江幡睦、4度目の挑戦もベルト奪えず! タイ国ラジャダムナンスタジアム・バンタム級タイトルマッチ

攻撃力は上回るも、引分けというあと一歩が越えられないムエタイの壁。日本人のローキックで殿堂チャンピオンが倒れるなんて在り得なかった過去。でも江幡睦ならやるかもしれない。淡い期待もありながら、ムエタイ関係者は「その可能性は極めて低く、中盤以降にヒジで切られる可能性が高い」と言い切った。それほどサオトーの上り調子は素晴らしく、試合運びの上手さの前評判だった。

試合を終え、江幡睦の顔面はヒジ打ちを貰った3箇所の傷と腫れ、サオトーは足を引き摺りながら歩くダメージを残した。

判定結果を聞く江幡睦の表情、何を想うか
江幡睦のローキックが序盤からヒットさせサオトーにダメージを与えた
江幡睦の左ボディーブロー、これで何人も倒してきた

◎MAGNUM.51 / 2019年10月20日(日)後楽園ホール 17:00~20:15
主催:伊原プロモーション / 認定:ラジャダムナンスタジアム、WKBA

◆第9試合 タイ国ラジャダムナンスタジアム・バンタム級タイトルマッチ 5回戦

チャンピオン.サオトー・シットシェフブンタム(タイ/53.45kg)
    VS
同級7位.江幡睦(伊原/53.35kg)

要所要所でサオトーは江幡の弱点を狙っていた左ハイキックをヒット

引分け 0-0 / スーパーバイザー:ジット・チオサクン(ラジャダムナンスタジアム支配人)
主審:ジラシン・シララッタナサクン 48-48
副審:ウォーラサック・パックディーカム 48-48 
副審:ナリン・ポンヒラン 48-48

序盤は想定どおりサオトーはムエタイ特有の手数少ない様子見ではあるが、江幡睦の強いローキックをやや貰うと効いた様子が伺え、更に睦みの左ボディーブローも貰ってしまう。場内に“もしかしたら・・・!”という期待が沸く。

しかしさすがの殿堂チャンピオン。そんな脆く崩れることはなかった。しぶとさを見せていくサオトーは想定どおり第3ラウンドから本調子を上げて来た。ヒジ打ちは、けん制を含めて第1ラウンドから出していたが、パンチとローキック主体にガンガン前に出て連打していく江幡睦に対し、応戦しながら要所要所で鋭いヒジを打ち込んでいくサオトーは、江幡睦の右目尻を切り、単発ながらヒザ蹴りも効果的にヒットさせた。

しかし江幡睦は組み合ってもサオトーの有利な体勢にさせない対策も活かしていた。更なるサオトーのヒジ打ちで、目下も切られた江幡睦は、紫色の内出血を残して第5ラウンドも必死に出て行き、江幡睦の右ストレートで仰け反ってしまうサオトーだが、ヒジとヒザを随所に当てていたポイントがどう流れるか分からない展開が続いた試合となった。

判定を聞く睦の表情は曇りがち。引分けでまたも逃がしてしまったムエタイ激戦区の最高峰のチャンピオンベルトだが、全力を尽くした結果にインタビューに応える表情は清々しかった。

打たれたら打ち返すサオトーのパンチもヒット
江幡睦の左ミドルキック、この蹴りをもっとヒットさせたかった
サオトーの得意のヒジ打ちはどこからくるか分かり難い

江幡睦は「倒しきれなかった、それに尽きると思います。ひとつのダウンでも取れなければ、ラジャのベルトは取れないということです」と率直な感想。

前回、2015年3月の当時のチャンピオン、フォンペットに挑戦した時は、ラウンドを増す毎のインターバルでだんだん返事をしなくなるほど疲労困憊していたが、今回は最後まで冷静にセコンドや伊原会長の言うことに返事し、次どう行くか確認する様子が伺えた。

試合中は激しく檄を飛ばす伊原会長だったが、試合後のインタビューが終わった後、頭を“ポン”と撫でるように触れ「お前はよく頑張ったよ!」と褒め称えていた。

相打ち覚悟のパンチの応酬
最終ラウンドも必死に攻める江幡睦

サオトー陣営のアンモープロモーターに、「もう一回やりたいと言ったら対戦可能ですか?」と問うと、すかさず「ダーイ(OK)!、またここ(後楽園)でやってもいい!」とデッカイ声で喋る。「次はヒジ打ちの勝負になる!」とも語った。

足を引き摺りながら歩くサオトーにも同じ質問をしてみた。こちらもすかさず笑顔で「チョックダーイ(OK)!」と元気を見せ、ここはハッタリでも “同じ失敗は繰り返さない”という意欲をみせるのがムエタイ戦士なのだろう。

実際、対策は練ってくるだろうし、ローキックはまともには貰わないかもしれない。それは江幡睦にも対策はあることだろう。再戦が行なわれるかは分からないが、このカードはラジャダムナンスタジアムで再戦して欲しいものだ。

とにかくノックダウンを奪いたかった江幡睦、バックステップして打たれても倒れないサオトー
健闘称え合い役者が揃う、右はジット・チオサクン氏(スタジアム支配人)

◆第8試合 WKBA世界スーパーライト級王座決定戦 5回戦

アニーバルをロープに追い詰めパンチ連打する勝次

2位.勝次(藤本/63.0kg)
    VS
4位.アニーバル・シアンシアルーソ(アルゼンチン/63.1kg)
勝者:勝次 / KO 2R 2:59 / 3ノックダウン / 主審:椎名利一

序盤はパンチと蹴りのけん制から始まり、アニーバルのパンチ、蹴りの強さとタイミングを見極めた勝次がパンチでアニーバルを後退させると一気に連打した勝次。その勢いで第2ラウンドに進み、パンチ連打でロープ際に追い込みヒザ蹴りを加えスタンディングダウンを奪い、更なるパンチの攻勢でロープ際から逃げられない状態を作ると2度目のスタンディングダウン。

勝次は更に攻勢を続け、防戦一方となったアニーバルは最後まで倒れ込むことは無かったが、レフェリーに止められ(3ダウン相当)、勝次のKO勝利となった。

勝次がパンチから今日も出た飛びヒザ蹴り
しぶといアニーバルを徹底して攻めた勝次
キックボクシング世界で最初のWKBAタイトルを獲得した勝次、試練はこれから

◆第7試合 73.0kg契約 5回戦

日本ミドル級チャンピオン.斗吾(伊原/72.8kg)vsイ・ジェウォン(韓国/69.5kg)
勝者:斗吾 / KO 2R 2:49 / テンカウント / 主審:桜井一秀

序盤は距離をとって蹴りで様子見。斗吾の圧力が徐々にジェウォンを下がり気味に追い込む第2ラウンドに入ると、距離が縮まりパンチの交錯が始まる。バランス崩して横を向いてしまうジェウォンは気を抜き過ぎで、斗吾の右フックを貰ってノックダウンしてしまう。そこから斗吾のパンチのラッシュが始まり、ロープ際で滅多打ちからヒザ蹴り、更に追い詰めてボディーブローの連打でジェウォンは2度目のノックダウンし、そのままテンカウントアウトされた。

◆第6試合 62.0kg契約3回戦

日本ライト級チャンピオン.髙橋亨汰(伊原/61.95kg)
    VS
ペットワット・ヤバチョーベース(タイ/61.45kg)
勝者;髙橋亨汰 / TKO 2R終了 / 主審:少白竜

髙橋の左ミドルキックを腕に受け続けたペットワットが負傷を示し、第2ラウンド終了後のインターバル中、棄権を申し出た陣営をレフェリーが受入れ試合を終了させた。

腫れた太腿を氷で冷やすサオトー、足は相当効いていた

◆第5試合 バンタム級3回戦

泰史(前・日本フライ級C/伊原/53.5kg)vs.Mrハガ(ONE’S GOAL/53.5kg)
勝者:泰史 / 判定3-0 / 主審:仲俊光
副審:椎名30-28. 少白竜30-27. 桜井30-27

泰史の蹴りとパンチで攻勢を続ける展開。下がりながらも応戦して危機を乗り越えるMr.ハガ。泰史はノックアウトに結び付けられない課題を残す。

◆第4試合 63.0kg契約3回戦

日本ライト級3位.渡邉涼介(伊原新潟/62.9kg)vs風来坊(フリー/62.85kg)
勝者:風来坊 / 判定0-3 / 主審:宮沢誠
副審:椎名29-30. 少白竜29-30. 仲29-30 

◆第3試合 57.5kg契約3回戦

瀬川琉(伊原稲城/57.45kg)vs新田宗一郎(クロスポイント吉祥寺/57.25kg)
引分け 0-1 / 主審:桜井一秀
副審:椎名28-29. 宮沢29-29. 仲29-29

◆第2試合 60.0kg契約3回戦

井桶大介(クロスポイント吉祥寺/59.65kg)vs宇野高広(パラエストラ栃木/59.95kg)
勝者:井桶大介 / TKO 1R 0:44 / ノーカウントのレフェリーストップ / 主審:少白竜

◆第1試合 女子48.0kg契約3回戦(2分制)

栞夏(トーエル/47.55kg)vs erika(SHINE沖縄/47.25kg)
勝者:erika / KO 2R 1:53 / 3ノックダウン / 主審:椎名利一

ファンに詫びる江幡睦

《取材戦記》

最高峰の王座や名誉が懸かるとムエタイ選手は強いものだ。譲れないものだけに互いが必死の戦いになった。これがランカー以下のノンタイトル戦だったら江幡のローキックで、過去のタイ選手のようにヘナヘナと倒れ込んでいただろう。

そのサオトーの前評判は「ちょっと映像で見ただけだが、サオトーはあまり強さを感じない攻めで、日本人とやれば面白い展開になりそう。江幡が勝つかもしれない!」という知人も居たが、先に応えた関係者談が「江幡睦のローキックはかわされ、サオトーのヒジで切られる!」と言った予想もあり、私の予想も「もしかしたらサオトーは江幡のローキックでヘナヘナと倒れ込むのではないか!」と思ったが、試合展開から言うと、大雑把ながら皆、何らかの指摘が“近いところにいった”という経過となった。

最高峰への通過点ながら、ひとつの目標だった老舗のWKBA世界タイトルを獲った勝次はまず防衛しなければならない。前回のライト級でドローの末、延長戦で王座を持っていかれたノラシン・シットムアンシー(タイ)や国内にも敗れている難敵は居るが、WKBAを懸けて戦えばその因縁が面白くなる(ライト級は7月に王座決定戦で重森陽太が獲得)。本人は以前、「3回ぐらい防衛してその上に行きたい」と言っていたが、5回ぐらい極力短期で連続防衛してWKBAの活性化と権威向上に貢献して貰いたい。

新日本キックボクシング協会次回興行は、12月8日(日)後楽園ホールに於いて藤本ジム主催興行「SOUL IN THE RING CLIMAX」が開催されます。今年4月14日にWKBA世界スーパーウェルター級王座獲得した緑川創(藤本)の初防衛戦と、勝次と江幡ツインズ兄・塁も出場予定です。

▼堀田春樹(ほった・はるき)[撮影・文]

フリーランスとしてキックボクシングの取材歴32年。「ナイタイ」「夕刊フジ」「実話ナックルズ」などにキックのレポートを展開。ムエタイにのめり込むあまりタイ仏門に出家。座右の銘は「頑張るけど無理しない」

一水会代表 木村三浩=編著『スゴイぞ!プーチン 一日も早く日露平和条約の締結を!』
上條英男『BOSS 一匹狼マネージャー50年の闘い』。「伝説のマネージャー」だけが知る日本の「音楽」と「芸能界」!

