「不当裁判」認定の高い壁、憲法が提訴権を優先も「禁煙ファシズム」を裏付ける物的証拠の数々、横浜副流煙裁判「反訴」 黒薮哲哉

幸福の科学事件。武富士事件。長野ソーラーパネル設置事件。DHC事件。NHK党事件。わたしの調査に間違いがなければ、これら5件の裁判は、「訴権の濫用」による損害賠償が認められた数少ない判例である。(間違いであれば、指摘してほしい)

「訴権の濫用」とは、不当裁判のことである。スラップという言葉で表現されることも多いが、スラップの厳密な意味は、「公的参加に対する戦略的な訴訟」(Strategic Lawsuit Against Public Participation)で、俗にいう不当訴訟とは若干ニュアンスが異なる場合もある。

それはともかくとして、日本では不当裁判を裁判所に認定させることはかなり難しい。日本国憲法が、裁判を受ける権利を優先しているからだ。第32条は、「何人も、裁判所において裁判を受ける権利を奪はれない」と提訴権を保証している。

 
藤井家の近くにある自然発生的にできた「喫煙場」

◆前訴までの経緯

今、この司法の高い壁に挑戦している人がいる。横浜副流煙事件の加害者として法廷に立たされた藤井将登さんである。前訴で原告の訴えが棄却された後、前訴は不当裁判だったとして、前訴の原告らに損害賠償を求める裁判を起こしたのである。今年3月のことだ。請求額は約1000万円。前訴を基にした「反訴」にほかならない。

妻の敦子さんも原告として将登さんに加わった。非喫煙者であるにもかかわらず、娘と共にヘビースモーカー呼ばわりされたからだ。

事件の発端は、煙草の副流煙をめぐるトラブルである。将登さんが自宅で吸っていた煙草の副流煙が原因で、「受動喫煙症」になったとして、同じマンションの斜め上に住むA家の3人が2017年11月に提訴した。請求額は約4500万円だった。しかし、訴えは棄却された。原告の全面敗訴だった。

前訴の中で、3人の診断書を交付した日本禁煙学会の作田学医師の医療行為が問題になった。A娘を診察せずに診断書を交付していたのだ。実際、前訴の判決は、作田医師による医師法20条違反を認定した。後に、作田医師は刑事告発され、横浜地検へ書類送検された。

こうした事情もあって、藤井夫妻は「反訴」の被告に作田医師も加えた。

◆不当裁判の法理

過去の判例によると、裁判所に「訴権の濫用」を認定させるためには、まず前訴の提訴に事実的根拠がなかったことを立証しなければならない。この点について、藤井さん夫妻のケースでは、判決がそれを認定している。

しかし、それだけで訴権の濫用が認められるかけではない。前訴の提起に事実的根拠がないことをA家の3人が知り得た事情を、藤井さんの側が立証しなければならない。相手の内面を客観的な事実で解明する必要がある。

このあたりの法理について、最高裁は次のような基準を示している。

「訴えの提起が相手方に対する違法な行為といえるのは、当該訴訟において提訴者の主張した権利又は法律関係(以下「権利等」という。)が事実的、法律的根拠を欠くものであるうえ、提訴者が、そのことを知りながら又は通常人であれば容易にそのことを知りえたといえるのにあえて訴えを提起したなど、訴えの提起が裁判制度の趣旨目的に照らして著しく相当性を欠くと認められるときに限られるものと解するのが相当である。」(判例=昭和63年[1988年]1月26日)
 
これが訴権の濫用を認定させる裁判の法理なのである。過去に認定された例が極端に少ないゆえんにほかならない。

◆A夫の陳述書や日誌が裏付ける事実

しかし、藤井夫妻のケースでは、元原告が訴訟提起自体に無理があること認識していた可能性を示す有力な物的証拠がある。たとえばA夫に喫煙歴があった事実を裏付ける書面の存在である。それは前訴でA夫が提出した陳述書である。

「私は、タバコを吸っていた頃は、妻子から、室内での喫煙は、一切、厳禁されていましたので、ベランダで喫煙する時もありましたが、殆どは、近くの公園のベンチ、散歩途中、コンビニの喫煙所などで喫煙し、可能か限り、人に配慮して吸っておりました」

前訴原告が煙草を吸っていたことを自ら認めた陳述書

副流煙の発生源として将登さんの責任を問うていながら、実はA夫自身がスモーカーだったのだ。当然、家族もそれを知っていたと考えるのが理にかなう。実際、引用した陳述書の中で、A夫はA妻から喫煙を注意されたと告白している。

A夫の禁煙歴が発覚したのは偶然だった。この裁判を取材していたわたしが、A家の弁護士を取材したところ、A夫の喫煙歴を認めたのだ。その後、A夫みずからが陳述書(上記)でそれを告白したのである。喫煙歴を隠していたことが、裁判に不利に作用することを見越して取った措置だと思われる。作田医師に対しても、A夫は自らの喫煙歴を告げていなかった。

また、前訴の本人尋問を通じて、A夫の喫煙歴が約25年に及ぶことも分かった。提訴の直前まで吸っていたという目撃証言もある。

 
前訴までの経緯は、『禁煙ファシズム』(黒薮哲哉著、鹿砦社)に詳しい

さらにA夫が前訴で裁判所に提出した日誌(約3年分)も、前訴に事実的根拠がないことを家族3人が認識していた物的な証拠になりそうだ。この日誌には、将登さんが自宅に不在のときに、煙草の臭いがするという記述が少なくとも38箇所ある。その一部を引用してみよう。

「午後4時将登氏、車で外出する。しかし、いつもの臭いの煙草臭入ってくる。風、B、藤井から千葉方向に流れている。(リボンで確認)」(平成30年7月20日)

「8時30分、将登車なし、将登不在のようだ。しかし花のような臭いのタバコ相変わらず入ってくる、独特の臭い、国産のとげとげしたタバコではない」(平成30年8月8日)

「朝9時位から将登の車なし、しかし、甘酸っぱいお香の様な臭いがする。将登不在でも藤井家でタバコを喫っている人がいる。風は西から東へ相変わらず吹いている。」(令和元年11月23日)

つまり将登さんとは別の人物が煙草を吸っていることを認識していながら、将登さんに対して損害賠償を求めたのである。

ちなみに敦子さんと娘さんは非喫煙者である。前訴の被告ではない。4500万円の請求は、将登さんに対してのみ行われたのである。

他にも将登さんを被告とした提訴に根拠がないことを立証する証拠は複数ある。

◆司法制度改革の失敗

小泉元首相を長とする司法制度改革が始まった後、些細なことで訴訟を提起する風潮が広がった。それはますますエスカレートしている。IWJの岩上安身氏や水道橋博士もこうした時代の波に巻き込まれた。

被告にされた側は、提訴により有形無形のストレスにさらされる。精神的にも経済的にも損害を被る。

こんな時代、軽々しい提訴を防止する意味でも、藤井夫妻の「反訴」は重要なプロセスなのである。

▼黒薮哲哉(くろやぶ・てつや)
ジャーナリスト。著書に、『「押し紙」という新聞のタブー』(宝島新書)、『ルポ 最後の公害、電磁波に苦しむ人々 携帯基地局の放射線』(花伝社)、『名医の追放-滋賀医科大病院事件の記録』(緑風出版)、他。
◎メディア黒書:http://www.kokusyo.jp/
◎twitter https://twitter.com/kuroyabu

黒薮哲哉『禁煙ファシズム-横浜副流煙事件の記録』

ピョンヤンから感じる時代の風〈02〉ウクライナ戦争 ── 真に日本を守るために 小西隆裕

今日、「ウクライナ」を離れて世界はない。日本の参議院選挙も、この戦争にどう対するかが大きく問われていると思う。

◆参院選最大の問題点

今回の参院選で自民党は、公約のキーワードとして、「日本を守る」「未来を創る」を掲げながら、その政策「七つの柱」のトップに外交安保政策を挙げ、「防衛費、GDP2%以上。敵ミサイル発射基地を破壊する『反撃能力』の保有」などを打ち出した。

これがウクライナ戦争という現実を踏まえたものであるのは言うまでもない。

この執権党、自民党の公約に正面からぶつかり、対決して出てきた野党は、残念ながら一つもなかった。

唯一、れいわ新選組のみが「『日本を守る』とは『あなたを守る』ことから始まる」をスローガンに、「日本を守る」ことの意味を問うたが、他の政党は、「日本を守る」を争点にすること自体を避けた。国民民主党に至っては、「給料を上げる」とともに「国を守る」をスローガンに掲げ、自民党案への賛同、同調を表明した。

ウクライナ戦争の真っ只中、日本のこの戦争への態度が問われている今、「日本を守る」を第一スローガン、第一政策に押し立ててきた与党、自民党に対し、真っ向から対決して出る野党が一つもなかったこと、ここに大政翼賛化した日本政治最大の問題点が現れているのではないだろうか。

◆ウクライナ戦争の本質、それが問題だ

ウクライナ戦争に直面して、少なからぬ人々が考えること、それは、西のウクライナに対する東の日本の運命ではないだろうか。そこには、西のロシアとの対比で東の中国の存在がある。

