新、ついで自民党で代議士をつとめられ、男尊女卑的な発言で超有名です。「働かないで高給を取る」男性の既得権を打破するどころか、男尊女卑の急先鋒です。彼女が当選のためにあるときから安倍晋三さん系の復古主義的な団体に依存するようになったのが彼女の「変質」の背景にあると感じました。「削ることが善」という思い込みに囚われているから、結局は復古主義的な団体の組織票にたよらざるをえなくなる。その結果、当初の志はどこかへ雲散霧消してしまう、極端ですが教訓としなければいけない例です。

維新の「身を削る改革」も「俺たちも身を削ったのだから」と、社会保障なり教育なり危機管理なりの費用をけちることに悪用されてしまう。とくに、現状で政治力がよわいところ、例えば女性に関するところから削られていくのは明らかです。

それよりは、むしろ、議員の給料総額は変えずに、議員定数は増やし、増分はすべて女性に割り当てる、という方向性のほうが、生産的でしょう。

▼さとうしゅういち(佐藤周一)
元県庁マン/介護福祉士/参院選再選挙立候補者。1975年、広島県福山市生まれ、東京育ち。東京大学経済学部卒業後、2000年広島県入庁。介護や福祉、男女共同参画などの行政を担当。2011年、あの河井案里さんと県議選で対決するために退職。現在は広島市内で介護福祉士として勤務。2021年、案里さんの当選無効に伴う再選挙に立候補、6人中3位(20848票)。広島市男女共同参画審議会委員(2011-13)、広島介護福祉労働組合役員(現職)、片目失明者友の会参与。
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タブーなきラディカルスキャンダルマガジン『紙の爆弾』2022年3月号!

選挙人名簿流出事件に揺れる神奈川県真鶴町、松本町長ら4人を刑事告発へ、超党派の運動が始まる 黒薮哲哉

何年にも渡って君臨した独裁政権が崩壊した後に選挙を実施する場合、国際監視団が現地入りして、選挙を厳しく監視する体制が敷かれることがある。汚点のない選挙の実現。わたしが知っている先駆け的な例としては、1984年のニカラグアがある。軍事独裁政権が崩壊した後、外国からの選挙監視団やマスコミが続々と乗り込んできて、この中米の小国は、初めて公正な自由選挙を実施したのである。

同じような制度と原理を導入するために、真鶴町の住民らが動きはじめた。住民の橋本勇さんが言う。

「外部の選挙監視団を入れて公正で清潔な選挙を実施できる制度を作る必要があります。その制度を真鶴から全国へ広げたいものです。そのために、汚職に関与した松本町長や選挙管理委員会の書記長など、4人の刑事告発を超党派で検討しています。また、選挙管理委員会も総入れ替えをする必要があります。不正を犯した書記長の残党が残っていますから」

橋本さんは、会社勤務を経て約40年前に真鶴に移り住み、光の海が一望できる岬に旅館とレストランを開業した。その真鶴が一部の人々の手で壊されていくことに心を痛めている。それが住民運動を始めた動機である。

選挙人名簿流出事件に揺れる神奈川県真鶴町

◆広がる選挙管理委員会に対する不信感、選挙監視団制度の導入が不可欠

汚職事件は昨年の秋、ひとりの勇敢な男性の内部告発にはじまる。森敦彦氏。真鶴町の役所に勤務した後、2017年に町議になった。しかし、再選を目指した2021年9月の町議選では落選した。

その後、選挙運動の残務整理をしていると、1通の大きな封筒が出てきた。開けてみると、中に真鶴町の選挙人名簿や住民基本台帳などが入っていた。森さんが言う。

「この封筒は、町の選挙管理委員会の尾森書記長(当時)が届けたものですが、事前に松本一彦町長から、あなたの選挙に活用できる資料を届けさせると連絡を受けていたので、中身は町長が作成した自分の支援者名簿だと思っていました。そのようなものは必要なかったので、わたしは封も切らずにそのまま放置していました。自分の基礎票だけで再選できると思ったのです。選挙が終わってから、封を切ったところ、中から選挙人名簿や住民基本台帳が出てきたのです。わたしはびっくりして、警察に届け出ました」