安倍政権が歩む戦争への安易な道 それよりましな政権選択を探る厳しい道

『昭和16年夏の敗戦』(猪瀬直樹、中公文庫収録)という本をご存知だろうか。猪瀬直樹という人は、ほとほと政治家(東京都知事)などになって恥をかくべきではなかった。と思わせる氏の名作ノンフィクションのひとつだ。

タイトルのとおり、昭和16年の夏までに、大日本帝国の指導部は対米英戦のシミュレーションを行ない、軍事・経済・資源を算定した総力戦の結果、敗北するというものだ。この試算を行なわせたひとりが東条英機であり、かれの「やはり負け戦か」という言葉も収録されている。

◆戦争は平和目的として発動される 

東条英機が対英米戦争に反対だったのは有名な話で、この試算はドイツのバーデンバーデンでおこなわれた陸軍将校(陸士16期の永田鉄山・小畑敏四郎ら)の長州閥打倒の密議グループに、東条英機らを加えた総力戦研究の勉強会の流れを汲むともいっていいだろう。当時の戦争へという「新体制」(近衛文麿政権)の流れ、戦争前夜の空気感にたいして現実的な試算をした結果、予想したとおり「敗戦」は間違いないと結論が出ていたわけだ。

にもかかわらず、日本人は戦争を選んだのである。負けるとわかっていた戦争を、回避する策はなかったのだろうか。そのための努力はあったが、裏目に出たというべきであろう。

元宮内庁長官・田島道治「天皇拝謁記」で明らかになったとおり、昭和天皇は東条英機の首相登用を、「陸軍を統制して戦争を回避できる人物」と期待していた(失敗だったと田島に語る)。戦時中は専制体制と呼ばれる東条政権も、じつは本人は対英米戦反対論者で、戦争回避のキーパーソンと見られていたのだ。統帥権をもって政権を揺すぶる、陸軍の統制こそが戦争回避の道と考えられていたのだ。

戦争が平和目的として発動されるのは、あらためて言うまでもないことだが、具体的には政治的な実権をもった「人物」の「決断」によるものだ。その意味で「政治は誰がやっても同じ」ではけっしてない。いやむしろ、誰がやっても同じだから政治には関心がない、というアパシーこそが戦争を招くと断言しておこう。あるいは国民的な議論の喚起、必要な論評を避けること自体が思想の頽廃であり、批評精神の衰退である。批評精神の衰退は一億総与党化、戦前で言えば体制翼賛政治への道をひらくものなのだ。

◆危険な選択肢

そこで安倍一強といわれる、与党に批判勢力のない現在の政治状況の中で、よりましな選択肢があるのかどうか。そしてそれが現実的なものなのかどうかを考えてみる必要があるだろう。3年前のことになるが、わたしはポスト安倍が岸田文雄(現政調会長・当時は外相)で、その後は安倍のオキニである稲田朋美ではないかという観測に、大いに危機感を抱いたことがある。

当時、稲田は防衛大臣である。周知のとおり、スーダン派遣自衛隊の日報問題(戦闘地域である傍証)を把握できず、シビリアンコントロールが不能状態となっていた。つまり、派遣先の自衛隊が勝手に「戦闘地域」と判断して戦闘状態に入る可能性があったのだ。これは大げさに言えば、戦前の大陸での関東軍(日本陸軍)の事変拡大政策と、まったく変わらない構造なのである。稲田総理が何も知らないうちに、戦争が始まっていた? 

もしかしたら、歴史はそのように進むのかも知れない。ナチスが国会議事堂を共産党員の仕業にみせかけて焼き払い、国防軍と結びついて突撃隊(レーム)を粛清するまで、ヒトラーが独裁政権(全面委任法)になるとは、誰も思っていなかったのだから――。

◆よりましな選択肢はあるか?

そこで、危機感を抱く何人かの編集者とともに、安倍晋三の反対勢力である石破茂の総裁選を支援しようとした。経済に関する本を出して、アベノミクスに代わるイシバノミクスを打ち出したかったのだ。地域経済の再生という観点から、石破の経済センスは悪くない。

この欄でも何度か触れたが、石破のウィークポイントは「経済オンチ」である。感情とある意味での「天才的な感性」で政治をもてあそぶ安倍が、感じがいいからと「同一労働同一賃金」を政策スローガンに入れるのに対して、石破は「誰か教えていただけないか」とブログで発信していた。わからないことは、わからない。それでいいのではないか。

いうまでもなく、同一労働同一賃金はILOなど労働運動の最大限綱領スローガンであって、これが本当に実現できれば、正規の大学教授(年収1000万円以上)と非常勤講師(年収200万円前後)が同じ賃金を得ることになる。同じ工場で同じ工程を管理している社長と主任も、同じ賃金になる。弁当屋の主人とアルバイトも同じ賃金、つまり社会主義経済の賃金分配なのである。こんなこともわからない安倍に比べて、たしかに石破は実際にはタカ派かもしれないが、物事に慎重なのである。

たとえば安倍の感情的な政策(輸出制限)によって、最悪の状態になった日韓関係の基底にあるもの。すなわち歴史問題について、石破は「なぜ韓国は『反日』か。もしも日本が他国に占領され、(創氏改名政策によって)『今日から君はスミスさんだ』と言われたらどう思うか」と発言して、歴史問題に向かい合うことを訴える(徳島市内での講演)。

「いかに努力をして(関係を)改善するか。好き嫌いを乗り越えなきゃいけないことが政治にはある」「相手の立場を十分理解する必要がある。日韓関係が悪くなって良いことは一つもない」(前出)と語っている。現在の安倍一極も、国民の「よりましな選択」によってよるものである。それはしかし、アベノミクスという仮象の経済によって担保されているにすぎない。貧富の格差、お友だち上級国民と下層国民の分岐。そこにこそジャーナリズムの視点と批評精神が据えられなければならない。

▼横山茂彦(よこやま しげひこ)
著述業、雑誌編集者。近著に『ガンになりにくい食生活』(鹿砦社ライブラリー)『男組の時代――番長たちが元気だった季節』(明月堂書店)など。

鹿砦社創業50周年記念出版 『一九六九年 混沌と狂騒の時代』
タブーなき言論を!『紙の爆弾』11月号

対李信恵第1訴訟、李信恵氏が上告を取り下げ! 鹿砦社の勝利が確定!

10月28日、鹿砦社創業50周年記念出版『一九六九年 混沌と狂騒の時代』の発売を翌日に控え、予想外の大ニュースが飛び込んできた。

 
「反差別」運動のリーダー・李信恵氏が批判者に対して言い放ったツイート

鹿砦社は、Twitter上で李信恵氏から度重なる誹謗中傷を受け、弁護士を通じて「警告書」を送るなど、手を尽くしていた。だが、李信恵氏による鹿砦社に対する罵倒や虚言はいっこうに収まる気配がなかった。そこでやむなく鹿砦社は李信恵氏を相手取り、名誉毀損による損害賠償を求める民事訴訟を大阪地裁に起こした(その後李信恵氏も対抗上別訴を起こしてきたので、便宜上鹿砦社原告の裁判を「第1訴訟」、李信恵氏原告の裁判を「第2訴訟」と呼ぶこととする)。

「第1訴訟」の一審判決では、ほぼ完全に鹿砦社の主張が認められ、勝訴。大阪地裁は李信恵氏の悪口雑言を不法行為と認定したのである。原告、被告双方が控訴した大阪高裁では棄却(一審判決=鹿砦社勝利が維持された)。被告・李信恵氏側は判決を不服として、最高裁に上告していたが、10月25日付け(最高裁の受理は27日)で李信恵氏側は上告を取り下げ、李信恵氏代理人の神原元弁護士は鹿砦社の代理人・大川伸郎弁護士にその旨伝えてきた。

その連絡を28日(月)に受け、ようやくわれわれの主張が裁判の判決として確定したことを知るに至ったわけである。

再度、このかんわれわれの裁判闘争を、陰に陽に支援してくださった皆様方に、ご報告申し上げる!