去る2月24日、ロシアによるウクライナに対する軍事行動で始まったこの衝撃的な戦争をロシアのウクライナに対する「侵略戦争」だと見るのは誰も否定しない一般常識になっている。

だが、ここで考慮すべきことがあるように思う。米ソ冷戦終結時米ソ首脳の間で交わされたNATOの東方不拡大の約束だ。それがこの30年間、旧東欧社会主義諸国の相次ぐNATO加盟によって破られ続け、今や、旧ソ連邦の一員、ウクライナのNATO加盟までが日程に上らされている事実だ。

さらにロシアにとって深刻なのは、それがウクライナを最前線にロシアを包囲するかたちで隠然と促進される「米ロ新冷戦」を意味していることだ。

実際、2019年に登場したゼレンスキー政権の下、米国製武器の大量導入と米軍によるウクライナ軍の訓練、等々、軍事、政治、経済全般に渡るウクライナのアメリカ化、ミンスク合意を破棄してのドンバス地方、ロシア系住民への迫害と弾圧など、ウクライナの対ロシア最前線化は急速に進められていた。

周知のように「米中新冷戦」は、トランプ政権の下、2019年、対中「貿易戦争」として公然と開始された。それが、今、「民主主義VS専制主義」の闘いとして、バイデン政権の下、デジタル、グリーン、宇宙など、あらゆる領域に渡り、対中包囲と封鎖、排除などありとあらゆる手を駆使して繰り広げられている。

この衰退、崩壊する米覇権の建て直し戦略が、中国と同じく現状を力で変更する修正主義国に指定されたロシアに対しても、二正面作戦を避けながら、こちらは非公然に隠然と仕掛けられてきていたということだ。

こうした観点から見た時、ウクライナ戦争は、ロシアによるウクライナ「侵略戦争」と言うより、ロシアによって先制的に仕掛けられた「米ロ新冷戦」の「熱戦」化、言い換えれば、米欧が仕掛けられた戦争をウクライナを前面に押し立てて行う代理戦争だと言えるのではないだろうか。事実、この戦争は、米欧がウクライナの背後から武器を供与し、情報宣伝戦を繰り広げるだけでなく、ゼレンスキーの周りを米英の顧問団で固めて行う、ロシア対米欧の戦争の様相を呈している。

ウクライナ戦争の本質と言った時、もう一つ、ロシアに対する米欧の経済制裁とそれをめぐる戦いまで含め、軍事と経済の「複合戦争」という見方がなされている。

実際、エネルギー・食糧大国、ロシアへの米欧による経済制裁は、世界を覆う全般的な物価高の一大要因になっているだけではない。これまでの米国、ドルを中心に動いてきた国際決済秩序など世界経済秩序全体を、そこからロシアを排除することにより、大きく揺り動かしてきている。

そこで今、姿を現してきているのは、古い米欧覇権秩序と勢力に向き合って一歩も譲らない中ロと結びついた新しい脱覇権秩序と勢力の世界地図だ。それは、アジアから中南米、アフリカへと急速に世界の色を塗り替えてきている。

◆日本は、「東のウクライナ」になるのか!?

 
小西隆裕さん

参院選、自民党の「日本を守る」が米欧覇権勢力の側にあり、それと結びついているのは明白だ。それはすなわち、ゼレンスキー・ウクライナの側だと言うことだ。

これは、はたして正しい方針、正しい政策だと言えるだろうか。

自民党がこの方針、政策を選択した時、その基準は何だったのだろうか。

「米中新冷戦」を「民主主義VS専制主義」の闘いと見るバイデン米大統領の戦略から見た時、それは明らかにイデオロギー以外ではあり得ない。バイデンに従い、イデオロギーを基準に「民主主義」、米国式民主主義を選択したこと、そこに自民党の「日本を守る」政策の本質がある。

それが正しいか否かを判断する主体は、どこまでも日本国民だ。

そこで参考になるのは、先のフランス下院選だ。この選挙でフランス国民は、イデオロギーよりも国益を選んだ。「米欧・ウクライナ、民主主義」よりも「物価高」を掲げたルペン・国民連合の大躍進と「米欧・ウクライナ、民主主義」に従ったマクロン・与党の過半数割れは、そのことを物語っている。

では、日本ではどうか。残念ながら、自民党の「日本を守る」の本質をつき、真に日本を守るための政策を掲げる政党はない。

そうした中、当面問われているのは、残り何日もない参院選を通して、イデオロギーではなく国益を求める自らの要求に基づき、それを実現する道を自分自身探っていくことではないだろうか。

そこで何よりもまず、われわれ日本国民が自らに問うべきは、「日本は『東のウクライナ』になるのか!?」ではないかと思う。

ウクライナの人々の悲しみと廃墟と化したウクライナの惨状は、何よりも雄弁にその答えを物語ってくれているのではないか。

日本が米欧覇権秩序の下、その利用物になってきた歴史に終止符を打つ時がそう遠くない将来に迫っているのではないだろうか。

▼小西隆裕(こにし・たかひろ)さん
1944年7月28日生。東京大学(医)入学。東京大学医学部共闘会議議長。共産同赤軍派。1970年、ハイジャックで朝鮮へ

タブーなきラディカルスキャンダルマガジン『紙の爆弾』2022年7月号
『一九七〇年 端境期の時代』

格闘群雄伝〈26〉チャイナロン・ゲーオサムリット ── 日本で戦い、指導者として存在感を示したムエタイボクサーの人生 堀田春樹

◆運命の導き

ムエタイトップクラスがスタジアム定期出場の合間を縫って来る1試合のみの数日滞在と、ビザの期限まで滞在して数試合出場するパターンは過去に述べたとおりで、ムエタイトレーナーとしての役割を担っている場合も多かったでしょう。それぞれに出会いがあり、日本に行く決断があり、過去のテーマで述べた国際結婚にも至るなど、人生の運命も変わるものでした。

チャイナロン・ゲーオサムリット(本名チャッチャイ・スカントーン。1973年5月21日、タイ国スラタニー県出身)は初来日はまだ19歳だったが、日本のキックボクサーが乗り越えるべき壁となって立ちはだかる存在でした。

唯一のタイトル歴は1995年1月29日、チェンマイでのIMF世界ウェルター級王座決定戦で欧州ウェルター級チャンピオンにKO勝利で王座戴冠しています。

チャイナロンが日本に来る運命は、1991年(平成3年)5月にOGUNI(小国)ジムの斎藤京二氏が現役引退し、会長に就任した当初から、自身の現役時代に足りなかった部分を補い、選手育成に繋げようと、ムエタイトレーナーの招聘を計画していたことから始まりました。

◆「チャイナロン、日本に行きたいか?」

現在は多くのジムで、比較的取得し易くなったと思われる技能指導のビザで来日していますが、当時、タイ人トレーナーはまだ限られたジムしか呼べなかった時代。その頃、タイに行くこと多かった私(堀田)は、その相談を受けたことが諸々の出会いから繋がっていく因果応報でした。

1992年夏に渡タイした際、親密な関係にあったゲーオサムリットジムのアナン・チャンティップ会長から紹介してくれたのがチャイナロンでした。

「身体の発達が早くて、もう軽量級では戦えないから、トレーナーにさせたんだ!」と言い、更に「試合は出来るし、トレーナーも出来るし、肉体労働も出来るし、ホームシックにも掛からないよ!」と太鼓判。

ジムワークのチャイナロンは蹴りが重そうなテクニシャンで、ミット持ち指導も難無くこなす。当時、フェアテックスジムでトレーニングしていたOGUNIジムのソムチャーイ高津にも来てもらってチャイナロンへのミット蹴りを試して貰う。トレーナーとしては若過ぎるかとは思ったが問題は無さそうだ。

ミット蹴りを受けるチャイナロン、査定は合格(1992年7月)

「チャイナロン、日本に行きたいか?」と聞くと、考え込むことも無く「行きたい!」と応えた。

「日本の冬は寒いし友達も居ないしタイ語は通じない。指導以外に肉体労働もあるかもしれないし楽じゃないよ!」とは伝えたが、そんな苦難まで想像できるものではなかっただろう。

出稼ぎ目的で、あの手この手で来日しようとするアジアの人々は多かった時代。有名ムエタイ選手でもビザ審査は難しい立場にあったが、招聘する日本側、送り出すタイ側も実績に問題無くビザ申請は進行。チャイナロンは同年10月10日に初来日した。

斎藤会長の厳しい視線の中、来日当初のジム風景(1992年11月)

◆日本人選手の壁となった8年間

成田空港に着くとすぐ用意されていた高島平の宿舎に連れて向かった。一般の団地である。19歳の若者が、拉致されて来たかような環境に耐えられるだろうか不安はあったが、夜はトレーナー業での選手との触れ合いは和やかで、慣れるのは早かった。

予定された最初の試合は10月24日、フェザー級ランカーの延藤直樹(東京北星)戦。タイではフェザー級(-57.1kg)だったが、契約ウェイトは57.6kg。日本人の前に立ちはだかる強さを想定していたが、2-0判定負け。1ポンド増しでも環境変化による減量は思うようにいかなかったようだ。

