《独占公開》冤罪確定疑惑の下関女児殺害事件──湖山忠志氏の手記[Ⅱ]

2010年11月に発生した下関市6歳女児殺害事件は、昨年11月に被告人の湖山忠志氏が最高裁に上告を棄却され、懲役30年の判決が確定した。だが、この事件は決して終わっていない。湖山氏は再審請求により無罪を勝ち取りたいと考えている。そこで湖山氏に改めて事件発生から懲役30年の判決が確定するまでのことを振り返った手記を発表してもらうことにした。

以下、湖山氏が事件当日、別れた妻を原付バイクで探して回り、家に帰った時から警察に疑われ、濡れ衣を着せられていくまでの出来事を回顧した手記を3回に分けて公開する。今回はその2回目。筆者は読者諸兄に自分の考えを押しつけようとは思わない。各自がこの湖山氏の話を読み、じっくり真相を見極めて欲しい。

◆逮捕されても何も恥じることはなかった

捜査本部の置かれた下関署

5月24日に任意同行された時は、前触れはなく、警察は朝の9時前、いきなり家に「聴きたいことがあるんじゃ」とやってきました。玄関のドアを開けると、記者たちがブワ~と大勢いて、バシャバシャとフラッシュを焚かれて写真を撮られました。そして下関署に任意同行されると同時にガサ入れもされました。

取り調べでは、刑事は最初から僕のことを犯人扱いで、「こっちは科学的に証明できとるんじゃ」とそればかりを繰り返し言ってきました。しかし、「じゃあ、それを見せろ」と僕が言っても、見せてくれません。「任意じゃろうが」と言って帰ろうとしたんですが、「こっちはお前を止めようと思ったら、止められるんじゃ」と帰そうとしない。仕事を休みにさせられましたし、家に残してきた娘のことも心配だったし、精神的にきつかったですね。

押し問答が続き、刑事が怒り気味に「なら、ポリグラフ検査受けろ! サインしてくれるか」と紙を僕に渡してきました。僕はポリグラフ検査のことを知っていたので、「ポリ検か。昔で言うウソ発見器やのぉ。ええど、しても」と言ってサインをし、ポリ検を受けましたが、疲れてほとんど寝てましたし、適当に返事だけして内容とか全く覚えていません。

また、この日は尿も採取されました。尿を採取される時、「オレは今までシンナーもシャブも他の薬物にも手を出したことがないけ、尿検査してもなんも出てこんど」と笑いながら言ってやりました。

家に帰ったあと、おじさんたちは僕が逮捕されるか否かについて、「こっから2週間以内が勝負やないんか」と言っていました。ただ、警察はマスコミも集めて大々的に僕を任意同行していたので、僕個人は「近々必ず来る(=逮捕される)」と思っていました。警察はもう引き返せないだろうと思っていたんです。

5月24日に任意同行されて以降はどこかに外出する際にその都度、警察に連絡していました。逃げも隠れもするつもりがなかったからです。ただ、僕はこの頃、体調が悪く、娘の体調も良くなかったんで、自ら警察に電話して、「体調悪いけ、無理ですわ」と取り調べを断っていました。そのことがテレビで「今日の取り調べは中止となりました」などと報じられていました。

5月27日の朝も担当刑事に電話をし、「今日も体調悪いけ、無理」と任意同行の求めを断ろうとしたんです。しかし刑事は「今、そっちに向かいよる」と言ってきました。これでこの日、自分は逮捕されるのだとわかりました。

警察が家にやってきた時、「フダ(逮捕状)持っとるんか?」と聞いたら、「ある。今出してええんか?」と言ってきました。刑事が逮捕状を出したら、僕はその場で手錠をかけられてしまうんで、「待て。出すな」と言いました。家には、母親も娘もいたからです。

家から警察に連れて行かれる時、娘はまだ2歳だったんで、状況を理解できていたのかはわかりませんが、ワンワン泣きよったんで、抱っこしてあげて、いつも仕事に行く時に言っていたように『パパ、お仕事行ってくるけんね。おりこうさんに待っとけるね?』と言って、いっぱい抱いてやりました。そして母親に、『×××(筆者注:娘の名前)のこと頼むよ!』と言って娘を渡して、刑事に『行こか』と言って玄関に向かいました。

後ろ髪をひかれる思いでした。しかし、僕は娘のほうを振り向いたら決心が鈍ると思い、振り向かずに出て行きました。家を出ると、任意同行された時と同じようにマスコミが集まっていて、フラッシュの嵐でした。でも、僕は顔も隠さず、堂々と出て行きました。「オレの顔を今のうちに撮っとけ」と思いながら、一瞬立ち止まり、ゆっくりと警察車両に乗り込みました。何も恥じるようなことはしていないからです。

逮捕されるというのはたしかにショックですが、本当にやったことで逮捕されるわけではありません。警察は、僕がやっていない事件のことで僕を引っ張りにきたわけですから、僕としてはショックより「これから闘う」という感じでした。刑罰を受けることに現実味は感じませんでした。

ただ、この日、娘をいっぱい抱っこしてあげたのが最後になろうとは思っていませんでした。今でもあの日、娘を抱っこした時の感触は残っています・・・。[Ⅲにつづく]

《独占公開》冤罪確定疑惑の下関女児殺害事件──湖山忠志氏の手記[Ⅰ]
下関女児殺害事件──最高裁が懲役30年の「冤罪判決」疑惑

事件現場の被害女児宅マンション(奥の棟の2階)

【下関6歳女児殺害事件】
2010年11月28日早朝、母親は仕事で外出しており、小さな子供3人だけで寝ていた下関市の賃貸マンションの一室で火災が発生。火災はボヤで済んだが、鎮火後、子供3人のうち、一番下の6歳の女の子がマンションの建物脇の側溝で心肺停止状態で見つかった。女児は発見時、上半身が裸で、死因は解剖により、「首を絞められたことによる窒息死」と判明。翌年5月、被害女児の母親の元交際相手だった湖山氏が死体遺棄の容疑で逮捕され、翌6月、殺人など4つの罪名で起訴される。湖山氏は一貫して無実を訴えたが、2012年7月に山口地裁の裁判員裁判で懲役30年の判決を受け、今年1月、広島高裁で控訴棄却されていた。

▼片岡健(かたおか けん)
1971年、広島市生まれ。早稲田大学商学部卒業後、フリーのライターに。新旧様々な事件の知られざる事実や冤罪、捜査機関の不正を独自取材で発掘している。広島市在住。

いつも何度でも福島を想う

 

《独占公開》冤罪確定疑惑の下関女児殺害事件──湖山忠志氏の手記[Ⅰ]

