中森明菜が自殺未遂事件を起こしてから、所属する芸能事務所、研音から独立に至るまでには、その背後で大人たちが綱引きを繰り広げていた。

◆メリー喜多川の意向で進んだ明菜の移籍先

中森明菜『LIAR』 (1989年4月ワーナー・パイオニア)

1989年7月11日、近藤真彦の自宅マンションで自殺未遂事件を起こした明菜は、しばらく病院に入院した。そして、退院3日前の8月2日、都内某所で関係者が集まって会談をした。出席者は、研音の花見赫(あきら)社長、ワーナーパイオニアの山本徳源社長、ジャニーズ事務所のメリー喜多川副社長、それにメリーが連れてきたMMGレコードの小杉理宇造社長、音楽評論家の安倍寧の5人。

その席上、メリーは機先を制するように言った。

「あなた方、明菜の自殺の原因が何だか知っているんですか。山本さんの会社の社員のことをいっては何ですが、おたくの寺林さんが明菜を独立させようと画策したからなんですよ。寺林さんは事務所(研音)やスタイリストなどの悪口を明菜に吹き込み、人間不信になった明菜が自殺したんです」

会談はメリーのペースで進み、翌日、小杉社長が明菜を預かることが決まったという。

ワーナーパイオニアの制作本部長、寺林晁は確かに明菜と親しく、明菜の独立に向けた活動を進めていたらしい。自殺事件の2日前にも明菜と六本木で食事をし、「どうして私のマネージャーはくるくる辞めてしまうのか」「事務所に搾取されてしまうのではないか」といった相談に応じていたという。

研音は明菜が入院中、担当医に診断書を要求したが、明菜がそれを拒絶したというし、警察が明菜に事情聴取をした後で花見社長に対し「おたくの事務所はひどいらしいですね」と言ったという。

また、明菜の母親が「マネージャーにお金を騙し取られたのよ。億単位の金だったから、自殺するのは当たり前じゃない」と明かしていたという話もある。

同年12月31日に行われた「中森明菜復帰緊急記者会見」で明菜は、「自殺の原因は?」と聞かれ、「私が仕事をしていて、一番信頼していた人が、信頼できなくなったことです」と答えていた。

◆明菜に隠れて金を受け取っていた家族との決別

明菜は自殺未遂事件の後で家族と関係が悪化したが、その理由も研音に関わることだった。明菜が事件を起こして病院に運ばれたとき、駆けつけた父親が「事務所やレコード会社に謝れ!」と叱った。実は明菜の家族は、毎月100万円から200万円を研音から給料のような形でもらっていたが、明菜はそれを知らなかった。

「私に隠れてお金をもらって、それなのに死のうとまでした私を罵倒するなんて、私は絶対に親を許さない!」と言って明菜は怒り、家族と絶縁した。

確かに自殺未遂事件の前から明菜は研音に対する不信感を持っていたようだ。そして、それはメリーの思惑とも合致していた。当時、明菜は近藤と結婚したいという希望を持っており、その近藤をエサにすることでメリーは明菜をコントロールできる立場にあった。

近藤は翌年にデビュー10周年を控え、大事な時期だった。メリーとしては明菜の自殺未遂事件の原因を研音のせいにして、近藤は無関係ということにしたかった。メリーが「マッチの立場も考えてあげて」と言えば、明菜は何でも言うことを聞いた。

そして、メリーは明菜を研音から独立させ、自分の子飼いである小杉の事務所に所属させようと画策した。メリーにとっては、明菜が研音に預けているよりも、自分の周辺にいる方がコントロールしやすく都合がいい。また、自分とは別に明菜に接触し、独立をそそのかしていた寺林は邪魔な存在だったから、先の5者会談で「自殺の原因」として糾弾し、明菜利権から排除しようとしたのである。

メリーが連れてきた小杉は明菜にとっても、信用の置ける人間だった。小杉はかつてRCAレコードの社員として近藤のプロデュースをしたことがあった。明菜は近藤に熱を上げるあまり、近藤と接点があるというだけで人を信用する傾向があった。

大晦日の記者会見で明菜は「すてきなスタッフが一緒だったら、つらいことも耐えていけると思って頑張ります」と語っていたが、「すてきなスタッフ」というのは、小杉のことを指している。

◆移籍金で拗れ、人間不信に陥った明菜の孤独

だが、年末の記者会見の段階では確定していた、明菜が研音から独立し、小杉が預かるという路線は暗礁に乗り上げた。

まず、移籍金問題が明菜復帰を阻んでいるという報道があった。研音としては明菜を待っていても戻ってこないとあきらめたが、それでも明菜は「金のなる木」だ。「明菜が独立するなら、10億円を支払え」と研音側が小杉側に主張したという。その額は10億円とも言われ、レコード会社がこれを立て替えるという案も浮上した。

次いで出てきたのが、明菜の身元引受人だった小杉が明菜に手を焼いているという話だった。完全主義者で自己主張の強い明菜には小杉ももてあまし、「自分はもう手を引くから、研音でもう1度、明菜を引き取ってくれ。研音が明菜を引き取らないなら、4億円の移籍料で明菜を独立させたいが、どうだろうか」と打診したという。

こうしたトラブルも解消されたのか、90年2月23日、明菜のための新事務所である株式会社コレクションが登記された。ワーナー・パイオニアが9割を出資し、代表取締役は小杉の片腕とされる中山益孝社長で、明菜も取締役に名を連ねた。

だが、コレクションと明菜はうまくゆかず、91年、明菜は新しい事務所、コンティニューに移籍することとなった。当時、明菜と親しかった、フリーの番組ディレクター、木村恵子の暴露本『中森明菜 哀しい性』(講談社)によれば、コンティニューは運営資金を明菜の移籍に際してビクターから支払われた3億5000万円に頼っていたが、経営陣は高級外車を何台も購入したり、必要以上に豪華な事務所を借りるなどして短期間のうちにそれをすべて使い果たし、明菜に支払われなければならない1億円のアーティスト料も支払わなかったという。結局、明菜はコンティニューとも喧嘩別れして、93年からMCAビクターがマネジメントの窓口も担うことになった。その後も明菜はレコード会社と芸能事務所を転々と渡り歩いた。

明菜が歌えば、CDが売れ、コンサートに大勢のファンが集まる。「金のなる木」である明菜には、様々な人間が群がり、たびたび騙した。次第に人間不信に陥った明菜は、人を寄せ付けなくなっていった。

そうした中で、明菜の芸能活動は低迷を続けた。2010年10月以降は、体調不良を理由に芸能活動を休止し、公の場に姿を現していない。

▼星野陽平(ほしの ようへい)
フリーライター。1976年生まれ、東京都出身。早稻田大学商学部卒業。著書に『芸能人はなぜ干されるのか?』(鹿砦社)、編著に『実録!株式市場のカラクリ』(イースト・プレス)などがある。
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中森明菜と松田聖子は、ともに80年代を代表する女性歌手であり、よく比較されてきた。