鹿砦社は、対李信恵裁判闘争において、完全勝利した! と。

この勝利の意味は極めて重い。まず、本件訴訟でわれわれが主張した内容、つまり李信恵氏による鹿砦社への誹謗中傷が名誉毀損に当たり不法行為であることが全面的に認められたこと(逆に李信恵氏の主張はほぼ棄却されたこと)である。

別掲の書き込みをご覧いただければ、お分かりいただけるだろうが、こういった明らかな誹謗中傷を李信恵氏側は「論評」と主張していた。「クソ」という表現が論評に当たるか当たらないかは「常識的」に判断すれば、誰にでもわかることだ。

「李信恵という人格の不可思議」(『真実と暴力の隠蔽』巻頭グラビアより)
 

さらには(この点も非常に重要であるが)鹿砦社代表・松岡が、あたかも喫茶店で、会ったこともない李信恵氏に嫌がらせをしたかのような「まったくの虚偽」記述もあった。本人が一番よく知っているのであるから、こういった「虚偽発信」がどれほど、発信者の信用を貶めるものかを、自身も物書きである李信恵氏は知っているであろうに。

Twitterで李信恵氏が発信すると、支援者や仲の良い人々がすかさずリツイートなどで広める(最近はその影響力もかなり低下していると聞くが)。

 

まったくの虚偽事実であっても、かつては強大な影響力を保持した李信恵氏の発信はどんどん拡散されてゆき、「なかったこと」があたかも「あったこと」のように既成事実化に近い認識が形成される。まことに悪質な印象操作であると言わねばならない。そしてそのような印象操作に、神原弁護士や上瀧浩子弁護士も加担していた事実は見逃せない。

 

法廷内で荒唐無稽な主張を展開するにとどまらず、法定外、ことに拡散が容易なTwitter上で極めて無責任で名誉毀損に該当するような書き込みを、弁護士が行ってもよいものであろうか。

裁判の進行報告や支援の呼びかけなどは理解できるが、いくら係争中、あるいは終結した争いの相手であっても、「法の専門家」である弁護士が、一般市民を相手に感情に任せた乱暴な文章や、事実と異なる発信をしてもいいはずはないだろう。それも日頃「人権」がどうのこうの口にしている者が。

「祝勝会」と称し浮かれる加害者と神原弁護士(2018年3月19日付け神原弁護士のツイッターより)
 

そして、再度確認しておかなければならないのは、このように著名人である李信恵氏が最終的に敗訴しても、一切のマスメディアはその事実を報道しはしない、という歪な状態である。

鹿砦社は、この係争に先立って争われた「M君リンチ事件」提訴以来、M君や松岡が何度大阪司法記者クラブ(大阪地裁・高裁内にある記者クラブ)に記者会見の実施の申し入れをしても、ことごとく拒絶された様子を近くで見てきた。

そして鹿砦社が原告となり(第1訴訟)、李信恵氏を提訴した際にも記者会見開催の申し込みは受け入れられることはなく、さらに、一審で勝訴した際にも記者会見を申し入れたが、開かせてはもらえなかった。

このどうみても「不公平」な扱いを、記者クラブに所属しているマスメディア各社はどのように弁明ができるのであろう。在特会を相手取り損害賠償請求事件を争った李信恵氏には毎回記者会見を用意し(そして記者会見に李信恵氏の仲間らの入場は許可しながら鹿砦社の社員が入ることを拒絶して)、M君や鹿砦社には記者会見の機会を与えない。「差別と闘った」として著名人になった李信恵氏が、このほど鹿砦社に対して、名誉毀損を犯したことが確定した。これはニュースではないのか?

鹿砦社はこれまで、刑事裁判を含め、数えきれないほどの裁判を闘ってきている。裁判闘争史の初期は大物(ジャニーズ事務所、タカラヅカ、阪神タイガース、日本相撲協会など)が多かったので、負けを覚悟での猪突猛進をしていた時期もあった。しかし鹿砦社とて成長するのだ。

ことに言論に関わる争いや係争には近年むしろ慎重に取り組むようになっている。法定外でも情報収集を幅広く行い、「どうすれば勝てるか」を学習もした。また弁護士だけでなくアドバイスを送ってくださる方々の存在も頼もしい。

 

李信恵氏側も、マスメディアも鹿砦社を見下していた印象は否定できないが、このままの姿勢を続けてもよいものであろうか。

「第1訴訟」の判決が確定した。繰り返すがわれわれの〈 完全勝利!〉であった。しかし、この裁判一審の後半になり、李信恵氏側が突如「反訴をしたい」と我が儘にも主張しはじめ、裁判所に認められなかったことから、李信恵氏は別の裁判を起こした(「第2訴訟」はそのような中で発生したものだ)。

その裁判では鹿砦社に損害賠償を迫っているだけではなく、「M君リンチ事件」に関連して出版した書籍の販売差し止めまでもを求めてきている。

とんでもない請求であるが、現在「第2訴訟」は大阪地裁で進行中である。「争点準備手続き」という一般の方が傍聴できない形式を裁判所は採っており、証人尋問までは、基本非公開の法廷で弁論が進む。

当初の裁判長は、李信恵氏が在特会らを訴えた訴訟で李信恵氏勝訴の判決を出した裁判官だった。あまりにも不公平なので裁判官忌避請求を出そうと、準備していたしたその日に、何かあったのか担当裁判長が急に交替した。

李信恵氏との間ではいまだに係争が継続中であるので、「第1訴訟」の完全勝利を喜びながら、気を緩めることなく、「第2訴訟」も完勝し、対李信恵氏裁判〈完全勝利!〉を勝ち取るべく、勝って兜の緒を締めて、さらに闘いは続く。読者の皆様方には引き続きのご支援をお願いしたい。

◆李信恵氏の仲間・金良平氏は直ちにM君に賠償金を支払え!

ところで「M君リンチ事件」で損害賠償110万円超の支払いが言い渡された金良平氏が、代理人を通して「総額のうち40万円余りを支払い、残金は月5万円の分割にしてほしい」と判決確定後に願い出てきた。

M君、弁護団と支援会が相談し、「40万円余りは受け取るが、残金の分割払いには連帯保証人を付けるように」と回答したところ、相手方は難色を示した。仕方なくM君並びに弁護団、支援会は譲歩し、40万円の受け取りを承諾した。そして金良平氏の代理人も「支払う」と回答してきた。

それから少なくとも3週間が経過しているが、いまだに、金良平氏(若しくは代理人)からの支払いはない。

金良平氏は一審の法廷でM君に謝罪したが、これは体のいい猿芝居だったのか!?

リンチ直後に出された金良平(エル金)氏[画像左]と李普鉉(凡)氏[画像右]による「謝罪文」(いずれも1ページ目のみ。全文は『カウンターと暴力の病理』に掲載)


◎[参考音声]日本第一党 第七回神奈川県本部 川崎駅前東口街頭演説活動 2019年10月19日

 

このことには金良平氏の良心が問われているのだ。「反差別」運動に関わり「人権」という言葉を口にする金氏に良心の一欠片があれば、今すぐにM君に賠償金を支払うべきである。

それどころか、金良平氏は、10月19日川崎で行われた日本第一党の街宣活動に対する抗議行動に赴き、両手をポケットに入れながらも明らかに何者かに、体をぶつけ、その後も聞くに堪えない罵声を、日本第一党関係者に浴びせている。

周囲に金良平氏同様抗議活動へ参加している人の姿が10余名ほど確認できるが、体をぶつけ(相手が警察であれば確実に公務執行妨害で現行犯逮捕だろう。そうでなくとも体をぶつけられた本人が申し出れば金良平氏は何らかの罰則を受ける可能性があろう)汚い罵声を飛ばしたりしているのは、金良平氏ひとりだ。

 

繰り返すが、金良平氏は大阪地裁の法廷で、M君に芝居がかった謝罪のポーズを演じて見せたが、あれはなんだったのだ?

集会結社・言論の自由は、憲法で誰にでも認められているから、どこへ行こうが、何をしようが基本的にはその人の自由である。しかし、金良平氏には損害賠償の支払いが命じられており、その義務をまだ一切履行していないではないか。

M君への110万円余りの支払いを「一時金40万円で、あとは分割にしてくれ」と身勝手な申し出をしておきながら、川崎まで出かけて行ってこんなことをしている場合か?

金良平氏の代理人及び、「M君リンチ事件」一審判決当日、敗訴にもかかわらず「勝訴」とまったく事実と異なる発信を写真入りで行った神原元弁護士も金良平氏を正しく指導する義務があるのではないか!?

鹿砦社は本年創業から50年を迎えた。記念出版物において、これまでの歩みを振り返り、いいところはさらに拡大し、反省すべきは反省しつつ、今後も、われわれが精査し、正しいと判断した道を粛々と進んでゆく。偽物や偽善者に対しては言論戦において容赦はしない。

(鹿砦社特別取材班)

《関連過去記事カテゴリー》
 M君リンチ事件 http://www.rokusaisha.com/wp/?cat=62

M君リンチ事件の真相究明と被害者救済にご支援を!!

鹿砦社創業50周年記念出版『一九六九年 混沌と狂騒の時代』

自主避難者への住宅無償提供うちきりと闘って ── 福島原発事故避難者に聞く〈2〉羽石敦さん

福島第一原発事故からの避難者は、幼い子どもらを抱えた若い女性が多いが、じつは高齢な方、単身の女性、そして単身の男性もいる。単身男性で、しかも福島県以外からというと、「男性のくせに気にしすぎ」と思う人もいるかもしれない。

しかし前回森松さんが訴えたように、「避難の権利」は、すべての人に等しく与えられなければならない。そうした意味で、彼らの取った行動は、今後避難を考える人たちに、大きな勇気を与えてくれるだろう。今回は、茨城県から単身で大阪に避難してきた羽石敦さん(43才)にお話を伺った。

◆日立の企業城下町で育ち、チェルノブイリに衝撃を受ける

羽石敦(はねいし あつし)さん

羽石さんは、3・11の事故時、茨城県ひたちなか市に母親と弟の3人で住んでいた。ひたちなか市は1994年勝田市と那珂湊市が合併して編成された町で、その名の通り、「日立製作所」の企業城下町である。市の中心部には東海原発や東海村JCOがあり、羽石さんの実家のある、ひたちなか市(旧勝田市)の「勝田音頭」では「今じゃ 科学の花が咲く」と歌われるように、日常生活の中で徐々に原発に「洗脳」されるような状況があった。

そんな町に育った羽石さんは、一方で子供の頃見た「はだしのゲン」や、1986年発生のチェルノブイリ原発事故などに大きな衝撃を受けたことで、原発や放射能、被ばく問題に関心を強め、独自に知識を得てきた。

◆1997年の3・11と2011年の3・11

1997年3月11日には、地元実家の近くの東海村、動燃(現・日本原子力研究開発機構)東海事業所再処理工場で、火災爆発事故が発生し、建屋内にいた作業員129名のうち37名の体内から微量の放射性物質が検出されるという事故があり、その2年後、東海村JCOで臨界事故が発生、のちに2名の作業員が被ばくで死亡した。事故は、国際原子力事象評価レベルでレベル3、レベル4であった。工場から10キロ圏内にある羽石さんの実家でも、丸1日屋内退避を強いられた。

2011年3月11日の原発事故後は3日間、電気が止まっていたが、4日目につけたテレビで福島第一原発の3号機が爆発した映像を見た。当時の線量が通常の100倍になったことを知り、羽石さんは避難を決意、身の回りのものを積め込んだバッグ一つでバスに飛び乗ったという。

◆西成、高槻、再び西成

2日かけて関西にたどり着き、10日ほど西成の1日1500円の簡易宿泊所(通称ドヤ)で過ごしたあと、谷町4丁目にある大阪府庁の建物内の、スポーツジムのような場所に、開設された避難所に入った。当時の食事はチキンラーメンとアルファ米のみだったという。