当欄で繰り返し冤罪疑惑をお伝えしてきた下関市の6歳女児殺害事件では、昨年11月に被告人の湖山忠志氏が最高裁に上告を棄却され、懲役30年の判決が確定した。実を言うと、筆者は上告棄却の判決が出る少し前から広島拘置所で、湖山氏に事件当日からの経緯を振り返ってもらう取材を続けており、事件発生から丸4年になる昨年11月28日前後のタイミングでインタビュー記事を発表したいと考えていた。湖山氏が最高裁に上告を棄却されたという知らせは、くしくもその取材が佳境に入った時期にもたらされたものだった。

だが、湖山氏は雪冤をあきらめたわけではなく、再審請求により無罪を勝ち取りたいと考えている。また、6歳の女の子を惨殺した真犯人がまだ野放しになっている可能性が高いことを考えれば、この事件は決して終わっていない。そこで湖山氏にこのほど、改めて事件発生から懲役30年の判決が確定するまでのことを振り返った手記を発表してもらうことにした。

湖山氏は事件発生当時、別れた元妻と金銭問題の交渉をするために連日、所在不明の元妻を探していたのだが、事件当日の夜も元妻のいとこが住んでいるマンションに元妻が身を寄せていないか確認に赴いていた。このマンションと同じ敷地にあるマンションが事件現場となったマンションで、そこに湖山氏の元交際相手のMさんが娘である被害女児と一緒に暮らしていた。事件当日にこのマンションの敷地に赴き、タバコの吸い殻を捨てていたことが、裁判では湖山氏に大変不利にはたらいた。

以下、湖山氏が事件当日、別れた妻を原付バイクで探して回り、家に帰った時から警察に疑われ、濡れ衣を着せられていくまでの出来事を回顧した手記全文を今回から3回に分けて公開する。筆者は読者諸兄に自分の考えを押しつけようとは思わない。各自がこの湖山氏の話を読み、じっくり真相を見極めて欲しい。

◆「みんなお前が犯人と思っとるぞ」と言われた

湖山氏の裁判員裁判があった山口地裁

事件があった日、元嫁を探しに出ていた僕が家に帰ったのは2時前後でした。2時半かその前に、自販機にジュースを買いに出て、その時に妹とすれ違いました。そして帰ってくると、父親がちょうどトイレに起きてきて、どういうことを言われたかは覚えていないですが、「どこ行っとったんか」みたいなことを言われました。それから2階の部屋に戻り、1時間ほどゲームをして、寝たのは3時半前後だったと思います。

そして朝、母親が部屋に上がってきて、「警察が来とるよ」と起こされました。それで僕は玄関のほうに行ったのですが、2、3人の刑事が来ていたので、「何ですか?」と聞きました。すると刑事は、「ちょっとMのところで火事があってのう。ちょっと聞きたいことがあるんじゃ」みたいなことを言いました。

火事?と驚きましたが、火事のことで、なんで自分に話があるのか? とも思いました。しかし、とりあえず話を聞いてみようと思いました。それで、かるく着替えて、家の近くの交番まで刑事と普通に会話をしながら歩いて行って、その交番に刑事が停めていた車で下関署まで行きました。

下関署では、取り調べ室に入る前、僕と同い年の知っている刑事が寄ってきて、「おい、湖山。大丈夫か」「何があったんか」などと言われました。その刑事は、僕が以前、Mを殴った容疑で逮捕勾留された際の担当だった刑事です。取り調べ室に入って、「あの後、どーなったんか」と話しかけてくるので、「子供(筆者注:別れた妻との間にもうけていた娘)は俺が引き取ったや」「やったやないか」などと普通に話をしました。

取り調べには、知能犯係の刑事もいました。その刑事は紙を持っていて、それをチラリと見たら、「殺」という字が見えました。そして、莉音ちゃんが死んだって聞かされたんですが、刑事は「どうも殺されたみたいなんじゃ」と言うんで、僕は「ホントですか?」みたいな感じになった。同い年の刑事の顔を見たら、同い年の刑事は言葉も出さず、僕は「マジか…」みたいになりました。

それから「事件があった時のことも聞かせて欲しい」みたいになって、同い年の刑事が調書を作ってくれました。僕はもうMと関わり合いたくなかったので、「一切そこ(筆者注:事件現場)へは行っていない」と言ったら、それで調書をつくってくれました(筆者注:このように湖山氏は事件当日、事件現場のマンションと同じ敷地に行っていたことは当初隠したが、のちに自ら警察に打ち明けている)。そうこうしていたら、父親が下関署に電話してきたらしく、「息子は今マジメにやっとるのに、どういうつもりか!」などと怒鳴り上げ、帰らすように言ったそうです。

僕も娘のことが心配だったんで、刑事たちと何時までかかるのかという話をしていたのですが、オヤジのおかげで、「帰らすけえ」となりました。そして帰りぎわ、取り調べ室で同い年の刑事と2人きりになったんですが、「オレは思ってないけど、みんなお前が犯人と思っとるぞ」と言われました。

警察の車で連れられて家に帰ると、親父に「何があったんか」と聞かれました。刑事からは「家族にはまだ言うな」と言われていたのですが、事件のことはニュースでバンバンやっていたので、親父は「このことやないんか」と言ってきました。そうだと認めると、「お前(が犯人と)違うんか」と言ってきて、「違う」と答えたんですが、家でも尋問されているようでした。

◆警察の内偵捜査はずっと続いた

その日以降も親父からは事件との関連について、「やってないんか」と聞かれ続けました。下関では、事件に関する噂が飛び交っていたのですが、親父の部屋に呼ばれ、「ベランダからお前の指紋が出たらしいぞ」と言われたこともありました。僕に関する噂が広がったのは、僕が下関ではそれなりの知名度があったからだと思います。

警察の呼び出しも事件当日のほか、2回くらいありました。たしか12月2、3日くらいのことだったと思います。下関タワーの近くに電器屋さんがあるんですが、その駐車場で落ち合おうという話になり、その駐車場に停められた警察車両に乗り、刑事から色々話を聞かれました。1回目は話だけで終わりましたが、2回目の時は口腔内細胞を採られています。

刑事の一人はこの2回会って話をする際、「タバコを吸ってもええぞ」としつこく何度も言ってきましたが、僕は断っていました。そして最終的に業を煮やしたのか、「口の中の唾液を採らせてくれ」と言われました。ある程度ほっぺの内側を綿棒でこすって渡そうとすると、「まだしっかりとこすりつけろ!」と語気強く言われ、これでもかというぐらいこすって渡しました。

それからは警察の内偵捜査が続きました。僕の住んでいる地域では、地域に馴染んでいる人と馴染んでいない人がすぐわかるんです。道に車が停められていても、「見ない車だな」とすぐわかります。それに、うちの前の通りは普通、地域に住んでいる人以外は通らないんです。ですから、家の近くなどに刑事や警察、マスコミの車がいると、すぐにわかりました。

