「キックの鬼」沢村忠より一足先に日本のテレビでその姿が放映されたキックボクサー、藤本勲氏。キックと共に生き、キック業界のあらゆる変遷を見てきた生き証人の半世紀を秘蔵写真と共に全2回で辿ります。

全日本キックのリングでの交流戦チャンピオン対決で、川谷昇(岩本)に勝利し、敵地で目黒ジムが輝く(1992年6月27日撮影)

◆小4年の担任の先生に励まされ、走ることに熱中する

藤本氏が語る若き日のエピソードには時代の背景が映し出されるようなドラマがありました。

藤本勲氏の本名は藤本洋司。勲という名は同じ空手仲間の平田勲から頂いたと言います。

1942年(昭和17年)1月、島根県生まれ。4才の時、父親を病気で亡くし、母の実家である山口県長門市に移り、高校卒業まで暮らしました。

小学生の頃は草履で片道5kmを走って通い、鼻緒が切れても裸足で野道を走って通った小学校時代でした。走ることが好きで速く、小学校4年の時、担任の先生に「お前は濱村秀雄(戦後の陸上競技選手)のようになれるぞ」と励まされ、スポーツに、走ることにより頑張る気になったのが人生の節目となったのでした。

◆高校時代、「何かで日本一になろう」と水泳、陸上、野球、そして空手の道へ

中学生になると一年生から野球を始め、より一層長距離走が強くなり、体育系の優秀さで山口県の水産高校に推薦で入学しました。

高校では「何かで日本一になろうと思って幅を広げ、水泳、陸上、野球、何でもやった」と言います。

テレビでボクシングの日本ライト級チャンピオンの石川圭一さんの試合観て「ボクシングっていいなあ」と思ってボクシングもやりたくなるも、すぐ入門出来るジムも近くには無かったので、まず空手から格闘技の門をくぐりました。

MA日本キックボクシング連盟代表となった頃。フライ級チャンピオン.山口元気(山木)を讃える(1994年頃撮影)

日本キックボクシング協会復興で古巣に戻るが、「断腸の思い」と語った苦渋の会見(右端が藤本氏)(1996年3月8日撮影)

瀬戸幸一(仙台青葉ジム会長)とはキック創生期からライバルであり、苦労を共にした仲でもあった(1996年5月25日撮影)

◆洋菓子会社とキックの見事な両立で、営業部長にまで昇進!

藤本氏は母親の手で育てられましたが、母方の実家では比較的恵まれた生活環境があり、「勉強すれば大学行かせてやる」と言われていましたが、成績は優秀(本人談!)でしたが勉強は嫌いで、そのまま普通に高校卒業して大阪の船会社に就職しましたが、視力が弱くて航海士の免許が取れず転職に踏み切りました。

そして、ある製菓会社に再就職するも倒産し、そこの先輩の紹介で洋菓子専門の長崎屋に再々就職。お客さんとの触れ合いが得意で営業成績が良く、性に合った天職でした。

デビュー戦となったキックボクシングの試合に出ることを会社に申し出ても、営業成績抜群により否定的な声は聞かれず、タイ遠征も試合出場も優遇され、会社からは長崎屋の社名入り刺繍入ったガウンも贈られ、協力的な後ろ盾抜群の中、リングに上がりました。

後に東日本営業部長に昇進。ジョーク言っての対面販売が好きで、羽田空港でも店舗を持っていた長崎屋店頭にも立ちました。

◆キックの生みの親、野口修氏宅に沢村忠と共に泊まり込み合宿していた「ジャックナイフの藤本」

現役時代のキャッチフレーズは「ジャックナイフの藤本」。同門でも容赦ない膝蹴りを顔面に繰り出し、周囲からも“えげつない”と言われるほど貪欲に攻めました。膝蹴りのほか、後ろ蹴りも使いましたが、驚かす繋ぎ技としても得意でした。
それらはみんな空手で身に付けた技が実っていました。

デビューした頃は、キックの生みの親、野口修氏の家が合宿所となり、当初は沢村氏とともに泊まっており、タイ選手が泊まることがあると「蹴りやヒジ打ちなど技術論でバカにされると、互いによくわからない言葉でケンカしていた」と言います。

そんな時代では珍しい高価なビデオ機器が野口氏の家にはあり、モノクロのムエタイ試合観て技術盗む努力をしていました。

試合のダメージで、ムチ打ち症で入院したことがあり、退院したばかりで試合観に行ったところ、ピンチヒッターに駆り出され、1ラウンドKO勝ちしたこともあったという、非常識なピンチヒッターも日常茶飯事のような創生期のキック興行でした。

藤本ジム落成懇親会で有志一同と鏡割り(左から3人目)(2005年4月17日撮影)

◆51戦40勝(32KO)11敗で生涯戦績を終え、育てる側へ転身

過去、日本プロスポーツ大賞功労賞は2回獲得しており、1969年(昭和44年)2月、タイでランカーを倒した試合と、1986年(昭和61年)には、長きに渡り、日本チャンピオン多く誕生させたことでの受賞でした。

藤本氏は東洋王座を獲った翌年には結婚して娘さんも誕生したことで、ある決心が芽生えていました。

いつも重い相手と戦ってきたことから、体に故障が増え、自身が幼児期に父親を亡くしている影響から、娘のため、片親になっては可哀想と、家族を守ることを真剣に考え、「我が身ひとつで、入院していい覚悟で試合していた気持ちも萎えたらもう試合はできないと思った」と言います。

古くからの目黒ジムの聖地に再建した藤本ジム(2006年1月5日撮影)

当時は極端にトレーナーが不足していたのもひとつの理由で、第二の沢村忠を育てる必要性も感じていて、引退を決意しました。そして1970年12月5日の大阪での試合をラストファイトにして、判定負けでしたが、自身のけじめとなった試合でした。

これまで51戦40勝(32KO)11敗の生涯戦績となりました。

◆育てた選手は数知れず、 起こした事件も数知れず

キックボクシングそのものが歴史が浅く、経験を積んだトレーナーは空手やボクシング経験者しかおらず、藤本氏は翌年初頭にはキックボクシングの本格的トレーナーと言える第一人者となりました。

過去、育てた選手は数知れず、テレビに映る時の「沢村選手のセコンドに着く、眼鏡かけた背の高い藤本トレーナー」は放送でも度々、TBSの石川顕アナウンサーが実況合間の余談に拾われ、全国的に静かな知名度がありました。

1993年に、当時加盟していたMA日本キックボクシング連盟で、連盟改革の為、代表理事に藤本氏が選ばれ就任。そのため、試合でのユニフォームを着てセコンドに着くことはできなくなり、後に日本キックボクシング協会復興に伴う移行などもありましたが、幹部として役員席に着く立場は残り、目黒ジムから藤本ジムに移行した際には、より責任ある立場に置かれましたが、「今まで大好きなキックをやれてこれて幸せだった。今後も死ぬまでキックに専念する。でもまたセコンドやりたいね。」と本音も漏らしていました。

ジム内でのミット持ちは今も健在(2006年1月5日撮影)

こんな紳士的な藤本氏も、酔った勢いで起こした事件は数知れず、タイではレストランの警備員にフレンドリーに握手を求めつつ、ふざけて寸止めの膝蹴り。笑顔から本気モードの顔色に変わった警備員とやり合う寸前で、周囲の仲間が止めに入って事なきを得たこともあり、他にもその場に立ち会わされた選手から聞く武勇伝が、本当にあった怖い話のように実感させられます。