しかし羽石さんは、その後まもなく高槻市の雇用促進住宅に入居できた。当時の大阪知事・橋下徹氏が、比較的柔軟に避難者の受け入れを進めたこと、その後茨城県が「災害救助法」に適応されたこともあり、罹災証明書もスムーズに取ることができたからだ。

しかし、その年の9月までに突然、福島県以外からの避難者は退出してくださいと言われる。仕方なく羽石さんは二度目の避難先を探し、急きょ泉北ニュータウンの府営住宅に移り住んだ。しかし住んでみて初めてそこが、市内から遠く離れ、大阪市内に出るのに、電車賃が往復約1000円もかかり、非常に不便なことがわかった。
さらにごみ問題などで、元からの住民と軋轢が生じため、再び引っ越しを考え、その後、一番長く住むことになる、西成区長橋の市営住宅に引っ越すことになった。当初役所からは、200戸ほどの住宅リストを紹介されたが、うち7割~8割には風呂がついてなく、約20万円の風呂釜を自腹で用意しなければならない住宅だった。

経済的に風呂釜を買う余裕のない避難者らは、仕方なく、同じ市営住宅でも風呂のついている事業者用住宅を選ばざるをえなかった。それがのちの住宅無償提供うちきりのさい、一つの大きな弊害になったという。羽石さんの入居した西成区の事業用(再開発)住宅には、地元の高齢者が住む1階以外の2、3階には福島、宮城、岩手、茨城からの避難者で埋まっていたという。

1年ごとの更新はあるが、ようやく落ち着いてきたと思っていた、6年目の2016年7月中旬、大阪市役所から一通の通知が届いた。そこには「今年度いっぱいで住宅支援、家賃無償提供は終了する」という通知と、「今年度で支援住宅を打ち切ります。大阪から出ていきますか・それとも家賃を払って住みますか?」というアンケート用紙が同封されていた。

当時羽石さんの入っていた住居は、中堅層向けの住宅で家賃が6万円と高いうえに、減免もきかなかった。こんな重要な、避難者の将来に関わることを、当事者らとの話し合いや説明会もなく、紙切れ1枚で一方的に通告される……「これでいいのか」、羽石さんはどうしても納得できなかった。「結果がどうあれ何かしら抗っていかなければ…」と考え、まずは地元の維新の会の議員事務所にアポイントもとらず、飛び込んだ。結果、なかなか難しいとの回答だったため、つぎに共産党の議員事務所に駆け込み、ようやく話を聞いてもらえることになった。

◆「大阪避難者の会」の立ち上げ

そうした活動をきっかけに、避難者10人と支援者らを含め20人ほどが集まり、「大阪避難者の会」を立ち上げ、羽石さんは代表となった。その後、市議会議員や府議会議員への訴え、議会への請願書・陳情書の提出、大阪市の行った住宅支援打ち切りについてのパブリックコメントへの取り組み、大阪市との協議、役所との個別面談など、考えられる限りのことを支援者らと取り組んできた。

大阪市との協議は3回行ったが、そこで羽石さんらは、第一に家賃の無償提供を継続すること、第二に、引っ越す場合の引っ越し費用を出してもらうこと、第三に、無理やり追い出すようなことはしないこと、最後に羽石さんらの経験から風呂釜を要求するという内容の要望書を提出した。

その後、山形の避難者が闘っている追い出し裁判で住民側の代理人を務める井戸謙一弁護士からアドバイスされ、「一時使用許可申請書」を作成、役所に提出した。対応した市の職員は「なんでこんなことをするんだ。裁判をする気なのか、あなたは」と顔を真っ赤にして怒り、押し問答が1時間くらい続いたが、その後受け付けさせることができた。それ以降、羽石さんらへの市の対応が少し柔軟になったという。

「家賃無償提供終了」の通知がきた2016年7月から2017年3月末までの9ケ月間、支援者と共に必死で闘った結果、家賃無償は打ち切られたが、希望する人が避難を続けられる「特定入居」(継続入居か住み替え入居)を勝ち取ることができた。

原発賠償関西訴訟 第24回口頭弁論は11月21日(木)大阪地裁にて

◆沈黙は容認、反対の声を記録を残す

── ここまでお聞きすると、 避難して以降の羽石さんの闘いは、避難に一番大切な「住居を確保する闘い」であったわけですね? 具体的にはどのような内容を勝ち得たのでしょうか? また9ケ月の闘いの中で、羽石さんはどんなこと考え、学んできましたか?

羽石 1番は入居要件の緩和を勝ち得たことです。具体的には、大阪市営住宅の60歳以下の単身入居が、可能になったことです。家賃減免制度も利用できるようになりました。これは、避難者だけでなく、一般の大阪市民も利用できるようになったので、本当に良かったです。それから、事業用住宅の応能応益家賃も認めさせました。風呂付住宅にも入居できました。

最初に考えたことは、沈黙は容認であるということです。とにかく、反対の声を上げようと思いました。記録を残すためです。それが後に、裁判や国際問題にも影響すると思ったからです。実際に国連では4カ国(ドイツ、オーストリア、ポルトガル、メキシコ)が、日本政府に改善するよう、勧告をだしています。学んだことは、当事者が声を上げる事の大切さです。当事者不在では、支援者ができることに、どうしても限界があります。

── 京都や奈良ではどうだったのでしょうか?

羽石 京都は2012年12月28日の受付終了から、6年の入居としました。奈良は特別なケースで、震災後の早い段階に条例を改正して、対応しました。

── 大阪市は当初、避難者の家賃を国に求償していないと言っていたのですね?それが情報公開請求で嘘だとわかったと。

羽石 はい。大阪市は国に近傍同種家賃で求償し、何億円も得ていました。それなのに、最初求償していないというので、私たち避難者は「税金でお世話になって……」と肩身の狭い思いをしていました。

── 羽石さんは、「原発賠償関西訴訟原告団」の幹事も務めておられますが、この裁判を闘うに当たって、決意、訴えていきたいことなどをお話ください。

羽石 1番は被曝を避ける避難の権利を求めることです。今の日本では、移住か帰還の選択を迫られて、避難を続けることが難しい状況です。国内避難民を消したい国と、裁判を通して抗う決意です。

◎福島原発事故避難者に聞く
1〉いま、起こっていることは「風化」でなく、「事実の矮小化」と「隠ぺい」です 森松明希子さん 

▼尾崎美代子(おざき みよこ)
新潟県出身。大学時代に日雇い労働者の町・山谷に支援で関わる。80年代末より大阪に移り住み、釜ケ崎に関わる。フリースペースを兼ねた居酒屋「集い処はな」を経営。3・11後仲間と福島県飯舘村の支援や被ばく労働問題を考える講演会などを主催。自身は福島に通い、福島の実態を訴え続けている。『紙の爆弾』、『NO NUKES voice』にも執筆。

タブーなき言論を!『紙の爆弾』11月号!
〈原発なき社会〉を求める雑誌『NO NUKES voice』21号!

現代史に隠された無名の活動家のディープな証言に驚愕した!──鹿砦社創業50周年記念出版『一九六九年 混沌と狂騒の時代』 満を持して本日29日発売!〈4〉

学生運動に興味のない読者(本通信では少数であろうが)にとっては、「全学連」も「過激派」も「共産党」も同じに見えるかもしれない。けれどもそれらは個々ずいぶん違う性質のものであるので、本日の文章をご理解いただくために、最小限の用語の意味だけご紹介しておく。

 
鹿砦社創業50周年記念出版!『一九六九年 混沌と狂騒の時代』10月29日発売!

◆「全学連」と「全共闘」

「全学連」とは「全日本学生自治会総連合」の略語で、各大学の自治会が寄り合った組織である。当初は一つであったが、60年安保闘争を前にして主流派が共産党と訣別し死者をも出しながら激しく闘い世界に「ゼンガクレン」という名を広めるほど有名になった。一方、反主流派の共産党系も「全学連」を名乗って今に至っている。共産党ではない(主として共産党から離脱した)新左翼系の「全学連」は、60年安保闘争後いったん解体し66年に、いわゆる「三派全学連」(ブント、社青同解放派、中核派)として再建され、60年代後半の運動を牽引したが、党派による連合体の形をとったが故に、利害関係などから長続きせず、やがて各党派ごとの「全学連」に移行する。ブント系を除き今でも各派で「全学連」を名乗っている。

これに対して「全共闘」は「全学共闘会議」の略称であるが、上記の「全学連」が党派連合なのに対し、「全共闘」は、党派も抱き込みつつ、党派による弊害を感じた学生たちが、自由意思により、大学(高校)ごとに共闘する運動体を打ち立てた。その先鞭として有名なのが「日大全共闘」であり「東大全共闘」である。

日大は日本一の学生数を擁する大学であったが、学内での集会の自由を認めない、など大学としての最低限のレゾンデートルも、踏襲していなかった。60年代後半、それまで学生運動とは無縁だった日大で、30億円に上る使途不明金問題が勃発。それに呼応する形で自然発生的に「日大全共闘」が結成される。このように、最初から旧来の党派ありきではなく、自然発生的に生まれ、それゆえ瞬く間に広がったのが「全共闘」運動の特徴といえるだろう。「日大全共闘」をはじめ、全共闘運動については『思い出そう!一九六八年を?』(2018年、板坂剛と日大芸術学部OBの会編著、鹿砦社)で経験者、板坂氏らが詳しく紹介しているので是非ご一読いただきたい。

そして、まさに「全共闘」が全盛を極めたのが1969年であった。『一九六九年 混沌と狂騒の時代』は「全共闘最盛期」の報告と副題を付すことも可能かもしれない。1969年は『一九六九年 混沌と狂騒の時代』に詳しい年表を付しているが、年始から実に様々な事件や、のちの世代に影響を残す事柄が集中的に起きていることに驚かされる。翌1970年に70年安保という大事件を控えながら、大衆運動としての学生運動は、『一九六九年 混沌と狂騒の時代』に寄せられた数々の原稿を目にすると、1969年でピークを迎えていたような印象すら受ける。
しかし、それはわれわれが、まだ1968年と1969年を解析したように、1970年(~代)についての充分な情報収集を行っていないからかもしれないが…鹿砦社では1968年・1969年に続き来年は1970年(~代)をテーマとした書籍を出版する予定だと聞いている。

◆同志社大学出身者たちが当事者として語る「東大安田講堂籠城戦」

さて、「全共闘」に話題を戻そう。全共闘は各大学で生まれ、参加者や議論の制約を設けない、新しい形の運動体だった故に、それまでの学生運動には距離を置いていた学生の中からも、参加者が劇的に増加する。