ジムワークではヒジ打ち、ヒザ蹴り、首相撲からの崩しの指導が上手く、ミット蹴り指導は抜群だった。

「指示通りにやるミット蹴りはでなく、どこからパンチを打っても蹴っても選手側がいい感触になるように受けてくれて、こんなフリースタイルは才能ある人じゃないと出来ないと思います!」という当時の所属選手の感想だった。

スパーリングはテクニック全開で指導。「こんな強えーのに何で負けたんだ!?」そんなベテラン選手の声も上がるほど誰も寄せ付けなかった。

翌1993年3月27日には内田康弘(SVG)と対戦。今度は59.0kg契約。体調は万全で初戦とは違った素早い動きと重い蹴りで内田を翻弄しノックアウトで仕留め評価も上げた。

[写真左]初戦は延藤直樹(延藤なおき)に僅差判定負け(1992年10月24日)/[写真右]評価を上げたノックアウト勝利、内田康弘戦(1993年3月27日)

更なる試合は再来日のタイミングで1994年6月17日、全日本ライト級チャンピオン杉田健一(正心館)に判定勝利。その翌年の来日ではウェルター級ランカーの松浦信次(東京北星)に判定勝利。身体の発達が早かった為の階級アップが続いた。その後も勝山恭次(SVG)をヒジ打ちTKOで下し、松浦信次を判定で返り討ち、佐藤堅一(士道館)に判定勝ち。いずれもテクニックで翻弄した展開。その後、青葉繁(仙台青葉)にはヒジ打ちで切られて敗れたが、ノックダウンを奪う攻勢を続けていた。

テクニックで圧倒、杉田健一に大差判定勝利(1994年6月17日)
[写真左]チェンマイで初のベルト戴冠(1995年1月29日)/[写真右]松浦信次とは2戦とも判定勝利(1997年6月27日)

1998年6月にはOGUNIジム後援関係者の縁で出会った女性と結婚。奥さんの父親が経営する配管工事の会社で働き、親方と言われるまでの昇格もあった。後の現役引退後は生活形態が完全に変わってトレーナー業からも離れたが、以前からダウンタウンの松本人志さんから度々呼ばれ、「ガキの使いやあらへんで」などでお笑いタレントを蹴っ飛ばすムエタイ技を見せる番組にも多く出演し人気を得た。

生活環境が変わり、時代の変わり目でもあった1999年4月には、日本キック連盟エース格の小野瀬邦英(渡辺)と対戦。第1ラウンド、チャイナロンの上手さが目立つ中、小野瀬が接近した一瞬のヒジ打ちで額をカットされTKO負け。

[写真左]佐藤堅一が冷静さを失うほど、チャイナロンがテクニックで翻弄(1997年6月27日)/[写真右]小野瀬邦英の圧力は、それまでの日本人とは違っていた(1999年4月10日)

プライド傷つけられたチャイナロンは同年12月、再戦で初回から猛攻、小野瀬の顔をボコボコに鼻も折るも、第2ラウンドにボディーへのヒザ蹴りを受け逆転KO負け。小野瀬の飛躍への踏み台とはなったが、日本に長期滞在、結婚して生活のリズムも変われば、ムエタイの強さを発揮した時期より勘の鈍りは免れなかった。

翌年、中村篤史(北流会君津)をノックアウトで下し、有終の美を飾った。日本での通算戦績は11戦7勝(3KO)4敗。日本選手がこの壁を超えなければ本場タイで通用しないといった一つのステータスとなったのがチャイナロンや、現在も度々試合出場する常連在日タイ選手である。

ウェイトトレーニングで元気いっぱいの現在(2022年4月10日)

◆日本男児

すっかり日本に溶け込んだ2011年の夏、チャイナロンが脳内出血で倒れた。ある日の朝食後、仕事に行こうと立ち上がったところ、急に身体がフラフラし、バランスがとれず倒れてから記憶が無いという。家族が救急車を呼んで緊急搬送され手術で一命を取り止めたが、10日間ほど昏睡状態が続き、幸いにも意識が戻ったが、それまでの記憶が乏しかった。

医者は「後遺症は残るが、まだ若いから普通の生活が送れるほどへの回復の可能性は高い」と言い、リハビリテーションを経て退院後、仕事復帰まで回復。現在も右腕と右足に麻痺は残るが杖無しで歩き、初来日当初や延藤直樹戦もしっかり覚えていた。

当初は日本語は全く話せなかったが、「カラオケで歌詞が読めず歌えないことから日本語を覚えようと思ったこと、結婚して日本で暮らすことになったことがより必要不可欠になった!」という。来日当初は私やソムチャーイ高津らの初級タイ語で会話していたが、現在は完全な日本語のみの会話である。

3人のお子さんは長女、次女、末っ子の長男が現在高校三年生で、「大学に行きたい」と言えば行かせるつもりと言う。急病前までは奥さんには働かせず、俺が働くという振る舞いと、実家があるタイのスラタニー県には両親への家も建てたという昔ながらの日本男児たる大黒柱である。

日本人女性との結婚も多い在日ムエタイ選手。国際結婚は苦労多いが、長く連れ添う奥さん側に忍耐ある人が多い。こんな経緯で日本永住となったムエタイ戦士の一人を紹介しましたが、他にも日本で活躍する元ムエタイボクサーにもそれぞれのドラマが存在するでしょう。

◎堀田春樹の格闘群雄伝 http://www.rokusaisha.com/wp/?cat=88

▼堀田春樹(ほった・はるき)[撮影・文]
フリーランスとしてキックボクシングの取材歴32年。「ナイタイ」「夕刊フジ」「実話ナックルズ」などにキックのレポートを展開。ムエタイにのめり込むあまりタイ仏門に出家。座右の銘は「頑張るけど無理しない」

タブーなきラディカルスキャンダルマガジン『紙の爆弾』2022年7月号

規制緩和はやはり失敗だった! 広島経済の落ち込み象徴 緑井天満屋が25年の歴史に幕 さとうしゅういち

筆者の政治活動の事務所がある広島市安佐南区で最も大きな駅はJR可部線の緑井駅です。その緑井駅から歩いて2~3分、そして、山陽自動車道広島ICにも近く自動車交通の要衝でもある場所に天満屋緑井店がオープンしたのは1997年秋のことでした。しかし、2022年6月30日、緑井天満屋は25年の歴史に幕を下ろしました。

◆広島市内で天満屋の灯が消える

天満屋は、岡山市に本社がある中国地方に展開する百貨店です。広島県内にも展開しており、福山市生まれの筆者にとっては、天満屋といえば、福山駅前店です。同社は広島市内でも最盛期には広島市中区天満屋八丁堀ビル(1949年建設、1954年天満屋に移管)、広島市安佐南区の緑井店、そして西区新井口駅前のアルパーク店(1990年開店)と、3か所に店舗を構えておられました。

しかし、2012年、まず、都心部の八丁堀ビルの百貨店を閉鎖。ヤマダ電機などが進出しました。このころは、中区など都心部から安佐南区はじめ、郊外型店舗との客の取り合いに都心側が負けていた時代の終盤でもありました。大型店舗が広島では当時は過当競争でした。その中で「郊外居住者がクルマで行ける」郊外型の店舗がウケていたのです。しかし、その郊外型の店舗の間でも競争は激しかったのです。このころの同社は「郊外型のアルパーク店と緑井店に集中する」という戦略であると報道されていましたし、「まあそうなのだろう。」と我々広島市民も納得していた人が多かったようにおもえます。

しかし、異変が起きます。同社は2020年3月に、郊外型の天満屋アルパーク店を撤退させました。残るは緑井店だけになりました。そして、その緑井店もついに閉鎖となってしまったのです。

広島市では現在、広島市中区紙屋町のそごう(八丁堀からは500mくらい)の新館(1994年開店)の2023年閉鎖という激震が走っています。

◆「規制緩和時代」の新規開業店舗が苦戦する2020年代

この2年~3年は1990年代に新たにできたものが閉鎖されているという流れになっていると感じます。都心部のそごう新館しかり、天満屋アルパーク店しかり、天満屋緑井店しかりです。

1991年、もともとはアメリカの圧力(トイザらス事件が有名)により大規模小売店舗法(大店法)が改定され、大幅な規制緩和が行われます。2000年に大店法は完全に廃止され、大規模小売店舗立地法、中心市街地活性化法、都市計画法改定が施行されます。

以下に流れを略して記します。

1990年 トイザらス事件、アメリカ政府が日本政府に圧力
    天満屋アルパーク店開店
1991年 大規模小売店舗法大幅規制緩和
1994年 そごう新館開店
1997年 天満屋緑井店開店
1999年 福屋広島駅前店開店
2000年 大店法廃止
2004年 イオンモール広島府中開業
2009年 イオンモール広島祇園開業
2012年 天満屋八丁堀店が閉店しヤマダ電機に
2020年 天満屋アルパーク店閉店
2022年 天満屋緑井店閉店
2023年 そごう新館閉館(予定)