優しい面では、ジムでは誰かひとり、目に止まったり頑張った選手に「お前だけにいい物やる」と言って長崎屋で仕入れたお菓子をあげる気前の良さを見せつつ、いろいろな選手に「お前だけに」と言っていたので、誰も自分が特別と思わずも大胆不敵な優しい会長に感謝しているようでした。

瀬戸会長同様に、創生期からの対抗ジムとして、やり合った仲。千葉ジム・戸高今朝明会長と(2014年8月10日撮影)

藤本氏は永いキック人生で、日々ジムにいると垣間見れる選手らのいろいろな想い出があって、「亀谷長保(日本フェザー級チャンピオン、6度防衛の実績)は練習後、着替えた後も1時間ほど他の選手の練習も見てから帰っていた程の研究熱心だった」とか、隆盛期には喧嘩の絶えないジム内や、昭和50年代の低迷期には興行のメドも立たず、「試合も組めないのに練習に来ていた選手もいて、当時は切ない思いだった」という藤本氏でした。

◆二人目のムエタイチャンピオン誕生を目指す

現在は、タイ殿堂のラジャダムナンスタジアムのチャンピオンを誕生させたことで先代野口里野会長へ恩返しができたことに安堵し、そのチャンピオンになった石井宏樹は亀谷長保に並ぶ、目黒ジムで5本の指に入る名選手と言います。今後は二人目のムエタイチャンピオン誕生を目指しています。

藤本氏の武勇伝がいかに多く、また人脈多きキックの人生か、また想い出に残る昭和の名選手の裏の姿も多く見ているので、新たに藤本伝説を伺っていこうかと思います。(了)

伊原信一代表より紹介され、久々にマイクを持って御挨拶の藤本勲氏。デビュー50周年の想いを語る(2016年7月3日撮影)

[撮影・文]堀田春樹

▼堀田春樹(ほった・はるき)
フリーランスとしてキックボクシングの取材歴32年。「ナイタイ」「夕刊フジ」「実話ナックルズ」などにキックのレポートを展開。ムエタイにのめり込むあまりタイ仏門に出家。座右の銘は「頑張るけど無理しない」

リオ五輪もいよいよフィナーレが近づいてきたが、4年前から今日まで1つの目標に向かって頑張ってきたのは、アスリートばかりではない。当欄で何度か紹介した広島の放送局「中国放送」の元アナウンサー、煙石博さん(69)もその1人だ。

マイクで冤罪を訴える煙石さん

煙石さんは2012年10月11日に、広島銀行大河支店の店内で女性客が記帳台の上に置き忘れた封筒から現金6万6600円を抜き取り、盗んだという容疑で逮捕された。その日から4年近く無実を訴え続けているが、1審・広島地裁で懲役1年(執行猶予3年)の有罪判決、2審・広島高裁でも控訴棄却の判決を受け、現在は最高裁に上告中だ。

事件の詳細については、以前配信した後掲の関連記事もご参照頂きたいが、解析された銀行店内の防犯カメラの映像に煙石さんがお金を盗む場面は映っていなかったのをはじめ、この事件に有罪証拠はないに等しい。そもそも、「被害者」の女性客が記帳台の上に置き忘れた現金6万6600円が入っていた(はずの)封筒は、お金が1円も入っていない状態で記帳台の上に残されており、「その封筒に本当にお金が入っていたなら、犯人が誰であれ、お金だけ抜き取って封筒を元の場所に戻したりするだろうか・・・」という根本的な疑問が存在する明白な冤罪事件だ。にも関わらず、煙石さんは4年近くも雪冤を果たせないでいるわけだ。

冤罪を訴えるチラシを配る支援者

◆公正な裁判を求める署名は6000筆を突破

もっとも、この事件を取材してきた私は、煙石さんを取り巻く状況が次第に好転しているように感じている。支援者らが集めている「煙石博さんの上告審の公正な裁判を求める請願署名」は7月の時点で6280筆に達し、すでに最高裁に提出されている。去る8月7日、煙石さん本人と支援者らが広島市の本通商店街で行った街頭行動でも1時間に満たない時間で1000枚のチラシが配布され、新たに115名の署名が集まったという。

「街頭行動は6回目ですが、署名してくれる人や話を聞いてくれる人が回を重ねるごとに増えてきています」と語るのは、「煙石博さんの無罪を勝ちとる会」の小森敏廣事務局長。この日、マイクで無実を訴えた煙石さんも「こうやって街頭活動をしても、以前に比べて声をかけてくれる人が増えました。『やはり(お金を盗んだというのは)違うらしい』ということがクチコミで広がっているのを感じます」と状況が好転している手ごたえを口にする。

そして実を言うと、ある客観的なデータからも煙石さんの状況が好転していることが窺えるのである。

◆上告から1年8カ月以上続く審理

最高裁が統計によると、公表されている直近5年の「最高裁での審理期間が2年を超える被告人」は、平成22年度は42人(同年度の上告中の被告人の総数は588人)、同23年度は32人(同679人)、同24年度は12人(同555人)、同25年度は4人(同487人)、同26年度は1人(同417人)だ。このデータから読み取れることは、まず何より最高裁における刑事事件の審理期間がどんどん短縮され、上告してから2年以上も結果が出ないケースはほとんどなくなっているということだ。

では、そんなデータを持ち出し、私が何を言いたいかというと、実は煙石さんに対する最高裁の審理が長期化しているのである。

煙石さんは2014年12月11日、広島高裁に控訴を棄却され、即日上告しているのだが、それからすでに1年8カ月が経過している。私はこれまで様々な冤罪事件を取材してきたが、最高裁での審理期間がこれほど長期に及んだ事件として記憶に残っているのは、控訴審までの結果が死刑か無期懲役の事件だけだ。それ以外の多くの事件では、無実を訴える被告人が上告してから1年もしないうちに上告棄却の決定を受け、有罪が確定している。その現実を踏まえると、控訴審までの結果が執行猶予付きの有罪判決である煙石さんの審理期間がここまで長期化しているのは、異例のことだと言っていい。

◆注目は公判が開かれるか否か

裁判所に何か期待すると、裏切られることが多いので、安易に楽観的な予想をするのは控えたい。しかし、少なくとも最高裁が煙石さんの事件を「特別な事件」として認識しているのは間違いないと思う。

最高裁は通常、書面のみで審理し、地裁や高裁が行っているような公判審理は行わない。最高裁は「控訴審までの結果が死刑の事件」と「控訴審までの結果を覆す可能性がある事件」に限り、弁護人と検察官に弁論をさせる公判を開くのが慣例だ。したがって、煙石さんが最高裁で逆転無罪を勝ち取るなら、まずは最高裁がそのような公判を開くというニュースが報道されるはずだ。

この事件の行方を少しでも多くの人に注目して頂きたい。


[参考動画]冤罪を訴える煙石博さん(元中国放送アナウンサー) 2016.8.7広島市本通商店街

[関連記事]
◎広島の元アナ「冤罪」窃盗事件で「公正な裁判を求める」署名が1500筆突破!
◎高まる逆転無罪の期待──上告審も大詰めの広島元アナウンサー冤罪裁判

▼片岡健(かたおか けん)
1971年生まれ、広島市在住。全国各地で新旧様々な事件を取材している。

「キックの鬼」沢村忠より一足先に日本のテレビでその雄姿が放映されたキックボクサー、藤本勲氏。キックと共に生き、キック業界のあらゆる変遷を見てきた生き証人の半世紀を秘蔵写真と共に全2回で辿ります。

富山勝治のセコンドに付く、テレビ放映時代でもお馴染みの光景(左端が藤本氏)(1982年1月7日撮影)