そんな中闘われたのが1月の「東大安田講堂籠城戦」だ。東大全共闘が中心であったが、全国から応援の部隊が駆け付けた。26日の本通信で、

《1969年を知る上で、もし、「安田講堂」闘争参加者に直接お話を聞くことができれば、この上なく貴重な資料になるだろうと考えた。しかしことはそれほど簡単ではない。あれからすでに半世紀が経過しているのだ。若くとも当時の学生は70歳前後になっているはずだ。しかも、ことがことだけに、簡単に質問にお答えいただける方は、なかなか現れない。当然だろう。当時の籠城学生は全員検挙されたのだから。探り当てては「勘弁してください」と“あのこと”については語ることを拒まれる方が続いた。》

とご報告した通り、証言者は当初見つからなかった。ところが偶然にも鹿砦社代表・松岡の先輩筋に、かつてその戦闘性で全国の学生運動を牽引した「同志社大学学友会」のOBの親睦団体「同大学友会倶楽部」でここ数年共に活動している方が安田講堂籠城組で、おそるおそる今回の出版企画への寄稿をお願いしたところ、単独の執筆は勘弁してほしいが「私の限られた経験でよければ」と“証言”を頂けるとのありがたい許諾を受けた。けっきょく6人の座談会となった。

松岡も私もかなり緊張し興奮しながら、取材当日を迎えた。“証言”を受けていただいた方は、2人が松岡と共に学友会倶楽部で顔を合わせたことのある方だったが、お二方はご親切にもご友人にもお声がけいただいて、取材には6名の皆さんがお集まりいただき「1969年」を振り返る「座談会」を催すことができた。いずれも同志社大学出身(中退・卒業)6名の皆さんに自己紹介からお話を始めていただくと、なんと3名が「安田講堂籠城組」であることがわかり、松岡もわたしも驚きの声を抑えることができなかった。

貴重な証言は細部に及んだ。同志社大学から、どうして東大闘争に駆け付けることになったのか? 京都を出発する時点で、「決死の闘争」へ参加する覚悟はできていたのか? 安田講堂内での守備位置はどこだったのか? 機動隊員が内部へ入ってきた時の様子は?われわれの質問は果てることがなく、参加いただいたみなさんのお答えにも、なんの躊躇もなかった。

これまでの報道では決して報告されなかった、いくつもの事実が初めて明らかになった。その多くは意外な事実であったが、中には例外的に大爆笑を止めることができないような“秘話”も含まれている。

現代史の発掘の妙味は、体験者に直接語って頂くことだ、とあらためて痛感した座談会であった。帰路松岡も、わたしも興奮が冷めやらなかった。お一人が語ってくれるだけでも望外だと思っていたのに3名もの証言者のご協力を得ることができ、それにより質疑ではなく経験者同士の対話も展開され、より事実の発掘が深まったからだ。この座談会「元・同志社大学活動家座談会   一九六八年から六九年」は間違いなくお勧めだ。

元・同志社大学活動家座談会

◆重信房子氏が回顧する「私の一九六九年」

さらにである。6名のうち5名の皆さんは、その後活動期間の長短はあれ、「赤軍派」に参加されていたことも判明する!

森恒夫、田宮高麿、遠山美枝子、坂東国男、重信房子…といった、多くの人たちがその名を知っている方々。

いずれも大事件に関係した、「あの時代」を知っている人であれば、興味のある人であれば何度も目にした名前が、直接の登場人物として話題に上る。上記4氏の中で、生死がはっきりしているのは重信房子氏だけである。森恒夫氏は赤軍派から連合赤軍を結成し、山岳ベース事件で多くの仲間をリンチ死に至らしめ、逮捕後、獄中自死した。

「あさま山荘事件」といえば、50代以上の誰もが記憶しているであろう、あの事件の前段での不幸ともっとも関係が濃密な人物である。坂東國男氏は、海外にいるとされるが、生死、消息不明だ。座談会出席者の中には森氏と、個人的に知り合いであった方もいた。そしてその方は森氏の危険性を予期していた!

田宮高麿氏は、「よど号」ハイジャックで朝鮮に渡ったグループのリーダーであり、遠山美枝子氏は山岳ベース事件で「自己批判」の末、命を絶たれることになった被害者だ。やはり座談会参加者の方からは遠山氏のお人柄も、証言されている。重信房子氏についてはさらに詳細な議論が交わされた。もうこれ以上本通信では明かすことはできない。

「おいおい、えらくコアな証言のようやな」と読者の声が聞こえてきそうだ。その通りだ。これだけでも読了後は結構な汗をかくのだが、最後的な決定打がさらに準備されている。

東日本成人矯正医療センターに収監されている重信房子氏も寄稿して頂けたのだ! シンプルに「私の一九六九年」という題で重信氏が回顧する原稿からは、一部マスコミのミスリードにより、「冷血なテロリスト」との印象を刷り込まれた読者諸氏に大きなショックを与えるに違いない。重信氏の人間性溢れる貴重な原稿だ。

いよいよ本日発売の『一九六九年 混沌と狂騒の時代』(税別800円、安すぎる!)にはその他にも「あの時代」の証言、告発、問題提起が詰め込まれている。
かつて松岡は『季節』という雑誌を発行していて、その5号、6号は電話帳のように分厚いもので、ある人に「奇妙な情熱」と揶揄されたというが、今回もA5判・224ページと、思った以上に分厚く、それでいて本体価格800円という安価――これもまた松岡の「奇妙な情熱」といえるだろう。

「絶対」という言葉は、よほど注意しなければ使わないが、あえて「絶対」にお勧めの一冊である。そして『一九六九年 混沌と狂騒の時代』は歴史に名を残す書籍になるであろうことを確信する。この種の本には珍しく1万部ほどを発行したという。松岡は強気だ! 売り切れ要注意、すぐに書店に向かうか、ネット書店や直接鹿砦社(sales@rokusaisha.com)にご注文を!(了)

◎鹿砦社創業50周年記念出版『一九六九年 混沌と狂騒の時代』発売を前にして
〈1〉鹿砦社創業50周年記念出版『一九六九年 混沌と狂騒の時代』発売を前にして
〈2〉ベトナム戦争で戦死した米兵の死体処理のアルバイトをした……
〈3〉松岡はなぜ「内ゲバ」を無視できないのか
〈4〉現代史に隠された無名の活動家のディープな証言に驚愕した!

▼田所敏夫(たどころ としお)
兵庫県生まれ、会社員、大学職員を経て現在は著述業。大手メディアの追求しないテーマを追い、アジアをはじめとする国際問題、教育問題などに関心を持つ。※本コラムへのご意見ご感想はメールアドレスtadokoro_toshio@yahoo.co.jpまでお寄せください。

鹿砦社編集部編『一九六九年 混沌と狂騒の時代』10月29日発売!

松岡はなぜ「内ゲバ」を無視できないのか ──『一九六九年 混沌と狂騒の時代』発売を前にして〈3〉

権力闘争、あるいは権力奪取闘争のなかで、意見の対立から、元は同志として同じ目的に向かっていた勢力が、分裂を起こすと近親感が憎悪へ変わり、激烈なぶつかり合いから、果ては殺し合いにまで行き着く。

この歴史は何度も教科書の上にすら登場させられることを忘れはしなかった。人間史の深く悲しい惨事の繰り返し。地層のように世界史、闘争史どの断面を切り取っても、対立→分裂→衝突→潰し合いは、人間が保持する克服しがたい、特質のように悲嘆に暮れるしかないのであろうか。

 
鹿砦社創業50周年記念出版『一九六九年 混沌と狂騒の時代』

そんな疑問や問題提起が、引き金になっているのかどうかはわからない。松岡利康はかねてより、日本の左翼(新左翼)運動内で発生した「内ゲバ」に、人一倍反応し、同志や弱者に向けられる「暴力」に対して、極めて敏感に反応を続けてきた。現在まで5冊の書籍を上梓する結果になった(最初はこれほど多数の出版を、松岡自身が想定してはいなかったであろう)「カウンター/しばき隊内における大学院生リンチ事件」へ取り組む松岡の姿勢が、まさにその証左である。

松岡はどうして「内ゲバ」あるいは、同志や弱者に向けられる暴力に対して、黙していることができないのか。共に取材を進め方針を議論する中でも、この質問を、直接松岡にぶつけたことはない。なんらか、かなり大きな経験なり、思索が「確信」にまで高まり、この種の問題から目を逸らせることを、松岡は無意識に自身に禁じさせている。わたしにはそうであろうとしか推測できない。

そこにはもちろん松岡が学生時代、日本共産党=民青のゲバルト部隊に暴行を受け入院させられた、肉体的苦痛を伴う個人史が作用してもいよう。しかし、そういった経験のある個人は、日本にも世界にも相当数存命中であるはずであり、その点において松岡の体験がことさら特別のものかといえば、必ずしもそうとは言い切れない。

◆リンチ事件への怒りと異議申し立て

4年ほど前になるであろうか「カウンター/しばき隊内における大学院生リンチ事件」が複数筋から鹿砦社に持ち込まれた日(あるいは翌日だったかもしれない)松岡から受信した電話口での語り口調は、明らかに通常時通話のトーンと異なるものであった。あれ以来鹿砦社は自身も血を流す(比喩的な意味である)ことになる、「カウンター/しばき隊内における大学院生リンチ事件」の解明と支援に向かい合うことになる。

松岡はリンチ事件を論じる際に、感情が高じると「常識的に考えて」という文言を繰り返し使う、としばしば感じた。「常識的」は穏やかな一般に共有される概念を指す言葉であるが、松岡が使う「常識的」には、一般的ではない複雑な思いが込められている、と感じたことが少なくない。

それは先に述べた通り、人間史で繰り返されてきた「人間の悪性」ともいうべき、近親憎悪が衝突→潰し合いへと向かうことが、当たり前であるかのような解釈に対する、怒りと異議申し立てではないだろうか。極言すれば松岡は、彼の人生史のなか、とりわけ学生運動に関わった時代の個的経験だけではなく、同時代に発生した幾つもの「内ゲバ」事件を「他人事」と呑気に過ごしていることができず、自身に向けられた「解決策を見出すべき至上命題」として受け取っていたのではないか。

◆高橋和巳と重なる松岡のベクトル

学生当時の松岡が、彼の周辺にさえ「反内ゲバ」を感情ではなく、論理として構成し説き伏せることなど、できようはずはない。しかし『一九六九年 混沌と狂騒の時代』の最後の原稿として松岡が著した長文「死者を出した『7・6事件』は内ゲバではないのか?『7・6事件』考(草稿)」の冒頭で松岡は、一貫して「内ゲバ」に反対の意思を苦悶しながら表明し続けた高橋和巳「内ゲバの論理はこえられるか」から引いている。高橋和巳は苦悩する小説家として著名なとおり、内ゲバに対する論考も、常に原則的な否定論を維持しながら、しかし、ならば「いかなる論や行動が有効であるか」を示し尽くすことができないことに、重ねて苦悶する中で、人生を終えたのではないか……と、またこれも想像する。