規制緩和で、広島でも雨後の筍のように、郊外にも都心にも大型店舗が増えました。それでも、1990年代はちょうど、日本円の実質実効為替レートが一番高かった時代です。実質実効為替レートとは、その国の経済の強さをあらわすもので、1994~95年が一番のピークです。日本人が、円高を利用してとくに海外の輸入品などをガンガン買った時代です。その舞台となったのが広島でも大型店舗でした。しかし、今や日本の実質実効為替レートは、1970年代前半なみに落ち込んでいます。そういう日本の中でも、広島県は人口の社会減が全国最悪です。日本が沈む中でも広島がさらに沈んでいるという構造があります。そういう中では、デパートの経営が真っ先に悪化するのは当然といえば当然です。その中でも新規開業の店舗はそもそも、需要の伸びを見込んで開いたものです。しかし、その伸びが消し飛んでしまった以上、撤退も新規店舗からというのはわかります。

さらに、コロナが追い打ちをかけましたが、おそらくコロナがなくても、天満屋緑井店、アルパーク店などの維持は難しかったように、筆者も感じていました。

◆駅前でさえ苦戦、ましてや郊外においておや

右がフジグラン、左がコジマ電機(緑井天満屋側から撮影)

広島の老舗の地元百貨店としては福屋があります。実は1999年に整備された福屋駅前店も駅前という好立地にかかわらず、経営が芳しくありません。そこで、広島市の松井市長は中央図書館と子ども図書館を福屋駅前店が入っているビルに移転させようとしています。この案については議会でも反発がおき、2002年度予算案に対して日本共産党や一部の保守系議員からも修正案が出されました。結局、市長提案の2022年度予算案が自民主流、公明、立憲系の賛成多数でぎりぎりで可決される際に「移転ありきではない」という付帯決議が可決されるなど混乱が続いています。

駅前というのは旧市民球場も近くにあり、商売には有利なはずです。それでも苦戦するのは広島市民の絶対的な購買力が落ちているということに他なりません。ましてや郊外においておやです。郊外では安佐南区にイオンモール広島祇園、府中町にイオンモール広島府中がそれぞれ三菱重工業、キリンビールの跡地にできました。緑井天満屋ならそちらとの客の取り合いもあるでしょう。もちろん、近接するフジグランやコジマ電機との競合もあるでしょうが、むしろこちらは「コジマでパソコンを買って、天満屋で服を買い、フジグランで飯を食う」という補完性もあるので悪影響とまでは断定できません。

◆郊外から都心へという流れもあるけれど……

もちろん、2012年に天満屋八丁堀が閉鎖されたころから流れは変わっています。都心回帰です。

2014年に安佐南区を中心に被害が大きかった広島土砂災害2014ころからとくにそれは加速しています。増え続けていた安佐南区の人口が災害を契機に減少に転じます。また、中区など都心部に回帰する流れもあります。年を取れば車の運転も不安になってきます。そうした中で買い物や通院に便利な都心のマンションが年配者にも人気です。

◆規制緩和はやはり失敗だった!

それにしても、規制緩和はやはり失敗だったと言わざるを得ない。ただ、1990年代の状況では日本共産党と新社会党以外はこうした規制緩和には賛成していた状況もあります。正直、如何ともしがたかった。新自由主義が大政翼賛会のように猛威を振るっていた。「経団連党」である自民党支持者は言うに及ばず、社会党→民主党→立憲民主党の支持基盤の例えば公務員労組の組合員でも「別に商店街なんかつぶしてアメリカみたいな大型店だけでいいよ。」みたいな人も結構おられました。ただ、その結果が、過当競争による大型店でもおきた共倒れであり、地域の疲弊だったのではないでしょうか?

[写真左]売り尽くしセールの告知、[写真中央]天満屋緑井店の歴史を振り返るパネル、[写真右]閉店の挨拶

◆広島は賢い縮小を! 相次ぐ大型開発計画大丈夫か?

正直、広島は少し郊外に市街地を拡大しすぎました。場合によっては無理な場所を開発した。その結果、近年、土砂災害も多発しています。広島大学なども東広島市から広島市中区に一部の学部が戻るなどの変化も起きています。身の丈にあった街の大きさにしていく。

しかし、現実には、広島市内各地で大きなビルを「再開発」と称して建設する計画が多数持ち上がっています。知事の湯崎さんに市長の松井さん。本当に大丈夫なのでしょうか?

なお、今までの国が進めてきたコンパクトシティは、一方で、新規大型店舗開発は野放し、というケースもあります。やはり、国は思い切った「原則、新規土地開発は禁止」するくらいの施策が必要ではないでしょうか?なぜ、国かといえば、「都市間競争」で地方同士、過剰な開発を進めているからです。さりとて、全体の人口は減っているから共倒れになる。それならば、むしろ国が「原則、新規開発は禁止」するくらいの施策を打ち出すべきではないか?そういう議論を政党や政治家もしていくべきだと思います。

▼さとうしゅういち(佐藤周一)
元県庁マン/介護福祉士/参院選再選挙立候補者。1975年、広島県福山市生まれ、東京育ち。東京大学経済学部卒業後、2000年広島県入庁。介護や福祉、男女共同参画などの行政を担当。2011年、あの河井案里さんと県議選で対決するために退職。現在は広島市内で介護福祉士として勤務。2021年、案里さんの当選無効に伴う再選挙に立候補、6人中3位(20848票)。広島市男女共同参画審議会委員(2011-13)、広島介護福祉労働組合役員(現職)、片目失明者友の会参与。
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◎広島瀬戸内新聞ニュース(社主:さとうしゅういち)https://hiroseto.exblog.jp/

タブーなきラディカルスキャンダルマガジン『紙の爆弾』2022年7月号

《7月のことば》壁を破れ 鹿砦社代表 松岡利康

《7月のことば》壁を破れ(鹿砦社カレンダー2022より。龍一郎揮毫)

今の私たちにはピッタリの言葉です。私たちは、おこがましい言い方をすれば、これまで幾度となく「壁」を破り、その都度その都度危機を乗り越えてきました。

17年前の「名誉毀損」に名を借りた出版弾圧でもそうでした。さすがにこの時ばかりは再起不能と誰もが思ったといいます。知人の一人が、裁判に関わる、とある弁護士に尋ねたら「残念ながら今回はダメでしょう」と冷たく答えられたそうです。実際私(たち)も再起できるできないを考えるいとまさえなく、ただ我武者羅に「きょうを精一杯生きよう」「前に進もう」という気持ちだけで頑張っていただけです。それしかできませんでしたので。

7月12日は、いわば「弾圧記念日」です。今でも17年前のこの日のことは忘れようにも忘れられません。この時の悔しさがバネとなって前に進み「壁」を破ることができ奇跡の再起を果たせたと今でも思っています。私らの一部を除いて、「もうアカンやろ」と誰もが思っていたところ、「壁を越えてゆく」ことができたのです。

そうして10数年が経ち、誰もが予期しなかった新型コロナ襲来──再び立ちはだかった「壁」。

しかし今回も私たちはなんとしてもこの「壁」を破り突き進んで行かねばなりません。

コロナが来なければ、急激な落ち込みもなかったでしょう。おそらく当初の予定通り私は後進に道を譲り経営の中心から外れていたでしょう。一気に奈落の底に突き落とされたことで、この「壁」を突破するため老骨に鞭を打ち打ち頑張らなければならなくなりました。私たちは必ずこの「壁」を突破する!

6月が終わり、本年も半分が過ぎたことになります。今夏も猛暑の気配です。この暑さに負けずお過ごしください。私たちが奮闘する様を見つめ側面から援護ください!

(松岡利康)

タブーなきラディカルスキャンダルマガジン『紙の爆弾』2022年7月号
〈原発なき社会〉を求めて集う 不屈の〈脱原発〉季刊誌 『季節』2022年夏号(NO NUKES voice改題 通巻32号)

政治危機なき投票行動 注目は「ゆ党」か ── 参院選挙の争点〈2〉 横山茂彦

昨年の今頃は、東京五輪の開催の可否をめぐる国民的な議論を背景に、都議選を前後するころだった。自民圧勝・都民ファースト大敗という、大方の予想をくつがえす結果となったものだ。

すなわち、選挙戦最終盤での小池百合子都知事の予想外の「退院」、選挙応援という行動で都民ファーストの善戦となったのだった。この予測が出来たのは、電子サイトならではの速報性もあって、本欄のわたしだけだった。自慢したいのではない。

都議選における自民敗退(微増)の延長に、菅政権の政治的危機は容易に予想できるものだった。役に立たないマスクでしかコロナに対応できなかった安倍の退陣、菅の学術会議への政治介入、桜を見る会問題、財務相職員を殺したモリカケ問題、国民を犠牲にしたオリンピック強硬開催など、政治危機の要素はおびただしいものがあった。

にもかかわらず、そうはならなかった。自民党による秋の政局は、わたしの「政権交代」「政権延命のための大連立」などという予測を押しつぶす。自民党が国民的な総裁選挙(知名度抜群の男女4人を出馬)によって、イッキに流れを変えたのだった。

政治は一寸先が闇、何が起こるか分からない。至言であろう。

小池都知事「入院」の真相と7月4日都議会選挙・混沌の行方(2021年6月28日)
《速報》2021年都議会選挙 都民ファーストの善戦、自民党の復活は不十分に(2021年7月5日)
この秋、政権交代は起きるのか? ── 『紙の爆弾』最新号を参考に、都議選後の政局を俯瞰する(2021年7月8日)
東京五輪強行開催で引き起こされる事態 ── 国民の生命危機への責任が菅政権を襲う(2021年7月14日)
無法と強権の末期政権 ── 菅義偉という政治家は、もはや憐れむべき惨状なのではないか(2021年7月16日)
五輪強行開催後に始まる「ポスト菅」政局 ── 二階俊博が仕掛ける大連立政権(2021年7月21日)

