西日本大水害2018から4年が経過しました。広島県で114人、岡山県で64人、愛媛県で27人など263人が犠牲になるなど、普段は雨が少ない瀬戸内地方を中心に大きな被害が出ました。日本の災害に悪い意味で新たな歴史を刻んだ水害でした。

◆50年前の飛騨川バス転落事故に似た状態に

2018年7月4日夕方。台風一過とは思えぬどんよりとした雲がかかっていました

この水害をもたらした大雨が降り始めたのは2018年7月5日(木)のことです。その前々日、台風7号が対馬海峡付近を通過し、広島でもそれなりの暴風雨になりました。台風は日本海で温帯低気圧に変わりました。普通は台風が通過して「台風一過」で梅雨明けになる場合が多いのですが、そうはいかなかった。

筆者はそのとき、ふと、1968年8月18日未明に岐阜県の飛騨川にバスが転落して104人が犠牲になった事故のことが頭をよぎりました。

以下は7月4日夕方の筆者のブログへの書き込みです。台風一過とは思えぬどんよりとした雲がかかっていました(写真右)。

「50年前の飛騨川バス転落事故を思い出します。台風通過後にそこから伸びた前線と湿った空気のために岐阜県で大雨となり、犠牲者100人超の大惨事になりました。明日以降、飛騨川バス転落事故と似た気圧配置ですのでご注意ください!」

その筆者の予感は当たってしまいました。

翌5日は午前3時ころから大粒の雨が降りはじめました

◆7月5日朝から本降り

翌5日は、筆者がいた安佐南区でも午前3時ころから大粒の雨が降りはじめました。そして、9時ころから本降り、10時前から土砂降りとなりました。

14時には気象庁が会見し、未曽有の豪雨になるおそれがある、と発表しました。

15時から夕方18時くらいまでは、次々と強烈な雨雲がレーダーでも次々と広島市内に流入している様子が明らかになりました。

17時に広島市中区の広島地方気象台で累加雨量85ミリ。広島瀬戸内新聞安佐南支社の近くの祇園山本で117ミリ。広島市全域に避難準備情報が出されました。

◆安倍晋三さんはそのころ、大宴会

しかし、こともあろうに、この後、当時の総理というよりは、まるで皇帝のようにやりたい放題だった安倍晋三さんが、岸田現総理らを招いて自民党本部で大宴会を開いていたのです。そこで総理が差し入れた山口県岩国市の地酒も、蔵元が大被害を受けてしまったのですが、そんなことになるとも知らずに安倍さんはのんきに宴会をしておられたのです。

「こんな人たち」に、独裁権を与えてしまう「緊急事態条項」。こんな改憲をしても、日本の危機管理能力がアップするとはとても思えない。そういう事件でした。

翌日6日(金)11時半頃、東区不動院前では太田川河川敷に水があふれ始めました

◆5日夜は小康状態も6日5時頃から再び大雨に

とはいえ、広島市内の雨雲はいったん東へ抜けて、筆者の周囲では小康状態でした。5日の合計雨量は広島気象台で81ミリでした。しかし、翌日6日(金)5時には、大雨が降り始めました。

11時半には、広島市のほとんどが、土砂災害警戒レベルが警報レベルの3に達しました。0-12時までに、新たに52ミリの雨が気象台では降り、合計133ミリに達しました。

このころ、東区不動院前では太田川河川敷に水があふれ始めました(右写真)。

15時までに降り始めからの雨量が183.5ミリに達します。5日の降り始めから6日16時までに196.5ミリ、17時までに206ミリに達します。ここまでは、1時間に10-20ミリの雨が長時間続く感じでしたが、このあと、状況がさらに悪化します。

18時までに合計雨量が237.5ミリ、すなわち1時間に41ミリの激しい雨となりました。すでに200ミリの雨で地盤が緩みかかっているところに激しい雨。たまったものではありません。

続く19時までにも広島市で48ミリ。これが振り返れば「決定打」となって、19時40分に気象庁は大雨特別警報を広島県にも出しますが、すでにその時には大被害が出始めていました。

安佐北区でまず、芸備線の安芸矢口駅前が水没。さらに、土砂災害で犠牲者も出てしまいます。

強烈な雨雲は北東から南西に伸びており徐々に北東へ流れつつ、全体として東へ移動していきました。すなわち、安佐北区に大被害を与えた雨雲はさらに、安芸区・安芸郡海田町や南区を結ぶライン、そしてさらに安芸郡熊野町・坂町を結ぶライン、さらに東広島市~呉市を結ぶラインへと少しずつ移動しながら激しい雨を降らせていきます。

7日午前3時までに広島市中区の気象台では降り始めからの雨量が362.5ミリとなりました。このころには、雨雲の中心が福山市や尾道市、三原市、竹原市などに大きな被害を与えながら移動していたのです。

2018年7月6日17時頃の安佐南区民文化センター付近。会話が聞き取れないくらいの激しい雨だった

◆被害が大きかった地域ほど「過少」報道

7日(土)朝8時半に報道されていた被害状況は以下でした。

三原市で1人死亡、4人不明。
福山市で1人死亡。
竹原市で4人不明。
府中市で1人不明。
東広島市で1人死亡、不明者相次ぐ。
呉市で2人不明。
坂町でも2人不明。
広島市安佐北区で2人不明。
東区で土砂に埋まった人?
安芸高田市で1人死亡。
4人死亡、15人不明というのがこの段階での被害報道でした。

本当に被害が大きかった坂町、呉市、広島市安芸区、熊野町などの被害が小さめに報道されているのが特徴です。しかし、それは、これらの地域が道路や鉄道の寸断で孤立してしまったから把握されていないだけだったのです。

筆者はそれでもこの日は太田川を渡って、老人ホームに出勤して仕事をしました。
太田川河川敷のゴルフ場はすべて水没していました。

ゴルフ場の常連客とみられる男性が、ゴルフ場の従業員に詰め寄り「いつになったらゴルフができるようになるのだ?!」とおっしゃっていたので、従業員も困っておられました。人間、好きなことのためには非常事態もそっちのけなのだ、ということを感じました。

しかし、一般市民である「普通のおっさん」はそれでよくても内閣総理大臣が、相変わらず宴会三昧では困ります。

安倍晋三さんは、結局、ずっと毎晩、総裁選対策の宴会をしておられたようでした。

7日22時には全国で47人死亡、49人不明で広島では23人死亡22人不明と報道されました。22:30には全国で47人死亡、64人不明となりました。事態の把握が進むにつれて死者と行方不明の合計が増えていったのです。

◆8日朝、ようやく安倍晋三さんが非常災害対策本部

7月8日(日)朝8時の閣議で、安倍晋三さんは非常災害対策本部を立ち上げました。しかし、その時には大災害があちこちで起きていたのです。

広島市も含めて、山岳地帯に人が多く住む広島の場合は土砂災害がメインでしたが、平原地帯が比較的広い岡山県では倉敷市真備町で大洪水となっていました。救助の手も十分でない中で、多くの方が、自宅で水死という結果になってしまいました。

このような男がいま、維新などと連携するかのように、岸田総理を右から攻撃し、改憲を煽り立てています。しかし、こんな男が総理のときに、独裁権が総理にあり、西日本大水害があったらどうだったのでしょうか? 緊急事態条項発動で、国会も閉じられ、批判する言論も抑え込まれれば、危機管理能力がないこの男が暴走していた。そう思うとぞっとします。

しかし、安倍晋三さんの「本領発揮」は、非常災害対策本部が立ち上がったあとの復旧局面においても続きます。

そのことへの地元の被災者やボランティアの皆様のいら立ちの声も今後、稿を改めてお届けします。

※本稿は故・安倍晋三さんの生前に書かれたものです。

▼さとうしゅういち(佐藤周一)
元県庁マン/介護福祉士/参院選再選挙立候補者。1975年、広島県福山市生まれ、東京育ち。東京大学経済学部卒業後、2000年広島県入庁。介護や福祉、男女共同参画などの行政を担当。2011年、あの河井案里さんと県議選で対決するために退職。現在は広島市内で介護福祉士として勤務。2021年、案里さんの当選無効に伴う再選挙に立候補、6人中3位(20848票)。広島市男女共同参画審議会委員(2011-13)、広島介護福祉労働組合役員(現職)、片目失明者友の会参与。
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◎広島瀬戸内新聞ニュース(社主:さとうしゅういち)https://hiroseto.exblog.jp/

『紙の爆弾』と『季節』──今こそ鹿砦社の雑誌を定期購読で!

安倍元総理殺害事件が、選挙の自由妨害という民主主義の根幹にかかる犯罪であることは前回も確認した。

そのうえで、事件の背景および暗殺者としての犯人の技量を推し量っておこう。政治史上に刻印された世紀の大事件は、われわれの社会を映し出しているとともに、時代を変える動力もまた暗殺者の技量に反映するものだからだ。

ゲバ棒や火炎瓶の時代の大衆武装、爆弾闘争の非公然時代、そして社会的に孤立し(アトム化され)た時代の犯罪、すなわち今回の事件が社会の変化をどこまで反映しているのか。経済的にも行き詰った現在の日本を占うものとして、考察を深めるべきであろう。先行きのわからない時代にあって、それはひとつの手がかりになるはずだ。

◆動けなかった警備陣

それにしても、ぶざまだったのは奈良県警の警備である。

元総理の背後警備はガラ空きで、要人警備の基本である交通封鎖もしていなかったのだ。そして、第一発目の発射(爆発音)に驚くばかりで、身動きできないという体たらくだった。銃器事件が日常的ではないとはいえ、まさにテロ無防備国家である。

「ザ・シークレット・サービス」のクリント・イーストウッドは、ジョン・マルコビッチ演じる狙撃犯から「身を挺して大統領を護る覚悟はあるのか?」と問われる。JFKを護れなかったトラウマと使命感に懊悩し、そして最後は身を挺して大統領暗殺を防ぐのだった。


◎[参考動画]In the Line of Fire (6/8) Movie CLIP – Blocking the Bullet (1993) HD

この基本的な警護を、奈良県警の警備陣および警視庁から派遣されたSPは、果たせなかったのである。かれらは爆発音に凍り付いたままだった。いや、自分の体を要人の楯にする必要はない。一発目の銃撃音のあと、安倍元総理を押し倒すだけでよかった。運命の3秒間を、かれらは無為にすごすことで、警護対象を銃弾にさらしたのだ。


◎[参考動画]映画CM 「ザ・シークレット・サービス」日本版予告編 In the Line of Fire 1993

その奈良県警は、いわゆる田舎警察というわけではない。奈良県警の鬼塚友章本部長は、じつは安倍元総理の懐刀とも言われた北村滋に見出された人物なのである。
鬼塚は福岡高校から九州大法学部を経て、警察庁に入庁したキャリア組である。内閣情報調査室に勤務、当時の北村滋情報官に見いだされ、北村がNSC(国家安全保障局)に転じる際にこれに従っている。北村の辞職後、警察庁に戻り、そろそろ地方の本部長をということで回ってきたのが奈良県警だったのである。その意味では選ばれた任務であり、今回の失態をうけた更迭はまぬがれないであろう。

◆山上容疑者の武器製造

いっぽう、山上徹也容疑者は手づくりの鉄砲を準備していた。プロの暗殺者なら、カラシニコフの模造銃(中国製)をヤクザから手に入れていたはず、などとうそぶく評論家もいるが、そうではないだろう。暗殺者にとってブラックマーケットで得られる粗悪品の模造銃よりも、自分で調整してその性能を確かめられる武器こそ重要なのだ。

なるほど山上容疑者はプロではないかもしれないが、成功を期するスナイパーは武器をみずから確かめるものだ。山上容疑者の銃は、撃鉄(ハンマー)や撃針(ストライカー)を用いない、側穴(タッチホール)式の精巧なものだった。

その構造に専門家が舌を巻いたのは、着火が電子式である以上に、弾丸が6個の散弾式であることだ。ライフルを切っていない銃身(ブリッド)はしたがって、適度な仰角をもっている。1発で6個、2発目の6個のうちの一発が安倍元総理の喉元をとらえ、心臓と大血管を損傷したのである。

武器の精度・破壊力を確認するのは、小説(映画)だがフォーサイスのジャッカルがそうだった。

「ジャッカルの日」のエドワード・フォックスは、特別注文の狙撃銃(カスタムライフル=ハンドメイド)を念入りに調整する。ドゴール大統領警護の銃包囲網をかいくぐり、絶好の狙撃位置を確保したのは、今回の山上容疑者がやり遂げたのとよく似ている。