たとえば娘、甥っ子、姪っ子を連れて公園に行った時など、僕が車で外出すると、外に警察のミニバンやスカイラインその他の警察車両がいて、僕の車をつけてきていました。ある日、仕事に行く時、僕の車のあとをスカイラインがずっとついてくるので、運転している人間の顔を見てやろうと徐行運転して横に並んだら、向こうはもっとスピードを落とし、逃げていったということもありました。逮捕されるまで、そういう内偵はずっと続いていました。

また、マスコミの記者もよく家の周りをうろついていました。記者は大体、小さいカメラを持って外にいるんです。僕が家から出た時に偶然ばったり会った記者が大慌てし、とにかくどこかへ隠れようと行き止まりの方向に歩いて行ったということもありました。

警察や記者に張りつかれても、僕の生活には、とくに害はなかったです。ただ、マスコミは最初のうち、とにかく僕に接触しようとしていて、母親が手伝いをしている、おば夫婦が経営する焼肉屋に行ったり、親父の会社に電話し、親父を怒らせたりしていました。親父は警察に電話して、「お前らのせいで、こうなっとるんやろうが! どねぇかせんか!」となどと怒鳴り上げていました。

当時、マスコミの取材は受けていませんでしたが、一度だけ、オグラっていう人が出ている番組の取材を受けたことがありました。この時は車の中で取材を受けたのですが、「Mはどういう性格?」「Mは家ではどういう感じだった?」と僕のことをほとんど聞かず、Mのことばかり聞いてきました。僕はこの時、「報道するな」と釘を刺していたんですが、番組ではこの時の僕の映像なのか、音声なのかはわかりませんが、とにかく話の内容が流れたらしいです。これにおじさんが怒って、テレビ局の記者に電話して、「どういう放送だったのか見せろ」と言っていましたが、はぐらかすようにされ、「もうおたくの取材は何も受けん」みたいになりました。

一方、警察は事件のすぐ後に電器屋の駐車場で話を聞かれて以降は、事件の半年後の翌年5月24日に任意同行されるまで直接接触してくることは一切なかったです。ただ、下関署には、運転免許証の更新のために電話でどうしたらいいのか問い合わせたり、免許証の写真を撮ったり講習を受けたりと2回足を運びました。写真撮影の時は娘と、講習の日は1人で行きました。[Ⅱにつづく]

【下関6歳女児殺害事件】
2010年11月28日早朝、母親は仕事で外出しており、小さな子供3人だけで寝ていた下関市の賃貸マンションの一室で火災が発生。火災はボヤで済んだが、鎮火後、子供3人のうち、一番下の6歳の女の子がマンションの建物脇の側溝で心肺停止状態で見つかった。女児は発見時、上半身が裸で、死因は解剖により、「首を絞められたことによる窒息死」と判明。翌年5月、被害女児の母親の元交際相手だった湖山氏が死体遺棄の容疑で逮捕され、翌6月、殺人など4つの罪名で起訴される。湖山氏は一貫して無実を訴えたが、2012年7月に山口地裁の裁判員裁判で懲役30年の判決を受け、今年1月、広島高裁で控訴棄却されていた。

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▼片岡健(かたおか けん)
1971年、広島市生まれ。早稲田大学商学部卒業後、フリーのライターに。新旧様々な事件の知られざる事実や冤罪、捜査機関の不正を独自取材で発掘している。広島市在住。

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《脱法芸能35》森進一──「音事協の天敵」と呼ばれた男

芸能界史上最大のタレント独立事件と言えば、森進一の渡辺プロダクションからの独立劇だろう。当時の渡辺プロダクションは芸能界最大勢力であり、森も演歌界を代表する歌手だったから、マスコミはこぞって、この「戦争」を採り上げた。

森は1972年以降、契約更新の時期になると毎年のように渡辺プロに内容証明を送付し、待遇改善を迫っていた。それによって、給料は上がったが、渡辺プロのお仕着せの曲でヒットしないことに不満を募らせ、次第に自分の歌は自分で選びたいと考え、79年、13年所属した渡辺プロから独立を果たした。

当時の渡辺プロの実力は、全盛期に比べると衰えていたが、音事協を中心とする芸能プロダクション勢力の結束は強く、森はテレビから締め出された。

『おふくろさん』(1971年5月ビクターレコード、作詞=川内康範、作曲・編曲=猪俣公章)

◆「つくづく変わった男だった」

音事協が特に神経をとがらせたのは、森が他のタレントに「独立するとオイシイよ。十年選手だったらやったらどう?」などとそそのかしたという。これが音事協で問題となり、共演拒否の動きが広がった。森は「音事協の天敵」と呼ばれ、芸能界で孤立した。

元渡辺プロ取締役、松下治夫の著書『芸能王国渡辺プロの真実。―渡辺晋との軌跡―』(青志社)でも、森は批判的に書かれている。

森はラテン・ビッグバンドの東京パンチョスのリーダーだったチャーリー石黒がその素質を見込んで渡辺プロに連れてきてきたという。同書によれば、森の独特のハスキーボイスはチャーリーが開発したものだったとする。

当時の渡辺プロは、演歌歌手は森だけで、ポップス歌手が本流だったから、誰も森に期待はしなかったが、あれよあれよという間にスタートなってしまった。

松下は「森進一はつくづく変わった男だった」と述懐している。

森は渡辺プロからもらった給料を明細ごと封も切らないで、押入れに入れていたという。それが貯まって億というお金となり、さすがに心配した松下が社長の晋に相談したほどだった。そのうち森は「お金を増やす方法はないか?」とマネージャーに相談し、不動産に投資することとなり、自宅と事務所ビルを建てた。

さらに森はデビューして1年後の67年末、待遇の不満から木倉事務所に移籍しようとしたことがあった。この時は、音事協会長で政治家の中曽根康弘までが乗り出して調停する事態となり、結局、移籍の話はなくなった。

◆「極貧」からの脱出

なぜ、森はお金に執着したのか。

デビュー当時の森について回ったのが「極貧」という言葉だった。

森は本名を森内一寛という。47年生まれで、出身地は山梨県甲府市。父親は古着の行商をしていたが、それが行き詰まり、静岡県に流れ着いた。そして、小学校5年生のころ、父親と母親が別れてしまった。父親が間借りしていた家主の奥さんと不倫関係になったのを母親が苦にしたためだった。

母親は森と乳飲み子の弟、4歳の妹を連れ、親戚を頼り、下関に移ったが、やがてバセドー氏病にかかり、働けなくなってしまった。森の一家は、森が中学3年生のときに、母親のいとこを頼って鹿児島に移った。

貧しい森一家は、生活保護を受けなければならなかった。おかずはなかったから、ご飯に醤油をかけて食べた。森は朝4時に起きて、牛乳配達をし、それから朝刊を配り、学校へ行き、帰ると魚屋の手伝いをし、夕刊を配って働いた。中学3年のときの成績は音楽を含めてすべて「3」。備考には「気が弱い。特記事項なし」とあった。

