西郷輝彦「星のフラメンコ」(1966年7月クラウン)

西郷は独立で干されることはなかったが、プレッシャーが重くのしかかった。
独立後間もなくして、西郷の背後を黒い背広を着た傷だらけの集団がつけ狙うようになった。西郷が車に乗ると、その後ろを男たちの車が追い、さらにその後ろを警察官と相澤が乗った車が追い、3台並んでテレビ局に向かった。私服警官が見守る中、西郷はスタジオで歌ったという。また、西郷をめぐる駆け引きの中で出てきたのか、スキャンダルもたびたび流された。

独立後の西郷の仕事は、太平洋テレビとクラウンが分担し、さらに独立から1年は独立の代償として東京第一プロも興行権を握るという約束になった。だが、ブッキングを担う三者は西郷の利権をめぐって激しく対立した。三者が強調せず、それぞれ勝手に仕事を入れたため、異常なまでの過密スケジュールとなってしまった。

たとえば、1965年4月の西郷のスケジュールは、以下のようなものだったという。

・午前9時から午後5時までは、松竹映画『我が青春』収録(第一プロの仕事)。
・午後7時から翌日午前4時までは、日活映画『涙をありがとう』収録(クラウンレコードの仕事)。
・午前6時から午前9時までは、大映映画『狸穴町0番地』収録(太平洋テレビの仕事)。

当時、18歳だった西郷が寝られるのは、2時間の移動時間だけだった。スケジュール調整の話し合いがつかないと、各社の社員たちが西郷を監視するため、マネージャーを名乗ってゾロゾロと現場にやってきた。その数は多いときで20人にもなったという。そんな中で、太平洋がクラウンに3000万円で西郷を返還するという人身売買のような話まで進められたが、独立後1年間は、連日、文字通りの殺人スケジュールだったという。誰しもが「西郷は潰れるだろう」と思った。

だが、西郷は潰れなかった。
疲労のためレコーディングでも声が出ず、スタジオ内に机を並べてその上で10分だけ眠ると、少しだけ声が出た。それで一節歌い、また10分寝て一節歌う。そうして出来上がった『涙をありがとう』という曲がが大ヒット。そればかりか、デビューから2年間に出した20枚以上のレコードのすべてがヒットした。西郷はタフだった。

そうした独立の苦労をともに分かち合ったマネージャーの相澤と別れる日がやってきた。直接のきっかけは、西郷の人気に陰りが見えてきたことに不安を覚えた相澤が「新人を育成したい」と西郷の父親に相談したところ、断られたことだった。相澤は西郷と袂を分かち、1971年、サンミュージックを設立。西郷の方はそれから日誠プロを解散し、舟木一夫の育ての親である阿部裕章の第一共永に移籍。1973年、三度独立して、西郷エンタープライズを設立した。

(星野陽平)

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