5・15事件90年、翼賛選挙・「近代の超克」80年 ── 繰り返される「戦中」にどう対抗するか さとうしゅういち

2022年は沖縄返還50年ですが、もっと遡ると、日本の近代史における「黒歴史」ともいえる事件から90年、そして80年となります。5・15事件から90年。そしていわゆる翼賛選挙、そして京大助教授らによる「近代の超克」から80年です。そして、軍部を「日本維新の会」(維新)や安倍晋三さんら自民党右派に、立憲政友会系を岸田総理ら自民党主流派に、立憲民政党系を立憲民主党に、京大助教授らを一時期の成功体験から卒業できない企業や広島県内の大手労働組合に置き換えると、まさに、いま、戦中が繰り返されているということが言えると思うのです。

◆5・15事件90年 政党の腐敗を追い風に昔は軍部・今は維新の人気が高まる

まず、5・15事件から90年。満州事変の翌年の1932年5月15日。海軍の青年将校が犬養毅総理を「問答無用!」と暗殺。政党政治はここで終了しました。しかし、政党政治の腐敗の不満から軍部への国民の期待が高まる中で、被疑者への甘い処分をもとめる民意が高揚。被疑者は軽い罰しか科せられず、1936年の2・26事件へとつながっていきます。既成政党のだらしなさへの憤りのいきおいあまって、「維新」への期待が高まってしまう。維新が少々の不祥事をやっても維新の支持率は下がらない。そういう現在の状況に似ていませんか?

◆翼賛選挙80年 軍国主義者が「革新」と持ち上げられる状況、現在に酷似

そして、今年はいわゆる翼賛選挙80年です。1942年4月執行の衆院選は、いわゆる翼賛選挙と呼ばれました。大政翼賛会系の候補には選挙資金が陸軍の機密費から出る、大政翼賛会に批判的な候補は政府により選挙妨害をうける。こういう選挙でした。当時はユダヤ人への今風にいえばヘイトスピーチで有名な四王天延孝中将ら、軍国主義者が「革新的」と持ち上げられて大量得票しました。これは、「維新」や「安倍晋三さん」がとくに若者から「革新的」とみなされている状況に似ていませんか?

ただし、この翼賛選挙を前に、腐っている、古くさいと指弾された既成政党、それも立憲政友会(立ち位置が今の自民党に近かった)よりはリベラルとされた立憲民政党(立ち位置が今の立憲民主党に近かった)も結局大政翼賛会に参加していたことも確認しておかなければいけません。

◆自民党と「国民ファースト維新の会」による「大政翼賛会」が迫っている

現代では、大政翼賛会一本に収斂されるまではひどくない、と思われるかもしれません。しかし、現代では擬似的な二大政党による翼賛体制がいままさに、構築されようとしているのではないでしょうか?自民党と補完勢力、いわゆる「ゆ党」による擬似二大政党制が起きようとしているのではないでしょうか?

すでに、衆院選2021で、連合の芳野会長は野党共闘を解体するほうへ、解体するほうへと動きました。こうした中で連合を基盤とする国民民主党は予算に賛成して事実上の与党に。一方で、国民民主党は参院選京都選挙区で維新と共闘をしています。

このままだと、参院選後にも、たとえば国民民主党、小池ファースト、吉村維新が合併した新自由主義政党、改憲推進政党「国民ファースト維新の会」誕生の公算が大きいでしょう。維新の支持層も連合の組合員も大手企業中堅以上のサラリーマンが多いという点で重なっています。維新が公務員を叩いてきたことで連合にも維新への反発はあります。しかし、公務員の組合が推薦した立憲民主党でも、公務員ボーナスカットには賛成してしまいました。「まあ、維新でもいいか」と思ってしまう組合員もすくなくないと思います。従って「国民ファースト維新の会」実現への障壁はそう高くはないでしょう。

◆野党第一党や組合がふがいない広島、平和都市なのに大政翼賛会化の先頭

一方で、立憲民主党も広島をふくむいくつかの選挙区では国民民主党と野合しています。広島はこのままでは、まさに、自民党の高級官僚出身世襲現職と、立憲・国民の野合にかつがれた元タレント新人による、「与党と補完勢力による独占」になりかねない情勢です。というか、そもそも、広島は、自民党と野党を自称した補完勢力による2議席独占がずっと続いていたといっても過言ではありません。

広島では野党といっても、原発や武器製造の大手企業の組合だのみなのが立憲民主党さんです。自民党系の知事でさえ進める脱炭素に懸念を表明したり、原発に対するスタンスを曖昧にしたりする参院議員がおられるのが広島の立憲民主党さんです。自民党官僚市長の提案する議案に、自民党系の一部の会派の議員以上に賛成してネオリベ市政を支えているのが立憲民主党の市議の皆様です。そして、再選挙2021で筆者が立候補した際、「俺の地域に出入りするな」と脅してこられた党員がおられるのが広島の立憲民主党さんです。中央の立憲民主党からも想像がつかぬような「補完勢力」ぶりです。広島のこのような大政翼賛会ぶりは、日本の大政翼賛会化を先取りしているといえるでしょう。

◆「近代の超克」と大差ないお笑い「日本すごい」

さらに翼賛選挙の年に「近代の超克」というスローガンが、当時の京都大学の哲学科の助教授らから出され、人々にウケていたことにも言及しなければなりません。「近代の超克」は、大ざっぱに申し上げると「日本は近代のチャンピオンである米英などを乗り越えた!」という趣旨の言説です。確かに、第一次世界大戦を契機に西洋の没落ということも言われてはいました。しかし、一方で、アメリカと日本の国力の差は歴然としたものがありました。日本はアメリカを乗り越えたどころか、コテンパンにやっつけられてしまうのです。この悲劇は日露戦争で勝利したことの成功体験から卒業できていないこととも関係あるのでしょう。

いま、日本は、また大いなる勘違いを繰り返そうとしています。「日本すごい」です。そのすごいはずの日本ですが、いまや、介護用手袋もマレーシアの企業に勉強にいかないと作れません。ひとりあたりGDP購買力平価では、韓国や台湾などに抜かれました。いわゆる失敗国家をのぞけば唯一といっていいほど、この30年間で給料が上がっていません。男尊女卑や報道の自由度の低下もさんたんたるものがあります。

広島県内でも結局、原発製造をふくむ重厚長大産業でひとりあたり県民所得(GDP)が全国3位だった1975年ころの成功体験から、企業ももちろん、行政、与野党の大多数も卒業できず、今日に至っています。

◆街頭や挨拶回りでも実感する大政翼賛会化

筆者は参院選を前に県内全域の有権者の皆様と対話しています。また、れいわ新選組チーム広島は街頭で憲法についてのアンケートにとりくんでいます(写真)。

 

その中で「いま、まさに、戦中が繰り返されている」と強く感じています。ありていに申し上げれば、筆者に対して男性有権者の方からは、「維新から立候補したほうがいいのでは?」とのお言葉をいただき、女性有権者の方からは、「自民から立候補したほうがいいのでは?」とのお言葉をいただく機会も以前より劇的に増えています。

また、れいわ新選組チーム広島による憲法についてのアンケートでも、「ロシアやコロナがこわいから憲法を変えたほうがいい」という趣旨のご回答がめだちます。一方で自民党の改憲案については、ご存じない方がほとんど、という状況があります。かくたる根拠はないが、なんとなく、ながされていく。これも実は戦中の日本に酷似しているといえるでしょう。

◆まずは冷静に考えていただくことだ

しかし、ここで陥ってはいけないのは、有権者を見下すような議論です。「改憲すればコロナ対策は安心」「ウクライナは核兵器をもっていないからロシアにやられた。だから日本はもつべき」などの有権者の思考回路もきちんと分析する必要がある。その上で有権者の皆様に以下のことを考えていただくことではないでしょうか?

自民党や補完勢力がいうような緊急事態条項で総理に権限を集中させる形で憲法を変えたらコロナ対策がうまくいくのか?

ソバや小麦などをウクライナとロシアで多くをつくっている中で、国内でろくにつくれない日本が軍備だけ増やして意味があるのか?

ウクライナ以外にも大国に対抗して核兵器を持ち出す国が次々現れたら核戦争のリスクは増えるのでは?

今までの原発製造ふくむ重厚長大産業に過度に期待する産業政策で広島の将来は大丈夫なのか?

正直、現時点の広島では、頭ごなしに正論をぶっても反感だけがのこると感じます。まずは冷静に考えていただく。そういう作業の積み重ねがいまは大事なように思います。

こういう二大政党による大政翼賛会化の背景には小選挙区制もあります。筆者は小選挙区制の廃止も公約していますが、まずは、いまのピンチを切り抜けないといけません。

もちろん、筆者としても、参院選立候補へ向けた準備は続けますが、他方で広島県選挙区において、自民党と補完勢力による独占をふせぐため、最大限の努力もしていまいります。

▼さとうしゅういち(佐藤周一)
元県庁マン/介護福祉士/参院選再選挙立候補者。1975年、広島県福山市生まれ、東京育ち。東京大学経済学部卒業後、2000年広島県入庁。介護や福祉、男女共同参画などの行政を担当。2011年、あの河井案里さんと県議選で対決するために退職。現在は広島市内で介護福祉士として勤務。2021年、案里さんの当選無効に伴う再選挙に立候補、6人中3位(20848票)。広島市男女共同参画審議会委員(2011-13)、広島介護福祉労働組合役員(現職)、片目失明者友の会参与。
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沖縄「返還」(併合)50年を迎えて ── 鹿砦社代表 松岡利康

5月15日、沖縄が日本に「返還」(併合)されて50年が経ちました。

50年前の5月15日、私はデモの中にいました。ビルの谷間に空しくこだまするシュピレヒコールが記憶に残っています。

1972年5月15日付けの『琉球新報』
1972年5月15日付けの『沖縄タイムス』
 
映画『沖縄決戦』ジャケット

事実上の沖縄決戦は前年の1971年でした。『沖縄決戦』という映画も作られ放映されました(監督・岡本喜八、脚本・新藤兼人、東宝。8月14日封切り。俳優も、小林桂樹、仲代達也、丹波哲郎、加山雄三、田中邦衛、大空真弓、酒井和歌子ら錚々たる布陣)。映画の中で、終戦間近、敗色濃い沖縄決戦直前、大本営は精鋭部隊の派遣をドタキャンし、その理由として「沖縄は本土のためにある。それを忘れるな」と語っていますが、ヤマトンチュのこの意識は「返還」後もずっと続き、今はどうでしょうか。

返還協定調印(6月)から批准(11月)まで沖縄現地、「本土」ともに激しい抵抗がなされました。翌72年は、連合赤軍事件があったりで、沖縄「返還」に対する抗議行動は、わずかにブント戦旗日向派が「5・13神田武装遊撃戦」を最後の火花のごとく実力闘争で闘ったことが記憶に残るぐらいです。同派は前年、精鋭の「共産主義武装宣伝隊」が権力中枢の外務省に突入を試みたことがありましたが、5・13は、権力の中枢とは程遠い御茶ノ水での闘いでした。かなりの数の逮捕者を出しましたが、それだけの逮捕者を出してまでもやるのなら、もっと権力中枢でやってほしかったところで残念です。

70年安保闘争が1970年その年の闘いではなく、67年羽田闘争から69年秋期決戦まで続き雌雄が決っしたように、沖縄決戦は、1971年に大きなうねりとなり闘われ敗北しました。

71年5・19沖縄返還協定調印阻止闘争(京都)
71年6・17沖縄返還協定調印阻止闘争(東京)

よく69年の闘いに敗北し、その後の反戦運動、社会運動、学生運動(以下それらをまとめて「運動」と略称します)がそこで終わったかのように記述されますが、70年にも闘いを続ける人たちはまだ多くいました。当時私も大学に入ったばかりで「遅れてきた青年」(大江健三郎の同名の小説のタイトル)でその運動に参加しました。今と違い学園には立看が林立し日々多くのビラが撒かれました。深夜喫茶などもあって、夜遅くまで喧々諤々の議論が交わされました。熱い季節はまだ続いていました。