◎[参考動画]映画「ジャッカルの日(1973)」のカスタムライフル(日本語吹替版)

ブルース・ウイリス主演の「ジャッカル」もまた狙撃銃を特注するが、こちらは機関砲だった。しかもコンピュータ遠隔制御である。エドワードの細めの特注狙撃銃にたいして、いかにもアメリカらしい荒っぽい設定だ。

エドワードのジャッカルは撃ち殺され、ブルースのジャッカルも「女を護れない」と言いつつ、みずから女を人質にしながら撃ち殺される。

しかるに、山上容疑者は日本人らしく、かれの「大望」を果たして従容と縛についた。風蕭蕭として易水寒く 壮士一たび去りて復(ま)た還らず、の美学を感じさせるものがあった。民主主義の根源をゆるがす犯罪にもかかわらず、われわれは一服の清涼感を味わうのである。


◎[参考動画][映画]ジャッカル 大統領夫人を暗殺しようとするシーン【野沢那智Ver】

さて、その容疑者の内面にせまろう。武器をみずから作るほどの能力を持ち、しかし武器流通の裏社会に接するほどの交際能力はない。そこに、われわれは共同体の崩壊によってアトム化された、現代の諸個人の孤立と内向を見ることが可能だ。資本主義に固有の協働・コミュニティからの排除、労働の分業と細分化によって労働力商品として分断された諸個人が、ひっそりと個的な世界に閉じこもる。そして世界との接点が一方的なメディアやネットに限定されたとき、個的妄想は否応なく世界からの孤立を加速させる。おとなしい人が突如として殺人鬼に変貌するのは、こうした社会的分断と孤立の構造にほかならない。

山上容疑者は旧統一教会への寄付のために、母親が土地を売り借金するなど破産に至ったことを動機に挙げている。旧統一教会の関連団体に安倍元総理がビデオメッセージを送ったことで、標的をかれに絞ったという。安倍元総理の旧統一教会へのコミットがどの程度であったのかは、このさいほとんど関係ない。事件は選挙演説をねらったテロ(政治的殺人)であり、政治家とはそのような運命を抱えもった存在であるということだ。そして熟練のはずの警備陣が動転するほどの爆発音と威力で圧倒した、暗殺者の妄念のつよさが事件をなさしめたという事実である。


◎[参考動画]【独自】銃撃男の母親 旧統一教会に「本当に心酔」 大学友人語る変化…1億円献金か(ANN 2022年7月14日)

▼横山茂彦(よこやま・しげひこ)
編集者・著述業・歴史研究家。歴史関連の著書・共著に『合戦場の女たち』(情況新書)『軍師・官兵衛に学ぶ経営学』(宝島文庫)『闇の後醍醐銭』(叢文社)『真田丸のナゾ』(サイゾー)『日本史の新常識』(文春新書)『天皇125代全史』(スタンダーズ)『世にも奇妙な日本史』(宙出版)など。

タブーなきラディカルスキャンダルマガジン『紙の爆弾』2022年8月号

カメレオンという爬虫類がいる。周辺の環境にあわせて皮膚を変色することで身を守る。生存するための合理的な体質を備えた動物である。

安倍元首相が狙撃されて死亡したのち、日本のマスコミは世論を追悼一色に染め上げた。だが、インターネット界隈から国境を越えて安倍元首相の実績評価が始まった。その中で鮮明に輪郭を現わしてきたのが、世界平和統一家庭連合(旧統一教会=国際勝共連合)と安倍一族の親密な関係だった。日本の黒幕としての裏の顔が暴かれたのである。

安倍元首相は、統一教会=国際勝共連合の機関誌『世界思想』に繰り返し登場している

しかし、日本の新聞・テレビが統一教会の実名報道に踏み切ったのは、7月11日、世界平和統一家庭連合が記者会見を開いたのちである。参院選の投票日を前に、自民党と右翼に配慮した可能性が高い。

しかし、統一教会と安倍一族の関係は、実は半世紀以上の前から指摘されていた。狂信的な反共思想、霊感商法、合同結婚式が水面下で問題になってきた。しかし、新聞・テレビはこのカルト集団に関する報道を極力自粛してきた。報道が黒幕を刺激して、自分たちが返り血を浴びかねないことを知っていたからである。そのスタンスは今も変わっていない。

実際、新聞・テレビが垂れ流す安倍氏の評価にそれが現れている。安倍氏には、森友事件や安保関連法制の強行採決など問題視される政治手法もあったが、総合的には見れば卓越した政治家だったという世論を形成しようとしている。今後、安倍氏の国葬を正当化する世論形成にも動くであろうことはまず間違いない。

◆ジャーナリズムの偽看板

わたしはかねてから新聞・テレビは、日本の権力構造に組み込まれているという見解を持っている。優れた報道番組もあるが、それは報道にジャーナリズムの要素がまったくなければ、世論誘導そのものが成立しないからである。巧みに騙すのが洗脳なのだ。

独占資本主義が諸悪の根源というスタンスに立っている新聞・テレビは1社もない。社会的な歪を「修正」したうえで、現在の体制を維持しよというのが共通したスタンスなのだ。言論の自由とはこの枠内の自由を意味している。それゆえにこの枠をはみ出す可能性があるテーマは扱わない。

実際、新聞・テレビは、旧統一教会が記者会見を開くまでは、実名報道を控えた。日本の黒幕に光を当てかねないあまりにも不都合な事件であったからだ。インターネットメディアや雑誌メディアが、先に動いていなければ新聞・テレビは、安倍氏が旧統一教会の信者と「勘違い」されて、狙撃されたというストーリーに終始していた可能性が高い。

◆ジャーナリズムを見る2つの視点

わたしは新聞・テレビのジャーナリズムが衰退した原因を探るための視点は、2つしか存在しないと考えている。枝葉末節はあるにしろ、どちらかの陣営に分類できると考えている。

ひとつは問題の本質を記者個人の職能や精神の問題として捉える視点である。意識改革こそが状況を改善する起爆剤と考える観念論の視点である。

この視点に立てば、東京新聞の望月衣塑子記者のような人が、100人も登場すれば、ジャーナリズムの衰退は解消することになる。きわめて単純な発想で大半の新聞社批判はこの視点の域を出ていない。

これに対して、ジャーナリズム衰退の原因を考えるもうひとつの視点がある。それは、問題の原因を物質的、あるいは経済的な事実の中に求める唯物論の視点である。「存在が意識を決定する」とする論理で、メディア企業の経済的諸関係の中に客観的な汚点を発見し、それが記事や番組に及ぼす影響を考察する方法である。

以下、具体的な着目点を提示してみよう。

1,新聞各社が新聞購読料の軽減税率の適用を受けている事実。

2,新聞の再販制度の殺生権を、国会が握っている事実。

3,日本新聞協会が新学習指導要領に、小中高学校での授業で新聞の使用を明記させることに成功した事実。

4,公権力が半世紀以上にわたって、新聞社の「押し紙」を放置してきた事実。

5,新聞社が、内閣府をはじめとする省庁から多額の紙面広告費を受け取っている事実。

6,放送局が使用する電波の割り当てが、総務省から行われている事実。

7,記者クラブを通じて、新聞・テレビが取材上の便宜を受けている事実。

8,新聞社・テレビ局の経営が財界を中心とする広告主に大きく依存している事実。その財界が自民党の支持層である事実。

このうち「4」の「公権力が半世紀以上にわたって、新聞社の『押し紙』を放置してきた事実」と、メディアコントロールの関係に踏み込んでみよう。両者の間には暗黙の情交関係がある。公権力が「押し紙」を故意に取り締まらないことで、新聞社が暴利をむさぼる構図を維持することができる。新聞・テレビの報道が、公権力にとって不都合な存在となれば、「押し紙」を取り締まるだけで、簡単に片が付く。

戦中の政府が、新聞用紙の配給により新聞社の殺生権を握ったのと同じ原理である。このあたりの関係について、新聞研究者の新井直之氏(故人)は『新聞戦後史』の中で次のように指摘している。

「新聞の言論・報道に影響を与えようとするならば、新聞企業の存立を脅かすことが最も効果的であるということは、政府権力は知っていた。そこが言論・報道機関のアキレスのかかとであるということは、今日でも変わっていない」

◆「朝刊 発証数の推移」

新聞社が「押し紙」によりいかに莫大な利益を上げているかを、試算してみよう。それにより「押し紙」問題がメディアコントロールの温床になっている高い可能性を推測できる。

試算に使用するのは、毎日新聞社の社長室から外部へ漏れた内部資料「朝刊 発証数の推移」である。この資料によると2002年10月の段階で、新聞販売店に搬入される毎日新聞の部数は約395万部だった。これに対して発証数(読者に対して発行される領収書の数)は、251万部だった。差異の144万部が「押し紙」である。

シミュレーションは、2002年10月の段階におけるものだが、暴利をむさぼる構図そのものは半世紀に渡って変わっていない。

■裏付け資料「朝刊 発証数の推移」http://www.kokusyo.jp/wp-content/uploads/2016/10/49efd58c2dad25b295ed13115dc4494b.pdf

◆シミュレーションの根拠

試算に先立って、まず「押し紙」144万部のうち何部が「朝・夕セット版」で、何部が「朝刊単独」なのかを把握する必要がある。と、いうのも両者は、購読料が異なっているからだ。

残念ながら「朝刊 発証数の推移」に示されたデータには、「朝・夕セット版」と「朝刊単独」の区別がない。常識的に考えれば、少なくとも7割ぐらいは「朝・夕セット版」と推測できるが、この点についても誇張を避けるために、144万部のすべてが「朝刊単独」という前提で試算する。

「朝刊単独」の購読料は、ひと月3007円である。その50%にあたる1503円が原価という前提で試算するが、便宜上、端数にして1500円に設定する。144万部の「押し紙」に対して、1500円の卸代金を徴収した場合の収入は、次の式で計算できる。

1500円×144万部=21億6000万円(月額)

毎日新聞社全体で「押し紙」から月に21億6000万円の収益が上がっていた計算だ。これが1年になれば、1ヶ月分の収益の12倍であるから、

21億6000万円×12ヶ月=259億2000万円

と、なる。

「押し紙」に対して、毎日新聞社が若干の補助金を提供している可能性もあるが、この分を差し引いても「押し紙」を媒体として、巨額の販売収入が発生するという点で、大きな誤りはない。公権力が「押し紙」に対して睨みをきかせれば、暗黙のうちにメディアコントロールが可能になるのだ。

改めて言うまでもなく、このようなビジネスモデルの上に成り立っているのは毎日新聞社だけではない。「押し紙」政策を敷いてきたすべての新聞社に同じ構図がある。

販売店に山積みになった「押し紙」

 

(左)統一教会の教祖・文鮮明、(右)安倍元首相の祖父・岸信介

◆権力構造の補完勢力

新聞・テレビは、半世紀前に統一教会の文鮮明氏が岸信介氏に接触した時点から、統一教会の問題に着目すべきだった。安倍氏が首相に在任していた時期には、首相みずから国際勝共連合の機関誌『世界思想』に何度も登場している。つまり報道のタイミングはあったが、報道しなかったのだ。

が、それは記者の職能が低く、問題意識がないからではない。それよりもむしろ新聞・テレビが権力構造に組み込まれているからにほかならない。単純な問題なのである。

【参考記事】統一教会=国際勝共連合の機関誌に安倍首相が繰り返し登場、そっくりな思想と提言 http://www.kokusyo.jp/nihon_seiji/11408/

▼黒薮哲哉(くろやぶ・てつや)
ジャーナリスト。著書に、『「押し紙」という新聞のタブー』(宝島新書)、『ルポ 最後の公害、電磁波に苦しむ人々 携帯基地局の放射線』(花伝社)、『名医の追放-滋賀医科大病院事件の記録』(緑風出版)、他。
◎メディア黒書:http://www.kokusyo.jp/
◎twitter https://twitter.com/kuroyabu