◆現役生活は4年半、トレーナー歴は45年

先日、7月3日の新日本キックボクシング協会興行、MAGNUM.41に於いて伊原信一代表より、キックボクシング生誕二人目のキックボクサー、藤本勲氏のデビュー戦から満50周年を祝う労いの言葉が藤本氏に贈られました。

1998年5月に目黒ジムから藤本ジムに移行して会長歴は18年ですが、これを含む目黒ジムでのトレーナー歴は45年。引退後もトレーナーやジムオーナーとしてキックボクシングに関わり、業界歴としては一番長いキャリアを持つことになります。

現役生活は4年半でしたが、1966年(昭和41年)6月のデビューからキックと共に生き、業界のあらゆる姿を見てきた生き証人となります。

富山勝治引退試合にて、テレビ時代のスターが終わった日(1983年11月12日撮影)

伊原代表も現役時代は目黒ジムで藤本氏の指導を10年以上受けた選手でした。また、多くの目黒ジム所属の名チャンピオンも全員が藤本氏から指導を受けた経験を持つでしょう。

◆1966年──剛柔流の空手家からキックボクシング界へデビュー

デビュー戦となった1966年(昭和41年)6月21日、沢村忠氏の道場仲間という空手選手からキックボクシングの試合に誘われて自身も剛柔流の空手家として、空手が一番強いと信じての出場も、4日間程度の“キックボクシング”と呼ぶにも不透明な時期、ルールも把握していない中での対策練習だけで藤本氏は出場。

対戦相手も橘五郎という空手家でしたが、キックボクシングの練習経験は橘五郎氏が2ヶ月ほど早く、その差とラウンド制の不慣れな中、ペース配分を誤り藤本氏は1ラウンド終了間際のKO負けのデビューでしたが、驚いたのは自身の敗北より、後に控えたカードの沢村忠氏の16回ダウンしてKO負けした壮絶な試合を観てムエタイの凄さを実感。

キックボクシングを正式に始める決意をすると、すぐに目黒ジムに入門しました。

◆1967年──キックボクシング史上初のテレビ放送された試合でKO勝利の王座奪取

藤本氏は翌年2月26日に木下尊義(目黒)と同門による日本ヘビー級王座決定戦を争い、4ラウンドKO勝利で王座奪取しました。

その日は日本で初めてキックボクシングが放送された日で、メインイベントは沢村忠氏の試合でしたが、生放送のため、試合順でセミファイナルに出場した藤本氏の試合が先に放送され、事実上この試合がキックボクシング史上最初のテレビ放送された試合という密かなエピソードになりました。

格闘技の祭典、ブッチャーとの対面で(1988年4月2日撮影)

世代が変わった平成の時代に、飛鳥信也チャンピオンのセコンドに付く(1992年6月27日撮影)

◆1969年──東洋ミドル級王座決定戦でタイ人選手に勝利!

2ヶ月後の東洋ヘビー級王座決定戦はKO負けで奪取成りませんでしたが、この創生期は3階級制で67.5kg超えはすべてヘビー級。藤本氏がそのウエイトだったにも関わらず、180cmの長身であることから当時の目黒ジムの野口里野会長から「藤本は背が高いからヘビー級でやれ」と強引で不可解なヘビー級出場でした。

後の1969年1月にはプロボクシングと同リミット設定の7階級制に変更され、藤本氏はミドル級にランク改訂(日本王座そのまま保)へ。同年2月26日にはタイ遠征中、ルンピニースタジアムで、ランカーだったコクデーノーイに得意の膝蹴りで5ラウンドKO勝利したことで、自身の現役生活の中でもベストバウトと言える想い出の試合となりました。

そして同年6月、東洋ミドル級王座決定戦で、ポンピチット・ソー・サントーン(タイ)に判定勝利し東洋王座奪取に成功と、それまで苦しい体験も経験しつつ、ここまでは重量級としての期待に応える成長を見せていきました。(つづく)

[撮影・文]堀田春樹

▼堀田春樹(ほった・はるき)
フリーランスとしてキックボクシングの取材歴32年。「ナイタイ」「夕刊フジ」「実話ナックルズ」などにキックのレポートを展開。ムエタイにのめり込むあまりタイ仏門に出家。座右の銘は「頑張るけど無理しない」

ご愛読いただいている「デジタル鹿砦社通信」は2012年1月1日に産声を上げた。それに先立つ2011年12月29日の事前告知には、
「鹿砦社にとって2011年は、社長・松岡利康、『紙の爆弾』編集長・中川志大に対する、刑事告訴の不起訴処分が確定、壊滅的打撃を被った6年前の「名誉毀損」逮捕事件での松岡の執行猶予も終結、昨年にも増して増収増益を果たし、不死鳥のように蘇った年でありました。
 出版不況が深まるばかりの昨今でありますが、小手先のことで、乗り越えられるものではありません。時には体も張る気構えで、〈スキャンダリズム〉の立場から〈タブーなき言論〉を発信するという姿勢を堅持してきたからこそ、鹿砦社の今はあるのです。
 3.11東日本大震災、原発事故という、天変地異と人災が起こり、多くの人々が己の行く道を探しながら、呻吟しています。この試練に、言論のあり方は容赦なく問われてくるでしょう。
 そのような根本に立ちながら、デジタル鹿砦社通信は、大きなネタから小さなネタまで、堅い話題から柔らかい話題まで、毎日お届けします。
 2012年1月1日に正式オープンいたします。
 ご愛顧のほど、よろしくお願いいたします」
 と意気込みが紹介されている。 

2012年1月から2014年7月まで「第一期」の「デジタル鹿砦社通信」をお届けしてきたが、諸般の理由でライターと編集長を一新し、2014年8月18日、つまり2年前の今日から「第二期」というべき体制で「デジタル鹿砦社通信」は再スタートを切る。

2年前の今日のコラムを担当させていただいたのは不肖私で、その日の題は「橋下大阪行政は『美味しんぼ』への恫喝『抗議文』を撤回せよ!」であった。福島第一原発事故から2年が経過していた当時、大阪の市長は橋下徹で鹿砦社は反・脱原発に特化した季刊誌『NO NUKES voice』の発刊直前だった。お蔭様でこの2年間鹿砦社は元気で、『NO NUKES voice』も徐々に存在感を高めつつある。

そして「第二期」に入ってからは、私を除いて非常に優秀ライター陣が集い、他のメディアでは目にすることのできない多彩な情報が提供されてきた。事件モノを丹念に取材し、貴重な報告を続ける片岡健氏。芸能・社会ネタからAVまで幅広いカバーエリアが圧巻のハイセー・ヤスダ氏。裏社会や事件モノ、芸能などどれほどの人脈があるのかとその本性は謎に包まれた伊東北斗氏。「裏社会、事件、政治に精通。自称『ペンのテロリスト』の末筆にして松岡イズム最後の後継者を自認する小林俊之氏。キックボクシングの取材歴32年、ムエタイにのめり込むあまりタイ仏門に出家までした猛者堀田春樹氏は文章のみならず写真も秀逸だ。