1971年には、三里塚闘争も山場を迎え、また国公私立大の学費値上げ阻止闘争と連繋し沖縄闘争が闘われました。当時のドキュメント映像が時に放映されますが、みな真剣でひたむきな目をしています。この頃の時代の空気や闘いの記録、記憶は、昨年に発行した『抵抗と絶望の狭間 一九七一年から連合赤軍へ』に、詳細な年表と共に、多くの執筆者が書き記している通りですので、未読の方はぜひご購読いただきたいと思います。

11・14沖縄返還協定批准阻止闘争(東京渋谷)
11・19沖縄返還協定批准阻止闘争(東京日比谷)
72年5・15偽善的「返還」にひとり気を吐いたブント戦旗日向派の72年5・13神田武装遊撃戦

◆盛り上がった運動に水を差した分裂と、死者を続出させた内ゲバ

1971年の運動は盛り上がりましたが、それに水を差したのは運動の分裂と、死者が続出した内ゲバだといえます。

運動の分裂としては、新左翼最大党派の一つブントが、いわゆる戦旗派(日向派)と連合派(関西派、さらぎ派、神奈川)に4・28沖縄デーでの日比谷公園でのゲバルトで分裂に決着、これが第二次ブント最後の分裂かと思いきや、以後も分裂や離合集散を繰り返しています。ブントは、60年安保前夜に結成、60年安保闘争を闘い、その後分裂し、ようやく66年に再建しましたが、以来毎年のように分裂してきました。なんのための再建だったのでしょうか。

また、対立はありつつも表面上は分裂を回避してきた新左翼系の統一運動体・全国全共闘(八派共闘)が、6月15日に大きく二つ(奪還派〔中核・第四インター〕と返還粉砕派〔解放派・フロント・ブント・プロ学同など〕)に分裂しました。

さらに沖縄の青年組織も、「沖縄青年委員会」(略称「沖青委」。中核派と共闘)と「沖縄青年同盟」(略称「沖青同」。解放派等と共闘)に分裂し、前者は皇居突入、後者は国会内で爆竹を鳴らすなどの抗議行動を行いました。

分裂はしつつも死者を出すまでもなく、各派、各組織ともに権力(当時の佐藤政府)に対して懸命に72年欺瞞的「返還」に抗議・抵抗しました。

71年4・28 ブントの内ゲバ(東京日比谷公園)
 
71年6・15 全国全共闘の分裂

ところが、中核vs革マル間の内ゲバが、70年に革マル派学生が1名亡くなった後も続き、71年には横浜国大寮で革マル派学生が中核派に襲撃され1名が死亡(10月)、革マル派も反撃し学費値上げ反対闘争を闘っていた関西大学のバリケードを深夜襲撃、そこにいた中核派の中心的活動家2名が亡くなっています(12月)。そのうち1名は面識があった人でした。

さらに、これはあまり知られていませんが、沖縄人民党(「返還」後に共産党に合流)民青が琉球大の寮で革マル派を襲撃、1名死亡させています(6月)。

この当時、沖縄人民党の党首は、ここ数年ヒーロー扱いされている瀬長亀次郎でした。私はよく言うのですが、瀬長を持ち上げる人たちは、その事件をどう考えるのか、教えていただきたいと思います。瀬長が、駐留米軍と闘ったことと共に、この死亡事件に対しどう対処したのかも併せて考えないと瀬長の総合的な評価はできないんじゃないでしょうか。

そうして決定的だったのは、72年3月に発覚した連合赤軍事件でした。この事件については、前出『抵抗と絶望の狭間』はじめ本年になって続々と刊行された書籍を参考にしてください。

沖縄人民党民青による革マル派襲撃1人死亡

◆沖縄は変わったのか?

沖縄が「本土」に「返還」(併合)されて50年、果たして沖縄は変わったのでしょうか?「本土」との往来は自由になったとはいえ、相変わらず米軍の基地が、沖縄本島のかなりの面積を占め、米軍関連の事故や事件もなくなってはいません。観光産業が基幹産業で、国家的に抜本的な産業振興策もあまり聞かれませんし経済的にも恵まれているとはいえません。

50年前の私たちのスローガンに「沖縄の侵略前線基地化阻止!」がありました。当時沖縄は、ベトナム戦争のまさに最前線でした。では、ベトナム戦争が終わったからといって、米軍基地が沖縄からなくなったでしょうか。いわずもがなです。今はアジア支配への最前線、日米安保体制の要であり続けています。沖縄に米軍基地がなくなれば、どれほど美しい島になるでしょうか。基地に働くみなさんの生活はどうする? 政府がきちんとした経済政策を採ればいいだけの話です。沖縄県は「返還」以来、いわゆる「革新」知事が長かったこともあるのか、自民党政府も、お金が要る経済政策はおざなりだったのではないでしょうか。

沖縄の民意は基地反対! 辺野古新基地を問う県民投票の結果を報じる『琉球新報』
同じく『沖縄タイムズ』

「返還」直前の70年12月、米兵の乱暴狼藉が続き、日米両政府への不満が一挙に爆発したのが、70年12月の「コザ暴動」でした。一時「騒乱罪」が適用されようとしましたが不起訴になりました。当時のコザ(現在の沖縄市)は『あめりか通り』(ネーネーズ)という歌になっているように繁栄していたようですが(当時行ったことはありませんので記録や語りで察するしかありませんが)、今は閑散としています。数年前に一度行って驚いた次第です。「これがあの『コザ暴動』が起きた街か」と感じたことを覚えています。

私が生まれ育った熊本は沖縄の方々が多い街でした。一時は30万人といわれたそうです。なぜ鹿児島ではなく熊本かといえば、沖縄は島津藩に支配され苛められたからでしょう。中学校、高校の裏手の市営住宅には沖縄出身の方々が多く住んでいて友人も少なからずいました。今住んでいる関西も、その規模は熊本を遙かに凌ぐものです。60年代からの高度成長期、西宮の隣の尼崎は阪神工業地帯の中心として鉄鋼、造船で栄え、特に多く、(これはあらためて調べようと思いますが)沖縄県人会で市議を出していたという話を聞いたことがあります(実際に沖縄をルーツにする市議はいるので、このことを言うのでしょうか?)。いつしか尼崎から基幹産業の鉄鋼、造船はなくなり(と同時に公害もなくなりましたが)、今はパチンコと風俗の街になったとさえ揶揄され残念ですが……。

そうしたことの悲哀を歌ったのがネーネーズの『黄金(こがね)の花』(作詞・岡本おさみ、作曲・知名定男。1994年)で、知名先生も一時は尼崎に住んでおられたそうです。

「家族を故郷、故郷に置いて泣き泣き、出てきたの」――当時(今もそうでしょうが)沖縄には産業らしい産業はなく、多くの方々が、いわば出稼ぎに、主に関西に出てこられたようです。当時は船で移動していましたから東京よりも近い関西ということになったのでしょう。大阪大正区や港区には「リトル・オキナワ」と呼ばれる地域もあります。

「黄金で心を汚さないで 黄金の花はいつか散る」
「黄金で心を捨てないで 本当の花を咲かせてね」

涙が出るような歌詞です。先に書いた「琉球の風」で、ネーネーズのこの歌を聴いていた「かりゆし58」の前川真悟君が涙ぐんでいた映像が残っていますが、聴く者すべてに感動を与える曲です。

ちなみに、作詞の岡本おさみは鳥取出身で、『島唄』の宮沢和史、『さとうきび畑』『涙そうそう』の森山良子、後述する『沖縄ベイ・ブルース』の阿木燿子・宇崎竜童夫妻もヤマトンチュであり、特に山梨県出身の宮沢和史は『島唄』を発表した当初、かなり拒絶されたそうですが、そのひたむきさに知名先生は「いとおしくなった」と仰っていました。

◆これからも沖縄・奄美と共に

これからの日本は、どう転ぼうが沖縄を度外視してはやっていくことはできません。また、忘れられがちな奄美も含めて考えていかないといけないでしょう。ちなみに、沖縄と奄美は対抗意識があるようで、例えば、沖縄は「島唄」、奄美は「シマ歌」ですし(かつて奄美出身の歌者を招きライブを行い、そのフライヤーの原稿が「シマ歌」となっていたので「島唄」と直したところ校正で「シマ歌」と修正され教えていただきました)、沖縄は「泡盛」、奄美は「黒糖焼酎」ですしね。

1971年の沖縄返還協定調印→批准阻止闘争が、60年代後半の闘いに匹敵するほど盛り上がりつつも、運動の分裂や内ゲバの激化を大きな要因の一つとして敗北し、中途半端な形で「返還」(併合)がなされてしまいました。私たちヤマトンチュは、50年余り前の当時、沖縄「返還」(併合)の本質的な意味を理解するに十分ではなく、ともかく「返還」はよかったんだという意識がなかったか? いろいろ反省すべきことが多く、「返還」50年ということで、先のGWに考えながら塞ぎ込んでしまいました。

最後に『沖縄ベイ・ブルース』(作詞・阿木燿子、作曲・宇崎竜童。1976年)の一部を挙げておきます。阿木・宇崎夫妻が「返還」から5年も経たないのに、沖縄の現状を鋭く見つめていたことに驚きます。ここでいう「約束」とは「核抜き・本土なみ」ということですが、いまだにこの「約束」は履行されていません。――

「♪約束はとうに過ぎて 影ばかり震えてるの
今すぐ旅立てるよう 手荷物はまとめてあるわ」

「アーン アーン 聞き違いなの 教えてよ
アーン アーン 待ちぼうけ残して
青い鳥が逃げた」

「約束はオウム返し 唇に乗せてみるの
窓からの月の光 心の壁突き抜けるよ」

「アーン アーン 勘違いなの 教えてよ
アーン アーン 忘れた顔をして
青い鳥が逃げた」

(文中、一部を除き敬称略。また、半世紀も前の話なので記憶違い等があればご指摘ください)

ウクライナ戦争をどう理解するべきなのか〈2〉帝国主義戦争と救国戦争の違い 横山茂彦

一般的に、保守派・右派がウクライナ政府を支援し、左派がロシア連邦を支持している、と思われがちだ。ロシアが社会主義革命の聖地だからだろうか。あるいは保守派のなかにも、アメリカの覇権主義を警戒して、プーチンを支持する人がいる。アメリカのネオコンを中心にした、ディープステートの世界支配を唱える元駐ウクライナ大使馬渕睦夫など、トンデモ系(史実・事実の論拠なし)の著作や発言に飛びつくのは、しかし左右を問わない。

妄想を論拠にしたトンデモ議論に付き合えばきりがないので、ここでは引き続き、左翼の理論的な混乱を解説していこう。右翼にはほとんど合理的な理論指針がないので、メディアの画像をちゃんと見ている人たちは、大きな誤りに陥らないとも言えよう。

前回は、第一次世界大戦に際しての第二インターの分裂をたどってきた。

ウクライナ戦争をどう理解するべきなのか〈1〉左派が混乱している理論的背景

第一次大戦は、それまでの民族的な国境紛争や王家の継承戦争といった、いわば絶対主義王政時代(近世ヨーロッパ)の戦争とはちがう。帝国主義段階の拡張政策・市場再分割がおもな動因であった。

そして兵器の高度化とともに、戦争動員が国民的な経済資源と人的資源にまで及んだ、いわゆる「総力戦」となって顕われてきたのだ。そこで、左派も戦争に対する態度が問われてきた。

第二インターの指導者であるカール・カウツキー自身は戦争に反対の立場だったが、分裂を回避するために祖国防衛の立場をとっている。のちに、レーニンか「プロレタリア革命と背教者カウツキー」としてこき下ろされる。