高校進学をあきらめた森は中学校を卒業して、集団就職で大阪に行き、十三駅前通りの寿司屋「一花」で働いた。住み込みで給料は1万2000円。だが、4ヶ月もすると、「ぼく、この仕事に向かんと思います」と言って、辞めてしまった。それ以降、十円でも給料の高いところを目指し、職を転々とした。15歳から17歳まで21回も転職した。

森は17歳のとき、フジテレビののど自慢番組『リズム歌合戦』に出場し、優勝した。番組のバックバンドをしていたチャーリー石黒に拾われ、レッスンに励み、66年、18歳のとき、『女のためいき』でデビューした。

たちまち森はスターとなったが、渡辺プロが森に払った給料は、年間4億円の稼ぎがあると言われながら、68年1月まで8万円だった。森はそのうちから3万円を母親に仕送りした。また、森は早くから家を買いたいと考え、給料の半分は貯金に回した。

木倉事務所から1000万円の契約金で移籍のオファーが舞い込んできたのは、そんなときだった。結局、移籍の話は潰れたが、森の月給は50万円となり、仕送りの額も10万円になった。

◆母の訃報が届いたその日、長崎で熱唱した『おふくろさん』

遊ぶ暇などなかった貧しい少年時代の反動なのか、スターとなった森は女性スキャンダルが相次いだ。73年2月24日未明、森の母親がガス中毒で自殺するという事件が起きたが、その理由にはバセドー氏病の病苦の他に、息子のスキャンダルによる心労があったとも伝えられている。

母親が死んだ日、森は長崎県諫早市の体育館でステージに立っていた。

ステージで司会者がこう言った。

「森さんのおかあさんがけさ亡くなりました。家には妹さんと弟さんしかおらず、すぐにも東京に帰りたいが、みなさんのためにうたってくれます」
森は涙を流しながら『おふくろさん』を熱唱し、会場を嗚咽の声でいっぱいにした。実際、森は一刻も早く母親のもとに向かいたかっただろうが、これが「ナベプロ商法」だった。

ショーを終えた森は空港に向かい、全日空機に飛び乗ったが、自宅に到着したのは、母親の自殺が確認されてから17時間以上経過した午後10時過ぎのことだった。

 

▼星野陽平(ほしの ようへい)
フリーライター。1976年生まれ、東京都出身。早稻田大学商学部卒業。著書に『芸能人はなぜ干されるのか?』(鹿砦社)、編著に『実録!株式市場のカラクリ』(イースト・プレス)などがある。

星野陽平の《脱法芸能》
石川さゆり──ホリプロ独立後の孤立無援を救った演歌の力
中森明菜──聖子と明暗分けた80年代歌姫の独立悲話(後編)
中森明菜──聖子と明暗分けた80年代歌姫の独立悲話(前編)
松田聖子──音事協が業界ぐるみで流布させた「性悪女」説
《書評》『ジャニーズ50年史』──帝国の光と影の巨大さを描き切った圧巻の書

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2015年日本の現実──日本に戦争がやってくる

1月7日発売の『紙の爆弾』で詳しく紹介されるが、本山美彦京都大学名誉教授に「アベノミクス」を中心にお話を伺った。大学で長く教壇に立った方には独特な語り口がある。とりわけ自由な学風の大学で文科系の学生を育ててこられた先生方には共通する「語り口の優雅さ」を感じる。本山先生も語り口はそのように穏やかではあったけれども、語られた内容は極めてショッキングな内容だった。私のような知識の浅い者にもわかり易くなおかつ「許しがたい」、「憤慨ものだ」、「金につられる経済学者が多すぎる」と熱く語っていただいた。是非『紙の爆弾』2月号を拝読されたい。

◆どうして原発が爆発しても日本はまだ原発を続けるのか?

本山先生をはじめ、この2年ほどその世界で最先端の方々のお話を伺う中で、共通していることがある。外国の方々は「どうして原発が爆発しても日本はまだ原発を続けるのか。そしてどうしてアメリカの尻馬にのって戦争をしたがるのか」と異口同音に仰る。日本の方々は「もうすぐ『憲法改正』となるだろう。そして遠くない将来、日本は戦争に巻き込まれるだろう」と暗い顔でつぶやいていた。

“Twitter”というSNSがある。私は当初よりその語感が気持ち悪かった。なぜに「つぶや」かなければならないのか。だれに「つぶやき」を聞いてほしいというのか。140字余りでまとまった考えなど述べられるはずはないではないかと訝っていた。「つぶやく」とは大声で主張をすることではない。だから”Twitter”の機能を日本語で正確に訳せば「つぶやく」は不適当だ。

◆米国の戦争に巻き込まれる日本

話がそれたが、「戦争に巻きこまれるだろう」と語っていただいた方々はいずれも65歳以上の方々で、大声を張り上げたり、「俺の言うことを聞け!」という姿勢の方は一人もいなかった。むしろ残念至極、己の恥でも語るように苦渋の表情で私に目を合わせず語られる方が多かった。

「何を大げさな」と訝る方々も少なくなかろうが、私も「戦争」は遠くないと思う。

だから、順番が逆のようではあるが遠くない将来、戦争に巻き込まれる若い世代に、あらかじめお詫びしておこうと思う。

「本当に申し分けない。私たちの世代の怠慢のために、君たちに迷惑をかけてしまった。許してくれなどと言うつもりはない」

こんなしみったれた話、20年前には多くの人が、確定しない「未来の可能性」としてのみ語っていた。残念ながら今日、それを語るのは各学問分野の良心的最先頭に立つ方々であり、情報に敏感な市民たちだ。皆さん「戦争が来るぞ!」と大声で語るわけではない。それこそ、こんな話などしたくはなかったとつぶやくように。

断言する。戦争がやってくる。

正確に言えばもう戦争は始まっている。ウジウジ細かい議論を避けるなら、自衛隊をイラク派兵した時から(戦死した自衛官は出なかったけれども、帰国後自殺した自衛官の数は相当数に上るという)戦争への参加は明確に始まっている。21世紀、日本の戦争、始まってもすぐに日本国土が爆撃を受けたり、原爆が落とされたりという姿では進まないだろう。たぶん自衛隊が日本から距離のある地域(中東やアフリカ)に派兵され、そこで戦死者が出ることから国民総動員が完成されるだろう。

イラク派兵時に日本の自衛隊を守るオランダ軍に攻撃があった際は「駆けつけ警備という形で戦闘を行いたかった」と自衛隊の隊長であった髭を生やした現自民党国会議員は堂々と述べていたではないか。イラクに自衛隊を派兵した政府の狙いは「駆けつけ」ではなく「巻き込まれ」によって「戦死者」の実績を作りたかったのではないか。そしてその戦死者を靖国神社に祀りたかったのだ。

