犯罪報道に関してよく議論になるのが、被疑者や被告人を実名で報じるべきか、匿名にすべきかということ。双方の立場から色々な意見があるが、実名報道派がよく言うのが「実名報道は公権力の監視のために必要」という意見だ。
筆者はこの意見について、かつては「マスコミの人間による自己正当化の詭弁」だとばかり思っていた。だが、冤罪事件を色々取材するようになってから、この意見にはうなずけるところも多々あると思えるようになった。
たとえば、気になる事件の裁判を傍聴するため、裁判所に公判期日を問い合わせる際は最低限、被告人の名前を知っておく必要がある(事件番号がわかればこの限りではないが、被告人の名前を知らない人は普通、事件番号も知らないだろう)。また、拘置所や刑務所にいる被告人や受刑者と手紙をやりとりしたり、彼らを訪ねて面会するのも彼らの名前を知らないと無理である。こう考えると、被疑者や被告人の実名報道はやはり公権力の監視に不可欠ではないかと思えてしまうのだ。
刑務所を慰問して、歌で受刑者を激励する。言葉にすると簡単だが、続けるのは至難の業だと思う。
西日本の某地方で殺人事件の裁判員裁判を傍聴していたら、被告人のDNA型は「いつのものか」ということが争点になっていた。被告人の男性は一貫して無実を訴えているが、捜査では被害者の遺体発見現場周辺で見つかったタバコの吸い殻などから被告人のDNA型が検出されている。このタバコの吸い殻などをめぐり、「犯行時に捨てたものだ」(検察側)、「事件が起きる前にたまたま捨てたものだ」(弁護側)などと検察側と弁護側の主張が対立しているのだ。
殺人事件に巻き込まれ、無実の罪で服役中の冤罪被害者I氏に先日、刑務所で面会した時のこと。彼はそう言って、苦笑した。自ら獄中でまとめた再審請求書を裁判所に提出し、その旨を地元の新聞社に手紙で伝えたが、いっこうにレスポンスがないのだという。このマスコミの冷たさは、自分の事件が有名ではないからだと彼は思っているのである。