だが、帝国主義論においては現在のグローバリズム(資本の国際化)が、カウツキーの「超帝国主義論(世界大に発展した帝国主義諸国は、もはや協調に至らざるをえない)」を実証した。ぎゃくにレーニンの帝国主義間戦争の必然性は、第二次大戦以降は証明されていない。もちろん代理戦争と呼ばれる、地域戦争や紛争は後を絶たないが、兵器の発達が帝国主義国同士の世界戦争を回避させているのだ。

◆レーニンの戦争革命論

第一次大戦までの左翼(共産主義者・社会民主主義者)は、帝国主義本国にあって自国の敗北のために闘う路線を採っていれば良かった。自国帝国主義打倒とプロレタリア国際主義である。帝国主義本国においては、これは今日も変らない。

この帝国主義本国内の左翼反対派は、よく「サヨクは反対論ばかりで政策がない」と謗られる原因だ。ある意味ではラクな政権批判であり、対案なき批評なのである。対案がないということは、単なる悪口にすぎない。

新左翼の老舗雑誌といわれる『情況』でも、国防論特集を組んだときに、オールドボリシェヴィキ(団塊以上)から猛反発が起きたものだった。かりに政権交代があったときに、旧民主党の鳩山政権のようにトータルな国防政策を欠いた「沖縄米軍基地撤去」の空公約では、政権は立ちいかない。そのあたりの政策遂行能力の有無は、現在の日本の左派においては、いまだに重大な欠陥となっている。

ともあれ、戦争に疲弊する本国政府の政治危機を衝いて、プロレタリア階級が政治権力を奪取した。これが、マルクスの「窮乏化革命論」「恐慌革命」にたいする「戦争を内乱・革命政権の樹立」として定立された。戦争革命論である。じっさいにロシアでは第一次大戦の疲弊に乗じた革命政権(1907年2月・10月)が成就したのだった。

革命ロシアはひきつづきドイツ革命・イタリア革命で、世界革命を展望できると考えられていた。しかし、そうはならなかった。反革命の国際的な干渉とドイツ革命の敗北によって、レーニン率いるボリシェヴィキは世界革命の展望をうしない、やがてスターリンのもとで一国社会主義の道を歩むことになるのだ。そのかんに、革命ロシアはウクライナをはじめとする周辺国にソビエト政権を打ち立てて、ソビエト連邦へと併呑していく。これは周辺国を内戦の渦に叩き込むことになった。

◆ウクライナ・ロシア戦争

階級問題を軸心としたマルクスの思想と理論が、民族問題の解決を射程に入れていなかったことに、ボリシェヴィキは逢着したのだ。

帝国主義と民族植民地問題において、レーニンが民族自決の原則と、その上での連邦制を主張したのに対して、スターリンはソビエト連邦への上からの吸収を主張していた。この議論が決着を見ないうちにレーニンは没する。ちなみに、米大統領ウイルソンの民族自決の原則(第一次大戦後)は、レーニンの提案を容れたものだ。
現実のソビエトは、周辺諸国の民族派を弾圧し、工業化のための農産物の供出を強要し、膨大な餓死者を強いていたのである。ちなみに、ウクライナ・ロシア戦争は1917年から足掛け5年におよんでいる。ロシアとウクライナの紛争は、いまに始まったことではないのだ。

ともあれ、ロシアにおいてはボリシェヴィキが政権をにぎり、プロレタリアートがソビエト権力を担うことになった。したがって、帝国主義の干渉にたいして「国防」が問われることになったのだ。

プロレタリアートとその党が帝国主義内部にあって、自国帝国主義を打倒する闘争に終始するのとちがい、みずから赤軍を国軍として組織して、防衛戦争を組織しなければならなくなったのだ。

レーニンがブレスト・リトウスク条約でドイツと停戦・講和し、革命政権を保ったのは、革命政権を維持する苦肉の策である。そして戦時共産主義経済と新経済政策で、ソビエト政権は農民を犠牲にした工業化をはかる。とりわけ農業地帯への締め付けは過酷だった。

そしてスターリン革命と称される第二次五か年計画の過程(1932年~)で、ウクライナの農産物は中央政府に徴発された。これは社会主義的原始的蓄積とも称され、同時に農場の集団化・国有化が行なわれた。

これをウクライナでは、スターリンのホロドモール(ウクライナ語でホロドは飢饉、モールは疫病を示す)という。それはまた、スターリンが「ウクライナ民族主義」を撲滅する過程でもあった。

◆ナチスドイツのバルバロッサ作戦

さて、前段で左翼の政策能力を問題にしたが、侵略戦争に遭遇したときほど、その政治能力の有無が問われることはない。

現在のウクライナ政権は、ロシアの侵略戦争に対して、NATOの支援頼みだとはいえ、じゅうぶんにその能力を発揮しているといえよう。はたして、ゼレンスキー政権の戦争継続を批判する日本の左翼は、自分たちが侵略戦争に遭遇したときに、どんな行動をするのだろうか。

非暴力(無抵抗)で虐殺されるのか、それとも降伏して強制移住させられるのか、ぜひとも意見を訊いてみたいものだ。スターリン麾下の革命ロシアも、第二次世界大戦に否応なく巻き込まれた。ナチスドイツの東方侵略である。

ドイツ総統アドルフ・ヒトラーは、ソビエト連邦との戦争を「イデオロギーの戦争」「絶滅戦争」と位置づけ、通常の占領政策をとらなかった。つまり、最初から虐殺のための戦争として発動したのだ。

1941年6月22日、ドイツ軍は「バルバロッサ作戦」としてソ連を奇襲攻撃した。ヨーロッパのドイツ占領地から反共主義者の志願者、武装親衛隊によって徴発された人々がドイツ軍に加わった。外交官加瀬俊一によれば、この反共討伐軍は、ヨーロッパでは人気があったという。

開戦当初、ソ連軍が大敗を喫したこともあり、歴史的に反ソ感情が強かったバルト地方や、共産党の過酷な政策からウクライナの住民は、ドイツ軍を「共産主義ロシアの圧制からの解放軍」と歓迎した。

とくに東欧の反共産主義者は、ロシア国民解放軍やロシア解放軍としてソ連軍と戦った。プーチンが「ウクライナ民族主義者たちは、ナチスに協力した」とするのは、一面では当たっているのだ。

ところが、スラブ人を劣等民族と認識していたヒトラーは、彼らの独立を認める考えはなく、こうした動きを利用しようとしなかった。親衛隊や東部占領地域省は、ドイツ系民族を占領地に移住させて植民地にしようと計画し、これらは一部実行された。

ヒトラーは『我が闘争』において、ドイツ人のための生存圏を東欧・ロシアにもとめ、ドイツ人を定住させることを構想していた。そこではドイツ人が「支配人種」を構成し、スラブ系住民のほとんどを根絶またはシベリアへ移送し、残りを奴隷労働者として使用する構想だった。

◆大祖国戦争

当時、スターリンによる粛軍によって、ソ連軍(赤軍)は弱体化していた。1941年の夏までにウクライナのキーフ、ハリコフが陥落した。ドイツ軍は9月には、モスクワ攻略作戦を発動する。最新鋭の6号戦車(タイガー)を主力にした機械化師団、ユンカース急降下爆撃機の支援で、圧倒的な戦力をほこるドイツ軍はモスクワまで十数キロに達した。ところが、この年は冬の訪れが早かった。戦車隊は雪と泥濘で進撃を止められ、戦局は膠着した。スターリンが「大祖国戦争」を呼号したのは、このときである。

アメリカ大統領フランクリン・ルーズベルトが、ソ連への武器供与を決断したのも、ドイツ軍のモスクワ攻囲が完成した時だった。現在のウクライナ戦争(ロシアの侵攻)とよく似ていることに気付くはずだ。

さてこのとき、左翼(共産主義者)は自国帝国主義(アメリカやイギリス)の武器供与に反対すべきだっただろうか? フランスでは共産主義者をふくむ抗独レジスタンスが、やはり米英の武器供与(空輸)を受けていた。米英の左派は、この武器供与に反対するべきだったのだろうか。史実は反ファシズム戦争として、民族ブルジョワジーから民族主義右翼、社会主義者・共産主義者がこぞって、ナチスドイツの軍事侵略に反対し、民主主義擁護の戦争に参加したのである。

このように、帝国主義戦争においては、かならず民族的な抑圧・虐殺が起きる。帝国主義間戦争のなかに、かならず反侵略の自衛戦争が生起する。このときに、自国の平和だけを唱える者はいない。少なくともマルクス主義左翼は、国際共産主義者として、抑圧民族の自衛戦争を支援・参加するはずだ。

だがなぜか、今回のウクライナ戦争において、日本の新左翼と反戦平和市民運動はそうではないという。やはり革命ロシアの記憶がプーチンを擁護させるのだろうか。それとも「戦争」という言葉それ自体に、忌避反応してしまうのだろうか。次回は民族解放戦争に論を進めよう。

◎[関連リンク]ウクライナ戦争をどう理解するべきなのか
〈1〉左派が混乱している理論的背景
〈2〉帝国主義戦争と救国戦争の違い

▼横山茂彦(よこやま・しげひこ)
編集者・著述業・歴史研究家。歴史関連の著書・共著に『合戦場の女たち』(情況新書)『軍師・官兵衛に学ぶ経営学』(宝島文庫)『闇の後醍醐銭』(叢文社)『真田丸のナゾ』(サイゾー)『日本史の新常識』(文春新書)『天皇125代全史』(スタンダーズ)『世にも奇妙な日本史』(宙出版)など。

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なぜ原発事故被害者への本人尋問が必要なのか ── 薬害エイズ訴訟弁護士の講演より 民の声新聞 鈴木博喜

薬害エイズ訴訟や薬害肝炎訴訟など、医療現場での人権侵害に取り組んで来た鈴木利廣弁護士が4月22日、「浪江原発訴訟」の報告集会で講演した。同訴訟は事実上の現地検証に続き、原告本人尋問が始まる。なぜ裁判官に現場を見せ、原告の想いを聞かせることが大事なのか。鈴木弁護士の言葉からは被害当事者が直接、語りかけることの重要性が伝わってくる一方、被害者がそこまでしなければ被害救済につながらない「原発事故」の罪深さを改めて考えさせられる。

「浪江原発訴訟」では今月26日、小川裁判長など3人の裁判官が実際に浪江町を訪れる「現地進行協議」(事実上の現地検証)が実施される。裁判官が現場を見たり、原告の説明を聴いたりすることでどういう印象を受けているのか。心証形成にどのような影響を及ぼすのか。鈴木弁護士は2000年3月に「ハンセン病国家賠償請求訴訟(東日本訴訟)」で行われた現地検証での経験を例に挙げた。

「群馬県草津町の国立ハンセン病療養所『栗生楽泉園』を訪問。全ての説明を原告自ら行いました。そして、吉川裁判長が正門前で,園を離れるに際して参加者全員にこう語りかけたのです。
『今,私はここを去りがたい思いでいます。このことは私も忘れることはありません』
私は、裁判長の感極まった様子を目の前で見ていました。彼の言葉を聞き、やはり現場を見るというのは大事なことなのだと思いました」

「浪江原発訴訟」の報告集会で講演した鈴木利廣弁護士。裁判官による現地検証や原告本人尋問の重要性を語った

次回6月22日の期日からは、原告本人尋問が始まる。12月の期日まで4回にわたって実施される予定だが、原告代理人弁護士が質問する主尋問でも緊張で思ったように答えられないうえに、被告国や東電の代理人が行う反対尋問では、原告を圧迫するような意地悪な質問が矢玉のように飛んでくる。そこまでしてでも被害者は法廷に立たなければならないのか。鈴木弁護士は「裁判官の目を潤ませられるか否かで勝敗が決まる」という言葉を口にした。