聖子がデビューしたのは80年。その2年後の82年に明菜はデビューした。2人は歌謡界で頂点を極め、ともに所属事務所から独立したが、独立後の芸能活動は対照的だった。

◆明菜を手土産に研音社長に就任した日本テレビのプロデューサー

「ファム・ファタル〔Femme Fatale〕」(1988年8月ワーナー・パイオニア)

明菜は81年、16歳の時、日本テレビの歌手オーディション番組『スター誕生!』に出場し、翌年、『スローモーション』でデビューした。

『スター誕生!』では合計11社の芸能事務所やレコード会社が獲得の意向を示すプラカードを上げ、記録的なオファー数だったという。その中から、明菜が選んだのは、研音だった。研音というと、今では大手事務所となったが、当時は有名タレントは一人もいなかった。明菜が研音を選んだのは、『スター誕生!』のプロデューサーが研音を推薦し、両親も「研音にしよう」と言ったためだという。

研音は笹川良一の日本船舶振興会と関係が深く、資金も潤沢だったという。明菜の家族は貧しかった。研音は多額の契約金を積んだのだろう。そして、明菜の研音入りと同時に日本テレビのプロデューサーだった花見赫(あきら)が研音の社長に就任した。明菜は研音への手土産のようなものだったと言われる。

◆1989年の自殺未遂事件──「だって、私は本当に死ぬつもりだった」

そして、デビューから7年目の89年に衝撃的な事件が起きた。同年7月11日、明菜は当時交際していた歌手の近藤真彦の自宅マンションで自殺未遂事件を起こしたのだった。

明菜はデビュー直後、17歳の時から近藤と交際し、7年間、同棲していた。89年1月23日、2人はパリで家具を購入しているところを目撃されていた。その後、2人はハワイに移動し、明菜だけが一人で帰国し、近藤はニューヨークに渡った。その頃、ニューヨークには、全米デビューの準備をしていた聖子がいた。

聖子が宿泊していたパークレーンホテルのワンブロック離れたところに、あまり日本人が利用しないエールフランスのホテルがあった。そこで2月2日、3日とかけて聖子と近藤が密会しているところを写真週刊誌に撮られてしまった。

明菜はこれにショックを受け、体重が36キロにまでやせてしまったという。明菜が自殺未遂を起こしたのは、聖子と近藤の密会報道の3ヶ月後のことだった。

一時、明菜と親しくしていた元番組ディレクター、木村恵子の暴露本『中森明菜 哀しい性』(講談社)によれば、明菜は「だって、私は本当に死ぬつもりだったし、彼とは七年間もずっと一緒にいたから」と、いつも繰り返していたという。明菜の自殺未遂事件は、巷間で言われているように近藤との関係に思い悩んだ末に起きたものだと考えられる。

◆大晦日の謝罪会見──明菜は近藤との婚約発表だと思っていた

この時期、明菜の主導権を握っていたのは、ジャニーズ事務所の副社長、 メリー喜多川だった。明菜は事件の後も近藤との結婚を望んでいたから、近藤が所属するジャニーズ事務所との関係を良好なものにしたいと考えていた。近藤と結婚するためには、メリーに気に入られなくてはならない。

自殺未遂事件直後の7月27日、ジャニーズ事務所はマスコミ各社に明菜がメリーに送った手紙を公開した。その中で明菜は、「自分勝手な行動を取ってしまったと反省しています。今度の事は近藤さんにはまったく関係ありません」と述べている。その翌日、近藤のコンサートがあった。

そして、暮れも押し迫った頃、「婚約発表をするから、マッチと一緒にテレビに出てくれ」というオファーが明菜の元に舞い込んできた。電話で連絡していた近藤からも、同じ趣旨のことを言われた。

12月31日、すっかり舞い上がった明菜はめかし込んで記者会見に出かけていった。だが、会場に行ってみると、婚約発表ではなく、近藤に対する謝罪会見だと知らされた。会見で明菜は訳も分からず、近藤への謝罪の言葉を口にさせられた。

明菜に自殺未遂事件を起こされて以来、近藤に対する風当たりは強く、芸能活動も振るわなかった。それを何とか挽回したいと考えたメリーは、明菜の自殺未遂事件と近藤を切り離すべく、あの手この手を使って工作を仕掛けていたのである。

そして、自殺未遂事件から、「みそぎ会見」に至るのとほぼ同時期に明菜の独立騒動が持ち上がっていた。(続く)

▼星野陽平(ほしの ようへい)

フリーライター。1976年生まれ、東京都出身。早稻田大学商学部卒業。著書に『芸能人はなぜ干されるのか?』(鹿砦社)、編著に『実録!株式市場のカラクリ』(イースト・プレス)などがある。

『芸能人はなぜ干されるのか?』

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《書評》『ジャニーズ50年史』──帝国の光と影の巨大さを描き切った圧巻の書

前回の記事で紹介した松田聖子の独立の直後に起きたのが南野陽子の独立だった。

スケバン刑事 (1985年フジテレビ)

南野は、1985年に『恥ずかしすぎて』で歌手デビューし、同年11月から『スケバン刑事Ⅱ少女鉄仮面伝説』(フジテレビ)で主役の2代目麻宮サキを演じ、トップアイドルとなった。

◆大御所=都倉俊一に口説かれアイドルの道へ

南野はもともと劇団青年座に所属していたが、作曲家の都倉俊一が「アイドルとして育てたい」と口説き落とし、テレビ番組制作会社大手の東通や大手広告代理店と組み、南野を売り出すためにエスワンカンパニーを設立し、当初は自ら代表取締役となっていた。

ところが、南野は89年5月末にエスワンカンパニーに対し、8月末の契約切れと同時に独立を希望する内容証明を送付したことから、独立騒動が表面化した。
当時の報道によれば、南野が独立を思い至ったのはスタッフへの不信があったという。スタッフがスケジュールの調整をミスしてドラマ出演を断念せざるを得なくなったり、南の自身がテレビ局に謝罪することさえあったという。また、南野は事務所から言われた通りにアイドルをすることにも不満を募らせており、もっとクリエイティブな仕事を志向していたという話もあった。

当時のエスワンカンパニーの売上は11億5000億円程度とされていたが、そのうちの98%はトップアイドルだった南野関連であり、南野に独立されてしまえば、会社は存亡の危機を迎える。また、同社は「南野の売り出しのために1億5000万円を投資したが、まだ回収していない」という主張もしていた。これもタレントの独立騒動でよく出てくる話だが、「売り出し費用」なるものが一体いかなるものなのかまともに説明されたことはない。

◆聖子独立騒動直後で危機感を募らせた音事協

デビュー曲『恥ずかしすぎて』 は南野陽子18歳の誕生日6月23日に発売された(1985年CBSソニー)