写真家ながら解析鋭い文章にも冴えを見せ、今後の大成が期待される大宮浩平氏は執筆陣の中では最若手のホープだ。9・11同時多発テロ事件をきっかけにパレスチナ問題の取材を開始。第二次インティファーダ以降、当地で起こった非暴力直接行動を取材。以降、反戦や脱原発などの市民運動を中心に取材を続け、本コラムでは原発問題を中心とした投稿が多い白田夏彦氏。著者不祥ながら、毎回「ここまでやるか!」とその圧倒的なボリュームと、パロディーの超大作を提供してくれる「屁世滑稽新聞」(毎回力作ばかりなので最近お目にかかれないのが寂しい)。そして芸能界の裏情報と言えば星野陽平氏の名前を忘れるわけにはいかない。やさしい文体ながら、ピリッと批評が効いた伊東太郎氏の更なる活躍も期待される。原発広告問題を専ら追求する渋谷三七十氏の存在も心強い。佐野宇氏は常に硬派な問題提起を行う。

かように、芸能・事件・社会問題・原発からキックボクシングまで。よくまあこれだけ好き勝手書けるメディアがあるものだ、と我がことながら感心する。しかしそれはたまたまの偶然ではなく、冒頭紹介した告知の中で「時には体も張る気構えで、〈スキャンダリズム〉の立場から〈タブーなき言論〉を発信するという姿勢を堅持してきたからこそ、鹿砦社の今はあるのです」と2011年の「戦闘宣言」が示す精神を継承してきたからに他ならない。

他のライターはいざ知らず、私が本コラムを担当させて頂くに当たり、松岡社長からは、特段のリクエストはなかったが、唯一「顰蹙を買う記事を書くように」というアドバイスがあった。ぶったまげたが、気がつくと私のコラムは、足りない知識や経験をかき集め、精一杯考えた末に書いているつもりなのに、読み返せばどれも「顰蹙を買う」記事ばかりだと気がつき、複雑な気分に支配されている。

鹿砦社は芸能から社会科学・人文科学まで幅広い書籍を世に出しているが、そのスピンオフである「デジタル鹿砦社通信」は今後も多様な個性と、「タブーなき言論」、幅広い話題を提供し続けて行きたいと考える。

わずか2年の間に日本社会は随分急激に変化した。何がどのように変化しているかをしっかり見定め、しかしながら変化の内容を熟知しても、不要な変化に流されることなく、抗うべき荷は抗う。吹けば飛ぶような小さなコラムではあるが、腰の据わった言論活動を続けてゆきたい。今後もより一層「デジタル鹿砦社通信」をよろしくお願いいたします。

▼田所敏夫(たどころ としお)
兵庫県生まれ、会社員、大学職員を経て現在は著述業。大手メディアの追求しないテーマを追い、アジアをはじめとする国際問題、教育問題などに関心を持つ。※本コラムへのご意見ご感想はメールアドレスtadokoro_toshio@yahoo.co.jpまでお寄せください。

外部との交流を厳しく制限され、獄中生活の実相が世間にほとんど知られていない死刑囚たち。その中には、実際には無実の者も少なくない。冤罪死刑囚8人が冤死の淵で書き綴った貴重な文書を紹介する。2人目は、三鷹事件の竹内景助氏(享年45)。

◆脳腫瘍で獄死

国鉄三鷹駅構内で無人電車が暴走して商店街に突っ込み、6人が死亡、20人が負傷する惨事になったのは、1949年7月15日の夜だった。捜査当局は当初から、人員整理に反対する労働組合などの犯行と断定。そんな思い込みに満ちた捜査の結果、9人の共産党員と事件前日に解雇を通達された非共産党員の竹内景助氏が実行犯として起訴されるに至った。そして裁判では、共産党員9人は無罪とされた一方、当初容疑を認めた竹内氏が単独犯だったと認定され、1955年に最高裁で死刑判決が確定する――。

竹内氏は獄中で自ら膨大な「再審理由補足書」も執筆した。支援する会のHPより購入できる

これが下山事件、松川事件と共に国鉄三大ミステリー事件と呼ばれる三鷹事件のあらましだ。竹内氏はその後、再審請求をするが、雪冤を果たせないままに1967年、脳腫瘍のために45歳の若さで獄死したのだった。

私が編集を手掛けた書籍「絶望の牢獄から無実を叫ぶ ―冤罪死刑囚八人の書画集―」(鹿砦社)でも、「三鷹事件再審を支援する会」世話人の大石進氏がこの事件について、内実に鋭く迫った渾身の原稿を寄稿してくれている。その文中で紹介された竹内氏の遺筆では、虚偽の自白に陥るまでの取り調べの過程が実に生々しく綴られている。

◆恫喝と脅迫を駆使した取り調べ

〈岡光警部はいきなり「やい、この野郎、あんなでかい事故を起しやがって、ひどい奴だ、もう駄目だぞ、観念して謝れ、さあ神妙に白状して詫びろ」と頭から怒鳴りつけられました〉
〈八月十日夜頃から平山検事の調べ句調が、俄然脅迫めいて来まして(・・・略・・・)「検察庁で検挙し起訴した事件で無罪となったなんてことは先づ無いんだ(・・・略・・・)証拠は毎日集っているんだ(・・・略・・・)裁判は自白しなくても証拠で認定されるのだ。君達がやったと云ふ証拠がいくらでもあるよ。君を見たと云ふ証人も、既に裁判官に証言しているし。」と云ひ(・・・略・・・)元気に反対する気も薄らいで来ました〉

このような恫喝と脅迫を駆使した取り調べに対し、次第に気力を奪われていった竹内氏。そんな状態の中、次のような悪辣な攻撃もうけたという。

〈「事故後丁度一と月目だね、今頃丁度此の人達が、こんな死に方をしたんだ、此の写真を見給へ、死んだ人をどう思ふかね。」と云って、惨鼻な死体写真を二十枚以上も、私の目の前に突き出しました〉

こんなおぞましい取り調べの中、竹内氏はついにこんな心境に陥っていく。

〈検事が喋った誘導や暗示によって、私の知識の中には、いつでもウソの自白をすることが出来る状態になりました。そして一っそウソでも自白して、どうせ有罪にされるなら情状を酌んで貰って軽くして貰おうかな、といふ考へが頭を掠めるようになりました。〉

「三鷹事件再審を支援する会」のHPでは再審の動向が適時報告されている

◆義憤と感激に涙して・・・

以下、ついに竹内が虚偽の自白に陥る場面である。竹内氏は悩みに悩んだ末、一緒に検挙された共産党員らを助けるため、自分1人で罪を被ることを決意したのだが、そんな考えから虚偽自白に陥った複雑な心情が克明に記されている。

〈私は生涯の断を決する為に苦悶しました(・・・略・・・)罪なくして罪を負ふのかと考いると、我乍ら自分が哀れにもなりました(・・・略・・・)そして「あの事件は私がやったのです。一人でやったのです。之から真実を申しますから、飯田さん達、他の諸君を直ぐ釈放して下さい。」と高い処から飛び降りるような心地して、悲憤と感激に涙して喋りました〉

この竹内氏の手記は、有名な刑事弁護士で、竹内の弁護人も務めた布施辰治氏宛てに書かれたものである。そして実を言うと、大石氏は、この布施辰治氏のお孫さんである。そういう背景もあり、前掲書「絶望の牢獄で無実を叫ぶ」で大石氏が寄稿してくれた原稿は時代背景、関係者の人間模様まで克明に再現された貴重な読み物になっている。

なお、2011年に竹内氏のご遺族らが東京高裁に再審請求し、現在も再審請求審が続いている。

【冤死】
1 動詞 ぬれぎぬを着せられて死ぬ。不当な仕打ちを受けて死ぬ。
2 動詞+結果補語 ひどいぬれぎぬを着せる、ひどい仕打ちをする。
(白水社中国語辞典より)