おそらく、松岡を突き動かす原動力は、表現方法や行動において同一性は見られないかもしれないが、高橋和巳と重なる方向性とベクトルにあるのではないかと、わたしは感じている。

活動家ではなく研究者だった高橋と、一活動家だった松岡の反応とでは、当然大きな違いもある。そして、松岡が学生時代に生活していた学生寮が、卒業後に某悪質セクトに深夜襲撃され寮生が監禁・リンチされた際、松岡は即寮生支援に向かっている。まだ若かった松岡にとって「内ゲバ」あるいは同志、弱者に対する暴力は、許容できるものではなく、それへの怒りと反撃に激高するのは当然の生理的反応であったと理解する。その経験を松岡は否定はしまい。けれども、会社員から鹿砦社代表へ就任し、多くの出会いと出版物を編纂し、「暴露本」路線に一方では邁進しながら、突然の逮捕-勾留192日という辛酸を経て70歳近くの老境に至り、ふたたび松岡は彼特有の感性である「反内ゲバ」に立ち返ったのではないだろうか。

学生寮が襲撃された連絡を寮母さんから電話で受けた松岡の激高は、年月を経て「カウンター/しばき隊内における大学院生リンチ事件」に初めて接したときの「落胆を伴う驚愕」(これまた推測である)へと質的な変化を遂げていたのではないだろうか。2つの事件に共通するのは表層的な反応の違いではなく、「内ゲバ」=同志、弱者への暴力を「生来徹底的に嫌悪する」松岡の人間性である。

◆「死者を出した『7・6事件』は内ゲバではないのか?『7・6事件』考(草稿)」

歴史と現状は、そのほとんどが闘争の歴史であることを証明している。闘争は必ずしも崇高なものではなく、私利や権力欲に由来する行為がむしろ主流であり、そこで振るわれる策謀、裏切りや寝返り、そして暴力や殺戮はそれこそ歴史的「常識」である。

ところが、松岡は本人が意識しているかどうか、まったく判然とはしないが歴史的「常識」に行動と言論で「異議あり!」との抗いを続けているように、私には思えて仕方がない。この壮大な作業に簡単な回答など準備されているはずもなく、したがって「死者を出した『7・6事件』は内ゲバではないのか?『7・6事件』考(草稿)」の最後にも「(草稿)」が付されているのではないだろうか。

本原稿は同志社大学の中心的活動家だった望月上史さんが1969年7月6日に、会議襲撃の報復として拉致され、約20日も監禁(軟禁)された末、脱出を試みた際に落下して、のちに死亡した事件を、関係者5名の証言(発言)を紹介しながら松岡が問題提起を行う形で構成されている。5名の証言(発言)をほぼカットなしで引用していることもあり長文となっているが、結論として「内ゲバ」について松岡がどう論を昇華させているかは、読者諸氏がお読みになって確認していただきたい。

人類史と必ず伴走する、闘争史。そしてそこに宿命的に付随するかのような「内ゲバ」と「排除の論理」への挑戦。無謀とも思われるが、人間にとっての一大命題への取り組みは松岡のライフワークなのかもしれない。

この他にも寄稿いただいた原稿はどれも力作の連続だ。松岡は(ストレスのためだろうと推測する)重篤な目の疾患の治療で、昨年秋から全く編集実務から遠ざかっていた。それにもかかわらず、片目1回4万5千円の注射を何度も打ちながら、ほぼ単独で編集した『一九六九年 混沌と狂騒の時代』は、明日10月29日発売だ。(つづく)

「望月君死ぬ」(1969年9月29日付け読売新聞夕刊)
「また内ゲバの学生死ぬ」(1969年9月29日付け朝日新聞夕刊)

◎鹿砦社創業50周年記念出版『一九六九年 混沌と狂騒の時代』発売を前にして
〈1〉鹿砦社創業50周年記念出版『一九六九年 混沌と狂騒の時代』発売を前にして
〈2〉ベトナム戦争で戦死した米兵の死体処理のアルバイトをした……
〈3〉松岡はなぜ「内ゲバ」を無視できないのか
〈4〉現代史に隠された無名の活動家のディープな証言に驚愕した!

▼田所敏夫(たどころ としお)
兵庫県生まれ、会社員、大学職員を経て現在は著述業。大手メディアの追求しないテーマを追い、アジアをはじめとする国際問題、教育問題などに関心を持つ。※本コラムへのご意見ご感想はメールアドレスtadokoro_toshio@yahoo.co.jpまでお寄せください。

鹿砦社編集部編『一九六九年 混沌と狂騒の時代』10月29日発売!

打落水狗(水に落ちた犬は打て!) 菅原一秀の経産大臣辞任は、結局のところ国会議員の椅子にしがみ付くための方便である

政治は誰がやっても同じ、自民党に代わる政党がないのだから今のままで良いのだ。というのが、日本の国民の少なくとも半数以上を占めるのではないだろうか。あるいは自民党政治にも辟易だが、野党にはおよそ期待できない。そんな政治意識が、じつは自民党政権を支えているのだ。

今回、誰の目にも明らかな公職選挙法違反を犯した、菅原一秀の経産大臣辞任にしても、まぁよくある話(安倍政権では政治資金問題で辞任した閣僚は9人目)として流されていくかのようだ。

だがこれは、れっきとした刑事犯罪(公職選挙法違反)なのである。事実関係を押さえておこう。政治をやるのは誰でもいいわけではない。大げさに言えば、嘘つきやフェイクのパフォーマンスをする者こそが、国家の進路を過ち、戦争への道をひらくのだ。


◎[参考動画]菅原一秀経産大臣が辞表提出 後任は梶山氏(ANNnewsCH 2019年10月25日)

◆国会で追及されているさなかに、堂々と選挙違反

2006年から2007年にかけて、菅原(容疑者=筆者注、以下同)は、選挙区において選挙民にメロンやカニ、イクラ、筋子、みかんといった「金品」を提供して、公職選挙法に抵触する「買収・寄付」を行なっている。これは時効が3年であることから、道義的な責任は問われても訴追される要件ではない。

しかるに、菅原(容疑者)は、過去の有権者買収疑惑を「週刊文春」2週にわたって報じているなかで、公職選挙法違反を犯したのだ。すなわち、練馬区で行なわれた支援者の通夜会場で、秘書をして香典袋を遺族に手渡させ、その瞬間を「激写」されたのである(10月17日)。「有権者にメロンやカニなどを贈っていたのではないか」と国会で追及を受けているさなかに、堂々と公選法違反行為を行なっていたのだ。

菅原(容疑者)は、こう釈明している。「秘書が香典を持って行ったことを知らず、わたしも翌日、香典を持って行ったんです」「先方から香典を戻されたことで、初めて秘書が香典を渡したことを知った」と。議員(大臣)本人が香典を渡すことは、一般慣習として公職選挙法も禁じていない。つまり菅原(容疑者)は秘書が勝手に香典を持って行ったと言うことで、容疑を秘書に押し付けていのではないか。

本欄(2019年9月24日付)では、安倍改造内閣の顔ぶれを批判したときに菅原一秀の経産大臣就任にふれて、批判に晒されるのは必至だろうと断言しておいた。以下、再録させていただく。

【菅原大臣の事務所での暴虐さも暴かれている。秘書たちは朝6時の街頭演説から、夜の11時までブラック勤務を強制されているという。クルマの運転でも、ちょっとでもミスをすれば怒鳴られる。「このハゲー!」で政界を去った(選挙で落選)豊田真由子元議員の言動が暴露されたとき、「つぎは菅原だ」と囁かれたのが、これらの秘書に対する言動だったという。】

【2007年には秘書に党支部へのカンパ(毎月15万円)を強要したとも報じられた(菅原氏はカンパの強制性のみを否定)。高校時代(早稲田実業)に甲子園に出場と選挙公報に書いたものの、じっさいには補欠としてスタンドから観戦していた虚偽記載。】

【女性への言動の酷さは、何度も週刊誌を騒がせたものだ。前述のハワイ行きの愛人に「女は25歳以下がいい。25歳以上は女じゃない」「子どもを産んだら女じゃない」などモラル・ハラスメントしたと2016年6月に週刊文春が報じている。ということは、区議になった元美人秘書は30代から政策秘書(キャリアと能力が必須)を務めていたのだから、女としては扱ってもらえなかったことになる。】

【2016年には、舛添要一辞職後の東京都知事選挙に立候補が噂された民進党蓮舫代表代行が「五輪に反対で、『日本人に帰化をしたことが悔しくて悲しくて泣いた』と自らのブログに書いている。そのような方を選ぶ都民はいない」と発言するが、後日「蓮舫氏のブログではなく、ネットで流れていた情報だった」と釈明している。あまりにも言動が軽く酷すぎる経産大臣が、国会質問で野党の標的になるのは必至だろう。】

菅原一秀事務所では、過去に50人をこえる秘書が退職している。事務所業務のいっさいは菅原(容疑者)が仕切り、勝手な動きをした秘書はクビを斬られるという。したがって今回の「秘書が勝手に」という抗弁も、自己保身ではないかという疑惑が生じるのだ。【高校時代(早稲田実業)に甲子園に出場と選挙公報に書いたものの、じっさいには補欠としてスタンドから観戦していた虚偽記載】とあるとおり、このセンセイは虚言壁があるのではないかとすら思える。

そうであるならば、このさい徹底的に調べを尽くすしかない。香典を持参した秘書は菅原の指示を受けていたのか否か、受けていたのであれば菅原は議員辞職で選挙民に詫びるべきであろう。いや、不逮捕特権があろうとも、検察は書類送検するべきである。いやしくも政治と選挙にかかわる刑事犯罪を犯した議員を、徹底的に叩くことで政治は浄化されなければならないのだ。


◎[参考動画]「政治とカネ」菅原大臣にリスト示し厳しく追及(ANNnewsCH 2019年10月11日)

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▼横山茂彦(よこやま しげひこ)
著述業、雑誌編集者。近著に『ガンになりにくい食生活』(鹿砦社ライブラリー)『男組の時代――番長たちが元気だった季節』(明月堂書店)など。

タブーなき言論を!絶賛発売中『紙の爆弾』11月号! 旧統一教会・幸福の科学・霊友会・ニセ科学──問題集団との関係にまみれた「安倍カルト内閣」他
タケナカシゲル『誰も書けなかったヤクザのタブー』

ベトナム戦争で戦死した米兵の死体処理のアルバイトをした……『一九六九年 混沌と狂騒の時代』発売を前にして〈2〉

◆1968年フランス「五月革命」と1969年「東大安田講堂」攻防戦

 
鹿砦社創業50周年記念出版!『一九六九年 混沌と狂騒の時代』10月29日発売!