『週刊大衆』(89年9月18日号)に、南野の独立に絡めて、音事協(日本音楽事業者協会)を代表して廣済堂プロダクション社長の長良じゅんがコメントを出している。

「最近のアイドルは“お行儀”が悪いですよ。最初は両親ともどもやってきて、手をついて頼み込むくせに、ちょっと売れるとこれだもの。そのときの模様をテープにでもとって、聞かせてやりたいくらいですよ。
(中略)
アイドルたちにはいい先輩というか、いいスタッフがいないね。マネジャーも彼らをしつけることができないんだ。昔でいう“修身”がなってないんですよ。私としても“冗談じゃない”という感じです。独立すれば当然、敵だって増えるでしょう。それを覚悟でやるんでしょうけど……」

南野の独立騒動が発覚する直前には松田聖子の独立騒動があっただけに、音事協は危機感を募らせていた。独立の動きが他のタレントに広まらないよう、独立を主張する南野を業界から締め出すことを検討した。マスコミも音事協サイドの意向をくみ取り、南野について「独立はワガママ」「松田聖子のマネ」と強く非難した。

◆一度は独立撤回を余儀なくされた南野

音事協のプレッシャーがモノを言ったのか、南野は独立を撤回し、8月29日のコンサートで「独立はしません」とコメントを出した。

報道によれば、音楽出版権の譲渡問題や独立料で折り合いがつかなかったとか、独立の後ろ盾になると見られていたCBSソニーが手を引いたためという話が取り沙汰された。

当初、南野は、いきなり独立するのではなく、まず所属レコード会社のCBSソニーに預かってもらうという予定を立てていたという。

松田聖子の独立でもCBSソニーが後ろ盾になっていたから、南野もそれと同じ方式で独立したかったのだろう。だが、立て続けにCBSソニーがタレントの独立に加勢するとなると、音事協サイドが反発する。CBSソニーが南野の受け入れを拒否したのは、そうした背景があったのかもしれない。

事態は収束したかに見えたが、南野は90年になって独立を果たし、個人事務所、サザンフィールドを設立した。この独立は報道もされず、音事協黙認していたという。サザンフィールドの取締役には、エスワンカンパニーの舘彰夫社長が就任しているから手打ちがあったのだろうか。

だが、歌手としての南野の人気は下降線をたどり、92年には歌手活動を休止することになった。その後、女優業に本腰を入れるためにケイダッシュに移籍している。

◆堤清二まで仲裁に入った南野ケイダッシュ移籍の真相とは?

南野のケイダッシュへの移籍については、『噂の真相』(2003年12月号)で触れられている。

当時、南野は音楽面でビーインググループのバックアップを受けていたが、ビーイングと敵対していたケイダッシュがそれを快く思わず、南野をドラマから排除していたという。この時、南野と家族ぐるみで付き合いのあったテレビ朝日のプロデューサーだった皇達也とセゾングループの堤清二が仲裁に入り、南野のケイダッシュ入りが決まった。

どうして、ケイダッシュはビーイングを目の敵にしていたのか。同誌の解説によれば、ケイダッシュの会長、川村龍夫は、所属女優だった高樹沙耶がビーイング代表の長戸大幸と交際していることを聞いて激怒したのが発端だったという。そして、「川村は飯倉のキャンティで長戸を捕まえ、トイレに連れ込んでボコボコにしたそうです。目撃者もかなりいたんですが、長戸はよほど強烈に脅されたのか、かたくなに『自分で転んだ』と言い張ってましたよ」という「ベテラン芸能記者」のコメントを紹介している。

タレントの盛衰は、タレントの能力以前に「政治力」で語られることが多い。つまり「バックはどこなのか?」ということだが、それは日本の芸能文化の発展に資するものではない。

 

▼星野陽平(ほしの ようへい)
フリーライター。1976年生まれ、東京都出身。早稻田大学商学部卒業。著書に『芸能人はなぜ干されるのか?』(鹿砦社)、編著に『実録!株式市場のカラクリ』(イースト・プレス)などがある。

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芸能界を震撼させた真実の書!『芸能人はなぜ干されるのか?』

 

『ジャニーズ50年史』(2014年12月鹿砦社)

このほど鹿砦社より、日本の男性アイドル市場に君臨するジャニーズ事務所の歴史を採り上げた『ジャニーズ50年史 モンスター芸能事務所の光と影』(ジャニーズ研究会=編著)が刊行された。

早速、拝読したが、読み応えは十分。豊富な資料と写真により、半世紀にわたるジャニーズの歴史を余すところなく描ききり、圧巻の内容だった。

私も5月に刊行された拙著『芸能人はなぜ干されるのか? 芸能界独占禁止法違反』(鹿砦社)で、ジャニーズ事務所について1章を設けている。ジャニーズの歴史についてはそれなりに調べたつもりだったが、それでも知らないエピソードが同書には多数収録され、ジャニーズ事務所の巨大さを改めて思い知られた。

2011年、ギネス・ワールド・レコーズは、ジャニーズ事務所総帥、ジャニー喜多川を「最も多くのコンサートをプロデュースした人物」「最も多くのナンバーワン・シングルをプロデュースした人物」として認定した。日本の男性アイドル市場に一大帝国を築いたジャニーズの功績は、あまりに大きい。

◆ジャニーズ=Johnny’s=ジャニーさんの所有物

だが、光があれば影がある。ジャニーズの栄光の陰で、ジャニーズ事務所所属タレントの多くは、ジャニーからホモセクハラ行為を強要され、金銭的にも搾取され、用済みとなれば容赦なく使い捨てにされた。同書は、そうしたジャニーズの闇についても、遠慮なく踏み込んでいる。

かつて芸能ジャーナリストとして活躍した竹中労は、1968年刊行の『タレント帝国』(現代書房)で、こう指摘している。

「ジャニーズ、英語で書けばJohnny’sである。Johnnyは人名で、’sは“所有”を意味する」

筆者はこれがジャニーズのすべてを物語っていると思う。ジャニーズ事務所所属タレントは、ジャニーの所有物なのだ。だからこそ、ホモセクハラや金銭的搾取が可能となる。

◆ジャニー喜多川を覚醒させた郷ひろみの独立劇

それが嫌ならば、逃げればいい。だが、ジャニーズ事務所所属タレントにはそれができない。なぜなら、ジャニーズ事務所は、日本の男性アイドル市場を完全に牛耳っているからだ。男性アイドルとして生きる道を選んだジャニーズ事務所所属タレントは、ジャニーから逃げることはできない。

ジャニーズ事務所が業界を独占する原動力となったのは、75年に起きた郷ひろみのバーニングプロダクションへの移籍事件だったと思う。

ジャニーにとって郷は理想とする少年アイドルであり、マネジメントにのめり込んでいた。だが、ジャニーが十二指腸潰瘍で赤坂の山王病院に入院している間に、郷の移籍は決まってしまった。移籍の原因は、金銭的不満とホモセクハラ行為にあったと言われる。

とはいえ、ジャニーは郷をスターにしようと全身全霊で取り組んでいたことは間違いない。それでも、郷は逃げてしまった。「主力商品」である郷を失ったジャニーズ事務所は倒産説も流れるほど経営が傾いた。