黒薮哲哉『禁煙ファシズム-横浜副流煙事件の記録』

参院選、事前に大方予想はついていた。それに拍車を掛けることになるかもしれない「安倍暗殺」。自民大勝を告げる選挙速報は、ただ淡々と実務的に流れていった。

◆野党は政策で負けていた

いつものことながら、今回の選挙も争点がないと言われた。だが、いつもと同じだった訳ではない。

自民党は比較的争点になるような政策を掲げていた。経済は「新しい資本主義」、安保防衛は「防衛費GDP2%へ増」、そして憲法改正。問題は、これと真っ向から対決する野党がなかったことだ。

正直言って、野党の政策には、この「危機」の時代に対処し、自民党とは違う日本を創るというビジョンが感じられなかった。これでは勝負にならない。ここに、野党大敗の第一の要因があったのではないだろうか。

◆四分五裂だった野党

自民党と真っ向から対決する路線も政策も持たなかった野党が、その下に統一し団結することがなかったのは必然だった。

特に今回、野党の分裂はいつにも増して甚だしかった。まず、選挙前の内閣不信任案を野党一致で出すこと自体ができなかった。出した立民が孤立し、深手を負った。

その上で、前回、前々回の参院選で実現した一人区の野党一本化ができなかった。できたのは、32ある一人区中11だけ。結果は、4勝28敗の惨敗だった。

また、野党間協力どころか抗争がいつにも増して激しかった。野党第一党をめぐる立民VS維新の抗争は、ともすれば自民党との戦いを超えたものになった。それに加えて、出馬政党のいつにない林立。「政権の受け皿」など念頭にも浮かばない有様だったと言える。

◆できなかった危機への対応

今度の選挙では、「危機」が異口同音に叫ばれた。与野党そろって、「物価高騰の危機」、「戦争の危機」を叫んでいた。

しかし、それに対処するビジョンらしきものを提示していたのは自民党だけだった。だが、その自民も、「危機」の本質を全面的に明らかにしていた訳ではない。

物価高騰、戦争の危機と言った時、人々の念頭にあったのはもちろんウクライナ戦争だ。そこで問題は、このウクライナ戦争が単純なロシアによるウクライナ侵略戦争ではないという事実だ。

軍事や経済など、「複合大戦」とも言われ、直近では、「第三次世界大戦」の声も出てきているこの戦争の根底には、米欧覇権秩序・勢力VS中ロと連携した全世界脱覇権秩序・勢力の攻防がある。この世界を二分する攻防にあって、自民党が米欧覇権の側に立っているのは明らかだ。

だが、この米欧覇権の側の戦略戦術自体、霧の中に包まれている。日本など同盟諸国の軍事と経済を自らの下に統合して自身を強化する一方、中ロなど脱覇権勢力を包囲、封じ込め、排除、弱体化して打ち負かす覇権回復、建て直し戦略の全貌を米国が明らかにするはずがない。

自民党が今度の参院選を契機に打ち出したビジョン、政策がこの米覇権戦略の手の平の上にあるのは言うまでもない。

今、日本に問われているのは、自らの進むべき道を自らの頭、自らの力で選択し切り開いていくことだ。

参院選で示された野党の姿、それは、その反面教師だと思う。

これまでのように米欧覇権の側に明確な自覚もないままに立ちながら、大政翼賛的に自民との争点もつくれず、自分たち相互でいがみ合っていた姿、そこからの脱却こそが求められているのではないだろうか。

 

小西隆裕さん

◆「黄金の三年」に問われていること

これから日本政治の前には、「黄金の三年」と言われる国政選挙のない三年間が横たわっている。

この期間に、ウクライナ戦争に象徴される米欧覇権勢力VS中ロと連携した脱覇権勢力の世界史的攻防は進展し、その米欧覇権側の対中対決最前線、「東のウクライナ」としての日本の面貌は大きく変えられていくのではないか。

そのために、何よりもまず、「新しい資本主義」「防衛費GDP2%」そして「憲法改正」が公約通り実行されていくだろう。

それが日本にとって何を意味しているかは、今、ウクライナの現実が雄弁に教えてくれていると思う。

国政選挙のないこれからの三年をどうするか。

問われているのは、日本の「東のウクライナ」化に反対し、それを阻止する闘いの三年にすることではないかと思う。

これまでの野党政治の荒涼たる廃墟の上に、世界政治の実相を見据え、それに真っ向から相対するビジョンと政策をもった新生日本への新しい運動の構築こそが今切実に求められているのではないだろうか。

▼小西隆裕(こにし・たかひろ)さん
1944年7月28日生。東京大学(医)入学。東京大学医学部共闘会議議長。共産同赤軍派。1970年、ハイジャックで朝鮮へ

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◆81歳最古参、ここが引退の潮時と……

戸高今朝明(とだか けさあき、1941年1月1日、沖縄出身)は1966年(昭和41年)、キックボクシングがまだテレビ放送される前から試合出場していた業界最古参。後に千葉(センバ)ジムを興して現在に至るが、今年4月にジム閉鎖。6月中には51年続いたジム建屋が解体に入るということであった。

平成以降は主要団体での活動は無く、2005年以降でも新木場ファーストリングでのプロ興行や、アマチュア大会を含め年数回開催するほどだったが、この2年はコロナ禍で練習生が離れてしまったことが第一の要因だったという。建屋も老朽化で雨漏りしても修繕も手が付かず、戸高氏も81歳。ここが引退の潮時と踏んだようだった。

やがて解体される千葉ジムで懐かしい話を語ってくれた戸高氏(2022年6月12日)

幼い頃、熊本で育ったという戸高今朝明氏は、高校卒業後は地元で就職も20歳で転職のために上京。「下駄履いて酒かっ食らいながら夜行列車で上京したよ!」と言う風貌が今でもよく似合う。まだ新幹線も無く、寝台列車は高いから4人BOX型自由席だっただろう。寅さん映画に有りそうな光景である。

戸高氏は上京後、空手を始めた縁から品川で自分の道場を持つまでになった頃、野口(目黒)ジムの藤本勲氏と出会う運命を辿ったことからスパーリングでタイ選手と向き合うことになった。空手が一番強いと信じていたが、ムエタイ技に全く敵わなかったことから、キックボクシングの試合に出場することになって数戦。日本で初めてキックボクシングがTBSによってテレビ放映された1967年(昭和42年)2月26日の沢村忠が東洋王座獲得する興行に戸高氏も出場。相手は門下生だったが判定勝ち。当時はセコンドに着ける人が少なかったため、選手は試合を終わってもバンテージ巻いたまま次の試合のセコンドに着いたり、試合前も進行準備が忙しかったという。

指導者は全く居ない時代で、パンチはボクシングから習い、蹴りは空手技を磨き、目黒ジムに訪れてはタイ選手を見様見真似でムエタイ技を盗み取っていった。

新興スポーツのため、ルールが曖昧だったのも初期の話。噛み付き、サミングと股間急所打ちは除いて、頭突きも投げもあった時代だった。

試合会場でリングを組み立てる戸高今朝明氏(1983年5月28日)

愛弟子2人、チャンピオン宮川拳吾とレフェリー古川輝と並ぶ(1983年9月18日)

◆隆盛期の痕跡

品川の空手道場は形式上の品川キックボクシングジムとなったが、手狭さから1969年に千葉市に移転。京成稲毛駅前のビル4階で国際ジムとして始めたが、階下に響く振動や騒音の苦情で、2年後の1971年(昭和46年)に農協が後援会に着いた支援もあって現在の稲毛区小仲台に移転。ジム名も千葉ジムに変更した。

この時期に視力の問題でプロボクシングを断念した松田忠がやって来た。名前は沢村忠と被るから国定忠治に肖って“忠治”と成り、稲毛の地名を取って稲毛忠治となった。

この稲毛忠治は日本ウェルター級新人王を獲って飛躍し、東洋戦では富山勝治(目黒)を衝撃的に倒すなど活躍が凄かった。セコンドに着く小さなオジサン(戸高氏)と“センバ”ジムの名前を全国に広め、千葉ジムが潤ったのも稲毛忠治の飛躍の御陰という。

戸高氏は計5名の名チャンピオンを誕生させた。佐々木小次郎、佐藤元巳、宮川拳吾、中川栄二。それは千葉に移ってから、プロボクシングで60戦を超える戦歴があったという市原敏雄氏が見学に来た縁から煩く指導もどきの野次を飛ばすことからトレーナーを任せて、近年まで興行を支えてくれた陰の存在があったという。分裂低迷期のリングアナウンサーやレフェリーも務めたことがある大正生まれの市原氏は2012年に亡くなられた様子。

そんな隆盛期から千葉ジム前の駐車場には大型トレーラーが停めてあり、常にリング一式が積載されていて、テレビ放映があった全盛期に、場合によっては選手もトランクに載せて全国を回ったこともあったという。荷台トランクには電灯は無い。

「真っ暗の中で寝て行け、何かあったらトランク叩け!」と言って奄美大島にも走った(トレーラーはフェリーに乗せて移動。運転手、選手は普通の乗船)。そんな各地での旅の想い出も懐かしいという。

千葉ジム建屋の中に2階宿舎を増築中の戸高氏(1983年11月13日)

日本キックボクシング連盟では暫定的ながら代表を務めたこともある(1985年6月7日)

ムエタイチャンピオン、サンユットも招聘した戸高氏(1986年6月下旬)

◆先を見据えて

1980年3月にテレビレギュラー放映が終わった時代のキックボクシング業界は衰退の一方。「このままではいけない」とどこのジム会長も考えた。

大々的な団体分裂が始まったのも1981年から。千葉ジムも参加し、日本系から9つのジム、全日本系から9つのジムが脱退して日本プロキックボクシング連盟が出来たのがこの年9月。

華々しかったが翌年には再び分裂が起こった。もう細分化されただけの見通しのつかない現状が残って、テーマの無い少ない興行が続いた。

それでも地方に行けば、戸高氏は活発にリングを組み立て、トレーナー業も大工仕事もプロの業でこなした。

誰も来ない日もあったジムが、また活気付くことを見据えて、ジム建屋の中に宿舎として二階スペースをほぼ一人で作った。

度々話題とする1984年の統合団体、日本キックボクシング連盟も分裂を辿り、1987年に山木敏弘氏が設立した日本ムエタイ連盟へ参加。

どこへ移っても同じなのは分かっていたというが、以前の日本プロキック連盟に似た活動は、半年ほどの興行を経て消滅を辿り、千葉ジムの進む方向が定まって来た時期でもあった。

夜の千葉ジム、古いボクシング漫画に出て来そうな外観(1986年6月下旬)

藤本勲氏と出会ってキックボクシングを始めた戸高氏、50年間のライバルである (2014年8月10日)

◆昭和のキックボクシング終焉

そこからフリーの道を選んだが、一時は隆盛を極めた千葉ジムの存在感は大きく、なかなかフリーでは活動し難い時代でも、交流戦で試合出場を増やしていく手腕も発揮。更には他から参加し易い体制を作る為、日本プロキックボクシング連盟を復活させ、チャンピオンも誕生させたが、大手の団体には敵わなかったのは仕方無いだろう。

キックボクシング界が最も低迷期だった1983年に戸高氏は、「もうこれ以上キックは下がりようがないから、諦めずに続けていればこれから少しずつでも楽しくなっていくんじゃないかな。団体という枠に拘らず、ジム単位で、あちこち戦う場を作っていけばいいムードになっていくと思うよ!」と語っていたが、その後、業界は何度も明るい話題が盛り上がりながら停滞。統一は叶わないどころか、より一層細分化した現在の団体やフリーのジム、プロモーターが増えた。

しかし、団体の敷居は低くなり、協力体制で興行が打てる時代となった。アマチュア大会も増え、若年層の成長によって選手層は厚くなり、テレビ地上波に扱われるほど有名選手が現れるほどにもなった。創生期からキックボクシング界を見て来た戸高氏の昭和期での予想は大凡当たっていたのである。

今回、ジムが閉鎖解体されると聞いて、私(堀田)は6月12日に千葉ジムを訪れた次第。1年前にも戸高氏に電話したことがあるが、その時はまだ閉鎖までの話は出ていなかった。

訪れてみると、昔からある古めかしいリングとサンドバッグはまだ有り、古いポスターは誰かが頂いたか、昭和の物は少なかった。会話中にスコールがやって来て、声が聞き取れないほど大雨がトタン屋根を激しく叩いた。正にタイのようなジムである。雨漏りは激しく、リング上には前もって洗面器が置かれており、ウェイトトレーニングスペースでは靴下が濡れてしまった。でもお金が有ったらこのまま買い取りたいと思うほど味ある千葉ジムだった。