◆ほぼ無風の選挙情勢

とはいえ、今回の参院選挙に「風」は起きないであろう。政治危機の要素のない、無風選挙である。選挙の争点はすなわち、国民の関心がある政治テーマということになるが、岸田政権の消費税維持(前回あつかったインボイス)や物価高対策に関心はあっても、投票行動にいたる具体性にとぼしい。

第三次世界大戦の危機を招来しかねないウクライナ戦争も、自分にしか興味のない日本の有権者には対岸の火であろう。かつて朝鮮戦争で焼け太り、ベトナム戦争のさなかも高度経済成長を謳歌した日本人にとって、世界の動乱はテレビ画面を飾るものでしかない。おそらく防衛費の倍増をもとめる自民党内の議論も、それに反対する野党共闘の議論も、投票行動には顕われないであろう。

無党派層の比例代表投票先(2022年6月24日付西日本新聞)

無風選挙であれば、町会(自治会=子ども会・神輿会や神社崇敬会など)に根をはり、企業のサラリーマンまるごとが党員・党友である自民党の集票構造がものを言う。

政権およびそれに交代に近い投票行動が起きるのは、自民党が分裂する政界再編(1993年の日本新党)、消えた年金問題など国民生活をゆるがす事態で初めて起きる(2009年の民主党政権にいたる流れ)。つまり自民党支持層が自民党に投票しないこと、それにプラスして無党派層の投票行動が重なったときに、風が吹くのである。

◆与党の過半数維持は動かない

世論調査も紹介しておこう。

共同通信が実施した電話情勢調査(6月22・23日)では、3万8千人以上から回答を得られたという。取材も加味して公示直後の序盤情勢を探ったところ、自民・公明両党は改選124議席の過半数(63議席)を上回る勢いだという。立憲民主党は改選1人区での共闘が限定的となり伸び悩む。日本維新の会は選挙区・比例代表ともに議席増が見込まれ、立民と野党第一党の座を争う構図だ。

肝心なのは有権者の半数近くを占める無党派層だが、ここでは立民がトップに立っているものの、圧倒できる割合ではない。では一人区の野党共闘はどうなのだろうか。(2022年6月24日付西日本新聞)

◆はかばかしくない野党共闘

参院選1人区での野党の構図(2022年6月22日付東京新聞)

参院選で勝敗の鍵を握る32の改選1人区は、野党の一本化が進まなかった。じつに3分の2で競合し、事実上の与野党一騎打ちは11選挙区にとどまった。(2022年6月22日付東京新聞)

野党は直近2回の参院選で、ほぼ全ての1人区で候補を一本化してきた。2016年は11勝21敗、19年は10勝22敗と善戦していたが、今回は野党候補の乱立で政権批判票が分散して共倒れの懸念が高い。立民や社民といい共産といい、れいわ新撰組をのぞいては、もう賞味期限が切れた政党でしかない。

◆「ゆ党」の伸長

何らの波乱も起きそうにない今回の参院選で、前回の総選挙(衆院選挙)から始まった、いわゆる「ゆ党」の躍進である。この「ゆ党」とは、与党と野党の間にあって、第三極となる中間政党である。すなわち、自民を右から批判する維新の会、および国会の予算案決議で賛成にまわった国民民主党である。

上記の共同通信の調査でも、前回衆院選につづいて維新の会の伸長が予想される。これに加えて、国民民主も無党派層の比例区では共産党にせまる5.6%が予測されている。

自民党批判・中央批判(大阪)だが、左翼の立民と共産には入れたくない。ネット右翼のような革新派保守層とも右翼ともいえる層が増えているということであろうか。その実態はともかく、財界癒着と世襲制の自民党政治に対する批判、減税志向の公約がうけているのなら、理由がないわけではない。

◆危惧される? 社民の消滅

「ゆ党」の伸長のいっぽうで、注目されるのが社民党の消滅である。現在、社民党の議員は3人(政党要件では5人)。このうえ全国の得票率が2%を下回ると公職選挙法上の政党要件を喪失するため、党として正念場を迎えた。

あいかわらず、教条的にスローガンを羅列するだけの福島党首の演説では、今回をもって政党でなくなる可能性が高い。市民運動の議会主義的な幻想を煽るだけの政党なら、消滅してしかるべきかもしれない。今回の選挙の、もっとも注目に値すべき焦点であろう。

▼横山茂彦(よこやま・しげひこ)
編集者・著述業・歴史研究家。歴史関連の著書・共著に『合戦場の女たち』(情況新書)『軍師・官兵衛に学ぶ経営学』(宝島文庫)『闇の後醍醐銭』(叢文社)『真田丸のナゾ』(サイゾー)『日本史の新常識』(文春新書)『天皇125代全史』(スタンダーズ)『世にも奇妙な日本史』(宙出版)など。

タブーなきラディカルスキャンダルマガジン『紙の爆弾』2022年7月号
〈原発なき社会〉を求めて集う 不屈の〈脱原発〉季刊誌 『季節』2022年夏号(NO NUKES voice改題 通巻32号)

《1人イノセンスプロジェクト02》求む「16-26型のDNA型」「禿げた40代の男」の情報 ── 飯塚事件 片岡 健

1992年2月に福岡県飯塚市で小1の女の子2人が殺害された「飯塚事件」は、2008年に死刑を執行された久間三千年氏(享年70)について、冤罪を疑う声が根強い。そして今年、事件発生から30年を迎えたこともあり、久間氏に冤罪の疑いがあることを伝える報道がまた相次いだ。私自身、この事件については10数年前から冤罪であることを確信し、取材を続けてきたので、現在の状況には感慨深いものがある。

ただ、冤罪を疑う声が増える中、この事件には、まだ見過ごされている重要な問題がある。今回はそのことを説明したうえで、現在も遺族が再審を請求している久間氏の雪冤につながる情報を募りたい。

◆冤罪処刑が疑われる主な根拠は「DNA型鑑定」と「目撃証言」だが……

久間氏に冤罪の疑いがある根拠として、よく指摘されることが2つある。

1つ目は、有罪の決め手となった当時のDNA型鑑定に誤鑑定の疑いがあることだ。

飯塚事件でDNA型鑑定を行ったのは警察庁科警研だったが、当時の科警研のDNA型鑑定は捜査に導入されてまだ日が浅く、その技術は拙いものだった。実際、科警研は飯塚事件でDNA型鑑定を行ったのとほぼ同じ時期、同じ手法で行った足利事件のDNA型鑑定でもミスを犯し、無実の男性・菅家利和氏を冤罪に貶める元凶となっている。そのことも飯塚事件のDNA型鑑定に疑いの目が向けられる事情である。

2つ目は、目撃証言の内容が不自然であることだ。

警察の捜査では、被害者の女の子2人の衣服やランドセルなどの遺留品が峠道沿いの林に遺棄されていたことが判明し、さらにこの遺留品遺棄現場あたりの峠道に停車中の不審な車を目撃したという人物が見つかっている。そしてこの不審車の目撃証言は、DNA型鑑定と共に久間氏の裁判で有罪の大きな根拠になっている。

しかし、この目撃証人は自動車を運転し、カーブが連続する峠道を下に向かって走行中、すれ違いざまに数秒目撃しただけに過ぎない車の特徴を以下のように異様に詳しく証言していた。それが不自然だと言われるゆえんである。

〈停車していた自動車は、紺色ワンボックスタイプで、後輪は、前輪よりも小さく、ダブルタイヤだった。後輪の車軸部分は、中の方にへこんでおり、車軸の周囲(円周)は黒かった。リアウインドー(バックドアのガラス)及びサイドリアウインドーには色付きのフィルムが貼ってあった。車体の横の部分にカラーのラインはなかったが、サイドモールはあったように思う。型式は古いと思う。ダブルタイヤだったので、マツダの車だと思っていた。〉(久間氏に対する福岡地裁の確定判決より)

すれ違いざまに数秒目撃だけに過ぎない車の特徴をここまで詳細に記憶し、証言することは通常不可能だ。さらに久間さんの遺族が再審請求後、警察がこの証人の供述調書を作成する前に久間さんの家に赴き、久間さんの車を「下見」していた事実も判明し、警察の誘導により作られた目撃証言であることはもはや否定しがたい状況となっている。

私がこの事件について、見過ごされている重要な問題があると指摘するのは、このDNA型鑑定と目撃証言に関することである。

久間氏に対する死刑執行命令書。この紙切れにより久間氏は生命を奪われた

◆久間氏と菅家氏のDNA型を同じだと判定していた科警研

まず、DNA型鑑定で見過ごされているのは、足利事件とのあまりに不自然な「一致」だ。

久間氏に対する福岡地裁の確定判決によると、科警研がMCT118型検査という手法で行ったDNA鑑定の結果、久間氏のDNA型は、現場で見つかった犯人に由来する資料のDNA型と一致する「16-26型」だと判定されている。そしてこの型の出現頻度は「0.0170」だという。つまり科警研の鑑定が正しければ、久間氏と飯塚事件の犯人はいずれも、100人に1人か2人しか出現しないような「16-26型」というDNA型を有していたことになる。