では、どうすればタレントに逃げられないようにできるか。その答えは、業界の完全支配しかない。郷の移籍事件以降、ジャニーズ事務所は矢継ぎ早に男性アイドルを世に送り出し、遂に業界を独占する力を持つに至った。

◆クライアントの商品にまで異を唱えた飯島三智×SMAPの全盛時代

ジャニーズ事務所の最盛期は、SMAPがもっとも人気を博し、今よりCDの市場規模が大きかった90年代末から2000年ごろだと思うが、当時のSMAPの力を象徴するエピソードを大手広告代理店関係者から聞いたことがある。

缶コーヒーの新CMの打ち合わせの席上、大手広告代理店の社員がSMAPのチーフマネージャーである飯島三智に今度、売り出すことになった缶コーヒーを試飲してもらったところ、飯島がこう言い放ったという。

「これはSMAPの味じゃない!」

大手広告代理店関係者は、こう言う。
「その後、缶コーヒーの味を変えたかどうかは分かりませんが、飯島さんの要求を受け入れて変えたとしてもおかしくないぐらい、当時のSMAPには勢いはありました」

有力タレントを擁する大手芸能事務所が番組のキャスティングや内容に口を出すという話はよく聞かれるが、CMで売り出す商品にまで口を出したのは、後にも先にも例がないのではないだろうか。

だが、そこまでSMAPが力を持っていたとしても、SMAPのメンバーが権力を持っていたわけではない。あくまで、SMAPを“所有”する飯島とジャニーズ事務所が力を持っていたということだ。

◆中居正広が木村拓哉よりも高所得である理由

そうした事務所による支配に嫌気が差したのか、SMAPでもっとも人気を獲得していた木村拓哉は90年代後半にジャニーズから別の大手事務所に移籍を画策し、騒動になったことがあった。そして、ジャニーズ事務所の意向を体現し、SMAPの分裂を抑えつけていたのが、SMAPのリーダー、中居正広だったと言われる。2005年に公表された芸能人長者番付によれば、前年の推定年間所得は、木村が2億7100万円、中居が5億1300万円だった。ジャニーズ事務所が査定で評価したのは、日本を代表する男性アイドルの木村ではなく、ジャニーズ事務所にとって都合のよい中居だった、ということではないだろうか。

タレントの盛衰は、単に実力で決まるのではなく、所属事務所の政治力や事務所間の談合がモノを言う。その象徴の1つがジャニーズ事務所による男性アイドル市場の独占だ。

だが、そうした不自然なシステムは、いつまでも続かないと筆者は考えている。日本の芸能界に変化が訪れるとしたら、ジャニーズも必ず激震が走るだろう。現在、83歳のジャニーが、いつまで事務所経営の陣頭指揮に当たれるか、という問題もある。今後もジャニーズの動きを注意深く観察してゆきたい。(評者=星野陽平)

 

『ジャニーズ50年史』(鹿砦社2014年12月1日発売)

『ジャニーズ50年史 モンスター芸能事務所の光と影』
2014年12月1日発売!!
ジャニーズ研究会=編 B6判 / 288ページ / カバー装 定価:本体1380円+税
【主な内容】
第1章 ジャニーズ・フォーリーブス時代 1958-1978
第2章 たのきん・少年隊・光GENJI時代 1979-1992
第3章 SMAP時代前期 1993-2003
第4章 SMAP時代後期 2004-2008
第5章 嵐・SMAPツートップ時代 2009-2014

▼[評者]星野陽平(ほしの ようへい)
フリーライター。1976年生まれ、東京都出身。早稻田大学商学部卒業。著書に『芸能人はなぜ干されるのか?』(鹿砦社)、編著に『実録!株式市場のカラクリ』(イースト・プレス)などがある。

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『裸足の季節』(1980年4月CBSソニー)

『裸足の季節』(1980年4月CBSソニー)

元祖ぶりっ子にして80年代を代表するアイドル歌手の松田聖子は数多くのスキャンダルに見舞われたが、その中でも最も大きな試練となったのが1989年に起きたサンミュージックからの独立事件だった。

聖子は78年にCBSソニーが主催したミス・セブンティーンコンテスト九州地区大会で優勝し、79年、サンミュージックに所属し、上京。80年、『裸足の季節』でデビューすると、瞬く間に人気歌手となった。

そして、サンミュージックに所属してから10年後の89年6月6日、聖子はサンミュージックの相澤秀禎社長を自宅に呼び出して、独立を宣言。6月末、契約解除となり、CBSソニー関係者の協力を得て、8月に東京都港区乃木坂の近くに新事務所、ファンティックを立ち上げた。

◆独立直後に始まった業界ぐるみの「聖子排除」

『天使のウィンク』(1985年1月CBSソニー)

独立の決断について聖子は、インタビューで「自分の生き方、仕事、そういうものに対して、“自分で”責任を持ちたいと思ったんです」(『週刊明星』89年8月31日)と説明している。聖子は90年になると、「Seiko」の名でアメリカに進出しているが、独立はその布石だったのだろう。

だが、売上の多くを占める聖子の独立はサンミュージックには大きな痛手だ。相澤社長は、昼から飲めないビールを飲み、周囲に「寂しい」と漏らした。他の芸能プロダクションにとっても、聖子の独立は所属タレントに影響を与えかねず、断じて許すことはできない。業界全体で「聖子排除」の動きが広がっていった。

『週刊大衆』(89年9月4日号)によれば、芸能リポーターの梨元勝は「彼女の場合は強引さが問題なんです。音事協(日本音楽事業者協会)の中にも、個人的見解として、今後同じようなことが起こっては問題、といっている人が何人かはいると聞いています」と、芸能評論家の藤原いさむは「相沢さんが彼女の今後の活動を邪魔するなんてことはないだろうし、そんな人間ではありません。しかし、周囲や業界はどうみますかね」とコメントしている。

『Precious Heart』(1989年11月CBSソニー)

『Precious Heart』(1989年11月CBSソニー)

音事協加盟の各芸能プロダクションは、聖子と自社所属タレントとの共演拒否をテレビ局に申し入れたため、聖子はテレビ出演の機会を失った。『紅白歌合戦』も落選し、CMの契約も次々と打ち切られた。

サンミュージックは聖子に独立に際して、他のプロダクションの協力を借りないことを条件として課していたから、聖子は芸能界で孤立した。

サンミュージックの会議室から聖子の写真が取り外されると、マスコミは号令をかけられたかのように聖子バッシングに走った。89年7月11日には、中森明菜が自殺未遂事件を起こしたが、「明菜の恋人である近藤真彦と聖子がニューヨークで不倫していたのが原因」などと、男性関係の噂話が次から次へと取り沙汰された。そして、「独立の難しさを思い知らされた聖子は、詫びを入れた上でサンミュージックに復帰する」という記事が次第に増えていった。インタビュー記事で聖子は当時を振り返って「人と会うのが恐った」と語っているが、独立の信念を曲げなかった。