▼片岡健(かたおか けん)
1971年生まれ、広島市在住。全国各地で新旧様々な事件を取材している。

映画総監督・脚本は庵野秀明だ。僕の先輩はたとえば55歳で庵野世代であり、ゴジラ世代なのでもう3回もこの映画を観たという。

まあ、いってみれば「エヴァンゲリオン」に出てくる正体不明の敵、「使徒」がゴジラになったといえばわかりやすいか。

物語は展開が早すぎて、たぶん2回見ないとわからないだろう。たとえばプロデューサーの山内章弘氏(46)はマスコミにこう話す。

──「シン・ゴジラ」には多くの人の思いが込められている

「そうなんです。1本目のゴジラ(1954年)の精神にのっとっている感じですね。平成ゴジラが大好きな方々には拒絶反応があるかもしれませんが。ハリ ウッド版を除いて日本のゴジラの製作は12年ぶり。12歳までの子供たちは『ゴジラ』なんて知らない。そういう人たちに対してどういうアプローチ でゴジラを再生して新しいものとして見てもらおうかと(総監督の)庵野(秀明)さんとも随分話しました。“今の日本でやる意味”を突き詰めると、 かなりのリアルシミュレーションというか、今の日本にゴジラという巨大生物が現れたら一体どうするのか、どうなるんだろうかという発想の集大成の ような映画。大人の鑑賞に堪えうるゴジラです」
伊藤徳裕【スクリーン雑記帖】=2016年8月11日付産経ニュースより引用

たしかに、ゴジラは、大人向けに作られている。だが、ゴジラが登場したときの「無力な政府の対応」は、まるで原発事故が起きたときの民主党のそれにそっくりだ。責任転嫁をし、国民に嘘の情報を流す。もしくは情報を小出しにする。

ゴジラが原発で、自衛隊が唯一の希望で、あの「3.11」の事故のときに海水を原発に放水していたあのときを思い出ししてしまう。

世代によって「ゴジラ」は見方がちがうと思う。僕が見るゴジラは、すでに「正義の味方」となっており、悪のメカゴジラと戦っていた。

少なくとも、ゴジラが登場したら、本物の政府もこうした反応をとると思う。行政がどう対応するか、この映画には、都知事となった小池百合子氏がアドバイザースタッフとして参加しているのだが、そのあたりも見所だろう。

二度目を見たいが、おそらく僕には見る時間はないだろう。また、見るのに多少のためらいもあるのも事実だ。なぜならゴジラを見ると「原発事故と民主党政権のていたらく」を思い出して、情けなくなってくるからだ。

ところで庵野監督の5万文字インタビューも掲載している公式本公式記録集「ジ・アート・オブ シン・ゴジラ」が9月中旬に発売されるが、すでに予約が5万部超えているとか。

「庵野×ゴジラ」は、確実にブームとなった。第2弾を期待するが、今度はもうすこしゆったりとしたストーリー展開を望む。

▼小林俊之(こばやし・としゆき)
裏社会、事件、政治に精通。自称「ペンのテロリスト」の末筆にして松岡イズム最後の後継者。師匠は「自分以外すべて」で座右の銘は「肉を斬らせて骨を断つ」。

少々長くなるが辺見庸が最近自身のブログに掲載した文章を全文引用する。

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汝アホ臣民ニ告ク

忠良ナル汝アホ臣民ニ告ク!

慶べ、國軆はけふ、めでたく護持せられたぞ。父、第124代天皇の罪咎はチャラになったぞ。ウルトラ極右政権はいっそう強化せられたぞ。政権支持率はまたアップしたぞ。防衛大臣もやる気マンマンだぞ。共産党も天皇制を支持しておるぞ。バカマスコミは挙げて國軆の精髄と美質を宣伝しまくり、皇室をとことん賛美しておるぞ。野党共闘はハナからインチキだぞ。ボケのトリゴエで勝てるわきゃない。そんなこたあ、みんな先刻承知だったぞ。ヌッポンゼンコクみんなイカサマだぞ。

オキモチなのだ。オキモチとオコトバだぜよ。オキモチって、どう書くか知ってるか。「お肝血」である。戦火でうしなわれたおびただしい「お肝血」を、10分間のオキモチ表明で無化してやったぞ。ざまあみろ!このうえは、誓って國軆の精華を発揚し、世界の進運におくれざらんことを期すべし。汝臣民、それよく朕が意を体せよ。ヌッポン、チャチャチャ。さあ、貧乏人はもっと飢えなさい。重度障がい者はもっとおびえなさい。在日コリアンも毎日ふるえなさい。忠良ナル汝アホ・ヌッポン臣民ドモニ告ク。おまえらは最低のクズ、カス、クソッタレだぜ。御名御璽
(2016/08/08)

忠良なる汝アホ臣民ニ告ク!(二白)

朕のオ・キ・モ・チ発表の真意がドアホどもにバレずによかったぜよ。朕のオキモチは「生前退(譲)位」のみにあらず。ましてや「生前廃位」などに毫もあらざるは、いまさら言ふまでもなひ。汝アホならびにボケ臣民よ、そしてド貧民どもよ、全文をしかと読んだのか。ポイントは「日本の皇室が、いかに伝統を現代に生かし、いきいきとして社会に内在し、人々の期待に応えていくかを考えつつ、今日に至っています」にあるのである。朕らはもはや象徴ではなひのだ。

朕と、戦争犯罪追及からあの手この手で必死こいてのがれた、父をふくむ皇祖皇宗はすでにして「いきいきとして社会(または、汝アホ臣民の胸中)に内在し」ておるのだ。かく、いけしゃあしゃあと宣わることのマジヤバい意味あいをしっかりと書きえた新聞がどこにあるか?一紙もないやろ。つまりやね、朕はぜったいの自信をもっておるのじゃ。どや、口腔部だか肛門部だかさえ判然としない顔の、あの独裁首相は「いきいきとして社会に内在し」てるか、どや?あの男は、ときいたれば打倒されるが、朕らは未来永劫、無公害・無添加・オーガニックのタダ飯食らって万世一系を全うするのである。

換言すれば、「いきいきとして社会に内在し」ている朕たちは、現行の極右政権よりも、共産党をはじめとするアホンダラ翼賛野党勢力よりも、はるかにはるかに〈勁く根深き虚構〉であるがゆえに、ここにめでたく國軆を護持しえて、バカでやみくもに忠良なる汝臣民の赤誠に信倚し、柄谷行人をしていたく「感銘」せしめ(失笑)、永遠に汝らボケナス臣民とともにある、すなわち、「天皇制は不滅だぜよ」と、このたびのオキモチをつうじて宣言したわけや。これすなはち、朕による朕らのための、堂々たる憲法違反なのだ。わかったか、ボケども!