「なかなかそのようには感じられないかもしれませんが、裁判官も人間なんです。法廷で目頭が潤んでしまい、まばたきをすると涙がこぼれてしまいそうになったので鉛筆を故意に落とした裁判官がいました。鉛筆を拾うときに法服で目を拭ったそうです」

たしかに、原発事故後の裁判では、原告の言葉に目を潤ませたように見えた裁判官は複数いる。そこまで心に訴えかけることができれば判決にも好影響しそうだが、それには相当の苦痛が伴う。仙台高裁判決が確定した「中通りに生きる会」の損害賠償請求訴訟(被告は東電のみ)でも、多くの原告が涙を流しながら陳述書を書き上げた。封印していたはずの被曝不安や怒りに再び直面しなければならないからだ。鈴木弁護士は「つらい経験を忘れたいと考えるのは人間として当然のこと」としたうえで、「弁護士もつらい」と語った。

「本人尋問では、かさぶたを強引に引きはがして傷口をもう一度さらけ出し、そこに塩をまいてタワシでこするというような悲痛なことを代理人弁護士はやっています。しかし、本人尋問の重要性は『裁判官に原告の被害体験を聴かせて、救済しなければならないという意識を持たせる』ことです。被告の主張に裁判官が引きつけられるのか、原告の被害実態に引きつけられるのかが勝負。かさぶたをはがしてでも被害の実相を裁判所に伝えなければならない。弁護士もつらいのです」

一方、本人尋問を経て原告が強くなるという。

「原告自身が被害体験を思い起こし、改めて自認する。この作業には覚悟と学習が必要です。でも、被害救済への共感を拡げるための闘いのエネルギーは、本人尋問手続を経て初めて本物になると言えます。薬害エイズ訴訟では苦しい本人尋問を耐えて耐えて、ようやく終わったら『もう怖いものはなくなった』と口にした原告がいました。その人は実名を出して街頭で被害の実態を語るようになりました」

いくら代理人弁護士や支援者が努力をしても、最後は当事者が声をあげなければ、当事者が訴えなければ世論を喚起することはできない。

1995年に来日したアメリカの人権派弁護士アーサー・キノイ氏は、こう述べたという。

「誤解を恐れずに言えば、裁判に勝つことよりも民衆の怒りに火をつけることの方が重要だ」

「裁判なんかどうでも良いと言っているのではありません。仮に敗訴したとしても、民衆の怒りに火がつけば紛争は解決すると。勝訴したとしても民衆の怒りに火がつかなければ金だけで終わって紛争は解決しないということを意味しています」(鈴木弁護士)

「浪江原発訴訟」は今月26日に事実上の現地検証を実施。次回6月の弁論期日から原告本人尋問が始まる

民衆の怒りに火をつけるには、裁判官に現場を見せることに加え、原告が改めて被害に向き合い、想いを語るつらい作業は避けられない。それが鈴木弁護士の言う「覚悟」ということだ。そして、最後に勝利をたぐり寄せるのは原告だと強調した。

「闘いの序盤には、勝利は原告団の手の届かないところにあります。原告団だけでは勝利は難しい。到底無理です。それを手の届くところに近づけるのが弁護団の役割。しかし、手の届くところに近づいてきたとき、それをつかみとれるのは原告団だけです。原告団でなければつかみとれない。弁護士がつかみとろうとしても逃げられてしまうのです」

勝訴をつかみ取るのは原告本人。他方、そこまでしなければ真の被害救済につながらないのもまた、原発事故。国や東電には被害者に真摯に向き合う姿勢が改めて求められる。

鈴木利廣弁護士は1947年、東京生まれ。1976年に弁護士登録をし、1989年からは「東京HIV訴訟」(薬害エイズ訴訟)弁護団の事務局長。2002年提訴の「薬害肝炎訴訟」では弁護団代表に就任。「薬害オンブズパースン会議」の代表も務めており、プロフィールには「弁護士人生の約2/3を『医療と人権』の課題に取り組んできた」と書くほど、20年にわたり医療問題に取り組んで来た。2004年からは明治大学法科大学院教授として後進の育成に力を注いでいる。

【浪江原発訴訟】2018年11月27日、福島地裁に提訴。原発事故による損害賠償として「コミュニティ破壊慰謝料」、「避難慰謝料」、「被曝不安慰謝料」を合わせた1100万円、集団ADRの和解案を東電が違法に拒否したことによる精神的損害として110万円の計1210万円を一律に支払うよう請求している。浪江町民は2013年5月29日、精神的損害に関する賠償の増額などを求め集団ADRを申し立てた。しかし、東電は原子力損害賠償紛争解決センター(ADRセンター)の再三の勧告にもかかわらず6度にわたって和解案の受諾を拒否。2018年4月5日をもって打ち切られていた。訴訟の狙いは、①国と東電の原発事故における責任を明らかにする、②浪江町民の一律解決、③浪江町民の被害の甚大さを広く訴え、慰謝料に反映させる、④東電のADR和解案拒否に対する追及─の4点。

▼鈴木博喜(すずき ひろき)
神奈川県横須賀市生まれ。地方紙記者を経て、2011年より「民の声新聞」発行人。高速バスで福島県中通りに通いながら、原発事故に伴う被曝問題を中心に避難者訴訟や避難者支援問題、〝復興五輪〟、台風19号水害などの取材を続けている。記事は http://taminokoeshimbun.blog.fc2.com/ で無料で読めます。氏名などの登録は不要。取材費の応援(カンパ)は大歓迎です。

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横浜副流煙裁判「反訴」の第1回口頭弁論、藤井敦子さんが口頭陳述、「事実的根拠のない診断書に基づいて4518万円を請求された」 黒薮哲哉

横浜副流煙事件「反訴」の第1回口頭弁論が、10日、横浜地裁で開かれ、原告の藤井敦子さんが「(被告らは)事実的根拠のない所見を記載した診断書に基づいて高額請求に及んだ」として、裁判所に厳密な事実検証を求める上申書を口頭陳述した。

被告の作田学・日本禁煙学会理事長ら4人と、代理人の山田義雄弁護士、片山律弁護士は欠席した。原告側からは、藤井さんと古川健三弁護士とが出廷した。

※被告は、第1回口頭弁論に関して欠席が認められている。

山田・片山の両弁護士が提出した答弁書

この事件は2017年11月にさかのぼる。藤井さん夫妻と同じマンションに住むAさん一家(夫妻と娘)が、藤井家の煙草が原因で「受動喫煙症」に罹患したとして、4518万円の損害賠償を起こした。しかし、藤井家からは、副流煙はほとんど漏れておらず、たとえ漏れていたとしても、気象庁の風向きデータによると、藤井家が風下になることが多く、A家への煙が流入していたとする主張には根拠がなかった。さらにA家3人の診断書のうち娘のものを、作田医師が診察せずに交付していたことが分かった。もちろん娘と面識はなかった。これは医師法20条違反である。

つまりA家の3人は、違法行為の下で作成された診断書を根拠として、4518万円の金銭請求を行ったのである。喫煙の禁止を請求しただけならともかく、高額の金銭請求を行ったのだ。

それが訴権の濫用にあたるとして、藤井夫妻は前訴の判決が確定した後に、A家の3人と診断書を作成した作田医師に対して約1000万円の損害賠償裁判を起こしたのである。

ちなみに藤井夫妻の地元、横浜市青葉区の青葉警察署は、2022年1月、作田医師を虚偽診断書行使の疑いで横浜地検へ書類送検した。横浜地検は、不起訴としたが、検察審査会が「不起訴不当」の議決を下した。

今回の民事訴訟は、A家による損害賠償裁判、藤井夫妻らによる刑事告訴に続く第3弾である。法的措置の前段の時期を含めると、事件は勃発から6年目に入っている。

◆山田弁護士、「今なお重大な健康被害を被っている」

被告の訴訟代理人山田弁護士(A家の3人の担当)は、10日に裁判所へ提出した答弁書の中で、「被告Aらが、原告らの喫煙によって今なお重大な健康被害を被っていることは厳然たる事実である」と述べ、現在も健康被害の原因が藤井さん夫妻にあるという事実を摘示している。

しかし、藤井敦子さんは、喫煙者ではない。夫の将登さんは、喫煙者であるが、自宅では1日に2、3本吸う程度である。しかも、喫煙場所は、防音装置がある密封性が高い音楽室に限られている。

前訴の確定判決で、Aらの健康被害と藤井将登さんの喫煙との間に因果関係は存在しないことが確定している。従ってAらの健康被害はタバコ以外に原因がある可能性が高い。

片山律弁護士(作田医師の担当)は答弁書の中で、作田医師の医師法20条違反を認定した前訴・横浜地裁判決について、「判決記載内容の限度で認め、その余は否認ないし争う」と述べている。今後、作田医師の医療行為が医師法20条に違反しないとする主張を展開する可能性が高い。

また藤井夫妻らが起こした刑事告発については、「虚偽告訴等罪を構成する可能性もあるため、被告作田においては、同罪についての告訴も検討している」と述べている。

原告の藤井敦子さんは、自宅で英語を教えている

【藤井敦子さんの上申書全文】

私は前訴において被告となった藤井将登の妻、藤井敦子です。この上申書では、本件裁判の被告らが、前訴(平成29年(ワ)第4952号事件)で請求した4518万円の根拠とした3通の診断書により、私たち原告がどのような被害を受けたかを述べさせていただきます。これらの診断書は被告・作田学医師が作成したものです。そのうちの一通は医師法20条に違反して自ら患者を診察しないで交付された違法なものでした。

事実的根拠のない所見を記載した診断書に基づいて被告らは高額請求に及んだのです。

平成29年12月5日、A家からの1通の訴状が我が家に届きました。これを機として、以後、4年のあいだ私たちの生活は翻弄され続けました。

長年にわたり、盆踊りやお神輿、高齢者の歌の会など多くのボランティア活動を行っていた私は、裁判に巻き込まれた後、これらの活動を中止せねばならなくなりました。裁判に時間を費やさなければならかった事情もありますが、「被告藤井家」の噂が地元で広がっており、誤解や噂がさらに伝播するのを恐れたのもその理由のひとつです。

年老いた義父母に対しても、私は接し方で迷いました。90歳を過ぎた義父母に対して、息子将登が4500万円もの裁判に巻き込まれたなどと告げることは出来ません。伝えれば義母などショックで寿命を縮めかねないと思いました。従って、未だ義父母には、裁判のことを伝えていません。

提訴されるまでは、同じ団地に住む義母の所へ月に2回ほどお喋りに行くことが、私の大きな楽しみの一つでありました。が、裁判を起こされたことで、私は笑うことが出来なくなっていました。義母が「何かよくない事が起こっている」と察してしまうのを危惧して、私は会いに行くのをやめました。

一度だけ、控訴審で裁判所にいた時、うっかり義母からの電話に応えてしまったことがあります。すると、義母は私の声の様子がただならぬと察し、その後、随分長い間、「あの時何があったのか」と聞き続けました。

兵庫県に住んでいる実父には、事情を話しました。そして頻繁には帰省できなくなったことを理解してもらったのです。

4500万円という金額を他人から請求されるのは想像を超える屈辱でした。大きなストレスになりました。ちょうど住宅ローンを払い終える時期でしたから、また借金をせねばならないのかという不安にかられました。請求額全額が全額認められることは無いとわかっていましたが、一軒の家を買えるぐらいの金額ですから、一時も平穏ではいられませんでした。

