◆渡邊ジム初のチャンピオン

酒寄晃は1953年(昭和28年)4月、茨城県出身。第4代、第8代全日本バンタム級チャンピオン、第7代全日本フェザー級チャンピオン。現在も続く名門・渡邉ジム最初のチャンピオンとして、キックボクシング界黄金期から斜陽化時代に、強面でパワフルにKOを狙う負けん気の強さでチャンピオンの座に長く君臨した。

1972年(昭和47年)4月、19歳でデビューした酒寄晃は、元々プロボクシングの経験があったが、芽が出ずキックボクシングに転向してきた経緯があった。新人時代は伸び悩んだりジムから遠ざかったりと周囲から期待も小さかったが、それまでの下積みが基盤となって徐々に実力開花していった。

1974年11月6日に茨城県水戸市での全日本バンタム級王座挑戦では、所属する渡邊ジムが一丸となって酒寄晃をバックアップ。ジム設立5年目にして初のチャンピオン誕生を目指していた。そして俊善村正(烏山)をパンチで4ラウンドKOして王座獲得。当時の全日本・協同プロモーション系は日本テレビ系で放送されていた時代。現在と違い希少価値あるチャンピオンの名は全国に轟く効果があった。そんな全盛期、毎月の試合も志願した酒寄晃だったが、誰もが通る試練もやって来た。

◆スランプから開花

1975年7月7日、茨城県笠間市で俊善村正との再戦に薄氷の引分け初防衛したが、1976年4月24日、茨城県下館市で渡辺己吉(弘栄)に4ラウンドKO負けで王座陥落。

1977年6月17日、日本武道館で渡辺己吉と再び王座決定戦を争うが、判定負けで返り咲き成らずも、渡辺己吉の引退で1978年2月10日、酒寄晃は王座決定戦で隼壮史(栄光)に2ラウンドKO勝利して王座返り咲き(以後・後楽園ホール)。減量苦もあったが、スランプを脱したその勢いで同年7月22日、全日本フェザー級王座決定戦で、花井岩(雷電)に判定勝利して二階級制覇。第7代全日本フェザー級チャンピオンとなる。バンタム級王座は返上。

酒寄晃が更に自信を深めたのは1979年9月、タイの二大殿堂ジュニアライト級元・チャンピオンで、長江国政や藤原敏男も下している上位ランカーだったビラチャート・ソンデンをパンチでKOしたことだった。

渡邉信久会長も後に、「酒寄はごく普通の入門生で、気は強そうだったがムラッ気があって成長に時間が掛かったが、こんなに強くなるとは思わなかった。」と語るほどだった。

とにかくブン殴れば倒れない相手はいないと自信を深め、KOを狙う試合が増えていった。

翼五郎(東洋パブリック)、金沢竜司(金沢)、佐藤正広(早川)、少白竜(萩原)、甲斐栄二(仙台青葉)らを退けた中、1981年元日の挑戦者だった、当時まだ18歳の現・レフェリーの少白竜氏は、

「50戦を超える獰猛なゴリラみたいなベテランの酒寄さんはとにかく強かった。パンチ躱すのが速く、違うところから素早く蹴られ、重いパンチでわずか2分あまりで倒されました!」と恐怖?体験を語る。全日本フェザー級王座は5度防衛に達したが、当時はキックボクシング界が低迷期に入り、1981年は業界分裂・新団体設立が始まった年だった。

◆頂上決戦

1982年1月4日、日本プロキック・フェザー級王座決定戦で、玉城荒次郎(横須賀中央)に4ラウンドKO勝利で新王座獲得。

1982年7月、日本ナックモエ・フェザー級王座決定戦で、佐藤正広(早川)に判定勝利して新王座獲得。

細分化していく業界だったが、酒寄晃は分裂の度に王座決定戦を制し、常に頂点に君臨。現在のような、戦わずにチャンピオン認定など行わない正当な制度だった。
その実力を証明する1983年3月の1000万円争奪オープントーナメント56kg級決勝7回戦は事実上の日本フェザー級頂上決戦の構図となり、年齢もデビュー時期も近く、同時代を生きつつも戦うことは難しかった日本系(旧TBS系)で成長して来た松本聖(目黒)と拳を交えた。