知人の勧めで、マスコミにも通報した。中央紙はほとんど報じなかったが、地元の神奈川新聞やローカル紙が熱心にこの事件を取り上げた。その結果、松本町長は10月26日に記者会見を開いて、自らの責任を認めた。選挙管理委員会の尾森書記長に選挙人名簿や住民基本台帳などをコピーさせ、外部に持ち出させたことを認め、辞任を表明したのである。また、その後、これらの書面を青木健議員と岩本克美議員(議長)にも配布したことを公表した。

不祥事により政治家が辞任すること自体は特に珍しいことではない。しかし、松本町長は、辞任した後、お詫び回りを続け、町長選がはじまる直前に再出馬を表明した。そして次点候補と88票の僅差で町長選に勝利したのである。この88票も、開票の最終ステージで逆転したものだという。そのために選挙管理委員会に対して再び不信感を募らせる市民もいた。

◆汚職を告発した者が悪者に、デマが拡散

わたしは松本町長が当選したことを知ったとき、正直なところ真鶴町の住民は無知ではないかと疑った。同時に、これは真鶴町だけの現象なのか、それとも国家の劣化の縮図なのだろうかと自問した。他の自治体でも、水面下で同じようなことが起きているのではないかと疑った。

1月28日、わたしは橋本勇さんを尋ねてJRの電車で東京から真鶴町へ向かった。海が一望できる橋本さん経営のレストランで、橋本さんの他にも2人の人物を取材した。この事件を告発した森敦彦さんと、真鶴町議会の天野雅樹副議長だった。

森さんは、告発後の予期せぬリアクションに戸惑ったという。

「一番悪いのは森だというデマが広がったのです。これは予想しませんでした」

森さん自身が松本町長から提供された選挙人名簿を使って、町議選の選挙活動をしたという噂を、だれかが町中に広げたのである。しかし、森さんの告発には、理由があった。みずからが真鶴町の職員として働いていた約35年の間に、職員らが町長の人事権の前に、自由にものが言えない実態を目の当たりにしたからである。森さん自身、職場を点々とさせられた。異動の繰り返しに悩まされたのだ。特に、住居を真鶴町から隣町へ移してからは、この種の差別的な扱いが顕著になったという。縦の人間関係を重視しなければ生きられない実態を目の当たりにしたのである。

町の職員たちは、町長の人事権に縛られて自由にものが言えない。その苦しみを森さんは知っていた。実際、この事件についても、町役場の職員らは、不快な思いをしているという。

このあたりの事情について、天野雅樹さんが次のように話す。

「事件後に、わたしのところにこの事件は公職選挙法違反に該当するのではないかという意見が多数寄せられました。そこでわたしから町の選挙管理委員会にその声を伝えたところ、選挙管理委員会にも直接、町民から苦情が来ていることが分かりました。それに対処する町役場の職員らも悩んでいます。町長との板挟みの状態です。内心では怒っています」

天野さんは真鶴町で生まれ、千葉県やロサンゼルスなどで働いたあと、結婚を期に真鶴町に戻った。30歳の時である。会社を経営した後、2017年に町議になった。天野さんが続ける。

「松本町長が再選された後、職員の退職が相次ぎました。たとえば加藤哲三教育長は、2022年1月末で辞任しました。消防団の団長と副団長も辞任しかねない状況です。1月の成人式では、松本町長が式辞を述べるのであれば、参加しないという町民が相次いで、松本町長が出席を辞退しました。さらに松本町長が、隣の箱根町の町長に面談を申し入れたところ拒否されました」

松本町長が再選されたとはいえ、多くの町民が名簿流出事件を許していないのである。

ちなみに、松本町長から、選挙人名簿などの持ち出しを指示され、それに従った尾森選挙管理委員会書記長は、11月11日に懲戒免職処分となった。名簿流出事件の責任を背負わされることになった。

◆選挙管理委員会と町長の汚職

真鶴町議会は、2021年11月30日に、名簿を受け取った青木健議員と岩本克美議員に対する議員辞職勧告決議を採択した。議員辞職勧告決議に法的な拘束力はないが、真鶴町議会は両議員が、町議としふさわしくないと決議したのである。