戸高氏は1985年にタイ女性と結婚。娘さんの戸高麻里さんは同・連盟でリングアナウンサーを務めたこと多く、戸高氏は現在4人のお孫さんが居るが、ジムを引き継いで貰うには至らぬ運命だった。2020年1月に目黒藤本ジムが閉鎖され、そして今回の千葉ジム閉鎖は昭和キックボクシングの終焉を迎えたようで寂しい限りである。

古めかしい昭和のリング、貴重である(2022年6月12日)

建屋の前でファイティングポーズをとる戸高氏、TBSの文字も懐かしい(2022年6月12日)

◎堀田春樹の格闘群雄伝 http://www.rokusaisha.com/wp/?cat=88

▼堀田春樹(ほった・はるき)[撮影・文]
フリーランスとしてキックボクシングの取材歴32年。「ナイタイ」「夕刊フジ」「実話ナックルズ」などにキックのレポートを展開。ムエタイにのめり込むあまりタイ仏門に出家。座右の銘は「頑張るけど無理しない」

タブーなきラディカルスキャンダルマガジン『紙の爆弾』2022年8月号

◆「民主主義に対する挑戦」とは位相が異なる事件

7月8日、奈良市で参議院議員選挙に立候補した自民党候補者の応援演説を開始してまもなく、安倍元総理が男性に手製の銃で射殺された。日本で政治家の「暗殺」は少なくない。有名なところでは、現役の首相、犬養毅が銃弾に倒れた「5・15」事件や複数大臣が暗殺された「2・26事件」、社会党(当時)の浅沼稲次郎委員長が演説中に刺殺された事件などが、わたしの年齢の層には思い浮かぶ。

安倍元総理射殺事件の直後、与党も野党も、おそらくはどのマスコミも(マスコミのすべてを検証はしていないが)「民主主義に対する卑劣な攻撃・挑戦であり断固として許せない」旨のメッセージを発していた。選挙期間中に首相在位期間最長者である、安倍晋三氏が殺されたのであるから、なんらかの「政治的背景」があるのではないか、と考えても無理はない。というよりも時期や状況から判断すれば、動機は判然としないものの「政治的な背景を持ったテロ」だとの推測が大勢であった。

しかし、容疑者(とはいえこの事件の場合、現在明らかになっている供述から「容疑者」との呼称ではなく「犯行遂行者」と呼ぶ方が適切かもしれない)からは、与野党・マスコミ・おそらくは警察当局も想定していなかったであろう、意外な供述が発せられた。

「統一教会に家族(人生)をバラバラにされたので、統一教会を日本に連れてきた岸信介の孫である安倍元首相の殺傷を狙っていた」、「統一教会最高幹部が来日した際に、暗殺を計画したが果たせなかった」……。

犯行遂行者は長期間にわたり、自分の家族が崩壊させられ、自分の人生も狂わされた「敵」として統一教会(現・世界平和統一家庭連合)を捉え、復讐の機会を探っていたようだ。そうであれば、事件の直接被害者は安倍元総理ではあるが、犯行の動機は政治的なものではない。むしろ自分の人生を壊した統一教会に本来は向かっていたものを、それが果たせなかったために、統一教会の支援者と考えられる安倍元首相への攻撃へターゲットを切り替えたと推測される。

ここで事件が帯びる性質の全体像が大きく変化するのである。仮に「犯行実行者」が「安倍元首相の政治姿勢」あるいは「政治手法」などについての批判を動機として持っていれば、たしかに、「政治テロ」事件としての色彩からの捜査が進行するであろうが、「犯行実行者」は現在伝わっている情報の限りにおいて、まったく「政治」と無関係にひたすら統一教会による被害(「犯行実行者」が感じる被害)が、事件実行の動機だったと述べているようだ。

そうであれば、この事件は結果として安倍元総理が暗殺されたとはいえ、冒頭に述べた「5・15」、「2・26」、「浅沼委員長刺殺事件」と衝撃においては似ていても、動機においてはまったく位相が異なる事件である可能性があるのではないだろうか。

7月14日岸田総理は安倍元総理の「国葬」を行うと発表したが、同時に原発9基の再稼働を経産大臣に指示したことも表明した。

弱小党派や少数野党がときに「自民党政権は議席を多数保持していても、内心では極限まで追い詰められている!」というような定型文的なアジテーション文章や声明を出すことがある。7月中盤参議院選挙終了直後の自公政権は、奇しくもその状態に陥っているのではないかと感じる。

◆権力中枢に浸透し、暗然たる力を保持していた統一教会

若年層はともかく、50代以上の人々にとって、統一教会は桜田淳子や元体操選手・山﨑浩子が「合同結婚式」で結婚したことはまだ記憶の中にあるだろう。ところが統一教会の活動は70年代から各界で広がりを見せ、80年代には「霊感商法」などで大々的に問題にされるも、21世紀に入ってからめっきり報道が減っていた。これは統一教会が活動を縮小したからではなく、想像するに95年のオウム真理教事件をピークにマスメディアが意識的に扱わなくなったことと関連があるのではないか。マスメディアにおける統一教会の扱いが減っていた原因は、統一教会がそれだけ権力中枢に浸透し、暗然たる力を保持したからだと言い換えられる。

当選回数の少ない議員と統一教会の関係が断片的に報じられているけれども、元総務大臣で安倍元首相同様タカ派の急先鋒であり後継者ともいわれた、事件発生地奈良出身の高市早苗氏と統一教会についての関係は、地元だけでなく、政界・報道関係者であれば周知の事実である。不思議なことに事件発生後、安倍元首相の搬送された病院と東京にいながら連絡を取っていたというにいたといわれている高市氏と統一教会の関係にフォーカスが向いたマスメディアの報道は大々的に行われていない(総務大臣はテレビ局免許の認可権を持つ)。

◆矛盾を顕在化を恐れる岸田政権

さらに不思議なのは、韓国の右翼とKCIAがその活動を援助したといわれる韓国右翼団体である統一教会は教義に「韓国語(ハングル)による世界統一」など偏狭な主張を持つ団体であるにもかかわらず、日本の右派、特徴的には「日本会議」から批判が聞かれないのはなぜであろうか。

皇室を持ち上げ「日本民族の優秀性」を強調する日本の右派と、韓半島統一は良いにしても「韓国語(ハングル)による世界統一」を教義の一部に持つ団体とは、主張においてまったく相容れないのではないか。それらの矛盾を顕在化させないために、岸田は早期に「国葬」決定と原発再稼働命令との、まったく理解不能な煙幕の如き選択肢しか思いつかなかったのではないだろうか。

最後にわたし自身が経験した統一教会との接点を紹介しておこう。80年代半ば、米国に半年ほど滞在したことがある。数か月間は毎日マンハッタンに電車で通った。グランドセントラルステーションは多くの映画にも登場する、著名な場所だが、電車を降りて構内をあるいていると、わたしはアジア系と思われる若い女性からしばしば声をかけられた。

“ Are you looking for purpose in your life ? “

発音には日本語のなまりがあり、年齢は当時のわたしと変わらないひとたちだった。

「あなた、原理(原理研)でしょ!」

と日本語で吐き捨てると、すぐに離れていった。80年代から統一教会が引き起こす各種の問題を放置したから、皮肉にも安倍元首相殺傷事件は引き起こされたのではないか。


◎[参考動画]全国霊感商法対策弁護士連絡会 記者会見(2022年7月12日)

▼田所敏夫(たどころ としお)
兵庫県生まれ、会社員、大学職員を経て現在は著述業。大手メディアの追求しないテーマを追い、アジアをはじめとする国際問題、教育問題などに関心を持つ。※本コラムへのご意見ご感想はメールアドレスtadokoro_toshio@yahoo.co.jpまでお寄せください。

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有田芳生が先の参議院選挙で落選した。いろんな意味で感慨深い。

今回が3期目、当初は楽勝ともいわれていたが、蓋を開けてみると惨敗! 1期目の約15%以下、前回2期目の4分の1以下しか獲得できなかった。その要因はどこにあるのか? 有田も真摯に反省し総括すべきだろう。

まずは1期目からの得票数を挙げてみよう。──

有田の出馬政党と比例順位と得票数
1期目 2010年 民主党で比例首位   373,834票 当選
2期目 2016年 民進党で比例4位   205,884票 当選
3期目 2022年 立憲民主党で比例10位 46,715票 落選

なんという激減ぶり!

◆有田芳生との因縁

実は私と有田は同期に当たる(私は1951年生まれ、有田は1952年の早生まれ)。1970年、二人とも京都の大学に入学した。有田が入学したのは、当時日本共産党(と、学生青年組織「民青」〔みんせい。民主青年同盟の略称〕)の屈強な拠点・立命館大学だった。京都生まれで京都育ちの彼は高校時代から、民青の熱心な活動家だったという。京都は元々共産党の強い土地柄で、当時は「社共統一戦線」(これは70年代の半ばには破綻するが、「夢をもう一度」で昨今出てきたのが「野党共闘」だ)で京都府知事を擁していた。民青も、「ゲバ民」とか「暁行動隊」とか呼ばれるほど強かった。当時立命の本部キャンパスは京都御所の東側に位置し、御所の北側に位置する同志社のキャンパスに部隊を組んでいつもいつも(週に二、三度、部隊で、また早朝ゲリラ的に)ゲバを掛けに登場した。

一方の私は、九州熊本から同志社大学に入学した。第一志望は早稲田の第一文学部、第二志望が同教育学部で、同志社、立命は地方試験があったので滑り止めで受験し、立命に落ち、ただ一つ合格した同志社に入学した。当時は立命のほうが学費が安かったので、もし立命にも合格していたら、母子家庭だったこともあり立命に入ったかもしれない。立命の入試(地方試験)は私の高校(付属高校)の親大学で行われ、試験監督も高校の先生方、入試当日まで知らなかった。これですっかり緊張感を失くし日本史の試験では居眠りをしていたほどだった。もし早稲田に合格していたら、革マルに入り川口君虐殺に連座していたかもしれない。私の高校の親大学は当時革マルの拠点で、隣に在った女子大と共に全学連中央委員を出すほどで、そのOBで九州革マルのトップだった人間が中核派に襲われ半身不随になり最近亡くなっている。日々革マルと接していたことで、革マルにさほど違和感はなかった。

一般にまだ判断力がない18歳の田舎出の少年は、入学したその大学の主流派の組織に入るのが常であったようだ。同志社は、60年安保闘争以来「関西ブント」と称する党派の強力な拠点校だったが、70年になると、前年赤軍派が出来、ブントは分裂し、ブント系のノンセクト組織(全学闘。全学闘争委員会の略称)が残っていた。時は70年安保─沖縄・三里塚闘争の高揚期、私は一時べ平連、しばらくして全学闘に所属し活動した。

当時から立命は経営が大変で、一回生の夏、帰省から戻ると、一部のキャンパス(府立医大の隣)を、某宗教団体に売却し宗教団体の看板が出ていた。その後、広小路キャンパスも予備校に売却し、今は御所の横にはない。

同志社、立命の学生は、河原町今出川の飲み屋や深夜喫茶などに屯(たむろ)することが多く、やおら議論をふっかけたりしていた。

有田は民青の熱心な活動家だったことをみずから公言し、何年も留年し卒業は1977年ということだ。当時(今はどうかな?)、党派の活動家は、新旧左翼問わず組織の指示で何年も留年し活動している。拠点を守るためである。私のようなノンセクトと違うところでもある。3、4年前、革マル派の拠点校、奈良女子大の自治会委員長が逮捕された事件が報じられたが、その委員長は30歳を過ぎていた。最近では自治会自体が皆無状態になったが、そんな中で、おそらく上からの指示で、何年も留年させてでも自治会を死守するということだろう。

卒業後は、共産党のエリートコースともいえる「新日本出版社」に入っている。その後、有田は、べ平連の創始者の一人・小田実と、共産党の理論家・上田耕一郎との対談を雑誌に企画し実現、これを契機に最終的に除名されたという。

当時の共産党、その下部組織・民青は極めて暴力的だった。某ノーベル賞受賞者の甥っこの先輩は、70年師走の早朝、民青の武装部隊=ゲバ民に襲われ負傷、一時は医者も見放すほどの重態だった。これには驚いた。かく言う私も71年5月、やはり早朝の情宣活動中、短く切った角材などで武装したゲバ民に襲われ、5日間ほどの「病院送り」になった。「人殺し!」「何人殺したんや!」等々と詰られ、短い角材でボカボカに殴られ蹴られた。「暴力反対!」じゃなかったんかい!?