◆音事協とマスコミのネガキャンが作り出した
「聖子=性悪女」というパブリックイメージ

89年11月15日、聖子は『夜のヒットスタジオSUPER』(フジテレビ)に出演し、新曲『Precious Heart』を歌った。前年の『紅白』以来、約1年ぶりのテレビ出演となったが、聖子以外の出演者は聖子と同じCBSソニー所属の歌手や俳優ばかりで、レコード会社はCBSソニー所属でも音事協系芸能事務所所属タレントは出ていなかった。音事協の幹部は番組の責任者に「どうして聖子を出したんだ」と激しく抗議したという。それだけでは飽き足らなかったのか、後日、週刊誌で「音程が外れていた」という相沢社長などのコメントが多数、掲載された。

松田聖子といえば「性悪女」のイメージが強い。2000年代までは週刊誌が「嫌いな女ランキング」を掲載すると、必ず上位につけていた。だが、そのイメージの大部分は聖子が独立した際、芸能界の意向を受けたマスコミが過剰なバッシングをした結果、大衆の脳裏に刻まれたものなのである。

▼星野陽平(ほしの・ようへい)
フリーライター。1976年生まれ、東京都出身。早稻田大学商学部卒業。著書に『芸能人はなぜ干されるのか?』(鹿砦社)、編著に『実録!株式市場のカラクリ』(イースト・プレス)などがある。

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◎《脱法芸能20》今陽子──『恋の季節』ピンキーの復帰条件は「離婚」
◎《脱法芸能21》岩崎宏美──芸能界の人間関係が白から黒へと豹変する瞬間
◎《脱法芸能22》薬師丸ひろ子──「異端の角川」ゆえに幸福だった独立劇
◎《脱法芸能23》八代亜紀──男と共に乗り越えた演歌という名のブルーノート
◎《脱法芸能24》堀ちえみ──ホリプロから離れ、大阪拠点で芸能界に復帰

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1983年、「ドジでノロマな亀」の日本航空の客室乗務員訓練生、松本千秋を『スチュワーデス物語』(TBS)で演じ、大ブレイクした堀ちえみは、その4年後の87年3月、20歳の誕生日を迎えた直後に芸能界から忽然と姿を消した。


[動画]堀ちえみ『青い夏のエピローグ』

ちえみは、81年にホリプロタレントスカウトキャラバンで優勝し、ホリプロに所属し、翌年82年、『潮風の少女/メルシ・ボク』でレコードデビュー。そして、その翌年には『スチュワーデス物語』の放送が始まり、大ヒット。ちえみの存在は社会現象となった。一見すると順調なタレント人生のようだったが、あまりの人気でちえみはプレッシャーに押しつぶされた。

87年3月、ちえみは、体調の悪化を理由に芸能活動を停止し、以降、実家のある大阪で休養し、事実上の引退状態となった。

『クレイジーラブ/愛のランナー』(1984年10月キャニオン・レコード)『愛のランナー』は花王エッセンシャルシャンプーCF曲で両A面仕様

◆作曲家=後藤次利との不倫スキャンダル

確かにちえみの体調は極度に悪化していた。デビュー当時、50キロあった体重は、1年ほどの間に14キロも減って35キロになり、「拒食症ではないか」と囁かれ、慢性的な不眠や胃痛にも悩まされた。

その主な理由とされたのが、作曲家の後藤次利との関係だ。86年7月、深夜、後藤がちえみのマンションから2人で出てくる写真を『FRIDAY』が掲載し、波紋が広がった。後藤は妻子ある身であり、2人の関係は許されざるものだった。

また、当時、後藤はおニャン子クラブを始めとするアイドルの楽曲を多数、手掛ける売れっ子であり、ちえみは芸能界を代表するホリプロに所属していた。業界でホリプロを敵に回して仕事をすることはできない。2人の関係はあっけなく破局した。

◆ホリプロにコキ使われ、身も心もボロボロに

休養宣言をした際のちえみの発言を当時の週刊誌から抜き出してみよう。

「もう東京に戻ってくることはないでしょう。それに2年、3年経ってからも受け入れてくれるのかわからないし、それが通じるほど甘くないですからね、この世界は」

「アイドルは人形じゃないんだし、私は自分の主張をもって生きてきましたから」

「芸能界に入ったのが間違いだった。今は体を治すことに専念したい」

「大人たちのトラブルに疲れました。芸能界に未練はありません」

「忙しいときには毎日、二、三時間しか睡眠がとれませんし、食事も楽屋やスタジオなんかでは、十分ぐらいで折り詰めのお弁当をかき込まなければなりません。ぜいたくいうわけじゃありませんが、毎日毎日、同じような幕の内じゃ食欲もなくなりますよ」

「(『スチュワーデス物語』出演中には、1シーン撮影するのに3度も4度も倒れたことさえあったが)だからといって、簡単に休んだりはできないわけです。私が穴をあけると、制作会社とホリプロの間がこじれちゃう。ホリプロには先輩や後輩もいるから、私のために迷惑はかけられないと、無理を重ねることになるんです」

「おカネですか。何も残りませんでしたね。私の場合、親も元気に働いているから、収入は少なくてもいいと思っていたんです。いま思えば、もう少し親孝行をする方法があったんじゃないかと……」

ちえみはアイドルとして大成功を収めた。だが、ホリプロにいいようにコキ使われ、稼ぎは搾取され、私生活も制限され、文字通り身も心もボロボロになってしまった。バカらくしてやってられない、というのが本音だったのだろう。

ホリプロの常務、石村匡正は、「休養して健康になり、ちえみがもう1度芸能活動をやりたいと考えたときの受け皿を用意しておいてやるべきだと私たちは思っています」と言っていたが、ホリプロとちえみの亀裂は修復されなかった。

◆大阪拠点で芸能界に復帰した理由

ちえみは外科医との結婚を経て休養宣言の2年後の89年、松竹芸能に所属して芸能界に復帰した。ホリプロの圧力で芸能界復帰は絶望的という説もあったが、松竹芸能の本拠地である大阪はホリプロの勢力圏外だったのだ。

今でもちえみが出演するのは、大阪のテレビ番組が多いが、その背景にはホリプロとの確執がある。

▼星野陽平(ほしの ようへい)
フリーライター。1976年生まれ、東京都出身。早稻田大学商学部卒業。著書に『芸能人はなぜ干されるのか?』(鹿砦社)、編著に『実録!株式市場のカラクリ』(イースト・プレス)などがある。

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カルテルや暴力、ギャラ、男女関係など、これまで本連載で解説してきたようにタレントの独立や移籍には、いくつかのパターンがあるが、それらが複雑に絡むのが、演歌歌手、八代亜紀のケースだ。

八代亜紀は、中学校を卒業してから、15歳で熊本から上京し、歌手を目指して銀座のクラブで歌っていたが、読売テレビのオーディション番組『全日本歌謡選手権』で10週連続勝ち抜きでグランドチャンピオンに輝き、1971年、テイチクより「愛は死んでも」でデビューした。73年には『なみだ恋』が120万枚を売り上げる大ヒット曲となり、スター歌手の仲間入りをした。