ちなみに青木議員は、元町長でもある。今回の事件に関与しただけではなく、みずからが出馬した2016年の町長選の際には、当時、真鶴町役場の職員だった松本現町長に選挙人名簿をコピーさせ、外部へ持ち出させた。本人はそれを否定しているが、松本町長は、メディアに対してそんなふうに事情を説明している。これに関して、たとえば神奈川新聞(11月5日)は次のように報じている。

 
「自らの利益のために住民の個人情報を漏洩させた 神奈川県真鶴町松本一彦町長に抗議の声を! 緊急」作成者:真鶴町個人情報漏洩被害者の会(まなづる希望)

【引用】松本氏によると、同年(2016年)の町長選前に青木氏から選挙人名簿を提供するように依願されたという。「上司と部下という意識が引きずり、青木氏の返り咲きを求める気持ちもあった」。役場庁舎内のロッカーの上に積まれていた全有権者約6800人分の名簿を別の職員1人とともに40分かけて庁舎内でコピー。青木氏に自ら名簿を手渡したという。

汚職は今に始まったことではない。従来から前近代的な人間関係が温床としてあった。

◆広がる超党派の動き、刑事告発は秒読み段階

この事件の核心にメスを入れて、正常な真鶴町を取り戻そうと、住民たちが動き始めている。それは橋本さんたちだけではない。真鶴個人情報漏洩被害者の会(まなづる希望)も運動体のひとつである。ウエブサイトをたちあげて、超党派で事件に関与した4人の刑事告発を予定している。橋本さんが言う。

「他にも4人の告発を検討しているグループがあるので、わたしはみんなをひとつにまとめていきたいと思います。真鶴町は先人らが築いた美しい町です。それを守るために動きます」

議会制民主主義は、戦争という不幸な歴史を経て、戦後日本が獲得したかけがいのない遺産であるが、それがいま形骸の様相を強め、崩壊し始めている。一旦、失ってしまうと取り戻すのに変な犠牲を強いられる。

その意味で真鶴の事件は、単なる一地方の問題ではない。思想信条の違いを超えて熟考しなければならない同時代のテーマなのである。

◎[参考記事]すでに崩壊か、日本の議会制民主主義? 神奈川県真鶴町で「不正選挙」、松本一彦町長と選挙管理委員会の事務局長が選挙人名簿などを3人の候補者へ提供


◎[参考動画]令和4年1月28日午後6時30分開催真鶴町第8回議会報告会(真鶴町公式チャンネル)

▼黒薮哲哉(くろやぶ・てつや)
ジャーナリスト。著書に、『「押し紙」という新聞のタブー』(宝島新書)、『ルポ 最後の公害、電磁波に苦しむ人々 携帯基地局の放射線』(花伝社)、『名医の追放-滋賀医科大病院事件の記録』(緑風出版)、他。
◎メディア黒書:http://www.kokusyo.jp/
◎twitter https://twitter.com/kuroyabu

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「カウンター大学院生M君リンチ事件」(別称「しばき隊リンチ事件」)隠蔽のA級戦犯・岸政彦(現立命館大学教授)をわれわれは許さない! 松岡利康

本年は沖縄返還(併合といったほうが適切)から50年にあたる。沖縄問題は、私(たち)にとって〈闘い〉である。学者の甘ったれた虚言を許さない。

返還前年の71年は返還協定調印ー批准阻止闘争に総力で闘った私たちは、「研究対象」(岸)として、〈沖縄問題は闘い〉だという認識を持たず、もっともらしいことをのたまう徒輩を断罪する。

2月2日の朝日新聞は岸政彦へのインタビューを一面を割いて掲載している。突っ込みどころが散見されるが、ここではこれに留める。

朝日新聞2022年2月2日朝刊
 
リンチ直後の被害者大学院生M君

ここで、かの大学院生リンチ事件が甦ってくる。2014年師走、大阪・北新地で、「反差別」運動の旗手と持て囃される李信恵ら5人による大学院生(当時)M君に対する凄絶なリンチ事件が起きたことは、この通信でもさんざん申し述べてきた。