初回、酒寄が先にフラッシュダウンはするものの、逆にパンチで三度のノックダウンを奪いながら、第2ラウンド以降、松本のパンチとローキックで酒寄はリズムを徐々に崩し、セコンドからの「お前の方がパンチ強えんだからパンチで行け!」という声も、解っているけど当たらない、もどかしい表情で松本に向かうが、歴史に残る名勝負となる激戦を残しながら5ラウンド逆転KO負けを喫した。松本よりパンチも蹴りも、打たれ強さも兼ね備えていながら敗れたのは、「慢心から来るものだった」と深く反省したという。

強いパンチと蹴りで松本聖を苦しめたがKOには繋げず(1983.3.19)

松本聖のローキックに苦しめられたのは酒寄晃(1983.3.19)

酒寄晃のパンチは重かった。第1Rには圧倒したが……(1983.3.19)

気が強い酒寄晃、心機一転、甲斐栄二戦に臨む(1983.9.10)

本領発揮、右ハイキックで甲斐栄二を苦しめる(1983.9.10)

強打者同士、鼻血を流したのは甲斐栄二(1983.9.10)

まだまだ全盛期、引退の陰りは無かったが……(1983.9.10)

◆昭和のレジェンド

その後、日本統一王座を決する計画が進められ、松本聖との再戦が浮上したが、組織の細分化は再集結には難しい不運な時期だったこともあり、統一戦は実現に至らず、1984年夏、長年のライバルの佐藤正広(早川)にKO勝利した試合をラストファイトとして引退を決意。

同年の1984年11月、業界が急好転し期待された4団体統合の日本キックボクシング連盟設立で、酒寄晃の再度の活躍が期待されたが、すでに31歳。長年の激戦からくる故障もあってモチベーションを高めるには至らなかったようだ。同門の新鋭・渡辺明がタイトルを争うまでに成長して来た影響もあっただろう。

そして翌年の6月7日、盛大に引退式を行ないリングを去った。

[写真左]引退セレモニーでの御挨拶、風貌に似合わず優しい口調で感謝の言葉を述べられた(1985.6.7)/[右]テンカウントゴングに送られる酒寄晃、13年の現役生活だった(1985.6.7)

 

引退興行の当日プログラムはポスターとともにインパクトがあった(1985.6.7)

強面顔の酒寄晃は、近寄り難いタイプながら仲間内では明るく振る舞うムードメーカー的だったとも言われ、渡邉会長の厳しい指導もあっただろうが、「性格は繊細でジムでも練習道具は整理整頓し、試合で使用するバンテージも鮮やかなほどキレイに巻いていた。」と言われるほど几帳面だった。

引退後は若い職人を従えての内装建築業を営み、その繊細な心で事業を展開していた様子。

「引退当時はジムによく来ていたよ。」という渡邊会長も、事業が忙しくなった様子で後には姿は現さなくなったという。「今は何しているのかなあ!」という古い時代の渡辺ジム関係者達である。

全日本系列では歴史上、藤原敏男、大沢昇、島三雄、岡尾国光、長江国政、猪狩元秀といった名チャンピオンが名を連ねる中、後に分裂で道は分かれたものの、酒寄晃は昭和の名チャンピオンに並ぶレジェンドだったと言えるだろう。

▼堀田春樹(ほった・はるき)[撮影・文]
昭和のキックボクシングから業界に潜入。フリーランス・カメラマンとして『スポーツライフ』、『ナイタイ』、『実話ナックルズ』などにキックレポートを寄稿展開。タイではムエタイジム生活も経験し、その縁からタイ仏門にも一時出家。最近のモットーは「悔いの無い完全燃焼の終活」