◆日本は米国の戦争に一度も反対をしたことはない

カンボジアにPKOを派遣して以来、自衛隊は気が付けば地球の裏まで毎年出かけていっている。軍事行動をするのではない(できない)のだから民生部門の支援(道路建設やインフラ整備)が主たる任務だ。ならば軍隊まがいの自衛隊ではなく民間企業に委託してODAとして行えばいいものを、政府は一貫して自衛隊、海外派兵にこだわってきた。そして「集団的自衛権」である。

「集団的自衛権」は日本が攻撃されなくても、「アメリカが戦争をすればついていかなければならない軍事同盟」と理解すればよい。政府はあれこれ事例を挙げて「この条件が満たされた時だけ」とか「ますます平和になる」など赤ん坊でも呆れるような嘘を平気でつきまくっているが、要はそういうことである。アメリカ合州国という国は建国以来200回以上にわたる海外派兵を行い、(9・11を除き)一度も本土が戦場になったことのない国だ。また、戦争を反省(ブッシュがイラク戦争における「大量破壊兵器はなかったので攻撃は間違っていた」)まがいのことをしたことはあっても、金輪際謝罪や補償をしたことのない国である。その国の戦争(外国攻撃)に日本は一度も反対をしたことはない。

◆WWⅡ時に匹敵する総量の爆弾を小国アフガニスタンに投下する米国

アメリカは毎年のように戦争をする。戦争と呼ぶのが相応しいかどうか微妙だが、現在もシリアに爆撃を行っている。常にイスラム革命後のイランを睨み、フセインを傭兵として育成したけども言うことを聞かなくなったので、殺してしまった。今でもイランを睨み、パレスチナを潰そうとしている。

アフガニスタンの政府の国家予算は年間205億円だ。1ドル110円で換算すると2兆2550万円。日本の国家予算の約50分の1。そんな国に第二次世界大戦中に投じた爆弾の総量に近い爆弾を投下して「戦争に勝った!」と喜んでいるのがアメリカ合州国である。最近はあまり見かけなくなったが、街で言いがかりをつけてくる「ゴロツキ」のような振る舞いををして戦争を行うのが彼の国だ。

繰り返すが、不可逆的に日本は必ず戦争に巻きこまれる。お子さんが、お孫さんが、お知り合いが心配な方は対策を準備したほうがいい。

とても残念ではあるが私たちの生きている2015年とはそういう時代だのだ。そう、つい最近日本を襲った台風並みの寒波のように。

▼田所敏夫(たどころ としお)
兵庫県生まれ、会社員、大学職員を経て現在は著述業。大手メディアの追求しないテーマを追い、アジアをはじめとする国際問題、教育問題などに関心を持つ

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国松警察庁長官狙撃事件発生20年、今年こそ「真犯人」の悲願は叶うか

新年を迎えると、誰もが心を新たに今年の目標や誓いを立てる。志望校への合格、就活の成功、結婚、妊娠、商売繁盛、禁煙、ダイエット……。定める目標、誓いは人それぞれだろうが、おそらくは人生で残された時間が短いという意識が強い人ほど、定めた目標や誓いを実現したい思いは強いのではないだろうか。

事件現場の国松長官が住んでいたマンション。長官は出勤のために出てきたところを狙撃された。

そんな話を持ち出したのは、ある高齢の男性受刑者の悲願が今年こそ叶って欲しいと他人事ながら思っているためだ。中村泰(ひろし)という。現在84歳。あの歴史的未解決事件、国松孝次警察庁長官狙撃事件の「真犯人」とめされる男である。

1995年3月、地下鉄サリン事件の10日後に発生したこの事件では、捜査を主導した警視庁の公安部がオウム真理教の犯行を執拗に疑い続けた一方で、刑事部は中村を本命視していたと伝えられている。中村は別件の現金輸送車襲撃事件の容疑で身柄拘束中、国松長官狙撃事件の犯行を詳細に自白。さらに獄中にいながらマスコミの取材を受け入れ、自分が国松長官を撃った真犯人だと認めたに等しい証言を重ねていた。だが結局、警視庁は中村の逮捕に踏み切らず、2010年3月に時効が成立した。

筆者は一昨年の秋頃、岐阜刑務所で無期懲役刑に服している中村に取材を申し込み、手紙のやりとりをさせてもらうようになった。この間、中村の証言に基づいて関係現場の状況も検証し、やはり中村は国松長官を狙撃した真犯人なのだろうという思いを強めている。

◆医療施設で闘病中

中村によると、国松長官の狙撃を企てたきっかけは、地下鉄サリン事件発生後、オウム真理教の捜査に及び腰だった警察に業を煮やしたことだった。オウム信者の犯行を装って警察組織のトップを狙撃すれば、警察はオウム制圧に動くと考えたという。中村は元々武力革命を志向する人物で、実際に長年そういう活動もしていた。

ただ、国松長官を狙撃後、警察が自分の予想以上に奮起してオウムを制圧したのをうけ、中村は身を挺して実行し、大成功した作戦が人知れず消えていくのを残念に思う気持ちになったという。それが、犯行を告白するに至った理由なのだそうだ。

そんな中村の悲願とは、言うまでもなく自分のことを国松長官狙撃事件の犯人だと世間に広く知らしめることだ。そのために中村はマスコミとの接触を続けた。昨年8月、取材協力したテレビ朝日の「世紀の瞬間&日本の未解決事件スペシャル」という特番で真犯人同然の扱いを受けた際にはとても嬉しそうだった。だが、実を言うと、現在は心配な状況にある。中村は病に冒され、移送された医療施設で闘病中なのである。

その連絡は昨年12月中旬、代理人の弁護士を通じてもたらされたのだが、中村は闘病中であることと共に「このような事情で取り込み中ですので、年賀のご挨拶は失礼いたします」ということまで律儀にことづけてくれた。事件は3月30日で発生20年を迎えるが、中村がそんな人間味のある人物だからこそ、筆者は願わずにいられないのだ。中村が命あるうちに少しでも多くの人に国松長官を撃った「真犯人」だと認知されて欲しい、と。

▼片岡健(かたおか けん)1971年、広島市生まれ。早稲田大学商学部卒業後、フリーのライターに。新旧様々な事件の知られざる事実や冤罪、捜査機関の不正を独自取材で発掘している。広島市在住。

下関女児殺害事件──最高裁が懲役30年の「冤罪判決」疑惑

いつも何度でも福島を想う

 