提訴された日にインターネットで作田医師について調べると、作田氏は日本禁煙学会という全国規模の反喫煙団体の長であることが判明しました。また作田学という名前とともに「禁煙ファシズム」という言葉も検索で出て来ました。その人物が「藤井将登が犯人である」と根拠ない診断書を交付したわけですから、当然、日本禁煙学会の政策目的が背景にあると考えました。実際、診断書の中で作田医師は、被告家族が重篤な病気になったのは、私の夫によるタバコの副流煙だと事実摘示をしています。現場に来たこともないのに、憶測でこうしたことを所見として記述したのです。夫を勝手に「犯人」にして、「禁煙撲滅運動」のマニュアルどおりのストーリーに仕組んだことは明らかでした。

診断書は、警察がわが家の捜査をはじめる根拠にもなりました。前訴が提訴される前後、藤井家に神奈川県警青葉署が2度にわたり来訪して取り調べを行いました。最初に刑事が来たのは、平成29年8月25日でした。2度目は12月27日でした。夫をなんとか犯人に仕立て上げようとしていることは明白でした。その偏見の根拠となっていたのが作田医師の作成した事実的根拠のない診断書でした。しかし、刑事らは、診断書の所見と整合するような事実はなにも確認できませんでした。2度とも深く謝罪して、わが家を後にしたのです。

ちなみに被告A妻と前訴の原告代理人山田義雄弁護士が、当時の神奈川県警本部長斎藤実に対し、わが家を取り調べるように陳情を行っていた事実も判明しています。夫に対して最初に内容証明を送りつけてきたのも、3通の診断書が交付された直後でした。これらの診断書が常に事件の根底にあるのです。

前訴の控訴審において、被告・A夫がある資料を証拠として提出しました。それは我が家を4年間監視したことを裏付ける日記でした。そこからは被告A夫が日常的に、我が家の行動をチェックしていた様子が読み取れます。特に、駐車場に夫の車があるか無いかを確認していたことがうかがわれます。車が無い時に、「臭う」とA夫が感じれば、その原因は私か娘の煙草だと疑っているようでした。裁判の中で、私は、何度か「私と娘は喫煙者ではない」と被告側に伝えましたが、彼らには私達が嘘をついているとしか映っていなかったようです。

受動喫煙の被害についての記録をつけることは、日本禁煙学会の「お困りになったら、こうしましょう」というマニュアルにも明記されています。裁判を起こしたり警察を動かすための証拠が必要だからにほかなりません。そして提訴の段階になると、日本禁煙学会の医師が診断書を作成するのです。

私は、患者の自己申告だけを鵜呑みにした診断書の作成は絶対にやってはいけないと思います。

まして客観的な証拠がないのに、自己申告だけをそのまま書いた診断書を根拠に裁判で法外に高額な金銭を請求することは訴権の濫用に該当します。診断書は、医師が患者本人を直接診察して、客観的な事実だけを記入するのが原則です。作田医師は、その原則を踏み外しました。

裁判所にはこの点に鑑みて、慎重に審理していただきたいと思います。

▼黒薮哲哉(くろやぶ・てつや)
ジャーナリスト。著書に、『「押し紙」という新聞のタブー』(宝島新書)、『ルポ 最後の公害、電磁波に苦しむ人々 携帯基地局の放射線』(花伝社)、『名医の追放-滋賀医科大病院事件の記録』(緑風出版)、他。
◎メディア黒書:http://www.kokusyo.jp/
◎twitter https://twitter.com/kuroyabu

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黒薮哲哉『禁煙ファシズム-横浜副流煙事件の記録』

デタラメ過ぎる大阪カジノ構想を止めさせよう! ゴールの5月25日まであと15日、暴走する荒馬・維新を振り切るぞ! 尾崎美代子

大阪維新は、夢洲に日本人客をターゲットにしたカジノを作ろうとしている。公金(税金)は絶対使わないと公言していた松井市長だが、昨年末、公金をつぎ込むことが判明、潮目が一挙に変わってきた。議会の合意を得た大阪府は、国に申請を行ったが、まだまだカジノは止められる! 勝負の要は「カジノの是非を問う住民投票実施に向けた署名」の数だ。

5月3日憲法集会場が開かれた北区扇町公園の入口で行われた署名活動
桜田照雄阪南大学教授

◆吉村「秋には認可……」のウソ

維新のカジノ構想の欺瞞とウソを更に深く知るために、5月4日「カジノを止めよう!」緊急学習会を行った。講師・阪南大学教授桜田照雄教授のお話の中から重要な個所をまとめた。

はじめに「カジノの町の今~江原ランド」を視聴。2000年に開業した韓国の江原ランドは、韓国で唯一韓国人が利用できるカジノだが、9年後周辺に金融屋、質屋、風俗店が立ち並び、カジノホームレスが増え、若い子育て世帯は外に出ていく事態に陥ってしまった。

桜田教授の話では、夢洲のカジノ計画書の売り上げは、江原ランドの7~8倍を想定しているという。

博打というのは、博打をして7%の寺銭が入る仕掛けで、1兆円賭けたら700億がカジノに落ちる。夢洲のカジノでは、粗利を約5000億円と想定しているので、ざっと6兆円の賭博をやらないといけない(ちなみにJRAの全国合計が約3兆円)。

それには、年間1070万人(20歳以上の10人に1人)が6000円払って入場し、全員が60万円賭け、24時間365日フル稼働しなくては成り立たない。いまどき、そんな商売が実現可能だろうか?!


◎[参考動画]カジノの町はいま09′ ~韓国江原ランド~

吉村知事は盛んに「秋にも認可」と口にする。「議会通って国に申請したから、今更反対しても無駄や」と。しかし、国が認可しなければカジノは開けない。国が認可するためには、カジノ実施法の基準をクリアしなければならない。そのカジノ実施法の基準とは何か?

2018年7月に安倍首相(当時)は、参議院本会議で民主党杉尾議員の質問に対して「国際競争力の高い魅力あるIR施設でなければ区域整備計画の認定を行わない」と答えた。国際競争力とは何か? マカオのカジノと夢洲にできるカジノを比べたときに、夢洲に来るとなるかどうか。カンボジア、フィリピン、ウラジオストック、ベトナムにあるカジノと比べて国際競争力があるかどうか。ベトナム、カンボのカジノに行くのは、警察力が弱いから、悪いことができるからで、ソウルのカジノに行くのは、空港降りてすぐで便利だからだ。では夢洲はどうか?

◆夢洲カジノで大阪は潰される?

夢洲に出来るカジノは、従来のカジノと全く違って、6400台ものゲームマシンを予定している。10年先だから、どれだけバーチャルリアリティの技術が発達するかわからない。ただのスロットではなく、ポスト5Gという、例えば中国で操作するとブラジルで機械が動くような話が実現するようなゲームマシンになるだろう。

入場料6000円払っても惜しくないというマシン。当然オンラインカジノという形で、夢洲にサーバーを置いて、日本全国、世界各地から賭博ができるという仕掛けになるだろう。日本はゲーム機械の開発や中身をつくるのは世界トップクラスだから、オンラインでも楽しめるのに、わざわざ夢洲にいくという値打ちを出すようなゲーム機械を開発していくのではないか。

一方、カジノで、約5000億円という数字が粗利(あらり)として出ているが、実際の事業計画では粗利は4200億円、その差額約800億円は販売促進費だという。約800億円を販売促進費にかけて、ゲームに依存する感覚をもっている人たちをターゲットにした広告戦をやり、年間約1100万人をカジノに引き込む。広告代理店やマスメディアの前には、800億円ものデカイ商売がぶら下がっている。儲けるのはカジノ関連業者のみ、大阪経済は「カニバリゼーション」(共食い)の発生で確実に破壊されるだろう。

◆大阪カジノ誘致の最大の障害は「カジノ実施法」

カジノ誘致の最大の障害はカジノ実施法で、これは、カジノ施設だけではだめで、国際会議場や家族で楽しめるエンターテインメント施設等が一体になっている施設でないと認めないということだ。家族で楽しめるエンターテインメント施設など今の社会で実現しためしはない。

今のエンターテインメントは、「鬼滅の刃」にしろ、後楽園球場に3日間で15万人動員した韓国の少女グループにしろ、ターゲットを徹底的に絞っている。そんなところに世代を超えたエンターテインメント施設をつくらないと、カジノ実施法を満たさないという。

国際競争力についても、家族が世代を超えて楽しめるということについても、猛烈な詭弁を使わなければ通らないだろう。だから私たちも、まじめに誠実に向き合って、カジノ実施法を反対運動の味方につけていく必要がある。

◆国に認可されなければ、カジノはやめられる!

4月26日、共産党・宮本議員の質問を通じて、国土交通省は、①残土や汚泥処理、地中埋設物撤去の認定審査の基準となる。②認定はゼロもありうること。③認定に要する期間の定めがないので、認定がいつになるのかわからないことを明らかにした。2023年4月末日までに認可がない場合には、大阪府・市はカジノ事業者との契約を解除できると基本協定書で定めている。

吉村もそれを知りながら「秋には認可が……」と平然と言う。さすがスラップ訴訟の弁護士だ。

①について、地中埋設物、掘り起こして処分するのに20億円もかかるものが埋まっているはずはないという。これを説明されたとき、松井市長は「なんでもありや」といったそうだが、その通りである。夢洲の土地を埋めるにあたっては、約20年間はなんでもありだった。これは僕(桜田教授)が港湾局に情報公開請求で問い合わせて明らかにした。

②の認定はゼロもあるという話。認定に要する議会の定めがないので、認定がいつになるかわからないことが明らかになった。認可をだす国土交通省の大臣は、大阪府と市がオリックス・MGM とで交わした契約には拘束されない。吉村は「契約があるから守ってもらわんと困る」などと言ってくるだろうが、そんなことは専門家の間では通じない。そういうことを平気でいうのが維新のやり方だ。

2023年4月末までに、認可がない場合、大阪市はカジノ事業者との契約を解除できると定めている。認可されなかったら止めればいいのに、何故やめないのか。理由を説明してくれというと「決まっているから仕方ない」というだろう。国が認可するかどうかわからないし、認可しなければ止めることも出来る。それをカジノ反対派に言わせず、「反対しても仕方ない」と反対派の足を鈍らせる。それが維新の狙いだ。

◆人工島・夢洲に高層建造物は超危険!

夢島がある大阪湾は、洪積層地盤が沈下する、世界でも稀な地盤だ。7000年前の大阪湾は陸上で、そこに注ぎ込んできた様々な河川が土地をえぐりとって深い谷ができたり、複雑な地形をつくってきたため、非常にもろい。

しかも、夢洲の護岸計画は、そもそも高層建築物を想定していない。東京で高層ビルを建てる際の重さの計算は、1平方あたり100トンの荷重がかかると想定し杭を打つ。30~40メートルの地中の杭を100~200本打った上に高層物を建てるが、夢洲はそれを想定していない。しかも夢洲は、周囲を囲んだ箱の中に土をいれているので、重いものを置くと、下の力だけでなく横の力が働くため、護岸を強化しない限り持たない。

そこに高層建築物を作るとなったら、護岸の強化工事から始めないと無理だ。夢洲の場合、平均90~100メートル当たりまで掘らないと、硬い地盤にあたらない。温泉掘るのも1メートル当たり10万というから、100メートル掘るだけで1000万円、そこに1本2000万~5000万の杭を300本~500本位打たないと建物は建てられない。そんな工事やってまで、夢洲に高層建築物を建てなくてはいけないのか?そう質問しても、大阪市は一切口を閉ざしている。

もう1つ、土壌汚染、液状化問題は、公募の際に判明していた。オリックス・MGMは、それを知ってて申請した。それなのに何故、府と市が土壌対策に公金を出す必要があるのか?オリックス・MGMが自腹切るべきではないか。

こんな吉村、松井のウソ八百を並べた、まさに八百長賭博のような維新のカジノ計画の真実を、メディアは追及しない、できないでいる。ならば、私たちがどんどん広めていこう!「カジノはいらない!」「カジノの是非は住民が決めよう」の署名を増やし、力を見せつけていこう!ゴールの5月25日まであと15日、暴走する荒馬・維新を振り切っていこう! まくれ!