民青の中心的活動家だった有田も、そうしたゲバ民の部隊にいたものと推認する。数十回襲撃に来たので、一度や二度はいなかったことはあるかもしれないが、ゼロということは考えられない。

日本共産党=民青が、こうした暴力を許容した時代に活動した有田にとって、芯から暴力性が身に着いているのだろうか、時を隔てて起きた「しばき隊リンチ事件」被害者M君に対する姿勢に、あたかも当たり前のように被害者に冷淡に対応したのではないか、と感じる。

◆共産党から離れて以後の有田──「しばき隊」との連携

極右とされる西田昌司議員と画策し「ヘイトスピーチ解消法」成立させる

その後、有田の名は、1995年、オウム真理教の事件が起きた際、コメンテーターとしてマスメディアに頻繁に登場することになる。この頃には共産党を除名になっている。オウム事件、これに続く統一教会による霊感商法問題などで、さんざん名を売り知名度が高まった中で当時の民主党から参議院選挙に立候補し民主党比例トップで当選する。

そうして、ネトウヨによるヘイトスピーチ、ヘイトクライムが社会問題化するや、「しばき隊」とか「カウンター」と称される政治グループと行動を共にするようになる。しばき隊の中で国会議員の有田の存在は大きく、その後、「ヘイトスピーチ解消法」成立に、極右として名高い自民党・西田昌司参議院議員と画策し一役買うことになる。有田がいなかったら、おそらく同法は成立しなかっただろう。有田、西田が握手している写真は、いわば“国共合作”で同法を成立させた象徴的な写真といえよう。

いやしくも国会議員の有田の存在は、「カウンター」とか「しばき隊」といわれる政治勢力にとって、極めて大きかったことは言うまでもない。有田が落選したことで今後これがなくなるわけだが、それは、このところ影が薄くなってきた「カウンター」や「しばき隊」凋落の決定的な要因になるであろう。

私たちがこの6~7年、精力的に関わってきた、大阪北新地で起きた「カウンター大学院生リンチ事件」とか「しばき隊リンチ事件」といわれる事件(2014年12月17日未明発生)でも、有田の存在は大きかった。事件当日にさっそく来阪し、事件前に加害者5人が腹ごしらえをした「あらい食堂」を訪れ情報収集を行っている。その前後には、ソウル・フラワー・ユニオンの中川敬、作家で法政大学教授の中沢けいらも訪れたことが明らかになっている。有田や中沢は東京から急遽来阪していることから、よほど慌てたのだろうと推認される。

[写真左]有田を象徴する釘バット。いやしくも国会議員が、こんな画像をみずから発信することを恥じよ![写真右]しばき隊チンピラ活動家とツーショット!

かたやリンチ被害者のM君には、有田のような政治家は付いていない。それどころか、事件後1年余りも隠蔽され孤立無援状態で、私たちが相談を受けるまでの被害者M君の心中を察すると耐えられない。

そうしたこと故に、私たちは有田へ質問状やリンチ本を何度も送ったりしたが、一度形式的な返事があったのみで、まともな返事はなかった。ジャーナリストの寺澤有も同様のことを試みたが、会って取材することはできなかった(それ故、鹿砦社取材班は直撃取材を試みたのである)。やむなく自宅への取材で「誤爆」したこともあったが、国会の入口で二度直撃取材を試み成功した。鹿砦社の名を名乗り質問を行おうとすると、「なし! なし!なし! あなたたちを相手にしない!」と拒否し逃げた。いやしくも国民から選ばれた国会議員(「選良」というらしい)ならば、相手が誰であろうが有権者やメディアの取材には答えるべきだ。有田が私人ならば拒否するのもいいだろうが、当時有田は国会議員、公人中の公人だ、答えることは義務である。それも大学院生(当時)は、激しい集団リンチに遭い、重傷を負い精神的にも傷つけられているのだ。リンチに連座した李信恵ら5人に忖度し守ろうとするしないに関わらず、しっかり情報を公平・公正に集めきちんと答えなければならないだろう。そうではないだろうか? 私の言っていることは間違っているだろうか?

鹿砦社取材班の直撃に驚き逃げる有田

同。盟友・安田浩一も写っている

◆有田落選は「しばき隊」凋落の決定打となる!

前記したが、このかん、「しばき隊」「カウンター」の影が薄くなった。大掛かりな集会や街頭行動も、以前ほどは聞かれなくなった。例えば一時これまでにない集会スタイルで世間の関心を惹いたSEALDs(これもしばき隊/カウンターの一部)をとっても、一部中心的活動家のみが就職を保障され利権を得ることが、元参加者らから恨み節のように出され、「阿呆らしい」と飽きられたのかもしれない。

かの香山リカも、北海道の小さな診療所に副所長として就職するという口実の下に遁走した。私たちに対し有りもしないことをツイートし平気で嘘をついたりしたことを私たちは忘れることはできない(『暴力・暴言型社会運動の終焉』参照)。

李信恵ら5人による集団リンチに遭った大学院生(当時)M君は、いまだにそのトラウマで苦しんでいる。著名な精神神経医の鑑定書もあるほどだが、もっと早く出すべきだったところ、それができず、このこともあってか裁判は実質上敗訴が続いた。ようやくこれ(つまりリンチへの李信恵の関与)が裁判で認められたのは、M君が当事者の裁判ではなく、鹿砦社が李信恵を訴えた訴訟の反訴として出され別訴で審理された訴訟の控訴審判決(2021年7月27日、大阪高裁)でだった。さすがに大阪の裁判所も、あまりに凄惨なリンチの様に、連座した李信恵の責任を容認できなかったものと私たちは認識している。

大学院生M君リンチ事件は、この事件を知ったその人の人間性や人格を問うものだ。ふだん立派なことを言ったり、暴力反対を口にしたり、耳触りのいい言葉を口に出す者が、「見ざる、聞かざる、言わざる」を貫き、真正面から真摯に答えず逃げたりする醜態を数多く見てきた。

しばき隊内最過激派「男組」を使い「有田丸」で合田さんの会社と自宅を訪問すると恫喝

私たちは、M君リンチ事件の情報がもたらされ、実際にM君本人から相談を受けた際に仰天、「いまだにこの民主社会に、こうした暴力がはびこっているのか」と感じた。それも「反差別」とか「人権」とかを声高に叫ぶ者によって起こされたことに驚いた。私と同期の有田は隠蔽に走り、6年前の参議院選挙の際、「有田丸」と称する彼の宣伝カーで、M君の支援者の一人、四国在住の合田夏樹さんの経営する会社や自宅を襲うかのようにツイッターを拡散し、実際に近くまで行ったりする者がいて、合田さんのみならず家族や社員までもナーバスにした。有田よ、あなたの宣伝カーを使ってなされた、そういう言動を、あなたは諌めたのか!? 新旧左翼問わず、社会運動内部に於ける暴力を、私たちの世代は痛苦の想いで懲りたのではなかったのか!? 

◆同期の有田に最後の忠告

有田の参議院選落選にちなみ、思うところを縷々書き連ねてきた。有田は、これまでのみずからの言動について虚心に反省すべきだ。そうでないと、もう高齢者の部類に入っていることもあり、再浮上の目はないだろう。

ちょうど17年前の今頃、私たち鹿砦社は、「名誉毀損」に名を借りた類例がない大弾圧を受けた。その際、それに加担した者らは「鹿砦社の呪いか、松岡の祟りか」と後に揶揄されるように逮捕されたり会社を乗っ取られたり失脚したり散々な目に遭っている(その一部は本通信7月12日号を参照)。因果応報である。

有田は、それに加わらないようにしなくてはならない。罪滅ぼしではないが、これを機に一刻も速く、しばき隊から離れ、リンチ被害者M君に寄り添い事件の真相を世に伝えることを願う。そうした犯罪被害者の立場に寄り添うことから再出発していただきたい。これは、立場は違えど、同期で同時代を生きてきた者からの最後の忠告である。 (文中、一部を除いて敬称略)

《関連過去記事カテゴリー》
 しばき隊リンチ事件 http://www.rokusaisha.com/wp/?cat=62

Amazon https://www.amazon.co.jp/dp/B07CXC368T/
鹿砦社 http://www.rokusaisha.com/kikan.php?bookid=000541

第26回参院選が7月10日執行されました。今回の選挙はひとびとの暮らしがコロナの前から厳しく、コロナが追い打ちをかけ、さらにロシアのウクライナ侵略による輸入物価上昇に苦しめられる中で行われました。また、ロシアのウクライナ侵略に乗じて、自民党が防衛費倍増を打ち出し、安倍晋三さん(故人)や維新などが改憲や核共有を叫ぶ中で行われました。

さとうしゅういちは、憲法は変えずに財政出動で25条を主にいかす立場、新自由主義をやめて公共サービスを充実させる立場、そして核兵器禁止条約を進める立場、原発ゼロでの気候変動対策を進める立場で、比例代表ではれいわ新選組の躍進に取り組みました。


◎[参考動画]【参院選2022】消費税の73%が法人税減税に/教育・防災のプロ #れいわ新選組 #大島九州男を三度国会へ さとうしゅういちIN広島・五日市


◎[参考動画]参院選 さとうしゅういちIN横川駅前「れいわの頭脳・ダブルケアの当事者 #長谷川ういこ を国会へ」「原発ゼロのグリーンニューディールを」

れいわ新選組比例区候補の代理での遊説中に同じ地域の遊説中の中村たかえ候補を激励する筆者。7月8日撮影

広島県選挙区では島根原発再稼働反対、憲法改悪反対などがはっきりしている中村たかえ候補を応援しました。当初は筆者自身も選挙区での立候補準備を進めていましたが、広島の2議席を自民高級官僚と補完勢力に推薦されたタレントで独占させないとの観点から中村候補の応援に回りました。

わたし自身も党是の財政出動により人々の暮らしを底上げすることを軸に、憲法問題については緊急事態条項改憲ではなく、具体的な感染対策・防災対策の充実を、ということ、ロシアのウクライナ侵略という今こそ核兵器禁止条約と緊張緩和の外交こそ必要だということなどを訴えました。

また、介護福祉士としての経験や、介護医療担当の県庁マン時代の経験から、これまで軽視されてきたケア労働の給料抜本改善や、公務員バッシングは止めて地方に十分な人と財源を保障することを力説しました。また、今こそ原発禁止と再エネ、スマートグリッドなどへの大胆な投資をするべきことを街頭やネットで訴え抜きました。

この選挙の結果、れいわ新選組は選挙区で代表の山本太郎が1議席、比例区で2議席を確保しました。

広島市内では総理の地元の超保守王国であるにもかかわらず比例代表で15,002.548票(衆院選2021では14240票ですので支持を伸ばしています。) をいただきました。ご支援に感謝申し上げます(ネットでのお礼は合法ですがプリントアウトすると違法なのでご注意ください) 。

他方で、自民党が定数1の選挙区では青森、山形、長野、沖縄以外を獲得するなど、改選議席の過半数を単独で確保し、大勝してしまいました。憲法を変えることに前向きな勢力が引き続き3分の2以上を確保することになってしまいました。

なお、女性当選者は125人中35人で28%。過去最多割合となりました。女性議員が減ってしまった衆院選2021とは一転して女性議員が過去最多割合となりました。この点は遅々としながらも歴史の進歩は感じます。

広島県選挙区では自民党の官僚出身の現職が有効投票の過半数を獲得し、2位で当選した国民民主党などが推薦するタレントに二倍以上の差をつけました。中村候補は58461票の4位で及びませんでした。

参院選広島2022に立候補された皆様

《参院選広島2022開票結果》

宮沢洋一【当選】 530,375 自民現職公明党推薦 元大蔵官僚、世襲
三上えり【当選】 259,363 無所属新人 タレント 芳野連合、国民民主党、立憲民主党など推薦
森川ひさし 114442   維新新人 京都市議会で辞職勧告決議。
中村たかえ 58461 共産党新人 筆者が応援。
浅井ちはる 52969 参政党新人
渡辺としみつ 11087 NHK新人
玉田のりたか 7335 無所属新人
野村まさてる 7149 幸福新人
うぶはらとしふみ 6717 無所属新人
猪飼のりゆき 5846 NHK新人