貧しき下々は永久に貧しく、卑賤なる下々は永遠に卑賤に!これが皇祖皇宗からの天皇制のモットーである。だいいち、日々にひりだすウンコの質が汝らド貧民どもとはちがう。汝ら忠良にして貧しき臣民のクソは、マックとカップ麺ばっか食ってるから、もはや有機肥料にもつかへなひ。野菜は枯れるし、虫も死ぬ。汝ら忠良にしてド貧乏なる臣民は、文字どおり「生まれることは屁と同じ」(深沢七郎)なのである。朕、しかしながら、今後ともやさしくよりそってやるさかい、忠良なる柄谷のごとくに「有り難く」(爆笑)おもへ。御名御璽
(2016/08/09)

忠良ナル汝アホ臣民ニ告ク!(補記)

このたびのオキモチ発表は、たんなる偶然にせよ、相模原の障がい者殺傷とあい前後して生じた底昏い「事件」だとおもう。両者にはいかなる関係もないと言えば言えるけれども、殺傷事件の血煙ごしにオキモチを聞き、あるいはオキモチ発表の茫とした不気味さから重度障がい者の殺傷事件を想ってしまうのは、どうにもいたしかたのないことだ。象徴と言われようが天皇制は天皇制なのであり、〈かれらの血〉とわれらとの関係/無関係性をふりかえるとき、あるしゅの怖気と戦きをともなうのはなぜか。

障がい者の施設はいつも〈かれら〉の居住区から遠ざけられた。昭和天皇が各地を「巡幸」したとき、ヒノマルをうちふる子どもたちの前列には、きまって「健康および体格優良」なる児童がたたされた。現在の天皇の旅でも、当局は事前に、精神障がい者や認知症患者らを外出させないよう沿道の地域に直接間接、工作しているといわれる。スメラギにまつわることどもの湿った「襞」には、不可解な精神がうめこまれ、それじたい、しずやかに狂(たぶ)る 波動である。

このクニのゼノフォビア(xenophobia)は、おしなべて、こよなくスメラギを愛する。異様なほどに。スメラギはオキモチ発表にさいし、なぜそのことに言及しなかったのか。〈朝鮮人は死ね、朝鮮人は息するな〉――などと、だんじて言ってはならぬ、皇祖皇宗は半島よりきたやもしれないのだからと。スメラギが「いきいきとして社会に内在し」ているとは、どういうことか。みずから「内在」を言うとは、スメラギよ、とてもおかしい。

スメラギさんよ、あなたは虚構なのだ。虚構にすぎないのだ。卑怯で卑小な、ずるがしこい権力者たちがこしらえた、哀れなフィクションなのだ。そのようなものとして仮構された〈存在〉兼〈非在〉なのだ。われらとおなじ、そして奇しくも、障害者殺傷事件の青年と同様の、霊長目・直鼻猿亜目・真猿亜目・狭鼻下目・ヒト上科・ヒト科・ヒト亜科・ヒト族・ヒト亜族・ヒト属・ヒトであるにもかかわらず、虚構たることを強要されたひとなのだ。

であるなら、オキモチはやはり「お肝血」であるべきであり、スメラギはいつの日かついに、ヒトとして解放されなければならない。したがって「お肝血」発表では、退位ではなく廃位の希望を、すなわち、天皇制廃止の意向を言うべきであった。逆であった。スメラギはスメラギになりきり、権力者の思惑どおり、虚構を現実ととりちがえていた。ヒトであるならば、極右大臣たちへの認証式を欠席すればよかったのだ。「お肝血」とはそういうことだ。

さて、障害者殺傷事件の青年も、スメラギを敬愛していたのではないか。

(以上、辺見庸ブログ「私事片々」より引用)

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私は現天皇(82歳)の公務は年齢に比して過重であると思う。「もう勘弁してくれ」との気持ちはわかる。しかし、全くそういった個人的な同情と異なり、日本国憲法で定められた「天皇」の地位は不可避に差別を生み出す根源だと考える。生まれながらにして「○○様」と呼ばれる人間がいるからには、生まれながら、言葉に出すか出さないかをおいて「あの子ね……」と蔑まれる子供が必ず対として存在するのだ。つまり差別の根源なのだ。

であるから、私は憲法9条絶対死守派でありながら、天皇制を排すべきだと言う立場である。

天皇が語った言葉には表面上、大きな話題にあることはなかった。しかし「天皇」だからNHKのある時間を独占し語ることを許されたのだ。現天皇アキヒトは、その父でありアジアの殺人鬼であった「ヒロヒト」に比すれば、比較にならぬ平和主義者とされている。しかし出生によりその地位、しかも「国民統合の象徴」という、極めてあいまいな根拠に根差す「天皇制」の継続をアキヒトが表明したことを、見逃してはならない。

辺見庸「1★9★3★7(イクミナ)」(河出書房新社2016年3月増補版)

辺見のエッセーを全文引用しなければならなかった理由はここにある。私たちのような主張をするものはこの国で極僅かだろう。遠くない将来「非国民」と公然と罵られるだろう。私は辺見が言うように「退位ではなく廃位の希望を、すなわち、天皇制廃止の意向を言うべきであった」との見解には首を傾げる。

何故ならば、天皇の廃位こそがこの国の国民の根底から喚起され、絶対に譲れない一大変革となる日(おそらくそのような日を希望するのが寒々しい『妄想』と言われても仕方あるまいが)への希望を捨ててはならないと感じるからだ。辺見は罵詈雑言の中でアキヒトに「優しい」気持ちを持ってはいまいか。

言葉厳しく天皇を批判する辺見自身が、実は現天皇に投げかける言葉ほどに悪意を抱いてはいないことを私は熟知している。辺見は現天皇の言葉を聞き、実はさして驚かず、むしろ自分自身の中に「巣食う」天皇制をはぎ取ろうと、もがいたのではないだろうか。たぶんそうだ。その辺りの事情は「1★9★3★7(イクミナ)」(河出書房新社2016年3月増補版)に詳しい。この本は読まれるべきだ。

2016年8月15日。国民は言葉を失っている。天皇に頼る国などその余命は知れている。

▼田所敏夫(たどころ としお)
兵庫県生まれ、会社員、大学職員を経て現在は著述業。大手メディアの追求しないテーマを追い、アジアをはじめとする国際問題、教育問題などに関心を持つ。※本コラムへのご意見ご感想はメールアドレスtadokoro_toshio@yahoo.co.jpまでお寄せください。

外部との交流を厳しく制限され、獄中生活の実相が世間にほとんど知られていない死刑囚たち。その中には、実際には無実の者も少なくない。冤罪死刑囚8人が冤死の淵で書き綴った貴重な文書を紹介する。1人目は、2008年に福岡拘置所で処刑された飯塚事件の久間三千年氏(享年70)。

久間氏に対する死刑の執行後、拘置所長や担当検察官による死体検視の結果などが報告された文書

◆再審請求を準備中に処刑

〈私にとっての十四年は、単純に十四年という数字ではない。社会から完全に隔離され孤独のなかで人間としての権利と無実という真実を奪われてきた時間である〉

これは2008年の夏、死刑廃止を目指す市民団体「死刑廃止国際条約の批准を求めるフォーラム90」が死刑囚105人にアンケート調査を行った際、久間三千年氏が所定の用紙に「今、一番訴えたいこと」として綴ったメッセージの一節だ。

当時、福岡拘置所に拘禁されていた久間氏は70歳。1992年に福岡県飯塚市で小1の女児2人が殺害された通称「飯塚事件」の容疑者として検挙され、死刑判決を受けながら、一貫して無実を訴えていた。

A4サイズの用紙の裏面に小さい文字でびっしりと、無実の自分を死刑囚へと貶めた警察や裁判所に対する批判、憤りを切々と綴った文章は気圧されるような迫力だ。その中でも、とりわけ強く私の胸に迫ってきたのは、次の一節だった。

〈真実は必ず再審にて、この暗闇を照らすであろうことを信じて疑わない。真実は無実であり、これはなんら揺らぐことはない〉

読んでおわかりの通り、再審で無罪を勝ち取ることへの強い意欲と自信が窺える文章だ。しかし、久間氏は生きているうちに再審無罪を実現できなかった。このメッセージを書いてから3カ月も経たない2008年10月28日、死刑を執行されたためである。久間氏は当時、再審請求を準備中だった。