▼尾崎美代子(おざき みよこ)
新潟県出身。大学時代に日雇い労働者の町・山谷に支援で関わる。80年代末より大阪に移り住み、釜ケ崎に関わる。フリースペースを兼ねた居酒屋「集い処はな」を経営。3・11後仲間と福島県飯舘村の支援や被ばく労働問題を考える講演会などを「西成青い空カンパ」として主催。自身は福島に通い、福島の実態を訴え続けている。
◎著者ツイッター(はなままさん)https://twitter.com/hanamama58

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〈原発なき社会〉を求めて集う 不屈の脱原発季刊誌 『季節』2022年春号(『NO NUKES voice』改題 通巻31号)

れいわ新選組チーム広島と共に、西日本大水害2018最大の被災地・坂町と唯一合併拒否の竹原市を呉線で街宣紀行 さとうしゅういち

筆者とれいわ新選組チーム広島は4月28日、安芸郡坂町と竹原市を街頭宣伝や挨拶回りしました。移動は行きは呉線でおこないました。

発災後半年以上経過した2019年1月12日に筆者がボランティアにうかがった際の様子

安芸郡坂町は西日本大水害2018では最大の被災地のひとつとなりました。とくにこの日うかがった小屋浦地区では、災害発生から半年以上たっても、土砂が広島市安芸区や安佐北区の被災地の直後の状態並にまだ堆積しており、息をのんだのを記憶しています。

さて、この日はまず、早朝、坂町役場前で街宣。れいわ新選組は、国家公務員給与の引き下げに反対し、現場公務員は非正規を正規にすることもふくめてふやす方針です。いま、立憲民主党さんさえも給与の引き下げに賛成し、連合も芳野会長が報道されているように労働者の味方とは正反対の状況です。

筆者は、演説では立憲批判は避けつつ、公務労働者の皆様が安心して町民のための仕事ができる環境を整える政策はれいわが一番である、などと訴えました。

続いて、呉線で小屋浦地区へ移動しました。バスも検討したのですが、なにぶん本数が少ないので(右の写真の時刻表)断念しました。

小屋浦地区の街宣ではさとうしゅういちとれいわ新選組の「何があっても心配するな。そんな国をあなたと一緒につくりたい」政治姿勢を紹介。

「ガツンと財政出動」で「コロナの前から厳しくコロナが追い打ちをかけ、さらにロシアのウクライナ侵攻による輸入物価高騰でおいこまれているあなたの暮らしを底上げする」「内外の災害に対応する災害救助隊の創設」や「減らしすぎた自治体現場の公務員をふやして危機管理を強化するとともに雇用をふやす」政策、また「安くて追い出されない住宅」で災害にあっても心配ない国を、などとうったえました。

さらに、大水害となった川沿いのお宅を一軒ずつ訪問しました。「4年前の水害でボランティア活動にうかがいました。その後、どんな様子か気になりおじゃましております。」とご挨拶をさせていただきました。


◎[参考動画]小屋浦駅前での街宣の様子の動画

写真中央は筆者。左が2018大水害、右が明治大水害の石碑

「災害が原因でスーパーの機能を果たしていたJAが撤退して買い物難民が増えている。移動販売だのみだ。」など、一定程度復旧が進んだかに見えた中でも多くの課題が発生していることをうかがいました。

ある程度上流にある小屋浦公園には、明治時代の水害と今回の西日本大水害2018の水害の石碑が並んでいました。

100年前の教訓を生かしきれなかった地元の皆様の痛恨の思いがよくつたわってきました。

◆少なすぎる呉線の普通電車、やはり市場原理主義ではない交通政策を!

さて、次は竹原に13時集合で街宣です。ところが、筆者は、小屋浦の地元の方との話に夢中になっていて、11時9分小屋浦発の普通電車に乗り遅れてしまいました。

次の普通電車は12時9分です。これでは大遅刻です。

仕方なく、坂までいちどバックして、改札を出て、入りなおし、そこから11時45分発快速で広へ。広で乗り換え13時7分に竹原入りし、支持者の皆様と合流しました。

呉線の広島ー呉は、日中が快速ばかりで普通電車が一時間に一本は少なすぎます。小屋浦とか快速通過駅の人は不便です。本数を増やした方が利用者も増えるでしょう。

もちろんJR西日本だけの責任ではありません。JR西日本は民間企業である以上、極端な話、『赤字だから廃止』と言われたらお手上げです。

しかし、公共性を鉄道に求める以上は、市場原理とのギャップを埋める必要があります。欧州のような上下分離方式(線路は国や自治体が持ち運行を民間がやる)の導入などが必要だと思います。活動の中できちんと国政で取り上げるべき課題が見えてきます。

◆県内唯一の合併拒否市の竹原でも街宣・憲法アンケート

さて、竹原入りした筆者は駅から少し歩いた竹原市役所・ゆめタウン竹原付近で街頭演説を行いました。


◎[参考動画]竹原市役所・ゆめタウン竹原付近で街頭演説

竹原市は県内86市町村が23に激減したいわゆる平成の大合併において、県内の市では唯一、合併を選びませんでした。

一方で、竹原市は瀬戸内海気候が極端な地域で、北海道以外では、日本でも一番雨が少ない部類の地域です。しかし、西日本大水害2018では大きな被害をうけ、道路や橋などの復旧もずれにずれこみ、3年以上かかったそうです。

昨年の参院選再選挙2021でうかがった竹原駅のセブンイレブンで昼食を買おうとしたら、閉店しており、腰を抜かしました。筆者は空腹を極めていたため、少々古い言葉を使うなら「ガチョーン」という気持ちでした。しかし、これが現実なのでしょう。新型コロナによる竹原の主要産業である観光への打撃も大きかったことを痛感しました。

竹原市役所・ゆめタウン竹原付近では筆者が、れいわ新選組の政策をご紹介する街頭演説をおこない、また、チーム広島の皆様は憲法についてのアンケートを行いました。

筆者は、市役所の皆様にむけては、竹原市が県内の市では唯一合併せずに独自のまちづくりをされていることに敬意を表しました。合併した自治体ではたしかに市役所も駅前もきれいになったが、合併された地域で人口の急減が止まらないなど問題がおおい、と指摘。そのうえで、「地方分権」と称して合併をさせた上で、財源や人の手当てをせずに仕事だけ丸投げしたこの2,30年の政治を改めたい、職員の皆様が市民のために安心して仕事ができるように、不足している公務員は非正規を正規にすることも含めてふやす、公務員という形で人が来たら地域にも活気が出る、などと力をこめました。

竹原・三原の市議会で反対の決議が可決されているのに許可されている産業廃棄物処分場問題についても言及。「日本の安定型処分場はざるのようなものだ。新規のものは禁じる法律をつくるべきだ。」などと訴えました。

[写真右]閉店した竹原駅のセブンイレブン。[中央と右]れいわ新選組チーム広島が行った憲法アンケート

一方、れいわ新選組チーム広島の皆様は、ゆめタウン竹原に買い物で出入りされる皆様に憲法アンケートを実施しました。多くの皆様は、自民党がやろうとしている憲法「改正」の中身は把握しておられないようです。その中で、国民民主党や「維新」などが、自民党以上に拙速に改憲を突撃隊的にあおり立てている状況もあります。

筆者も、「自民党が安全保障をきちんとやらないから他の政党でやってほしい」という人が維新に期待している状況を街頭で感じています。しかし、その安全保障の中身も問題です。食料をほとんど自前でつくれない、原発という弱点だらけの日本が軍備だけ増やしてどうするのか?という基本的な問題意識も維新などからはすっぽり抜け落ちていますが、勢いだけはあります。

今夏の参院選で自公はもちろん、維新・国民を躍進させないようにしつつ、ガツンと庶民のくらしを重視するれいわ、共産、社民、立憲良識派を増やしていく。その上で、冷静な議論をするよう呼びかけていくしか当面はないと感じます。

◆独自のまちづくりに奮闘する竹原市民

街宣終了後は、竹原の街並み保存地区を堪能しました。竹原の旧市街は重要伝統的建造物保存地区に選定されています。NHKの朝ドラ「マッサン」で有名になった竹鶴酒造などもあります。一行は古民家を利用した喫茶店で休息しました。店主もふくめ、合併をしなかったぶん、独自のまちづくりに奮闘されている気概が街中からつたわってきました。

竹原の旧市街

▼さとうしゅういち(佐藤周一)
元県庁マン/介護福祉士/参院選再選挙立候補者。1975年、広島県福山市生まれ、東京育ち。東京大学経済学部卒業後、2000年広島県入庁。介護や福祉、男女共同参画などの行政を担当。2011年、あの河井案里さんと県議選で対決するために退職。現在は広島市内で介護福祉士として勤務。2021年、案里さんの当選無効に伴う再選挙に立候補、6人中3位(20848票)。広島市男女共同参画審議会委員(2011-13)、広島介護福祉労働組合役員(現職)、片目失明者友の会参与。
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今こそ反戦歌を!〈2〉ネーネーズ『平和の琉歌(りゅうか)』 松岡利康

先に反戦歌として『戦争は知らない』について記述したところ予想以上の反響がありました。私たちの世代は若い頃、日常的に反戦歌に触れてきました。なので反戦歌といってもべつに違和感はありません。最近の若い人たちにとっては、なにかしら説教くさいように感じられるかもしれませんが……。

今回は、もうすぐ沖縄返還(併合)50年ということで、沖縄についての反戦歌を採り上げてみたいと思います。

沖縄が、先の大戦の最終決戦の場で、大きな犠牲を強いられたこともあるからか、戦後、沖縄戦の真相や戦後も続くアメリか支配が明らかになり、それを真剣に学んだ、主に「本土」のミュージシャンによって反戦・非戦の想いを込めた名曲が多く作られました。すぐに思い出すだけでも、宮沢和史『島唄』、森山良子『さとうきび畑』、森山が作詞した『涙そうそう』、阿木耀子作詞・宇崎竜童作曲『沖縄ベイ・ブルース』『余所(よそ)の人』……。

森山良子など、デビューの頃は「日本のジョーン・バエズ」などと言われながら、当時は、レコード会社の営業策もあったのか、いわゆる「カレッジ・フォーク」で、反戦歌などは歌っていなかった印象が強いです(が、前記の『さとうきび畑』を1969年発売のアルバムに収録しています)。

宮沢和史さん
宇崎竜童さん
 
知名定男さん

『沖縄ベイ・ブルース』『余所の人』はネーネーズが歌っていますが、ネーネーズの師匠である知名定男先生と宇崎竜童さんとの交友から楽曲の提供を受けたものと(私なりに)推察しています。知名先生に再会する機会があれば聞いてみたいと思います。

以前、高校の同級生・東濱弘憲君(出生と育ちは熊本ですが親御さんは与那国島出身)がライフワークとして熊本で始めた島唄野外ライブ「琉球の風~島から島へ」に宇崎さんは知名先生の電話一本で快く何度も来演いただいたことからもわかります。熊本は沖縄との繋がりが強く『熊本節』という歌があるほどです。一時は30万人余りの沖縄人が熊本にいたとも聞きました。それにしても、沖縄民謡の大家・知名先生とロック界の大御所・宇崎さんとの意外な関係、人と人の縁とは不思議なものです。

ところで、ネーネーズが歌っている楽曲に『平和の琉歌』があります。これは、なんとサザンオールスターズの桑田佳祐が作詞・作曲しています(1996年)。前回の『戦争は知らない』の作詞がアングラ演劇の嚆矢・寺山修司で、これを最初に歌ったのが『たそがれの御堂筋』という歌謡曲で有名な坂本スミ子だったのと同様に意外です。しかし桑田の父親は満州戦線で戦い帰還、日頃からその体験を桑田に語っていたそうで、桑田の非戦意識はそこで培われたのかもしれません。