◆1980年の『雨の慕情』──縁起の良い8並びの年にレコード大賞を掴み取る

『Mr.SOMETHING BLUE - Aki's Jazzy Selection』(2013年3月20日日本コロムビア)

1980年には、五木ひろしと一騎打ちでレコード大賞獲得を争ったが、この戦いは「五八戦争」と呼ばれ、事前運動で多額のお金が飛び交ったとされている。それまで八代は、実力派と言われながら、なかなかレコード大賞を獲れなかったが、この年は、デビュー8周年、八代、80年代最初の年と、8並びで縁起がいいことから、八代陣営は大賞獲りに力を入れていた。「八代はレコード大賞を獲れなければ、所属事務所の六本木オフィスから独立する」とも言われていたが、結局、1億円も投じて事前運動を展開したと言われた八代が『雨の慕情』で大賞を獲得した。

ところが、翌81年、八代のレコード売上は激減してしまった。これに不満を持った八代は、事務所からの独立を口にするようになった。頭を抱えた六本木オフィスは、業界の実力者で長良事務所を経営する長良じゅん(神林義忠)に依頼し、長良が八代の独立を阻止したと言われる。

とはいえ、その後もレコードが売れないという状況は続いた。八代の不満は募り、その矛先が所属レコード会社であるテイチクに向けられ、81年12月、八代はテイチクとの契約を解除した。

『夢の夜 ライヴ・イン・ニューヨーク Live』(2013年8月21日ユニバーサルミュージック)

◆八代が出逢った男たち

八代がテイチクとの契約を解除した直接の理由は、テイチクの社員で八代の担当ディレクターだった中島賢二の退社だった。中島は八代が『全日本歌謡選手権』に出場していたころから交際し、二人三脚でスター街道を走り、妻子がある身ながら、八代の愛人と言われ、八代の個人会社の取締役も務めていた。

だが、八代のレコードの売れ行きが落ちてゆくと中島は社内での立場を失っていった。81年暮れに、八代は契約更新の条件として中島の昇進を申し入れたが、テイチクはこれを受け入れず、中島は退社に追い込まれた。八代は「育ての恩人を冷たくしたテイチクにはいられない」と主張し、テイチクとの契約を解除した。

82年1月、中島の友人でハワイで不動産業を営む清原兼定が社長となり、八代のためのレコード会社としてセンチュリーレコードが設立され、83年には中島も取締役として経営に参画した。

センチュリーレコードは、発足1年目は年商4億円とそれなりに稼いだが、八代の不振もあり、次第に業績を悪化させていった。センチュリーとしては八代以外の歌手も売り出したかったが、そうすると八代が機嫌を損ねてしまう。センチュリーレコードは、赤字に転じた。

そして、83年ごろ、八代が新宿コマ劇場で舞台の稽古をしていた時に、腰を痛めるアクシデントが起きた。本来ならば、ゆっくり休養を取るところだが、火の車のセンチュリーは八代に仕事をさせようとした。そして、この頃から、八代と中島は口論するようになり、85年の初夏には完全に破局したという。そして、八代の新しい恋人として浮上したのが、山口組三代目組長、田岡一雄の長男で実業家の満だった。

85年秋、八代は六本木オフィスから独立して、新事務所、AKI音楽事務所を設立した。この動きに六本木オフィスの幹部は激怒し、「八代をこの業界から追放してやる」と息巻いていたというが、さらに八代は86年1月16日、センチュリーレコードからコロムビアレコードへの移籍を発表した。寝耳に水のセンチュリーレコードは、これに慌てた。センチュリーレコードには、八代以外には有力歌手が所属していない。八代の流出は、経営危機に直結する。マスコミは、中島との関係終演が移籍の原因とはやし立てた。

レコード会社の業界団体である日本レコード協会には、レコード会社間での歌手の引き抜きを禁じるカルテルがあると言われる。また、大手芸能事務所が加盟する業界団体、日本音楽事業者協会では、タレントの引き抜き禁止、独立阻止で一致団結している。

筆者が調べた限りでは、レコード業界のカルテルの拘束力はあまり強くない。問題は芸能事務所間の移籍、独立だ。大手芸能事務所から独立して、干されたタレントは数知れない。

◆男を後ろ盾にレコード会社の圧力を乗り越える

八代の一連の独立、移籍劇の背景について、芸能ジャーナリストの本多圭は、こう指摘している。

「いろいろな情報が乱れとんだ。その中で信ぴょう性がある話がひとつだけあった。その内容は、『八代が田岡にレコード会社を移りたいと相談をもちかけたんです。そこに田岡がお嬢(美空ひばり)になんとかしてやってくれと頼み、それをお嬢がコロムビアの正坊地会長にリレーした』というものだった。(中略)寄ってたかって、八代潰しに奔走するはずだ。ところが、そういう声があったものの、動いた様子は見当たらない。八代のバックに田岡の気配を感じたに他ならないからと言えまいか」(『噂の真相』86年10月号)

女性タレントの独立、移籍事件が起きると、しばしば「男が入れ知恵をしている」と報じられる。女性タレントの独立、移籍を阻止するには、バックにいる「男」を潰さなければならない、というのが芸能界の論理であり、メディアもそれに引きずられる傾向がある。

近年のケースで言えば、沢尻エリカの独立や小林幸子の事務所社長解任事件、安室奈美恵の独立なども、その構図の中で起きた。

だが、八代の場合は、バックにいた男というのが暴力を背景に興行界に影響力を持つ大物であり、芸能界としても潰すに潰せない相手だったという点で事情が大きく異なる。

結局、八代に去られたセンチュリーレコードは、有効な対抗策を打ち出せず、86年7月に2度目の不渡り手形を出して事実上の倒産状態となった。一方の八代は翌月8月22日にコロムビア移籍第1弾シングル『港町純情』をリリースし、その後も芸能活動を続けていった。八代は男を乗り換えながら、自分の芸能人生を切り開く、たくましさを持っていたのである。

▼星野陽平(ほしの・ようへい)
フリーライター。1976年生まれ、東京都出身。早稻田大学商学部卒業。著書に『芸能人はなぜ干されるのか?』(鹿砦社)、編著に『実録!株式市場のカラクリ』(イースト・プレス)などがある。

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デビュー作『野生の証明』(1978年10月公開)。主演は11月10日に亡くなった高倉健。撮影当時の薬師丸は13歳

当連載ではこれまで、事務所から独立したために干されたタレントを多く紹介してきたが、独立後も干されないこともある。そのひとつが、角川春樹事務所から独立した女優の薬師丸ひろ子のケースだ。

薬師丸は、13歳の時に1978年公開の角川映画『野性の証明』の一般公募オーディションでヒロイン役に抜擢され、スクリーンデビューし、角川春樹事務所に所属した(出版事業を展開する現在の角川春樹事務所とは別会社)。その後も、多くの角川映画に出演したが、特に主演を務め、81年に公開された『セーラー服と機関銃』のヒットで一躍、スターとなった。