絞首台に上がらされる時、目隠しをされ、首に縄をかけられる時、久間氏の恐怖、絶望感はいかばかりだったろうか。

久間氏が処刑された福岡拘置所

◆警察が証拠を捏造した

久間氏の裁判で有罪の決め手になったDNA型鑑定は、足利事件のDNA型鑑定と同様に90年代前半、まだ技術が拙かった警察庁科警研が行ったものであることは有名だ。それが久間氏の冤罪説を世間に広めている一番の要因だが、実際にはDNA型鑑定のみならず、目撃証言や血痕鑑定などその他の有罪証拠も疑わしいものばかりだった。

実を言うと、久間氏本人もそのことは強く訴えていた。再び冒頭のアンケート用紙から該当部分を紹介しよう。

〈事件について、さまざま経過があって、警察が証拠を捏造して逮捕したあの時から14年の月日が流れた〉

〈あの時とは・・警察が座席シートの裏側から血痕を発見したという平成六年四月を指す。ここで注目すべきは、平成四年九月二九日にルミノール検査をした筈の警察がシートの裏側に付着していたという血痕を平成六年四月まで発見できなかったのも不自然なら、その部位のシート表面から、ルミノール反応が全く出ていないのは、全く説明不能という外はない〉

久間氏が事件当時に乗っていた車の座席から血痕が検出された件については、確定死刑判決でも有罪の根拠の1つに挙げられている。しかし実際には、発見経緯の不自然さから「警察の捏造」が疑われている。久間氏本人もそう考えていたのである。

久間氏の処刑後、遺族が申し立てた再審請求は福岡地裁に退けられたが、現在は福岡高裁で即時抗告審が続いている。その過程では、不正捜査を疑わせる事実も新たに次々浮き彫りになっている。一日も早く久間氏の雪冤が果たされることを私は願っている。

※書籍「絶望の牢獄から無実を叫ぶ ―冤罪死刑囚八人の書画集―」(片岡健編/鹿砦社)では、本文中で紹介した久間氏の遺筆の全文が紹介されている。

【冤死】
1 動詞 ぬれぎぬを着せられて死ぬ。不当な仕打ちを受けて死ぬ。
2 動詞+結果補語 ひどいぬれぎぬを着せる、ひどい仕打ちをする。
(白水社中国語辞典より)

▼片岡健(かたおか けん)
1971年生まれ、広島市在住。全国各地で新旧様々な事件を取材している。

決勝戦、ペットモラコットのハイキックがシーラリットを捕らえる

クジ抽選による組み合わせ発表。迷わずチャムアトーン&佐藤翔太が並ぶ

タイのチャンピオンやランカー、イベント覇者クラスと日本国内チャンピオンクラス4名ずつ計8人参加によるウェルター級中心の全3回戦のワンデートーナメント。20年の歴史を持つ通称「タイTOYOTA CUP」や「TOYOTAムエマラソン」と言われるこのイベントが7月29日、ついに日本で開催されました。

チャムアトーンの鋭い蹴りを受けてしまう佐藤翔太

日本では有り得ないぐらいの大手企業が、ムエタイプロモーターとの提携で、タイでのその知名度はかなりメジャーな存在です。このイベントがタイ7chで衛星生放送されるため、14:00開始ながら2試合終えて16:00まで待機時間が長く続きました(放送枠は3時間)。平日の昼間(時差2時間)にムエタイ放送なんて不自然な感じもしますが、タイでは平日も土日も大差なく、タイはこの日も祝日ではない平日です。

ノンタイトル戦、ムエタイ3階級制覇のサムエーに翻弄されっぱなしの甲野裕也

◆日本人4選手は全滅──タイ選手との実力差

参加した日本人選手4名は、国内で何らかのチャンピオンとなった実力のある選手ですが、タイ選手との実力差には開きがあり力及ばず全滅。攻防に大差は開かないものの、上手さ素早さの駆け引きで差が出た試合が多かった様子でした。準決勝戦2試合はタイ人選手同士となり、決勝戦はペットモラコットがシラリットをボディブローで仕留める、ちょっと意外なKO決着でした。これでペットモラコットが優勝賞金100万円を獲得。シーラリットは準優勝50万円を獲得です。

決勝戦、ペットモラコットのボディーブローでシーラリットがあっけなく崩れ落ちる

そしてもうひとつのメインイベント、タイ国ムエスポーツ(プロムエタイ)協会フライ級チャンピオン、福田海斗の初防衛戦が行われました。昨年12月、ルンピニースタジアムで奪取した王座から7ヶ月経ての防衛戦は日本のディファ有明となりました。

優勝ペットモラコット、準優勝シーラリットがワンデートーナメントを締め括るセレモニー

チャンピオンの福田海斗は牽制しあう素早い前蹴りや繋いでいく蹴りに本物の実力が垣間見れました。挑戦者のトゥカターペットは3ラウンドから福田を転ばしに来る展開が増え、福田の印象点が悪いまま進み、トゥカターペットも勝利を確信したか逃げに入り、敗北の色が濃くなるまま終了。しかし、判定は意外に福田の勝利。「よくぞ防衛してくれた」と喜びの声が響きました。

福田海斗の素早い蹴りは観ている者を唸らせる上手さがあった

◎TOYOTA Hilux Revo Superchamp in Japan
 7月29日(金)14:00~19:35 主催:センチャイジム、ペッティンディープロモーション

◆第11試合 / タイ国ムエスポーツ協会フライ級タイトルマッチ 5回戦

チャンピオン.福田海斗(キングムエ/18歳/50.75kg)
.VS
トゥカターペット・ソー・ギャットニワット(タイ/21歳/50.3kg)
勝者:福田海斗 / 3-0 (49-48. 49-48. 50-48)

福田海斗が第3ラウンドの、ここから的確さで勝負に出るミドルキック

◆第10試合 / TOYOTA CUP 決勝戦3回戦

ペットモラコット・ウォー・サンプラパイ
.VS
シーラリット・チョー・サムピーノーン
勝者:ペットモラコット / TKO 2R 0:32

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TOYOTA CUP 準決勝3回戦2試合
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駆け引き勝負の第4ラウンド、優勢とは見えなかったが、福田海斗の攻めが続く

◆第8試合

ヨーディーゼル・ルークチャオメーサイトーン
.VS
シーラリット・チョー・サムピーノーン
勝者:シーラリット / 0-3 (28-29. 29-30. 28-30)

◆第7試合
ペットモラコット・ウォー・サンプラパイ
.VS
チャムアトーン・ファイタームエタイ
勝者:ペットモラコット / 2-1 (29-28. 28-29. 30-27)

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TOYOTA CUP 準々決勝3回戦4試合
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余裕を持ち出したトゥカターペットのミドルキック

◆第6試合

シーラリット・チョー・サムピーノーン(タイ/64.1kg)
.VS
為房厚志(二刀会/66.35kg)
勝者:シーラリット / 3-0 (30-27. 29-28. 30-28)

◆第5試合

タイ東北部スーパーライト級チャンピオン
ヨーディーゼル・ルークチャオメーサイトーン(タイ/63.8kg)
.VS
喜入衆(フォルティス渋谷/66.9kg)
勝者:ヨーディーゼル / 3-0 (30-28. 30-28. 29-28)

勝ったと思った両者の明暗が分かれる勝者コールの瞬間

◆第4試合

ルンピニー系スーパーライト級チャンピオン
チャムトーン・ファイタームエタイ(タイ/64.6kg)
.VS
佐藤翔太(センチャイ/66.8kg)
勝者:チャムアトーン / 3-0 (29-28. 29-28. 30-27)