今回の参院選の特徴は以下です。
・2016年以降のいわゆる野党共闘が崩壊、多党化が進んだこと。
・立憲民主党が労働貴族化し、衰退が決定的になったこと。
です。

なお、選挙運動期間終盤の7月8日に安倍晋三さんが応援演説中に、統一教会に恨みを持つと報道されている被疑者の凶弾に倒れるという凶事(総理経験者の暗殺は2.26事件の高橋是清以来86年ぶり)がありました。ただ、開票結果を拝見すると、今回の選挙に限って言えば大きな影響があったようには思えません。自民党が着実に地盤を固める一方で立憲民主党が後記の事情で自滅したことによるある意味で順当な結果というのが、筆者の見方です。

◆「反安倍野党共闘2016」賞味期限切れと多党化

2016年、当時の安倍晋三さん(故人)の暴走を止める目的で、野党共闘が始まりました。広島県内でも翌2017年に市民連合が広島3区で県内はじめて発足しました。

安倍晋三さんという「共通の敵」が総理だった時代には野党共闘は一定の役割を果たし、とくに2016参院選、2019参院選で一定の一人区で野党側が議席を確保する原動力になりました。

しかし、2020年、安倍晋三さんが退陣し、後継の菅義偉さんも1年で退陣して岸田内閣にかわるころから、野党共闘に求心力の低下がみられました。そこへ、連合の芳野友子会長が立憲民主党と日本共産党の選挙協力にネガティブな発言を繰り返したこともあり、2021衆院選では立憲民主党も日本共産党も議席を減らす結果になりました。

一つは、安倍晋三さんという強烈な個性を持った共闘の「標的」の消滅です。野党共闘は安倍晋三さんを標的に求心力を高めたのは間違いありません。それだけ、安倍晋三さんの政治がひどかったということなのですが。

もう一つは、地域にもよりますが「政策軽視での候補者一本化」の副作用が顕在化してきたことです。

一本化においては、日本共産党さんが一方的に候補者を下ろすパターンが多かったのですが、政策の大きく違う候補を推すことで内部的なご苦労もあったと推察されます。同党の比例票も野党共闘を開始したころから減りはじめたことの背景となったとも思われます。

さらに泉代表にかわった立憲民主党が衆院選の議席減少の原因を共産党との共闘のせいにしてしまいました。

それにもかかわらず、共産党は立憲との共闘を追求したことで、立憲の衰退に巻き込まれる形になって今回の参院選では票を減らした面もあると思われます。

一方で、ガツンとモノを言うように見える参政党が初めて比例区で議席を獲得しました。参政党の選挙区候補が広島でもいきなり落下傘で5万票以上取ったのは衝撃でした。NHK党も前回に続いて議席を確保しました。

すでに衆院選2021では、広島県内の小選挙区、特に広島市関連の1-4区では野党は「一本化しても惨敗」でした。

◆市民連合は、当面は「一本化」よりも「政策・政治姿勢本位の政治」に力を

現時点では野党はこれ以上、政策不在での一本化を無理にするよりは、各党がとくに参院選複数区や、地方選挙で積極的に候補を出し、切磋琢磨し、次期衆院選までには「共闘すれば勝ちが見える」状況までもっていく必要があります。

もちろん、憲法改悪反対、核兵器禁止条約推進など個々の政策課題では協力は大事です。しかし、現時点では参院選複数区や県議選、市議選などで候補者の「一本化」工作は難しいし、効果も疑問符です。

そこで、市民連合さんにおかれても、無理な一本化よりも、市民が各政党や候補者の政策を吟味する機会をもっと設けて、野党の切磋琢磨を促すことをお勧めします。市民が「政策・政治姿勢」を重視するようになれば、広島の政治もかわってきます。

そうした意味では7月2日に市民連合さんが主催された「投票に行こう 参院選2022 候補者や政党の政策チェック市民集会」は素晴らしい取り組みでした。立憲、共産、社民、れいわ(筆者)が政党からは参加し、市民の質問に答えさせていただきました。

立ってお話ししているのがれいわ新選組を代表して筆者

◆「労働貴族」化した立憲民主党の衰退

もう一つの特徴は立憲民主党が労働貴族化し、衰退していることです。

広島県内では、主に、高級官僚・経団連中心の自民党と、大手企業正社員中心の労組中心の勢力で国政や地方議会の議席を分け合ってきました。

しかし、そうした構造の中で、多くの労働者・市民の実態や思いがおきざりにされてきたのではないでしょうか?

筆者自身も元県庁マン、介護福祉士として、そのことを強く感じます。

「自民党も、野党第一党も公務における非正規労働をふやす方向の政策を進めてきた。」
「自民党も、野党第一党も介護現場の労働者の抜本的待遇改善に後ろ向きだった。」
という思いが強くあります。

そして、今春、立憲民主党は公務員労組の推薦を受けながら、公務員ボーナスカットに賛成してしまいました。また、広島県選挙区で連合や国民民主党とともに立憲民主党も推薦するタレント女性候補は、7月2日のイベントでの市民連合の政策質問の最低賃金1500円の賛否を問う質問に対して「分からない」と答えておられました。

コロナの前から厳しくコロナが追い打ちをかけ、さらにロシアのウクライナ侵略を背景にした輸入物価上昇が拍車をかけている庶民の生活苦。そうした中で、立憲民主党やその推薦候補の態度はあまりに生ぬるかったと言わざるを得ません。敢えてたとえれば、武士というより公家・貴族のような対応である。「労働貴族化している」といわざるをえません。

このような態度が参院選での立憲民主党の衰退を招いたのではないでしょうか?また、原発ゼロ・島根原発再稼働の是非についても曖昧な態度を、広島県選挙区の上記タレント女性候補もとっています。立憲民主党はこうした労働貴族体質を打破できないと再起は難しい。しかし、今回の参院選でも、比例区では辻元清美さんを除けば連合の組織内候補ばかりが当選する形になりました。こうなると、余計に同党の衰退に拍車がかかるのではないかと心配です。すなわち、「労働組合組織内議員比率上昇」→「立憲民主党の労働貴族化」→「労働貴族以外の支持者が逃散」→「労働組合組織内議員比率上昇」の悪循環が止まらなくなる恐れが出てきました。

◆市民にねざした新しい政治勢力を広島でも確立

れいわ新選組はこうしたなか、2019年の結党以来、財政出動で消費税廃止などを軸にあなたの暮らしを底上げすることを一貫して訴えてきました。

原発国有化により雇用を保証しつつの廃炉と再生可能エネルギー・蓄電池・スマートグリッドなどへの200兆円の投資、食料安保への財政出動、ケア労働の抜本的待遇改善などグリーンニューディール政策を提案しています。組織のえらい人ではなく「あなた」、すなわち、ひとりひとりの労働者・市民のための政策がれいわ新選組の政策だと思います。

自民党が大手企業(経団連)・高級官僚党なら、旧民主党政権も残念ながら労働貴族党でした。それが旧民主党政権の失敗の背景にありました。そもそも根っこが同じである以上、同じような花しか咲かない。だから、市民に根ざした政治の新しい花を広島でも全国でも咲かせたい。

こうした思いで新しい政治勢力を広島県内でも確立していく先頭に、筆者はれいわ新選組のみなさまとともに立ってまいります。

2023年には統一地方選が行われます。現状のれいわ新選組は広島市議も県議もいません。国政で決まった政策も多くは地方自治体で実施されます。自治体現場での政治活動を展開しないと、今後は苦しいものがあります。筆者自身もふくめて、広島県議や市議をつくっていく先頭に立ってまいります。

当面は、そのことを通じ、被爆地広島から核のない平和な世界、そしてひとりひとりが大事される社会を皆様と一緒につくっていくための不断の努力を続ける所存です。

▼さとうしゅういち(佐藤周一)
元県庁マン/介護福祉士/参院選再選挙立候補者。1975年、広島県福山市生まれ、東京育ち。東京大学経済学部卒業後、2000年広島県入庁。介護や福祉、男女共同参画などの行政を担当。2011年、あの河井案里さんと県議選で対決するために退職。現在は広島市内で介護福祉士として勤務。2021年、案里さんの当選無効に伴う再選挙に立候補、6人中3位(20848票)。広島市男女共同参画審議会委員(2011-13)、広島介護福祉労働組合役員(現職)、片目失明者友の会参与。
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タブーなきラディカルスキャンダルマガジン『紙の爆弾』2022年8月号

〈原発なき社会〉を求めて集う 不屈の脱原発季刊誌 『季節』2022年夏号(『NO NUKES voice』改題 通巻32号)

新聞社と放送局の間にある癒着が語られることがあるように、新聞社と出版社のグレーゾーンを薄明りが照らし出すことがある。

 

渡辺恒雄『反ポピュリズム論』(2012年新潮新書)

今年の5月11日、読売新聞社は「出版懇親会」と称する集まりをパレスホテル東京で開催した。読売新聞の報道によると、約240人の出版関係の会社幹部を前に、渡辺恒雄主筆は、「日頃の出版文化について情報交換していただき、率直なご意見を賜りたい」とあいさつしたという。

出版関係者にとって新聞社はありがたい存在である。と、いうのも新聞が書評欄で自社の書籍を取りあげてくれれば、それが強力なPR効果を生むからだ。新聞の読者が老人ばかりになり、部数が減っているとはいえ、中央紙の場合は100万部単位の部数を維持しているうえに、図書館の必需品にもなっているので、依然として一定の影響力を持っている。そんなわけで読売新聞社から懇親会への招待をありがたく受け入れた出版関係者も多いのではないか。

しかし、新聞販売現場の現場を25年にわたって取材してきたわたしの視点から新聞業界を見ると、新聞業界への接近は危険だ。書籍ジャーナリズムに、忖度や自粛を広げることになりかねない。同じ器に入るリスクは高い。新聞業界そのものが、欺瞞(ぎまん)の世界であるからだ。醜い裏の顔がある。

◆清水勝人氏の「新聞の秘密」

いまから半世紀前の1977年2月、雑誌『経済セミナー』で「新聞の秘密」と題する連載が始まった。執筆者は、清水勝人氏。連載の第1回のタイトルは「押し紙」である。

清水氏は、当時、『経済セミナー』だけではなく、他の雑誌でも新聞批判を展開していた。清水勝人氏の経歴についてはまったく分からない。聞くところによると、「清水勝人」というのはペンネームで、新聞社に所属していたらしい。実際、「新聞の秘密」を細部まで知り尽くしている。

 

「押し紙」の回収風景

連載の第1回原稿の劈頭(へきとう)で清水氏は、新聞業界の体質について次のように述べている。

「新聞という商品、新聞業界にとって最も不幸なことは、それが今日まで世論の批判の対象外-「批判の聖地」におかれてきたことではなかったかと思う。これまでごく少数の例外を除いては、新聞は自らの矛盾、誤りをみずからの手で批判したり、訂正しようとは決してしなかったし、第3者からの批判を率直に受け入れようともしなかつた。
 新聞は今日まで厳しく監視する第3者を持たなかったためにどうしても、みずからの矛盾、誤り、時代錯誤に気付くのが遅れてしまいがちだったし、他人の批判にさらされないために規制力を失いがちであったといえるのではないかと思われる。」

清水氏は、「押し紙」によりABC部数をかさ上げして、紙面広告の媒体価値を高める新聞社のビジネスモデルを暴露した。わたしがここ25年ほど指摘してきた問題を、半世紀前にクローズアップしていたのである。おそらく問題をえぐり出せば、新聞人は過ちを認めて、方向転換するだろうと期待して、筆を執ったのだろう。

が、そうはならなかった。いつの間にかこの報道は消えてしまった。「無かったこと」にされたのである。

その後、1980年代になると、共産党、公明党、社会党が超党派で新聞販売の問題を取り上げるようになった。85年までに15回の国会質問を行った。新聞業界は批判の集中砲火を浴びたのである。「押し紙」も暴露された。

たとえば1982年3月8日に、瀬崎義博議員(共産党)が、読売新聞鶴舞直売所(奈良県)の「押し紙」問題を取り上げた。この質問で使われた資料は、後に「北田資料」と呼ばれるようになり、新聞販売の問題を考えるとひとつの指標となった。次に示すのが、鶴舞直売所の「押し紙」の実態である。