裁判もいくつも争われたが、李信恵が鹿砦社に反訴した訴訟の控訴審判決において、裁判所はようやくリンチへの李信恵の連座を認定した。その後、なぜか李信恵らが、リンチ事件や関連訴訟について発言することは、ほぼなくなった。

リンチ事件以前から李信恵はネトウヨによるヘイトスピーチ、ヘイトクライムに対して訴訟を起こしており、その「李信恵さんの裁判を支援する会」の事務局長という要職を務め、李信恵ら加害者の聞き取りの席にも同席していたのが岸政彦だった。岸は事件の詳細を知っている。

だからこそ、特別取材班は岸を直撃し、真相を問い質したが、なぜか逃げ回るばかりだった。

人の心を持つ者(特に、普段から「人権」という言葉を口にする「知識人」)は、身近に起きた深刻な問題に真摯に立ち向かうべきだ。それも被害者M君はリンチによって相当の重傷を負っていることはリンチ直後の写真を見れば一目瞭然だ。本来ならば、被害者に寄り添い、問題解決にあたるべきではないのか!? 私の言っていることは間違っていますか?

岸よ、歯の浮くようなことを言ってないで、今からでもリンチ事件の根源的解決に努めよ! リンチ事件はまだ終わっていない。

取材班の直撃取材に逃げ回る岸政彦

対李信恵訴訟の尋問が終わった、その夜、傍聴に来、またリンチの現場に連座した伊藤大介は、ふたたび暴行、傷害事件を起している(現在横浜地裁で刑事事件として係争中)。

ちなみに、去る2月5日に開催された「連帯ユニオン議員ネット第17回大会」で、岸につながるバリバリの親しばき隊の池田幸代(元・社民党福島みずほ秘書、現・駒ヶ根市議)と戸田ひさよし起案の特別決議「うち続くヘイトクライムを弾劾し、社会の意識変革に向けて実践する特別決議」の文中「2020年には反差別活動をしてきた伊藤大介氏を日本第一党元大阪本部長の荒巻靖彦が『このチョンコが』と怒号しながら、白昼の大阪北区の繁華街でナイフで刺す事件が起こった。」と記載されているが、これは正確ではない。深夜を「白昼」というのは笑えるとしても、実際は、くだんの尋問後深夜泥酔して荒巻を呼び出し複数人で暴行に及び、荒巻に小指骨折や顔面打撲などの重傷を負わせ、一方荒巻も自衛のために所持していたナイフを出し応戦し伊藤に全治1週間の軽傷を負わせたというのが事実で、よって荒巻は罰金の略式起訴、伊藤は傷害罪で現在横浜地裁で係争中(伊藤の弁護人は、例によって神原元弁護士ら)。右であれ左であれ事実関係には正確であらねばならない。事件後すぐに発行した『暴力・暴言型社会運動の終焉~検証 カウンター大学院生リンチ事件』の冒頭レポートを参照されたい。

『反差別と暴力の正体』本文
『反差別と暴力の正体』本文
『反差別と暴力の正体』本文
『反差別と暴力の正体』本文

ひょんなことで、この大学院生M君リンチ事件に関わることになり、M君救済と真相究明に奔走し、私たちは6冊の本を世に問うた。私たちは、岸政彦や伊藤大介はじめ、この事件を隠蔽したり蔑ろにしたり、セカンドリンチや村八分を行った徒輩を決して許すことはない。(松岡利康)

*1971年から72年5・15返還にかけての沖縄闘争については昨年に発行した『抵抗と絶望の狭間――一九七一年から連合赤軍へ』をご一読ください。

**「カウンター大学院生リンチ事件」(しばき隊リンチ事件)については、早晩、総括本を出版する予定です。これに蠢いた人たち、特に知識人やジャーナリストらの姿は、「知識人とは何か?」「ジャーナリズムとは何か?」と問う場合の〝生きた負の見本”です。

本日発売! タブーなきラディカルスキャンダルマガジン『紙の爆弾』2022年3月号!
『暴力・暴言型社会運動の終焉』

《関連過去記事カテゴリー》
 M君リンチ事件 http://www.rokusaisha.com/wp/?cat=62