《大学異論24》日本テレビが喧伝する「箱根駅伝」の不平等

箱根駅伝は正月恒例のイベントとして、日本テレビ系列が全国に放送する。関東地方の読売新聞勧誘業者は、12月に契約を結ぶ新規購読者にかなり高価と思われる「箱根駅伝」の文字が大きくプリントされたウィンドブレーカーがプレゼントされる。読売新聞では戦況予想や選手のプロフェールが連日誌面を埋める。

だが、「箱根駅伝」は関東大学の間でだけ競われる「地方大会」だ。あたかも日本で一番駅伝の強い大学を決める競技会のように放送され、見る側もその気になっているかもしれないが、あんなものがあるがために大学陸上部の勢力図が歪められてしまっているのだ。

高校時代に優れた成績を残した選手には、関東の大学からの勧誘が相次ぐ。「練習環境がいい」、「全国から強豪が集まる」そしてきめのセリフが「箱根を走れるよ」だ。

でも大学のリクルート(高校生募集)担当者は1年の半分以上を東海より西の地域で過ごすことになる。陸上競技に興味をお持ちの方であればご存知だろうが、高校の長距離、特に駅伝は近年圧倒的に西日本が強い。特に関西や中国、九州から地力のある選手が例年出ている。今年の全国高校駅伝の優勝は広島の世羅高校だった。

だから、箱根駅伝で各大学から出場している選手の出身校を見ると圧倒的に東海より西の選手が多い。開催地である東京や神奈川出身の選手など数えるほどしかいない。走り始める前の選手たちの間では関西弁が飛び交ていることだろう。

もう何十年もテレビで放送され、あたかも実力日本一を決める大会のように、読売新聞、日本テレビをはじめとするメディアが大きく扱うから、それが悪影響を及ぼし、実力のある選手が東京一極集中という現象が定着してしまった。これは大変不公平な現象である。

全国の大学に出場資格があり(勿論地区大会を勝ち残った上でだが)公平に日本中の大学の実力が競われるのは「全日本大学駅伝大会」だ。選手層が厚い関東勢が近年は必ず優勝するし、上位を占める。それでもこちらは日本中どの大学にでも予選会への出場資格があるという点で、公平な大会といえる。逆に箱根駅伝は関東圏の大学にしか予選会への出場資格がない。

何のことはない。関東周辺の「地方大会」を大騒ぎしているだけのことだ。

その証拠に、こういったスポンサーや大会運営会社の意向がまだあまり及ばない、大学女子駅伝では全く異なった勢力図が展開されている。女子駅伝は高校レベルでは男子ほど「東西格差」が定着していないものの、やはり「西高東低」の傾向は同じだ。そして大学レベルではその勢力図がそのまま反映されている。つまり東海以西、西日本の大学に強豪が多いのだ。

女子駅伝は歴史が浅いこともあり「箱根駅伝」に相当するような特定スポンサーが我儘を通す土壌はない。これは幸いなことだろう。

更に箱根駅伝にケチをつければ、この大会ではあまたの「ヒーロー」が生まれたが、その選手が後に大成したためしがない。近いところでは4年連続往路の山登りで驚異的な走りを見せ、新記録をたたき出し続けた東洋大学の柏原竜二選手が有名だが、彼は普通のトラックやマラソンを走らせても凡庸な記録しか出せない。古いところでは瀬古利彦も箱根を走った。瀬古は最長区間である「4区」を毎年快走したけれども、彼の活躍は箱根駅伝以上に「福岡国際マラソン」で学生として優勝を果たしたことから始まっていたのだ。

このように正月のおとそ気分に付け込んで、読売が仕掛ける悪辣なバイアスがかかった大会が恒例となっている。走る選手に罪はないが、箱根駅伝は、正月早々毎年歪な日本の一面を象徴している。

▼田所敏夫(たどころ としお)
兵庫県生まれ、会社員、大学職員を経て現在は著述業。大手メディアの追求しないテーマを追い、アジアをはじめとする国際問題、教育問題などに関心を持つ

◎病院経営の闇──検査や注射の回数が多い開業医は「やぶ医者」と疑え!
◎速報!『革命バカ一代』塩見孝也氏が清瀬市議選に出馬へ!
◎「守る」ことの限界──「守る」から「獲得する」への転換を!
◎秘密保護法施行日の抗議活動を自粛した金沢弁護士会にその真相を聞いてみた
◎自民党の報道弾圧は10日施行の秘密保護法を後ろ盾にした恫喝の始まり

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宮沢賢治の宇宙観と透明感と共に──災禍少なく爽やかな1年でありますように

日付が一つ進んだからといって、自然界に何ら変化があるわけではない。我々が今日世界の支配的時間軸として使っているのはグレゴリオ暦こと「太陽暦」である。他にも「太陰暦」や「ヒジュラ暦」など世界にはいくつもの時間の物差しがある。「暦」によって祝賀の日も当然異なる。

まあ、そういった面倒くさい話は抜きにしよう。昔ほどではないにしろ、日本にとって「お正月」は現在でもやはり一年を通して特別に違いない。

喪中の方々を除いては、とにかく「おめでとうございます」だ。今日に限っては「口うるさい」私も邪魔くさいことは言わない。

新年あけましておめでとうございます!!

さて、お正月である。柄にもなく読者の皆さんに私からのささやかなプレゼントをお届けしたい。といっても人からの借り物だけど・・・。

生徒諸君

諸君はこの颯爽たる
諸君の未来圏から吹いて来る
透明な清潔な風を感じないのか
それは一つの送られた光線であり
決せられた南の風である

諸君はこの時代に強ひられ率ゐられて
奴隷のやうに忍従することを欲するか
今日の歴史や地史の資料からのみ論ずるならば
われらの祖先乃至はわれらに至るまで
すべての信仰や特性は
ただ誤解から生じたとさへ見え
しかも科学はいまだに暗く
われらに自殺と自棄のみをしか保証せぬ

むしろ諸君よ
更にあらたな正しい時代をつくれ

諸君よ
紺いろの地平線が膨らみ高まるときに
諸君はその中に没することを欲するか
じつに諸君は此の地平線に於ける
あらゆる形の山嶽でなければならぬ
宙宇は絶えずわれらによって変化する

誰が誰よりどうだとか
誰の仕事がどうしたとか
そんなことを言ってゐるひまがあるか

新たな詩人よ
雲から光から嵐から
透明なエネルギーを得て
人と地球によるべき形を暗示せよ

新しい時代のコペルニクスよ
余りに重苦しい重力の法則から
この銀河系を解き放て
衝動のやうにさへ行はれる
すべての農業労働を
冷く透明な解析によって
その藍いろの影といっしょに
舞踏の範囲にまで高めよ

新たな時代のマルクスよ
これらの盲目な衝動から動く世界を
素晴らしく美しい構成に変へよ
新しい時代のダーヴヰンよ
更に東洋風静観のキャレンヂャーに載って
銀河系空間の外にも至り
透明に深く正しい地史 と
増訂された生物学をわれらに示せ