読売新聞鶴舞直売所(奈良県) 「押し紙」の実態

しかし、5年に渡る国会質問は何の成果も残さなかった。新聞業界は反省もしなければ、状況の改善もしなかった。もちろん報道もしなかった。再び「無かったこと」にされたのだ。

◆公正取引委員会を翻弄して「押し紙」を自由に0

1997年になって新しい動きがあった。公正取引委員会が北國新聞社に対して「押し紙」の排除勧告を発令したのである。北國新聞社は朝刊の総部数を30万部にするために増紙計画を作成し、3万部を新たに増紙した。その3万部を新聞販売店に一方的に押しつけていた。夕刊についても、同じような方法で「押し紙」をしたというのが、公取委の見解である。

さらに公取委は、「他の新聞発行者においても取引先新聞販売業者に対し『注文部数』を超えて新聞を供給していることをうかがわせる情報に接した」として、日本新聞協会に対して改善を要請した。

さすがに新聞業界も「押し紙」を反省するかに思われたが、逆に公取委に対して驚くべき対抗策にでる。

当時、新聞業界は内部ルールで、表向きは「押し紙」を禁止していた。販売店に搬入する新聞の2%を予備紙と定め、それを超える部数を「押し紙」と定義していた。俗に「2%ルール」と言われていた規定である。

北國新聞に対する処分を機に公取委から「押し紙」問題を指摘された日本新聞協会は、驚くべきことに、この「2%ルール」を削除したのである。それにより販売店で過剰になっている新聞は、「押し紙」ではなく、すべて「予備紙」という奇妙な論理が独り歩きし始めたのだ。予備紙は、販売店が営業目的で好んで注文した部数ということになってしまったのだ。

「押し紙」裁判でも、こうした論理がまかり通るようになった。しかし、残紙に予備紙としての実態はなく、その大半は古紙回収業者によって回収されてきた。営業に使うのは「新聞」ではなく、ビールや洗剤といった景品だった。

◆裁判にはめっぽう強い読売新聞

新聞業界の内側を見る視点は、「押し紙」問題だけではない。

不思議なことに中央紙は、裁判となればめっぽう強い。たとえばわたしは2008年2月から1年半の間に、読売新聞社から3件の裁判(請求額は約8000万円)を起こされたことがあるのだが、2件目の裁判で壮絶な体験をした。最初の裁判は、わたしが勝訴したが、2件目で、「大逆転」された。野球でいえば、9回裏の2アウトからの逆転である。それぐらい新聞社は、なぜか裁判に強い。

発端は、「押し紙」を断った新聞販売店を読売新聞西部本社が強制改廃したことだった。江崎徹志法務室長ら数人の社員が、事前連絡することなく販売店に押しかけ、改廃を宣言した。その直後に読売ISの社員が、店舗にあった折込広告を搬出した。この行為をわたしが、「窃盗」と表現したところ、社員らが2200万円を請求する名誉毀損裁判を起こしたのだ。

わたしは、「窃盗」を文章修飾学(レトリック)でいう直喩として使ったのである。「あの監督は鬼だ」といった強意を際立たす類型のレトリックである。店主に強烈な精神的衝撃を与えた直後にさっさと折込広告を運び出したから、「窃盗」と表現したのである。それだけのことである。だれも本当に窃盗が発生したとは思っていない。

この裁判で読売新聞社の代理人として登場したのは、自由人権協会代表理事の喜田村洋一弁護士だった。改憲論をリードしている読売新聞社が、護憲派の自由人権協会の弁護士を依頼する行為に違和感を感じた。軽薄なものを感じた。

さいたま地裁で行われた第1審は、わたしの勝訴だった。東京地裁での第2審もわたしの勝訴だった。ところが最高裁が口頭弁論を開き、判決を東京高裁に差し戻した。そして東京地裁の加藤新太郎裁判官は、わたしに110万円の支払いを命じたのである。後に加藤新太郎裁判官について調べてみると、読売新聞に少なくとも2回登場していることが分かった。

◆政界との癒着、874万円の政治献金

新聞業界と政界の距離は近い。癒着の度合いは首相との会食ぐらいではすまない。

新聞業界は、販売店の同業組合を通じて、政治献金を送ってきた事実がある。目的は、再販制度の維持、新聞に対する軽減税率の維持などである。最近は、学習指導要領の中に学校での新聞の使用を明記させることにも成功している。新聞記事を模範的な「名文」と位置づけて、児童・生徒に熟読させる国策を具体化したのだ。

2017年度、新聞業界は874万円を献金している。内訳は、主要な議員21人(述べ人数)に対して、「セミナー参加費」の名目で、総計234万円。この中には、とよた真由子(自民)、漆原良夫(公明)といった議員(当時)が含まれている。

セミナー参加費とは別に、「寄付」の名目で、128人の議員に対して640万円を献金している。金額としては1人に付き一律5万円で高額とはいえないが、政治献金であることには変わりがない。挨拶がわりに金をばら撒いているのだ。

裏付け資料は次の通りである。

※政治資金収支報告書 http://www.kokusyo.jp/wp-content/uploads/2020/06/9c4ca05ead3fb9cbcdf0434aba4dc778.pdf

他の年度についても、政治献金を繰り返してきた。

◆進むジャーナリズムの一極化

出版業界は、新聞の帆を立てた船に乗り込まないほうが懸命だ。ジャーナリズムの一極化は、最終的には自分に跳ね返ってくる。

日本の新聞業界は、清水氏の内部告発を無視し、5年にわたる国会質問を無視し、公正取引委員会の指導を逆手に取って、自由に「押し紙」を増やせる体制を構築した。昔から何も変わっていない。反省もなければ、対策もない。

1936年8月15日付け『土曜日』は、新聞業界について次のように書いている。太平洋戦争を挟んで現在まで、権力構造に組み込まれた新聞の本質は何も変わっていない。

「新聞の仲間にはヘンな協定があって、新聞同士のことはお互いに書くまいということになっている。これはいくつ新聞があっても、どれもこれも何かの主義主張があるのではなく、みんな同じ売らん哉の商品新聞ばかりで、特ダネの抜きっこ、販売拡販競争から起こった事で相手を攻めれば、その傷はやがて戻ってきて痛むのを知っているからである。これはもう新聞が完全に社会の木鐸でなくなったことを示すもので、ただただ商品であるだけから起こった仁義なのである」

▼黒薮哲哉(くろやぶ・てつや)
ジャーナリスト。著書に、『「押し紙」という新聞のタブー』(宝島新書)、『ルポ 最後の公害、電磁波に苦しむ人々 携帯基地局の放射線』(花伝社)、『名医の追放-滋賀医科大病院事件の記録』(緑風出版)、他。
◎メディア黒書:http://www.kokusyo.jp/
◎twitter https://twitter.com/kuroyabu

タブーなきラディカルスキャンダルマガジン『紙の爆弾』2022年8月号

黒薮哲哉『禁煙ファシズム-横浜副流煙事件の記録』

今年も〈7月12日〉がやって来た──2005年7月12日早朝6時頃、母親が当日の朝日新聞を持って来て「あんたが逮捕されるよ」と言った。眠気まなこに、その一面が目に入った。天下の朝日新聞の一面を飾ることなど、それ以前も以後もない。一面は大阪本社版だけで東京は中面の社会面だったようだ。

松岡逮捕を報じる朝日新聞(大阪本社版)2005年7月12日朝刊

当日は東京出張に出る日だった。夜は新宿ロフトで宮崎学氏らによるトークイベントに呼ばれていた(逮捕されたので急遽『紙の爆弾』編集長・中川志大が出席し発言、支援を訴えた)。そうしたことは前週末の呼び出しで主任検事の宮本健志検事(地元甲子園出身)に言っていたので、この日が狙われたのだろう。1日早く出掛けていればスカだったな。

松岡逮捕を報じる朝日新聞(大阪本社版)2005年7月12日夕刊

あれから17年の月日が経った。時の過ぎ去るのは速い。私はこれまで二度の“逮捕記念日”があり、二度とも有罪判決を受けた。一度目は50年余り前の1972年〈2月1日〉、20歳、私のいた大学で(いや、その年は関西大学や早稲田など全国多くの私大、また国公立大学で)前年から続いた学費値上げ阻止闘争の最終局面、最後まで身を挺して値上げ阻止の意志表示をせんとする私たちは大学の中央にある建物の屋上に拙い砦をこしらえ徹底抗戦し、そして逮捕された。このことは、すでに本年2月前後にこの通信(1月26日2月13日)でも記しているので、ここではこれ以上述べない。

◆2005年〈7月12日〉、逮捕は突然やって来た

その後、70年代、80年代、90年代と、生活や子育てに追われ過ごした。もう、かつてのように御堂筋をデモの大群が通ることもなくなった。大阪・心斎橋に在った勤め先のビルの7階から御堂筋の季節の移ろいを眺め日々見る夕陽のせつなさを感じながら過ごしバブル期到来、そして崩壊。勤め先も会社整理するということで独立、そうそううまくは行かなかった。

しかし、私にも、いわゆる「暴露本ブーム」で遅れてバブルがやって来たが、それも長くは続かなかった。苦闘しつつ凌いでいる中で、やって来たのが2005年、「名誉毀損」に名を借りた出版弾圧だった。主要な告訴人は大手遊技機(パチンコ・パチスロ)メーカー「アルゼ」(現ユニバーサルエンターテインメント)創業者オーナー社長(当時)岡田和生と役員Oで、「アルゼ王国の闇」シリーズによる告発が続いていた。

続々出版されけ「マスコミ・タブー」とされた問題企業を恐怖に陥れた「アルゼ王国の闇」シリーズ。直接の立件対象は第2弾『アルゼ王国はスキャンダルの総合商社』

これに業を煮やした岡田らは「名誉毀損」で刑事告訴と3億円もの巨額訴訟を起こしたのである。神戸地検特別刑事部になされた刑事告訴はしばらく進展がなかったが、その年の4月に大坪弘道検事が特別刑事部長に就任してから急速に進展し、私が大坪検事の指揮による最初の逮捕者だということだ。

松岡が192日間勾留された神戸拘置所

その後、宝塚市長、神戸市議会の長老親子らが続々逮捕されていく。大坪検事は、一時は検察トップ候補とまで言われるほどのエリートだったそうだが、のちに厚労省郵便不正事件(村木厚子冤罪事件)で証拠隠滅により逮捕・有罪判決を受け失脚する。「因果はめぐる」とはよく言ったものだ。私見だが、大坪検事が神戸地検に赴任して来なかったら、この事件はなかったと思っている。

すでに50歳を過ぎていて、小なりと雖も会社も経営し社員もいた中で、1972年の学生の頃と違い、社会的責任もあり、肉体的にも精神的にも辛かった。192日間勾留され、クリスマス、大晦日、正月を「鵯(ひよどり)越えの逆落とし」で有名な、神戸市北区ひよどり台、六甲の山の上に在る神戸拘置所の独房で過ごした。

神戸拘置所が在る神戸市北区ひよどり台を解説する10月31日付け朝日の記事。偶然に勾留中に掲載

その半分ほどは「接見禁止」、これは単に面会ができないというだけではない。アメリカでは電話ができるらしいが、電話は勿論、面会も手紙のやり取りもできない。外界との交通は弁護士を通してのみで孤独感が募り毎日感情が変わりきつかった。この間に本社事務所も撤去を余儀なくされ、精神的にさらに追い込まれた。おそらく半年拘禁状態というのが精神的に一番きつく、1年、2年経つごとに日常化し諦念が生じていくのだろう。

保釈されたのは年が明けた1月20日、第3回公判の後だった。

松岡は神戸拘置所で年を越し、保釈されたのは2006年1月20日だった

保釈後そのまま地元のテレビ局、阪神タイガースの野球中継で有名な「サンテレビ」に連れて行かれた。サンテレビでは、私の逮捕事件を追ってくれた若手ディレクターがいて、何度となく報じてくれていた。すぐに取材を受け、その日のうちに報道されたと記憶している。その後彼は本件の取材を続けてくれ、判決など機会あるごとに報じてくれた。彼は爾来、いろいろな話題作を世に送り出し、その報道活動で賞を獲ったり、現在は幹部に昇進、東京勤務となっている。先日久し振りに旧交を温めた。