そして、1985年1月に、前年12月に公開された『Wの悲劇』でブルーリボン賞主演女優賞を受賞し、授賞式の席上、「20歳をすぎましたし、そろそろただのアイドルではなく、いろんな傾向の作品に挑戦して、芸域を広げたい。そのためにもフリーになりたいんです」と発言。同年3月26日、7年間所属した角川春樹事務所から独立することとなった。

◆薬師丸の独立に寛容だった角川春樹

当時の報道によれば、薬師丸の年収は2200万円。映画の年間配給収入が約40億円と言われていたが、稼ぎの割りに収入は多くはなく、ギャラへの不満が独立の理由と見る向きもあった。また、角川春樹社長が原田知世に力を入れだしたことや、自分で仕事を選べないことに対する不満も独立の原因ではないかと言われた。

通常、タレントが事務所から独立すると、元所属事務所や業界団体の日本音楽事業者協会(音事協)からの妨害やマスコミのバッシングが付きものだが、薬師丸の場合、そのようなことはなかった。

それどころか、薬師丸独立をめぐって、各プロダクションが激しい争奪戦を繰り広げ、契約金が2億円まで高騰したといった噂が流れ、既成プロダクションへの移籍説も生まれたが、結局、薬師丸は完全なフリーとして個人事務所、オフィス・メルを設立し、自ら社長に就任した。独立後の薬師丸には、仕事の依頼が殺到し、同年12月には、 独立後第1作の映画『野蛮人のように』(東映)が公開され、配給収入は86年の邦画で2位の14.5億円を記録した。

角川社長は、事務所を去る薬師丸に対し、仕事ができないよう圧力を加えるどころか、「ひろ子ならやられる、独立してひとりでやるなら」というはなむけの言葉を送ったという。

主演第2作の『セーラー服と機関銃』(1981年12月公開)。興行収入は47億円を越え、1982年の邦画部門最大のヒット作となった

◆出版から異業種参入した角川映画の栄枯盛衰

80年代の角川映画と言えば、薬師丸ひろ子、原田知世、渡辺典子の3人が支え、「角川三人娘」と呼ばれたが、薬師丸が去ると、三人娘が所属していた角川系列のマネジメント事務所が解散し、角川春樹事務所に吸収された。この時点で角川社長は女優育成に情熱を失ったと言われ、87年になると渡辺、原田が相次いで独立してしまった。80年代末になると、人気タレントの流出の影響もあり、角川映画は急速に力を失い、本格的に映画事業に参入したフジテレビがそのお株を奪っていった。92年、角川春樹事務所は角川書店本体に吸収され、幕を閉じた。

なぜ、角川春樹事務所には「タレント管理」で失敗したのだろうか。

そもそも、角川グループの本業は出版業であり、角川文庫の売上げ拡大を狙ったメディアミックス戦略の一環として映画事業があった。芸能プロダクション事業は、映画事業の展開のために始めたにすぎず、経営の核ではなかった。芸能プロダクション部門がなくても、角川グループとしては大きな痛手を受けない。

一方、いわゆる「芸能界」の芸能プロダクションは、タレントの斡旋により収益を得ているから、タレントが勝手に独立したり、移籍されることは死活問題だ。そのため、芸能プロダクションの業界団体、日本音楽事業者協会(音事協)では、タレントの移籍を禁じ、独立阻止で団結している。

映画界でもかつては五社協定と呼ばれるカルテルが存在し、映画メジャー同士で、俳優の引き抜きを禁じ、独立を阻止していたが、観客動員数の低迷により71年ごろに俳優の専属制度は崩壊していた。

角川映画は、76年に第1作『犬神家の一族』で出版という異業種から映画事業に新規参入し、一時代を築いたが、過去の五社協定のような俳優の専属制度を守る仕組みを復活させることは遂にできなかったのである。

▼星野陽平(ほしの ようへい)

フリーライター。1976年生まれ、東京都出身。早稻田大学商学部卒業。著書に『芸能人はなぜ干されるのか?』(鹿砦社)、編著に『実録!株式市場のカラクリ』(イースト・プレス)などがある。

戦後芸能界の構造を確かな視座で解き明かす星野陽平の《脱法芸能》

◎《脱法芸能17》ジミ・ヘンドリックスが強いられた「奴隷契約労働」

◎《脱法芸能18》ヒットチャートはカネで買う──「ペイオラ」とレコード大賞

◎《脱法芸能19》ちあきなおみ──芸能界の醜い力に消された『喝采』

◎《脱法芸能20》今陽子──『恋の季節』ピンキーの復帰条件は「離婚」

◎《脱法芸能21》岩崎宏美──芸能界の人間関係が白から黒へと豹変する瞬間

今日の電気も原発ゼロ 『NO NUKES voice』Vol.2

 

 

1984年9月1日、歌手の岩崎宏美が所属する芸能事務所、芸映から独立した。岩崎宏美の独立事件は、芸能界では典型的な部類に入る。

中学3年生の時、『スター誕生!』(日本テレビ)に応募した岩崎は、番組の最優秀歌謡曲を受賞して8社からスカウトされ、日本テレビ審査委員会の裁定で芸映と契約することが決まった。1975年、『二重唱(デュエット)』でデビューすると、その年のレコード大賞新人賞を受賞し、『紅白歌合戦』にも出場した。

雑誌『GORO』1975年12月23日号の表紙を飾った岩崎宏美。TV『スター誕生!』出身随一の実力派歌手は1975年に『二重唱(デュエット)』でデビューし、その年のレコード大賞新人賞を受賞した

その後も順風満帆な歌手生活を送った岩崎だったが、84年、転機が訪れた。岩崎は歌の仕事だけでなく、ミュージカルに挑戦したいと考えるようになったのだった。だが、ミュージカルに出演するためには、少なくとも1ヶ月は稽古しなければならない。当然、その間、歌の仕事はできない。所属事務所にとって、割の合わない芝居のために歌手としての活動ができなくなることは認められなかった。

結局、岩崎は独立の道を選び、個人事務所、スリー・ジーを設立した。ほどなくして岩崎が所属していた芸映は挨拶状を関係各所に送付したが、文面には「今後ともよろしく」という文言がなかった。

前年の83年には西城秀樹が芸映から独立していたが、この時は円満退社だと言われ、干されることもなかった。だが、岩崎独立の際は、円満退社ではなく、喧嘩別れだという噂がパッと広まった。岩崎は干され、テレビへの露出が極端に減った。

◆逆らった芸能人をテレビから締め出す音事協と大手芸能事務所の圧力

芸映といえば、1965年設立で芸能事務所としての歴史があり、河合奈保子、石川秀美、岸本加世子など十数人のタレントが所属する大手だった。テレビ局にとって芸映の存在感は大きい。岩崎と勝手に仕事をすれば、芸映との関係が悪化してしまう。テレビ局は岩崎の起用を控えるようになった。