ところが、冤罪が判明した足利事件の菅家利和氏に対する宇都宮地裁の確定判決と比較検証すると、びっくりするような事実が浮かび上がる。科警研は菅家氏と足利事件の犯人のDNA型についても、MCT118型検査という手法で行ったDNA型鑑定で「16-26型」という型で一致すると結論しているのである。そしてこの時はこの型の出現頻度を「0.83パーセント」と算出しているのである。

つまり、科警研はまったく同じ鑑定手法により、飯塚事件の犯人と久間氏、足利事件の犯人と菅家氏の四者のDNA型について、100人に1人前後しか出現しない型で一致すると判定しているわけである。こんな偶然が起こりえるとは考え難く、普通に考えれば足利事件はもとより、飯塚事件のDNA型鑑定も間違っているとみたほうが自然だ。当時の科警研のDNA型鑑定では、実際はそうでないのに「16-26型」と判定する誤鑑定がほかにもあった可能性も否めない。

福岡拘置所。ここで久間氏の死刑が執行された

◆「久間氏以外の真犯人」を見た可能性がある目撃者

目撃証言については、不審車に関する目撃内容は詳細過ぎて不自然だが、証言内容の中に久間氏以外の真犯人を目撃しているのではないかと思える部分もある。この目撃証人は不審車を目撃時、その横に立っていた不審“者”の風貌なども目撃していたとして、以下のように詳しく証言しているのである。

〈八丁苑キャンプ場事務所の手前約二〇〇メートル付近の反対車線の道路上に紺色ワンボックスタイプの自動車が対向して停車しており、その助手席横付近の路肩から車の前の方に中年の男が歩いてくるのをその約61.3メートル手前で発見した。その瞬間、男は路肩で足を滑らせたように前のめりに倒れて両手を前についた。右自動車の停車していた場所がカーブであったことや、男の様子を見て、「何をしているのだろう、変だな。」という気持ちで、停車している車の方を見ながらその横を通り過ぎ、更に振り返って見たところ、車の前に出ようとしていたはずの男が車の左後ろ付近の路肩で道路側に背を向けて立っているのが見えた。男は、四〇代の中年位で、カッターシャツに茶色のベストを着ており、髪の毛は長めで前の方が禿げているようだった〉(久間氏に対する福岡地裁の確定判決より)

久間氏は当時50代で、頭髪はふさふさで、禿げてなどいなかった。つまり、この証人が目撃した人物は、久間氏とは似ても似つかない。証言内容を見ると、男の動きはいかにも変だったようなので、これならばすれ違いざまに数秒目撃しただけでも証人の記憶に残っていて不自然ではない。真犯人を目撃している証言である可能性を改めて検証してみる価値もあると思われる。

そこで、今回の〈1人イノセンスプロジェクト〉では、以下2つの情報を募りたい。

(1)1990年代前半、刑事事件の被疑者になるなどの事情により科警研によるMCT118型検査のDNA型鑑定を受け、16-26型と判定されたことがある人もしくはそういう人をご存じの人

(2)1992年頃、福岡県飯塚市もしくはその周辺で「40代くらいに見える中年の男」で「髪の毛が長めで前のほうが禿げている」「カッターシャツに茶色のベストを合わせることがある」などの特徴を持つ人物(とくに小児性愛者)が存在したことを存じの人

この2つのいずれかに該当する情報をお持ちの方は、私のメールアドレス(katakenアットマークable.ocn.ne.jp)までご一報ください。(1)の情報は、飯塚事件で行われたDNA型鑑定が誤っていたことをより高度に裏づけることになりえる情報です。そして、(2)の情報は、飯塚事件の真犯人の特定と共に久間氏の無実の証明に資する情報です。どうかよろしくお願いします。

※メールで連絡をくださる人は、アットマークを@に変えてください。
※拙編著『絶望の牢獄から無実を叫ぶ―冤罪死刑囚八人の書画集―』(鹿砦社)では、久間氏の死刑執行に至る経緯なども詳細に紹介しているので、関心のある方はご参照頂きたい。

▼片岡健(かたおか けん)
ノンフィクションライター。stand.fmの音声番組『私が会った死刑囚』に出演中。編著に電子書籍版『絶望の牢獄から無実を叫ぶ―冤罪死刑囚八人の書画集―』(鹿砦社)。

「絶望の牢獄から無実を叫ぶ[改訂版]―冤罪死刑囚八人の書画集―」(片岡健編/鹿砦社)
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6・30対藤井正美(しばき隊の中心メンバーにして元鹿砦社社員)控訴審、第1回弁論期日! 鹿砦社代表 松岡利康

来る6月30日(木)午後1時30分から大阪高等裁判所第3民事部(別館8階、84号法廷)にて対藤井正美控訴審が開始されます。一審大阪地裁は、またしても私たちの常識的な主張を認めず棄却、それどころか反訴した部分で藤井の主張を認め、少額とはいえ10万円の賠償を鹿砦社に下したのでした。

勤務時間の大半をこっそりと業務とは無関係のネットパトロール、政治的主張のツイッター、仲間とのメール、企業や団体への恫喝メール等に費やし、それは前代未聞の異常としかいえない膨大な量が確認されています。それでも何の責任も問われないのは世間の常識から反します。

当然鹿砦社は控訴、当初本人訴訟としたことで(のちになって顧問弁護士の大川伸郎弁護士が代理人就任)、私が長大な「控訴理由書」を書きました。これは早晩公開しますが、日本の中小企業の経営者を代表する想いで書き上げました。藤井のような腐った社員が会社に入り込めば中小企業はやっていけません。勤務時間中にスマホで株取引をやって退職に追い込まれた大阪国税局の職員がいるように、今後こうしたケースは続出するでしょう。本件一審判決が確定すれば大変なことになります。

街宣する藤井。これを見て私は驚き、「ここまでやっているのか」と思いました

鹿砦社の控訴に対して、藤井側も神原元弁護士を代理人として附帯控訴してきました。私は裁判は公に報告すべきだという考えからこのように適宜報告していますが、これをも「一審原告(鹿砦社)の誹謗中傷は極めて執拗であり、一審判決後も同様の名誉毀損行為が続いていることから、一審判決によってその被害は回復されておらず、さらに慰謝料の増額が認められるべきである」と主張しています。

私たちがM君リンチ事件を知り、地を這うような調査・取材に基づき出版活動を開始、持続して以来、藤井の周囲の者らから、あらん限りの誹謗中傷がなされました。「鹿砦社、潰れたらいいな」「反社出版社」「企業ゴロ」「クズ」「ゴミ」「アホデマ野郎」等々、神原弁護士も「私怨と妄想にとりつかれた極左の悪事」とか「魑魅魍魎だね、こいつら」、大川弁護士らM君弁護団に対しても「300万円の弁護士報酬をカンパで集める『弁護士の新しいビジネスモデル』。この『不道徳極まりない』ビジネスモデル」と非難しています。

当初は激しい集団リンチを浴びながらも孤立無援状態にあったリンチ被害者M君への同情から始まり、すっかり深入りしてしまいましたが、対カウンター/しばき隊関係の訴訟も本件を残すのみとなりました。対李信恵訴訟では、控訴審で李信恵のリンチへの連座が認められ押し返すことができました。本件でも不本意な一審判決を必ずや打ち破ることができるものと信じています。

関西近郊にお住まいの方で時間があれば、ぜひ傍聴お願いいたします。

タブーなきラディカルスキャンダルマガジン『紙の爆弾』2022年7月号
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「押し紙」裁判に変化の兆し、「押し紙」の新定義と新聞社による部数ロックの暴露 黒薮哲哉

新聞のCMに使われる場面のひとつに、新聞を満載したバイクが明け方の街へ繰り出すイメージがある。透明な空気。笑顔。闇がとけると、動き始めた街が浮かび上がってくる。しかし、記者の視点を持って現場に足を運ぶと、新聞販売店に積み上げられた「押し紙」が、日本の権力構造の闇として輪郭を現わしてくる。だれが注意しても、疑問を呈しても、新聞社はそれを黙殺し、「知らむ、ぞんぜぬ」で押し通してきた。時には司法の土俵を使って口封じを断行し、同じ夜と昼を延々と繰り返してきたのである。

が、今この社会問題を照らすための新しい視点が生まれ始めている。その先駆けとなったのは、2020年5月に佐賀地裁が下した判決である。この判決は、佐賀新聞社による「押し紙」を不法行為として断罪しただけではく、独禁法違反を認定したのである。その後、全国各地で元販売店主らが次々と「押し紙」裁判を起こすようになっている。

現在、わたしは3件の「押し紙」裁判を取材している。広島県の元読売新聞の店主が起こした裁判(大阪地裁)、長崎県の読売新聞の元店主が起こした裁判(福岡地裁)、それに長崎県の西日本新聞の元店主が起こした裁判である。取材はしていないが、埼玉県の元読売新聞の店主も裁判(東京地裁)を起こしている。