おほよそ統計に従はば
諸君のなかには少くとも千人の天才がなければならぬ
素質ある諸君はただにこれらを刻み出すべきである

潮や風……
あらゆる自然の力を用ひ尽くして
諸君は新たな自然を形成するのに努めねばならぬ

ああ諸君はいま
この颯爽たる諸君の未来圏から吹いて来る
透明な風を感じないのか

宮沢賢治

私は宮沢賢治の宇宙観と透明感が好きだ。押しつけがましかったらご容赦頂きたい。

たぶんかなわないだろうけども、読者諸氏に災禍少なく爽やかな1年でありますように。

▼田所敏夫(たどころ としお)
兵庫県生まれ、会社員、大学職員を経て現在は著述業。大手メディアの追求しないテーマを追い、アジアをはじめとする国際問題、教育問題などに関心を持つ

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新年のご挨拶

昨年は「デジタル鹿砦社通信」のご拝読、ありがとうございました。

本年も、皆様方のご期待に応え、もっと激しく展開したいと思っております。
既存のメディアが権力のポチ化し劣化していく中で、私たちは独立独歩、
タブーなき言論を堅持する決意を更に固めています。

旧年に倍するご支援のほど、よろしくお願い申し上げます。

2015年1月1日

「デジタル鹿砦社通信」編集部/執筆者一同

読者の皆様、本年は大変お世話になりました。幸多き2015年を!

ほとんど想像するのが不可能である人々の群れがある。その方々はたぶん、世間で言われる「普通」より敏感な感性の持ち主で、個性が強い人達だろう、というくらいは見立てがつく。しかし、正直なところその方々の真の「属性」のようなものが掴めない。

私がその姿をあれこれ思い浮かべているのは、ほかでもない「デジタル鹿砦社通信」の読者、つまり「あなた」のことだ。勘違いしないでほしいが私はあなたの年齢や思想傾向、性別などを個人的な趣味で知りたがっているわけではない。

本コラムを読むにあたって、鹿砦社トップページをまず開くと、「デジタル鹿砦社通信」と並んでいるのがいかにも似つかわしくない「ジャニーズ研究会」の見出しが目に入る。どうにも奇異なこの組み合わせだが「ジャニーズ研究会」の読者数はここだけの話、腰を抜かしそうな数にのぼるそうだ。そしてその読者像はだいたい見当がつく。

他方、毎日(毎日ではなく、「時々」であっても)本コラムを読んでくださっている「あなた」の姿は、こちら側からは想像するのがひどく難しいのだ。

毎日更新ながら一貫した主張があるわけでもなく、極めて深刻な冤罪事件から、週刊誌では読めない芸能ネタ、またパロディーや、アジビラかと見まがう内容までを拝読いただいている「あなた」。「あなた」はいったい、どんな方々なのだろうか。

こんな疑問が湧いたのにはそれなりの理由がある。本コラムは2011年に開始され、幾度か執筆陣の入れ替えなどを経て、本年8月から現体制で再スタートしている。現体制での発足後半年にも満たないわけだが、無事年を越せることについて、「あなた」をはじめとする関係各位に年末のご挨拶を申し上げたいのだ。

不肖私ごときが他の執筆者の方々になり替わわるのははなはだ僭越と分かりつつも、本年このコラムをご拝読頂いたことに対して御礼を申し上げたい。

「鹿砦社」というアナーキーな出版社が許容してくれているから本コラムは成立しているが、それにもまして拝読頂ける「あなた」があってのことである。

だから、私は「あなた」のことに興味がある。「あなた」がわかれば、来年はもう少し「あなた」に興味を持っていただけるように、「あなた」に知って頂けるように、「あなた」に怒ってもらえるように、そして「あなた」に笑っていただけるように工夫が出来るのではないかと。

でも、誤解なきようお断りしておかなければならない。仮に「あなた」が分かっても、私は(きっと他の執筆陣も)工夫することはあれ、主張を変えることはないだろう。

自由な言論の領域がみるみる狭まる時代の中で、何のタブーもなく、方針もない本コラムは世間から「尊敬」される存在でありたいなどという勘違いは端から微塵も持ち合わせていない。むしろ権力者や大きなツラをした連中から「鬱陶し」がられ「顰蹙を買う」存在を貫徹したい。

本年は大変お世話になりました。皆様にとりまして幸多き2015年となりますよう祈念いたします。来年も「デジタル鹿砦社通信」をより一層よろしくお願いいたします!

▼田所敏夫(たどころ としお)
兵庫県生まれ、会社員、大学職員を経て現在は著述業。大手メディアの追求しないテーマを追い、アジアをはじめとする国際問題、教育問題などに関心を持つ

いつも何度でも福島を想う

 

田所敏夫の《大学異論》──もうひとつの大学を求めて
○140819《01》「度を越した」改革で立命館が一線を越える日(前編)
○140820《02》「度を越した」改革で立命館が一線を越える日(後編)
○140821《03》職員の7割が「非正規」派遣・契約のブラック大学
○140822《04》志ある「非正規」は去り、無責任な正職員ばかりが居坐る
○140823《05》私が大学職員だった頃の学生救済策
○140824《06》「立て看板」のない大学なんて!
○140826《07》代ゼミと河合塾──予備校受難時代に何が明暗を分けたのか?
○140904《08》5年も経てば激変する大学の内実
○140922《09》刑事ドラマより面白い「大学職員」という仕事
○140929《10》公安警察と密着する不埒な大学職員だった私
○141007《11》「草の根ファシズム」の脅迫に抗した北星学園大学にエールを!
○141016《12》大学ゴロ──学生確保の裏で跋扈する悪徳業者たち
○141025《13》学園祭で「SMショー」は芸術か?ワイセツか?
○141030《14》学園祭のトラブルは大学職員が身体を張って収束させる
○141104《15》北星学園大学を追い詰めた「閾下のファシズム」
○141106《16》京都大学が公安警察の構内潜入を拒否するのは100%当たり前!
○141112《17》学園祭の「ミスコン」から芸能界へ、という人生
○141114《18》「過激派」は学生でなく今の日本・安倍政権!──京大集会見聞記
○141115《19》警察が京大に160倍返しの異常報復!リーク喜ぶ翼賛日テレ!
○141119《20》過去を披歴しない「闘士」矢谷暢一郎──同志社の良心を継ぐ
○141210《21》本気で学ぶ大学の選び方─「グローバル」より「リベラルアーツ」
○141220《22》真っ当に誠実さを貫く北星学園大学の勇断に賛辞と支援を!
○141226《23》青山学院大学──経営者自らがぶち壊す「青学ブランド」