1968年から1969年末までの2年間は、日本にとっても、世界にとっても特別な時代だったようだ。米国が「共産主義によるドミノ現象」を阻止するために、参戦したベトナム戦争に対する「反戦」運動が、合衆国本国だけではなく、日本を含む世界中で湧き上がった。

「反戦」から出発した運動は、各国の政権の問題へと矛先を向けてゆき、フランスでは1968年に「五月革命」が起こり、日本でも「べ平連」(ベトナムに平和を市民連合)が全国で広がりを見せ、70年安保を迎え撃つべく、学生運動、労働運動も急激に高揚し、1969年1月には、「東大安田講堂」での学生対機動隊の激烈な攻防戦が展開される。

8,500名とも1万名ともいわれる機動隊が、学生めがけて催涙弾を、地上から発砲し、上空からはヘリコプタが学生を狙い、タンクに貯めた水を投下する。学生たちは火炎びんや投石で機動隊に対抗する。

どうして1969年の1月、2日間にわたり、東大全共闘を中心とする学生たちは、安田講堂に籠城したのか。その事情を詳述しだすと、書籍一冊でも足りない歴史と背景がある。それでも、20歳そこそこ(20歳以下の人もいただろう)の学生たちは、奇跡的に勝利しなければ、逮捕確実なあの籠城闘争に、どんな思いで参加したのか。1969年を知る上で、もし、「安田講堂」闘争参加者に直接お話を聞くことができれば、この上なく貴重な資料になるだろうと考えた。しかしことはそれほど簡単ではない。

あれからすでに半世紀が経過しているのだ。若くとも当時の学生は70歳前後になっているはずだ。しかも、ことがことだけに、簡単に質問にお答えいただける方は、なかなか現れない。当然だろう。当時の籠城学生は全員検挙されたのだから。探り当てては「勘弁してください」と“あのこと”については語ることを拒まれる方が続いた。

「安田講堂」籠城学生経験者探しは、ひとまず棚上げし、やはりベトナム反戦を闘った方のお話もしくは原稿が頂けないかと、思案していたころ望外の玉稿が鹿砦社に届いた。路上で「ベトナム反戦デモ」に参加した人であれば、簡単に見つけることができる。だが、それでは迫力に欠ける。

◆作家・高部務氏が綴る「ベトナム戦死米兵の遺体処理アルバイト」

かつて都市伝説のように「ベトナムで戦死した米兵の遺体処理アルバイト」なるものがある、と東京を中心に語られていた。まさに「都市伝説」の走りともいえる、非日常性と恐怖感、そして野次馬根性によって彩られたような「ベトナム戦死米兵の遺体処理アルバイト」。それは実在したものであったことを、経験者、高部務氏(作家・ノンフィクションライター)が詳細にご自身の経験を、綴ってくださった。

高部氏がどのような状況で「ベトナム戦死米兵の遺体処理アルバイト」を経験したのか。高部氏は強制されたのか、あるいはみずから進んで、「ベトナム戦死米兵の遺体処理アルバイト」に携わらったのか。それらは『一九六九年 混沌と狂騒の時代』筆頭の回顧記事で明らかにされる。同書が読者にお送りする息をつかせぬ“衝撃”の幕開けである。すべては高部氏による「一九六九年という時代」で語りつくされている。読者諸氏は巻頭の高部解雇記事「一九六九年という時代」でまず、激烈な1969年のエッセンスに触れることになる。

1969年を語るには「ベトナム戦争」を外すわけにはいかない。そして1969年に視点を置けば、ベトナム戦争こそが、アメリカ合衆国を中心とする帝国主義の悪を象徴しているものであったし、南北問題の分かりやすい実例でもあった。

ただ、「反戦」を合衆国で、ベトナム現地で、欧州各国で、そして日本で叫びながら、解放勢力の勝利=米国の敗戦を、はっきりと確信できた人々はどのくらいいたであろうか。米国は建国以来内戦を除き、直接関与した戦争で敗戦経験のない国だ。その米国が、アジアの小国ベトナムに負けるなど、どれほどの人が1969年に予想しえただろうか。だが、一見無謀に見える“象とアリ”(このように表現するとベトナムには失礼かもしれない。ベトナムは米国以前にフランスに勝利した歴史もあるのだから。

でも国の規模から、あえてこの表現を選択させていただく)の闘いで奇跡が結果として訪れたのは、1969年(この年だけではないが)に最大級の盛り上がりを見せた、世界規模の「ベトナム反戦」運動が確実に影響していることは間違いない。世界最大軍事国の侵略戦争を小国が打ち破った。その背後には、世界の「反戦」の声があった。1969年はそんな奇跡が、現実化する前段階が無意識にも用意された年でもあった。(つづく)

◎鹿砦社創業50周年記念出版『一九六九年 混沌と狂騒の時代』発売を前にして
〈1〉鹿砦社創業50周年記念出版『一九六九年 混沌と狂騒の時代』発売を前にして
〈2〉ベトナム戦争で戦死した米兵の死体処理のアルバイトをした……
〈3〉松岡はなぜ「内ゲバ」を無視できないのか
〈4〉現代史に隠された無名の活動家のディープな証言に驚愕した!

▼田所敏夫(たどころ としお)
兵庫県生まれ、会社員、大学職員を経て現在は著述業。大手メディアの追求しないテーマを追い、アジアをはじめとする国際問題、教育問題などに関心を持つ。※本コラムへのご意見ご感想はメールアドレスtadokoro_toshio@yahoo.co.jpまでお寄せください。

鹿砦社編集部編『一九六九年 混沌と狂騒の時代』10月29日発売!

鹿砦社創業50周年記念出版『一九六九年 混沌と狂騒の時代』発売を前にして〈1〉

「企業は創業30年がピーク」だとする、やや古めかしい言い回しがある。企業だけでなく、私立学校などにも結構当てはまるこの言い回しには、なるほどと思わせる根拠がある。起業時に経営者が30歳であれば、30年後は60歳を迎えている。40歳ならば70歳だ。平均寿命が延びて、給与所得と年金が減った今日、企業労働者は60歳定年退職後も、嘱託として半額ほどに減じられた俸給で元の職場にとどまるか、あるいは第二の職場を探さなければ、生活を維持するのが難しい。だが「人生50年」といわれた時代には60歳定年前に、人生の定年がやってきたわけで、つまり事実上の「終身雇用」が生涯続く、ケースも珍しくはなかった。

志や理想に燃えて起業した、あるいは開学した経営者。早々に行き詰まり、こけてしまえば別だけれども、堅調な経営が続いていれば、創業30年で足場は固まり、「攻め」から「守り」に入る時期に中小企業では、落とし穴が待っている。保守化した経営者は独善的になり、みずからの経験則を第一に置き、商品開発や、会社の運営に提言しようとする、新しい従業員の声を聞かない。そのくせに起業(開学)当初の理念を捻じ曲げてでも自己正当化を図ろうとする。だいたい、そんなパターンで30年は転機として訪れるようだ。

◆2005年7月松岡逮捕─長期勾留という分水嶺

今年は鹿砦社創業50周年にあたる。本通信を毎日のようにお読みいただいている読者のみなさんからは、驚きの声が聞こえてきそうだが、1969年に鹿砦社は創業したのだ。そこで「企業は創業30年がピーク」説を当てはめると、1999年に鹿砦社も分水嶺を迎えていたことになる。1988年に3代目社長に就任した松岡は、それまでの硬派一辺倒路線から、芸能界を中心とする「暴露」路線にもウイングを広げた。ジャニーズ、タカラヅカ、阪神タイガース、日本相撲協会などを相手に次々と「暴露」を連発。当時鹿砦社とのつき合いが皆無だったわたしは、てっきり「トップ屋」出版社とばかり思い込んでいた。

1999年はノストラダムスにより「人類破滅」が予想されていた年で、『ノストラダムスの大予言』で儲けた出版社は、夜逃げの準備をしていた(憶測である)。なにも起こるはずがない1999年はさらりと過ぎて、いまやノストラダムスの名前すら若い人は知らないだろう。鹿砦社は「暴露」に次ぐ「暴露」の対価として、多くの訴訟を抱えることになる。それでも起業30周年の1999年は無事経過することができた。

今年亡くなった『噂の眞相』編集長・岡留安則氏との対談『スキャンダリズムの眞相』(2001年、鹿砦社)のなかで、松岡は岡留氏から、係争についての忠告を受けている。そして岡留氏の予言的忠告は、鹿砦社創業30周年から遅れること、6年目に現実のものとなる。2005年7月12日、神戸地検特捜刑事部に「名誉毀損」容疑で、松岡は逮捕され、192日もの勾留を余儀なくされたのだ。『噂の眞相』も刑事告訴され、『スキャンダリズムの眞相』が発刊された当時は、一審で争っている最中だったが、岡留氏ともう1名の被疑者はいずれも在宅起訴であり、松岡の逮捕―長期勾留は出版界では大きな事件として、記録に残っている。

取締役や社員の何人もが、鹿砦社を見捨て、離れてゆく中で、入社2年目、まだ20代前半の中川志大、現『紙の爆弾』編集長がほぼ単身で、松岡不在の間踏ん張り続けたことは特筆されるべきだろう。中川に「どうしてあの時鹿砦社を辞めなかったのか?」と聞いたことがある。「みんな辞めて行っちゃったから、残ろうかなと…」と肩透かしのような答えが返ってきた。中川の強みは、松岡と対称的に「闘志や喜怒哀楽を表に出さない」ところだと推測する。『紙の爆弾』廃刊どころか、会社倒産か廃業の危機のなかから、鹿砦社は奇跡的な復活を遂げる。

◆鹿砦社創業50周年に〈1969年〉を掘り下げる

社員でもない無責任な立場から、鹿砦社の半世紀を、あれこれ論評するのはためらわれるが、ご心配なく。半世紀にわたる鹿砦社の歴史は『一九六九年 混沌と狂騒の時代』に詳しい年表が収録されている。松岡から鹿砦社社長就任についての逸話は聞いたことがあった。しかし、鹿砦社創業に関わった方のお話は聞いたことがない。こちらもご心配なく。鹿砦社創業メンバーのお一人である、前田和男さん(現『続・全共闘白書』事務局)に松岡が直々に鹿砦社創業当時のお話を伺った。