在りし日の筑紫哲也の『NEWS23』のエンディングソングとして流されていたものです。筑紫哲也は沖縄フリークとして知られ、他にもネーネーズの代表作『黄金(こがね)の花』(岡本おさみ作詞、知名定男作曲)も流しています。

岡本おさみは、森進一が歌いレコード大賞を獲った『襟裳岬』も作詞しデビュー間もない頃の吉田拓郎に多く詞を提供しています。岡本おさみは他にも『山河、今は遠く』という曲もネーネーズに提供しており、これも知名先生が作曲し知名先生は「団塊世代への応援歌」と仰っています。いい歌です。ネーネーズには、そうしたいい歌が多いのに、一般にはさほど評価されていないことは残念です。

さらに意外なことに、一番、二番は桑田が作詞していますが、三番を知名先生が作詞されています。

サザンは、最初に歌ったイベントの映像と共にアルバムに収録し、シングルカットもしているそうですが、全く記憶にないので、さほどヒットはしていないと思われます。サザン版では一番、二番のみで三番はありません。ここでは一番~三番までをフルで掲載しておきます。
【画像のメンバーは現在、上原渚以外は入れ替わっています。現在のメンバーでの『平和の琉歌』は未見です。】

ネーネーズとHY

◆     ◆     ◆     ◆     ◆


◎[参考動画]『平和への琉歌』 ネーネーズ『Live in TOKYO~月に歌う』ライブDigest

一 
この国が平和だとだれが決めたの
人の涙も渇かぬうちに
アメリカの傘の下 
夢も見ました民を見捨てた戦争(いくさ)の果てに
蒼いお月様が泣いております
忘れられないこともあります
愛を植えましょう この島へ
傷の癒えない人々へ
語り継がれていくために

二 
この国が平和だと誰が決めたの
汚れ我が身の罪ほろぼしに
人として生きるのを何故にこばむの
隣り合わせの軍人さんよ
蒼いお月様が泣いております
未だ終わらぬ過去があります
愛を植えましょう この島へ
歌を忘れぬ人々へ
いつか花咲くその日まで

三 
御月前たり泣ちや呉みそな
やがて笑ゆる節んあいびさ
情け知らさな この島の
歌やこの島の暮らしさみ
いつか咲かする愛の花

[読み方]うちちょーめーたりなちやくぃみそな やがてぃわらゆるしちんあいびさ なさきしらさなくぬしまぬ  うたやくぬしまぬくらしさみ ‘いちかさかする あいぬはな

ネーネーズの熱いファンと思われる長澤靖浩さんという方は次のように「大和ことば」に訳されています。

「お月様よ もしもし 泣くのはやめてください やがて笑える季節がきっとありますよ 情けをしらせたいものだ この島の 歌こそこの島の暮らしなのだ いつか咲かせよう 愛の花を」

ネーネーズ6代目メンバーと松岡

◎[リンク]今こそ反戦歌を! 
◎[リンク]琉球の風~島から島へ~

『島唄よ、風になれ! 「琉球の風」と東濱弘憲』特別限定保存版(「琉球の風」実行委員会=編)
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ウクライナ戦争をどう理解するべきなのか〈1〉左派が混乱している理論的背景 横山茂彦

ウクライナ戦争の勃発いらい、SNSでは一部の人々がプーチンを擁護しているという。かれらはロシアだけが悪いのではないという。ロシアを追い詰めたアメリカをはじめとするNATOも悪いのだ、ゼレンスキー政権は許すべからざるネオナチである、と断じる。

あるいは、ドンバス戦争(ウクライナ東部内戦)の犠牲者1万3000人をすべて、ウクライナのネオナチの仕業だと言いなす人たちもいる。だから、プーチンの「特別軍事作戦=ウクライナ解放」を、支持するべきであると云うのだ。

だが、これらは「事実誤認」に基づいている。事実は市民の犠牲3350人・ウクライナ軍4100人、親ロシア勢力が各5650人というのが、国連人権高等弁務官事務所のレポートである。

それでもプーチンを支持するという。その多くは陰謀論(ディープステート)、影の国家が世界を支配している。というものだ。

[参考記事]実話BUNKAタブー(林克明さんの記事)

「陰謀論者」には自由に空想世界を愉しんでいただくとして、ここでは真面目に米帝(NATO)元凶論や帝国主義間戦争論を論じている「新左翼系」「反戦市民運動」の人たちの誤謬を明らかにしていこう。すでに諸傾向については、先行レポートがあるので参照されたい。

◎[関連記事]「ウクライナ戦争への態度 ── 左派陣営の百家争鳴」2022年4月26日 

ウクライナのNATO接近が戦争の原因であるとする説には、歴史的な経緯について、あきらかな誤解がある。

かれらの主張によると、直接的にはミンスク合意が、ウクライナ側において破られたことが挙げられる。ゼレンスキーの失政であるともいう。

だが、事実はそうではない。

このミンスク合意(議定書)とは、2014年9月5日に、ウクライナ、ロシア連邦、ドネツク人民共和国、ルガンスク人民共和国が調印したものだ。ドンバス地域における戦闘(ドンバス戦争)の停止の議定書である。しかるに、ドンバス地方で戦火がやむことはなかった。実効性のない、単なる停戦協定にすぎなかったのだ。

◆ウクライナ騒乱の全貌

そもそも、このウクライナ騒乱(ドンバス戦争)は、2004年のオレンジ革命(親ロシアのヤヌコーヴィチ政権への反対運動)、2014年2月のマイダン革命(ヤヌコーヴィチの追放)による内乱の延長にある。ちなみに、マイダンとは「尊厳」を意味する。

この内乱のデモ隊に、アメリカが資金援助したというのが、親ロシア派・プーチン擁護派の主張なのである。

なるほど、映像で見るマイダン革命は苛烈な市街戦に近く、ヘルメットと棍棒、銃器で武装したデモ隊が、ウクライナ治安部隊に襲いかかる。日本の三派全学連・全共闘・三里塚闘争で行なわれたような、ヘルメットと棍棒で武装したデモ隊をほうふつとさせる。

それへの弾圧として、治安部隊が猛威をふるう。苛烈な弾圧シーンが映像として残されている。これまた、日本の機動隊を思わせる激しさだ。双方が一方的に攻撃しているシーンが多いので、激しさが強調されている。

そしてマイダン革命を主導したのが、ウクライナ民族主義者だと、プーチン擁護派は云う。当然であろう。ソ連邦崩壊いらい、ウクライナ国民はロシアの呪縛から逃れようとしてきた。たとえば日米の呪縛を打破したい沖縄県民が、琉球という民族性を前面に押し立てるように。抑圧された民族の民族主義的な顕われは必然なのである。

そのデモ隊にアメリカの資金が流れたというのは、おそらく事実なのであろう。しかし、ロシアの支配を是としないウクライナ国民の独立志向が、はげしい内乱になった原動力であるのは明らかだ。数千・数万の反政府運動デモが「日当」で成り立つと思うのは、大衆運動を知らない者の想像にすぎない。

激しい反政府運動は、しばしば「外国勢力の陰謀」とされるものだ。香港民主化運動しかり、かつてのわが国の反体制運動もソ連や中国から資金が流れていると、公安当局から喧伝されたものだ。たしかにソ連崩壊後、KGB文書から「ベ平連がアメリカ脱走兵の援助を依頼、金銭的援助まで要請した」という事実が明らかになった。ソ連大使館に接触した吉川勇一は「接触した大使館員がKGBかどうかはわからない」と、産経新聞に反論している。接触は事実だったのだ。ここまで掘り下げた「アメリカの資金援助」が明らかにされないかぎり、説得力はない。内乱時には、様々なことが起こりうるものだ。

ともあれ、こうした親ヨーロッパ派(ウクライナ人の多数)と親ロシア派(東部・ウクライナ)の争いに、ロシアが介入したクリミア併合へとつながる。これ以降、東ウクライナは現在まで内戦状態にある。

2015年2月11日にはドイツとフランスの仲介で、ミンスク2が調印されているが、それでもドンバス戦争は止まなかった。

昨年10月末のウクライナ軍のドローンによるドンバス地域への攻撃を機に、プーチンはドンバス地域の独立を承認(2022年2月21日)する。翌22日の会見で、ミンスク合意は長期間履行されず、もはや合意そのものが存在していない、としてロシア側から破棄されたものだ。ミンスク合意を破ったのは、ロシアの軍事侵攻(2月24日)なのである。

◆ウクライナの核放棄がロシアの侵攻を招いた?

慧眼な本通信読者なら周知のことかもしれないが、ウクライナの安全保障をめぐっては、1994年のブタペスト覚書にさかのぼる。ソ連崩壊後、ウクライナには旧ソ連邦の膨大な核兵器が残されていた。ソ連崩壊によって、ウクライナは世界第三位の核保有国になったのだ。

米ロ両国は核不拡散の名のもとに、ウクライナに核兵器を放棄させる。その担保として、アメリカとロシアがウクライナの安全を保障する。それがブタペスト合意である。

しかるに、その後も米ロ双方がウクライナの自陣営への獲得をめぐってせめぎ合い、ウクライナ国内でも親ヨーロッパ派と親ロシア派の内紛が絶えなかった。その激しい顕われが、結果としてのドンバス内戦にほかならない。

クリミア併合へといたるドンバス戦争へのロシアの介入は、ウクライナが核兵器を放棄したからだと、ゼレンスキー政権は言う。今回のロシアのウクライナ侵略は、たしかにNATOの直接の軍事不介入という意味では、核兵器の威嚇効果を立証した。北朝鮮もリビア(カダフィ)とイラク(フセイン)の失敗例にかさねて、今回の核威力を再認識するはずだ。やはり核兵器は厄介な存在だった。

◆戦争は違法であり、戦争を仕掛けたほうに一方的な責任がある

論軸に立ち返ろう。親プーチン派の日本の左派は、ウクライナの親ヨーロッパ派の背後に、アメリカとNATOの暗躍、隠然たる軍事プレゼンス(軍事顧問の派遣)があるという。

しかしながら、これはロシア側においても同様なのである(所属章と階級章のない国籍不明の部隊のウクライナ侵入)。問題はロシアが公然と自国の軍隊を動かし、軍事プレゼンス(侵略戦争)を発動したことなのだ。

あくまでも「帝国主義間戦争」と言い張るのなら、アメリカ(NATO)が軍隊をウクライナに入れたとか、ロシア領内を侵犯したとかの事実を提示しなければならない。それを抜きにした「帝間戦争」規定は、悪質なデマと呼ぶほかない。

プーチン擁護派の人々は、ウクライナへの軍事支援を「違法」「参戦行為」だと云う。そうではない。国際法は戦争を禁止しているが、侵略された国の自衛権は「自然法」として存在する。したがって、国際法における「中立」の権利は、この自衛権の保護を排除しないのだ。戦争を仕掛けた方に、一方的な「非」があるのは自明のことだ。

◆2014年のロシアによるクリミア併合

マイダン革命によるヤヌコーヴィチ大統領の失踪をうけて、ロシアはクリミアを併合した。これは明確に、ロシアによる領土併呑。侵略行為である。日本でいえば、北海道がロシアに併合されたにもひとしい。

多数の民族が混住し、侵略と内戦がくり返されてきた東ヨーロッパにおいて、ドンバス戦争は深刻だが、とりたてて珍しい内紛ではなかった(ユーゴ内戦を見よ)。そこにNATOとアメリカの政治的な介入を危惧したプーチンの命令で、ロシア軍による公然たる軍事侵攻が行なわれたのだ。これがウクライナ戦争の全貌である。

ロシアの軍事侵攻こそが、ここまでに数万人といわれる犠牲者を出した、直接の原因にほかならない。この侵略の事実を前に、いくら戦争の背景を説き起こしても意味はないのだ。