芸映の鈴木力専務は『週刊大衆』(85年1月28日号)で次のように語っている。

「タレントを契約という紙切れ一枚で押えられるものではない。人と人の関係が基本、タレントを押えられなくなったら終わりだ。このプロダクションに居たから売れた、この人から離れたらダメになる、とタレントに思われなくてはダメだ。情熱を注げばタレントはついてくる。ほかではそうはならないことをよく知っている。プロダクションがタレントからなめられたら終わりですよ」

そして、それ以上に大きいのが多くの芸能事務所が加盟する業界団体の日本音楽事業者協会(音事協)の存在だ。どの芸能事務所にとっても所属するタレントが独立されることは痛手だ。岩崎の独立を認めれば、次々とタレントが所属事務所から去ってしまうという事態も想定される。大手芸能事務所は音事協を軸に結束し、テレビ局に対して岩崎を起用するなという圧力をかけ、後に続くタレントが出てこないよう共同戦線を張ったと言われる。

芸映の青木伸樹社長が音事協の会合の席で「岩崎の独立に協力するな」と発言したという噂が流れ、また、エイビーシープロモーションの山田広作会長は、こう述べている。

「(岩崎が)消えて当然だと思いますよ。それくらいの“見せしめ”は必要ですよ。音事協も断固たる処理をとったほうがいい」(『週刊大衆』85年1月28日号)

独立して芸能界で孤立した岩崎は、当時、このように語っていた。

「ウーン、一時、対人恐怖症みたいになったことはありましたね。そのとき人間ってオセロ・ゲームみたいだなあと思いました。いままで自分にとって白だと思っていた人が突然、黒にひょう変していくんですから(笑い)」(『週刊女性』85年4月2日号)

 

▼星野陽平(ほしの・ようへい)

フリーライター。1976年生まれ、東京都出身。早稻田大学商学部卒業。著書に『芸能人はなぜ干されるのか?』(鹿砦社)、編著に『実録!株式市場のカラクリ』(イースト・プレス)などがある。

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渡辺プロダクション元取締役の松下治夫は、著書の『芸能王国渡辺プロの真実。―渡辺晋との軌跡―』(青志社)の中でこう述べている。

「女性タレントを扱っていて、かならずといっていいほど直面するのは、やはり恋愛問題だ。恋愛沙汰というのは、タレントの商品価値を落とすことに直結する。イメージを損なってしまったら、その時点でそのタレントは終わりになってしまう。だから、ぼくらも慎重にならざるをえない。ぼくなんかは単刀直入に、恋愛をやめろ、と言う」

これが芸能界一般の常識である。前回紹介したように、ちあきなおみも郷鍈治との結婚を機に芸能活動が停滞し、カムバックの報道とともに離婚に向けた報道が流されたが、かつてボサノバグループのピンキーとキラーズで一世風靡した今陽子も、業界から仕事のために離婚を強要されたタレントの一人だった。

◆1968年の『恋の季節』

今陽子は1967年にビクターレコードからデビューしたが、曲はヒットせず、68年にキングレコードに移籍。そして、新たに結成されたグループ、ピンキーとキラーズのボーカル、ピンキーとなり、リリースされた『恋の季節』は240万枚という大ヒットとなり、今陽子は国民的アイドルとなった。

1968年に発売されたピンキーとキラーズの『恋の季節』は240万枚の大ヒット

だが、ピンキーとキラーズは72年に解散し、今陽子の人気も下降線をたどっていった。私生活では、74年にモデルの松川達也と結婚し順調だったが、ピンキーとキラーズとしてデビューしてから10年目の78年に突如として離婚騒動が持ち上がった。

78年4月15日、松川は深夜に帰宅し、翌日、友人を招いて麻雀をすることを思い出し、「おい、あしたマージャンするんだったら、おれがメンバー集めるぞ」と言うと、「私、それどころじゃないわよ。いまはそんな気になれないわ」と言葉をにごし、そのうち、真剣な顔をして「離婚したいんだけど……」と切り出した。

その理由は、「まわりの人たちからもいわれるの。“このままの状態では中途半端になっちゃう。歌手としてもういちどやりなおすんだったら離婚したほうが、過程をたいせつにするんだったら、歌手をやめるほうがいいんじゃないか”って」という。

そして、4日後の4月19日、松川が目を覚ますと、今は置き手紙を残し、仕事で仙台にでかけていた。手紙の文面は次のようなものだった。

「達也さんへ。なんだか、こういうことになってしまってごめんなさい。でも本当に楽しく平和な結婚生活でした。達ちゃんはやさしすぎるのです。だから私は悩むのです。そして理解がありすぎるのです。だから私は困ります。

(中略)

しばらくはさわがれるのでたいへんだけど、落ち着いたら、又デートをしたり食事をしようね。だからあんまり悲しまないで仲よく別れましょう。

ヘンな云い方だけど、お互いにこんなに好きなんだから、又人生のチャンスがあるかもしれないし、家へも(どこになるかわからないけど)遊びに来てね。とにかく一人になって達ちゃんが心配です」

そもそも、今と松川が出会ったのは、74年2月、東京、帝国劇場で行なわれたファッションショーでのこと。当時、トップモデルだった松川にゲストで招かれた今が一目惚れし、知り合って3ヵ月後に婚約を発表し、10月にホテルオークラで盛大な披露宴を開いた。手紙にあるようにその後の夫婦関係も円満そのものだった。突然、離婚を突きつけられた松川は、悪い夢でも見ているような思いがしたが、5月30日、2人は正式に離婚した。

◆復帰条件に「離婚」を強要される

離婚の原因は何だったのか。

『週刊平凡』(78年5月11日号)に、今の離婚騒動の内幕が書かれている。

78年1月ごろ、人気が低迷していた今に「もういちど死にもの狂いで再起してみないか」として、新曲『誘惑』の仕事の話が舞い込んできた。今の周囲の人間は「離婚してでもやる気があるのか」と問いただしたという。

さらに2月、西武劇場の8月公演での出演オファーが入ってきた。その時、「ヌードになれるか」「ピンキーという名を使えるか」「離婚できるか」という3つの条件が突きつけられたという。

仕事に行き詰まり、悩んでいた今は、これに飛びつき、離婚を決意したのである。離婚後、今は「恋はしたいけど、もう結婚はしないつもり」と語った。

その後、日本では、85年に男女雇用機会均等法が施行され、現在、政府は「女性が輝く日本」と銘打ち、女性が家庭と仕事を両立するための環境が整備されてきたが、芸能界はどうだろうか。

近年も、沢尻エリカが高城剛と結婚してから、所属事務所との関係が悪化し、その後、芸能界復帰の条件として離婚が突きつけられ、2013年12月28日に離婚が成立した。

芸能界では昔も今も明確な人権侵害が公然と行なわれ、それに対して非難の声が上がったことがない。一種の治外法権のような世界なのである。

 

▼星野陽平(ほしの・ようへい)

フリーライター。1976年生まれ、東京都出身。早稻田大学商学部卒業。著書に『芸能人はなぜ干されるのか?』(鹿砦社)、編著に『実録!株式市場のカラクリ』(イースト・プレス)などがある。

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