このように『一九六九年 混沌と狂騒の時代』は鹿砦社創業50周年記念として、原点を振り返る。これをひとつの旋律としている。硬派出版社として出発し、芸能、暴露本路線にもウイングを広げ、会社存亡の危機を経て、危機から回復、日本唯一の脱(反)原発季刊誌『NO NUKES voice』を創刊するなど、近年地味ながらも存在感と、心ある識者からの評価を上げてきた鹿砦社。この不思議な出版社誕生から今日までの歴史を振り返るとき、1969年という“特別な年”を掘り下げずに、なにが語れるであろうか。

お定まりの社史編纂では、つまらない。鹿砦社の50周年出版物であれば、当然、鹿砦社視線の〈1969年〉を浮かび上がらせなければ意味はない。そしてそれは、予想以上の成果として貫徹された!『一九六九年 混沌と狂騒の時代』が鹿砦社の歴史をつまびらかにすることを、ひとつの旋律にしていることは述べた。しかし主旋律は違う。あの年、その後の日本、いや世界中を根底から揺さぶる運動体の胎動があったのだ。そこに迫らずして鹿砦社は〈1969〉年を語ろうとは思わない。(つづく)

◎鹿砦社創業50周年記念出版『一九六九年 混沌と狂騒の時代』発売を前にして
〈1〉鹿砦社創業50周年記念出版『一九六九年 混沌と狂騒の時代』発売を前にして
〈2〉ベトナム戦争で戦死した米兵の死体処理のアルバイトをした……
〈3〉松岡はなぜ「内ゲバ」を無視できないのか
〈4〉現代史に隠された無名の活動家のディープな証言に驚愕した!

▼田所敏夫(たどころ としお)
兵庫県生まれ、会社員、大学職員を経て現在は著述業。大手メディアの追求しないテーマを追い、アジアをはじめとする国際問題、教育問題などに関心を持つ。※本コラムへのご意見ご感想はメールアドレスtadokoro_toshio@yahoo.co.jpまでお寄せください。

鹿砦社創業50周年記念出版『一九六九年 混沌と狂騒の時代』10月29日発売!

ラグビーワールドカップで南アフリカの国歌に驚かされた

10月20日夜、急な取材のため、でかけたものの帰宅できなくなり、安宿で一夜を過ごすことになった。この日はラグビーワールドカップの準々決勝、南アフリカ―日本戦が19時過ぎから行われ、のちの視聴率調査では40%を超える数字を得たという。

自宅にはテレビがないが安宿の食堂では、宿泊客がNHKの中継に見入っていてた。ラグビーは国境を意識させないスポーツとして、だいぶ以前に本通信で好意的に紹介した記憶がある。その一方、日本開催となった本大会に限れば、来年予定されている「企業の祭典」東京五輪の予行演習の側面と、例によって、にわかファンの騒ぎぶりに、ひねくれものは反応してしまい、ろくろく試合も見ていなかった。

◆「Nkosi Sikelel’ iAfrika」(神よ、アフリカに祝福を)

20日、日帰りを予定していた出張が、予想外に長引いたことでわたしも南アフリカ―日本の試合を観戦することができた。そして試合前にわたしは自分の不勉強と、虚を突かれることになった。ラグビーのワールドカップは他の競技と異なり、純粋な国対抗ではない。英国だけでもスコットランド、ウェールズ、イングランドが今大会に出場している(アイルランドも国だけではなく英国領アイルランドとの合同を意識したチームだ)。だから試合前の「国家斉唱」では通常の英国国歌とされるものではない歌詞やメロディーを使わざるを得ない。

そこまではわかっていたが、自分の無知を恥じたのは、南アフリカ国歌が流れたときだ。「え! あの歌が国歌になっていたんか!」と声を出してしまった。あれは何年だっただろうか。リチャード・アッテンボロー監督の映画『Cry Freedom』(邦題「遠い夜明け」)で聞いた曲だ。


◎[参考動画]Nkosi Sikelel’ iAfrika – Cry Freedom [1987]

当時国際社会から非難されながらも南アフリカでは、明確な差別、人種隔離政策“Apartheid”(アパルトヘイト)がまだ蛮行を続けていた。『Cry Freedom』のエンドロールでは、「1962年の国会において、南ア政府は法律なしでの勾留を認めるようになった。これから紹介するのは、それ以降投獄され死亡したひとびとの、名前と死因の公式発表である」の説明のあとに延々と名前が続いたことが忘れられなかった。

『Cry Freedom』の主人公は、南アの有力新聞デイリー・ディスパッチ紙の白人記者ドナルド・ウッズだ。けれども実際の主人公は1968年に「南アフリカ学生機構」を立ち上げ、のちにドナルド・ウッズと親交を結ぶことになる、スティーブ・ビコだ。スティーブ・ビコは1968年に「南アフリカ学生機構」を設立し、南アにおける黒人解放運動の指導者として、もっとも有名な人物のひとりである。つまり『Cry Freedom』は実話をもとにした映画作品であった。ビコは映画の途中で早々に、虐殺されてしまい、フィルムのかなりの時間はドナルド・ウッズの南アからの、脱出物語にさかれている。このあたりに、若かったわたしには「ちょっと、主役が違うんじゃないか」と感じた記憶もある。

メロディーが記憶にあったのは、調べてみるとコザ語、ズール語による「Nkosi Sikelel’ iAfrika」(神よ、アフリカに祝福を)という曲だったようだ。作詞作曲されたのは19世紀。以来アフリカの多くの国で、独立象徴の歌として歌い継がれたようだ(19世紀アフリカの解放歌が、キリスト教に依拠していた事実をどう考えるか、の課題は横に置く)。

南アの国歌は、わたしが一回聞いただけだが記憶にある「Nkosi Sikelel’ iAfrika」だけではなく、途中で著しく変調した。後半はアフリカーンス語の「Die Stem van Suid-Afrika」(南アフリカの呼び声)を編曲したものだ。1997年にネルソン・マンデラが大統領に就任して出来上がった、2つの歌が合体しているので、変調が際立ってきこえたのかもしれない。

◆寒い国で初めて出会った南ア人

『Cry Freedom』を鑑賞したのより、さらに10年ほど前、わたしは最低気温がマイナス30度を下回る国を放浪していた。その時も安宿に宿泊していた。二段ベッドが3つ並ぶドミトリーといわれる、最安値の宿だ。その国の住民と同じく白人の宿泊者が会話をはじめた。

「あんたこの国の人間かい?」

「いや、俺は南ア人だよ」

「フー、大変なところにすんでるな。黒人(blackとその白人は発語した)が面倒だろう」

「ああ、俺は徴兵を終えたばかりなんだ。軍隊はよかったよ。黒人に気をつかうことがなかったから」

「この国でも黒人はいつも問題をおこしてばかりさ」

なんというあけすけな人種差別をする連中か、とかと呆れていたら。こちらに声が向いてきた。

「あんたはどこからきたんだ?」

「南アだよ」

下手くそな英語で嫌味を返したつもりだった。

「そんな英語が下手な南ア人はいないさ」

すぐにみやぶられ、日本からやってきていることを告げて、

「南アの白人にとっては、有色人種は黒人と同じなんだろう?」

実際そうであると聞いていたので、素朴な質問をなげかけた。

「いや…。ウーン。日本人は特別扱いされると思うよ」

こちらの機嫌を気にしたのか、南ア白人は曖昧にこたえ

「あした、3人でクロスカントリースキーをやらないかい? 俺はやったことがないんだ。日本は雪が降るんだろう?」

と、妙ななりゆきで誘いをうけた。予定も立てていなかったので、3人でクロスカントリースキーを借りて、山道を歩き(滑るというほど初心者に簡単なものではなかった)まわった。

わたしの知る南ア人は、彼だけだ。山道を苦労しながらドタバタするなかでも、彼は饒舌だった。

「おれは規律がすきなんだ。だから軍隊が心地よかった。ワン、トゥー、ワン、トゥー!」

わたしは規律が嫌いで、軍隊に入ることなど想像もできない。

「雪山はきれいだな! 白はいい! 人間も白に決まってる!」

うそのような話だが、黄色人種のわたしの横で、休憩のために腰を下ろして,たばこを吹かしながら大きな声で、もう一人の白人に同意をもとめる。彼は“Apartheid“が廃止され、ネルソン・マンデラが大統領になる日が来るなど、考えもしなかったことだろう。

わたしは、たったひとりの南ア人とは1泊2日をともにしただけだから、そこから決めつけるのは乱暴すぎるかもしれないが、その後、日本で聞くニュースやなどからも、南アフリカについては複雑な感情しか持てなかった。

それだけに、その後ろくろく南アフリカの情報に関心を向けなかった自分の不勉強を、ラグビーの試合によって偶然知るしる機会を得たのは果報だった。まさかあのメロディーが「国歌」になるなんて。信じられなかった。両チームの選手には申し訳ないが、そのことの驚きは、かなり長時間持続した。わたしは「君が代」が大嫌いだ。陰鬱なメロディーで、「解放」などとは無関係な歌詞。対照的に、キリスト教を下地にしているとはいえ、アフリカ全土で歌われた、黒人解放歌が国歌だなんて、素晴らしいじゃないか。


◎[参考動画]Nelson Mandela – Nkosi Sikelel’ iAfrika (God Bless Africa)

南アには貧困、エイズ、引き続き人種による軋轢など、さまざまな問題があることは知っている。犯罪発生率も際立って高いことも。解放歌が国歌になっているぐらいで、感激しているのは、おめでたい奴だとじぶんでも思う。でも正直、久しぶりに感激した。きっと、それほどにわたしは、常日頃、冷めきっているのだろう。

▼田所敏夫(たどころ としお)
兵庫県生まれ、会社員、大学職員を経て現在は著述業。大手メディアの追求しないテーマを追い、アジアをはじめとする国際問題、教育問題などに関心を持つ。※本コラムへのご意見ご感想はメールアドレスtadokoro_toshio@yahoo.co.jpまでお寄せください。

タブーなき言論を!絶賛発売中『紙の爆弾』11月号! 旧統一教会・幸福の科学・霊友会・ニセ科学──問題集団との関係にまみれた「安倍カルト内閣」他
田所敏夫『大暗黒時代の大学──消える大学自治と学問の自由』(鹿砦社LIBRARY 007)