これらの裁判で浮上している2つの着目点を紹介しよう。それは、「押し紙」の定義の進化と、「定数主義」を柱とした新聞社の販売政策の暴露である。

◆「押し紙」の定義に変化

従来の「押し紙」の定義は、新聞社が販売店に「押し売り」した新聞というものだった。たとえば新聞購読者が1000人の販売店に対して、新聞社が1500部の新聞を搬入した場合、500部が残紙となる。この500部から若干の予備紙を引いた部数を「押し紙」と定義するのが一般的だった。

しかし、この定義を根拠に「押し紙」裁判を起こした場合、販売店は残紙が押し売りの産物であることを立証しなければならない。それは実は至難の技である。と、いうのも帳簿上は販売店が新聞の注文部数を決めたことになっているからだ。新聞社が高圧的な押し売りを行った証拠を示さない限り、注文部数は販売店が自主的に決めたものと見なされ、損害賠償は認められない。

佐賀地裁で販売店が勝訴した勝因のひとつに、原告側が進化した「押し紙」の定義を示したことである。とはいえ、それは我田引水にでっちあげた定義ではない。公正取引委員会がこれまで交付してきた新聞関連の公文書を過去に遡って調査し、独禁法の新聞特殊指定に基づいた忠実な定義を示したのである。

その定義は端的に言えば、「新聞購読者数に予備紙を加えた部数」を超える残紙は、理由のいかんを問わずに「押し紙」とするものである。「押し売り」があったかどうかが一次的な問題ではなく、「新聞購読者数に予備紙を加えた部数」を超えてるかどうかが、最大の着目点になる。

新聞特殊指定でいう新聞の注文部数とは、店主が「発注書」に記入した部数のことではない。1964年に公正取引委員会が交付した特殊指定の運用細目は、新聞の注文部数を次のように定義している。

【引用】「注文部数」とは、新聞販売業者が新聞社に注文する部数であって新聞購読部数(有代)に地区新聞公正取引協議会で定めた予備紙等(有代)を加えたものをいう。

※地区新聞公正取引協議会は、実質的に日本新聞協会の下部組織である。

公正取引委員会がこうした運用規則を定めたのは、「押し紙」を取り締まることが目的だと思われる。「注文部数」の特殊な定義を示すことで、一般の商取引でいう「注文数」から区別したのである。この発見が、「押し紙」裁判を変え始めている。

ただ、どの程度の予備紙部数が適正なのかという議論は依然としてある。新聞社は、残紙はすべて予備紙であるという主張を繰り返してきたが、大量の残紙が古紙業者により回収されている事実があり、予備紙としての実態はほとんどない。(下記動画を参照)


◎[参考動画]Collection of unopened bales of newspapers – possible oshigami

◆5年間に渡り注文部数を3132部で定数化

最近の「押し紙」裁判のもうひとつの特徴として、新聞社が「定数主義」を柱とした販売政策を採用していることが、データにより暴露されたことである。ここでいう「定数主義」とは、「押し紙」裁判の原告弁護団が仮に命名した呼び方である。

次に示すのは、長崎県の読売新聞の元店主が起こした裁判で明らかになっている注文部数の変遷である。5年2カ月に渡って注文部数3132部で定数化(ロック)されていた。定数主義を柱とした販売政策の結果にほかならない。

2011年03月:3132部
2011年04月:3132部
2011年05月:3132部
2011年06月:3132部
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2014年08月:3132部
2014年10月:3132部
2014年11月:3132部
2014年12月:3132部

2015年01月:3132部
2015年02月:3132部
2015年03月:3132部
2015年04月:3132部
2015年05月:3132部
2015年06月:3132部
2015年07月:3132部
2015年08月:3132部
2015年10月:3132部
2015年11月:3132部
2015年12月:3132部

2016年11月:3132部
2016年12月:3132部

読売新聞社は、実に5年間に渡って注文部数を3132部でロックしていた。新聞の購読者数が減っても、「注文部数」は変化しない。定まっている。それにより全国のABC部数の減部数を最小限に留めていた可能性が高い。

◆新聞社は地域単位で注文部数をロックしているのではないか?

しかし、注文部数のロックは読売新聞だけに見られる販売政策ではない。わたしは同じようなケースを他の新聞社系統の販売店でも多数確認している。この点にヒントを得てわたしは、新聞社は地域単位で注文部数をロックしているのではないかという仮説を立てた。

この点を確認するために、わたしは兵庫県全域をモデルとした調査を実施した。兵庫県全域をモデル地区として選んだのは、同県は多様な形態の自治体から構成されているからだ。神戸市などの大都市から、日本海沿岸の漁村まである。また、中央紙から地方紙までが、一定の勢力を維持している地域でもある。

調査で明らかにする点は、各自治体における中央紙5紙(朝日、読売、毎日、産経、日程)と地方紙(神戸)の部数の変遷である。それを確認することによって複数月にわたり、あるいは複数年にわたり部数が定数化されていないかを確認できる。

調査の結果、凄まじい実態が浮かび上がった。次に示すのは、読売新聞の部数ロックの詳細である。マーカーで示した部分が定数化された部数と期間である。

読売新聞の部数ロックの詳細

調査全体のまとめは、わたしのウエブサイトで紹介している。

【参考記事】新しい方法論で「押し紙」問題を解析、兵庫県をモデルとしたABC部数の解析、朝日・読売など全6紙、地区単位の部数増減管理が多地区で、独禁法違反の疑惑 http://www.kokusyo.jp/oshigami/16859/

◆戦前からあった「押し紙」

『新聞販売百年史』(日本新聞販売協会)に、「押し紙」について次のような記述がある。「昭和4年」から「昭和5年」にかけての「押し紙」の実態を記述したものである。

【引用】「増紙競争の結果による乱売や弊害は昭和四年、五年にかけて最も激しかった。この残紙、抱紙のために乱売が行われるだけでなく、それは従業員を苦しめ、主任を泣かす場合が多い。たとえば某直営出張所主任に向かって、増紙の責任部数三百を負わせたとすると、その店が十区域に分かれていれば、主任は十人の配達にこれを分担させる。配達一人に責任数三十部が課され、これを悉く勧誘して売れ口を求めれば問題は起こらぬが、仮に二十五部しか勧誘出来ぬとなれば、五部に対する代金の支払いは配達が負担する。そして給料から引かれるのである。」

「押し紙」問題は戦前からあった。それが極端にエスカレートしたのは、1998年から後である。それまで新聞業界は内部ルールで、予備紙の割合を搬入部数の2%と定めていた。しかし、この内部ルールを撤廃して、残紙はすべて予備紙ということにしてしまった。「押し紙」の概念そのものを書面から削除したのだ。その結果、販売店に残紙が溢れるようになったのである。新聞社が販売店に搬入する新聞の4割から5割が残紙という例も少なくない。

※だたし熊本日日新聞は、現在でも予備紙の割合を搬入部数の1.5%と定めている。

しかし、「残紙=予備紙」の詭弁も通用しなくなってきている。予備紙としての実態がほとんどないからだ。

新聞産業が戦前から今日まで「繁栄」してきたのは、公権力に保護されてきたからにほかならない。日本の権力構造を維持するための広報部として、世論誘導の役割を担ってきたから、一大産業として成立してきたのだ。

戦後、公権力は「押し紙」問題を不問に付してきた。その一方で、新聞人との癒着を強めた。新聞人と首相の会食が当たり前になった。このような構図こそが、紙面に有形無形の影響を及ぼしてきたのである。新聞ジャーナリズムの衰退は、記者個人の職能に原因があるのではなく、新聞のビジネスモデルの中に客観的な原因があるのだ。

「押し紙」は、ジャーナリズムの根源にかかわる問題なのである。

▼黒薮哲哉(くろやぶ・てつや)
ジャーナリスト。著書に、『「押し紙」という新聞のタブー』(宝島新書)、『ルポ 最後の公害、電磁波に苦しむ人々 携帯基地局の放射線』(花伝社)、『名医の追放-滋賀医科大病院事件の記録』(緑風出版)、他。
◎メディア黒書:http://www.kokusyo.jp/
◎twitter https://twitter.com/kuroyabu

黒薮哲哉『禁煙ファシズム-横浜副流煙事件の記録』

釼田昌弘、番狂わせの王座獲得。田村聖を破る! 堀田春樹

前チャンピオン(第7代)の西村清吾(TEAM KOK)が王座返上による今回の王座決定戦は、釼田昌弘が田村聖を苦しめ、僅差判定で下すと番狂わせだけに衝撃的メインイベントの終了。これでテツジムからウェルター級の蛇鬼将矢と並んで現役2人目のチャンピオン誕生となった。

笹谷淳は打たれない巧みな試合運びも大きな山場を迎えることなくドローに終わる。
野村怜央は判定勝利も額を切られて終わる辛勝。

◎喝采シリーズ Vol.3 / 6月18日(土)後楽園ホール17:33~20:37
主催:日本キックボクシング連盟 / 認定:NKB実行委員会

◆第12試合 第8代NKBミドル級王座決定戦 5回戦

チャンピオンベルトとお米(粒すけ)10kg獲得の釼田昌弘

1位.田村聖(拳心館/72.45kg/1988.7.23新潟県出身)24戦13勝(10KO)10敗1分
      vs
4位.釼田昌弘(テツ/72.55kg/1989.10.31鹿児島県出身)19戦6勝10敗3分
勝者:釼田昌弘 / 判定1-2
主審:前田仁
副審:川上48-49. 鈴木48-49. 加賀見50-48