《脱法芸能34》石川さゆり──ホリプロ独立後の孤立無援を救った演歌の力

長年、所属していたホリプロから独立した石川さゆりも、干されたタレントのひとりである。

石川さゆりは、小学生の時に観た島倉千代子の歌謡ショーに感動し、歌手を志した。中学生になると、牛乳配達のアルバイトをして貯金を貯め、歌謡教室に通った。14歳の時にフジテレビの『ちびっこ歌謡大会』で優勝し、それがきっかけとなって、1973年、『かくれんぼ』でアイドル歌手としてデビューを果たした。所属事務所は、ホリプロだった。

そして、77年に『津軽海峡・冬景色』が大ヒットとし、レコード大賞歌唱賞を始め、歌謡賞を総ナメした。演歌歌手として一気にスターとなった石川は、その後も『波止場しぐれ』『天城越え』など、ヒット曲をコンスタントに出し、『紅白歌合戦』でもトリを務めるほどの実力派に成長した。

◆96年独立後の試練──民放各社が「さゆりはずし」の包囲網

明日大晦日の「紅白歌合戦」に出る女性歌手の中で石川は和田アキコ(38回)に次いで出場回数が多い37回目。紅白曲は『天城越え』(1986年7月日本コロムビア)

石川は96年いっぱいで、24年所属していたホリプロから退社し、個人事務所、ビッグワンコーポレーションを設立した。独立の構想は長年温めていたもので、満を持しての再出発となるはずだった。だが、大手事務所から独立した他のタレントと同様、石川にも大きな試練が待ち受けていた。

97年1月23日、石川は事務所開きのささやかなパーティーを開いたが、案内状に名前があった統括プロデューサーが欠席した。そのプロデューサーは、前日に「一緒にはやっていけない」と、突然、通告してきたのだという。数日前まで新しい仕事の打ち合わせで燃えていたプロデューサーの脱落により、パーティーはまるでお通夜のように静まりかえってしまった。

さらには、NHK以外の、決まっていたテレビの仕事も相次いでキャンセルとなった。「構成上の理由」とのことだったが、何者かが糸を引いているのは明白だった。

『女性セブン』(97年4月17日号)に「あるテレビプロデューサー」の談話として次のようなコメントが紹介されている。

「10日ほど前のことなんですが、社の上層部の方から、“石川さゆりを使わないように”という話が降りてきたんです。それも歌番組だけじゃなく、バラエティーやワイドショーに至るまで同じことが伝えられたんです。驚きましたね、あまりの徹底ぶりに。

知り合いの他局のプロデューサーなんかも同じ事をいわれたみたいで、どうもNHKを除く全民放で、“さゆりはずし”が進行しているんですよ」

それと同時に、「石川は自己主張が激しく、スタッフ泣かせで有名だった」という報道が増えていった。ホリプロとの確執の発端は、81年に石川がホリプロの社員と結婚したことだったという。芸能界には「社員は“商品”に手を出してはいけない」という掟がある。ホリプロは石川に思いとどまるよう説得したが、石川は「結婚させないなら事務所を辞める」と主張し、結婚を強行した。

石川にとって苦しい芸能活動が続いた。テレビに出られなくなったため、「演歌の女王」としてのプライドを捨て、ミニコミ誌の表紙モデルや地方でのサイン会など、どんな小さな仕事でもやった。

97年の秋には、石川の窮状を見かねた民放キー局のプロデューサーが芸能界との手打ちの席を設けようとしたが、石川は「こちらは円満退社しているのに、どうして頭を下げなくてはいけないの?」と言って拒んだ。

◆99年の紅白出場危機──国民銀行のカミパレス不正融資事件への関与で揺れる

芸能界では孤立無援の状態が続いたが、カラオケでは石川の人気は根強く、97年末には『紅白』に20回目の出場を果たした。これに芸能界は、いらだちを強めていった。

だが、99年には、その『紅白』への出場に黄色信号が点った。その年の『紅白』は50回目という記念すべきものであり、NHKとしても人気のある石川を出したいと願っていたが、土壇場で起用を決めかねていた。

というのも、その年の4月に経営破綻した国民銀行のカラオケ会社への乱脈融資疑惑に石川の名が出ていたからだった。

国民銀行は、経営難に陥っていたカミパレスというカラオケボックスチェーンの倒産を回避するため、迂回融資や飛ばしなどの手段を使い、270億円もの不正融資を行っていたが、このうち120億円が焦げ付いていた。カミパレスは、80年代に石川の個人事務所が立ち上げた事業で、後に石川のスポンサーだと言われていた、実業家の種子田益夫が関与した。また、迂回融資に使われた7社の中にも、石川が社長を務める個人事務所の名前が出ていた。カミパレスは99年10月20日に破産宣告を受け、石川も迂回融資に協力していたのではないかと目され、警察から事情聴取を受ける可能性があった。

石川を起用して後で問題が発覚すれば、『紅白』の権威に傷が付くことになる。NHKは社会部を動員して、石川が事件に関与しているかどうか取材したという。『紅白』の出場歌手発表は、遅れに遅れた。当初は、11月11日に発表される予定だったが、3週間も遅れた。

ワイドショーも週刊誌もこぞってこの問題を報じたが、芸能界では「事務所を独立した石川を快く思っていない勢力が情報をリークしたのではないか」という説まで流れた。

結局、石川は出場を決めたが、当初は大トリの有力候補だったが、スキャンダルの影響もあり、最後から3番手となった。大トリに起用されたのは、ホリプロ所属の和田アキ子だった。

99年は、石川にとって受難の年で、『紅白』出場だけでなく、レコード会社移籍問題も騒がれた。石川が所属していたポニーキャニオンが売上の低迷する演歌部門から撤退を表明し、石川もリストラされることになったのだ。本来ならば、石川ほどの実力があれば、どこでも引く手あまたのはずだが、独立問題はまだくすぶっていた。各レコード会社は、ホリプロの機嫌を損ねることを恐れ、石川獲得になかなか名乗りを上げられなかったという。

多数のヒット曲を持ち、長年、『紅白』に出場する実力派の石川ですら、所属事務所から独立した途端に、このような辛酸をなめるのである。

アイドルの独立問題に関する報道で必ずといっていいほど「芸能プロダクションはタレントに投資をしていて、それを回収しなければならないのだから、勝手な独立や移籍は許されない」という芸能評論家のコメントが出てくるが、これはまったくの嘘である。

そもそも「投資」というものが何なのかが不明だし、アイドルだけでなく、投資の回収が終わったはずのベテランでも、大手事務所を敵に回して独立すれば一律に干されるのだ。

石川さゆりオフィシャルウェブサイト

▼星野陽平(ほしの ようへい)

フリーライター。1976年生まれ、東京都出身。早稻田大学商学部卒業。著書に『芸能人はなぜ干されるのか?』(鹿砦社)、編著に『実録!株式市場のカラクリ』(イースト・プレス)などがある。

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