たとえば、1941年の日本がアメリカをはじめとするABCD包囲網の圧力によって、太平洋戦争に踏み切ったとして、日本の開戦責任が免れないのと同じである。ヒトラーの欧州戦争が、第一次大戦の莫大な賠償金にあったからといって、開戦の責任を免罪されないのと同じなのだ。

ところが、わが日本の新左翼運動や反戦市民運動において、アメリカとNATOも悪いのだという。帝国主義間戦争(いや、NATOは参戦していない)なのだから、自国帝国主義(日本)のウクライナへの軍事支援に反対すべき、という議論も少なくない。今回はその理論的な背景について、最後に解説しておこう。

◆第一次大戦とツインメルワルト左派

左翼がスローガンに掲げる「革命的祖国敗北主義」「自国帝国主義打倒」は、第一次大戦の勃発にさいして、第2インター(国際共産主義組織)の大半が、革命的祖国防衛主義の立場に傾いたのに反対する政治スローガンである。

すなわち、資本主義が帝国主義段階に至り、植民地からの超過利潤の獲得のために、領土再分割に乗り出した時代。これが帝国主義間の戦争であり、この戦争に参加してもプロレタリアートには何の利益ももたらさない。金融資本と地主階級を肥え太らせる戦争の災禍は、社会主義革命によってしか避けられない、というものだ。
戦争に対する態度をめぐって、第2インターは分裂する。第2インターの戦争協力に反対して、スイスのツインメルワルトに結集したのは、レーニン、ジノヴィエフ、トロツキー、マルトフらロシア社民党の面々、イタリア、フランス、ノルウェー、オランダ、ポーランド、ブルガリア、ルーマニアからも参加者があった。

ここにおいて、マルクスの「万国の労働者、団結せよ」という『共産党宣言』のスローガンが再確認される。すなわち「プロレタリアに祖国はない」である。のちのコミンテルン(第3インター)につながる流れである。

◆国際主義は国家主義に置き換えられた

将来における国家の死滅(マルクス)を展望しつつ、おなじプロレタリアートとして国境をこえた連帯と団結をむすぶ。

この人類史の明るい未来像は、人々を魅了した。フランスにおける大革命いらいのコミューン(地区共同体)、ドイツにおけるレーテ(評議会)、そしてロシアにおけるソビエト(会議)。資本制のくびきから解放された人々は、新たに自由の地を得たかにみえた。

しかるに、レーニンが提唱した民族の分離ののちの連邦は、スターリンの上からの連邦国家(ソ連邦)によって潰えたのだった。そのスターリンの後継者、ウライジーミル・プーチンがいま、諸民族の国家的統制を、軍隊によって成し遂げようとしているのだ。プーチン擁護派を論破し尽くすべし、である。

次回は中国の抗日救国戦争(国共合作)とインドシナ革命(民族解放・社会主義革命戦争)の評価について、かつての新左翼がいかに先取的な精神を持っていたかを媒介に、マルクス・レーニン主義の原則論者たちを批判しよう。

▼横山茂彦(よこやま・しげひこ)
編集者・著述業・歴史研究家。歴史関連の著書・共著に『合戦場の女たち』(情況新書)『軍師・官兵衛に学ぶ経営学』(宝島文庫)『闇の後醍醐銭』(叢文社)『真田丸のナゾ』(サイゾー)『日本史の新常識』(文春新書)『天皇125代全史』(スタンダーズ)『世にも奇妙な日本史』(宙出版)など。

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れいわ新選組の街頭宣伝を行ってわかった「最も広島県らしい街」呉の市民意識に変化あり! 「昭和までの成功体験」からの脱却の機運 さとうしゅういち

広島県呉市は広島県南部の沿岸部の中核市に指定されている中規模都市です。広島市から呉市まではバスでも電車でも約40分。人口は21万2597人です。その呉市は、いろいろな意味で「最も広島県らしい」街です。

◆軍事都市から重厚長大産業へ、しかし、海外派兵再び

第一に、明治時代から第二次世界大戦敗戦までは軍事都市として栄え、戦後、すなわち昭和の中期から後期は重厚長大産業で成功したという点です。広島市は日清戦争のときは、天皇や総理大臣、帝国議会が置かれた首都であり、原爆投下の時点では第二総軍の司令部がおかれ、陸軍の西日本の中枢でした。いっぽうで、呉市はその港としての条件をいかして、海軍最大の拠点となり、戦艦大和が出撃したことでも有名です。

戦後は旧軍港都市転換法を日本国憲法に規定された住民投票で可決。造船や鉄鋼、原発製造などの重厚長大を軸とした産業都市として栄えました。いっぽうで、海上自衛隊もおかれ、2001年のアフガンや2004年のイラクの戦争にも後方支援とはいえ派兵されています。広島市と広島市に包囲されている安芸郡海田町は陸上自衛隊があり、イラク戦争後方支援に派兵されました。

◆1975年の「成功体験」を卒業できぬうちに衰退

第二に、過去の成功体験からの卒業ないし転換ができないうちに人口の流出や既存産業の衰退で苦しんでいる点です。広島県は、1975年、一人あたりの県民所得が日本で第三位に躍進しました。ちょうど、重厚長大産業による日本の経済成長が頂点に達した直後であり、地元の球団・広島カープが山本浩二や衣笠祥雄らの活躍でセ・リーグ初優勝した年でもあります。一定年齢以上の県民にはこのときの「成功体験」が忘れられない傾向があるのも仕方がありません。

呉駅前

これは与党の支持者については、腐敗した議員を腐敗していると分かっていて投票し続けることにもつながります。現実に河井案里さんから最高金額をもらった県議(略式起訴され、辞職)は呉市の選出でした。

一方で、野党側にも原発製造ふくむ重厚長大産業労組の影響が強くあります。新しい経済をどう構想していくか? そういう力強い議論をどの既存の政党からも出てこないのも、過去になまじ成功体験があるからです。

また、保守だけでなく、いわゆる左派・リベラルの側にも、若手へのマウンティングの気風を根強く感じます。

しかし、そうこうするうちにも、2021年の広島県の人口転出超過は7159人と都道府県で最多となっています。とくに呉市は、2020年の国勢調査では5年前とくらべて13960人減少で中国地方の自治体ではワースト1です。呉駅前(写真)も2013年にそごうが閉店したあと、閑散としています。さらに、2021年には、日本製鉄(昔は日新製鋼、吸収合併された)の高炉閉鎖や原発製造企業の衰退、さらには高校の廃校問題などが追い打ちをかけています。

◆「地方分権」という名目の新自由主義の弊害

第三に、「地方分権」という名による新自由主義の弊害をこうむっている点です。総務省は、市町村合併をすすめ、そこに、国や都道府県の仕事を十分な財源や人の移譲もないまま丸投げしました。とくに、藤田雄山前知事(故人)は総務省のいいなりで市町村合併を推進。県内で86あった市町村を23市町に減らすとともに、県の仕事を市町に丸投げしました。

呉市も呉市・音戸町・倉橋町・蒲刈町・安浦町・豊浜町・豊町と7つの市町をひとつにまとめました。しかし、「合併により、島嶼部の旧町を中心に埋没し、かえって活力が低下した」(県内の自治体相手の事業もてがける会社経営者)のです。また、新型コロナ、そして、西日本大水害2018などへの対応にも支障をきたしています。とくに、吸収合併された地域を中心に事態は悪化しています。

こうした呉市ですが、他の広島県内同様、政治的に非常に保守的です。呉市を中心とする広島5区は2009年の民主党旋風時以外は自民党(宮沢派→岸田派=宏池会)議員の圧勝です。なお、2009年に当選した民主党議員は宮沢喜一元総理の秘書を務めていたという特殊事情がありました。

◆呉で初めてのれいわ新選組街頭宣伝 市民の意識の変化を実感

こんな呉市ですが、2022年参院選を前に、れいわ新選組チーム広島は4月5日(火)呉市において、初めての街頭宣伝を行いました。筆者が記憶する限りでは、2019年のれいわ新選組結成以降、広島市や福山市では山本太郎代表による大規模集会や街頭演説を行っていますし、東広島市と廿日市市では、衆院選2021で街宣車を回しています。しかし、呉市では初めてです。一方で、参院選再選挙2021はもちろん、それ以前も何度も筆者は個人としては街頭演説をしています。

今回は、朝の始業時間前に呉市役所前、そして9時30分からは呉駅前で街頭宣伝を行いました。市役所前では出勤してこられる職員にメンバーがれいわ新選組のチラシをお渡しし、筆者が演説するという形をとりました。

筆者は公務員をふやす、非正規は正規にしていく、公務員ボーナス引き下げには反対、地方に十分な財源を保障など、れいわ新選組の政策を紹介。「れいわ新選組こそ、市役所職員の皆様が安心して市民のために仕事をできるような政策であると自信をもってお薦めできる。」と断言。

また、重厚長大産業の衰退に対しては「食料安全保障や原発なきエネルギー安全保障、グリーンニューディール政策にれいわ新選組はガツンと投資をする。呉でいえば、重厚長大産業の跡地で食料生産やエネルギー生産をする方向も考えられる。」と提案。一方で、「県庁マンのころとくらべて介護の現場は仕事の割に給料がひくすぎる。介護や保育の給料10万up実現に公務員の皆様もご協力を!」「奨学金チャラ、教育費タダで若い人に元気を!」などとかつての仲間に力をこめて訴えました。

筆者は「元県庁マン」であり、職員の皆様と同じ労働組合で長年、役員もさせていただいています。筆者をご存じの職員も多く、チラシの受け取りも上々でした。実は、れいわ新選組のチラシの受け取りは役所の前では非常に良いのです。その傾向が呉市でもあてはまりました。

買い物客や通院のお年寄りが多い駅前では、消費税廃止やガソリン税ゼロ、国保料減免などの負担軽減策を訴えるとともに、食料安全保障にも力点をおきました。「ロシアやウクライナで蕎麦の半数以上を生産している状況だ。国内でつくれるようにしないと、お好み焼きも食べられなくなる。」と指摘。農業だけでなく、漁業や畜産もふくめた食料生産者へのコストの保障を訴えました。

◎参考動画 呉駅前での街頭演説の様子
https://www.facebook.com/satoh.shuichi/posts/10227473667486248

「さとうさんが演説しているのを見て立ち寄った。れいわ新選組のポスターを家に張りたい」と申し出られる女性。

「(あなたは)堂々と自分の考えを述べている。はじめて、サムライをみた。民主党がなにもしてくれなかったからまた世論の支持は自民党に戻ったが、自民党の暴走は困る。がんばってほしい。」という男性。

様々な激励をいただきました。2021年、高炉の閉鎖や原発製造企業の衰退、高校の廃校問題などで呉は大きく揺れました。そうした中で、呉市民や市役所職員の皆様の「地域の将来への危機感」を強く感じました。

今後とも皆様と対話をかさねながら、「財政出動であなたの暮らしを立て直す」短期の政策、そして、「食料安全保障や原発なきエネルギー安全保障に投資」し「重厚長大産業中心」から卒業するグリーンニューディール政策、もちろん、核兵器をなくし、外交で緊張緩和を進めていく筆者やれいわ新選組のビジョンをこの呉市でもガツンと訴えていく覚悟です。

▼さとうしゅういち(佐藤周一)
元県庁マン/介護福祉士/参院選再選挙立候補者。1975年、広島県福山市生まれ、東京育ち。東京大学経済学部卒業後、2000年広島県入庁。介護や福祉、男女共同参画などの行政を担当。2011年、あの河井案里さんと県議選で対決するために退職。現在は広島市内で介護福祉士として勤務。2021年、案里さんの当選無効に伴う再選挙に立候補、6人中3位(20848票)。広島市男女共同参画審議会委員(2011-13)、広島介護福祉労働組合役員(現職)、片目失明者友の会参与。
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