◆第3試合
タイ・ムエスポーツ協会ライト級チャンピオン
ペットモラコット・ウォー・サンプラパイ(タイ/64.5kg)
.VS
平野将志(インスパイヤードモーション/67.0kg)
勝者:ペットモラコット / TKO 2R 1:03

◆第9試合 60.0kg契約ノンタイトル3回戦

サムエー・ガイヤーンハーダーオ(タイ/59.8kg)
.VS
甲野裕也(センチャイ/59.5kg)
勝者:サムエー / TKO 3R 0:41

◆アンダーカード4試合(勝者=○、敗者=●)

最終第13試合/ 73.0kg契約3回戦
●KP・フライスカイジム(USA)vs山田寛(BLUE DOG)○0-3

第12試合 / 65.0kg契約3回戦
●柳谷文彦(センチャイ)vsアローン・エスジム(カンボジア)○0-3

第2試合 / スーパーライト級3回戦
●及川大夢(センチャイ)vs橋本悟(橋本)○TKO 3R 0:45

第1試合 / 58.5kg契約3回戦
○中村慎之介(インスパイヤードM)vs充(ゴールデングローブ)●
TKO 1R 0:31

◆リング上のクジ引きで対戦相手を決める

7月28日、前日計量と記者会見が同会場で行なわれており、全員1回でパスしていました。主催する日本代表のセンチャイ・トーングライセーン氏も7月17日のルンピニージャパンに続くビッグマッチ開催でムエタイ興行での活躍が定着してきた感じがします。

TOYOTA CUPは試合当日、リング上でクジ引きによって初戦準々決勝の対戦相手が決定するという、それまで各選手は他の7人の誰と初戦を戦うか分からない、この手のトーナメントでよく行なわれるシステムです。

在日タイ大使高官によって箱から選手名入りクジを淡々と引いた結果、日本人対タイ人の4組が、プログラムに印刷されている並びどおりの、感動もない分かりやすい組み合わせとなりました。

何とか初防衛に成功した福田海斗。歴史に名を残す“防衛してこそ真のチャンピオン”

タイ選手65.0kgリミット。日本選手67.0kgリミットで、2kgのハンディーが付く変則的トーナメントで、主催者都合のワンデートーナメントであるが為、競技性が崩れるのは仕方ないところでしょう。

イベント発表からTOYOTA CUPが注目されがちですが、タイの格闘技カテゴリーに入る元祖ムエタイは、タイ国ムエスポーツ協会フライ級タイトルマッチ5回戦の方。

格闘エンタメとは違う格式が伴います。試合は接戦の振り分けには難しい見極め方があり、日本のホームリングで戦っている有利性か有効打の的確さが優ったか、トゥカターペットの崩し転ばしが軽視されたか、玄人の意見を聞くと、トゥカターペットの転ばしは攻撃に繋がらない転ばしで優位とは言えず、視点を変えれば福田海斗の有効打の的確さで勝ちもおかしくない接戦であったようです。

このタイトルはタイ政府スポーツ庁のムエスポーツ委員会(コミッションに相当)が管轄するタイトルで、30年以上前から存在するタイ国タイトルとなっています。
しかし、二大殿堂のラジダムナンスタジアムとルンピニースタジアム王座と同等かと言えば難しい位置付けで、1999年のボクシング法成立後、活性化してきたタイトルと言えるかもしれません。同協会の今後のトップスターによる活躍と協会の活性化が、権威を上げていくでしょう。

前日計量でベルト奪取を誓う8選手

この日センチャイジムから出場した、夢センチャイジム(及川大夢)、翔センチャイジム(佐藤翔太)、裕センチャイジム(甲野裕也)、獅センチャイジム(柳谷文彦)は国際試合として、それぞれが本名で出場する要請があったか、そのまま本名で出場。いつも思うことですが、個人名一文字では分かり難く、国内でも普段から本名でいいのではと思います。本名の方が人格・経歴が分かりやすく、感情移入し易く、仲間内ではない一般のファンも増えやすいのではないでしょうか。

この日の来賓の中には 、藤原敏男氏、その藤原氏とラジダムナンスタジアムで戦った、タイの英雄シリモンコン氏、また二人の激闘を知る古くからの、タイから来日中のレフェリーなど、古き時代の盟友が集まる光景が見られました。

初の外国人ムエタイチャンピオンとして、タイでも有名な藤原敏男氏が紹介された

こういう競技のビッグマッチに昔の盟友が集まる光景は、過去のキックボクシングでも往年のチャンピオンが集まる光景がありました。しかしこの日のムエタイイベントには少人数でもその重みが違う顔ぶれに、名チャンピオンが多く誕生した競技の同窓会のような再会には、ムエタイの権威と歴史を感じる光景でした。

日本のキックボクシングでも過去の世代には名チャンピオンが大勢いましたが、近年のチャンピオンは乱立した存在が複雑過ぎて、またすぐに返上する王座が多過ぎて、感銘を受けるチャンピオンが少ないことが心を過り、将来チャンピオンが集うイベントがあっても感動が少ないだろうなと感じる一日でした。

次回のセンチャイジム主催興行としては、MuayThaiOpen.36が10月2日に新宿フェイスにて行なわれます。

[撮影・文]堀田春樹

▼堀田春樹(ほった・はるき)
フリーランスとしてキックボクシングの取材歴32年。「ナイタイ」「夕刊フジ」「実話ナックルズ」などにキックのレポートを展開。ムエタイにのめり込むあまりタイ仏門に出家。座右の銘は「頑張るけど無理しない」

夏の風物詩といえば、僕にとっては「トーゴーフェス 夏のロック天国」だ。

イベントプロデュ-サーとして、また音楽家として知られるトーゴー社長が今年、仕掛けたのは、2時から9時までのぶっとおしライブ。ドラムの重低音が響く。
売り出し中のバンドが汗だくになって演奏していた。

「初めて来たけど、ここ10年では一番盛り上がっていたフェス」だったのではないか」と20代のOLは言う。

今年は「電撃ネットワーク」や「Sab?o(元Hysteric Blue)」などの大御所も出現。

はっきりいって、まだ日本に「ロック」というものがまだこんなにも根強く残っていたとは衝撃というか、驚きだ。

取材記者は「思ったよりも、人がたくさんいて、ノリもいい。最初から見ればよかった」と1時間遅れでやってきたことを後悔していた。

音楽家を音楽家が育成するのが難しいと日本の音楽関係者たちは声をそろえる。だが、そんなことはない。ここに音楽家たちがちゃんといて、育てようというプロデューサーが歴然としている。それだけで充分じゃないか。

踊ろう。この夏は踊ろう。

かくしていい歳をして、僕は今年の夏もフェスを探すだろう。

20歳年下の若いOLのYが言う。
「フェスって、気が合う友達と行って、さんざん汗を流して帰りに一杯のビールを飲むのが最高よ。録画で見ても意味はない」

日本の若者が元気がないという。本当だろうか。
今回のフェスを見る限り、エネルギーに溢れている。

「いつの日にか、東京ドームを満員にせよ、若いバンドマンたちよ」と叫びたい。
若者にエナジーはまだ溢れている。
日本の未来に絶望するなかれ!

▼ハイセーヤスダ(編集者&ライター/NEWSIDER Tokyo)
テレビ製作会社、編集プロダクション、出版社勤務を経て、現在に至る。週刊誌のデータマン、コンテンツ制作、書籍企画立案&編集&執筆、著述業、漫画原作、官能小説、AV寸評、広告製作(コピーライティング含む)とマルチに活躍。座右の銘は「思いたったが吉日」。

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