両者は2018年4月21日に対戦し、田村聖が判定勝利(3回戦制)しているが、今回の大方の予想もチャンピオン(第6代)経験者の田村聖有利だった。

組み合ったところから崩しに入ると柔道や総合格闘技経験ある釼田昌弘が上手いが、これもリズムを作る切っ掛けとなったか。釼田はローキックで田村を転ばすことも多かったが、カーフと言われる脹脛を狙う低い位置や足を掛けてバランスを崩す流れでもあった。田村聖は第2ラウンドにローキックで勢い強めるが主導権奪う流れは作れず。

釼田に「ミドルを蹴れ!」というテツ会長が怒鳴るもミドルキックは少なく、ボディーへの前蹴りと時折ハイキックも見せ、田村の前進を弱める効果が見られた。

釼田のローキックが効いているのか、田村は蹴りに行きながら自らバランス崩す場面もあり。第3ラウンド以降、釼田はヘロヘロでも踏ん張って、2-1ながら釼田昌弘の判定勝利。

ボディー攻めが効果的だった釼田昌弘の前蹴り
釼田昌弘の右ハイキックと田村聖の右ストレートが交錯

◆第11試合 ウェルター級3回戦

NKBウェルター級3位.笹谷淳(team COMRADE/66.4kg)
      vs
天雷しゅんすけ(SLACK/64.95kg)
引分け 1-0
主審:川上伸
副審:高谷29-29. 鈴木29-28. 前田29-29

初回早々は天雷しゅんすけの右ストレートから連打で笹谷をロープ際に詰めるも、天雷はパンチはあるが蹴りが少なく、笹谷は出方を見極めて、パンチ連打と蹴りから組み合っていく。

終盤に天雷はパンチで前進し、笹谷をロープ際にやや後退されたが、どちらも主導権を奪う攻勢は無く終了。

パンチで攻めれば笹谷淳が有利と見えるが攻勢に導けず
勝利を掴むも額を切られての終了は無念さ残る野村怜央

◆第10試合 ライト級3回戦

NKBライト級3位.野村怜央(TEAM KOK/60.9kg)vs KEIGO(BIG MOOSE/60.8kg)

勝者:野村怜央 / 判定2-0
主審:加賀見淳
副審:高谷30-30. 川上30-29. 前田30-29

KEIGOが開始早々飛んでのチョップ気味のパンチ打ち下ろし。

蹴りも右ストレートも伸びがいい。

野村はややスロースターター気味でも冷静に様子を見て蹴りとパンチコンビネーションで返して、ペースを掴んだ流れも最終残り5秒でKEIGOが飛びヒザ蹴り。

ヒットはしなかったと見えたが、試合終了ゴングが鳴った後、野村の額から出血が見られ、ヒザ蹴りが掠ったかと思われる。

判定は僅差だが野村怜央の勝利。

カットは終了間際。鮮血が流れたのは終了ゴング後。

すぐの流血ではない、やや時間差があった。

カットさせたことを優勢と抗議しても覆ることは無いが、残念さは残るKEIGO陣営だった。

コンビネーションブローで野村怜央が優った展開は僅差ながら勝利を掴む

◆第9試合 59.0kg契約3回戦

JKIフェザー級7位.都築憲一郎(エムトーン/58.9kg)
      vs
NKBフェザー級5位.鎌田政興(ケーアクティブ/58.2kg)
引分け 三者三様
主審:鈴木義和
副審:加賀見29-29. 前田29-30. 川上30-29

両者のパンチと蹴りのコンビネーションで後に引かない展開も強打が無く、どちらも主導権を奪ったとは言えない、差が付け難い三者三様に分かれた。

都築憲一郎の前蹴りが鎌田政興の突進を止める、互角の攻防は引分け

◆第8試合 フェザー級3回戦

七海貴哉(G-1 TEAM TAKAGI/56.8kg)vs 半澤信也(Team arco iris/57.15kg)
勝者:七海貴哉(赤) / KO 1R 1:44
主審:高谷秀幸

七海貴哉がパンチの距離で右ストレートで3度のノックダウンを奪ってノックアウト勝利。半澤信也は打ち合いを避けた方がよかっただろう。

七海貴哉がカウンターパンチで半澤信也を3度倒す
Mickyがヒザ蹴りで圧倒していく展開で荻原愛を倒した

◆第7試合 女子バンタム級3回戦(2分制)

Micky(PIRIKA TP/53.35kg)vs 荻原愛(ワンサイド/52.95kg)
勝者:Micky(赤) / TKO 3R 0:33

Mickyが萩原愛を捕まえ首相撲からヒザ蹴りをヒットしていく。第2ラウンドには何度かヒザ蹴り連打を受けたこところでスタンディングダウンとなった荻原。第3ラウンドにもMickyがヒザ蹴り連打から崩し倒すとダメージを見たレフェリーが試合ストップし、MickyのTKO勝利となった。

◆第6試合 ウェルター級3回戦

田村大海(拳心館/66.15kg)vs 浦辺俊也(Team arco iris/66.1kg)
勝者:田村大海(赤) / TKO 2R 1:56

田村大海は田村聖の弟。パンチが上手く、2度目のノックダウンとなった際の、一発の右ストレートヒットでレフェリーがカウント中にストップし、田村大海のTKO勝利。

◆第5試合 ライト級3回戦

近藤豊仁(STS/62.05kg)vs 蘭賀大介(ケーアクティブ/62.45kg)
勝者:蘭賀大介(青) / TKO 2R 1:19 / カウント中のレフェリーストップ

◆第4試合 バンタム級3回戦
シャーク・ハタ(=秦文也/テツ/52.5kg)vs 笠原秋澄(ワンサイド/53.05kg)
勝者:シャーク・ハタ(赤) / 判定3-0 (30-28. 30-29. 30-29)

田村大海が冷静に攻め、右ストレートをヒットさせる

◆第3試合 フェザー級3回戦

志村龍一(拳心館/56.6kg)vs 古木誠也(G-1 TEAM TAKAGI/56.85kg)
勝者:古木誠也(青) / KO 1R 0:47 / 3ノックダウン

◆第2試合 56.0kg契約3回戦

TAKUMI(Bushi-Doo/54.3kg)vs 安河内秀哉(RIKIX/55.85kg)
勝者:安河内秀哉(青) / KO 3R 2:37 / 3ノックダウン

◆第1試合 バンタム級3回戦

山本藍斗(GET OVER/52.55kg)vs 橋本悠正(KATANA/53.2kg)
引分け 1-0 (29-28. 30-30. 29-29)

《取材戦記》

田村聖は元・NKBミドル級チャンピオンで、PRIMA GOLD杯ミドル級8人トーナメント(開催2019.4~2020.2)優勝。この経験が大差を付けて勝つだろうという大方の予想が外れた。番狂わせと言ったら釼田昌弘に対して失礼かもしれないが、柔道四段と総合格闘技経験がある釼田が、5回戦経験は少ない中、後半ヘロヘロになりながら踏ん張った。

チャンピオンベルトを腰に巻き、勝利者賞として贈られた今井興業ライスセンターのお米10kgを抱えて控室に戻って来た釼田昌弘は勝因について、「ただ気持ちだけでやっていました。内容的には酷かったですけど、ミドルキックと前蹴りでボディー攻めが効いたかな、ミドルは少なくて怒られたけど!」

これからチャンピオンとしてNKBグループのメインイベンターを務めるにはちょっと心許無い存在であるが、新チャンピオンは新たな好カード誕生に繋がる。自覚が芽生え、ここから化ける選手も多いのも過去には多い事実。

釼田昌弘も他団体交流や、現在の有名どころのビッグイベントプロモーション興行出場目指して結果を残さねばならない。

野村怜央は試合終了3秒前にカットされた様子で、KEIGO陣営にとっては悔やまれる結果だったでしょう。傷の具合やヒットしたタイミングと終了ゴングの間(ま)、問題追求すれば判断の難しい裁定ではあります。試合は既定の3ラウンドで終了し、採点集計され野村怜央の僅差2-0判定勝ち。もし再戦が行われるようであれば因縁の面白いカードとなるでしょう。

近年はビッグマッチに於いても有料配信が中心となる時代となりました。視聴者数では翌日の「THE MATCH」に遥かに敵わぬも、今回の興行もツイキャス(twitcasting)にて有料生配信がありました。録画再配信は7月2日まで可能のようです。
日本キックボクシング連盟次回興行は、7月31日(日)に大阪176boxに於いて、NKジム主催の「喝采シリーズvol.4 / Z-Ⅳ Carnival YOUNG FIGHT」が開催予定です(開場13:30 開始14:00)。後楽園ホールでの連盟定期興行予定は10月29日(土)です。

▼堀田春樹(ほった・はるき)[撮影・文]
フリーランスとしてキックボクシングの取材歴32年。「ナイタイ」「夕刊フジ」「実話ナックルズ」などにキックのレポートを展開。ムエタイにのめり込むあまりタイ仏門に出家。座右の銘は「頑張るけど無理しない」