蛇足ながら、旧交を温めたのは、日比谷公園に面した事務所のある高層ビルのレストランだった。50年余り前の1971年11月19日、翌年の沖縄返還を前にして沖縄返還協定批准阻止闘争が盛り上がっていたが、そのうち「日比谷暴動」を叫ぶ中核派が日比谷野音に5千人を集め集会、首都中枢を占拠せんとデモに出る際、追い詰められた活動家らは松本楼を焼き討ちしたり1500人以上が逮捕された因縁ある場所だ。この意味でも懐かしかったが、このことを話しても通じなかった。報道に携わる者は、みずからの会社の近くで、過去にそういうことがあったことぐらいは調べて知っておいてほしかったが、私たちの世代では、どうしてもこういう記憶が口に出る。最近、モーニングショーで「ペレストロイカ」を知らなかった若い女性アナウンサーを観たが、時の経過は歴史を忘却させるのか。

いささか話が逸れたが、私の逮捕に危機感を持ったのは、地元テレビ局のディレクターだけではない。日本で活動する海外メディアの記者もそうで、保釈後外国人記者クラブから招かれ会見に応じた。

日本で活動する外国人記者の関心も大きく、招かれて外国人記者クラブで会見

◆刑事、民事、二つの「名誉毀損」裁判を闘うが敗訴、懲役1年2月・執行猶予4年、賠償金600万円が最高裁で確定

裁判は続き、一審判決(神戸地裁)が下されたのは翌年7月4日だった。「懲役1年2月、執行猶予4年」だった。

2006年7月4日、松岡一審判決当日のテレビ画像。右は佐野裁判長の画像と“名言”

アルゼ(現ユニバーサル)創業者元オーナー岡田和生、遂に逮捕! ロイター電子版2018年8月6日号。これに至るロイターの取材には水面下で協力した

最高裁まで争ったが覆ることはなかった。アルゼは、執行猶予付きで罪状が軽いとして再告訴したが不起訴処分となり確定した。ちなみに、私の人格のいたらなさゆえ支援会が分裂し、再告訴には、かつての支援会の代表ら中心メンバーも(別個に告訴したとはいえ)加担する恰好になり、ほうぼうに迷惑メールを拡散されたりして、アルゼからの再告訴よりも、実はこちらのほうが堪えた。

また、同時に損害賠償請求3億円の巨額民事訴訟も提起された。こちらは一審(東京地裁)300万円の賠償金が課され、控訴審(東京高裁)では二倍の600万円に跳ね上がった。

刑事告訴し3億円もの巨額訴訟を提起したのは、前記したように大手遊技機(パチンコ、パチスロ)メーカー「アルゼ」だった。創業者オーナーの岡田和生は、言論で対抗するのではなく(当時『週刊新潮』に告訴人Oが連載を持ったり女流文芸賞を設けたり昵懇だったのは新潮社だが、言論で対抗する手だてはあったはずだ)、警察との癒着(当時のアルゼの雇われ社長は警察キャリアの阿南一成で法廷でも証言に立ったが、その後耐震偽装問題企業との不適切な関係で辞任)で私の逮捕を画策したのだ。代理人弁護士は元検事。

当時アルゼと岡田らはラスベガスで「カジノ王」と称されたスティーブ・ウィンと組んでカジノホテル建設を計画し、その後、オープンしている。この勢いで、次はアルゼ単独でフィリピン・マニラでのカジノ建設を計画、この間、アルゼは岡田みずから先頭に立って現地に根を下しフィリピン当局幹部へのアプローチを行い、贈賄容疑で岡田は逮捕されてもいる。

その前には、もう一人の首謀者・大坪弘道検事も逮捕されている。

神戸地検特別刑事部長として鹿砦社弾圧を指揮した大坪弘道検事の逮捕を報じる2010年10月2日付け朝日新聞

さらにその後、フィリピンでの活動にうつつを抜かしている間に、息子や子飼いの社長、妻らのクーデターにより、みずからが作り育てた会社から放逐されている。

私の「名誉毀損」事件に蠢いた人たちのその後の歴史から学ぶとすれば、〈人をハメた者は、みずからもハメられる〉ということだ。大坪、岡田の事件がこのことを物語っている。さらに、私に手錠を掛けた主任検事の宮本健志検事は、次席検事として昇任先で深夜泥酔し一般市民の車を蹴り傷つけ検挙され降格(次席検事から平検事へ)─懲戒処分を受けている。

ところで、あまり知られていないが、日本でカジノを成功させた遊技機メーカーはアルゼしかない。かつて構想された「お台場カジノ構想」ではコナミやサミーなどの名も出たが頓挫している。このかん、大阪カジノ構想がリアリティをもって画策されている。背後には警察権力が控えている。反対運動が佳境に入れば、必ずや弾圧がなされるであろう。これは逮捕された私だからこそ言えることだが警鐘を鳴らしておきたい。

そもそも人の血を吸い上げるギャンブルで経済を活性化させようなどという発想自体が邪道である。まともな政治家なら、それぐらい気づくべきだし、もっと違う健全な方途を考えるべきであろう。

◆“官製スクープ”に踊った朝日新聞・平賀拓哉記者のその後

神戸地検と連携し大々的な”官製スクープ”を展開した朝日新聞大阪社会部・平賀拓哉記者

一昨年、ちょうど15年という節目ということもあり、神戸地検のリーク(「風を吹かせる」というらしい)により(官製)スクープしたのは朝日新聞大阪社会部の平賀拓哉記者だった。彼はその後、中国瀋陽支局長を務めたりしていたが、大阪社会部に戻り「司法担当キャップ」を務めていることが、偶然、とある冤罪事件の記事を執筆していることで判明、15年も経ったのだからわだかまりもなく面談を求めたが、あろうことか拒否されたのだ。それも本人からではなく広報部が担当者名なしの素っ気ないメールでだった。私は“当事者中の当事者”ですよ、事件直前に、あの本はないか、この本が欲しいなど、さも私たちの出版活動を理解しているかのような振りをして近づいていながら、それはないだろう。

平賀記者のみならず、朝日の記者は、そのような体質があるようで、それはここ数年私たちが精力的に取り組んできた「カウンター大学院生リンチ事件」(別称「しばき隊リンチ事件」)の取材でもそうだった。一例を挙げれば、当時阪神支局に務めていた阿久沢悦子記者は、リンチ被害者M君に、さも朝日で記事にするかのように期待させ近づき、「浪花の歌う巨人(虚人?)」こと歌手・趙博を紹介、当時は外部に出ていなかった貴重な資料を渡し、その後突然裏切られている。二人のやったことは「S」行為であり、私たちの追及に逃げ回っている。特に阿久沢記者は、他人を取材したり追及する時には「朝日」の金看板を後ろ盾にずいぶん居丈高だが、逆にみずからが取材される立場になると、逃げ回り、ここでも登場するのは広報部である。

◆思い出すだに──

この時期になると、あれこれと思い出す。それはそうだろう、地獄に落とされ血を吐く想いを強いられたからだ。平賀、聞いとるか! 逮捕から勾留中の出来事で、二つ三つ書き記しておきたい。

逮捕後、すぐに釈放されるものと甘く考え、ある印刷所には300万円を支払ったり月末の支払いも弁護士を通じ通常通り行った。この直後差し押さえされ金欠状態になる。こうしたこともあってか、その印刷所は翌月に急遽発行されることになった、事件を報告した『紙の爆弾』9月号(8月7日発行)の印刷を承諾いただき、さらに保釈後、迷惑を掛けたことを詫びに挨拶に伺ったところ、塩を撒いて追い返されても仕方ないなと覚悟していたが、築地の高級寿司屋の個室に招いてくれ、「私は支援しますので頑張ってください」と激励してくれたことは忘れられない。

その後5年近くかかったが、会社は再建され、2010年夏、もう不可能だと思っていた甲子園に戻ることができた。今はコロナ禍長期化で青色吐息だが、ひと頃は逮捕前よりも飛ぶ鳥を落とす勢いにまで飛躍し、くだんの印刷所の社長は心から喜んでくださり、今度は神宮前の高級レストランで祝ってくださった。

一昨日参議院選挙があったが、勾留中にも選挙があった。「松岡、選挙はどうする?」と刑務官からたずねられた。「当たり前じゃないですか、投票しますよ」と答えた。未決囚が投票すると希望すれば、国家権力の機関である拘置所は拒否することはできない。一人ひとり、住民票のある場所は違うので、いちいち投票券を取り寄せないといけないわけだから、ずいぶん面倒なことなのである。投票所も、道場だったか、急遽こしらえて行われた。誰もができるわけではない貴重な経験だった。

激動の2005年も押し迫った師走、第2回目の公判があり(12月19日)、それまで複数回保釈請求を行っていたが、却下され勾留が続いていた。「今度は、正月前だし、裁判官も比較的物分かりがよさそうだから大丈夫だろう」と弁護人も言うし甘く見ていたが、結果は却下、大晦日から新年を拘置所で過ごした。普通、ラジオ放送は午後9時で終わるところ、大晦日は『紅白歌合戦』を最後まで放送するということで、「拘置所も粋なことをやるもんだ」と思っていたが、電気が消され、真っ暗闇の中で虚しく曲が流れ華やかそうに伝えられる会場の雰囲気に切なさを感じたこともまた忘れられない記憶である。

もっと書き記したいこともあるが、また別の機会に譲ろう。

◆「人に歴史あり」というが……

「人に歴史あり」── 有名人の中でも獄に入れられ、そのことを肥やしとして、その後の人生を豊かにした人がいる。後輩の書家・龍一郎風に言えば、「人生に無駄なものなどなにひとつない」ということだろうか。

弾圧10周年に、後輩で書家の龍一郎が魂を込めて揮毫し贈ってくれた

例えば、昭和の名女優・沢村貞子。彼女は戦前・戦時下治安維持法で二度(私と同じ!)逮捕、計1年余り勾留されている。地下活動まで行っていたという筋金入りの活動家だったようだ。「人権」などという言葉がない時代だ、取調べや処遇が過酷だったことは言うまでもない。NHKの朝ドラ『おていちゃん』で、その裁判のシーンが出て来る。「文化運動のために闘います」というようなことを陳述していたことを記憶している。今では朝ドラでこうした作品を製作したり放映することはないだろう。

また、歌手・三波春夫、彼は日本敗戦直後からシベリアのラーゲリー(強制収容所)で4年も抑留されている。彼の反戦意識はこの経験に基づいているとされる。4年もソ連に抑留されていると洗脳されたようで、記憶が定かではないが、帰国してしばらくは「共産主義浪曲団」で全国を回っていたことを週刊誌で読んだことを微かに覚えている。書いたのは猪瀬直樹だったかな? しかし、これじゃあ生きて行けないということで“転向”したのだろうか、1964年の『東京五輪音頭』、1970年大阪万博のテーマソング『世界の国からこんにちは』などで国民的歌手として、押しも押されもしない大御所となる。勾留中に官本(拘置所に備え付けの本)で、私たちの世代には馴染み深い平岡正明が三波をインタビューした本を読んだが、破天荒とされる平岡が非常に緊張している様子がうかがえた。官本には田中角栄の『日本列島改造論』などもあって神戸拘置所は比較的揃っているような感がした。

沢村、三波の生き方を肯定、否定するかどうかは別問題として、私など足下にも及ばないが、拙い私の人生史に於いて、二度の逮捕は欠かすことのできない出来事であったと考えている。このことで(特に2005年の「名誉毀損」事件で)銀行口座を新規に作れなくなったり(3つの金融機関と裁判したがいずれも敗訴)不利益を蒙っているが、決して恥ずべきことではないと思っている。

 

*上記の「名誉毀損」に名を借りた出版弾圧事件については、とりあえず次の出版物をご覧ください。
『紙の爆弾』2005年9月号 (逮捕直後に発行された)
『紙の爆弾』2020年5月号 (『紙の爆弾』創刊15周年記念号。別帳付録として「『紙の爆弾』が創刊された2005年に何が起きたのか?」を16ページ渡り記述し、15年目の中間総括を試みている)
『パチンコ業界のアブナい実態──謀略と犯罪うごめく「三十兆円産業」』 (逮捕から判決確定までの詳細な記録と、パチンコ業界の実態を記述)

タブーなきラディカルスキャンダルマガジン『紙の爆弾』2022年8月号

〈原発なき社会〉を求めて集う 不屈の脱原発季刊誌 『季節』2022年夏号(『NO NUKES voice』改題 通巻32号)

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